世界恐慌の発生

浜島書店「アカデミア世界史」P270

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世界恐慌の発生

1929年の株価大暴落

1929年10月24日、ニューヨーク、ウォール街の株式取引所で異変が発生しました。その日のようすをガルブレイスはこのように記しています。

「暗黒の木曜日」で詰めかけた人々 浜島書店『世界史詳覧』p252

ゴールドマン=サックスにとり、株式一般と同様、その最後の審判の日は、1929年10月24日の木曜日であった。その前、何日かにわたり、市場は弱くなっていたが、その日の朝は、…、限度を知らぬ説明を超えた大規模な売りものが殺到した。それは、取引所の床に怒濤のような力で打撃を与えた。株式市場の機構全体が、このパニックには対処のしようがなかったのである。相場表示のチェッカーは、いったい何が起こっていたかわからなかったし、国中の人たちは、一体何が起こっていたかわからず、ただ、これで破滅だと知ったか、でなければ、まもなく破滅すると予想したかである。そこで彼らは、売りもしたし売られもした。取引所の中は、耳をつんざくほどの騒ぎだったし、その外のウォール・ストリートには、群衆が集まっていた。多分、資本主義は崩壊しつつある。それは面白いことだと思われたのである。(ガルブレイス『不確実性の時代』)

のちに「暗黒の木曜日」と呼ばれるこの日、NY株式市場は史上最大の暴落をしました。たとえば、前日400ドルであったゼネラルエレクトリック株は、朝は315ドル、夕方には283ドルと2/3の急落をみせます。世界恐慌(「大恐慌」「大不況」)の始まりでした。

中村政則『昭和の恐慌』P252より作成

暴落は一日では終わりません。大銀行などの協調融資で持ち直した株も5日後の10月29日には1日だけで80億ドルから90億ドルの損害をだし、11月13日には最大の下げ幅を記録、9月以来の2か月の間に株式の下落率は平均42%に上りました。
これをきっかけにアメリカを不況が襲います。投資家は次々と破綻、家族に生命保険を残そうとする自殺者もあいつぎました。

企業の不調は9月ごろから深刻化していました。工場での生産は急激に下落、企業は労働者を解雇し始めていたのです。他方では高値で取引される株価、こうした不安定な事態が爆発したのが「暗黒の木曜日」の株価大暴落でした。

アメリカにおける大恐慌のようす

アメリカにおける大恐慌の様子を、数字で確認してみましょう。

アメリカにおける大恐慌にかかわる経済指標      中村政則『昭和の歴史2昭和の恐慌』P225(小学館)

1932年工場生産は1929年の約半分に、鉄鋼生産に至っては1/4を割り込みます。投資も冷え込み1931年以降GNP比で1割以下となります。農業賃金指数は50%前後に落ち込みます。29年以前から深刻な農業危機が続いてきたことを考えると実はさらに厳しい状態でした。GNP(国民総生産)は対29年度比で半分強にまで落ち込みます。

浜島書店「アカデミア世界史」P270

とくに深刻なのが雇用です。雇用は毎年100万人単位で減少し、1932年ごろには900万人近くが職を失い、雇用者の1/4が失業となります。
 失業者統計は少なく見積られる傾向があるので、実際はさらに大きく1000万人を超えていたと推測されています。
ついでにいうと、ヨーロッパでは失業保険など社会保険が充実していたのに対し、アメリカは個人責任が求められる国です。失業者に対するセフティーネットは当時も今も当時も弱いのが特徴です。当時のセフティーネットは宗教団体などによるチャリティー(「慈善」)でした。したがって、アメリカにおける失業の深刻さはさらに骨身にしみるものでした。

最初は楽観視していたフーヴァー大統領らも次第に対策に追われます。しかし誠実な常識人で融通の利かないかれは、あくまでも財政均衡を第一に考え、個人給付につながる予算を認めないとの従来の枠組からなかなか脱却できませんでした。この間にも事態は深刻化し、国民の絶望感は増していきました。
世界経済の中心アメリカの恐慌の発生は世界中に感染します。日本では金解禁政策とあいまって昭和恐慌を引き起こすなど、世界中で猛威をふるいました。その渦の中、日本は満州事変をきっかけに中国侵略を本格化、ドイツでもヒトラー政権が成立します。こうした事態は世界恐慌なしには考えにくいことでした。

アメリカ、「繁栄」と大衆消費社会の出現

なぜこのようなことになったのでしょうか。その経緯を見ておきます。

浜島書店「アカデミア世界史」P263

第一次大戦は世界を激変させました。
世界恐慌とのかかわりでいえば戦争でヨーロッパが荒廃、19世紀世界に君臨してきたイギリスが完全に覇権を失い、かわってアメリカの覇権が確立したことです。アメリカに次ぐ第二位の工業国であったドイツが敗れました。
戦争の期間中アメリカはヨーロッパには武器・弾薬など工業製品・農産物などを供給し続け、ヨーロッパ経済の影響下にあった地域にも進出しました。イギリスなど協商国に資金を提供、それは巨額の債権となります。アメリカが参戦した理由は、イギリスなど協商国がドイツに敗れるとこうした債権が不良化すると考えたといわれます。
なお戦後、イギリスがこうした費用は戦争の共同出費だからキャンセルしてほしいと主張しますが、アメリカはそれを拒否、債務を緩和する形で内容を確定しました。
大戦期間を通じて、アメリカは生産力を飛躍的に発展させ、さらに拡大する技術や経営手法を手に入れました。世界中の富がアメリカへ集まり、「金」の多くもアメリカがもつことになります

T型フォードのラッシュ(ニューヨーク)浜島書店「アカデミア世界史」P263

これにつづく1920年代のアメリカは「金ぴかの時代とよばれる繁栄期です。
ニューヨークなど大都市の中心には摩天楼が建ち並び、高速道路が整備され、道路は車であふれました。他の国々の人々からみれば、異次元の未来都市が現出したかのようでした。大量生産によって生み出された大量の工業製品が次々と提供され、中間層のひとたちも住宅や自家用車といった大きな買い物をします。大企業の「高給」とローン(月賦)のしくみがかれらの旺盛な消費を支えました。
大量生産によって安価になった自家用車で郊外の瀟洒な住宅から都心へ通勤することがステータスとなりました。家の中には、これも大量生産で製造された冷蔵庫掃除機ラジオなどの電化製品など耐久消費財が持ち込まれます。大量消費時代が到来しまました。世界中の人々垂涎のアメリカンライフが登場したのです。

フォードシステムと住宅ブーム

自動車などの製品が安くなったのは、フォードシステムと呼ばれる同品種大量生産の方式です。フォードはT型フォードを1908年生産を開始します。ベルトコンベアーによって作業は単純化され、労働者は単調な作業の繰り返しを要求されます。それによって作業の効率をあげ大量生産を実現したのです。高賃金と労働時間短縮が与えられる反面、軍隊的な規律と緊張が要求されました。ストレスがたまる分を「優遇」でなだめようとしたのです。フォードは労働組合嫌いでした。さらに、高賃金が組合への求心力をさげ、あわせて消費を刺激し需要の拡大となるを知っていました。

岩波講座『世界歴史28』P84-85の表より作成

1920年代の前半の乗用車の売れ行きの好調ぶりは右のグラフからも見てとれると思います。
しかし、このやり方にもほころびがでてきました。T型フォードは20年近くモデルチェンジがされません。人々は、変わり映えがせず性能も古いこの車に飽きてきました。新車でなく中古車で買えばいいという気分が高まりました。新車を買うなら格好がよく性能もよいGMを選択するようになってきました。そこでフォードはT型フォードの生産中止を決意しました。工場を6ヶ月閉鎖して新型車A型フォードの生産を準備することにします。その間、大量の労働者が帰休状態になりました。1927年の乗用車販売台数の落ち込みはこの事情を映し出しています。

電化されたキッチン(1926年)キッチンには大型の電気冷蔵庫があり、ガス・水道が完備している(浜島書店「アカデミア世界史」p263)

戦場から帰った若者たちは結婚し、ベビーブームを巻き起こします。彼らは家を求めます。乗用車は都心でなくとも生活できる条件をつくりました。こうして郊外における快適な住宅建設ブームがはじまります。建築業が発達します。その様子もグラフで見ることができます。建築は裾野の広い産業であるため、アメリカ全体の景気をおしあげ、資金需要も高めます。
しかし、多くの人にとって住宅建築は一生に一度の事業です。借金も抱えます。したがってひとたび自宅を手に入れると、需要は一巡します。余裕のある人が新たに生まれて来ないため、住宅建設ブームは下火になりはじめます。建築建設のグラフが下向きになりはじめたことにこうした事情が見て取れます。
住宅建設はローンを組み、住宅を建てることができる消費者がつづくことが、維持・発展の条件です。しかし購買意欲が減退しはじめると、それは業界自体の伸び悩みにつながりました。人員削減もはじまります。建設建築業は多くの関連業種と従業員をかかえているだけに、その影響は深刻でした。
中間層の人々が住宅や自動車など高価な製品を手にいれられたのは銀行が個人向けに提供したローンのおかげでした。なおローンは公定歩合など利率によって左右されやすいことも指摘しておく必要があるでしょう。

独占価格と購入意欲の低下

グラフは、さらに別のことを示します。国民総生産(GNP)の上昇基調と比較して物価指数の変化が少ないことです。この時期、大量生産により多くの商品が市場に投入されます。小麦をはじめとする農産物価格も低迷しています。にもかかわらず物価の下落率はさほど大きくありません。

大量生産を行うのは、巨大工場を経営する独占資本でした。かれらは値崩れを防ぐべく独占価格を設定、大量生産にもかかわらず価格は高止まりさせました。そして1927年頃からアメリカの大量消費を支えてきた購買力が下火となりはじめます。消費の担い手の中心であった上流中間層の購買意欲が一巡したのです。耐久消費財のローンの蓄積はかれらの購入意欲を弱めました。
問題は、かれらのあとをうける購買層をつくりだしていなかったことです。都市にも、農村にも、そして海外にも。

工業国アメリカの不振と投機熱の高まり

ドイツ・フランスなどヨーロッパ諸国の経済復興が進み、日本やアジアなどの民族資本の成長などもあって、おおくの部門で供給過剰がひろがりつつありました。にもかかわらず、人々の購買力は高まっていない、アメリカにも陰りが見えはじめます。先のグラフは、この事情を見事に示しています。1926~27のところをさかいに建築と自動車を示す線が下降傾向を示します。
T型フォードが生産中止になった1927年ごろから自動車・電化製品などの産業では在庫が積み上がり、生産調整が始まりました。さらに深刻だったのが住宅建設の伸び悩みでした。独占価格による価格の高止まりもあって、購買意欲は低下していきました。その兆候を感じ取った連邦銀行は1925年段階の低金利・金融緩和政策への転換をはじめています。

上のグラフでは、下降を示す住宅・自動車の折れ線が、急上昇するもう一つの折れ線と1926~7年附近で交差します。株価の上昇を示す線です。
これは実業での不振によって行き場を失いつつあった資金が株式投機に流れ込み始めたことを意味しています。本業の不振と連邦銀行の低金利・緩和策によって余った資金が設備投資や賃金改定にまわれることなく、土地や株式などの投機にまわされたことを示します。

ここで連邦銀行は痛恨のミスを犯します。低金利で融資した資金が投機に回っていることを嫌い公定歩合を引き上げる高金利政策に転じたのです。これは消費者にはローン金利が上昇したことに他ならず、落ち込み気味の購買意欲をさらに落としました。多額の資金を運用する人々はリスクの大きい海外での資金運用より国内での運用を有利だと考えまはじめます。海外への投資熱が下がり、さらには海外投資家の資金すらが高利のアメリカに引き寄せられます。日本の財閥系大銀行もアメリカでの資金運用を円滑にするため金解禁を求めた側面があります。賠償金支払いや復興資金など各国で必要とされるべき資金がアメリカでの投資ゲームに投下されました。アメリカでの資金の過剰が、他の国々での資金不足を作りはじめました。
さらにわずかな資金でも投機という「ゲーム」に参加できる信用取引という手法が生まれ、「参加者」を一挙にふやします。ウォールストリート界隈では、靴磨きやメイドなども一攫千金をめざしたといわれています。
その一方で、そのルールは未整備でした。現在ではインサイダー取引として厳罰に処せられるような野放図な株価操作・投機が横行し、株価は乱高下を繰り返しました。企業業績とは無関係に株価が乱高下し市場のストレスがたまっていきます。にもかかわらず一攫千金をめざすひとびとが続々と参加、株式市場は熱狂の色を濃くしていきました。
しかし投機ブームへの熱狂の裏で本業の不振は隠しがたい状態となっていきます。1929年9月になるといくつかの企業の業績は明らかな変調を来し、人員削減などの合理化も始まりました。
そしてこうした矛盾が一挙に爆発した、これが株価大暴落でした。

荒廃したヨーロッパと賠償金問題

1920年代、ヨーロッパは戦争の被害からなかなか立ち直れませんでした。イギリスなどの戦死者は第二次大戦後をはるかに上回っています。戦場となったフランスやベルギーなどでは荒廃した国土の復興が当面の課題でした。

『岩波講座世界歴史28』(1971)P92-93より作成

経済面でいうと、それまで培ってきた海外市場をアメリカや日本などに渡してしまいました。民族資本も成長させました。さらにロシア革命によってロシア市場が消滅しました。イギリスでいえば、綿工業を示す原綿消費率も、石炭生産量も、もはや戦前の水準を超えることはなくなります。鋼鉄も戦前水準を上下しています。

上記『世界歴史28』

イギリスは物的損害は少なかったとはいえ、多くの人間を失い、戦費調達のため対外投資の1/4を売却、さらに大量の負債を抱え、国民には重税が課せられました。輸出産業も不振となり、つねに10%台の失業者を抱えるという構造的不況がつづきました。
こうした状態であるにもかかわらず、1925年戦前レートでの金本位制度復帰を実施します。覇権国家であったとのプライドからくるものでした。この結果、輸出産業にはさらなる打撃を与え、経済復興を遅らせました。労働運動も活発化します。(グラフ中、1921年26年の落ち込みは石炭ストによるものです)。イギリス経済が戦前の水準に回復したのは1928年、15年かかりました。
他方、フランスは、ドイツからアルザス=ロレーヌ地方を奪回、さらに多額の賠償金を得たため、はやくも1923年には戦前の経済水準に復帰しました。さらには通貨をつぎつぎと金に交換、準備金を蓄積、1928年金解禁にふみきりますが、実勢価格で解禁したため金の流出も起こらず、デフレ効果によるダメージもなく、最も遅くまで金本位制を維持し続けました。
もっとも深刻な状態であったのはドイツです。敗戦、ドイツ革命という政治的混乱に加え、天文学的数字ともいわれる巨額の賠償金を課されます。1923年には賠償金の支払いをめぐってフランス・ベルギー両軍がルールを占領、その対抗手段としてのゼネラルストライキ(「消極的な抵抗」)という手段で応じたため、ドイツ経済は破壊され、ハイパーインフレが発生しました。1920年代前半、ヨーロッパ経済の台風の目はドイツでした。

1920年代のアメリカ資金の流れ(浜島書店「アカデミア世界史」P262)

こうしたドイツに手を差し伸べたのがアメリカです。アメリカは英仏などに働きかけて賠償金額を減額させるとともに、ドイツにアメリカ資金を大量の導入すること(ドーズ案)でドイツの混乱をおさめました。
その結果、大量のアメリカ資金がドイツに融資され、その資金の一部が賠償金としてフランスやイギリスに流れ、アメリカへの債務も支払われる。こうした資金の流れによってアメリカはさらなる利益を得ました。
アメリカ資金の流入によって危機を脱したドイツは1兆マルクを1マルクにするというデノミを実施、さらに金解禁を実施して貨幣を安定化、各国の信頼をとりつけました。ドイツの危機は去り、1927年には戦前の水準を回復します。ヨーロッパ情勢は安定に向かっていました。とはいえ、ヨーロッパ諸国の復興はアメリカ資金頼みのところがあったのですが。

国際協調の発展と「内向きのアメリカ」

アメリカのもう一つの懸念も解決に向かいつつありました。第一次大戦において力を伸ばした国はもう一カ国ありました。日本です。日本はヨーロッパ諸国が戦争で手を離せない隙をねらって、中国への強引な進出をはかり、さらに革命干渉戦争に乗じてシベリア進出もはかりました。その日本では大戦景気で得た資金を元手にアメリカを仮想敵として海軍力拡大をすすめ、太平洋地域においてはアメリカを凌駕する海軍力を有するにいたりました。こうした動きを国際協調の枠組みで押さえ込んだのがワシントン会議でした。これをきっかけに軍縮も進みました。これにより、日本もアメリカも、民需を充実させる余裕が生まれました。他方で、特に日本の軍部の不満も高めることになりますが。

アメリカはとくに経済面で「世界の覇者」の自覚が不足していました。これまでの覇権国家イギリスは国際収支の黒字分を海外投資という形で再配分することで、資金(「金(ゴールド)」)のイギリス偏在を避けていました。イギリスは世界と結びつくことでしか覇権を維持できなかったからです。これが大戦前の金本位制が成り立っていた隠された一面でした。
ところが新たな覇権国家アメリカはそうはいきません。アメリカは世界とのむすびつきがそれほどなくとも自立しうる国であり、収益を世界に還元することには消極的であり、貿易依存度もそれほど大きくはありません。そのためアメリカは国際金融の黒字を国内に蓄積します。国際経済システム=「金本位制」の維持に寄与する意欲に欠けていました。さらにいえば世界経済をプロデュースしようとせず、自国の事情を優先したのです。
かつての大統領ウィルソンのようなエリートたちは世界に目を向けさせようと努力します。しかし国内の「内向き」世論を説得することは困難でした。民主主義はこうしたリスクももっていますした。

こうして「一人勝ち」のアメリカが覇権国家として十分には責任を果たさない状態で国際的な経済システムが運営されました。金が世界に十分に供給されない状態のまま「金本位制」が世界で採用されたのです
1920年代の後半は、こういった自覚がないまま、国際協調とアメリカ資金に支えられ安定の方向に向かっていました。しかし国際連盟への不参加に象徴的なアメリカの「内向き」志向は、世界でもトラブルをおこしつづけました。

「反動と不寛容のアメリカ」

「内向き」志向・保守主義は、国内にも向かいました。

浜島書店「アカデミア世界史」P264

WASP(白人・イングランド系・プロテスタント)を中心とするアメリカ社会のエリート層は、黒人たちの地位向上を嫌う一方、大量に流入する移民への反発を強めていました。少数派の運動(暴動になることも多かったのですが)は、下層階級を基盤とする労働運動とくに共産主義者の活発化と結びつけて理解され、自分たちの秩序を脅かす存在と考えました。南部では白人による排外主義組織クークラックスクラン(KKK団)が黒人などへのテロ行為を繰り返しました。北部マサチューセッツ州では、無実のイタリア系無政府主義者が死刑に処せられるサッコ・バンゼッティ事件なども発生しました。

アナキストであったイタリア系移民サッコとヴァンゼッティは無実の罪で死刑とされた。

1920年に制定された世紀の悪法「禁酒法」はドイツ系業者のしめだしという側面も持っていました。学校で「進化論」を教えた教師が裁判にかけられる事件も起こります。
繁栄と大衆消費社会のアメリカのもう一つの顔、それは「古き良きアメリカ」を回顧し、それに反すると考えたものを排除しようとする「反動と不寛容」という顔でした。
この時期、「アメリカンドリーム」を求めて、大量の移民がアメリカにやってきました。他方、移民の受け入れを禁止ないし制限しようという動きも強く、移民を国毎に割り当てる「移民制限」などがすすめられます。日系移民の排斥運動の高まりから、日本からの移民は事実上禁止され、日米対立の背景を形成していきます。
入国を拒否された各地から来た移民希望者のなかから絶望し海に身を投げる人々もあらわれました。入国できた者も多くが半失業状態におかれ、やっとありつけた仕事も極端に安い賃金での厳しい労働でした。

都市での狂騒の一方で、農村不況が深刻でした。アメリカでは大戦中の農産物価格高騰を背景に農業の大規模化、機械化をすすめたのですが、ラテンアメリカやアジアでも農業生産が拡大しており、さらに戦争終結後のヨーロッパ諸国は農業保護政策をとったため、輸出が一挙に落ち込みました。こうして世界規模での農産物過剰が発生、農産物価格が下落しました。アメリカでは、大戦時の高値での取引を見込んで借金をして機械化を進めた農民の多くが多額の負債に耐えきれず、土地を失いました。
このように一見好景気に沸いているように見えるアメリカ国内でも貧富の差が拡大、人口の5%が全個人所得の1/3を占めるという不平等状態が生まれていました。 

実は、1920年代、世界がうらやむ優雅な生活を送っていたのは中間層上流以上の人々のみでした。農村や都市の移民の集住地区、黒人街では、全く違った生活があったのです。大量生産された製品も独占価格によって下層の生活をする人たちには高価なものであり続けました。「アメリカの繁栄」は低賃金と半失業状態で苦しむ貧困層とは無縁のものでした。

世界恐慌の本格化と大量の失業者の出現

ガルブレイスらとは違い、自動車王ヘンリーフォードらアメリカのリーダーたちは楽観的でした。「過剰な投機熱が冷めた事による一過性の出来事」として考え、株価大暴落も熱狂した株式市場の調整局面に過ぎないと考えていたのです。フーヴァー大統領も「仕方ない」「天罰だ」とくらいに考えていたのでしょう。
そして同じ認識を持っていたのが、当時の大蔵大臣井上準之助ら日本の政治家・官僚たちでした。というより、これがながく続き、ついには戦争への道を開くと考えた人は世界中探してもあまりいなかったかもしれません。バブル崩壊の直後の日本人に似ているかもしれませんね。
しかし、事態は容易ではありませんでした。どのような状態になったのか、数字をもとに見ていきましょう。

浜島書店「アカデミア世界史」p270

アメリカでの工場生産額は1929年の年末までに約2割減、33年3月にはピーク時の4割となります。自動車・鉄鋼など花形産業はほぼ1/5になってしまいます。減産は大量の失業者を生みました。33年には1283万人、全労働者の1/4が失業者となりました。
なお、イギリスでは32年に275万人とアメリカとほぼ同率、ドイツは32年558万人で、率ではアメリカを上回りました。フランスは最悪の36年でも47万人と低い数字で推移します。
なおヨーロッパ諸国の数字は失業保険制度の対象者であり、非対象者を加えるとさらに増加するでしょう。しかし、アメリカと違って、保険給付が行われたため、アメリカほど深刻な事態にはならなかったといえます

貿易の世界的収縮

1930年の後半になって、恐慌はしだいに本格化していきます。世界最大の市場であるアメリカの不調は、世界の貿易構造を破壊しました。
フーヴァー最大の愚策といわれる1930年の関税を引き上げによって不況に悩む世界市場はさらに縮小、アメリカ商品の輸出を困難にすると共に、最も裕福な人が住む最大の市場アメリカが世界から物を買わないという政策は恐慌の輸出という意味をもちました。貿易額はますます縮小、1934年の輸入額は20.4億ドルと、1929年の58.9億ドルの1/3強にまで落ち込みました。

上記『岩波講座28』より作成

アメリカが買わなくなったものの中には、日本からの生糸など絹製品が含まれていました。さらにはアジアやラテンアメリカ諸国の食料や原材料もありました。自動車産業の落ち込みは、マラヤ(現:マレーシア)などでのゴムやスズなどの需要減少をもたらしました。この地域での経済の落ち込みは日本産の綿製品の需要にも影響を与えました。
アメリカにおける大恐慌の開始は、アメリカへの生糸輸出とアジア諸国への綿製品の輸出を二本柱とする日本の貿易に大きな影響を与えました。

東南アジアへの波及

武田晴人『日本経済史』P242

多くの地域が欧米列強の植民地であった東南アジアの様子を見てみましょう。
世界商品としての一次産品輸出に特化させられていた東南アジアの貿易は1929年から32年の四年間、価格ベースで65%近くも落ち込みました。輸出価額でみても、英米両国向けは60%以上の大幅な減少を示しています。世界貿易にしめる東南アジアのシェアも4.1%から3.7%に減少しました。世界恐慌は東南アジアにも輸出されました。ところが、この間、日本はわずかにこの地域での輸出をのばしています。この地への恐慌は、欧米産よりも安価な日本製の綿布にシフトしたためと考えられています。
さらに、31年末の金輸出再禁止による円安は、日本製品の価格を半額近くにまで引き下げ、輸出を急伸させ、シェアを奪います。この結果、東南アジア最大の綿布市場・蘭領東インドでの日本製綿布のシェアは41%から84%と2倍強に増やし、逆にオランダは28%から5%、イギリスは20%から3%へと、壊滅的な打撃を受けます。恐慌で苦しむ欧米諸国をさらに苦しめる結果となりました。こうしたことが国際的な摩擦・対立を強め、ブロック経済、保護主義の流れを生みだしていきます。
(この項、清水元「東南アジアと日本」(岩波講座『東南アジア史第6巻』2001所収)等参照)

ヨーロッパへの波及と世界金融恐慌

恐慌はヨーロッパにも飛び火しました。しかし恐慌が深刻化したのは1931年になってからです。
アメリカは、世界最大の市場であり、最大の金保有国で、債権国でした。そのアメリカが「内向き」志向を強め、恐慌前から、ヨーロッパなどへの海外資金供給を減らす傾向を強めており、恐慌が本格化すると海外資金の引き上げも始めました。

1930年のアメリカの関税の引き上げは貿易を困難にしました
こうしたアメリカのやり方は、とくにアメリカ資金への依存によって賠償金問題を切り抜け産業復興を進めてきたドイツにとって致命的な政策でした。ドイツの賠償金はイギリスやフランスに支払われ、その経済を支えるとともにアメリカへの債務返済にも流れていました。こうした循環がたちきられました。ヨーロッパ経済は貧血状態に陥りました。
それに追い打ちをかけたのが農業恐慌でした。
さきにみたように、第一次大戦と、保護政策にまもられた復興は、世界的規模での農作物の供給過剰を生み出していました。そこに1930年ソ連が大量の小麦を放出したのです。農産物価格は世界的規模で暴落します。こうした事態は、農業以外に主要な産業を持たない国々を直撃します。ヨーロッパでいえば東ヨーロッパ諸国です。その結果、この地域の農業関連に大量の資金を買い付けていたオーストリアの大銀行(クレディット・アンシュタルト)が1931年5月に破綻、東欧そしてドイツで取り付け騒ぎが発生します。しかもこの銀行への出資額の半数以上がイギリスやアメリカなど欧米先進国の銀行からのものであったため、影響は一挙に全ヨーロッパに広がります。

とくに深刻なのが賠償金問題を抱えたドイツでした。6月ドイツ首相は「賠償支払いの限界に達した」と言明しました。
これにたいし、アメリカのフーヴァー大統領は国際債務の支払いを一年間猶予するというフーヴァーモラトリアムを提案、7月になってやっと合意が成立しました。しかし時すでに遅く、ドイツ第二位の銀行も破綻、ドイツは外国資金を封鎖、金本位制から離脱しました。こうして恐慌はヨーロッパにおける金融恐慌の色彩を強め、金本位制の解体プログラムを進行させていきます。
こうした事態を受け、資金を求める人々はイギリスに殺到、イングランド銀行は資金を金正貨で支払うことを求められ、政府は9月21日金での支払いを停止し、あわせてポンドの切り下げを実施します。こうしてイギリスは金本位制から離脱、イギリス連邦諸国や北欧各国なども追従しました。金本位制の「祖国」でのこうした事態を受け、その崩壊は時間の問題と考えられ、日本、アメリカの動向に注目が集まり、金の流出が進みました。

金解禁を支持していたはずの財閥系銀行が円を売り、ドル(金)を手に入れた。

日本で「金(ドル)買い」の中心となったのは、財閥系銀行でした。かれらは日本の金解禁再禁止をみこんで大量の円売りドル(金)買いをおこないます。大量の金が流出、対抗手段として公定歩合引き上げがおこなわれ、国民生活はさらに困窮、財閥への非難の声が殺到しました。「国際金融をポンドにより決済していたため決済資金に困った」との関係者の弁明がありますが、会計上の疑義から信じがたいとの声もあります。

金本位制度の崩壊

さてアメリカです。各国は金の不足部分を、ドルの売却によってアメリカでの預金を解約し、金の購入にまわしました。こうして大量の金が流出、アメリカも公定歩合引き上げに踏み切り、同様に恐慌をいっそう深刻化させました。しかし、金がもっとも潤沢に準備されていたのがアメリカでした。
林敏彦は「大恐慌の底での金融引き締めは狂気の沙汰である」と指摘します。なぜなら「アメリカは依然として世界の金の四割を保有する最大の金保有国であり、アメリカの金融市場ではアメリカの債券は確固たる信認を得ていた」のだから。(『大恐慌下のアメリカ』岩波書店1988)

金本位制をめぐる年表

深刻な金融危機はアメリカにも波及、最初は地方の小規模な銀行であったのが、しだいに大都市の大銀行にも波及、1932年になると全米各地で銀行の一時閉鎖があいつぎます。
そうしたなか、1932年3月大統領に就任したF=ローズヴェルトは大統領就任と共に全米の銀行の一次停止を命じ、ついで金本位制離脱のプログラムを進めます。残ったフランス・イタリアも36年10月に管理通貨制に移行、金本位制は完全に崩壊しました。

保護主義の台頭~高橋財政と「ブロック経済」

「国際協調」という合意を含んで成立していた「金本位制」の崩壊と、管理通貨制度の導入は国際協調よりも各国が自国第一主義の方向にハンドルを切ったことを意味しています。
必要なことは、国際的な会議などによる世界レベルでの利害調整でした。そうした動きはあったものの、ローズヴェルトの「国内物価安定」をめざす消極姿勢によって失敗、各国は自国優先の姿勢を一気にすすめます。
自国優先の姿勢は、1930年アメリカの関税引き上げにみることができます。なお金本位制からの離脱自体が為替低下による貿易拡大という自国経済保護の性格を持っていました早く離脱すれば通貨安を生じ、輸出に有利に働きます。
これを最も露骨に用いたのが日本・高橋財政でした。日本は1931年12月の金解禁再禁止(金本位制の離脱)と同時に赤字国債の大量発行と日銀に買い取らせる手法で通貨量を一挙に増加させ、大幅な円安に誘導します。このことは輸出綿製品価格を半額に近くまで引き下げます。圧倒的な安さを武器に日本製品はアジアを中心に世界に進出していきます。このことは恐慌で苦しむ他の列強諸国が自らの市場を奪われることに他なりませんでした。そこで、それに対抗すべく各国とも自国優先の保護主義の動きを強めます。

ブロック経済の形成 浜島書店「アカデミア世界史」P271

イギリスはイギリス連邦を中心として高関税障壁を建設することで自国の市場を守るポンド経済圏(スターリング=ブロック)を結成、フランスなども同様の政策をとります。こうしたブロック経済は植民地や勢力圏を自国の独占市場とし、他国の製品の流入を妨害するものあり、世界市場を狭め、列強間の経済的利害対立を激化させます。日本も植民地と「満州国」さらには中国華北地方までも組み込んだ円ブロックの形成をめざす動きをすすめるようになります。恐慌は「国際協調」から「国益をめぐる抗争」という事態を招くことになりました。

ファシズムとニューディール

大恐慌下の世界 浜島書店『世界史詳覧』P252

恐慌は過激な主張と行動を「元気」づけます。恐慌のなか1931年9月満州事変が発生、金解禁と国際協調をすすめてきた民政党内閣が崩壊、犬養内閣の下で軍事予算が急増、その犬養も515事件で殺害されます。日本にはテロが横行、人々の自由は失われていきます。
ドイツにおいても、33年1月「人種主義」と「ユダヤ人絶滅」を主張するヒトラー内閣が成立、3月には全権委任法で独裁者としての地位をたかめます。そして経済復興を旗印に国民の支持を拡大していきます。
そしてファシズム勢力が強調したのは、ブロック経済にみられる「持てる国」による国際秩序への対抗心でした。こうして世界は戦争へと進んでいきます。

フランクリン=ローズヴェルト米大統領  かれは「炉辺談話」と称し、ラジオで直接国民に語りかけた。

一方で、アメリカでは1932年の選挙で、民主党のF=ローズヴェルトが現大統領フーヴァーに圧倒的な差で破り当選します。しかし、それから米大統領就任までの期間、事態はいっそう悪化しました。大統領となった彼は、フーヴァーの要望事項を拒否、全国規模での銀行の一時閉鎖、4月の金輸出禁止令によって金本位制から離脱、ドル切り下げへと舵を切ります。さらに農業や工業における生産調整、公共事業による雇用の確保など財政出動によって雇用確保をめざす修正資本主義的な手法によって景気回復をめざすニューディール(「新規まき直し」)政策をすすめていきます。

<講座「経済史で見る日本近代」メニューとリンク>

1:経済史研究の原点~講座派の遺産
2:日本経済の「三本柱」と大戦景気
3:生産額のランキングからみた1920年代
4:金融恐慌と戦前社会の変化
5:金解禁断行と昭和恐慌の発生
6:世界恐慌の発生
7:昭和恐慌下の日本
8:昭和恐慌からの脱出と高橋財政の功罪(NEW)
9:総動員体制の成立(「戦時下の社会」より)

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