「歴史家」としての歴史教師

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歴史学と高校歴史教育(1)

「歴史家」としての歴史教師

大学の先生は高校日本史をけなすのがお好き?!

大学の授業を聴講するようになった。
大学の先生たちは、高校の歴史教育を否定的に語る人が多いようである。
いわく、
「丸覚え中心である」。教えるべき所を教えていない。
「荘園について1時間しか教えていない。そんな先生に習った諸君は不幸であ る」とまで。
 現役時代、「教師は人間サンドバッグ。殴られたり、蹴られたりしてなんぼや」とよくいっていたが、ここでも同じ様なことがいえそうだ。

「高校日本史の授業が好きだった人」

ある授業のひとこまを紹介する。主に一回生を対象とした講座である。
講師が質問した。
「高校日本史の授業が好きだった人」?
かれの予想はこうだったのではないか。
「手は上がらないか、あるいは上がってもわずかだ。
あんな退屈な日本史の授業ではなくて、大学の授業はもっと素晴
らしい」。
しかし、その予想は、まったく外れた。
私が見ただけでも、8割ほどの学生の手があがった
ちょっとうれしかった。
講師氏は「まあ、みんな歴史がすきで来たのだから」といって、ごまかした。しかし、予想外という様子はありありと見えた。
確かに史学科にすすんだ生徒だから、歴史が好きだっただろうし、歴史が好き な生徒は授業も好きだったに違いない。
逆に、歴史が嫌いな生徒を好きにするのは難問だ。
教師たちが、あの手この手で、生徒の歴史の興味関心を高めようとしている努力、大学の先生を中心とする歴史研究者が教科書執筆で同様の努力をしていること
こうしたことが、氏の脳裏には浮かばなかったようである。
高校教師は、昔の大学の教授先生のように、決まり切ったノートを朗読しているだけとでも 思っておられるのであろうか?

高校日本史は「指導要領の目標」達成が目的?

話を進めよう。
氏は、先に手を上げさせた後、高校の日本史をかれはこのように定義づけた。
「高校の日本史というのは、学習指導要領によって、「国際社会に主体的に生 きる日本国民としての自覚と資質を養う」という目的でなされている。その目 的で教科書は編成され、日本史の授業もその目的でなされている。」
実際の授業で「指導要領にどう書いてあるか」なんて意識して授業している人など、これまで聞いたことがない。
たしかに、シラバスや目標としては掲げてはいても、授業は、授業の論理、教育の論理で進む。
文部科学省が、教育 制度いじりや指導要領で自分に都合良く教育を作り替えようとしても失敗の連続であったように。

教科書は「現在の『日本』」を肯定するために書かれている…

教科書についてもそうだろう。
氏のレジュメ曰く。
「教科書の記述は現在の『日本国』を肯定する立場に立ち、すべての説明は現 在の『日本国』に収斂する(教科書検定が行われる理由)」
では、教科書を執筆している歴史学者たちは現在の『日本国』を肯定する立場で、教科書を叙述しているのだろうか。良心を曲
げて、国家の、指導要領の指示に、唯々諾々としたがっていると考えておられるのだろうか?

そうではないと私は信じている。少なくとも私の知っている歴史学者はそうだ。確かに「あの歴史教科書」、政府や一部政党、さらには怪しい団体などの圧力で、むりやり押しつけようとしているあの教科書はそうだろう。しかし執筆者のなかで歴史学者は数人で「安保法制が合憲といった憲法学者」みたいな歴史学者が数人がいるが…。

歴史教科書を執筆している歴史研究者たちは、学者としての良心をかけて、「教科書に歴史学の成果を反映したものにしたい」「未来の主権者としての高校生にできるだけ史実に即した歴史の姿を 伝えたい」と思い、ともすれば国家の力によって曲げられようとしている歴史叙 述をなんとか良いものにしようと努力している。ときにはつらい選択に耐えな がらも…。
私は、そう考えている。

「日本史」は国民国家としての日本を説明するもの

もう少し、この講師氏の論点をたどっていこう。
氏は「日本の歴史」を考える際、「日本」が意味するものを問題にする。
そして、いくつかの例を示して、戦前と戦後で、近代以前で、日本の姿は時代によって異なる。「近代以前の領土は明確でない」
この点は、まったく異存がないし、学生にとっても、新しい論点として新鮮で あったかもしれない。
「そのくらいのこと教えてるよ」といいたいが…。
 つづけて
「だから、ここでいう日本とは近代以降の『国民国家』としての日本である。」

「ここでいう『日本』」の「ここでいう」が何をさすのかがわからない。
つづいてこんなくだりがある。

「だから、日本史は「近代国家の象徴としての『国民国家』を説明しようとす る行為に他ならない。日本史ではなく、『国史』」本人は高校の教科としての「日本史」の「日本」のつもりなのだろう。( レジュメを素直によむと、一般的な「日本の歴史」の「日本」となる。とすると、「日本史」という学問自体、国民国家としての日本を研究する学問となりそうだ。)

つづいて、レジュメでは節を変えてこうつづく。

「上記の観点で教科書を見直してみると、そこに記述されている内容(教科書 の構成)は、いうまでもなく『日本国民』がおしなべて理解しておく『日本国』の歴史的な歩みであって、普遍的な『日本の歴史』ではないことは、明ら か。」

頭が悪いせいか、もうろくしたせいか、まったくわからない。学生たちもそうではない か。 そして、先ほど紹介した「教科書の記述は…」という一文がくる!

「日本史(国史)は、その国の今を説明するためにある」

氏の発言にこんな一節があった。(この部分はレジュメには書いていない)
「日本史、実際には「国史」というものとなっているのだが、それは、その 国の今を「説明」するためにある。そしてその「説明」のために、重要である か、重要でないか、そして重要でないものを取捨選択しているのだ」
不思議な気がした。
この内容(「国」という部分は保留しておく、その「国」 の部分をこの講師は問題視している)こそが、歴史家が歴 史叙述をおこなうときの基本姿勢でないのか。

「歴史は、現在と過去との対話」

イギリスの歴史家E.H.カーは「歴史とは現在と過去との絶え間ない対話である」と述べている。
私は、最近になって、このことを強く感じるようになってきた。現在をより深く理解することが、歴史を学び伝えるための大きな使命であり、現在を深く考えることが歴史研究をいっそう深化させる。
あえて挑発的に書くが、この部分が歴史研究者と歴史家の違いかもしれないと さえ思っている
「日本史」は今の日本(国民である必要は全くないし、日本に住んでいなくと も良い)を理解するための重要な手段である。
だから
歴史家は、歴史が作り上げてきた成果や今に残っている課題などを、歴 史的に分析し、評価し、現在の課題解決のヒントを、現在を生きる人間である彼らに提示することが重要な仕事である。
そして、
何が「重要であるか、重要でないか、そして重要でないものを取捨選択」する。それこそ、歴史家が歴史叙述する際のもっとも重要な本質ではないのか

歴史教師は歴史家である。

 私は、『歴史の教師』は「歴史家」でなければならないと思っているし、多くの場合、無自覚のまま「歴史家」として生徒に対峙している。
だから、歴史家としての日本史教師が、現在の課題に向き合うという課題にかかわって、荘園制の説明を一時間しかできなくともかまわないし、やむなく省略もする。(ちなみに日本史Aはそうなっている。)逆に一つのテーマに多くの時間も割く。
「歴史家」たる歴史教師は自らの良心を掛けて、現在の課題にも向きあいつつ、歴史学をはじめとするさまざまな成果に学びながら、未来を託するに足る主権者を育てるべく実践に励んでいるのである。

歴史学と歴史教師

大学などでは、しわくちゃの古い紙一枚一枚からのミミズがのたくったような 文字を読み、活字に変え、さらに現代語に訳す。そしてその史料の信憑性をたしかめ、時代と場所の中において、持っている意味などを評価し、過去の膨大な研究の蓄積に学びながら、論文や書籍をあらわし、歴史の真実により深く迫ろうとしている。
生徒・児童に届けられる教科書もこうした地道な作業のエッセンスである。
歴史教師が知ったようなふりをしてしゃべっていることの中身は、このような地道な作業の上に成り立っている。
他方、歴史教師はこうした研究をもとに、
自分の目の前にいる生徒にわかるように、
かれらをとりまく現実にいかに切り結んでいけるか、主 権者としての彼らの成長を保障する「武器」を与え、これからの課題に立ち向かう力を身につけるように、歴史学の成果を受け入れつつ、説明し、考えさせ、身につける努力する。
それぞれがそれぞれの現場で課題に立ち向かっており、それぞれが大切な役割を担っている。
互いを信頼し合い、互いが成長し合うような取り組みが必要である。
このサイトがこうした現場になんらかの貢献ができればと思っている。