生産額ランキングからみた1920年代

ラジオ放送は1924年に始まり、またたくまに全国に普及した。 帝国書院「図説日本史通覧」p258
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生産額ランキングから見た1920年代

1920年代は「不景気な時代」なのか

大戦景気は、僕にとってもみなさんにとっても、イメージのわきやすい時代です。好景気、「イケイケ、ドンドン」の時代、いつまでも好景気が終わらない幻想にとらわれていた時代、1980年代後半、「バブル」のイメージです。
しかしそれは打ち砕かれ、「バブル崩壊」、経済の長期低迷、「失われた○○年」へとつづきました。この時期も一見似たような光景が現出しました。
1920年代は「不景気の時代」といわれます。右の年表のように恐慌が連続する「不景気の時代」です。追い打ちをかけるように1923年関東大震災が発生、社会不安が高まります。
しかし全く別の顔もあります。関東大震災という悲劇にともなって東京が郊外へと膨張、「大東京」へと変わる都市化の時代でもあります。大阪も同様です。サラリーマンなど新中間層を担い手とする大衆文化が都市から農村へと広がっていきます。大正デモクラシーが本格化し、労働運動や農民運動、女性解放運動や部落解放運動などの社会運動が活発化、懸案であった(男子)普通選挙法も成立、政党政治が定着したかのように見えた時代です。
国際協調がすすみ、憲法九条のモデルであるパリ不戦条約も結ばれ、平和が定着したかのようにもみえました。
この時代を主に経済を中心に見ていこうというのが今回の趣旨です。

生産額ランキングから戦前の経済を眺める。

経済史家の武田晴人の『日本経済史』(有斐閣)に主要製品生産高ベスト20を示す表があったので、それをパソコンに入力し、いろいろと加工するといろんなものが見えました。数字は苦手という人も多いかもしれません。私もそうです。まあ「アイドル(あるいは「女子アナ」)の好感度ランキング」みたいに考えてみてください。「なんであの人が人気あるのか」「あいつの人気は一瞬やったな」とかいうノリでツッコミを入れると考えましょう。ちなみに「永遠のアイドル」生糸はオレンジ、「売り出し中の」綿糸は緑というふうに色分けし、「同じ事務所(グループ)」たとえば綿糸と綿織物は同系色で示しました。

大戦景気

表の一番右が1914(大正3)年、第一次大戦が始まった年、次が1919(大正8)年第一次大戦が終わった翌年。この間に第一次大戦とそれにもとづく大戦景気がありました。
まず生産額の違いに注目します。
生糸では1・58億円から7・80億円と約5倍、綿糸も約2億から7・63と4倍弱と、いずれも生産額が急増しています。
とくに急増の品目(ここでは5倍以上)の数字をゴチックとしました。生糸をはじめ20品目中12品目です。十倍以上のとくに顕著なものは数字に色をつけました。海運、船舶(造船)、広幅織物(洋服などに用いる綿布、輸出にも用いられる)の3品がこれにあたります。船成金が登場する背景が見えてきそうですね。
しかし海運・船舶の名前の右には下矢印(「↓」)がついています。これは次の表での急落を示します。海運・船舶は次の1929年の表ではランク外に去ります。
数字の横には私が簡単なコメントをつけました。ピント外れもあるとおもいます。「出」は輸出関連と、「入」は輸入関連と、「内」は国内需要中心、と関連が強い製品と考えました。19年の表で「入×」は輸入が途絶したことによる輸入代替品目です。
こうしてこの表を見ると、1914年段階では国内市場中心だった日本が、大戦を経て輸出関連産業と輸入代替産業が急速に伸びたことがわかります。国内向けも生産を順調に伸ばしているのですが、他の伸びが大きすぎでかすんだというところでしょう。
国内市場を対象とする贅沢品「小幅絹織物」(「小幅」とは和服用の幅の織物です)が8倍弱と伸びているのは、「成金」のオヤジが奥さんや彼女に「西陣」や「京友禅」を買っているシーンが目に浮かぶような・・(失礼)。大戦景気を示すエピソードのように感じました。

重工業は停滞していたのか~「軍縮」のなかで

では1920年代の変化はどこでしょうか。1919年と1929年の表を比べると、生糸で微増、綿糸で減少というように主要産業での伸び悩みが目立ちます。(ただし、綿紡績業、表中では綿糸は、第一次大戦中から中国における日本人経営の工場展開=「在華紡」の形成が急速にすすみますので伸び悩みにはあたりません)
「不景気の時代」ですので14~19のような急増はありません。そこで増加の太字は1.5倍弱、顕著な伸びは2倍弱でマークしています。逆に2/3程度の減少は白抜きで示しました。
伸びたのは鉄道電力広幅織物、減少したのは石炭軍工廠です。この時期は、「重化学工業の進展」という印象があったので、意外な印象を受けました。重工業の王者、「鉄鋼業」も、「非鉄金属」も横ばいです。他方、化学工業は順調な伸びを見せます。
これは、二つのキーワード「軍縮」「エネルギー革命」で説明できそうです。
 大戦末期から20年代初頭の時期は急速な軍拡がすすんだ時代です。1921年、日本の軍事費は一般歳出合計14・9億円に対し7・31億円、実に49%を占めました。当時、仮想敵と考えていた「新横綱」アメリカ海軍の軍拡に対抗して艦隊整備をすすめたからです。
米ソの核競争をイメージしてください。日本もアメリカも他の国もこれではまずいと考えました。ソ連のように軍事費で国が倒産する羽目に陥りますから。こうした理由から、アメリカが提唱し、1922年ワシントン会議が開催され、軍縮条約で主力艦戦艦のことです)の保有制限が合意されました。それにあわせ、陸軍でも山梨軍縮・宇垣軍縮がすすみました。「軍縮の時代」が始まったのです。軍工廠の生産額の激減(3・15億円から2・08億円)はこの結果と見て間違いないでしょう。アニメ映画「この世界の片隅に」に呉海軍工廠に勤務していた義父がリストラされたというエピソードがありました。「船舶」のランク落ちなどはこれで説明できます。

逆に言えば、軍需の冷え込みにもかかわらず、鉄鋼業が横ばいであったというのは注目すべきです。実はこの時期はるかに良質のヨーロッパ産鉄鋼がディスカウント攻勢をしかけるという強烈な逆風が吹いていた時代です。このように考えれば、この横ばいは鉄鋼への高い需要、それも民間からの需要が大きかったことを示すと思います。さらに震災の復興需要も大きいかったのでしょう。
生産額の推移の表とグラフを示しました。金属工業と化学工業は1924年までの停滞をそれ以後回復し、機械器具工業は1924年に大幅に落ち込んだものの1929年には回復しつつあったことが見えてきます。

動力革命~蒸気力から電力へ

石炭の激減は、「軍縮」でも説明できそうですが、別の要素も大きいでしょう。29年の表でかつて石炭が占めていた第4位に、6・58億とベスト3に肉薄する勢いで出てきたのが電力です。電力は猪苗代発電所の開業など大戦景気の枠組で語られることが多いのですが、戦争中は電力不足が続いたのものが、戦争が終わり一挙に改善されました。それがこの表に反映されています。
産業とくに工業での電力利用がすすみました。1913年段階で工場の電力需要が電灯需要を上回り、1917年工業のエネルギー源として電力が蒸気力を上回りました。こうなると停電がつづいては困りますね。そこで当時の払い込み資本金の25%が電力業につぎ込まれました。電力会社も海外での多額の電力債を発行という手法で大量の資金を集めました。
こうして戦争が終って供給面の問題が解決した20年代、電力生産額が爆発的に成長、工場から蒸気機関(石炭)を駆逐しました。これが石炭の生産額の減少の主因でしょう。石炭業は1920年の戦後不況以降、出炭制限が相次ぎます。この間も、炭鉱業界では炭鉱の機械化・大規模化をすすめ中でコストを下げる取り組みと前近代的な労務管理の見直しを進めていました。
なお、工場での電力利用は一方では高温・高湿の労働環境からの改善を示しますが、他方では深夜労働をより容易にした面もあります。しかし、工場法の実施にともなう深夜労働の規制もありました。
そのため、紡績業などはこうした規制のゆるい中国に拠点を移していきます。(在華紡)。しかし、日本型労務管理の中国「輸出」は、中国人の反発を買うこととなり、民族運動とも結びつく形で労働争議が頻発します。

鉄道~都市の郊外への膨張

こうして20年代のキーワードとして「軍縮」エネルギー革命~蒸気から電力へ」という二つが見えてきました。もうひとつのキーワードが「都市化」です。他の部門の停滞をよそに2倍弱の伸びで生産額第2位に躍り出たのが鉄道です。
都市化の進行は住宅難と住環境の悪化をもたらしました。こうした動きを先取りしたのがのちの阪急電車の経営に携わった小林一三でした。小林は鉄道とタイアップして住宅を提供するという手法を編み出しました。こうして急速に増加しつつあったサラリーマンなど新中間層に快適な住環境を供給、さらに沿線に各種の施設を提供することで乗客の増加をはかりました。
こうした手法は首都圏にも取り入れられ、電車路線は郊外の住宅地と一体化する形で延長されてます。また高等教育機関も増加にともなう学生たちの通学需要も伸びました。
関東大震災は、東京を郊外に一挙に拡大します。1927年開通の地下鉄もあいまって鉄道路線は伸び、輸送力を画期的に伸ばします。それが鉄道が第二位に躍り出た理由と考えられます。

大衆文化の広がり

大戦景気をきっかけとした経済発展と都市化は、いっそうの大衆文化の広がりを促します。1929年で気づいたのが「内消費」「内文化」とコメントをつけた品目です。「印刷」が新たに11位に登場し、製紙も生産を伸ばしました。1927年にはじまる「全集ブーム」の好評から製紙業界は長く続いた操業短縮を中止します。大衆文化の広がりがこの表に示されています。
小幅織物・絹織物の凋落と広幅織物の急上昇は、和服から洋装への服飾の変化を、製糖・小麦粉は食生活の変化を、それぞれ示唆していると考えられます。とはいえ、製紙では操業短縮が相次ぎ、製糖業は台湾におけるサトウキビの栽培拡大を背景に「帝国」外からの輸入を不要にしたという側面が指摘されます。
なお、19位に製材が入ったことは、震災からの復興需要を示しています。

国内市場の拡大としての1920年代

最初にみたようにこの時期の輸出はふるいません。大戦中のような急速な経済の進展もみられず、大戦景気とその直後に行われた過大な設備投資、労働力不足に伴う賃上げが日本経済に重くのしかかっていました。このような輸出不振、成長の頭打ちによって人々に「不安定な時代」「不機嫌な時代」という印象を与えていました。
しかし、これまでみたような都市化・大衆社会化、軍需に頼らない重工業の成長などはこれまでような輸出に頼るのではない国内市場の拡大を示しているようにもみえます。
さらに、19年から着実の生産を伸ばした肥料の動きは、大戦景気に始まる構造変化が農村にも広がりつつあることを示すように思います。

別の表とグラフでこの点を確認してみましょう。三和良一『戦間期日本の経済政策史的研究』に掲げられていた表を元に作成したものです。1910年代前半からはじまった国内総需要は以後1920年代前半にかけて高度成長を遂げ、20年代後半に失速気味となり、30年前半で落ち込みます。
10年代後半以後の経済成長を支えたのは個人消費です。経済発展は内需とくに個人消費を刺激しました。こうした姿は、国内市場の急速な拡大に後押しされて、日本経済は急成長を遂げ、人々の生活を、考えを、そしてライフスタイルを一変させた1950年代から70年代初頭にかけての高度経済成長期と一脈相通じる面を持っています。
講座派モデルのイメージとは異なりますね。
にもかかわらず、なぜ1920年代は不景気で不機嫌な時代というイメージなのでしょうか。

1937年の産業構成をみる   ~重化学工業の驚異的な伸びと生糸の没落

先に、再び急成長が始まる1930年代後半を確認しておきましょう。総需要のグラフからは、とくに政府支出政府投資、および民間投資の割合が急拡大していることがわかります。このうちの多くを占めるのが軍事予算に関わる需要です。
最初のランキング表で詳しく見ていきましょう。
注目するのは一番右の1937(昭和12)年です。この年は日中戦争が始まった年です。さきの1929年との間の十年間には多くの出来事がありました。金解禁に始まって、昭和・世界恐慌、満州事変、五一五事件・二二六事件。経済では金輸出再禁止による円安とソシアルダンピングと指摘されるような輸出攻勢による不景気からの回復、農業不況の継続。こうした一連の流れの結果がこの表の上に刻印されています。
少し注意をしておく必要があります。この表が円ベースで示されていることです。この表の全体の中で、金本位制という世界基準で示された数字は一番最初の1914年の表だけであり、他はすべて管理通貨としての「円」基準です。単純に比較することは注意を要します。とくに1929年と39年に間には金解禁と金輸出再禁止というビッグイベントがあり、1939年は大幅な円安状態・インフレであったということも頭においてください。
さて、すぐ気がつくのは、半数が重化学工業関係を示す赤色です。鉄鋼に至っては5倍増、工業薬品4・5倍増という驚異的な伸びです。落ち込んでいた石炭も1・5倍増です(円安が進行しているため、単純な比較はできませんが)。電気機械が初めてランクインしたことも注目に値します。
他方、これまで日本の輸出を支えてきた生糸が順位も生産高も大きく下げました。養蚕業が崩壊し、これに依存してきた日本中の農村が危機に瀕したことが容易に想像できます。製糸業も没落します。これに代わって急速に順位を上げたのが化学製品でもある人絹(レーヨン)です。しかし、人絹は現在もその名をとどめる大企業が多いことからわかるように、中小企業中心の製糸工業とは性格を大きく異にします。
また、20年代に特徴的であった内需関連は生産額からみれば上昇していますが、他の品目の急速な上昇におされるかたちで順位を下げます。
このようにこうした二つの資料は、日本の重化学工業化軍需工業化をみごとに示し、本格化しつつある戦時経済の方向を示唆する表となっています。

「不機嫌な時代」を再検討する   ~伸びる「個人消費」と停滞する「民間投資」「輸移出」

では、再び1920年代を見ていきたいと思います。
今までいくつかの点を指摘してきました。
①輸出産業の伸び悩みと国内生産停滞、
②軍縮による軍需産業は停滞。重工業全体はどうかという問題、③石炭を利用した蒸気力から、電力への産業部門におけるエネルギー革命、
④都市化の進展と大衆文化の発展、国内需要の高まりと農村への波及、
こういった内容です。

さきの総需要の表を構成比で示したものが右の図です。さきにみた1910年代後半から20年代前半の高度成長ともいえるような急速な総需要の伸びは個人消費の増加が支えたことがわかります。
しかしこの時期は不景気の時代です。戦後の高度成長と大きく異なるのは民間投資の分野です。戦後は企業の積極的な設備投資が先導したのにたいし、1920年代民間投資は低下傾向を示します。1920年代前半の輸移出の減少も印象的です。
なお、軍縮によって、政府支出や政府投資は減少しそうですが、や震災復興もあって逆に増加傾向がみられます。軍事費から基盤整備?などへと政府支出の方向性が変わったことが見えてきます。

個人消費の伸び~実質賃金の「上昇」

次の賃金の推移を分析します。私たちは、米騒動をみて、人々の賃金は低位に押しとどめられていたような印象を持ちがちです。そこで米価を基準にした実質賃金のグラフをつくってみました。前回見ていただいたものです。

そこには米騒動の背景がくっきりと示されています。1916年まで上昇し続けていた実質賃金が一挙に下り始めます。茶色で示される男女平均実質賃金指数は1916年から1920年にむけて、1/3に減少します。賃金の上昇が物価とくに米価の急上昇においつかなかったことがわかります。さらに米騒動の中心となったものの多くは、米騒動の段階では賃金上昇と縁の薄かった都市雑業層が中心です。この表以上に、米価上昇のダメージが大きかっと考えられます。
米価ベースで実質賃金が下降気味であったということは、企業に対しては賃金上昇圧力となることが予想できます。注意してほしいのですが、好景気は大戦終了で一瞬歩を止めますが、1919年になって設備投資などで急成長を再開します。女工の争奪戦がおこったのはこのころです。労働力需要は高まり、いずれの職種とも賃金が急騰します。このグラフは日当を銭でしめしたものです。いずれの職種も1918年から20年の段階で賃金が急騰したことがわかります。
ところが1920年3月戦後恐慌が発生、一転して不景気となり、物価は低下傾向を示します。しかし、いったん上昇した賃金を下げることは困難です。1920年代は労働争議が頻発し、労働者の権利が拡大した時代です。こうして企業業績は厳しいが、形式賃金は高止まりしました。

再び実質賃金でみたいとおもいます。卸売物価と米価のどちらを基準とするかで様相は大きく異なります。
1920年代の物価低迷にともない、卸売物価ベースで見ればどの仕事でも、実質賃金が順調にのび、活字工にいたっては、1928年には十年前の2.5倍にも達します。
ところが米価ベースでは1~1.5倍程度を上下、ときには基準年(1918年)を下回ります。このことは食費の比率(エンゲル係数)の低い比較的豊かな人々は物価低迷の恩恵を得やすかったが、食費の比率の高い貧困層の恩恵は小さいといえそうです。このように生活のゆとりの実感は収入の上下によってかなり違いがあったことがわかります。
大戦景気以来の工業化の進行が労働力不足と物価上昇を招き、さらにさらに米騒動や労働争議を経験する中で、高賃金水準(それ以前が低すぎたのですが)が実現し、高止まりしていた事態が見えそうです。

小作争議の広がり~あまりに安い「手間賃」

こうした実質賃金の上昇は農村にも影響を与えました。都市・工業の労働力不足と高賃金、さらに都市の「豊かさ」は農村から都市への労働力移動を促しました。
このことは農業日雇いの賃金(手間賃)の上昇につながります。それは一方では自らの収入が増えることですが、他方で自分たちが雇う労働力が不足し賃金が上昇することでもありました。
こうしたなかで、農民たちは自らの経営状態を数字で確認しはじめます。収支決算をつけてみたのです。その例が、右の小作収支報告書です。

農民たちは、みずからの労働を賃金(手間賃)に換算し、あまりの低さに驚き、怒ります
大門正克氏が示したこの例(1924年の岐阜県鶉村)では、一日あたりの手間賃がこの年の米価水準で約90銭、平年の米価水準では約65銭にしかなりません。ところが先にみた表での農業日雇の相場は男性1円52銭、女性でも1円18銭。なぜこのようなことになるのか、その原因が収入の2/3に達する小作料の存在であることはあきらかです
こうして小作農民たちは、世間一般の賃金をえられる水準まで小作料を引き下げるべきと主張、小作料の引き下げをもとめる小作争議が主に西日本を中心に発生します。かれらは労働力不足を背景に、こうした数字をみせ、場合によっては小作返上も辞さないという武器をちらつかせながら、地主側の譲歩を引き出していきます。
世間が労働力不足ですから小作返上という作戦がとれたのです。村内に地主のいない集落では集落がまとまって要求しました。
こうして各地で小作料引き下げが実現、それは一時的なものから恒久のものへと変わっていきました。

<講座「経済史で見る日本近代」メニューとリンク>

1:経済史研究の原点~講座派の遺産
2:日本経済の「三本柱」と大戦景気
3:生産額のランキングからみた1920年代
4:金融恐慌と戦前社会の変化
5:金解禁断行と昭和恐慌の発生
6:世界恐慌の発生
7:昭和恐慌下の日本
8:昭和恐慌からの脱出と高橋財政の功罪(NEW)
9:総動員体制の成立(「戦時下の社会」より)

 

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