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Ⅱ、白虹事件=朝日新聞の「敗北」と企業化 ~マスメディアの発展(3)~
(1)「朝日」の戦争報道
朝日新聞をはじめ、日本の新聞は戦争で発展したと言われます。
朝日新聞は日清戦争には大量の特派員を派遣、号外を乱発しました。この手法は日露戦争ではさらに進化します。あまりの号外の数と取材費でいったん赤字に転落したほどです。
日露戦争にさいしては日露開戦をもとめる七博士意見書などを積極的に紹介するなど開戦論をあおり、開戦後は記事に写真版を用いるなど戦争報道に力を入れ、戦争熱をあおりました。ところが、日露戦争後のポーツマス講和条約の結果が伝わると、講和反対の大キャンペーンを張ります。日本の戦争やナショナリズムの高まりと朝日新聞の拡大は軌を一にしていました。
そのようすを『朝日新聞社史(明治編)』の見出しから探ってみることにします。
ここでは朝日新聞社史の見出しから関わりのあるものを拾ってみました。 第 7章 日清戦争で部数躍進 |
こうした見出しから、軍の新聞統制、特派員の奮闘・特ダネ合戦その戦病死、新聞写真などの技術革新、主筆の池辺三山を中心とした一貫した主戦論・強硬論、号外合戦、その結果としての発行部数の急増などが見えてきます。
メディアにあおられて人々は戦争報道に熱狂、「国民」意識が高められました。人々はこうした戦争を通じて「日本人」意識をもったといわれます。
あわせて、中国人や朝鮮人を下に見る差別と偏見も。
(2)戦勝報道と「国民」意識の高まり
報道統制のもと、新聞は軍の説明を受け入れて「大勝利」を報じ続けました。人々は熱狂しました。ワールドカップで日本チームが勝ち進んだときのように。
勝利という報をうけ、「国民大会」が開催され、花火が打ち上げられ、飲食も振る舞われます。
家族が出征したり、戦争のために重税が課されたりという苦しみも、こうした戦勝報道やイベントが麻痺させ、一緒に苦しみ一緒に喜んでいるとの一体感が作り上げられました。
しかし新聞が報じる大勝利という報道は誇張されたものでした。とくに陸軍の勝利は惨勝ともいえるもので、ロシア軍が本格的に反攻を開始すれば抑えきれなかったと言われます。にもかかわらず、新聞は、一方では報道管制により、他方では熱狂する国民の期待に押されて、「大勝利」を報じ続けます。
そうした中のポーツマス講和会議です。国民は期待しました。「かなりの広範囲にわたる領土獲得は確実だ」「賠償金も得られ、そうすれば、税金は元の水準となり、生活も楽になる」との楽観が広がります。帝国主義的感情が民衆の中にいたるまで広がりつつありました。
(3)「講和反対」報道と日比谷焼打事件
しかし、実際に締結されたポーツマス講和条約は戦争の現実を反映した内容でした。大勝利報道は虚報だったのです。しかし人々は「大勝利」という「虚報」にゆがんだ眼から講和条約を見ました。そこから見える講和条約は、大勝利にもかかわらず稚拙な交渉によって「国民」が、兵士が血と汗で手にした「勝利」を台無しにした政府の姿でした。このような妥協をした政府は「売国」的と見えたのです。
右の写真は、講和会議の結果を報じる朝日新聞です。この記事にそえられた「白骨の涙」の挿画はこうした民衆の心情をよく表しています。なお、この「白骨の涙」のイメージは、「兵士たちの血と命で得た満州(権益)」というフレーズへとつながり、以後の侵略の歴史で何度も口にされることになります。
こうした心情を察した朝日新聞社社長・村山龍平は、みずからリーダーシップをとる形で講和反対の論陣を張ります。こうした新聞のキャンペーンが、日比谷焼き打ち事件という民衆暴動を引き起こしました。
(4)新聞と民衆暴動~第一次護憲運動・ジーメンス事件
戦争とそれにつづく講和条約反対のなかで、人々は戦争は多大な犠牲と負担という「国民の義務」だけを強いられ、「国民の権利」が与えられていない現実に気づきます。自分たちを「国民」として遇するようにとの思いが高まります。それを妨げているのが政治を牛耳っている一部の閥族(藩閥・軍閥)である。それをたださなければならないという一種の主権者意識が生まれつつありました。
しかしこうした国民意識は二つの戦争を経て、民衆の中にまで浸透し始めた「脱亜入欧」的で弱肉強食型の「帝国」意識とのかかわりのなかでした。「内には民本主義、外には帝国主義」、大正デモクラシーにおいてよく用いられたフレーズでした。
この時期は、日本社会の転換点ともいう時期でした。松方デフレ以降の農村社会の揺らぎと産業革命、さらには立身出世イデオロギーは、ひとびとを都市へといざないました。
工場労働者・書生などの単身若年層が都市に大量に流入、伝統的な共同体が弛緩しつつありました。そこに大量の人々が流入、劣悪な住居条件・労働条件のなかに人々は放置され、不安定でした。「蓄積された社会的不安・鬱屈は攪拌され、点火されると焼打などとなって爆発しやすい状況であった」と有山輝雄は記しています。
こうした状態に放置され、自分たちの思いを政治に反映できないといういらだちが日比谷焼き打ち事件から米騒動にいたる民衆暴動の背景にありました。
こうしたいらだちをある程度うけとめ、閥族政治批判と憲政擁護を主張するキャンペーンに結びつけたのが新聞でした。新聞は国会内の政党勢力とも結びつきながら、民衆を動員し、大正政変やジーメンス事件を演出しました。新聞は民本主義の担い手という姿勢を鮮明にします。
(5)鳥居素川のもとでの大阪朝日新聞
こうしたなかで、村山龍平社長は大阪朝日新聞の主筆に政論紙「日本」出身の鳥居素川を指名しました。鳥居は閥族批判・憲政擁護、民本主義支持といった紙面を作り上げます。
鳥居は、ロシア(三月)革命では、皇帝が退位に追い込まれたのは専制的な政治が原因であるという革命に同情的な対応もみせました。さらにほぼすべての新聞が出兵を求めるシベリア出兵に対して、はっきりと反対を表明しました。
彼のもとで長谷川如是閑は民本主義擁護の筆をふるい、のちに左派無産政党・労働農民党のリーダーとなる大山郁夫は社会運動や労働運動を中心に筆をふるいました。河上肇が「貧乏物語」を連載したのもこの時期の大阪朝日でした。
ただこうした大阪朝日の論調は「反権力の方が人気が出て部数拡大につながる」という村山龍平らの判断があったとの指摘もあります。また、朝鮮や中国の民族主義運動に対しては非常に冷淡でした。
最大の発行部数を誇る大阪朝日のこうした姿勢は、政府をいらだたせました。
(6)米騒動と「記事差し止め」問題
大戦景気による都市人口の増大は米など食料品への需要増を引き起こし、とくに米価は上昇しつづけていました。そうしたなかでの1918年のシベリア出兵の決定は、米価を一挙に暴騰させます。
8月、米不足に悩んでいた富山の漁村の女性たちが、米の県外移出に反対して起こした米積み出し阻止の実力行動の様子が、まずは県内で、続いて全国紙で報道されると、それに呼応する形でまず岡山・京都、そして名古屋・大阪・神戸、東京と連鎖反応的に広がり、さらには地方都市、工場・炭鉱へと広がりました。米騒動です。このような米騒動の全国化は新聞報道なしには考えられません。新聞報道が米価格暴騰に悩んでいた全国の人々を立ち上がらせました。マスメディアが下からの「国民化」を促進する役割を果たしたともいえます。新聞は、騒動という現象にとどまらず、その背景も報道しはじめます。
こうした事態にあわてた寺内内閣は新聞各社に報道の差し止めを命令、発行にまにあわなかった大阪朝日新聞は、空白だらけの新聞を発行することで、抗議の意味をもたせました。新聞各社の反応も素早いものでした。各紙は経営陣も含めて「報道の自由」の問題として対応、経営者は政府への働きかけを強めました。その結果、「政府の発表に従う」という形での報道を認めさせます。
他方、新聞記者たちは経営側をまきこんで反対運動を展開、連日、抗議集会が開かれました。そこでは「報道の自由」のためにたたかうことが高らかに歌い上げられました。
(7)「白虹」事件の発生
こうした抗議集会の一環として、8月25日大阪で言論擁護内閣弾劾関西新聞社通信社大会が開催されました。その様子が翌日の大阪朝日新聞の夕刊に「寺内内閣の暴政を責め猛然として弾劾を決議した関西記者大会の痛切なる攻撃演説」として掲載されました。書いたのは大西利夫記者です。
多忙のためチェックが不十分となり、この記事は危険だと気づいた人たちが、輪転機をとめ印刷をストップしたとき、すでに約一万部が配送ずみでした。
問題の記事は集会後のあとの食事会を報じた記事です。大西記者は集会での興奮を以下のように美文調で記します。問題になったのはこの一節です。
食卓に就いた来会者の人々は肉の味酒の香に落ちつくことは出来なかった。金甌無缺(きんおうむけつ)の誇りを持つた我大日本帝国は今や恐ろしい最後の裁判の日に近づいてゐるのではなかろうか『白虹日を貫けり』と昔の人が呟いた不吉の兆が黙々として肉又を動かしている人々の頭に電のように閃く |
どこに問題があるのかわからないような、ついでにいえば勝手な感想でしかないような中身のない記事です。問題はここで用いた『白虹日を貫けり』という語句でした。
この語句は中国の古典『戦国策』の一節です。辞典によると「白色の虹が太陽を貫くようにかかる。「白虹」は武器、「日」は君主の象徴とされ、臣下の白刃が君主に危害を加える天象とされた」(大辞林)ということばです。「君主=天皇に危害が加えられる危機が迫っている」と読むことができるということばを安易に使ってしまったのです。
権力側はこれを見逃しませんでした。ただちに大阪府警が問題視し、内務省と連絡のうえ、この夕刊を発売禁止(行政処分)とするとともに、大阪区裁判所検事局に新聞紙法違反で告発、司法処分を求めました。行政処分としての発売禁止はその号だけの停止ですが、司法処分となればそうはいきません。新聞紙法の該当欄をみましょう。
新聞紙法 第四一条 安寧秩序を紊し又は風俗を害する事項を新聞紙に掲載したる時は、…に処す 第四二条 皇室の尊厳を冒瀆し政体を変改し又は朝憲を紊乱せむしむるときは事項を新聞紙に掲載したる時は…に処す│ 第四三条 第四〇条乃至第四二条に依り処罰する場合に於いて裁判所はその新聞紙の発行を禁止することを得 |
この記事が新聞紙法の第41条「安寧秩序を紊し」に該当するだけならいいのですが、42条の「皇室の尊厳を冒瀆し政体を変改し又は朝憲を紊乱せむしむる」に該当するとなれば、第43条の「裁判所はその新聞紙の発行を禁止することを得」という条項にかかわってきます。こうなると、大阪朝日新聞の今後発行が一切禁止される、いわば「死刑」ともいうべき措置がなされるのです。
警察・検察は一般の事件とは異なる異例の体制で取り調べにあたり、かつこの事件が新聞紙法の41条なのか42条なのか公言を避けました。こうしたやり方で新聞側に脅しをかけてきました。姿勢いかんでは「大阪朝日新聞をつぶすぞ」という態度でした。
さらにこの記事が皇室の尊厳を傷つけると考えた黒龍会・内田良平門下の右翼の一群が村山社長を襲うという事件も起こしました。事件がそれほど表に出ていない段階でのこの出来事は政府・警察などとの裏の連携を想像させます。
こうしたなか、朝日新聞は基本的には、沈黙を守ります。
「天皇に対し不敬」という指摘が元来は保守的な村山にはこたえたとの指摘もあります。この間、朝日新聞側は裏取引をすすめていました。
村山龍平社長の辞任、鳥居主筆ら関係者の退社が発表され、12月1日の紙上に長文にわたる社説がのせられ大阪朝日新聞は全面的に謝罪し、今後の編集方針を定めた「編輯綱領」を発表しました。
また上野新社長は原敬首相らに面会、謝罪し、今後こうした記事を出さないことを約束しました。まさしく全面屈服でした。
このように朝日新聞は権力の前に全面的に屈服することで、発行停止を免れたのです。
(8)「編輯綱領」~朝日新聞の敗北
あらたな編輯綱領は以下のような内容です。
朝日新聞編輯綱領 一 上下一新の大誓を遵奉して、立憲政治の完美を裨益し、以て天壌無窮の皇基を護り、国家の安泰国民の幸福を図る事。 一 国民の思想を善導して、文化の日新国運の隆昌に資し、以て世界の進運と並馳するを冀ふ事。 一 不偏不党の地に立ちて、公平無私の心を持し、正義人道に本きて、評論の穏健妥当、報道の確実敏速を期する事。 一 紙面の記事は精神を要すると共に、新聞の社会に及ぼす影響を考慮し、宜しく忠厚の風を存すべき事。 |
編輯綱領の意味は明らかでしょう。「不偏不党」といいながら「天壌無窮の皇基を護り」というのですから。
有山輝雄は「不偏不党」とは「権力に対し正面から批判する精神を失い、企業の安全の範囲内での言論報道を行うメディアのイデオロギーであったことは事件の経過から明らかである。」と厳しく指摘します。
言論の自由を犠牲し、朝日新聞は企業としての存続を選択しました。ついでにいえば、他の新聞も記者や多くの言論人も沈黙しました。「不敬」ということばが出た途端に思考停止状態になったようにも見えます。
大会で「ともに言論の自由を守ろう」と発言した大阪毎日新聞は、大阪朝日の記事が「天皇に対する不敬である」ともよめる記事を書き、販売の現場では、これを利用して、大阪朝日の読者を奪い取ろうとの姿勢を見せました。
この事件は政治にたいする批判の自由という言論の自由の根幹にかかわる問題であるにもかかわらず、新聞や言論人の大部分は自分の問題としてとらえることができませんでした。
あわせて天皇制の束縛力についても指摘しておきたいと思います。
(9)不偏不党の企業新聞
企業としての存続を第一に考えた朝日新聞、そしてこの様子を見た各紙も「不偏不党」「中立」を掲げるようになります。しかしそれは「天壌無窮の皇基を護り」というタブーを前提とし、政府の許容する範囲内での「不偏不党」「中立」であり、「空気を読み」さまざまな忖度を加えた紙面作りに他なりませんでした。
有山輝雄は「不党不偏」を旗印にしたこうした新聞は「自らの内部に確固とした価値原理をもたず」「判断の基準は他紙が何をどのように報道しているか」となったと指摘します。その結果、内容的に大差はなくなり、早さなど微細な点に違いをうちだす傾向を強めたといいます。
企業としての朝日新聞社は100万部に達したシェアの広さがそのあり方を規定していきます。シェアの広さは広告料の高騰を実現させました。そこで得た巨額の広告収入(収入の約50%をしめる)は朝日新聞社に寡占企業としての「権力」を与えます。豊富な資金で販売店を囲い込んだり、大阪毎日グループとの協調値下げすることによって、他紙を圧迫していきます。記事の特色のなさを補うために中等学校野球大会などのイベントが行われました。
東京の在来紙が関東大震災で大きなダメージを受けるなか、大阪に拠点を持つ朝日新聞と毎日新聞の二大グループが全国的に圧倒的なシェアを握りました。やはり大阪発祥の毎日新聞は「新聞紙は一種の商品なり」と公言する本山彦一社長率いるグループであり、かつての名門紙「東京日日新聞」を傘下に加えていました。この二社と対抗できたのは、かつての小新聞の王者であり、多様な記事を特徴とした、もと内務官僚正力松太郎率いる読売新聞だけでした。
<マスメディアの発展>
1:大新聞と小新聞、期待されるメディア像
2:朝日新聞の創刊、新聞という「商品」
3:白虹事件と「朝日新聞」の敗北(本稿)
4:「講談社」からみる大衆の国民化~マスメディアの発展
5:「満州事変」とマスメディア
補:吉野作造の朝日新聞退社