満州事変とマスメディア

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Ⅲ、満州事変とマスメディア

(1)朝日新聞の1920年代

リベラルな報道をまもる?

白虹事件によって屈服を迫られた朝日新聞のその後を見ていきます。朝日新聞は、大正デモクラシーの潮流に支えられ、普通選挙法や「政党政治」実現、軍縮の推進といったリベラルな報道をつづけます。『朝日新聞社史(大正・昭和前期編)(以下『社史』)は、とくに普通選挙実施と軍縮については説を曲げずに主張し続けたと胸を張ります。
たしかに普通選挙権獲得運動で朝日新聞は新聞界のリーダーとして共同声明をだすなどの活発な動きを見せます。しかし、それも新聞各社で共同歩調をとるとの安心感から邁進できたという面がありました。他方、普通選挙法と抱き合わせになった治安維持法についての社説は「型通りの反対」と評価されます。(鈴木健二『戦争と新聞』)
軍縮問題でも朝日新聞は軍縮促進の立場に立ちます。とくに1930年のロンドン軍縮会議では統帥権干犯を主張する軍部や政友会を厳しく批判し、テロにも反対、「反軍」との批判や「不買運動」にも敢然と対抗しました。それもときの政府が軍縮促進の姿勢をとっており、軍部のなかにも軍縮促進の勢力がいたことも大きかったといえます。とくに浜口内閣の断固たる姿勢に支えられていました。
「不党不偏」の枠組みは、つねに中立を装う必要があり、政治情勢や他社の動向などを注視しながらの報道となります。朝日新聞は、その枠組みの中でリベラル派の位置をとっていたといえるでしょう。

第二の白虹事件~吉野作造の退社

このことは、政府が反動の方向に振れたり、軍が強硬姿勢をみせたとたんに一気に弱さを暴露します。

吉野作造(1873~1933)Wikipedia「吉野作造」

1924年、貴族院や官僚勢力に基盤をおく清浦内閣の下で第二の「白虹事件」ともいうべき事件が発生しました。朝日新聞はあっさりとこれに屈しました。1924年の吉野作造退社事件です。
吉野は、数年来の朝日新聞からの熱心な勧誘に応え、ついに東京帝国大学を退職して朝日新聞に入社しました。この年の2月のことです。
多くの「敵」をもつ吉野です。入社記念講演会ではやくも事件が発生します。神戸の会で吉野が「五箇条の誓文」について触れた部分に対し、右翼が「不敬である」として攻撃を始めたのです。さらに枢密院改革をもとめた記事が問題になります。この記事に対し検察当局が「不敬」であるとして起訴の動きを見せたのです。「不敬」罪が適用されれば朝日新聞自体が発行できなくなる可能性もでます。朝日新聞の経営陣は屈服、吉野に退職をせまりました。実質的な在職期間は三ヶ月でした。
『社史』は、「吉野は『朝日に迷惑がかかるから』として、幹部の慰留にもかかわらず、わずか五ヶ月あまりで退社した」と記しますが、吉野の「日記」での記載とは隔たりがあります。(この件については別稿、吉野作造の朝日新聞退社~第二の「白虹事件」」をご覧ください)

「満州某重大事件」のままでよかったのか?

1928年中国東北部(「満洲」)で発生した張作霖爆殺事件でも新聞各社は問題ある対応をしました。

張作霖爆殺事件_東京朝日新聞

この事件の犯行の中心が関東軍の河本大佐であることは明らかでした。中国側や外国紙もそのように報じ、田中義一首相などを通して天皇にもある程度の経緯をつかんでいました。
ところがこれを追求する新聞はなく「満洲某重大事件」というあいまい叙述に終始しました。
 その点では、不十分な追求で終わらせた野党・立憲民政党も責任があるのはいうまでもありません。
朝日新聞も同様の対応をしました。
『社史』は「日本国内では、爆破事件の犯人が関東軍であると報じることは禁圧され」と記します。
しかし、こうした新聞側の姿勢に対し、鈴木は「記事差し止めの禁令は関東州に於いてのみ発令され、内地に於いては何等掣肘を受けていなかったから、全貌を承知しながら読者を、国民を聾ママ桟敷に置いた新聞の態度は不可思議と云う他はない」という『田中義一伝記』の一文を引用し、新聞各社の姿勢に疑問を呈します。
新聞は自社の経営の安泰を優先することでジャーナリズムの矜恃を失いつつありました。
この事件については、天皇自身が当時の陸軍の態度に不信の目をむけ解明をのぞんでいたこともあり疑惑を解明しようという新聞があれば日本の歴史は大きく変わっていた可能性もありました。こうした追求がまだ可能な時代でした。にもかかわらず新聞各紙は報道を自粛・自己規制の態度しました。
こうした態度は「軍部を増長させ」(鈴木)、自分たちが勝手な行動をしても許されるという「お墨付き」を与えることにつながりました

(2)「朝日新聞」の「変質」

柳条湖事件の発生

1931年の満州事変の発生は、新聞各紙の「不党不偏」の建前すら投げ捨てさせました。
9月18日の柳条湖事件の第一報を報じたのはラジオでした。
その日のNHKラジオは、ラジオ体操の放送を突如中断、臨時ニュースでこの事件を放送します。

柳条湖事件_東京朝日新聞1931年9月19日付

次に報じたのが新聞です。「中国側が線路を爆破し、関東軍が自衛権を行使して応戦した」という関東軍の主張をそのままに。当時の幣原外相は、配達された朝刊ではじめて事件を知ったといわれます。
この段階では、民政党内閣はもとより、陸軍中央も、東軍の犯行と疑っていました。もちろん新聞各紙もです。東京朝日新聞の主筆・緒方竹虎は部下に事件を大きく扱わないように命じました。しかし東京朝日は事件を大きく報道します。
多くの記事は「事件は中国側の仕業」という関東軍の主張にそって報道され、その行動をが正しいという印象を強めました。
新聞各社も関東軍の軍事行動を支持、「満蒙は日本の生命線」といったセンセーショナルな報道が始めます。海外の報道機関が「関東軍犯人説」を報じているのも知っていたにもかかわらず。
こうした中で「出先き軍部に対して必要以上の自由行動をせざるよう厳戒すべき」と冷静な行動を呼びかけた大阪朝日新聞の社説は、取り消しを余儀なくされます。そして「国家重大事に処し日本国民として…軍部及軍事行動に対しては絶対批難を下さす極力之を支持すへきことを決定」しました。(憲兵司令官が参謀次長に宛ての報告)

『社論』の変更

いったい何があったのでしょうか。

緒方竹虎(1888~1956 東京朝日新聞主筆)戦後には政治に転身する

この間、内田良平や笹川良一ら右翼が次々と本社を来訪しています。東京朝日新聞の主筆の緒方竹虎は陸軍省を訪問、軍部の考えを確かめています。帰途、緒方は失望の色を隠せなかったといいます。陸軍省が関東軍の行動を追認したことに衝撃をうけたのでしょう。
陸軍省調査班も来訪しました。在郷軍人会などによる不買運動も始まります。ライバル紙毎日新聞は「朝日新聞は『反軍』である」とのキャンペーンをおこないます。

こうした力に朝日新聞は屈しました。経営陣と編集部首脳からなる最高意志決定会議は軍の行動を支持すると社論を定めたのです。さきの報告はこの決定を受けたものと思われます。
こうした社論の変更、侵略行為の肯定にたいし、社内では整理部を中心に異論が相次ぎました。ジャーナリズムの良心の存在をうかがわせる出来事です。しかし会社側は人事異動でこうした動きを抑え込みました。

『社史』の自己弁護

朝日新聞社史

この決定についての『社史』の言い分を聞きましょう。
「憲兵、警察、右翼陣営が一体となり、在郷軍人会をも動員して社屋攻撃を企てる場合、朝日新聞幹部には、対抗しうる自信はなかった」
「朝日は『報道第一主義』をとる近代的新聞で、社説とニュースとが密着していることに特色があった。紙面で伝達されるニュースと離れて、ひたすらに理想を追求するような言論は、すでに説得力を失う時代となっていたのである」
これが1991年時点での朝日新聞の見解です。

佐々木隆はこの間の新聞各紙の対応について、「国民の関心の集まる事変・戦争の報道戦に乗り遅れるわけにはいかず、戦時報道には軍部の協力が不可欠なので反軍路線はとれないということあろう。」と述べています。
佐々木はこれにつづけて
いい換えれば、新聞の反軍・平和路線なるものは国際協調システムが機能しているときだけのもので、その糖衣がひとたび剥がれれば(つまり国家的利害がむき出しの形で目の前に現れれば)、伏流していたナショナリズムが露頭をあらわすと見ることができる。新聞も商品なので売らねば企業体としてもたないという経営上の論理と非常事態に噴流する民族的・国家主義的情動が相乗したものが転換の機動力であろう。(『メディアと権力』P330)
と論じます。朝日新聞をはじめ、この時期の新聞の「転換」の意味をよくとらえた指摘と思われます。

侵略戦争の尖兵に

朝日新聞は姿勢を一変しました。

これ以後、朝日新聞は、他紙と同様、競い合うように扇情的な見出し、「残虐な支那兵」「勇敢な皇軍」といった記事で紙面を埋めはじめます。
これ以後、読者=国民は虚偽内容を含む一方的で偏った情報を与え続けられます。そして「正義の『皇軍』、暴戻な『支那』」という枠組みでしか判断できなくされます。そして戦争の道を歩まされたのです。さらに重要なのは、国内にいる限りこうした内容の報道以外に接することができなくなったことです。
日本屈指の販売部数を誇り、以前からリベラル派と見なされていた朝日新聞の変質は、戦争の拡大をおしとどめようという人々をいっそう孤立させ、苦境に陥れました。
国民が、こうした情報が誤りであったとわかるのは十五年後の敗戦以後のこと、とくに東京裁判の過程ででした。
メディアの戦争責任は明らかです。
なお朝日新聞出身者は、副社長の下村宏や主筆の緒方竹虎などが政府の主要ポストに就任、ほかにも多くの社員なども近衛文麿や海軍などのブレーンとなどしして国策に深くかかわりましす。
佐々木はこうしたことは他紙にはあまり見られないことだと指摘しています。

(3)講談社の満州事変

『少年倶楽部』の場合

講談社はどうだったでしょうか。

『少年倶楽部』1932年2月号「満洲事変記念特大号」表紙

同社も各誌の性格により論調にかなり違いがあるようです。
『少年倶楽部』は、これまでから受験と戦争を結びつけて論じるなど軍国主義的傾向をもっていましたが、満洲事変勃発を受け、31年12月号以後、いっきょに軍国色を強めます
満州事変特別号と称した12月号は「軍旗」と題した表紙のもと、「満州事変関係大地図」と「満州事変写真画報」という写真版、そして「満州事変はなぜ起こったのでせう?」という解説記事と、「南嶺の大激戦・蔵本大尉の討死」という読み物風の記事をのせます。
翌年の二月号は満州事変記念特大号です。表紙を「少年飛行士」とし、画家が描いた「敵の装甲列車を攻撃する我が飛行機」など五枚の絵からなる「満州事変画報」というグラフ、「軍犬の戦死」をふくむ三本の美談、子どもたちの体験談、歩兵少尉による「満洲の支那兵」「満洲の猿蟹合戦」といった記事など盛りだくさんです。サトウハチローも「軍馬の唄」との詩をかいています。

『少年倶楽部』1932年3月号付録「満洲事変記念絵葉書」

「軍用犬」を表紙とする3月号には付録として、十枚一組の「満洲事変記念絵葉書」「帝国勲章絵葉書」「満洲物産早わかり地図」がついています。戦争だけでなく、「豊かな大地・満洲」という視点も導入されてきました
4月号には「肉弾三勇士」の記事などとともに、「満洲話の種」「大満州国が生まれました」といった記事など満洲植民をあとおしする記事も見られ始めます。
さきにみた31年11月号以後、少年倶楽部は各号に特集名をつけるようになります。「漫画大博覧会号」(7月)「冒険痛快特大号」(8月)といった少年らしい特集とともに、「愛国特大号」「われらの空軍号」「帝国陸軍号」などといった軍国主義的な特集も増えました。

『キング』の戦争報道

「嗚呼壮烈!嗚呼忠烈!寛城子・南嶺大激戦記」(『キング』1931年12月号)

他方、『キング』には、12月号のトップ記事、報知新聞長春特派員による「嗚呼壮烈!嗚呼忠烈!寛城子・南嶺大激戦記」が掲載されます。

「見よ!満洲事変最大の激戦地 壮烈を極める我が将卒の活躍 熱血熱涙の美談、感激談、壮烈談」
このリードだけで内容は想像できそうです。
日本兵がいかに勇敢に戦い、死んでいったかという「美談」を、これでもかといわんばかりに描きます。
銃撃をうけた上等兵が軍隊手帖に「天皇陛下萬歳、皆様さようなら」と記し、さらに「大日本帝国萬歳」と連呼しながら絶命したという記述も見られます。
戦死者の、出身地や略歴、幼い頃の美談を記すこともわすれません。

美談と勧善懲悪

『キング』の特徴は、歴史上の出来事や「偉人」たちのエピソードを通して、感動を演出するという手法でした。『キング』の戦争記事でもこの手法が用いられます。歴史上の英雄・偉人を同時代の戦場や斃れた兵士にあてはめたのです。
さらなる特徴は、小新聞以来の「勧善懲悪」です。この記事は記します。
「そもそも南満の地たるや、日清日露の戦役において十数万の人命を損し、十八億の軍費を使い、全く血で購ひたる帝国の権益地である。(中略)それに対し、最近支那が如何なる態度をとってきたか、血でもって購ひたる権益を悉く没収し、孜々営々として働く帝国民にあらゆる迫害を与へ」た。
勧善懲悪」を日本と中国の国際関係にあてはめることで、のちの「暴支膺懲」というスローガンにつながる図式が生み出されます。

一方での過激な戦争報道、他方での平穏な記事

『キング』1932年3月号目次右半分 中央やや右に「満洲軍肉弾実記」特輯記事があり、8本の記事の名が並んでいる。

しかし『キング』は特集号という形態はとりません。満洲事変にかかわる内容はこれだけで、他の部分では言及されません。雑多で断片的な記事のひとつ、「壮烈・感激美談」というテーマの記事として取り上げたともいえるのでしょう。
講談社の雑誌は、それぞれの方向性を考慮しつつ満洲事変を位置づけたと思われます。「年齢、性別、職業、地位」をこえて読むことができる娯楽雑誌『キング』というコンセプトはこの段階ではあまり変わっていないように見えます。新年号には代々木練兵場での天皇の拝謁を描いた写真だけで満州事変関連は見当たりません。2月号では松岡洋右も参加した「名士」による時局討論会の記事と「軍人美談山口一等兵」がのります。

戦争報道の増加

『キング』1932年3月号「満洲軍肉弾特輯」から 右側が「天皇陛下萬歳」の記事の後半部、左が「乱戦の敵営に突如起こる『君が代』」の前半分。

3月号になるとすこし変わってきます。「満州軍肉弾実記特輯」がくまれ、
北満の白雪を紅に染めて~悲壮なる水口主計隊の最期」「肉は死するとも魂は生くる」「痛快壮烈!敵営の大砲破壊
といった記事が合計八本ずらりと並びます。二等兵が死ぬ前に叫んだという「天皇陛下萬歳~橋川二等兵最後の絶叫」や「乱戦の敵営に突如起る君が代」といったものもあります。
記事の文体は、会話や短文・現在形を多用、「!」も多い、テンポの良い講談調で「勇敢」「悲壮」「壮絶」といった感情を刺激する語が多用されます。「チャンコロ」といった差別用語も用いられます。美談・英雄譚などで売り上げを伸ばした『キング』らしいといえばいえるのかもしれません。
同様に、5月号に15本の記事を並べた「上海軍壮烈実記」があります。美談調の戦争記事が求められていたことがわかります。
とはいえ、

「日刊キング」の失敗

この時代、多くの人にとっても、『キング』読者にとっても、戦争はまだ遠いものだったのかも知れません。激しい戦闘も早い時期で終結します。記事の中心も「美談」や「戦史」から、「満洲事情面白話」(4月号)のような豆知識やユーモア読み物であったりします。

子どもたちの熱情を刺激し、未来の「国民」を育てようとする『少年倶楽部』とくらべ、女性の読者も多く読者の幅が広い『キング』はこれまでの編集方針を維持すべきとの経営方針がつづいていたようにも思えます。新聞など報道メディアのような熱狂は弱かったようにみえます。
野間は『キング』の手法を新聞にもちこみます。「報知新聞」です。野間は郵便報知新聞以来の伝統を持つこの新聞を1930年に買収、「日刊キング」として位置づけ、「年齢、性別、職業、地位」をこえて読むことができる新聞、いわば「健全な小新聞」をめざしました。(大新聞の流れをくむ報知新聞を「小新聞」化しようとしたのも皮肉ですが)
しかし、他新聞が戦争報道などで過激な忠誠競争、スクープ合戦を繰り広げる中、「批判的精神を欠いた総与党的な」新聞は相手にされず、シェアを下げていきました。
そして、野間の死と共に報知新聞は読売新聞に売却され、「現在の小新聞」であるスポーツ紙にその名を残します。

(4)「同調集団の忠誠競争」

この間、新聞やそこから派生したアサヒグラフなどの写真誌、さらにラジオや映画などのメディアは熱狂の度合いを高め、日本中を好戦的な空間としていきました。
メディアの世界でおこったのが、「同調集団内の忠誠競争(有山輝雄「総動員体制とメディア」有山他編『メディア史を学ぶ人のために』)と表現される状態です。各メディアは自分たちがいかに愛国的であるか、戦争や軍に協力的か、競争をくりひろげます。
新聞をはじめとするメディアが主催する、ニュース映画映写会・戦況報告講演会、「満州事変展覧会」といったイベントがつぎつぎと開催され、大規模な慰問金・慰問文募集運動も始まり、多くの義援金や慰問袋があつまりました。

国際連盟脱退を報じた新聞記事 帝国書院「図説日本史通覧」P269

国際連盟において、「日本軍の行動を自衛権の行使とは認めがたい」としたリットン調査団の報告がだされると、国内の132もの新聞・通信社が「断じて受諾すべきものに非ず」との共同宣言を出します。調査団の報告が必要以上に日本に配慮したものだったにもかかわらず。
こうした状態をのちに検証した朝日新聞取材班は「満州事変以来新聞を支配した無分別な高揚が『慣性』のように働いていた」と記しました。
こうした記事は「軍部の圧力のもとにやむなく書かれた」との弁明がよくなされます。たしかに、当初は圧力にまけた面もあるでしょう。しかし朝日新聞自体、先頭に立って歯止めなしの暴走を始めています。圧力に負けてとは言いがたい状況となります。
有山は「決して強制されたものではない。メディア自身の積極的意思によって」もたらされたと厳しく指摘します。横並びのメディアが他紙との差異を作り出そうとして歯止めのきかない状態となったというのです。
メディアが伝える誤った情報によって客観的で冷静な判断の機会を奪い、扇情的な記事が「心」まで動員します。戦争や軍隊に対し疑問を差し挟むことは困難な時代になりつつありました。
戦争に違和感をもつ人たちはその思いを託すことの出来る場を失っていきました。そして刹那的な享楽に陥っていったという説明もなされる事態となりました。

(5)「肉弾三勇士」の狂騒

肉弾三勇士」

「肉弾三勇士」の銅像。現在は一部だけが残っている。

「美談」をもとめるメディアにとってもってこいの出来事が起こりました。
満州事変は1932年、上海に波及します。これにたいし中国側は激しく応戦、その戦闘意欲を軽視していた日本軍は苦戦を強いられます。
この戦闘で工兵三人が戦死しました。爆薬に火を付けて敵陣に投入し鉄条網を破壊しようとしたところ、つまずいたものがいて時間が足りなくなり爆発に巻き込まれた事件です。これがメディアによって「殉国美談」に加工され、「肉弾三勇士」(「爆弾三勇士」)の神話が生まれます。
最初から生きて帰ることのない攻撃を決断、命を投げ出して国に奉公した英雄である。即死しなかった兵士が「天皇陛下萬歳」と叫んで息絶えたとの神話に。

「殉国美談」の誕生

自分の身を犠牲にしての自爆攻撃(それは「特攻隊」のさきがけ)名もなき庶民の英雄的な行為「天皇陛下萬歳」という叫び、こうした内容は『キング』などが育ててきた「美談」文化のかっこうの材料でした。各メディアは一気に飛びつきます。
この出来事を最初に紹介したのは大新聞でした。東京朝日新聞は戦死の3日後
「『帝国萬歳』と叫んで/ 吾身は木葉微塵/ 三工兵点火せる爆弾を抱き/ 鉄条網に躍り込む」
との4段5段抜きの大見出しで報道、翌日の天声人語は「まさしく「軍神」として祀るべきだ」と主張、大阪朝日新聞も「日本精神の極致」と褒めあげます。
「天声人語」が「義金」をよびかけると、わずか六日で2万5千円(大卒初任給換算で約6800万円)の巨額が集まりました。
美談は、かれらの育ってきたきびしい生活・労働環境での「立派な」生き方などにもおよびました。ひそかに彼らが未解放部落出身であるとの未確認の「噂」も生みました。

メディアの狂騒

マッチのラベル  肉弾三勇士の人気はマッチのラベルにまで及んだ。

熱狂は止まりません。
朝日・毎日の両新聞は500円の懸賞金付きで彼らをたたえる歌を募集、毎日新聞で入選したのは与謝野鉄幹でした。
「君死にたまふことなかれ」で有名な妻と比較してて「鉄幹、血迷うたり」との非難が殺到したことは、社会にまだ正常な感覚がのこっていた証といえるかもしれません。
これに対抗してキングレコードを持つ講談社は「肉弾三勇士」に取材した歌謡曲や浪曲など多様なレコードを発売します。
NHKラジオは特別番組「三勇士の夕」として、明治座の舞台中継、浪花節、筑前琵琶などを中継放送し、三勇士にかかわる全国放送は、ニュースで15回、演劇5回、講演2回、合計5時間に達しました。
NHKラジオ、各種月刊雑誌はもとより、映画、演劇、音楽、絵画、彫刻、等々、ありとあらゆる宣伝扇動の舞台が、相競うてこの軍事大英雄を迎え入れた。国民もまた、歓呼してその登場を促した。
(上野英信『天皇陛下萬歳』)

寺や神社もこれにあやかろうとして墓や記念碑、銅像などが次々と造られ、遺骨の争奪戦も起こりました。
有山輝雄はこの狂騒について次のように指摘します。
これは大衆娯楽のキャンペーンとほとんど同じ手法である。1920年代の華やかでモダンな大衆文化があったにもかかわらず、こうした戦争賛美が生まれたのではなく、あえて言えば華やかな大衆文化があったが故に、爆弾三勇士の神話は大きくなり、国民の興奮が高まったのである。

なぜ「軍神」でなく「勇士」なのか

上野英信『天皇陛下萬歳~爆弾三勇士序説』(1989ちくま文庫)現在は洋泉社文庫2007)

メディアは大衆の関心を引こうと、よりエスカレートさせた記事、「感動的」な企画を繰り出します。忠誠合戦を繰り広げました。
注意しておきたいことは、「忠誠合戦」は軍部が意図的に作り上げたのではなく、メディア側が暴走した面が強いということです。
しかし肉弾三勇士は英雄・「三勇士」であり、「軍神」にはなりませんでした。命令で命がけの行動にでられる兵士の姿こそが陸軍精神の精華であるというのが陸軍の立場だったからです。
(肉弾三勇士の記述については上野英信『天皇陛下萬歳』を主に参照しました)

おわりに 戦時体制下のマスメディア

満洲事変勃発に伴う狂騒の中で、軍や政府は総力戦体制の構築をすすめていました。
1932年、そうした一環として陸・海軍と外務省は情報にかかわる非公式の調整機関を発足させ、他の官庁も参加します。
1936年には内閣直属の公的な情報委員会として「情報発信の国益適合化」「各省庁の啓発活動の調整」などの役割が与えられます。統合された国策通信社・同盟通信社も管理下に置きました。
1937年に「内閣情報局」となり「国民精神総動員運動」を担い、「参与」として新聞・通信・放送の代表が加わりました。朝日新聞の緒方竹虎、講談社の野間清治、さらには東宝映画(阪急電鉄)の小林一三らもその一員です。1938年野間が急死すると、作家で文藝春秋社の菊池寛にかわります。こうして言論人もこうした動きに参加・協力しました。
1940年以後、「不特定多数を対象とするメディア・表現手段をひろく統制」する強力な権限をもつ情報局に改組されると、さらに多くの言論人が動員されます。1944年には朝日新聞主筆だった緒方竹虎が、45年には朝日新聞出身でNHK会長を務めた下村宏が、情報局総裁に就任しました。
このように、言論統制はメディア側の協力のもとですすめられたのです。
言論統制の機関としての内閣情報局や内務省警保局は厳しい検閲もおこなう一方、「示達」「警告」「懇談」といった「内面指導」をうけ「自主的」に掲載を取り下げました。さらに当局の意向を忖度して内容を改変していきます。
処分されたときの損害、協力することで得られる「企業的利益」、「国家的責任を果た」すために、積極的・消極的に統制を受け入れます。統制に協力することは、用紙確保などでも遊里でした。
こうして、軍部や政府に都合のよい言論が量産され、それに合わない言論は消されました。(有山前掲論文)

『キング』1942(昭和17)年新年号目次 戦争にかかわらない記事は一部の読み物を除きほぼ見られない。

日中戦争の時期、出版とくに雑誌販売は急速に伸長、佐藤卓己が『キングの時代』の一章を「雑誌の黄金時代?」とするような不思議な高揚期をむかえてます。

「時局雑誌」 日中全面戦争の改正に伴う戦場報告や戦時状況の解説、その他様々な主題を論じたジャーナリズム。『週刊百科・日本歴史11-214』

たしかに、新刊本発行はほぼ右肩上がりの成長をみせ、1941年ピークを迎える雑誌の取扱高も増加、発行総計は一億部に近づきました。とくに『キング』は毎号500ページをこえる分厚さとなり、毎月100万部を超える部数を販売し続けます。
しかし、発行部数の伸びに反比例し出版される雑誌の点数は1937年をピークに減少しています。雑誌の多様性が失われていたのです。大量の部数を発行する「戦時雑誌」が中心となり、それ以外が淘汰されたと考えられています。
戦時色が濃くなるにつれ『キング』からも娯楽色がうすれ「総合雑誌化」「国民修身の教科書」がすすみました。
対米英開戦直後の1942年新年号には「愛読者各位へ」として以下の文章が示されます。

日本人の美徳を総動員せよ!これがキングの使命の第一であります。さらに時代の向かふところを明らかにし、国策の要求するところを日本の隅々にまで伝へる、これキングの使命の第二であります。さらにまた時局下の最も健全な慰安となり明日の奮闘の活力となる、これがキングの使命の第三であります。

こうして『キング』の特色であった慰安的要素や「小説・落語・漫画」が減少、かわって戦争報道、ついで銃後の心得などが増加、1943年3月号をもって『キング』という誌名は『富士』と改められます。

 

総力戦への流れは「生産・流通を合理化することで」「通俗・低俗に流れやすい」出版メディアを変革していこうとしました。そこでメディアを効率的に利用するため企業体制を再編と合理化を求めます。雑誌の種類の減少と発行部数の増加はこうした政策の結果でした。
こうした過程は新聞においてよりドラスティックな形をとりました。そこで用いられた論理は「新聞の公益性」です。戦時体制が進むなか、「公益性」は「国家的使命」=国策協力と同義化されました。新聞の用紙不足や節約もあって「国策への協力」が求められ、新聞の合併や廃止が進みました。
こうした動きは最終的に東京5紙、大阪4紙、その他は「一県一紙」体制へと収斂されました。
こうした事態は、情報の管理を容易にしました。
こうしたなかで「整備」されたのが記者クラブ制度です。
これまで個人加盟であった記者クラブは、通信社新聞社単位の加盟へと改められ、数的にも制限されました。こうして特定の通信社新聞社、そのなかの特定の記者が、ニュース源である各官庁と特権的なパイプをもちます。官公庁側からすれば記者クラブを通して情報を効率的に流し、統制するというシステムができました。
さらに1942年、新聞事業令にもとづき設立された日本新聞会の「記者規定」は「国体に関する観念を明徴にし記者の国家的使命を明確に把握したもの」と記者を位置づけました。

こうして「新聞新体制」の名のもとに各紙は、記者の資格から新企業形態まで統制され、「新聞事業の国家的使命を達成」すべき役割を与えられます。そのことは他方で新聞社が特権を保障され、経営的安定を実現することであり、記者クラブに所属する記者は、ニュース源と特権的関係も持つことでもありました。
こうして各紙は「新聞の公益性」概念を内面化し自主規制・自己規律システムを整備し新聞を発行します。
その結果がいわゆる「大本営発表」という虚偽の報道と神がかりの記事に終始するメディアの姿でした。

メディア統制の完成期は、戦時体制の崩壊期でした。
敗戦と同時に統制もなくなります、なくなるはずでした。
しかし、こうした戦時体制下のメディアのあり方は、新たな権力であるアメリカ占領軍にも有効でした。こうして戦時体制下のシステムのあるものは改変し、新たな権力との関係の中で引き継がれます。
そして十分な検証と吟味がなされないまま、戦後体制のなかに組み込まれ引き継がれました。

<マスメディアの発展>
1:大新聞と小新聞、期待されるメディア像
2:朝日新聞の創刊、新聞という「商品」
3:白虹事件と「朝日新聞」の敗北
4:「講談社」からみる大衆の国民化~マスメディアの発展
5:「満州事変」とマスメディア(本稿)
補:吉野作造の朝日新聞退社

元高校教師の近現代史の授業と講座を公開します