Contents
米騒動と大正デモクラシー(3)
~人間らしい生き方をもとめて~
Ⅴ、米騒動の発生~立ち上がった民衆たち
米騒動は、米価高騰に反対する民衆暴動であり、明治以降、何度か発生していますが、一般には1918(大正7)年夏のものをさします。
7月以来富山県下で発生した米の県外移出阻止・廉売要求の運動が、8月になって全国化、京都・大阪・名古屋・東京といった大都市から全国の中小都市へと拡大、8月下旬になると農村や各地の炭坑などへもひろがっていった民衆騒動です。
ここでは金原左門編『日本民衆の歴史7自由と反動の潮流』および『米騒動』(江口圭一)小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)などを参考に記述しています。
1,大戦景気と米価高騰
大戦景気はインフレーションを引き起こします。都市化は食料需要とくに米需要を急速に拡大しました。
他方、農村では、現物高額小作料は生産者の生産意欲を削いでいたたため、米不足が深刻化していました。米価の急騰は地主を潤すものの、その恩恵が小作農にもたらされることは少なかったのです。
さらに政府は地主や商人の利益を第一に考え、外国米輸入拡大など消費者向けの対策をとりませんでした。こうして端境期である1918年夏の米価は異常な高騰をみせます。さらにシベリア出兵により軍が米の確保を行うであろうとの予測は、買い占め売り惜しみにさらなる拍車をかけました。
副食がきわめて少ない当時の食生活において、人びとのエネルギー源の大半は米から得ており、現代からは考えられないほどの米を食べました。東京・月島の調査では、労働者夫婦と5人の子どもの世帯では1日2升から2升2合、夫婦2人の場合も1日1升の米を食べています。米騒動の発生地・富山の漁師たちは一人1日2升の米が必要だったといいます。現在とは食生活が全く異なっていました。
東京での職人の賃金の相場は右の図のとおりです。月給に換算すると30~35円程度です。1918年8月の平均米価は升あたり約39銭なので、家族二升とすれば日給の半分以上が飯米に消える計算となります。こうした事情は日雇いや行商といった日銭商売、漁師のように漁獲と市場価格に左右される仕事でさらに深刻であったことはいうまでもありません。こうした職業に従事する人の方がより多くのエネルギーを必要としていたのですが。
2,富山の女房一揆
富山では、1890年以来米価廉売をもとめる小規模な米騒動が頻発していました。とくに漁獲と市場価格の打撃を受けやすい漁村では米価高騰の影響がでやすく、さらに収益不足を補うために、男たちの多くが北海道や樺太の漁場に出稼ぎにでていたため、とくに女性に負担がかかりました。
他方、当時、米が収穫できなかった北海道や樺太では米は内地からの移出に頼っており、その米の多くが富山から移出されました。
米価が急騰しているのもかかわらず、大量の米が移出されさらに米不足が深刻になる、富山ではこうした事態が生まれていました。
こうした事情のなか、富山の漁村で女性たちによる米の県外積み出し反対・米廉売要求の運動が多発、1918年8月になってさらに増加しました。
京都大学人文研が実施した「米騒動に関する共同研究」の一員であった江口圭一氏は、こうした富山県での米騒動を的確にまとめています。
第1期
1918年7月23日午前8時半ごろ、富山県下新川郡魚津町で、米価が騰貴するのは米を他地方に移出するからであるとし、漁民の妻女ら46人が移出を阻止しようと海岸に集合したところを、警察に解散させられた。8月2日にかけ県下で類似の事件が2回起こったが、県外には知られなかった。
第2期
同年8月3日夜、同県中新川郡西水橋町で、出稼ぎ漁民の妻女ら約300人が資産家、米屋へ押しかけ、米の移出禁止、廉売を嘆願し、警察に解散させられた。4日夜、同郡東水橋町で数百名の女性が町長、有力者、米屋に向かい、救済を請い、米の移出禁止を要求し、騒ぎは翌日に及んだ。5日夜、隣接の滑川町でも約300人の女性が資産家、米屋に救助を訴えたが、6日には男女混成の群衆が資産家宅へ押し寄せ、打ちこわしに及んだ。同様の動きは県下各所に広がったが、5日ないし6日付けの全国各紙に3日の西水橋町の事件が「越中女房一揆」として報じられ、8日岡山県真庭郡落合町(現真庭市)での事件を最初として、騒動は富山県外に波及し、岡山県各地のほか、和歌山県、香川県、愛媛県などで騒動が続発した。
3,米騒動の拡大
富山県下での米騒動は、大阪朝日新聞など全国紙が「富山の女房一揆」として報道したことで一挙に全国化します。
8月10日夜、名古屋市では鶴舞公園に1万5000~3万の群衆が集まり、演説が行われたのち、米屋町をめざして群衆が押し出し、警官隊と衝突しました。同夜、京都市でも数百人が米屋に押しかけ米の安売りを認めさせます。翌日には全市で安売りをもとめる打ちこわしが発生、ついには軍隊が出動しました。
こうした暴動は、11日以降大阪市、神戸市などへも波及、焼き打ち・略奪・乱闘が繰り広げられました。騒動は全国に拡大し、13日には東京市でも発生、13~14日ごろ絶頂に達しました。
4,東京での米騒動
東京での米騒動は、反骨の評論家宮武外骨らが東京朝日新聞に「日比谷公園で米価高騰に抗議する市民大会を開催する」との広告を掲載したことに始まります。
警察は「治安警察法」を根拠に集会不許可を通告、宮武ら主催者への監視を強化、かれらは動きを封じられました。しかし大会中止が報じられないまま、8月13日日比谷の会場に約2000人の群衆があつまり、主催者不在のまま集会がはじまります。参加したものは「世間が難儀しているのに、利益を得て不名誉と感じない者がいる、制裁を加える必要がある」「当局に向かって米価調整を願うため押し寄せよう」といった演説を次々と行います。
その後、公園を追い出された群衆は銀座・日本橋方面へと向かいました。警官隊に投石をし、交番を襲い、市電を止め、さらに米穀取引所がある深川米倉庫付近をめざしましたが阻止されました。
翌14日になると、暴動は日比谷だけでなく浅草・神田・下谷などでも発生、労働者も街頭に繰り出しました。軍隊が出動、翌15日にはさらに増員され、暴動は分散した形になっていきました。
東京で特徴的なのは、夜に米騒動に参加した労働者が、昼は自らの職場での労働争議にも参加していたことです。こうして東京の米騒動は労働争議と結んだ形ですすみました。
5,炭坑での暴動
8月中旬以降、米騒動は舞台を都市部から農村や炭坑に移します。
とくに激烈な騒動となったのが、山口県の宇部炭坑です。
宇部炭坑のおける米騒動は、炭坑労働者による会社に対する労働条件改善の要求からはじまりました。「採炭賃三割増、支払期日厳守、構内の仕入れ店の物価引き下げ」といった切実な要求がだされました。これにたいし、会社側は米の廉売券を出すだけで、回答を延期したため、労働者たちは激怒、会社事務所や仕入れ店のみならず炭坑主の邸宅やかれらとの結びつきがつよい遊郭なども襲撃、村内の民衆も騒動に加わる大騒動となりました。これにたいし村長は軍隊の出動を要請、軍隊は実弾での鎮圧にふみきり、13名が射殺されました。
さらに筑豊・峰地炭坑では、出動した軍隊に対し、労働者はダイナマイトで対決、死傷者がでました。このとき騒動は五木寛之の小説『青年の門』のなかでも紹介されています。
6,米騒動とマスコミ報道
米騒動を全国化させた背景は、新聞報道の力でした。新聞報道が米価格暴騰に悩む人々を立ち上がらせました。
新聞は、騒動という現象にとどまらず、その背景も報道しはじめ、国民の共感を呼びました。
事態の進展にあわてた寺内内閣は、新聞各社に報道の差し止めを命令、発行にまにあわなかった大阪朝日新聞は、空白だらけの新聞を発行、抗議の意をこめました。新聞各社の反応も素早いものでした。各紙は経営陣も含めて「報道の自由」の問題として対応、経営者は政府への働きかけを強め、「政府の発表に従う」という条件付きながらも、米騒動の報道を認めさせました。
新聞記者たちも、経営側をまきこみながら反対運動を展開、連日、抗議集会が開かれ、「報道の自由」のためにたたかうことが高らかに歌い上げられました。
7,「白虹事件」~マスメディアの敗北
ところ8月26日の大阪朝日新聞夕刊の一節が大問題を引き起こしました。
前日開催された集会後の食事会を報じた記事がで「金甌無缺(きんおうむけつ)の誇りを持つた我大日本帝国は今や恐ろしい最後の裁判の日に近づいてゐるのではなかろうか『白虹日を貫けり』と昔の人が呟いた不吉の兆が黙々として肉又を動かしている人々の頭に電のように閃く」と記したのです。
『白虹日を貫けり』ということばは中国の『戦国策』のなかで用いられた語句で、「「白虹」は武器、「日」は君主の象徴とされ、臣下の白刃が君主に危害を加える天象とされた」(大辞林)でした。「君主=天皇に危害が加えられる危機が迫っている」と読むことができるということばを安易に使ったのです。
警察=内務省は見逃しませんでした。大阪府警が問題視、内務省と連絡のうえ、発売禁止の行政処分とするとともに、新聞紙法違反で告発、司法処分を求めました。
司法処分となり、その内容が「天皇」にかかわると認定された場合は、朝日新聞自体が廃刊にさせられる危険も生じたのです。
事件は朝日新聞側の全面敗北・全面屈服におわります。村山龍平社長は辞任、鳥居主筆ら関係者の退社が発表され、12月1日には長文にわたる社説が掲載され全面的な謝罪をおこない、さらに今後の編集方針を定めた「編輯綱領」を発表、上野新社長は原敬首相らに面会、謝罪し、今後こうした記事を出さないとを約束しました。
朝日新聞は、言論出版の自由ではなく会社の存続を優先しました。さらに大阪毎日新聞は「朝日新聞は不敬である」とのキャンペーンを打って読者を奪おうとしました。
そして全面屈服をした大阪朝日新聞が新たな社是として打ち出したのが、「不党不偏」でした。一見、問題なさそうに見える社是ですが、これに先だって「天壌無窮の皇基を護り」という一文が挿入されています。つまり政府の許容する範囲内での「不偏不党」「中立」であり、「空気を読み」さまざまな忖度を加えた紙面作りをおこなうということを意味していたのです。
メディア史を研究する有山輝雄氏はこれによって新聞は「自らの内部に確固とした価値原理をもたず」「判断の基準は他紙が何をどのように報道しているか」という方向にすすむようになったと指摘します。(有山他編「メディア史を学ぶ人のために」参照)
東西の朝日新聞をはじめとするメディアはこれ以後も大正デモクラシーを支えていくかの報道をつづけました。しかし、政府や軍部・右翼勢力などの顔色をうかがうという報道にゆがめられていきました。この項については、別項参照
8,米騒動とは
米騒動は「約50日間に及び、青森、岩手、秋田、栃木、沖縄の5県を除く1道3府38県の38市153町177村、計368か所に大小の暴動、示威が発生、参加人員は数百万人に達する」という大規模なものであり、「日比谷焼打事件(1905)以来の一連の民衆暴動の最後のもの」でした。
これにたいし警察の取締のみでは対応しきれなくなった「政府は120地点に10万人以上に達する軍隊を出動させ」ます。万5000人以上を検挙され、8200人以上を検事処分に付しました。
騒動は「ほとんどが夜間に自然発生した非組織的なもの」であり、各個に鎮圧されました。
しかし、このできごとを通じて民衆の権利意識の高まりがすすみ、労働運動、農民運動、女性運動、学生運動、普選運動などの目的意識的、組織的な民衆運動が一斉に開花するきっかけとなりました。
さらに米騒動の衝撃のなかで寺内内閣は退陣を余儀なくされ、原敬を首相とする本格的な政党内閣が出現することになります。
(引用部分は、前掲江口「米騒動」)
Ⅵ、全国水平社の創設~部落解放運動の高まり
1,二通の投書
米騒動の騒ぎが収まりつつある1918年9月4日、和歌山の新聞に一通の投書が紹介されました。
(前略)俺らの仲間が今度米騒動に急先鋒となって暴動した。(中略)今度の暴動で俺らの仲間のあるものが強盗・放火・掠奪なんかの蛮的行為にでたことは俺ら自身にも甚だ不届き至極な事であったと遺憾に思っている。
だが、しかし俺らはこうした蛮的行為のほかにどんな方法で抑圧や迫害から免れることが出来るのか。…俺らは何百年間あきらめてきた。しかしそういつまでもあきらめて、牛馬扱いにされて満足していられようか。子どもをだますような改善策をそうそうありがたく甘受していられようか。
俺らはまず平等な人格的存在権、平等な生存権を社会に向かって要求するのだ。俺らは今日まで奪われてきたものを奪い返さねばならないのだ。暴動がいけないのなら他の正当な方法を聞かせてくれ。
正当な方法による要求を入れてくれ。(紀伊毎日新聞1918,9,4)
これをうけ、さらなる投書もつづきました。
俺たちの求むるところは牛馬でも犬猫でもない。
「人間」だ、平等な「人格」だ。不合理な因習の桎梏や、旧陋な階級的観念の束縛から解放されて自由になることだ。万人と同等な空気を呼吸し、同等な光明を仰ぐことだ。(紀伊毎日新聞1918,9,17)
米騒動を経ることで、未解放部落住民の間でから「平等な人格的存在権、平等な生存権」を求め、平等な人格をもつ「人間」であるという自己主張がおきてきました。かれらは要求します「万人と同等な空気を呼吸し、同等な光明を仰ぐことだ」と。
この章は、部落問題研究所『部落の歴史と解放運動(近代編)』松尾尊兊『民本主義の潮流』金原編『日本民衆の歴史7』などを参照しましつつ記述しています
2,米騒動と未解放部落
米騒動は差別と貧困に苦しむ未解放部落住民をおおきく揺り動かしました。
大都市での米騒動の先頭を切る形となった京都における米騒動では、部落住民が大きな役割を果たし、大阪、神戸、岡山、広島、三重、和歌山でもかれらが同様の役割を果たしました。すくなくとも22府県で、部落住民が参加しています。
部落には、富山の漁村同様の貧困が蔓延していました。そこは米価急騰で厳しい打撃をうける人びとが集住している、させられている場所であったことから、女性・子どもを含めた地域ぐるみのたたかいとなりやすい性格を持っていました。(ちなみに米騒動にかかわって逮捕された女性35名中の34名まで部落の女性でした)。さらに、投書に見られるような日常的な差別問題の解決を求めるエネルギーが蓄積、それが米騒動をきっかけに爆発した側面をもっていました。また部落同士の日常的な交流や「身分」的連帯感が、組織的な行動を可能にし、活動範囲を広げたとの指摘もあります。
米騒動は部落住民の視野をひろげるきっかけともなりました。米騒動は、地域外の都市住民、下層民や労働者・農民と共通の要求の上に発生した共同行動でした。地域の内外をとわず、自分たちの生活を脅かす者に対し、共に立ち向かう中で自然発生な連帯を生み出していました。「米価の上昇で苦しんでいるものは自分たちだけでない」「同じように苦しんでいる人びとが部落外にも多くいる」ことを体験的に学びました。
二つの投書には、かれらの直接的・間接的な体験がかかわっているように思われます。
だからこそ、当局の取締は部落に集中しました。検挙・送検者の約一割を部落住民が占めました。騒動の原因を部落住民にもとめるような記事も発表され、分断を広げるような動きも生まれました。米騒動の拡大、部落住民の米騒動への積極的な関与と自然発生的な部落内外の連帯の形成は当局に脅威を与えました。
また明治末年以来進められてきた部落に対する社会政策(「同情融和政策」)の強化を求める声も部落内外で高まりました。部落のありかたに対する詳細な調査がすすめられ、部落改善費も計上されるようになりました。しかし、こうした運動は、差別の原因を部落住民のなかに求めようという傾向におちいりやすく、「平等な人格的存在権、平等な生存権」という観点にかけるものでした。投書の中の「子どもをだますような改善策をそうそうありがたく甘受していられようか」との一節はこうした運動に向けられたものでした。
3,部落問題の「発生」
(1)近世身分制社会のなかでの「えた」「ひにん」身分
「部落問題」は近世の身分制の問題ではありません。近代日本の問題です。その点を簡単に確認しておきたいと思います。
部落問題の出発点は江戸時代の身分制にあります。そしてとくに差別が苛酷であった「えた」(「かわた」)身分にルーツがあります。
江戸・身分社会は人びとを身分によって分断し、「分」を守るという形で「差別」をうけいれさせ、身分ごとに職業や公的奉仕などの役割(「役」)を分担させることで秩序を維持している社会でした。
こうした身分社会において「えた」身分の人たちには死んだ牛馬を引取るという「特権」があたえられており、それを処理して皮革を生産し提供する「社会的役割(「役」)」を請負い、あわせて下級刑吏としての労力提供を義務づけられました。こうした「役」は、他の身分の差別の対象ともなりましたが、同時にかれらの生活を保障するものでもありました。
またかれらはこうした「役」とともに小規模な耕地を耕作する農民でもありました。しかし、多くの場合、かれらの「村」は他の身分の人びとが住む「村」からは切り離された場所におかれつつ、他の「村」の村役人の支配を受ける「枝村」となっていました。
こうした「えた」身分のあり方、生業や「役」への賤視、生活空間の分離、地域社会の位置づけなどが、周辺の人びとの賤視と差別を生み出す基礎となっていました。
なお、「えた」身分と同様に「被差別身分」とされる「ひにん」は、物乞いであり、同時に浮浪者の保護・取締や警備などを主な「役」としていました。時代劇などに「町」ごとに警備する番人が描かれることがありますが、こういった職務が「ひにん」の「役」であり、「特権」でもありました。かれらは分散して生活することが多かったため、のちの「部落」につながることは少なかったといわれます。
このように近世の身分社会は「身分差別」を前提とした社会でした。差別は「不当」なことでなく、差別しないことが不当とされた時代でした。こうした身分秩序のなかに「えた」「ひにん」という身分が位置づけられていました。
(2)「部落問題」の発生
ところが、明治時代になると事態は一変します。身分差別が基本的に「廃止」されたのです。
1871年10月(明治4年8月)、太政官は「穢多非人ノ称ヲ廃シ身分職業共平民同様トス」との布告を出します。いわゆる「解放令」です。「えた」「ひにん」といった族称が廃止され「平民」と位置づけられ、平民との間の身分的・職業的な差異も廃止するとされました。こうして「法」的に位置づけられた「差別」はなくなり、かれらを差別する「法」的根拠もなくなりました。このことは、強調しておく必要があるでしょう。
にもかかわらず、おもに旧「えた」身分の人への差別が、これ以後も残りました。これが「部落問題」です。
「職業共平民同様」との規定は、死牛馬処理、下級刑吏といった身分的な、賤視をうけやすい「役」からの解放でした。こうした仕事が差別の原因だと考えていた人たちの間では好意的に受け入れた人たちもいました。しかし、それは生活を支えていた生業を失うことであり、がかれらが独占していた仕事に他の人びとが入り込むことであり、市場の原理が持ち込まれることでもあり、生活維持のための経済的保障を失うという意味でもありました。かれらは他の仕事への進出が困難な中、それまで生活を支えていた仕事が失われたり、縮減されていくことは、かれらを経済的困窮に陥れました。(この項、稲田耕三「かわた村は大騒ぎ」「極貧の村の暮らし」参照)
こうして近代の「部落」は、近世以来の「社会的隔離」という性格を背景とする封建的な差別・偏見の維持・継続とともに、仕事を失い「半失業状態の人が集まっている地域という性格を」強めました。
封建的・身分的な差別の残滓と、近代資本主義における貧困が結合したもの、これが「部落問題」です。
(3)差別問題の続発
農村での半失業状態のなか、大都市などへの仕事をもとめる人びとの流れが生まれます。かれらは知人や親戚といった関係者を頼りました。こうして農村部落から都市へという流れが生まれました。そして、大都市部落が形成されていきました。
明治時代以降の近代化は、「四民平等」という原則にたち、資本主義社会は「社会的隔離」の壁をこえて、部落内にもはいりこみ、地域内・外の接触を増やしていきます。
そうした接触がもっとも顕著に表れたのが教育の場面でした。学制に基づき、村々に学校が設置され、そこで地域内外の子どもたちの接触が生じます。部落住民のみを対象とする「部落学校」「部落学級」が設置される一方、四民平等の原則に基づく「統合学校」もつくられます。
しかし、社会の中に差別が残存・維持され、さらに生活と教育水準の格差が相まって、学校内で「いじめ」や差別が横行し、部落の子どものみならず、部落出身の教師にたいする差別・排除も発生しました。部落出身の教師を忌避して同盟休校がおこなわれるといった露骨な差別事件も多発しました。
部落史の記述は、前掲『部落の歴史と解放運動』塚田孝『近世身分社会の捉え方』鈴木良『教科書のなかの部落問題』畑中敏之『部落史を問う』などを参照しました。また近世身分社会については別の稿でも論じています
4,部落改善事業と全国水平社の設立
産業革命が進行する中、社会の中に社会問題への関心もたかまってきました。
そうした中、「細民」問題というかたちで「部落問題」も注目されはじめました。部落の生活環境と生活改善によって差別解消をめざそうという地域内外の運動が「同情融和」をめざす、部落改善事業でした。
しかし、部落差別の原因を部落住民内部に求めるような運動への疑問も生まれてきます。「なぜ、自分たちが差別に対して卑屈になる必要があるのだろうか。そもそも、差別自身が間違いなのであって、自分たちは胸をはって差別は間違いであり、それを正すように主張すべきではないのか。」といった疑問が生まれました。さきの投書はこうした流れの中から生まました。
部落改善事業と米騒動は、部落差別を解決するにはどうすべきなのか、とくに青年たちに問いかけました。親睦・共済、文化・学習を目的としたグループが各地で結成されます。頻発する差別事件への対応も生まれました。それぞれのグループは地域や都府県の壁を越えて結びつきました。
こうして1922(大正11)年3月、部落住民が自らの力で、部落問題を解決することをめざすに結成されたのが全国水平社です。その設立宣言(「水平社宣言」)は、その思想性の高さ、格調高さから、日本における「人権宣言」といわれます。
吾々がエタである事を誇り得る時が來たのだ。
吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行爲によつて、祖先を辱しめ、人間を冒瀆してはならぬ。そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦はる事が何なんであるかをよく知つてゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである。
水平社は、かくして生れた。
人の世に熱あれ、人間に光あれ。
この宣言の草案執筆者西光万吉は、この大会の模様をのちに次のように回想しています。
とにかく感動しましたな。みんな涙をポロポロこぼして…あんなことはちょっとありませんね。といいますと、それまでは、エタ、新平民などの名で賤視・差別されて、世の中からけものに扱われていたものが一堂に集まって、おれも人間だと宣言したのですから、実に感動極まった声を挙げて泣きました。…今まで心の内にあったあきらめと卑屈の気持ちが、あの大会で一ぺんに散ってしまったわけですよ。俺たちも人間だというこの判りきった言葉が、それまで言えなかったんですから…あの大会の空気は口では言えませんね。
こうして全国水平社が設立されました。
人間らしく生きることを拒否されてきた人たちが、自らの手で人間らしさを取り戻すと高らかに宣言したのです。
5,差別糺弾闘争と「人民的融和論」
こうして全国水平社が生まれました。
しかし、どうすれば部落差別をなくすことが出来るか、具体策で確固とした方針はありませんでした。
かれらが行ったのは差別発言をしたり、差別的行動した個人に対する徹底的な糺弾でした。「社員」たちが押しかけ、反省と謝罪をもとめるといったやり方です。こうした運動は急速な広がりをみせ、1922年には69件にすぎなかった糺弾闘争は、翌々年の1924年には1046件へと急速な広がりを見せました。
しかし、こうしたやり方は多くの深刻な問題を生み出しました。糺弾を受けた側の多くは、真摯な反省と謝罪よりもその場逃れの謝罪に終始しました。部落住民とのかかわりをさけとするなど逆に両者の間に壁をつくる傾向も生まれました。こうしたやり方への反発から自警団が結成されたり、全国国粋会という右翼組織の介入・衝突も発生、警察・検察などの介入・弾圧も行われ、活動家の多くが捕らえられました。
水平社の中でも、徹底糺弾闘争に対する疑問も生まれ始めました。当時勢力を拡大しつつあった社会主義運動の影響を受け、差別の背景にある社会やその構造を問題にすべきだという考え方です。部落差別をなくすためには日本社会の変革が必要であり、その実現には労働組合や農民運動との協働が必要だとの主張もなされます。(「労農水」三角同盟)
軍隊内で頻発する差別事象を問題視し、兵士の政治的自由をもとめるなど軍隊のあり方を問う要求、さらには軍隊内の差別を天皇に直訴する事件なども発生、軍隊を揺るがせました。
さらには、部落内外の結婚を無効とする差別を肯定する判決を出した裁判所を、全国規模で批判する高松差別裁判糾弾闘争(1933)も発生しました。
1935年には、部落差別は市民的権利と自由の問題であり、人民諸階層との連帯と結合を通して、差別の根拠となる体制の変革をめざすといった「人民的融和論」(1935)も生み出されました。
しかし、こうした水平社の運動も、1931年の満州事変にはじまる軍国主義的な動きの中で、弾圧を受け、その渦のなかに呑み込まれいきました。
<米騒動と大正デモクラシー~人間らしい生き方をめざして>
はじめに~大正デモクラシーとは何か
Ⅰ、高井としをの生き方~一枚のビラが人生を変えた
Ⅱ、「明治」への異議申し立て~「白樺」「青鞜」の時代
<以上(1)>
Ⅲ、大衆による異議申し立て~日比谷事件から普選運動へ~
Ⅳ、友愛会の成立と労働者~尊厳を自覚した労働者たち
<以上(2)>
Ⅴ、米騒動の発生~立ち上がった民衆たち
Ⅵ、全国水平社の創設~部落解放運動の高まり
<以上(3)>
Ⅶ,小作争議と農村の民主化 ~農民組合の結成と普通選挙
おわりに~大正デモクラシーと戦後民主主義
<以上(4)>