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特講・琉球・沖縄の歴史 第2回
「琉球処分」と琉球・沖縄の近代
<特講:琉球・沖縄の歴史> |
おはようございます。今日は「琉球沖縄史」の二回目になります。沖縄の近代史の出発点となった「琉球処分」を中心に、王国時代末期の社会のようすにも触れながら話を進めたいと思います。
「小説琉球処分」
現役時代、意外と時間がとれたのが年末休み前後で、よく沖縄旅行にも行きました。そして那覇で大城立裕さんが書いた「小説琉球処分」という本を買いました。
ひどいやり方で琉球王国で編入したのだから、沖縄の人たちは明治政府側に厳しい書き方をしているのだろうと勝手に思っていたのですが、さにあらず、その筆は、頑迷に王国の維持を図ろうとしている人達にきびしく、日本に協力した「裏切り者」と指弾されそうな人たちにやさしい視線が向けられていました。非常に興味深く、おかげで、旅行は読書中心になってしまいました。
それ以来「琉球処分」をどう考えるかが気がかりになりました。定年後、大学で学ぶ中で、この問いは朝鮮併合や台湾の植民地化さらには東アジアにおける近代を考えるキーにもなるのではと考えるようになりました。
この本にも触れながら、「琉球処分」(研究者は「沖縄における廃藩置県」「廃琉置県」、近年は「琉球併合」といういい方をします)を中心に琉球沖縄の近代について見ていきたいと思います。
「日清両属」の実態
明治初年の日本が、沖縄をなぜ日本領としたのか、その背景には日本が先頭を切ってこれまでの東アジアの国際秩序を捨てて欧米中心のグローバルスタンダードに乗り換えたことがあります。
長く東アジア世界を支配していた国際秩序(「華夷秩序」)は中国を中心とし、周辺になるにしたがってその影響力を減じていく形であり、属国も中国の支配を形式的に認めつつ、実際の外交や政治は自主性を保っていました。第一の属国が朝鮮で、第二が琉球王国です。建前は属国ですが、実際は皇帝が国王を形式的に任命し、中国の暦を使用する・できるという形式的なものでした。同時に有利な条件での交易が許され、安全保障にもつながる、琉球王国のような小国にはありがたいものでした。(この点は朝鮮とはかなり違いがあります)
ところが琉球には別の「主人」もありました。1609年、琉球王国は薩摩「藩」に敗れ、属国(こちらは「植民地」という方が近いかもしれません)にされたのです。こちらの「属国」は実質的です。薩摩は検地を実施して石高制を導入、それに基づき年貢の納入を命じました。王国の内治や外交にも口をだし、反抗的な人物の処罰を要求し、国王の任命はもちろん、幕末なると三司官など役人の任免にすら口を出しました。鷹揚な主人の清と、箸の上げ下ろしにまで口を出すウザい主人の薩摩、こういう図式が出来ると思います。(同じ日本でも、幕府の琉球への態度は清に近い面もあり、かなりニュアンスも違いました)
こうした「ウザい」薩摩にも弱点がありました。薩摩は琉球支配を中国(「清」)に知られたくなかったのです。もしばれて清と琉球の関係が途切れれば、交易による利益(実際には「赤字」になっていたのですが)も得られないし、情報も入らない。幕府から怒られるかもしれない。ですから極力この関係を隠そうとしました。実際、中国から冊封使がくると那覇にあった薩摩の役所は「店じまい」をし、役人は姿を隠して監視しました。琉球の人達の風俗が「ヤマト」化することも禁止していました。
だから琉球王国側としては中国との関係などを口実に薩摩側に対応することが可能でした。こうした抵抗の手段を「琉球処分」でも用います。「中国・清と日本・薩摩は『両親』のようなものだから一方だけには出来ない」という理屈で。
琉球は、日本(薩摩)と清に両属したとはいうものの、私たちが考えるような属国ではありません。清と日本(徳川幕府)それぞれの宗主国が「華夷秩序」のルールである内政(さらには外交も)不干渉の政策をとって自主性を認める独立国の性格の強い「属国」であるが、日本の一諸侯である薩摩による経済的・政治的介入を受ける半「植民地」(「付庸国」)でもあるという複雑なものでした。
「華夷秩序」と「万国公法」体制へ
19世紀、欧米諸国が東アジアにやってくることをきっかけに東アジアの国際秩序は一変します。
欧米諸国では宗教戦争などの苦しい経験を経るなかで、国家というものは国境できっちりと区切られ、内部では国家は土地人民に100%の権限をもち、外部では一切権力を行使できないという風に整理されていきます。こうした国家のあり方を主権国家といいます。そして主権国家間は互いに内政不干渉を貫くことで対等平等な国家が共存できる、それがあるべき国際秩序と考えました。こうした国際秩序を主権国家体制といいます。現在の世界のルールもこれが基本になっています。(現在の世界秩序は、この原則から、なぜ・どのように離れていったのかを考えることが出発点となります)しかしこれが「文明国」のグローバルスタンダードであり、世界中が守るべきルール「万国公法」だといわれると話はややこしくなりますね。
すくなくとも東アジアのルールとは異なります。「そんなもん認められるか!」との声がでそうです。そうした反発に欧米側はどう答えそうですか?・・
欧米諸国は「世界の常識すらわきまえていない『未開』人め。かわいそうだから『文明』を教えてやる!」といった理屈で返してきます。彼らが支配者のいない「未開」と判断した地域は「無主地」と見なされて植民地の対象とされ、すでに何らかの政治権力があると考えた地域も「『文明』化が不十分なので対等な関係を築けない!」として不平等条約をおしつけました。ちなみに、中国・日本、そして琉球王国も、当面は後者に分類されました。
こうした一方的な論理にもとづく植民地化や半植民地化を「聖なる使命」として合理化したのです。その背景には、キリスト教という『文明』の宗教を広げていくという十字軍的使命も見え隠れしています。
アヘン戦争の敗北と日本
1842年、東アジアにおいて衝撃的な出来事がおこりました。分かりますか?・・・世界の中心の文明国、中国・清が「夷狄いてき」(野蛮人!)であるはずのイギリスに惨敗しました。アヘン戦争(1840~42)です。清は、この事実を華夷秩序の枠に押し込むべく理屈を付けごまかそうとしました。(魯迅は『阿Q正伝』の中で、こうした「中国」の姿を阿Qの愚行として戯画化しました)しかし、国内ではともかく、周辺諸国とくに日本では中国を上回る「文明」「武」が存在することを感じることになりました。
そして1853年そうした「文明」「武」の代表ともいえるアメリカのペリーが琉球沖縄、さらには小笠原諸島を経由して日本にやってきました。
なんのかんのといっても江戸時代の日本は軍人(「武士」)の国でした。「このままでは勝てない」という軍人の現実主義からくる危機感、「どうしたら彼らと対等に近づけるか」との問いかけが、「『皇国』日本を守らねば」とのナショナリズムと融合し、幕末の政局をつくり出しました。「皇国日本」を守るには、欧米の軍備や科学技術のみならずその理念も受け入れなければならないとの考えが受け入れられ、あっさりと、これまでの理念から離れはじめます。
この点では「勝敗よりも正義を貫くことが大切」という朱子学的・理想主義的倫理が先行した朝鮮と好対照を示しています。文中で述べた「武威の国」としての軍事的リアリズムは蘭学などとの出会いや朱子学などの自己革新の中から生まれた客観的に自他の力量を比較しようとする現実主義によって支えられました。しかし狂信的・原理主義的にはしりがちな朱子学的倫理観と手切れしたわけでもありません。日本で朱子学が定着したのは明治以降ということもいえそうです。両者融合したところに日本の近代の出発点があり、前者が後者に屈服させられたところにに敗戦の悲劇がありました。そのつけを最も多く払わされたのが琉球王国の子孫たちでした。
日本は得意の変わり身の早さを見せました。したがうべき「文明」の対象を「中華」から「欧米」へとスライドさせ、国際関係の見方も欧米流の主権国家体制=「万国公法」体制へと変更します。そして「万国公法」という欧米のルールをいち早く採用した日本が、東アジア世界における華夷秩序の破壊と万国公法体制移行を主導します。この過程を「東アジアの近代」と捉えることができるかもしれませんね。
華夷秩序と主権国家体制の奇妙な融合
奇妙なことに「万国公法」体制を採用して、東アジアの国際秩序=華夷秩序破壊の尖兵となった日本は、他方で「琉球処分」・北海道の開発という形での「アイヌ民族」迫害、さらに台湾・朝鮮への支配拡大という「帝国」形成の中で、否定したはずの「華夷思想」を日本=天皇制を中心に再編成して、アジアへ世界へと広げていこうとしました。そして、それは大東亜共栄圏の建設=「八紘一宇」という途方もない誇大妄想のなかで自滅していきます。
他方、「改革開放」路線以後の現代中国も「大国化」の流れの中でやはり戦前の日本同様に主権国家体制と奇妙に融合した「華夷秩序」的な枠組みを強調しつつあるような印象をうけます。あいまいさこそが真骨頂であったはずの華夷秩序の枠組みに主権国家体制的な世界観をもちこんできたのです。華夷秩序のなかにおかれてきた地域(例えば南沙諸島など、さらにいえばチベットや新疆ウイグル自治区も)を、主権国家体制というデジタルな枠組みのなかで位置づけ、領土化し、さらにしようとしています。また中国が進めている「一帯一路」計画などもかつての中華帝国の復活ではないかとの危惧を与えることもあります。
戦前・中の日本や現在の中国では、共存できないしすべきでない二つの原理を強引に融合させることでより危険なものになっていくように見えます。それが東アジアのみならずユーラシア全体の緊張に結びついてきたし結びつくようにもみえます。
琉球処分はこの最悪の融合の第一歩だったのかもしれません。
「万国公法」体制の樹立と「琉球処分」
さて主権国家の最も基本的な要件は何でした?・・・そう「国境で囲まれている」こと。近代国家への第一歩を踏み出した日本も国境線の画定=領土の確定に力を注ぎます。下手をすると本来の領土すら植民地の対象とされかねないのですから。こうして新政府は欧米諸国との間で精力的に交渉を進め、北方では千島樺太交換条約(1875)締結、南方では小笠原諸島の領有(1876)、こうして国境線を確定していきます。最大の難問は南西諸島方面でした。日清両属の琉球王国があったからです。ここに琉球処分につながる一連の動きが生じます。
さて琉球王国を日本領とするにはどのような手続きが必要でしょうか。
まず琉球王国に新たな国家体制のもとでも日本の「属国」であることを認めさせること。これが第一。
つぎに清をのぞく世界の承認、琉球王国は幕末にいったん独立国家(主権国家)としてアメリカやオランダ・フランスとの間で和親条約を結びました。琉球王国が日本の一部であることを承認されるためには、外交権を日本が回収し、琉球王国は主権国家ではないことを各国に認めさせ、条約を無効にする必要があります。これが第二。
新しいルール(主権国家体制)において「両属」ということはありえません。日本統治を認めることは中国・清との関係を断つことです。これを王国に呑ませることが第三。清にも承諾させることが第四。四百年にわたる中国(明→清)との間の冊封関係、宗主国と属国という関係の清算を王国と清に呑ませることです。日本と琉球王国、これに清を交えたやりとりが30年近くにわたって続きます。
なお日本国内(左院)では、こうしたやり方ではなく、旧来の華夷秩序に基づき、琉球王国を日清両属とし、日清が連合して欧米諸国と対抗すべきだという意見もありました。
「版籍奉還」と「琉球藩」
1871(明治4)年の廃藩置県で、琉球王国を支配してきた薩摩藩が消滅します。その後、鹿児島県知事のもとにおかれます。王国側はその状態の維持を望んだのですが、その帰属は不安定でした。
日本政府からすれば、まずは琉球王国をあらたな日本国家の枠組みの中に位置づけなければなりません。とはいえ、独立国の性格を強く持つ琉球を他府県同様に扱うことは不可能です。そこで薩摩の「付庸国」から「日本国家の属国」とし、天皇への服属を命ずることにします。
その手法は版籍奉還に準じたようにも見えます。版籍奉還は、各大名家が土地・人民を天皇に「奉還」することで、かつての大名領は「藩」という国家の地方機関に、かつての大名を知藩事という名の国家の役人に、それぞれ変えました。同様に、政府は琉球王国を日本の領土とし、日本の「藩屏( 垣。かこい。守り防ぐための垣根。さらには 王室を守護するもの)」という意味で「琉球藩」と名乗らせ、その地を統治していた琉球国王を日本国の役人である「藩王」に任命し、さらに他の大名と同様に「華族」として位置づけました。(「藩」という言葉については別稿参照)
形式的には華夷秩序における冊封と同じように見えます。近年の研究ではこの時点で維新政府は、冊封に留めようとしたという説が出されています。実際、当時の副島外務卿は王国の政体は永遠に保証すると使節側に語り、安心させています。
しかし、責任者が外務省から内務省にかわり、大久保が中心となる中で、この約束は反古にされ、日本政府はここに実質的な意味(主権国家的手法!)を加えます。事実、狭義の「琉球処分」に際しての勅語は「日本の役人である琉球藩王が天皇の命令を聞かないから、琉球藩を廃止して沖縄県を置く」という論理でした。
「琉球藩」の設置
1872(明治5)年政府は鹿児島県を通して慶賀使に代わる使節の派遣を琉球国王に命じました。政府は彼らに「琉球王国を琉球藩とし、国王も藩王と呼ぶ。そして元大名やお公家さんと同じように華族の一員として扱う」との内容を通告します。使節は反論もしますが、日本政府の代表である外務卿の副島を信じ、受け入れざるをえませんでした。なお、「琉球侵攻で薩摩に奪われた奄美諸島を返してもらえないか」などと虫のいいことも要望しています。しかし、このときの一連の命令は、日本政府の態度豹変により琉球王国の独立国としての性格を奪わえる意味をもたされました。
さらに日本政府はアメリカ公使からの問い合わせを受け、王国の外交権掌握もすすめます。外国とのつきあいは東京で一括して外務省が行う。ついてはアメリカなどと結んだ条約の公文を提出せよとも命じました。王国側はこれも受け入れます。しかし外国側はこうした日本政府のやり方への疑問を持っていたことも明らかになってきています。
先に版籍奉還との類似点をいいました。しかし両者には決定的な違いがあります。版籍奉還は、たとえ形式的とはいえ、薩長土肥の諸大名が申し出、各大名家もつづき、さらに公議所で議論されるなど、ある程度の各大名家の理解の上で実施されます。それに対し、今回は何らの事前の相談も、反論の余地も与えず、さらには事実上ウソの説明で安心させて強要したことです。さらに独立国の色彩の強い「琉球王国」、将軍はともかく天皇の権威からと無関係であったこの国にこの手法を用いるのはどう考えても無理筋でした。
なお、これからあとは琉球藩・藩王という言葉を使うべきかもしれませんが、王国側に実態としての変化はなかったのですから、これからも「王国」「国王」ということばをつかいます。
こうして先に見た「手続き」のうちの第1・第2はさほどの混乱なく実現しました。実際は、日本政府が実際用いた理屈とは異なる説明で王国側を安心させ、王国側もその意味するところを十分には見抜けなかっただけなのですが。
しかし日本政府が、琉球領有を実質化しようとし、さらに琉球と清の関係の断絶を迫るという「手続き」の第3・第4となれば話は別です。激烈な反対が王国内部から巻き起こり、清国側からも厳しいクレームが来ます。
台湾出兵
1871(明治4)年、日清両国は、双方が治外法権を認め合うことで対等平等の関係となるという内容の日清修好条規を締結しました。
しかし、この条約の批准書交換の席上、中国領と考えられていた台湾で起こった悲惨な事件の話が日本側からだされます。沖縄本島から戻ろうとしていた宮古島の使節が台湾に漂着、66人のうち54人が台湾の先住民に殺害された事件です。
日本側の照会に対し、清国は先住民は「化外の民」であり責任はないと返答します。
華夷秩序の論理からすれば属領であっても、自治が認められているのでそこに住む人の行為への責任はありません。ところがこれを新基準つまり「万国公法」で解釈すると話は別です。
領土の一部ならそこに住む人間(「国民」)の行動は国家が責任を負うのが『万国公法』の立場であり、『化外の民』ならかれらのすむ地・台湾も清の統治の及ばない『無主地』とみなします。無主地である台湾で『日本人』たる琉球人が殺害された以上、日本が直接に責任を問うことできるとの理屈が成立します。
さらに清の統治権が及ばない『無主地』なら占領し領有することも可能であるという理屈にもつながります。こうした強引な論理で実施されたのが1874(明治7)年の台湾出兵です。清に何らの通告もなく約3600人の日本軍が台湾に侵攻します。近代日本最初の海外出兵です。その背景には、征韓論争以来くすぶっている政府に不平をもつ士族の圧力があり、西郷従道ら一部の軍人の独断的行動もありました。
ちなみに、この出兵において多くの兵士が風土病で命を失いました。しかし、約二〇年後の台湾攻略戦で、この教訓はまったく生かされませんでした。
台湾を自国の領土と考える清側は当然ながら強く反発、日清戦争すら起こりかねない事態となりました。しかし、他に国際紛争を抱える清国は、イギリスの仲介もあり、強硬な日本の前に妥協、日本の行動を「義挙」として認め、「台湾に住む自国の民が『日本人』を殺害した」という「万国公法」の論理を認める形で見舞金を支払いました。日本側は、殺害された琉球人を「日本人」と認めたと理解し、清が琉球が日本の領土だと認めたと考え第4の課題をクリアできたと考えました。
頑固党と開化党
これをうけ、日本側は琉球処分の第二段階にとりかかります。おりしも征韓論で副島らが政府を去り、琉球王国の担当が内務省へと代わるなか、その方針は、琉球を完全は日本領に組み込むという方方向へと変わっていきます。その中心となったのが松田道之です。1875年、政府はふたたび王国の使節の訪問を命じ、松田も琉球を訪問、次のような方針を伝えます。
①清国との冊封・朝貢関係など中国との関係を断つこと
②中国の暦の使用をやめて日本の暦(「明治」)を使うこと
③琉球藩の制度を他の府県同様に改めること
④軍隊を琉球に派遣するので軍事施設を作ること
⑤改革について研究するための人間を派遣すること
などです。
これにたいし、琉球王国は「先の約束と異なるではないか」「日本と清は両親にあたる存在であり一方だけには出来ない」と激しく反発、これを拒否、東京に嘆願の使節を送る一方、日本側の目を盗んで清に使者を送り、東京でも秘かに中国公使と会うなどの工作を続けました。
清も「このやり方は不当である」と厳しく抗議します。琉球を日本の領土として認めたわけではなかったのです。これに対し、日本側は「その抗議の仕方は無礼である」と逆ギレともういうような態度をとり、これを拒否します。
その後、日本政府は方針の受け入れを求めますが、王国政府は「清側の対応をまっている」「国王の病気」など「伝統的」ともいえる引き延ばし策をつづけます。その間、日本政府は清との往来を「私交」として禁止、那覇に軍隊の施設を作り、鎮台兵をおくりこんできます。
王国政府内では、清が日本の要求を拒んでくれるとの期待をもちつづける人が多数を占めていました。そうすれば今まで通りの統治が続けられるからです。こうした考えの人は「頑固党」と呼ばれました。しかしこうしたやり方には無理があると考え、日本の要求を受け入れざるを得ないと考える「開化党」といわれる人々も生まれてきました。わずかですが日本への編入を支持し日本側に協力する人々もいました。
廃琉置県の断行
1879(明治12)年、西南戦争の終了によって国内の安定を取り戻した日本政府はついに琉球に対し強硬手段に出ることを決意、再び琉球を訪れた松田は方針の受け入れを強く求めますが、王国側の強い姿勢の前に挫折、いったん東京に引き上げ、今度は数百人の軍隊と約100人の官僚・警察を率いて乗り込んできました。そして国王が言うことを聞かなかったことを理由に、琉球藩の廃止と沖縄県設置を命じます。(勅語ここ)これが狭い意味での「琉球処分」(「琉球併合」「廃琉置県」)です。
国王(「藩王」)は罷免され、「病気」という理由は聞き届けられず東京に移されます。王国の機能は停止され沖縄県に移管されました。
王国のもとで働いていた役人たちは仕事を失い、「秩禄」での生活を余儀なくされます。(ただし王家や上級士族は、他府県の旧藩主一族や士族よりはるかに優遇されます)
他府県では廃藩置県後、旧藩関係者のなかからある程度の藩士たちが地方役人として採用されますが、近代的な行政能力に乏しく他府県出身者との言語におけるコミュニケーションもとりにくい琉球出身者が採用されることはまれであり、高い地位に就くことはほぼ不可能でした。
権力を奪われた旧王国側は旧王家を中心に王国機能を維持しようとして「日本側の命令には従わない」との血判を士族や地方役人から血判を集めて抵抗する姿勢を示し、八重山では日本側に協力的な人物がリンチで殺害される事件も発生しました。しかし旧王国側が地方役人と結んで年貢引き渡しを拒む動きを見せると、県庁側は「まってました」とばかり、関係者を大量に逮捕にふみきり、拷問により屈服させました。これ以降、基本的に沖縄出身者を事実上排除した県政が沖縄戦終了時までつづきます。
脱清救国運動と琉球分割案、日清戦争
他方、頑固党などの士族らは、県庁の目を盗んで清へ渡り、清国政府への介入を要望し続けました。(「脱清救国運動」)
清も無視出来ず、さらに日本側の一方的なやり方に屈して、属国を「奪われる」ことはもう一つの「属国」朝鮮の危機にもつながるとして重要視、かといって各地で列強との火種を抱えるなか、強硬姿勢を取ることも困難でした。そこで清はアジア旅行中のグラント前米大統領に仲介を依頼します。
これをうけグラントが提示した案は宮古・八重山の先島地方を沖縄県から分離し中国領とするでした。琉球のためといってきたはずの日本政府は不思議なことにこれを受諾します。ただし、日清修好条規に中国の内地開放などの条項を付け加える条件で。(これは対等平等であった条約を不平等条約にすることも意味し、列強と同じ立場で清に接するようになろうとしています)
中国側は宮古・八重山の両先島諸島を自国領とし属国としての琉球王国を復活させることで話を収めようとしたのです。しかしそれは琉球を分割することに他なりません。在清琉球人・林世功りんせいこう(名城 春傍)が抗議の自決をしたことは、このやり方が王国のためになると考えていた清朝政府に大きな衝撃を与えました。さらに日本との条約に不平等条約の要素を加えることへの反対もあり、清は調印を保留しました。
日本政府がこの提案に合意したことは、日本が琉球をどのように見ていたかを示すものです。
こののち、日清両国の間では朝鮮をめぐり対立が激化、調印はなされないまま、1894(明治27)年の日清戦争勃発となります。沖縄では、頑固党の流れを引く人たちが清の勝利を願う伝統的な祈りをくりかえす一方、開化派や他府県出身者は日本側の立場にたち中学生たちは清の侵攻に備えた義勇軍を結成しました。
そして、日清戦争の日本の勝利が、琉球王国復活という頑固党の最後の望みをふきとばしました。
この直後、沖縄では開化派が頑固派と協力する形で、旧国王一族の尚家を県知事として世襲するように請願する公同会運動が起こしました。しかし、請願が却下されると、琉球の自治を回復しようという運動は姿を消し、日本国民としての権利を拡大する動きが中心となりました。
「小説・琉球処分」が描こうとしたもの
「小説・琉球処分」は琉球処分の一連の流れを、日本が体現する「文明」「近代」へのあこがれを持ちつつ、強硬な日本の姿勢と頑迷固陋な「頑固派」の間で搖れる与那原良朝(父は開化派の三司官与那原親方良傑)と亀川盛棟(毛有慶・祖父は「頑固派」のリーダー亀川親方盛武・実在)と彼らの友人で密偵として活躍した下級士族の大湾朝功(実在)の三人の若者を中心に、やはり密偵となった仲吉良春(下級士族・百姓の立場を理解する人物として描かれます)、薩摩の仮屋(役所)を解雇された憤懣を日本側にぶつける下級士族・佐久田元喜、この事態を利用して利益の拡大をめざす薩摩商人らの動きも交え、琉球処分当時の様子を史実を踏まえ描き出そうとします。
作者大城立裕は、日本政府の強行姿勢に苦しみつつ受け入れざるを得ず苦悩する開化派のひとたちと、体制維持に汲々とし「清」をまちつつ姑息な手段で時間稼ぎしようとする「民族主義者」たる「頑固派」を対比して描き、後者には冷ややかな目を向けます。開化派の苦悩はアメリカ占領下において、戦前そして沖縄戦における「日本側の仕打ち」への反発をもちつつ、アメリカとの対抗上「祖国復帰運動」という方向で「日本」に頼らざるを得なかった沖縄の人々の思いにつながるようにも見えます。この作品はアメリカの圧政に対して県民が祖国復帰運動に立ち上がる中で執筆されました。しかし、大城はこの運動には一定の距離感をもっていました。
さらに大城は「琉球を裏切った」と非難を浴びそうな(実際にも浴びたのですが)密偵たちに対して好意的です。かれらには日本側への協力という行為の裏に隠れた王国支配からの解放の願いを反映させました。それは「『祖国(という名のヤマト)』復帰で本当に良いのか」と問いかけつづけていた人々の思いにつながるようにも感じます。
なぜ大城がこういった見方をしたのか、王国末期の社会に目を向けてもう少し見ていくことにします。
王国時代の過酷な農村支配
琉球王国といえば、華麗な美術・工芸に彩られ、武器を捨てた穏やかで平和な時代と思われがちですが、その民衆支配は過酷でした。
国王をとりまく上級の「士(サムレー)」たちは地頭・脇地頭として「間切」(現在の市町村にあたる)や「村」(現在の「字」=自然村落にあたる)からの収益を受け取る権利を持ち、有力農民からなる地方役人と組んで農民に負担を転嫁しつづけていました。
「士(サムレ-)」以外はすべて「百姓」として扱われます。そのうち農村に住む大多数が「田舎百姓」として主に農業に従事し、那覇など都市に住むものは「町百姓」として商工業などに従事しました。「町百姓」は課税されませんでした。身分と職業は一致しておらず、商業や手工業などにも「士」が進出しました。
田舎百姓のなかでも有力農民は地方役人として役職に応じた土地が与えられ、数十年に一回行われる農地交換(「割替」)によって肥沃な土地を手に入れることもでき、献金や功績で「士族」になることも可能でした。
他方、貧しい農民たちは、転居が禁じられ、履き物を履くことや傘を差すことも許されず、支配者階級への絶対服従を強いられました。
王国政府は冷酷でした。年貢の納入が滞ると、支配のあり方・構造には手を触れないまま、新たな役人(「下知役」)をつくることで収奪を強めようとしました。重い負担に応えるため子どもを売るということが慢性化します。小説では、仲吉の許嫁が辻遊郭に娼妓として売られたことになっています。
このような苛政の背景には薩摩の収奪がありました。幕末になると、重い負担金を課すだけでなく、鉄製の粗悪な貨幣を流通させることで利ざやを得(「文替え」)激しいインフレーションを起こしました。王国や上級士族らも何かあればその負担を平民に転嫁するのみでした。
こうした苛斂誅求は王国の植民地ともいえる宮古・八重山など離島ではいっそう過酷であり、この地における定額人頭税の廃止運動は琉球処分後の民衆運動の代表的なものです。
大量の人口の1/4が「士(サムレー)」
琉球王国は人口の1/4以上(27.4%)が「士(サムレー)」身分でした。この数は人口の5~6%とされる江戸期の武士身分の割合とは比べものにならないほど高い割合です。
ただ軍隊が基本的には存在しなかった琉球では「士」に軍人(「武士」)という性質はありません。系図座という役所に提出された家譜に登録されたものをさす身分として整理されていました。朝鮮の両班(ヤンバン)に似ているというべきかもしれませんね。「科(こう)」という科挙を模した採用試験で役人を採用したのですが、実際には王族やかつての領主(「按司(あじ)」など)の流れを引く上級の「士」が高位の役職を独占し、他の者は、たとえ試験でよい成績をとっても席が空くのを待ち続けるしかなく、採用されても多くは下級役人止まりでした。
貧しく、仕事のない「士」も多かったため、18世紀にあらわれた蔡温は「士」に商工業につくことを奨励、商工業者の性格をもつ「士」もおり、那覇や中国系住民の居住地・久米村などには進貢貿易に従事したり運送業などに従事する裕福な「士」もいました。同様に租税を免除されていた那覇の「町百姓」のなかでも同様に裕福なものもいました。
「士」たちは、芸術や細工、芸能、調理などにも進出、とくに生活の厳しい「士」たちは山を切り開き開拓民として働くものもいました。
なお「士」の多くには課税されないという特権があり、その分を残りの3/4の「百姓」、とくに貧しい農民が負担するという構図がありました。
下級の「士」の中には、能力が劣るものが門閥によって高い地位を独占して権力を私物化、頑迷固陋の政治を続けているとの反発も強く、時代の流れの中でさまざまな動きをすることになります。
密偵たちはなぜ、ヤマトに協力したのか
大城が、大湾や仲吉、さらに佐久田たちに割り当てたのはこのような下級の「士」、さらに貧しい農民の思いでした。
リストラに反対し頑固党に接近する佐久田を描く一方、大湾や仲吉らは苛政を終わらせるため日本の統治を望み、信念をもって密偵の仕事を担ったと描いたのです。
琉球王国はしょせん「士」とくに上級の「士」の国であり、ひとびとの苦しい「生活」を犠牲にした国であった。美化されがちな王国とその「民族」主義の実態を大城は厳しく指弾しているようです。しょせんは自分たちの権力や権益を守りたいだけではなかったのではないか。貧しい農民や離島の人々にとって、琉球王国は守るべく「民族」のシンボルではなく、収奪の象徴に他ならないのではないか。と
貧困と差別のなかにおかれ、教育などの機会が与えられない人々が、自分の置かれた立場を自覚することはいつの時代も困難です。近代は、人々を「国民」として組織するために教育を与え、人間の動きを活性化させます。そうした過程は、自らを客観視し差別や抑圧をそれとして認識させるようになります。
沖縄が日本に編入されたことは、教育などの機会を拡大し、自分たちとは異界の地に住む人たち~内地から渡ってきた人々などとのかかわりを増すことになります。そのことで、自分たちのおかれてきた状態を客観視することをささえ、解放をもとめる運動へと踏み出すことを助けます。宮古島での人頭税廃止運動などはその典型といえるでしょう。
「近代」はつねに多義的な性格を持っています。
こうした主題は「小説琉球処分」の続編である「恩讐の日本」のなかで展開されます。
参考までに大城氏の琉球処分についての評価を示しておきます。 歴史としての琉球処分をどう評価するか、ということが歴史学界でも問題になっているが、私は一個の沖縄人として、「単純にいえば「やむを得ないもの」であった、と考えるようになっている。かりに琉球処分が行われなかったとしたら、外患西洋の植民地になり百年来の東南アジアのようになっていたか、内部で経済的に崩壊していたか、どちらかであったろう。それではなぜ今日なお否定的評価を許しているかというと、もっぱら処分後の歴史の責任であるように思われる。(『恩讐の日本』あとがきより) |
「旧慣温存」策
日本に期待をよせた密偵・大湾朝功たちの思いはどうなったのか。実際の状態を見ていきます。
長い時間をかけ、琉球における廃藩置県(狭義の「琉球処分」)が実現、沖縄県となります。逮捕・拷問で屈服させたとはいえ、県内には反発が渦巻いており、サボタージュが続きます。清への密航者(脱清者)も相次ぎ、小説の主人公の一人、「開化党」の亀川盛棟(毛有慶・実在)も清国に向かいました。琉球処分は国際問題であり続けました。
日本=県庁に協力的な人はわずかしかいません。そもそも他府県で用いられている言葉がなかなか通じない実態があります。1945年の米軍の日本進駐以上に厳しい状態であったかもしれません。日本占領の時、天皇をはじめとする旧支配層の協力が不可欠であったように、琉球処分後の沖縄でも旧支配者の動向を配慮せざるを得ませんでした。動き方次第で清の介入もあり得たのです。そこで採用されたのが、地租改正や秩禄処分といった急進的な政策導入をひかえ、王国時代の制度にはできるだけ手をつけないという「旧慣温存」策でした。
この結果、上級士族と地方役人が大きな力を持ち農民たちに重い負担をかけるという王国末期の体制が温存されます。王家や上級士族へ与えられる秩禄は他府県より優遇され、一時金のみしか与えられなかった下級士族と大きなコントラストを示しました。
土地の私有化や税制の変更などの課題は後回しとされ、士族への非課税と農民たちのみへの課税はそのままとなり、その生活向上や士族の整理などはすすみませんでした。いっそうひどくなった面もありました。
大湾らは利用されただけとの感をもったかもしれません。
大湾らの思いは平和憲法をもつ日本への復帰を目指し激しい運動を展開したが、復帰したはずの日本は現在の辺野古への基地建設に見られるように都合よく沖縄・琉球を利用するだけの、そして一方的に犠牲を強要するだけの「ヤマト」でしかなかったという姿とダブって見えてしまいます。
初代知事・鍋島直彬が新たに進めた改革は学校を設置して日本語教育を行うことと産業振興の二つだけでした。いくら学校を作っての生徒が集まらないという状態が続き、困難の連続でした。しかし、少しずつではありますが日本式の教育をうけることで新世代の知識人も生まれはじめました。学校教育を受け、内地留学を果たした人々の中から新たな沖縄のリーダーも生まれてきます。
「大湾」たちの期待を実現してくれそうな知事もいました。
二代目の上杉茂憲です旧米沢藩の藩主であった上杉は県内を丁寧に調査、王国時代以来の問題点に気づきます。上杉は政府への改革を要求しますが、逆に知事を罷免され、改革は中断、旧慣温存策がつづきました。
「改革の開始」とソテツ地獄
「旧慣温存」政策に代わって本格的な改革がはじまったのは日清戦争以後です。1899(明治32)年になってはじめて地租改正にあたる土地整理がはじまり(~1902)、農民たちの土地所有が認められ、租税が免除されていた士族も課税されます。
秩禄処分にあたる「士」族の解体はさらに後になりました。参政権や本土並みの地方制度の実施も大正にはいってからでした。
「広義の琉球処分」が終わり、日本の一部として琉球・沖縄が本格的に歩み出すのは明治末期から大正にはいってからでした。
農村の貧困はこの後も続きます。こうしたなか沖縄の人々が期待を寄せた作物がサトウキビでした。好景気による砂糖価格高騰が農地を次々とサトウキビ畑へとかえていきました。
ところが第一次大戦の終結にともなう不況は砂糖の価格が下落させます。さらに台湾での製糖業の発展が沖縄の農家にダメージを与えました。そして大正末期から昭和初期の恐慌がはじまると、人々は食べるものに事欠き、毒を含むソテツを食べざるを得ない状態となりました。処理が不十分なソテツは多くの農民の健康を損ね、命を奪いました。「ソテツ地獄」とよばれました。農村では身売りが蔓延し、他府県への出稼ぎや海外への移住者が急増しました。しかしそこでは沖縄県人への激しい差別が待っていました。こうした差別は沖縄の人たちに日本人以上に日本人になることを強いました。
そして、こうした「同化」が最も進んだのが「沖縄戦」でした。しかし、こうした沖縄の人たちの思いは裏切られることになります。