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米騒動と大正デモクラシー~人間らしい生き方をもとめて(4)
Ⅶ、小作争議と農村の民主化 ~農民組合の結成と普通選挙
1,地主小作関係と名望家支配~明治後期の農村
明治後期の農村を経済的に支配したのは地主小作関係でした。
その背景にあったのは資本主義形成期(「原蓄」期)に特徴的な過剰人口=半失業状態です。地租改正・松方デフレによって近世的な農村秩序は崩壊したものの、労働力を吸収しうるだけの経済発展がない状態が近代地主制をうみだしました。とくに農村の過剰人口は、農業のみでの生活を困難にするほど小作料を高騰させました。その結果、農家はさまざまな形での収入をはかります。養蚕などの副業、口減らしを兼ねた出稼ぎ(女工・奉公人)、および農業労働者や土木事業などでの現金収入などです。こうした米作以外の収入が高額小作料を実現させていたのです。
地主の手にわたった小作料は、成長しつつある工業や鉄道などのインフラ整備へと投入され、農村に再投資されることはまれでした。さらに現物小作料は小作農に米価上昇の恩恵を与えることは少なく、したがって農業生産力上昇にはつながりにくいしくみでした。米騒動の背景には地主小作関係の存在もありました。
さらにこうした農村社会のありかたが、地主を中心とする「むら」のあり方・名望家による地方支配を実現させていました。
かれらは地主小作関係という経済的支配関係を背景に、明治政府のもとで整備された地方行政制度を通じて地方支配を実現していました。とくに高額納税者を優遇する選挙制度が、自作農など中農層への支配力行使を可能にしていました。
こうした地方支配層の要求は、おもに立憲政友会を通じて、あるいは貴族院の高額納税者など通じて、国政に反映されました。
以後、農村での動きについては大門正克『近代日本と農村社会』を、日本農民組合については中村政則『労働者と農民』を参照させていただきました。
2,大戦景気下の農村
大戦景気は日本社会を大きく変えました。好景気と米価など農産物価格の急騰は地主たちには莫大な収入を獲得させました。地主経営は儲かる仕事であると考えられ銀行などによる収益目的の土地投機も発生、新たなタイプの寄生地主も急増しました。
中農のなかからも成功者が生まれました。米価の上昇と都市向けの農産物生産はかれらの中から成功者を生み出しました。かれらはさらなる収益をもとめて、農業への出資を増加、化学肥料の大量投入などもおこなわれます。しかし、これによって生じた債務がかれらを苦しめることになりました。
こうした好景気の恩恵を受けにくかったのが小作農です。高米価にかかわらず、小作料は現物(米)で収めたため、恩恵をうけることは少なかったのです。しかも、残された米だけでは不足する農家は、端境期の8月になると逆に米を購入せざるを得ない立場に立っていました。
米価の上昇で膨大な収益を得る地主がいる一方、米を作りながらも米を買うことさえ困難である農民がいるという不条理が貧農を米騒動、さらには小作争議へ向かわせました。
3,農村社会の変容
大戦景気は、日本を農業中心の経済・農村中心の社会から、工業中心、都市中心の社会へと変えました。
大戦景気を経ることで、農業は日本経済において従属的な地位となりました。
急速に拡大する工業は大量の労働力を必要とします。農村から都市へ、農業から工業へという人口の流れが生じました。農村への工場進出のなかで農村の過剰人口は解消されていきました。
このことはまず農業労働力(「手間賃」)の上昇という形で現れます。小作を希望する農民も減ってきます。小作を返上しても生きていける可能性が生まれてきたのです。
さらには、都市での豊かな生活や、工場などでの勤労を体験した人びとの影響も受け始めました。自由や「人間の尊厳」といった権利意識に目覚めた人、労働運動の体験者、いろいろな形で大正デモクラシーが農村に影響をあたえはじめたのです。
村に戻った人たちは、地主が収益を独占し、政治を私物化することに驚きました。農村の「遅れ」を痛感せざるを得なかったのです。
軍隊体験も農村を変えました。一般社会とは異なるルールによって運営される軍隊は、「地方」=一般社会での関係性が通用しにくい「平等」社会という側面をもっていました。貧農出身の下士官・古年兵が、地主出身の二等兵・新兵を服従させる世界でした。こうした体験も農民たちの意識を変えました。さらに在郷軍人会は、軍隊の関係性や「功績」に権威を与え、「むら」の力関係に影響を与えはじめました。
またほぼ100%に近づきつつあった就学率と識字率の向上は、知識と教養を人びとに開放する側面をもっていました。
こうして大地主=村落指導層による旧来型支配=非民主的な運営や村政の私物化などをつづけることは困難となりました。
4,せめて「手間賃」並みの収入を
権利意識に目覚め始めた農民たちは、自分の足もと、生活や地域を見直し始めます。
右の表は、1924(T13)年、岐阜の農民組合が自分たちの農業経営の収支から、一日の労賃を計算したものです。
この年の産高は2.1石、米価に換算すると84円、その他の収入を加えて92円の収益がありました。しかし小作料が1.5石=60.2円(小作料約71%)なので粗利はわずか24円にしかならず、さらに必要経費約10円を差引くと、収入は21.7円(0.54石)にしかなりません。
ここまではそれまでもわかっていたことでしょう。ここでかれらが行ったのは、この収入を生産に要した日数で割ってみたのです。こうすることで1日あたりの収入が出ます。その結果はほぼ90銭でした。ちなみに1924年の労働者の最低賃金水準が1円50銭、この地域の農家が「手間賃」として払っている水準が2円50銭です。つまり、農民は最低賃金の60%、自分たちが雇う農業労働者の賃金の36%分しかもらえていないことに気づきました。
なぜこんなことになったのか、理由は明らかです。小作料が高すぎるのです。
こうした数字をもとに農民組合は小作料の値下げを要求しました。せめて、他業種の賃金並みの収入が得られるように、時に自分たちが支払う「手間賃」並みにせよと。
5,農民運動と日本農民組合
小作料引き下げなどをもとめる農民運動は大戦さなかの1916(大正5)年ごろ、岐阜県から始まり、関西、関東・新潟へと広がっていきました。きっかけとなったのは米の市場価値をたかめるための穀物検査制度を小作農民の負担で進めたことでした。等外とされた米は小作料として受け取らないといった地主側の姿勢に対し小作農たちが反発、農民運動が生まれてきます。1917(大正6)年には173にすぎなかった、小作人団体は1922年には1340へと急増しました。
こうしたなか、1922(大正11)年、賀川豊彦・杉山元治郎らが結成したのが日本農民組合(日農)でした。
杉山は組合の結成に先立って創刊した『土地と自由』で次のように語りました。
地主を苦しめ、地主を倒せば、小作人がよくなるというのは大なる誤りである。(中略)互いに協調し、相互扶助せねばならぬ。
しかるに農業労働者の実際生活を見るに、「米つくり米食わず」とはなんという悲惨な矛盾であろう。
土地を耕し、肥料を与え、額に汗してつくりたる米の大部分は地主に納め、下級米や砕け米、合してわずか数ヶ月の食料を支えるに足りないとは、ここに何らの欠陥と間違いがないであろうか。
今や、時代思潮の推移と、農民自身の覚醒のため、農村社会問題が日に日に盛んになり、「小作人に土地を与えよ」との叫びはだんだん強くなってきたのである。われらはこの際、いよいよ農民の覚醒を促し、農村の向上発展を図り、引いては国家存立の安定を期さねばならない。(『土地と自由』大正11年1月)
賀川や杉山のねらいは、地主と小作の協調・相互扶助をしつつ、小作農の地位の向上をめざすという友愛会と似たものでした。
しかし、時代が変わっていました。友愛会が労働者の意識改革をめざしたのにたいし、すでに農民たちは立ち上がり始めていました。日農の功績は「相互に連絡がなくバラバラに行われていた農民運動を相互に結びつけ、かつそれを単一の全国組織」へとむすびつけたところにありました。日農の結成に力を得て、さらに多くの地方で農民組合が設立されていきます。
6,小作争議の活発化
1920年、バブル経済の様相を呈していた日本経済は、3月になって、突如、戦後恐慌へと突入します。これに影響され農業も、行き詰まりをみせます。
さらに、米騒動の結果、急速に進められた輸移入の増加が米価を低下させました。
こうしたなか、西日本、さらに甲信越の養蚕地帯を中心に小作争議が急増します。小作農民たちは、小作料の引き下げ、さらには小作地に対する耕作権を確保(一方的に土地を取り上げられない権利)をめざしました。さらに農村人口の減少を背景に、一斉の小作地返還といった戦術をとる場合もありました。こうした運動によって、小作料の引き下げが全国で実現、なかには三割もの削減が実現したところもありました。そして一時的であった小作料削減はしだいに恒常となっていきました。
小作争議のうねりの中で、地主経営はコストに見合わないものとなってきました。銀行なども地主経営から撤退しはじめます。地主経営は時代にあわないものとなり始めたのです。
7,農民組合と村の民主化
小作争議は「村」のあり方、さらには「村」を超えた地域のありかたを問い直すきっかけともなりました。それは大正デモクラシーが農村に浸透していくことでした。デモクラシーの運動の成果も村を変えました。
1920年、国政選挙に対しては拒否された男子普通選挙でした。しかし地方選挙では男子普通選挙が導入され始めます。1921(大正10)年の町村会選挙では富豪階級の当選者が減少、中産階級の当選者が激増する結果となり、それまでの大地主=名望者政治が緩み始めます。1923(大正12)年の農会総代選挙では農民組合の対応が進まなかったにもかかわらず、総代当選者は28%を小作農がしめました。
1925年以後、農民組合が本格的に選挙に取り組むなか、小作人が町村会議員の1/4、町村農会総代では三割を占めるようになっいきました。
農民組合に属する小作農などは自作農など中農層とともに有力地主による半封建的支配を変革すべくとりくんでいきました。
「農民組合は、男子普選を有力なテコとして農村社会の広い領域に進出し、地主を中心とした旧来の農村社会秩序に代わって、新たに普選による平等原理を軸とした農村社会の創出をめざした」と大門氏は総括しています
農民たちによる文化運動も広がりをみせました。
日露戦後、行政の下請け機関として整備された青年団なども、こうした村の民主化の中でより開かれたものへと変わっていきました。こうしたなかで、農村に教養のデモクラシーともいうものが生まれました。とくに盛んだったのは長野県です。上田では、タカクラテルら多くの進歩的文化人が講師を務めたことで有名な上田自由大学(1921~)ももともとは、自主的な活動単位となった青年団が中心となったものでした。そして、こうした運動は長野県県下に拡大していきました。
また新潟県の木崎村での小作争議では、同盟休校にはいった子どもたちの教育機関として、さらには農民の教養をたかめるため木崎農民学校(1926)の建設がめざされました。
古い体制に縛り付けられ、苛酷な支配と収奪を強いられていた農民の間で、これまでのあり方を変革しようという動きが広がっていきました。
8,農村における「個人」の形成過程
大門正克氏は前掲書の中で、「農村における「個人」の形成過程」と題した非常に印象的な文章を書いています。今回のテーマ全体にかかわる内容なので、長文ですが、引用させていただきます。
日本の近代社会の骨格が整った日清・日露戦争期は、地域社会と「いえ」を基盤に、独立した男子の有産者(…)が「公民」として地域社会の担い手に認められた段階であった。これに対し、財産をもたない小作農民や「いえ」の代表者でない青年は、まだ地域社会や「いえ」に包摂された状態にあった。
この状態は大正デモクラシー期に大きく変貌する。「下層のデモクラシー」は小作農民を「個人」として出現させる大きな契機となった。小作農民は、旧来の「むら」を基盤に小作組合を結成し、さらには小作階級として横断的に結集することで、地主や有産者からの自立を図った。この段階で最初に「個人」として出現したのは小作農民の男子戸主であり、階級への結集は「いえ」を代表する男子の自立を促した。
「いえ」と「個人」の関係に対立・葛藤の契機をもちこんだのが「青年のデモクラシー」である。青年の中でも、とくに小作青年は「階級」としての自覚を持ち「世代」がかかえる課題を提起した新しいタイプの農民であり、農村における「個人」出現の一画期になるものであった。
日本近代で特徴的なことは「個人」が新しく出現したそのときに現代化の象徴ともいえる普選が実施されたことである。
男子普選は、小作農民の社会進出を導くとともに、成年男子をひとしく社会の構成員の一員として認め「いえ」とかかわらない男子「個人」を出現させる結果となった。
大門氏は農村における「個人」の形成について論じているのですが、ここに描き出される農村の変化、「個人」の形成の中に、大正デモクラシーが何であったかを考えるヒントを多く含んでいるように感じます。
おわりに~大正デモクラシーと戦後民主主義
1925年、加藤高明護憲三派内閣の下「普通選挙法」が成立、男性に限定されるなど多くの限定をもってはいましたが、「財産」や「いえ」といった制限をうちやぶり、衆議院の選挙権が「国民」全体に解放されました。日露戦前、100万人に満たなかった有権者は1200万人を超えます。(とはいえ本土人口の20%にすぎなかったのですが)。
また、労働運動や農民運動の高まりの中で、形式的限定的とはいえ、労働者・農民の団結権や争議権も認められ、無制限の労働者搾取も緩和されていきました。半封建的な高額小作料も20~30%減額されました。労働者・農民の無産勢力も中央や地方の議会に進出、旧来の「むら」社会「いえ」のありかたも代わり始めました。女性に地方議会の選挙権を与える婦人公民権法案も1930年にはいったん衆議院を通過しました。
大正デモクラシーは、「いえ」「むら」「世間体」といった抑圧、近世以来の「お上」「客分」といった関係性から人間の解放をもとめる運動でした。それはこうした関係性をやむを得ないものとして受け入れている自分自身からの解放でもありました。新たな時代のうねりのなかで人びとは「人間」「個人」の尊厳に目覚め、主体的に、連帯しながら、さまざまな問題に立ち向いました。
抑圧との苦闘の中で生み出された大正デモクラシーの「ことば」、水平社宣言・青鞜創刊の辞など、はすぐれて普遍的なひびきをもっています。国家・国民を超えた普遍的な人間のあり方=「世界民」をめざす思想も生まれました。(こうした最良の成果の一つとして恒藤恭の「世界民の愉悦と悲哀」をあげることができます。)
1929年に成立した浜口内閣の下では、戦後改革のなかで実現するいくつかの改革も俎上にのぼっていました。
1945年、GHQから「五大改革指令」を受け取った幣原首相は、その多くは自分たちがすでに議論してきたことであるとして感じたといいます。幣原は浜口内閣の外相でした。大正デモクラシーは「日本国国民における民主主義的傾向の復活」(ポツダム宣言)という内容にふさわしい側面をたしかにもっていました。
大正デモクラシーを経る中で、人びとは自分を「客分」ではなく、「国民」、日本という国家の一員であるとの意識を強くもちはじめました。そして「自分の国」への主体的な関わりを強めます。開国をきっかけとして受け入れを強要された「国民」というあり方を、主体的・民主的にとらえ返そうとし始めたことでもありました。徴兵や納税など負担でのみ「国民」として期待する「国家」にたいし、「『国民』として正当に遇せよ!」と異議申し立てをしたのです。
こうした「国民」が見た「日本」は、閥族に支配された「正義」に反する「非立憲」的な国家でした。そして「国民」の意思を尊重し、国民を大切にする民主的な国家・社会を求めたのです。
他方、「国民」という自画像は、一等国「日本」と遅れた「アジア」、「国民」と「非国民」、「一等国民」と「劣等国民」といったような図式をも生み出す危険性を持っていました。「外への帝国主義、内への民本主義」という大正デモクラシーのあり方はこうした問題性を示すものです。そして「国民」ということばは国益・国体ということばと結びつき、まがまがしい響きを強め、ついにはデモクラシーをも押し流してしまいます。人びとの、この国は「自分の国である」という思いを残して。
そして日本は「暗黒の時代」へと向かいました。
しかし、大正デモクラシーのなかで育った力は、暗黒の時代をこえて戦後民主主義を主体的にうけいれる力もでもありました。平和と人権を求める世界に人びとの願いに呼応できる力でもありました。大正デモクラシーという時代を経ることで身につけた力でした。
戦後民主主義は、アメリカが、GHQが一方的に植え付たものでも、強要したものでもありません。大正デモクラシーなどのなかで、人びとが手に入れた力が、時を得て姿を見せたものでした。
<おわり>
<米騒動と大正デモクラシー~人間らしい生き方をめざして>
はじめに~大正デモクラシーとは何か
Ⅰ、高井としをの生き方~一枚のビラが人生を変えた
Ⅱ、「明治」への異議申し立て~「白樺」「青鞜」の時代
<以上(1)>
Ⅲ、大衆による異議申し立て~日比谷事件から普選運動へ~
Ⅳ、友愛会の成立と労働者~尊厳を自覚した労働者たち
<以上(2)>
Ⅴ、米騒動の発生~立ち上がった民衆たち
Ⅵ、全国水平社の創設~部落解放運動の高まり
<以上(3)>
Ⅶ,小作争議と農村の民主化 ~農民組合の結成と普通選挙
おわりに~大正デモクラシーと戦後民主主義
<以上(4)>