経済史研究の原点~講座派の遺産

実教出版「高校日本史A」p34

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経済史研究の原点~講座派の遺産

 

ご挨拶

はじめまして。講師をつとめさせていただきます。
数年前、高校を定年でやめ、大学で教えてもらいながら歴史にかかわるホームページをたちあげています。教師の使命の一つは、多くの研究を「翻訳」し興味深く伝えることであると考え、退職後はホームページを中心に、こうしたことをすすめています。深い研究に裏付けられた内容とはいきませんが、おつきあいよろしくおねがいします。
今回は、戦前から戦中にかけての日本の経済史を数回に分けて学んでいきたいと思います。

成立期日本資本主義の構造と矛盾~「講座派」理論から

山田盛太郎(1897年~- 1980年)講座派の理論的中心であった。

ここには経済学部出身の方も多いと思います。日本経済史で「日本資本主義論争」、戦前に、講座派労農派という論争があったという話を覚えておられるかもしれませんね。これは、戦前の日本をどのように理解するかをめぐって、1920年代後半から1930年代にマルクス主義者の2つのグループの間で行われた論争です。関係者の多くが捕らえられ、命を奪われながら行われた論争でした。その内容はアメリカなどでも研究され、連合軍の戦後改革に大きな影響をあたえました。
戦後になると、日本をいかに民主的な国にするかという課題と結びつき、歴史学や、経済学・政治学・社会学など社会科学研究に大きな影響力をもちました。いまからみると多くの欠点があるのですが、いまでも学ぶものが多いと考えています。
まず「講座派」理論を集大成したといわれる山田盛太郎の考えを、現代の研究成果も交えながらまとめます。

図は、高校の授業で使おうと作ってみたものです。結局は時間不足で使えなかったのですが。今日はこの図を用いて説明したいと思います。

地主=小作関係と高額小作料

講座派理論の特徴は、農業分野での地主小作関係と工業工場の低賃金構造を有機的に結びつけることで、戦前の日本経済を統一的にとらえ、日本資本主義の軍国主義的性格、非民主的な社会や文化のありかたをみごとに説明したところです。
図の左側が農村における地主・小作関係を示しています。寄生地主というのは、非常に広い土地を所有し、それを小作農に貸し付けて、小作料で生活している地主たちです。基本的には、自らは耕作を行わず、小作料だけで生活しているのでこのように呼びます。東京などに住み、村にいない地主を不在地主といいます。
論争が行われていた頃は、寄生地主・不在地主が山ほどいると考えられましたが、現在の研究では否定的です。新潟や東北などが中心でしたが、西日本などにはあまりいなかったことがわかっています。
実際には、地主の多くは村に住み(在村地主)、自らも農業に従事する耕作地主も多く、土地の一部を小作にまわすという地主が中心で、この図ほどデジタルな関係ではありませんでした。しかし村に住んでいる在村地主だからこそ、直接には土地を借りていない自作農もふくめ、地主の顔色をうかがうので、村内の影響力は逆に大きかったともいえます。こうしたこともあって、1920年代の前期小作争議は不在地主の集落が中心となり、自作農など村の中間層も協力的でした。
また貧農といっても、純然たる小作農よりも、自分の土地をもちつつ地主から土地を借りているという自小作農や小自作農が多く、耕作地が少ない自作農よりも広い土地を借りて耕作する自小作農の方が余裕があることもありました。
とはいえ、この図のように農村の貧しさの背景には高額小作料がありました。

まずしい農民が小作料を払うのは大変です。一年間の苦労の成果として、稲刈りの後、家の中は米俵がそれなりに積み上げられます。その米俵の多くが地主の家に運ばれ、小作料として消えていきます。また借金のカタに持っていく分もあります。こうして積まれた米俵は瞬く間にきえ、種籾を除くと、残った米はわずか、多くは割れ米や屑米といったもの、それも年を越すとなくなる。そして、端境期が近づくと米作農家が、高い米を買いに行く。
せつないですね。
なぜこんなことになったのか。
日本資本主義論争の中心的な争点はここにありました。講座派というグループ(非合法下にある共産党と関係が深かった)は江戸時代さながらの地主小作関係が明治以降も引き継がれ、農民たちは土地に縛りつけられる状態にあったとして半封建的地主小作関係の存在を主張しました。
これにたいし労農派(共産党に批判的なマルクス主義者が中心)というグループは、前近代的な側面はあるもののあくまでも地租改正などを経て成立した近代的土地所有権を前提する契約関係と考えるべきであり、半失業状態の人間の高額小作料でも借りたいという競争のせいで、土地を借りるためにある程度の人格的支配も受け入れざるをえないと考えました。地主小作関係はあくまでも「近代」の産物で、資本主義に適合するものとして生まれたというのです。
私自身は労農派の主張の方が妥当だと考えます。講座派は「近代ブルジョワ社会」に幻想を持ちすぎていたと思っています。
近年、明治初期から敗戦まで、経営体としての農家の数はあまりかわっていないという研究が出てきました。先祖から受け継いだ田んぼを捨て、村を離れることは、当時の「家」観念から見て、大きな心理的抵抗があった。したがってたとえ小作であっても先祖から引き継いだ「家」を守るという意識が、高額小作料に耐える理由となっていたというのです。戦前の日本社会を律していた「家」制度とかかわる重要な視点だと思います。

農村の貧困

小作料を払いながら家族を養うことは大変です。

明治初期の農民たち(小学館 – 『日本歴史館』(小学館))

人々は食うためにさまざまなことをします。江戸時代以来の副業、裏作に麦などを蒔き、男は出稼ぎや行商に女は手間賃をもらって機織りをする。他の農家の手伝いや村普請・近在での日雇いといったさまざまな仕事にかかわりながら収入の口をさがす。
こうしたなかで、急速に広がってきたのが養蚕です。開港以来、最大の輸出品であった生糸の生産には原料としての大量の繭まゆが必要です。蚕かいこ(そのサナギが繭)を育てるのが養蚕で、蚕の餌である桑の栽培も付随します。養蚕は農村の副業として全国に広がり、最盛期には農家の40%がこれに携わりました。
村での暮らしに耐えかねて(経済的のみならず、文化的に、ときには人間関係で)村を離れ都会に仕事を求める人たちもいました。ある程度、村の中間層以上の人たちは、教育水準などにも左右されながら、さまざまな仕事についていきますが、村を逃げるように去って行った人たちが都合のよく仕事を見つけることは困難でした。その結果、行き着く先の多くは都市の貧民街であり、さまざまな雑業をみつけ、その日その日の生活を送ったのです。

軍隊生活~食事風景(大津歴史博物館

村に残った、貧しい農家のひとびとは、家族の食事に事欠くことも多く、つらく苦しい軍隊生活を「仕事は農業よりも厳しくないし、三食白い飯が食える天国だ」と振り返ったひともいたといいます。当然、軍隊に残ることを志願する人もいました。
口減らしと「手に職をつけさせる」ため、子どもを丁稚(でっち)奉公や女中奉公にだすことも行われました。60年近く前、崑(こん)ちゃんが「旦那さんと丁稚どん」というテレビドラマをやっていました。落語でも丁稚さんは主要なキャラクターです。少女たちのなかには女工となるものもいました。

製糸・紡績女工の供給源としての農村

資本主義が成立してくるなか、製糸業・紡績業の発展に伴って、10代を中心とする若い女性が農村から大量に製糸工場や紡績工場に働きに行くという流れが生まれます。図左下の矢印がそれを示しています。
前貸金や仕送りなど収入の口であったのはもちろんですが、家族の食費を減らす「口減らし」の意味もありました。そのため、女工たちの賃金は非常な低賃金でした。さらに工場側はコストをかけずできる限り多くの利益を得ようとしました。ここに、製糸・紡績などの工場における低賃金・長時間の無権利労働という過酷な労働実態が生まれたのです

日本資本主義はこうした劣悪な条件下におかれた労働力に依存して成立、発展した、そうした条件をささえたのが農村における地主小作関係・高額小作料であった、というのが講座派・山田盛太郎らの主張でした。
女工たちの仕送りや養蚕業等で得た資金を加えることで、高額小作料を支払い、生活していたと考えたのです。養蚕も家計補充的性格を持っており、繭価も低くおさえられがちでした。
このように製糸業は、貧しい農村からの安価な労働力と安価な原料を獲得する事で成長したのです。紡績業も同様の構造でした。根底にあったのは高額小作料です。
このように、講座派が示した図式は戦前の日本資本主義の構造をある程度的確につかんでいました。

長時間・無権利な労働者がささえた日本経済

図に戻りましょう。
工場と都市が真ん中です資本家は、農村から出てきた労働者(未成年の女工たちが多かったのですが)を、都市の貧困層それ以前に農村から流出していた人々も多い)出身の労働者とともに雇い、製糸工場や紡織工場(最初の大紡績工場は大阪の貧民地帯に隣接した場所に建てられました)で働かせました。

実教出版「高校日本史A」p34

労働者の権利などはいっさい知らされないまま、14時間を超える高温高湿の状態の長時間労働を強いられました。最初のこのろ動力源の多くが蒸気機関でした。
工場内にある寄宿舎の中で起居、つねに監視下におかれ、たまの外出でも、逃亡しないよう監視の目が光っていました。
病気でも休めないのに、病気が深刻となると、あっさりと解雇され、家族に引き取るようにとの電報が届きました。死亡事故や自殺なども頻発しました。
賃金は山田が「インド以下的低賃金」といった水準にすえおくなど人件費を切りつめて生産された生糸や綿糸・綿織物がその安さを武器に海外に販路を広げたのです。右上の矢印です。
都市貧困層や農村から流出した人の一部は、炭鉱や鉱山、土木現場などへも働きにいきます。「手配師」とよばれた人たちの口車に乗せられたり、債務に追われた結果という人も多かったとおもわれます。そこは納屋頭(なやがしら)などの暴力的支配とピンハネが横行する世界でした。せっかくの賃金も博打や前貸しで奪われ、新たな借金にもしばられました。リンチが横行し、人知れず命を失った人もいました。信濃川に死体が大量に流れついたという事件が新聞に取り上げられたこともあります。死体は、上流のダム工事で働いていた朝鮮人労働者たちでした。
図、真ん中一番下です。

農村から流れだした資金と人口

地主小作関係は別の面でも資本主義を支えました。
資本主義の発展には二つの条件があります。
一つは大量の「自由な」労働力の存在です。地租改正と松方デフレによって大量に流出された労働力が半失業状態で存在し、そこに貧困状態に置かれた農村から労働力が継続的に供給されています。
もう一つの条件は資本です。この多くも農村から供給されました。高額小作料として集められたお金は、地主の手で直接に鉄道や工場などに投資されたり、銀行などを通して間接的に供給されたりもしました。農民たちが作り出した富は、農村には残らず、工場・都市へと流れ出し、農村には貧困が残りました。左側から真ん中に伸びる矢印です。

東京の貧民窟

都市住民の多くも貧困の中にいました。貧民街には半失業状態が蔓延しており、人力車夫や行商などの雑業に従事したり、職人・職工という初期の労働者を形成したりしていました。炭鉱や鉱山・土木現場などに流出する人もいました。こうした人たちが日露戦争以後、米騒動にいたる都市民衆暴動のにない手となりました。図の一番下のあたりですね。
ここまでが講座派の枠組みとして位置づけられるでしょう。

地方・農村からのもう一つの流れ

しかし貧困だけで明治後期から大正にかけての時代をつかむことは正しくないように思います。それが講座派の枠でつかみきれなかった部分です。

夏目漱石『三四郎』の挿絵。小説は東京帝国大学に合格した三四郎が上京するところから始まる。

農村から都市へ向かう流れは女工や貧民だけではありませんでした。漱石の「三四郎」や「こころ」、最近でいえば大河ドラマ「いだてん」の主人公たちの流れです。
身分制度の解体は貧困によって農村を追われる人々のみならず「青雲の志」を抱いて都市に向かう流れも生み出しました。
維新の変革は、一定の資産を持ち学問や文化などの知識を身につけた豪農・地主、上層の自作農などにあたらしいチャンスを与えました。総領息子があえて分家をして町に出るケースもみられます。農村からエリートとなる道筋、学校や軍隊といった表ルート、人脈を頼るという裏ルートなどさまざまな機会を得ることで農村上層部だけでなく、中農層や貧農層の一部にも機会が与えられました。
都市には商店主や親方といった旧中間層だけでなく、新たな時代の中で成長し始めたブルジョワジーやホワイトカラー、軍の士官といった新中間層が生まれてきました。こうした人々は第一次大戦下の大戦景気をきっかけに一挙に増加します。
地方・農村は「あゝ野麦峠」にみられる貧しい労働力の供給地だけではなく、様々なレベルの人材供給地でした。近代はこうした「野心」を実現する時代でもありました。講座派的な枠組みとともに、こうした面もとらえなければ歴史のダイナミズムを見失わせると思います。

軍隊絵はがき~軍隊は、一般社会は「地方」とよぶ独特の社会であった。

農村に戻る人も注目する必要があります。
ひとつは軍隊です。軍隊は世間での上下関係をある程度リセットした特別な、ある意味「平等」な「空間」でした。貧農の子弟が地主ら有力者の子弟に命じたり、暴力をふるうことも存在する世界でした。
村内で、軍経験者は在郷軍人などのステータスを得ることができました。かれらは農村における軍国主義の尖兵でしたが、その権威は農村秩序をゆるがしうる存在でもありました。
1920年代になると、女工や職工などとして都市で暮らした経験を持った住民たちが帰村、農村秩序を溶かし始めます。都市で体験した「実力主義」、華やかな環境、労働運動などの社会運動での体験、ひとことでいえば「都市の空気」、こうしたものが農村に持ち込まれました。

講座派理論の有効性

講座派の考え方では、農村も都市においても貧困状態が広がり、国内市場は狭いままであったと描き出されます。工場からは次々と製品がつくられるが、国内市場の狭さから販路を海外に求めざるをえない。このため日本資本主義は軍国主義的色彩の強い経済となった。これがその見立て、図の右側です
資本主義が発達すればするほど、国内においても世界においても矛盾が高まる、破滅ないし革命が近づいていくという当時のマルクス主義によくみられた議論です。
一見すれば説得的にみえます。しかしこれを戦前の日本資本主義を一貫して流れる仕組みとしてとらえることには無理があるでしょう。とくに大戦景気以後は実態との間のずれが広がっているように思われます。
講座派の図式は成立期の日本資本主義の構造を見事に説明しました。私たちはこの図式にまなびつつ、それがどのように変っていくのか、という面から考えていきたいと思います。

 

<講座「経済史で見る日本近代」メニューとリンク>

1:経済史研究の原点~講座派の遺産
2:日本経済の「三本柱」と大戦景気
3:生産額のランキングからみた1920年代
4:金融恐慌と戦前社会の変化
5:金解禁断行と昭和恐慌の発生
6:世界恐慌の発生
7:昭和恐慌下の日本
8:昭和恐慌からの脱出と高橋財政の功罪(NEW)
9:総動員体制の成立(「戦時下の社会」より)

<つづく>

 

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