昭和恐慌下の日本

労働組合のポスター 帝国書院「図説日本史通覧」P268

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昭和恐慌下の日本

 

世界恐慌によって、日本社会はどうなったのでしょうか。

恐慌は、世界に日本に猛烈なデフレーションを引き起こし、それはあいまって悪循環の渦となりました。デフレスパイラルといいます。よく耳にしたことばですね。

デフレスパイラルの模式図(浜島「最新図説政経2015」p205)

ちょうどよいデフレ=スパイラルの模式図を見つけたので掲げておきます。すべて思い当たる内容ばかりですね。
こうした事態、すべて私たちがバブル崩壊後の不景気の中で体験してきたことですね。
こういった事態がソ連を除く世界中で引き起こされました。これが世界恐慌でした。
その結果、日本ではどのようなことがおこったのか、経済学者中村隆英の『昭和恐慌と経済政策』(講談社学術文庫)の第三章「恐慌下の日本」の5つの節の枠組みを利用し、内容の一部も拝借しつつ考えていきたいと思います。

産業の合理化と「国家独占資本主義」化

第一節は産業合理化です。

昭和恐慌に関する経済指標。1929年をもとに指数化。生糸・綿糸価格、株価の落ち込みが目立つ。以後も生糸価格は上昇しない。武田晴人「日本経済史」P242

金解禁に伴う生産力の向上として政府が考えていたのは、テーラーシステム、フォードシステムといった大量生産の技術を、規格の統一・作業時間の短縮化といったドイツ流の合理化とともに導入することでした。ただし、労働時間短縮や高賃金というフォードシステムのもう一つの側面は語らないままですが。

独占資本主義の諸形態(浜島書店「最新政経図説2015年度版)p194

さらに恐慌が深刻化すると、国家主導による独占資本主義化が進行します。古風な言い方では「国家独占資本主義」、すこし前のいい方では「現代国家」化です。
ひとつめは、政府が音頭をとって企業の合併や業種ごとのカルテルの締結をすすめました。1931年の「重要産業統制法」では、生産量の調整などを、競争を排除し価格維持を図ることで価格の下落を防ごうというやり方を国家が主導します。さらに決った独占価格をカルテルに参加していない企業にも適用させます。また企業合併もあいつぎました。財閥企業が非財閥企業を吸収・合併ないしは系列化するというケースが目立ち、財閥ではさまざまな産業分野に系列下の数社をおくという垂直的統合をすすめ、コンツェルン化がすすみました。

中村隆英『昭和恐慌と経済政策』(講談社学術文庫1994)初版は1967年に刊行

しかし産業合理化・生産性向上のもう一つの顔は、余剰人員の洗い出しです。そして作業密度の強化、余剰人員の整理、賃金引き下げがすすみます。中村は「我が国の合理化運動は、人員整理の代名詞であるかのような感を呈したのである」と記します。この本が書かれた1967年の意識では「当時こんなひどいことがおこった」という感覚だったのでしょう。ところが約30年後「合理化」はリストラ(「再構築」)という名にリニューアルされ「クビ切り」の代名詞となります。

農業不振と小作争議

第二節は農村の窮乏です。
まずは、1920年代の農業をみていきます。この時代、農業はすでに日本経済の主役の座をおわれ、不採算な部門となりつつありました
世界的に見てもアメリカやラテンアメリカなどでの第一次大戦中の農業生産力の上昇は、ヨーロッパの農業復興と保護政策などによって「供給過剰」を引き起こし、農産物価格は低迷していました。とくに他に売るべき物をもたない農業地域での困難はいっそう増し、世界恐慌の原因の一つを作っていきました。(実際には買うだけのお金をもつことのできない人々が多かっただけですが・・)
事情は日本も同様です。産業革命とくに大戦景気の開始に始まる都市化という日本社会の激変は、構造的な農産物の需要増を生み出します。それが1918年の米騒動の遠因でした。さらに問題なのは、米騒動に共鳴する全国の声でした。高額小作料に支配された農村の困窮が生産力向上の足かせになっていました
とりあえず、政府は農産物とくに米の供給の拡大のための対策に迫られました。その一つが、植民地である朝鮮・台湾での米作拡大と内地移入でした。
他方、内地の農村では化学肥料の普及など技術の向上もあって生産力も向上、米価も安定しました。都市化の進展にあわせて野菜栽培も広がります。しかし新しい取り組みは農家をいっそう貨幣経済に組み込むことを意味し、よりおおきな借金を背負わせることにもつながっていたこともみておく必要があるでしょう。
とりあえず、米価の上昇という事態は、松方デフレ直前の、自由民権運動がはじまったころの農村に似ているようにも思えます。

小作争議の参加者と要求別件数をグラフ化した。武田のP215の表を元に加工した。前期と後期の小作争議の違いがくっきりと現れている。

そして大戦が終わると、民権運動に似た運動が上層の小作農民(自小作・小自作が中心)から広がります。
大戦中の農産物の高騰の成果が地主に独占された事への反発、戦争終結で高米価という好条件が失われたこと、工業化にともなう農村から都市にむけての人口の大量流出による労働力不足と賃金(「手間賃」)上昇、教育の定着や軍隊体験などから見えてきた自分たちの立場への自覚などが、新たな「民権運動」ともいえる小作争議として爆発します。
小作争議は、西日本などを中心に広がります。各種選挙での普通選挙の導入による地主支配からの解放をめざす動きとも結び、広がりを見せました。労働力需要の高まりを背景に小作地返還といった戦術も現れ、農民側の攻勢の前に小作料の軽減がすすみました。それは一時的なものから恒常的なものへと変わっていきました。
農民の自覚の高まりは地主経営を困難とし、リスクのわりに収益が上がらないものとなっていきました。銀行なども地主経営から撤退していきます。(この間の記述は大門正克氏の研究に学ばせていただきました)

産米増殖運動

植民地での産米増殖運動は、当局の指導もあって、しだいに高規格高品質の米を比較的安価で供給できるようになります。品質の向上にともなって植民地米は、大阪など大都市での競争を制して販路を拡大します。そのことは、小規模中心で機械化や合理化が不十分で規格が不統一な内地米の多くを低品質米と位置づけることでもあり、米価低迷をもたらしました。朝鮮で近代的な米作が定着するのは1930年頃でした。恐慌下の植民地米移入で内地米はいっそう苦しくなり、植民地米の移入を制限すべきとの声が高まります。
なお、朝鮮での米の品質向上は、朝鮮に住む人にとって、朝鮮米を「高嶺の花」にする結果ともなりました。内地で高値で取り扱われる朝鮮米は内地市場に投入されて、朝鮮には残らない状態となり、朝鮮の人から米を奪いました。朝鮮の人の米消費量が激減、かわって中国東北部(「満州」)産のアワやヒエがそれにかわります。(このあたりの事情については「「朝鮮米はうまくて高い! ~「産米増殖計画」異聞」として書いたことがあります。)

昭和恐慌下の農村

農産物価格の推移。繭価の大暴落を筆頭に、農村の苦境を示している。なお繭価の低迷が続く。(帝国書院「図説日本史通覧」P268)

さて、昭和恐慌が本格化した1930年は、残念なことに「豊作」でした。
さらに植民地からの米の大量流入が本格化したのもこの時期です。供給過剰にかかわらず、金解禁によるデフレ政策と世界恐慌による需要の減少が続きました。こうして米価は低下していきます。いわゆる豊作貧乏です。
それまで農家の収入を補う役割をしていたのが養蚕です。この頃には日本の農家の1/4がなんらかの規模で養蚕に携わっていたといいます。しかし、1920年代には人絹(レーヨン)生産が発展、さらに20年代後半のアメリカ景気の変調などの影響も出始めていました。こうしたタイミングで世界恐慌が発生しました。

生糸の価格と生産高。上記「経済指標」から抽出、グラフ化した。収益率は価格と生産高を乗した数字。

生糸(絹製品)の最大の輸出先・アメリカが世界恐慌に巻き込まれると輸出は激減、その価格は暴落、原料である繭の価格も大暴落します。その被害は計り知れないものでした。製糸業者は靴下などに活路をもとめますが低落傾向はやみません。米価の低下もあって、農家の収入は激減します。甲信地方や北関東・南東北など養蚕地帯の被害はとくに大きいものがありました。しかし農家には他に選択肢がありません。繭価が暴落したにもかかわらず、正確には、暴落したが故にさらに繭の増産をすすめます。小規模で収入の口を見つけにくい養蚕農家にとっては、安くても量をつくれば収入の減少を減らせるからです。このためさらに繭価は低下、原価すらを回収できない事態となります。

恐慌による階層別のダメージを%で示す。とくに自作農と純小作農のダメージが大きい。単位はすべてマイナス。

恐慌による需要の減少・消費の減退は、米価や穀物、野菜など価格下落につながりました。売価よりも輸送費の方が高い野菜は畑に放置されたままでした。
財政均衡を第一にかかげた政府は歳入の減少の解決策を緊縮財政にもとめ、公共事業を削減したため、日雇いなどの現金収入の道も減りました。製糸工場や紡績工場での仕事もへります。娘たちの出稼ぎは困難となり、仕送りも減少します。
そこに都会から、仕事を失ったり、仕事を手に入れなかった若者が戻ってきました。なかには大学など高等教育で学んだ富裕層の次男三男もいます。副業や兼業・出稼ぎが厳しくなる中で、都市からの人口が逆流、農村に大量の人口が滞留します。

「昭和の聖代にこんな人身売買」北沢楽天画

農村不況は、資本家的色彩を強めた一部の大地主を除き、農村のほぼすべての階層を巻き込みました。
機械化・合理化を進めた中農たちも負債を大量に抱えたままでした。米価の低さから地価も低迷します。弁当を持たず学校に行く児童や長期欠席に陥る児童などが増加、一部では役場が娘の身売りの相談にのる事態もうまれました。学校の先生も役場の職員も、地方税の未納の広がりにより満足な給料を得られなくなりました。

不況の被害は地主にも及びます。地価がさがり、小作争議のリスクもあり、土地の買い手がみつかりません。中小地主たちは、経営の大規模化をはかったり、帰ってきた子供たちの土地を用意しようと、土地の回収をめざしたため、小作地を奪われまいとする小作農との間での小作争議が急増しました。
この時期の小作争議は、二十年代の大地主対中農+貧農といった図式から、中小地主対貧農という苦しんでいるもの同士の生存をかけた争いへと変わります。小規模なものが増えますが、より切実さが増しています。近畿中国という先進地域からこれまでは動きの少なかった東北地方、恐慌の被害の大きかった信州などの養蚕地域が中心となりました。

中小企業の発展と二重構造の成立

中村が第三節で扱うのは中小企業です。

第一次世界大戦期とそれにつづく時期、多くの分野で新しい仕事が生まれました。大企業の下請け、都市化など拡大した個人消費など雑貨や衣料などの生産やサービス、輸出向けの細々とした製品を生産する仕事などが急速に増加していました。
綿織物や絹織物、メリヤス、陶器、おもちゃや雑貨、缶詰などの食料品など、輸出製品の多くは中小企業の製品でした。当時の輸出は「中小企業によって支えられ」ていたのです。
大企業が製造した製品は中小企業によって輸出用や国民向けに加工され、流通には問屋が介在、運転資金は問屋や地方の小銀行が担い、地方の経済を活性化させていきました。

大戦景気以前は賃金と企業規模との相関が小さかったのに対し、1932年になると見事に相関することになる。

このように1920年代の経済は低賃金の労働力を利用した中小企業が支えていました。景気の変動や貿易に伴うリスクはかれらの浮沈によって調整されました。
その多くは不安定経営で、労働者も低賃金で劣悪な労働条件下でした。そのため労働力はつねに流動的でした
しかしこうした中小企業がかつて都市雑業層といわれていた人々を吸収し、全体としての雇用を安定させていました。さらに農村から流出してくる貧困層朝鮮半島や沖縄などから職を求めてやってきた人々の一部も吸収しました。
農村の貧困や人間関係がもちこまれた景気の調整弁としての存在。その不安定さに適合した流動的な労働力。「講座派」流の定義が妥当する職場でもありました。
こうした事情から雇用が安定化し待遇改善がすすんだ大企業との格差はどんどん広がります。1932年の統計では企業規模と賃金が見事な比例関係を示すようになります。
労働争議の中心的な舞台となったのが中小の企業です。
金融恐慌を経て、小銀行が整理統合され姿を消し資金が大銀行に集中したことは、こうした企業を資金不足で苦しめます。大銀行はリスクの高い地方・中小の企業への貸し出しには消極的でした。金解禁の目的であった「不採算企業の排除と産業合理化・生産性の向上」の主要なターゲットとなったのは中小企業であり、その淘汰が目的であったとも考えられます。

昭和恐慌と中小企業

1930年1月金解禁が実施され、前年の秋以来始まっていた世界恐慌に中小企業も本格的に巻き込まれました。昭和恐慌は輸出不振と国内需要の急減を引き起こし、中小企業の多くは仕事を失っていきます

労働組合のポスター
当時の労働者たちが置かれた深刻な状態を読み取ることができる 帝国書院「図説日本史通覧」P268

中村の本に掲げられたいくつか例を挙げます。
西陣では織物価格は6・5割に下落、倒産と夜逃げが相次ぎます。月300円稼いだ腕利きの職工も3~40円の賃金しかもらえません。大阪のホウロウ鉄器は内外とも需要が半減、価格も下落、27あった工場の8つが閉鎖、残りも退職金が払えず「職工があばれる」から続けるしかないという状況でした。いろいろな業種で倒産や夜逃げなどがあいつぎ、雇っている人々を解雇するにもできないまま賃金を1/3にへらして細々と仕事をつづけているという事態となりました。
これに対し、政府の処方箋はやはりカルテル結成でした。業種ごとに工業組合をつくらせ、生産量の統制や輸出の共同販売の斡旋をさせるというやりかたです。成功例もあるものの、先の養蚕農家と似た事情から不採算覚悟で生産をつづける企業もあり、なかなかうまくいきませんでした。
中村は「不況に耐えかねた中小企業主の中には、なんでもいいから現状の打破と、新しい政治状況を望むものが多くなった」と指摘、「軍部の満州侵略や、対中強硬派に拍手する声がこの層から出たことは争えない」「社会的爆弾」として、ドイツのファシズムとの類似性を指摘しています。バブル崩壊以降の長期不況の中で進行している事態の中に、恐ろしさを感じます。

恐慌下における失業の増加

第四節は失業の増大です。

貧民調査をする警察(大阪市)

現在でもそうですが、失業者の数を正確に捉えることは非常に困難です。もっとも少なく見積る場合は職業安定所の求職者だけカウントします。仕事が見つからないまま就職を諦めたり、家業を手伝ったり内職をしたり、引きこもってしまった人はカウントされません。正式な仕事をもとめつつ日雇いや非正規の職種に就いている人もそうです。新たな職がないままそれまでの仕事を辞められない人はもちろんカウントしません。いまでもこのような状態です。この時代はもっと大きいでしょう。

大阪を例にあげると、大阪府庁が失業者を8000人あまりとしていのにたいし、実際に失業者を向き合っていた大阪市社会部は2万6690人と3倍以上の数字を示します。
中村が注意を向けたのは、失業者の類型です。とくに特徴的なのはいわゆる「知識階級(インテリ)」の失業問題です。東京で彼らに仕事を与えようと今でいうバイトを募集したところ700人の枠に5857名もの人が殺到しました。官庁での高学歴者の採用は約1割にとどまりますし、大企業で新卒者採用を見送ったの52.8%であり、採用されたのは中学・小学校卒が中心でした。いきおい、仕事にありつけない大学卒業者などがあふれます。「大学は出たけれど」という映画(小津安二郎監督)が作られ、流行語となりました。あきらめてふるさとに帰る若者も多く、それが農村であらたな問題を引き起こしました。

労働争議の参加者・件数・要求(攻勢的・防衛的に分類)

工場の閉鎖や解雇、賃下げや労働条件の引き下げも相次ぎました。これにたいし、労働争議が頻発、ストライキや対抗してのロックアウトがピークを形成します。家族的経営で女工を優遇していると称していた鐘紡でも大幅な賃下げをきっかけに大争議が発生しました。
20年代の労働争議が賃上げなどの積極的・攻勢的なものだったのに対し、30年代のものは解雇・賃下げ反対・賃金の支払い要求といった生活防衛的な内容へとかわっていきます。就職難の時代であるだけに、争議は深刻化し、急進化していきます。

失業した人、踏みとどまれた人

しかし失業者や過酷な労働条件の引き下げだけに目を向けていては、事態を読み誤る可能性があります。
バブル崩壊後の時代を思い出してみてください。不景気の中、つらいことは多かったものの、それを乗り切ってなんとか勤め上げられた方も多かったのではありませんか。この時代もそうです。職場を去って行く同僚、仕事に就けない子どもたち世代、町にあふれる失業者、刹那的な生き方をしたり故郷に帰るという人たちを横目に見ながら、下がっていく給料と減っていく仕事に愚痴を言い、酒場では暗い話を聞いたり話したり悪酔いをしながら、殺伐とした風潮やきな臭くなっていく世相を嘆く。陰鬱な気分になり、巻き込まれながらも、家族の成長を期待しながら毎日を生きていく。こうした人が多数でした。古賀メロディーが日本中にあふれていました。

日本経済の二重構造

上記、経済指標をグラフ化。恐慌によって仕事を失ったものが約20%、実収賃金の減少は10%強。ただし、業種や熟練度などによる偏差は大きく、さらに新卒者へのなどへの意味を考える必要がある。

解雇や大幅な賃下げなどの対象とされた労働者は、中小企業、大手では紡織工場や石炭工業などが中心で、移動が激しくあまり熟練を必要としない産業が主でした。重工業関係のような熟練を必要とされる産業の賃金の切り下げ幅は小さかったといわれます。こうした産業では職工を囲い込むため、労働者と資本家の間協議機関の工場委員会が設けられ、養成工制度、年功序列制度など終身雇用につながる制度が整備されつつありました。
労働者の待遇は会社の規模と自らの職種によって大きな格差を生じました。いわゆる日本経済の二重構造がはっきりあらわれてきました。20年代以来の労働戦線の分裂もこうした動きが背景にありました。

浜口内閣下での国家統合の模索と社会政策

第5節は政治的動揺です。

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浜口雄幸(1870~1931・首相1929~31)

金解禁の直後に行われた総選挙で浜口雄幸率いる民政党は大勝しました。
国民の大きな支持を得た浜口は、軍縮と恐慌対策の過程で明治憲法の欠点であった権力分散を克服しつつありました。海軍強硬派の抵抗を制しロンドン軍縮条約に調印に成功、異を唱える枢密院をも屈服させます。
恐慌にともなう財政難は、軍事予算をも容赦しませんでした。軍事費を抑制するシステムづくりが金解禁の狙いであったともいわれます。先に失敗した官吏給与の引き下げ、恩給や支給時期の引き下げといった強硬策をすすめます。(陸軍の元軍人のなかには三十歳から恩給がもらえる人もいたのです)。こうした事は軍部の怒りをかい、軍縮支持派の立場を弱める面も持っていました。

浜口や井上は、軍部や旧勢力、明治憲法体制の矛盾と勇敢に立ち向かった政治家であったことは確かです。しかし、その経済政策は、「国民」とくに勤労者を苦しめる政策でもありました。
ただかれらも、こうした不満を緩和する政策も考えていました。労働組合法小作を救済するような社会政策です。普通選挙権の女性への拡張も考えていました。戦後改革で実施された政策につながる政策が準備されています。敗戦後マッカーサーから婦人参政権や労働組合法の実現など五大改革の指令をうけとった幣原喜重郎は浜口内閣の外相でした。彼は思ったそうです。「ほぼすべてがあのころ実現しようとしていたことだ」と。とはいえ、実際の内容は大きく異なりますが。

浜口内閣には戦後改革につながる方向性をもっていたことは注目しておいてよいでしょう。
ただこうした法案は絵に描いた餅にとどまりました。内閣は経済政策と軍縮に忙殺され、こうした進歩的な内容をもつ法案は貴族院など旧勢力の手で葬り去られました。結局、労働者や農民、女性は痛い目に遭わされただけでした。

浜口・若槻内閣の崩壊と、浜口・井上の死

金解禁による経済不安、軍備縮小・軍事費抑制など軍の意向に反する政策の実施、浜口も、大蔵大臣の井上準之助も、本来の意味で命をかける覚悟でした。のちに暴漢の銃弾を浴びた浜口は「男子の本懐だ」とつぶやいたと伝えられます。それだけの覚悟でした。
昭和恐慌が広がるなか第二党の政友会は金解禁政策を激しく批判する一方、軍縮条約調印は海軍軍令部の同意を得ておらず天皇の統帥大権に違反する(「統帥権干犯」)という「議会政治の自殺」ともいえるキャンペーンを軍部と協力しすすめました。

暴漢に襲撃され負傷した浜口首相
帝国書院「図説日本史通覧」P265

こうしたなか、30年11月浜口は東京駅で狙撃され、急速に衰弱、無理をして国会答弁にたったものの病勢が悪化、31年4月辞職、8月死亡します。引き継いだ若槻内閣でも井上は大蔵大臣として金解禁政策を進めます。しかし12月内閣が崩壊によって金解禁政策はおわり、翌年2月、井上は選挙運動中に暗殺されます。
金解禁は確かに二人の命かけの政策でした。(だからすべて正しいというわけではありませんが)

昭和恐慌の深刻化

一度開始した政策を変更することは至難の業です。デフレが進み物価低下が起これば輸出が増加するという金本位制のもっていた希望的観測は完全に裏切られます

世界恐慌の日本への波及の模式図 武田晴人「日本経済史」P242

世界恐慌は、農産物価格や天然資源のいっそうの下落を招き、他に輸出産品をもたないアジア諸国に波及します。日本の輸出が生糸と綿製品に支えられていました。アメリカの大恐慌は生糸の輸出に大打撃を与えます。アジアへの世界恐慌の波及は、綿製品の輸出先であるアジア地域を痛めつけました。こうして主要な輸出先が二つとも不況となり、輸出は激減します。
他方、金流出はつづき通貨量は減少、デフレがすすみます。不景気は税収不足=歳入不足をもたらしました。井上蔵相は財政均衡のルールに固執、いったん決定した予算を、さらに削減していきます。軍事予算も聖域ではありませんでした。軍部の必死の要望にも耳を貸しません。たしかに井上は勇敢でした。
しかし1931年9月相次いで起こった二つの事件はさらに彼らを追いつめました。柳条湖事件と、イギリスの金本位制度からの離脱です。

「満州」事変の発生と金輸出再禁止

軍部には不満が鬱積していました。協調外交による大陸進出抑制、軍縮と軍事予算の削減、さらに恐慌による農村の疲弊は兵士の弱体化とみなされます。1930年、すでに軍中央の一部将校のクーデター計画が発覚しています。そして「満州」におかれた関東軍では軍事行動の計画がたてられていました。それが現実化したのが1931年9月18日の柳条湖事件であり、それをきっかけとして発生した満州事変です。
若槻内閣も軍中央も、当初は不拡大方針を打ち出します、しかし関東軍はそれを無視して戦線を拡大、マスコミがそれを支持する動きを強めると、まず陸軍中央が、さらに政府も追認せざるを得ませんでした。政府は陸軍を、陸軍中央は傘下の部隊を、すでに制御できなくなっていました。政府が財政などを通して軍をも制御するという方針はしだいに破綻を来し始めます。
柳条湖事件の三日後、9月21日イギリスが金本位制を離脱するというさらなる衝撃的な事件が発生しました。イギリスはアメリカと共に金本位制を主導してきた国であり、その離脱は国際的金本位制の崩壊を予測させました。それについて金本位制を離脱する国々があいつぎます。日本の離脱も時間の問題という観測が流れました。たしかに金本位制から撤退するチャンスでした。しかし井上は断固拒否、金解禁政策を継続します。

有力銀行による円売りによる金流出

金解禁を支持していたはずの財閥系銀行が円を売り、ドル(金)を手に入れた。

こうした事態のなか、井上の背中に鉄砲を撃ち込んだともいえる行動に出たのが財閥系の金融機関でした。金解禁再禁止を見込んで、大量の円の金正貨への交換、海外への輸出の動きをとります。
井上はこれに対し、金の売却に応じます。蓄積されていた金正貨は急激に減少、それに応じて国内の通貨量はいっそう減少、デフレはさらに更新、歳入不足からさらなる財政切り詰めを余儀なくされます
さらに円売りに対抗すべく実施した公定歩合の引き上げはさらなるデフレ効果を引き出し、国民を苦しめました。
世論は、財閥のこうした行為を「売国的」行動と厳しく糾弾、財閥は民政党の主要な後援者であり、金本位制の推進勢力でもあったことから、民政党への反発もたかまります。
満州事変に断固たる対応をしないという批判も、軍部・右翼・マスコミから聞こえてきます。かつては一枚岩であった内閣内部からも異論が出始めました。そして12月ついに力尽きます。若槻内閣は閣内不一致から総辞職においこまれ、井上の失脚によって金解禁政策も終わりました。

高橋財政の開始~金輸出再禁止と財政の軍事化の開始

元老西園寺は、その軍部寄りの姿勢に逡巡したものの、次期総理大臣に政友会の犬養毅を指名します。
大蔵大臣となったのは高橋是清でした。高橋は就任と同時に金輸出再禁止を決定、つづいて赤字国債を日銀に買い取らせる(非募債発行)手法による通貨量の拡大、軍需予算の拡大と農村にたいする時局匡救事業など大規模な公共事業の実施など矢継ぎ早に積極財政を展開します。
金輸出再禁止=管理通貨への復帰と大量の通貨発行はインフレによる大幅な円安効果をもたらします。高橋はこれを放置します。円安によって激安となった綿製品はインドなどアジア各地の市場を席捲します。軍需予算の増大は満州事変とあいまって重化学工業の急速な回復を実現します。
こうした高橋の手法はこの段階では大きな効果を発揮、恐慌から最も早い脱出を実現しました。

国家財政の肥大化。高橋税制の成立と共に国債が発行され、軍事費が肥大化したことがわかる。

しかし、それは浜口・井上が必死になって押さえ込もうとした軍事予算の急増であり、右のグラフにみられるような大量な国債の発行による際限のない軍事費拡大の道をひらくものでした。
通貨安を利用しての輸出攻勢は、世界からソシアルダンピング(不当な安売り)であるとの反発を買いました。こうして浜口や幣原が進めた国際協調を破壊し世界をブロック経済など保護主義政策に追いやる一因となりました。
このように、高橋財政は経済の軍国主義化によって日本経済を立て直したといえるのかもしれません。

財閥による円売りとある「噂」

最後に一つ、ある陰謀説を話しておきましょう。財閥の円売りのからくりは円を1ドル2円弱という公定レートで円をドル(実際は金正貨)に変え、金解禁再禁止によって暴落した時点で円にもどせば大もうけできるという仕組みでした。たとえば200万円の円を売って100万ドル分の金を得る、ここまでが円売りです。井上はこれを容認し、金はドンドン流出します。もし金輸出再禁止が行われれば、金と交換できない円が暴落するのは確実だという思惑でした。実際では、再禁止の直後、100ドルが30円前後まで急落したので、円を買い戻すと仮定すれば、300円分の円に換えられるということです。しかし、これは日本人の財産をくいつぶし、さらに苦しい状態に置くことだという激しい非難の的になりました。
これについては、イギリスの金本位制離脱で国際金融の決済に必要なドルが不足したためであったとの財閥側の釈明があり、それを認めるべきか否か、議論が分かれています。
ともあれ、こうしたことが激しい財閥への批判につながり、ファシズム的な動きを助長したことは事実でしょう。
ある説によると、井上は円売りに立ち向かい勝利する直前だったといいます。実は財閥系銀行などは実際の支払いをしない6ヶ月の空売りという手法で円売りをおこないました。その6ヶ月が直前に迫っていました。もし金解禁再禁止が行われなければ財閥系金融は大量の損失を出すことになります。このため財閥が、安達を利用して若槻内閣の崩壊を謀ったというのです。たしかにあり得る話ではあります。
ともあれ、井上財政が高橋財政に変わったことで財閥は世間の厳しい非難とテロの犠牲者を出しつつ、多額の資金を手に入れました。

<講座「経済史で見る日本近代」メニューとリンク>

1:経済史研究の原点~講座派の遺産
2:日本経済の「三本柱」と大戦景気
3:生産額のランキングからみた1920年代
4:金融恐慌と戦前社会の変化
5:金解禁断行と昭和恐慌の発生
6:世界恐慌の発生
7:昭和恐慌下の日本
8:昭和恐慌からの脱出と高橋財政の功罪(NEW)

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