版籍奉還・「藩」・「家禄」、そして「あさが来た」

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版籍奉還、「藩」「家禄」「あさが来た」

前近代から近代へ、何が変わったのか?

優れた研究者からは面白い話を聞くことができます。今回も、先生の研究の受け売りです。

現在の講義では、前近代から近代、何が変わったのかという話がされています。
前回までは「名前」が変わったことすでに一部、紹介しました。今回は版籍奉還を中心とする話です。
旧大名家(いわゆる「藩」)が解体することにかかわる大騒動の話です。この話は、かつての朝ドラ「あさが来た」のなかの宮崎あおいの婚家の倒産の話へとつながります。

「版籍奉還」はどのように説明されたのか、してきたのか?

まずは、版籍奉還の辞典による説明を見ます。
でも、こんな風に説明すれば、先生はご機嫌斜めでしょうが・・。

1869年(明治2)6月,諸藩主が土地(版)と人民(籍)を朝廷(天皇)に還納した政治行為および政治過程の称。維新政府による中央集権化の一過程で,〈奉還〉という形式をとりつつ,藩への政府の統制力強化がなされた。戊辰戦争の影響から一部の藩(たとえば姫路藩)には藩を投げ出そうとする動きがあったが,維新政府の首脳(維新官僚)は,それを抑えて,69年1月20日,薩長土肥4藩主の連名による版籍奉還の上表文を朝廷に提出させた。   (世界大百科事典)

私の現役・日本史教師だった頃の説明はこんな感じです。

 新しい政府ができても、なかなか新政府の指導が入らなかった。そこで新政府では、それぞれの『藩』への指導権を強めようと、新しい政権が成立したときに行う封建契約の更新、つまり土地(「版図」)と人民(「戸籍」)をいったん主君に返し再度主君から「封じられる」という儀式を利用しようと考えたんだ。木戸や大久保といった薩長土肥出身のリーダーたちが『藩主』の所に行き、さも再度封じられるかのように説明し、その四『藩主』に、土地(「版」)と人民(「籍」)を天皇に返還する申し入れをしてもらった。「奉還」というのは、前の「大政奉還」のときとおなじ。天皇に「かえしたてまつる」という意味。他の「藩主」たちは我も我もと申し出る。
 ところが、天皇(の名を借りた新政府)は土地・人民を国家のもととし、『藩主』を「知藩事」という役人にし、今までの藩の収入の1割を給料として支払うことにした。藩主も政府の役人になったのだから、天皇・政府の命令を聞く義務があるというわけだ。
 こうして、政府の命令を聞かせやすくなった。しかし、今まで通りの『藩』組織は残り、名前が変わったとはいえこれまでの『藩主』が君臨する。やはりなかなかうまくいかない。勝手なことをする。だから、この制度はつづかず、廃藩置県を行うことになる。

 これは退職直前で、それ以前は「形式的」で「歴史的意味も小さい」といった説明が中心でした。時間がないときは省略もしました。しかし、「授業中継」の本編では、先生の説を色濃く反映するものになっています。

先生による「版籍奉還」の説明

先生は版籍奉還を次のように説明されます。要約すると次のような感じです。

 版籍奉還とは、大名家が廃止され、『藩』が置かれたことです。大名家が領地と人民の支配権を手放したこと。そして、その代償として『家禄』を受け取ったことです。同時に武士たちも支配権を手放し、やはり『家禄』を受け取りました。
 そして、大名が手放した領地に、新しく『藩』といわれる地方行政機関が置かれ、その長官として『知藩事』という役人が置かれ、それまでの大名が就任したのです。
 このことは、武士にとっても奉公の義務がなくなったことを意味します。
武士というのは、主君から「御恩」としての「知行」を与えられ、戦場に行って主君のために討ち死にすることを最上とする「奉公」を果たすものした。しかし、こうした知行(この時代は俸禄をもらう形式が多かったのですが)がなくなることで、このような主従制も廃止されたことになります。
 木戸孝允(桂小五郎)が主君である毛利敬親を説得したとき、敬親が「それなら、これからは、自分と木戸とは主従でなくなるのだな」といい、木戸は首を垂れたまま、何も言えなかったという話も残っています。
 大名や武士が土地・人民の支配権を放棄し、主君との間の主従制を廃止し「知行」を廃止したかわりに、与えられたのが「家禄」です。それまでの知行は、大幅に減額されましたが、「奉公」の義務もなくなりました。長い間続けてきた「奉公」に報いる「年金」のようなものが与えられたと考えればいいでしょう。

 版籍奉還は、難しいいい方をすれば、封建制的所有関係を終わらせたものであり、「武士も手放した」という言い方は、前近代の土地所有関係の重層性を考慮されたものだと勝手に判断しました。(この点は難しくなるので省略)
なお版籍奉還の理由を、「それぞれの大名は、膨大な『赤字』を抱えていた。だから、倒産寸前の企業を手放すようなものであった」と説明されました。
しかし、この点については、やや疑問があります。確かにその側面があり、反対が小さかった背景としてはそれでいいと思うのですが、木戸らが藩主を説得に行ったという点から考えると、やはり政府側が主導権をもって、諸大名の支配地域へ新政府の政策を滲透させるという側面の方が大きいように思います。

「藩」は2年ほどしか存在しなかった!

さて、さきの説明で、あれ、と思った人も多いでしょう。そう「藩」の位置づけです。今度は、先生の本から引用します。

もともと「藩」という言葉は、近世初期どころか、中国の古典にも見られる言葉で、皇帝の周りを固めて守るブロックといった意味です。・・・いずれにせよ、その言葉は、理念的なもので制度として、藩というものが存在したわけではありません。
 ところが嘉永・安政年間(*いわゆる幕末です)になると、大名とその家臣の中には、みずからの領地領民をひっくるめて、「藩」と自称する例が多く現れるようになります。この場合の「藩」は・・・天子(いわゆる朝廷)の周りを固めるもの、という意味です。つまり、大名にとって将軍との主従制的な関係が弱まり、むしろみずからを天子と直結した存在と自覚する考え方が強くなったことの表れです。
  (中略)
 明治二年六月、政府は天皇の名において、全大名を改めて地方官として知藩事に任命し、その旧領を管轄地として預け、公式の藩名を定めました。
(青山忠正「明治維新を読み直す」)

 「藩」という呼び方は、江戸後期になって使われたいい方で、幕府から距離を持とうとした人たちによる自称です。「幕府の家臣」より「天皇の藩屏」を重視した自称、それが「藩」であり、そこに属する武士が「藩士」です。あくまでも、正式名称ではありませんでした。

中略した部分に書かれていたのですが、慶応四年閏四月の「政体書」では、「大名が旧慣にしたがって支配する領地」を「藩」として捉えました。
 版籍奉還は、それを国家が回収し、設置したものが地方組織としての「藩」です。鹿児島藩や山口藩といった名前は、この時付けられたので、これ以前にそういった名前は存在しません。
   ※なお、長く近世史の中心であった山口啓二氏も1971年段階でこの点を指摘しています。
その藩に住んでいる士族は、大名家との主従関係を失い「○○藩貫属士族」とよばれます。略して「藩士」です。
ちなみに、薩摩・島津家の旧領は以後「鹿児島藩」となり、そこに住む武士が略して「鹿児島藩士」となります。山口藩や高知藩も同様です。ですから戊辰戦争のときには「薩摩藩士」と自称する人はいても、「鹿児島藩士」などは存在しようがない、というのが先生の主張です。

なぜ「鹿児島藩士」なのか?

ところが、現在でも、幕末期から「鹿児島藩士」「萩藩士」といった使い方がされます。先生は、それは「孝明天皇紀」や「明治天皇紀」が原因だといいます。
それはイデオロギー的だ」と先生はいいます。こうした明治政府の「公の歴史書」は天皇制=国家権力の立場から描かれているからです。この立場からみれば、彼らは最初から「天皇の藩屏」なのです。「こうした叙述を鵜呑みにするのは歴史学ではない」。先生の毒舌は冴え渡ります。歴史の叙述、とくに国家が編纂した歴史にはこうした価値観が混入しやすい、史料にあたって確認するしかないというのが先生の立場です。

知行が廃止されて「家禄」という年金に変わる

つぎが「家禄」の話です。先生は「維新によって、すべての士族が没落したようにいうのは正しくなく、オーバーである」と主張されます。
先生の説明を記しましょう。

 先に見たように、版籍奉還によってそれまでの収入源であった「知行」が廃止され、変わって「家禄」が与えられます。これは、たしかにそれまでの「知行」から減額され、それだけでやっていくのは困難です。しかし、これは「基礎給付」です。これまでとはちがって公に別の仕事をすることが可能になり、推奨もされます。大久保や木戸らは莫大な「官禄」を、「家禄」とは別に受け取ります。
 当時、士族は約30万人、その家族を含めると約150万人くらいいた、と推測されます。実際の所、その1/3が「公務員」、「藩」や「府・県」あるいは太政官などの官にかかわる仕事に就いたと考えられます。もっとも薄給なのが小学校の先生、武士は基本的に読み書きができるので、仕事を求めやすかったと思います。こうした仕事によって「官禄」と呼ばれる収入をあわせて得ることができました。
 次の1/3は、何らかの形で「起業」します。実際には土地を買って百姓になるという例などが多いですが、商業などで成功したものもいます。
 のこり1/3がうまくいかず、不平士族となりました。こうした人たちが反乱を起こしたりしたのです。
 士族がすべて新政府に反対していたなら、政府は持たなかったでしょう。しかし、そういうことはなく、反対派は限定的でした。ですから、鎮圧可能だったのです。
 旧大名と士族をどのように転職させるかということが、維新史を考える上での「核」になると思います。

 たしかに、士族のかなりの部分が官吏、とくに巡査や教員に転職していったということは確かだと思います。ただ、先生のようにすっぱりと図式的に割り切ることが妥当かどうか、躊躇するところが、偽らざる本音です。「起業」はしたものの大失敗に終わったという人がもっと多かっただろうし、その起業の質も問わねばなりません。幕末の武士の生活困窮状態からみれば、都市雑業層やプロレタリアートなどとして社会の底辺に消えていった士族はもっと多かったのではと考えます。
また運動家としての不平士族は、残りの1/3よりも、上の2/3の中から供給されたのではという気がします。この部分の研究は未着手の部分が多く、このように単純にいえるかどうかは、率直なところ疑問を持ちました。

旧大名家などが積み上げた膨大な借金はどこに消えたのか?

先生の話を続けます。

「家禄」は明治九年八月の金禄公債証書発行条例で、すべて公債(国債)に置き替えられて打ち切られます。(※いわゆる「秩禄処分」)例えば20円の家禄を受け取っていたものは、その10年分の200円分の公債の形式で与えられ、打ち切られます。政府にも資金がありませんので分割払いの形となります。いわば政府が士族に対して、ローンを組んだという形です。最終的には明治三五年までかかりました。

 ここで、先生は面白い話をされました。「このようにして日本では武士たちが持っていた領主権を有償で買い取ったのです。フランス革命やロシア革命とは違う日本の領主権廃止の面白い所です」
こうしたブルジョワ革命との比較から、秩禄処分を捉える見方は非常に面白いと感じました。私が知らなかっただけかもしれませんが。
 さらに面白い話がつづきます。先の大名家が抱えてきた「赤字」の話です。

版籍奉還の原因には、各大名家が持っていた膨大な負債がありました。それは「藩債」に置き替えられ、さらに廃藩置県を経て、国家に付け替えられました。こうしてかつての大名家の負債は消滅します。
では、こうした「債務」はどうなったのでしょうか。それは大蔵省管轄に移り、具体的には大蔵大輔井上馨のもとで処理されます。
井上はこうした膨大な債務をほぼ全額踏み倒します。こうして江戸時代以来の積み上げられてきた大名家(および幕府)の債務をほぼ消し去られ、いったんリセットされます。
こうしたリセットの上で近代国家が作り上げます

「ツケ」は踏み倒された!

重要だと思いましたので、研究書などで裏付けしようとおもいました。

江戸時代中期以来、各大名家は深刻な財政難となっており、大坂などの両替商(有力商人)からいわゆる「大名貸」を受けたり、領内の有力商人や領民から御用金を徴収するなどして、しのいでいました。藩内でのみ流通する紙幣「藩札」の発行は重要な手段でした。
ところが、幕末の混乱と戊辰戦争出兵は各大名家の財政破綻を招きました。このことが、版籍奉還の大きな背景にあったのは、見てきたとおりです。
こうした大名家の負債は、版籍奉還の結果成立した「藩」にもちこまれます。財政の大きな柱であった「藩札」の発行が禁じられ回収・処理が命じられます。秘かに発行されていた贋金の鋳造なども禁止され、藩札・藩債は各藩の責任で償却することが求められました。各「藩」では、「家禄」の減額など厳しい改革により負債の軽減に努めています。
一八七一年、廃藩置県で「藩」は消滅します。先生の話の通り、各藩の債務は、「家禄」とともに、明治政府に移ります。
各藩から引き継いだ債務残高は、藩債7413万円、藩札3909万円、さらに外国にも400万円の借り入れがありました。

 藩債の処理は明治六年三月に方針が決定されました。(新旧公債証書発行条例)。うまくまとめているWikipediaの一文を引用します。落合・富田両氏の文献をもととしています。

新政府は藩債を3種類に分割した。即ち、
①明治元年(1868年)以後の債務については公債を交付しその元金を3年間据え置いた上で年4%の利息を付けて25年賦にて新政府が責任をもって返済する(新公債)、②弘化年間(1844年〜1847年)以後の債務は無利息公債を交付して50年賦で返済する(旧公債)
③そして天保年間以前の債務については江戸幕府が天保14年(1843年)に棄捐令を発令したことを口実に一切これを継承せずに無効とする(事実上の徳政令)というものであった。

藩札は、廃藩時の時価によって政府の紙幣と交換された。藩債のうち外交問題になりえる外債は、すべて現金で償還された。
藩以外の旗本・御家人などの債務は償還対象外とされた。朝敵となった江戸幕府による債務は発生時期を問わずに、外国債分を除いてすべて無効とされた。
また、維新後に新立あるいは再立が認められた朝敵藩の負債は新立・再立以後の負債のみが引き継がれ、それ以前のものは無効とされた。

その結果、届出額の半額以上が無効を宣言されて総額で3486万円(うち、新公債1282万円、旧公債1122万円、少額債務などを理由に現金支払等で処理されたものが1082万円)が新政府の名によって返済されることになった(藩債処分)。新公債は、西南戦争の年を除けば毎年償還され、1896年までに予定通り全額が償還された。旧公債も、予定通り1921年に償還を完了した。

踏み倒し?民事再生に従うスキーム?

つまり天保年間以前の全借金(多くは借り換えを繰り返しているので膨大な金額に上る)、幕府・旗本・御家人関係、さらに「朝敵藩」の借金は「踏み倒し。その他の藩の借金も慶応以前の分は無利息50年賦というスキームです。先の数字が正しいと仮定すると、約4000億円が「踏み倒され」ました。旧公債1120億円も利子なし50年払いだから「踏み倒し」に近いとも評価できそうです。
しかし、幕府も、諸大名も、旗本御家人も倒産したため「民事?再生法」の適用を受けたと考えるなら、別の論点もありそうです。「破綻処理」のスキームのなかで「債務放棄」「支払い延長」「支払い」に分類した。そしてそれをしっかりと履行した。残念ながら、「連鎖倒産」した「銀行」も多数に上った。しかし、非常事態だから仕方がなかったと、おかしくもないといえそうです。
公認会計士さん、弁護士さん、こんなものでいかがでしょうか?

今度は落合弘樹氏の著書を引用します。

江戸中期以降、多くの藩は借入れに頼って藩政を維持してきたが、明治政府は多く見積もっても28パーセントしか引き継いでおらず、最後のツケは貸主に回された。とりわけ解体された旧幕府家臣団の債務はすべて私債とみなされて事実上回収不能となり、江戸の金融を支えてきた札差たちは借り手の旗本・御家人とともに瓦解した。また仙台など「朝敵藩」とされた地域における商人の打撃も計り知れない。さらに、大名貸を行ってきた大阪の両替商も多額の不良債権を抱えることとなる。住友の番頭の広瀬宰平は自叙伝『半世物語』で、維新前における大阪の旧家豪商として三四家の名をあげ、そのうち天王寺屋作兵衛、平野屋五兵衛など二三家が維新の荒波を受けて破産・絶家の災厄に遭遇し、なんとか以前の勢力を保持できたのは住友吉左衛門や鴻池善右衛門、加島屋久左衛門など九家にすぎなかったと回顧している。(「秩禄処分」

 先生はこのように話をまとめられました。

士族に対する補償はなされたのに、町人に対する補償はなされませんでした。大阪を中心とする大商人の犠牲のもとに明治維新がおこなわれたのです。江戸時代がリセットされたのです。
こういった所が実は明治維新の「核」「肝」に当たる部分です。
しかし、両替商の多くは滅亡してしまったので史料が残らず、論証しようがないというのが現実です。もしこうした部分を調べれば非常に面白いと思います。
明治維新をバラ色に描きたい人が多いのですが、こういったシステムの変化こそ、明治維新の最も重要な部分だったのです。

宮崎あおい演じた「はつ」の婚家はなぜ倒産したのか?

NHKドラマ「あさが来た」京都の豪商の娘はつとあさは、それぞれ大阪の豪商の家に嫁ぐが・・・。

数年前、NHKで評判になった朝ドラに「あさが来た」があります。私が勤めていた職場でも、その話題でもりあがりました。
このドラマの二人の主人公である姉妹の嫁ぎ先は対照的な運命をたどります。
波瑠演じる主人公「(白岡)あさ」が嫁いだ「加野屋」は明治初年の混乱の中、あさの活躍もあってなんとか倒産を逃れ、炭鉱業や繊維業など、そして生命保険などに進出していきます。
他方、宮崎あおい演じる「(眉岡)はつ」が嫁いだ「山王寺屋」は明治初年の混乱の中で倒産、はつ一家は路頭に迷う。・・この二つを対照的に描き出すことで、近代の日本の姿を描こうとしていました。
さて、先の引用文の家の名前に注目してください。似た名前の存在に気がつかないでしょうか。「加島屋久左衛門」「天王寺屋作兵衛」。この話は、この時、明暗がわかれた二つの両替商の話をモデルにしていたのです。なにやら、わかりにくかった山王寺屋倒産の背景、犯人は大商人の犠牲の上に江戸時代を切り捨てようとした明治政府だったのです。

<参考文献等>
青山忠正「明治維新を読み直す 同時代の視点から」(2017清文堂)
山口啓二・佐々木潤之介「体系日本史4幕藩体制」(1971日本評論社)
落合弘樹「秩禄処分」(中公新書1999」)
富田俊基「国債の歴史」(東洋経済新報社2006)
松尾正人「廃藩置県」(中公新書1986)
「廃藩置県の研究」(吉川弘文館2001)
Wikipedia「廃藩置県」

※山口啓二は、上記の著書で次のように書いている。
「藩」という公称は、明治元(1968)年に旧幕領に府・県を置き、旧大名領を「藩」とよんでから、廃藩置県までの三年間に存在しただけである。江戸時代の公文書では、「国」「大名」「家」「領」という中世以来の武家用語を踏襲して表現しており、大名を一括してあらわす「万石以上」が慣用されるようになるのは中期以降のことである。大名の小国家を「藩」と指摘によぶことは、中期以降ひろく形容されるようになった漢学的教養のなかで、幕藩体制を中国の封建制になぞらえて、諸大名を幕府の「藩屏」と考えるようになってからであるが、一般に用いられるようになるのは、むしろ幕末に「藩」の自主意識が強まってからであった。(P24~25)

 

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