「朝日新聞」の創刊~マスメディアの発展(2)

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朝日新聞の創刊~マスメディアの発展(2)

Ⅰ、メディアと権力~「朝日新聞」を題材に

(4)「朝日新聞」の発刊~商人の町「大阪」で生まれた「小新聞」

1879(M12)年1月25日、大阪市江戸堀で「小新聞」が発行されました。朝日新聞です。
実際に発行したのは、大阪一の醤油屋木村平八(きむらへいはち)(のぼる)親子です。木村騰が駆け落ち先の東京で新聞にであって興味をもち、大阪に戻り父親に金を出させて始めたのが朝日新聞でした。朝日新聞と命名したのは主筆となった津田貞です。

創 刊:1879年1月25日大阪市江戸堀で創刊。
出資者:木村平八(醤油製造業)・木村騰(平八の子・発案者)
名義上の所有者:村山龍平(西洋雑貨商・平八の共同経営者)

主 筆:津田貞(もと大阪新報主筆)
発刊の趣旨:勧善懲悪の趣旨を以てもっぱら俗人婦女子を教化に導く

父・平八は移り気な息子のことが心配だったのでしょう。知り合いで共同事業もしていたしっかりものの村山龍平(むらやまりょうへい)に頼み込み、名前だけの所有者になってもらい、創刊したのが朝日新聞でした。現在も村山龍平の名で大阪府知事に提出された「新聞紙発行御願」が残っています。そこには「勧善懲悪の趣旨を以て、もっぱら俗人婦女子を教化に導く」との趣旨が記されています。朝日新聞は典型的な小新聞として創刊されました。

朝日新聞学校願 大阪府知事に提出された。

大阪一の醤油屋と売り出し中の若手実業家、「商品」の売り方は心得ています。価格は一部一銭、月決めは国内最安値。歌舞伎役者初代中村鴈治郎に創刊号を配らせるパフォーマンスを行います。そして読者によろこばれる紙面づくりにも力を入れました。

(5)初期の朝日新聞の紙面

朝日新聞創刊号第一面

創刊紙の内容は以下のような内容です

<朝日新聞創刊号 内容>
①「官令」 ②「大阪府官令」
③「雑報」
(総合欄=政治・経済・外電・社会・学芸・娯楽などニュースや読み物 )
      例:天皇皇后御製、芝居評判記、
寿司屋の娘の美談(2面の2/3)

       天満宮発天神宵祭りの記事
落語家の家に入った泥棒の話

       編集長の挨拶
④「寄書」(投書欄)
⑤「相場」
⑥「広告」…薬屋の広告(効能書)

官報などのカタカナは平仮名になおし、漢字にはふりがなをふりました。二面・三面には読み物を充実させ、挿画もあります。
最初の数回は無料紙、そのころは、まだおとなしかったのですが、有料になったころからは軟派記事」とよばれる連載小説などの内容がエスカレートしていきます。「あまりにも変態的で露骨な描写」と問題視される連載小説が掲載され、モデルとされた女性との間で裁判沙汰になりました。
当時の記事は、文字が苦手な数人の「探訪員」が町中とくに花街をうろつき、仕入れてきた内容を記者が聞き取って、面白おかしく脚色するというやり方でした。そのため、誇張が多く信憑性も疑問もおおかったのです。プライバシーなどは考慮されませんでした。こうしたことから、「下品さを嘆かずにはいられない。家族そろって読める新聞にしてほしい」との投書もよせられました。

創刊時の朝日新聞社の社屋

ただこのような「軟派記事」だけではありません。例えばコレラなどの伝染病が流行するとその対策を専門家に聞くといった有益な生活情報も載せられ、商品相場など商人にとって必要な経済情報も充実させました。
多くの小新聞が政治の話題を避けていたのに対し、朝日新聞は第一回の大阪府議会の議事録全文を付録として掲載します。商人たちにとっても政治情報が必要だということも分かっていたのでしょう。政論だけでない客観的な話題提供が必要だということなど、新しい時代の新聞のあり方を営業ベースからも考えたのでしょう。

(6)村山・上野体制の成立

朝日新聞は木村平八らの営業面でのぬかりなさと、紙面の斬新さ、そして価格の安さもあって、順調に販売数をのばし、発刊1年後には大阪でトップの販売数となりました。
他方、社内はゴタゴタ続きでした。実際の創業者である騰(のぼる)は遊興にふけり、有能な主筆・津田貞は小新聞としてのあり方に飽き足らずあらたな「大新聞」も発行、営業重視の木村平八と対立、津田は社員の大半を引き連れての退社します。植字中の鉛板を押し倒して。
さらに退社した津田は朝日新聞の経験を生かした魁(さきがけ)新聞を創刊、急速に販売部数を伸ばします。他方、編集や印刷の担い手の多くを失った朝日新聞は苦境に陥ります。さらに憲法問題にふれた記事によって出版停止が命じられます。これに乗じて魁新聞が部数を伸ばしました。朝日新聞は営業的・財政的にも厳しい情勢がつづき、紙質を落とすなど苦肉の策をとらざるを得ない状態となりました。
朝日新聞をどうするのか、木村平八が頼ったのは再び村山でした。これをうけた村山はこれまでの仕事をすべてやめて知人・上野理一とともに朝日新聞の経営に専念します。こうして「日本の新聞王・村山龍平」が誕生します。以後、長きにわたり村山家と上野家が朝日新聞経営にあたることになります。かわって木村家は完全に手を引きました。

村山龍平について

村山龍平

村山は紀州藩の支藩・田丸藩の士族の出身でしたが、廃藩と共に士族の称号を棄てて平民として大阪に移り商人としての道を歩みます。はじめたのは西洋雑貨商でした。先見の明と誠実な人柄で順調に売り上げを伸ばします。この過程で大阪財界との人間関係を築き、その黒幕・五代友厚らとも親交を結びました。木村平八が朝日新聞をゆだねたのはこうした村山の人柄を識っていたからでした。平八は人を見る目ももっていたのでしょう。
なお、そのころ村山が新らしい商売の舞台として目を付けていたのが朝鮮でした。朝鮮からもどり新事業を立ち上げようとしたところに、朝日新聞の話がもちこまれ、熟考の後、村山はその計画を破棄、事業を売却、新聞業に専念することにしたのです。

(7)「中立新聞」を標榜~政府の資金を得る

朝日新聞が発刊された時期、民権運動が活発化し、古くからの大新聞の多くも政党の系列下にはいり、政府批判をくりかえしていました。
政界に中心にいた山県有朋はこの時期の言論状況を以下のようにみていました。

当時の新聞の様子を記した風刺画。左側には東京日日新聞などの御用新聞の名が、左側には報知新聞など政党系の新聞の名が見える。

新聞や雑誌の報道は、ほぼすべて慷慨(※世間の悪しき風潮や社会の不正などを怒り嘆く)激烈を主とするもので、政府を攻撃し朝廷の名誉を傷つけようとし、無頼のものたちがわれさきにアメリカやフランスの「亡国の書」を読みこれにしたがっています。
民権といい、自由と称して朝廷をあなどり、驕り高ぶって秩序にしたがわないことを誇りとし、邪説を説き、暴行に至らないところはありません。世間の無知な人々はこれに心を動かされ、ついには朝廷の意向や政府の方針もさとらず、慷慨激烈の説に幻惑され、不逞の徒とならないものがいない状態となっています。(山県有朋「官報発行の件」の前半を意訳)

政府は強い危機感をもち、東京日日新聞など御用新聞に資金や情報を与えました。しかし官報が創刊され公的な情報がそちらに集中するとこうした新聞の売れ行きは一挙に低迷しました。
新たに政府が考えたのは議論(「政論」)中心の「大新聞」ではない報道重視の「中立新聞」を育てることでした。その対象が朝日新聞でした。政府と村山たちを結んだのは五代友厚といわれています。
1882(M15)年、資金難にあった村山たちは政府からひそかに資金提供をうけました。その手法は以下のとおりです。

①朝日新聞が三井銀行から資金(1万5000円)を借り入れ、その返済を政府が行う。(毎月500円)
②政府の資金が三井銀行に資金(1万円)を提供、朝日新聞株を購入させる(「小野十作」名義)

この事実は朝日新聞社史にも載っています。ただ、非常に歯切れの悪い言い方ですが。
さらに政府側と朝日新聞側での密約にかかわると考えられる文書の原案らしきものも残っています。○○○○社とは朝日新聞社と考えられます。

<内約>
第1条 ○○○○社はもっぱら政府の趣旨を体認しつとめて官民の調和を図るを目的とすべし
第2条 もし内外の諸新聞に政府の発令または処分の趣旨を誤認し衆疑を扇動するの論説記事を掲載したる時は○○○○社は社説または記事をもってその誤妄を弁駁するをつとむべし
第3条  政府の発令または処分にして○○○○社の意見とまったく相反することあるとき○○○○社はこれを黙過するを得べしといえども反対の意見ある論説記事を掲載することを得ず
第4条 ○○○○社は政事新聞の名を避け、つとめて通俗に近きを要し、この内約を秘密に守るべし(以下、略)
        原文はカタカナ表記、また漢字も適宜かな表記とした。 

政府のねらいは的確だったといえるのでしょう。この時期の新聞(東京のみならず地方紙も含めて)は、政府系(「御用新聞」)対民権派(政党機関紙・政党系新聞)だけでなく政党間さらには政党内部といったさまざまな対立を反映させたものでした。ここに福沢諭吉が始めた独立新聞「時事新報」なども参入、「多事争論」とよばれる状況となっていました。
有山輝雄はつぎのように記します。

有山輝雄「『中立』新聞の形成」世界思想社 (2008)

1882年から1894年にいたる政府の朝日新聞に対する秘密補助と秘密出資は、この時期における「不偏不党」新聞の政治機能を如実に示している。状況において「不偏不党」新聞は、過熱した政治関心を冷却し、「多事争論」を秩序化する機能を果たしていった。とくに、自由民権派の反政府言論に対し「中立を仮粧」する立場から批判を浴びせ、民権派言論の沈静化を促進していったのである。(「『中立』新聞の形成」)

政治の中心東京ではなく実業の町大阪で生まれ、政論でたたかうという「大新聞」の伝統とは異なる「小新聞」としての出自をもち、ビジネスの観点から政治報道を行ってきた朝日新聞は民権派言論とたたかう上での格好の新聞でした。
朝日新聞は、社会変革をすすめるという目的よりもビジネス面に重点がありました。人々が求める紙面をつくることが売り上げにつながるという立場からその政治報道は、東京の大新聞とはおのずとその立ち位置が違っていました。
さらに朝日新聞はライバル紙にせまられ経営危機にありました。
こうして両者の利害は一致しました。
とはいえ、村山社長ら経営陣が先の文書をそのまま受け入れたかは疑問ですが。
政府からの秘密の資金援助は日清戦争直前まで続きました。

(8)東京進出と「中新聞」化

政府資金をうけいれることで危地を脱した朝日新聞は政府の要望も受け入れつつ、報道重視の政治面と小新聞の流れを引く日常的な記事を混在させる「中新聞」という方向を強めます。さらにライバル紙の魁新聞が営業面で失速するとその読者も獲得、1883年には大阪を中心に日本最大の発行部数を誇ることになりました。

東京朝日新聞創刊号

こうして得た資金を手に、村山は東京に乗り込みます。そこで保安条例によって苦境に立っていた自由党系の小新聞「めさまし新聞」(旧名は「自由燈じゆうとう」)を手に入れ、名を東京朝日新聞と変えます。
従来の朝日新聞は大阪朝日新聞となります。
東京朝日新聞の発刊にあたり、村山は名前以外、社員も施設・設備も、通算号数に至るまで「めさまし新聞」を引き継ぎます。紙上でもそのように伝えます。従来の読者が離れることをきらいました。
とはいえ、村山は東京に居をうつし、連日社屋に顔を出し、陣頭指揮をとります。こうして、大阪流のていねいな「営業方針」、速報やビジュアルを重視した「編集方針」が浸透していきました。
他方、知名度不足は他の新聞から有名な記者の引き抜きで補いました。特に重要なのは大新聞「日本」出身の池辺三山を主筆としたことです。池辺を主筆に据えることで、東京朝日新聞は「大新聞」の要素を組み込みます。
この時期の朝日新聞の特徴を整理してみました。

・販売促進…売捌店への働きかけ=値引き・無代紙の提供など 
・広告主を重視 
・印刷部門の充実…最新鋭の輪転機の導入

・著名な言論人の招聘(→「大新聞」的要素の充実)
・政治報道強化=「政論」より「報道」。
「速報性」「わかりやすさ」の重視

・現場主義…特派員派遣による現地取材を重視
・ビジュアル重視…磐梯山の噴火に画家を派遣 
・速報性…電報を用いて「憲法」の全文を号外として流すなど
・新聞小説等文化面の充実(夏目漱石など人気作家の入社) 
・勧善懲悪的わかりやすさ→ナショナリズムと強い親和性も 
池辺三山 東京朝日新聞主筆として朝日新聞発展の基礎をつくった。

実業の町で生まれ、商人(出身は武士だが)である村山龍平率いる朝日新聞は、販売店への丁寧な対応やコスト面の配慮といった営業面で優位に立ち、さらに報道中心でありつつ多様な紙面、斬新なアイデアで新しさでシェアを広げました。
これにたいし、コスト面や販売促進など営業面を苦手とする「士族の商法」である「大新聞」の多くが苦境に立ちます。
さらに、営業に重きを置く朝日新聞は、大新聞のような社論による統一性も重視されず、多様な記事、素早い報道がもとめられます。そのため、社内対立も盛んになったのですが。

(9)社会面の充実と万朝報・二六新報

このころの東京朝日新聞の社会面の売り物のひとつが「軟派記事」でした。「花柳種を中心におもしろおかしく尾ヒレを付けて脚色」した記事、いわば「下ネタ」が「他の追随をゆるさない」というほどの評判で、主筆・池辺三山も社会面には手を出せませんでした。
しかし、部数が増え新聞としての権威が高まると、社会面から軟派記事がなくなり、ハレー彗星の出現といったニュースなどあらわれます。皇室関係の記事、社会・労働問題への関心、来日外国人に聞くといった多様な社会事象が扱われる「家庭の日常品としての新聞記事」が増えました。
当時、東京の新聞で大きな人気があった新聞は、廉価と過激な記事が売り物であった万朝報(よろずちょうほう)二六新報の二紙です。こうした新聞は、政治家や上流階級のスキヤンダルをつかみ、徹底的に調査・報道するといった過激なキャンペーンを展開、社会に不満を持つ人々の支持を得ていました。さらに読書会などで読者と結びついたり、社会運動とも結合した紙面を特徴としました。なお当初、万朝報が幸徳秋水や堺利彦、内村鑑三といった特徴ある記者を擁して日露戦争への非戦論を説いたことは有名です。
朝日新聞もこうした影響を受け「より広い社会性を持ちながら、過度な腐敗暴露には至らぬ程度の刺激をもった社会面記事」が見られるようになります。
政治を社会面で扱う傾向があらわれると、「大新聞」の性格をもつ政治部との対立が表面化しました。

(10)新聞とナショナリズム

朝日新聞は、大新聞にも小新聞にもあきたらない多様性をもった「わかりやすい」紙面を持つ「中新聞」でした。それは産業革命と都市化が始まる中で急速に人口を増しつつある都市新中間層を中心とした人々の多様なニーズに適したものでした。
しかし「わかりやすさ」は、熟議よりも単純化、問題点を追求し熟考された議論よりも大衆意識への迎合といった傾向をもつことにもつながりました。

福沢諭吉「脱亜論」(抄)

当時の社会は、「文明開化」の時代をへて文明国となった、とくに東アジア最初の憲法と議会をもったという自信がさまざまなタイプのナショナリズムを生み出してきました。福沢諭吉が時事新報で示した「脱亜入欧」(日本はアジア諸国という「悪友」と縁を切り、欧米の「文明」に参加すべきという、欧米への憧れとアジアに対する大国意識を示す議論)の考えは、こうした自信を背景に人々の間に浸透し始めました。
それは世界的な帝国主義化と、国内的には資本の原始的蓄積と産業革命が同時進行は、弱肉強食の社会ダーウィニズム的感情を強めていました。

 「脱亜入欧」「弱肉強食」、こうした社会風潮の中での「分かりやすい」記事とはどのような記事となるのでしょうか。

1900年をはさむ三つの戦争(日清戦争・北清事変・日露戦争)で国内のナショナリズムが一挙に広がります。この風潮に棹さすかたちで、朝日新聞など各新聞は発行部数を急速に伸ばしましたナショナリズムをあおる紙面をつくることで。そしてメディアの報道がさらなるナショナリズムをあおりたてました

(3,につづく)
<マスメディアの発展>
1:大新聞と小新聞、期待されるメディア像
2:朝日新聞の創刊、新聞という「商品」
3:白虹事件と「朝日新聞」の敗北
4:「講談社」からみる大衆の国民化~マスメディアの発展
5:「満州事変」とマスメディア
補:吉野作造の朝日新聞社退社<マスメディアの発展>

元高校教師の近現代史の授業と講座を公開します