日本経済の「三本柱」と大戦景気

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日本経済の「三本柱」と大戦景気

日本経済の「三本柱」

「講座派」の山田盛太郎は、戦前の日本資本主義は製糸業(それと結びつく形での養蚕業)綿工業(綿紡績・織布)軍需産業の三本柱で支えられている指摘しました。
まずこの三本柱を中心に、現在の研究成果も踏まえながらみていきましょう。

生糸・養蚕・絹織物

幕末以来、日本の輸出品の中心であったのが生糸です。綿糸・綿織物と違って原料などすべてが純国産であり、生糸さらに絹製品輸出の収入はすべて貿易収入に貢献しました。貧しい製糸工女が紡いだ生糸で軍艦を買い、日露戦争に勝利した」といわれるゆえんです。輸出先は主にアメリカです
さらに、養蚕が農家の副業として日本中に広がり、その収入が、子女の製糸工場などでの収入とともに、高額小作料に苦しむ貧しい農民の生活を支え、高額小作料を可能にしました。
しかし生糸など絹製品は基本的に贅沢品です。そのため世界とりわけアメリカの景気に左右されやすく、市場価格も乱高下しました。こうしたとき、製糸業者はリスクを繭価の引き下げなど農民に転嫁することで対処しました。先ほどの図式をおもいださせる事例です。

綿工業(紡績・織布)

綿工業は、開国によって海外から大量に綿製品が輸入され在来産業に破滅的役割を与えたため、輸入代替産業という位置づけで始まりました。当初は手工業やその改良型が主流でした。政府の補助と奨励によって器械紡績も導入されますが、コストの高さや熟練を要する複雑な工程、3000錘(すい:糸を紡ぎながら巻き取る装置)という工場規模などから世界には通用しませんでした。

実教出版「高校日本史A」P34

こうした事情を一挙にかえたのが、1882(明治15)年、渋沢栄一と大阪の資本家たちによる大阪紡績株式会社の設立です。1万500錘という大規模で、リング紡績機という最新鋭の機械を導入した世界水準の工場が建てられます。リング紡績機はそれほどの熟練が必要でなかったため低賃金の女工たちを大量に投入することが可能になりました。そして1日2交代制という過酷な労働条件で働かせてコストを下げ、安価で上質の製品を作ったのです。
最新鋭の工場で労働者の犠牲により紡がれた国産の綿糸・織布はまたたくまに国内市場を席捲、アジア(とくに中国)へと市場を拡大していきました。
ただ生糸と違い、綿製品の原料は輸入に頼らざるを得ません。国内消費も多い製品です。このため綿製品の生産増は輸入増につながる一面ももっていました。原料の綿花は最初は中国、のちにインド産やアメリカ産が使われました。このため対インド貿易ではつねに大規模な輸入超過となりました。
その陰で、江戸時代、先進農業の典型であった国内の綿花栽培は明治末年までに消滅しました。

軍事工業と中小・下請産業

「富国強兵」という国策によって発展したのが軍艦や銃砲、弾薬(のちには飛行機も)などを生産する軍需産業です。関連産業として製鉄業などを加えてもいいでしょう。東京と大阪、名古屋には官営の陸軍砲兵工廠が建てられました。
幕府が設立した横須賀造船所は明治政府に移管され、呉・佐世保・舞鶴とともに海軍工廠として整備され、三菱に払い下げられた長崎造船所とともに海軍を支えました。
1900年には官営八幡製鉄所も設立されます。現在の自動車産業でもそうですが、重工業は非常にすそ野が広い産業で膨大な下請け業者が必要となります。熟練の職工がその技術を生かして起業するなど、多くの中小の町工場誕生にもつながりました。
ただ軍需生産に特化した傾向が強く、重工業としての幅広い発展にはつながりにくく、機械工業など民需への広がりはなかなかすすまず、工場の機会の多くは欧米産のものが中心でした

第一次世界大戦と大戦景気

日本資本主義の構造が大きく変化したのが、第一次世界大戦をきっかけとした大戦景気です。

1914年に始まった第一次大戦は、「クリスマスまでには終わる」という大方の予想と異なり、長期化・残虐化の一途をたどりました。イギリス・フランスそしてドイツといった主要な参戦国は、大量の兵士を投入するだけでなく、大量で高性能の兵器の生産に国力を注入せざるを得ませんでした。勝敗は工業力と動員力によって決まるようになっていきます。このように戦争目的で、国内の人的物的資源を総動員するような体制「総力戦」体制といいます。
こうした戦争をたたかうヨーロッパ諸国にこれまで通りの貿易を続ける余力はありませんでした。それは、日本をはじめとするアジアにヨーロッパの商品がやってこなくなることを意味しました。
最初は青くなった日本の資本家たちは気づき始めます。「これは日本の産業にとってのチャンスだ」と。ヨーロッパからものが来なくなった分を日本の製品で代替できる。国内分だけでなく、アジア分も、さらにはヨーロッパ向けも。
戦争をつづけるヨーロッパとくにロシアから注文も殺到しました。あまりの注文に、シャツにボタンを縫い付けず糊で貼るという粗悪品も作られたという話が残っています。
まず物資の海上輸送が活発化し輸送費が急騰したため海運業が、船の注文が殺到することで造船業が、それぞれ栄えました。日本中に「船成金」が出現します。
アメリカでは、こうした事態がさらに大規模に起こっていました。兵器などの注文が殺到、空前の好景気となりました。儲かれば贅沢したくなる、とくに彼女にいいものを買ってやりたくなる。そう、「生糸」など絹製品が飛ぶように売れます。そのおこぼれで日本の大戦景気も加速されます。
需要が需要を呼ぶ状態になっていきます。
1917年、アメリカも参戦、困ったことが起きます。
下のグラフをみてください。新しい事業計画が次々と打ち出されていることがわかりますね。1915年には化学、16~17年には海運・鉱業、17年になって金属造船という風に産業を次々に変えながら産業が発展していく様子がよくわかるとおもいます。設備投資も増えていきます。
しかしグラフをよく見ると、もっとも伸び率が大きいはずの綿紡績、大戦中の設備投資をすすんでいないことがわかります。
なぜだかわかりますか?
軍需産業のところで、当時の日本はまだ重工業、とくに機械工業などは未発達であったことを話しました。この時期、紡績機械などは欧米から輸入していました。しかし、ヨーロッパからの輸入は止まりました。そのアメリカも参戦することで、軍需に資源を集中します。原料になる鉄鋼の輸出をしぶり、機械などもなかなか売ってくれなくなりました。日本は、資金はだぶつき気味なのに機械やその原料の鉄が手に入りません。やむなく軍艦を提供することと引き換えに、鉄を売ってもらいます。せっかくの好調、新しい機械を買おうにも買えない。
このため、殺到する注文をさばくため、古い機械をフル稼働させ、労働力を大量投入するという生産性の低いやり方で対処しました。
さらに好景気(さらにはシベリア出兵)を背景にした米など食料品の物価高騰は賃金上昇の圧力を強めました。だからこそ、大戦が終わり戦争直後のショック状態がおさまった1919年、爆発的に紡績での設備投資が増加したのです。紡績業には新規参入の工場が大量に出現、大量の工員が採用され、女工の引き抜きが過熱します。とくに新採用の女工に作業を教えられるベテランがねらわれました。賃金も上昇していきます。
講座派モデルとはちょっと違った感じになってきましたね。

戦後の好景気と戦後恐慌

1919年、いったん終戦によって落ち込んだ景気は、原内閣の積極財政で通貨量も増加、アメリカの好景気もあり、大戦中以上の好景気となります。輸入が再開すると鉄や機械などを手に入れようと各企業は高値で生産財を購入しました。あまった資金は株や土地などの投機にもまわされ、株価も急騰しました。地主が金儲けの手段となり、寄生地主になることが「財テク」になりました。成金が続出、花柳界は活況を呈します。資金の多くは銀行からの融資でまかなわれました。
大戦景気以上の好景気に見えました。なにか既視感のある風景ですね。次に来ること、もはやおわかりですね。
1920年3月、バブルがはじけ、戦後恐慌となります。株価は急落、さまざまな形で投ぜられた資金の多くは不良債権となりました。1990年代と同様に、1920年代を通じてこの不良債権が経済の重荷となり、不景気な時代を演出します

農業国から工業国へ、都市型社会へ

大戦景気によって日本の経済や社会がどう変わったのかを考えてみました。

これ以前、日本は欧米諸国に大量の債務(借金)があり「倒産」寸前の債務国でした。
ところが膨大な輸出超過によって国際収支が黒字化、大量の外貨が流入、世界に大量の資金を提供する「債権国」となりました。外貨の一部はロンドンなどの銀行にその一部を対外正貨として置かれ、さらに中国への投資に向けます。(その一部が西原借款という怪しげな投資に用いられ、ほぼすべてが返って来ませんでした。景気のよいときの日本はろくな買い物をしません。)

「米騒動」

バブルの時代、私のようなしがない公務員はまったく恩恵を受けず、マンション価格の高騰を見て「自分は一生、家は持つことはない」と暗然たる思いになったものです。景気からおいて行かれた人々は、この時代も、もっとたくさんいました。

 右のグラフを見てください。大戦景気の時代の物価と賃金、そして賃金を物価で割った実質賃金です。
1914年を100としてその変化を示しました。すると、賃金も確かに上がっています。しかしそれ以上に物価が上がっていることがわかります。好景気と都市人口の増加が物価を急速に押し上げ、ついには1914年の2.3倍となります。実質賃金は急速に下落、1918年には1914年の0.68と落ち込みました。
それでも、物価上昇を賃金上昇でカバーできる労働者は「まし」だったのでしょう。その日その日の収入でその日の糧を得る人たちにとっては致命的です。好景気の恩恵を受けにくい人たち、都市貧民街などに暮らす、都市雑業層と位置づけれれ人々に、より大きなダメージを与えました。(いわれなき差別のもと、多くが半失業状態にあった未解放部落住民の多くもその一部を構成していました)。かれらを中心に発生したのが1918年の米騒動です。
米騒動の中心となったのは日露戦争以後、大衆暴動の中心であった都市雑業層ですが、実質賃金の低下に苦しむ労働者・勤労者の強い共感を得ることにもなりました。こうした共感が以後の労働運動の発展や部落解放運動へとつながっていきます。

「都市化」の進展

でもさきに掲げた米価と賃金のグラフ、資本家たちからすれば、ここで切るのは納得がいかないでしょうね。そう、このグラフの続きを描けば違う歴史像が見えてきます。

1918年を基準とした米価水準で計算した実質賃金

右にしめしたグラフは、各業種の賃金を米価で割って計算しなおしたグラフです。1918年から20年、つまり米騒動の時期は減少傾向ですが、その直後、急増することがわかります。卸売物価ベースではさらに上昇幅は大きくなります。1920年以後の不景気のなかで実質賃金が上昇します。賃金コストが上昇した時代がきたのです。
「不景気の時代」と言われるますが労働者に有利な時代でもあったのです。それは農村にも波及します。このグラフは次回、もうすこしゆっくりと見ましょう。
大戦景気中、急速な工業化が進みました。それは勤労者の構成をも変えました。
大量の労働者が出現、工場労働者は女工にくわえ、男性の労働者も急増、重化学工業を中心に熟練労働者が増加します。
会社の規模の拡大と並行して、事務・管理部門が充実し、サラリーマン(俸給生活者)も大量に出現します。
都市での仕事が増えることによって、都市での勤労は「一家の主の仕事」という人の割合を高めます。都市で、一家を構え、家族を食わせていく切実さが増します。
農村に基盤をもち、一時的な仕事の場という印象のある女工や出稼ぎ労働者とはちがい、家族とともに都市に住み着くことで日本社会を一挙に都市化しました
都市雑業層としてくくられていた人たちも定職を得る機会が増加、大衆暴動という形の社会運動は沈静化、労働争議、小作争議といった階級的な社会運動が増加します。
エネルギー革命が起こり、家庭にも電灯がはいってきます。工場のエネルギー源も電力に変わります
こうして日本は農業国から工業国へ、農村型社会から都市型社会へと変わっていきました。

戦後恐慌から不景気な20年代へ

もう一度思い出してください。大戦景気の基本はヨーロッパとの貿易途絶でした。戦争終結はヨーロッパの製品が、アジアに日本に戻り、再び競争が繰り返されることです。
大戦中、日本もアメリカも、さらに中国などアジア諸地域でも工業が発展しました。そこにヨーロッパが帰ってきたのです。競争の激化がすすみました。そのころ日本は最大の貿易相手国のひとつ、中国からのボイコットをうけていました。二十一カか条要求などの強引な外交が原因でした。中国に対し、強い姿勢で臨むことを要求する声も高まりました。

さきにみた事情も日本産業を苦しめます。
古い施設設備のまま、コスト高となった労働者を大量に採用したことで日本の工業生産性は一挙に低下、これまでの利点を覆い隠しました
賃金は割高、企業は多額の債務を抱え、資金を供給してきた銀行の貸し出し能力も低下、金利が上昇する。こうした状態が1920年代の不景気の正体でした。
急成長した企業に倒産があいつぎ、融資していた銀行も休業や合併などにおいこまれます。政府の救済策が企業整理と生産性向上を妨げたとも指摘されます。グラフに見られるように全分野で収益率が低下しました。

しかし単純に不景気とは言い切れるのでしょうか。
この時代は、戦後との対比でいえば二つの全く別のイメージでとらえることができます。
ひとつはいうまでもなく「バブル崩壊」です。今ひとつはふしぎなことに「高度経済成長」です。経済の発展が、人々の生活や価値観・ライフスタイルを、社会の仕組みを、ダイナミックに変化させたあの時代の性格をも併せ持っていました
次の時間は、こうした内容をランキング表をもとに見ていきましょう。

<講座「経済史で見る日本近代」メニューとリンク>

1:経済史研究の原点~講座派の遺産
2:日本経済の「三本柱」と大戦景気
3:生産額のランキングからみた1920年代
4:金融恐慌と戦前社会の変化
5:金解禁断行と昭和恐慌の発生
6:世界恐慌の発生
7:昭和恐慌下の日本
8:昭和恐慌からの脱出と高橋財政の功罪(NEW)
9:総動員体制の成立(「戦時下の社会」より)

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