勉強ができないのは、努力がたりないせいか?

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ほんとに勉強ができない生徒がいる。悲しいほどできない。

 

しかし、なぜ勉強ができないのか、どれだけ説得的な説明がなされているのだろうか。

学校現場では、ある仮説によってもとづく説明(ごまかし?)がなされる。
この仮説が崩壊すれば、学校は維持できないかもしれない仮説が。
勉強ができないのは本人の努力が足りないのだ」という仮説が。
そして、高校現場では、努力がたりないから、単位がとれない、進級できない、退学をせざるえない、それは本人の努力不足だ、自己責任だとして、こういったことが正当化される
教務部長は始業式で、教科担当は教室で、担任は面談で、
異口同音に、「お前の努力不足だ。もっとがんばらへんかったら、大変なことになるぞ」と脅迫する。
確かに、努力不足の生徒の存在は否定しない。
いやいっぱいいる。
だからこそ、あの仮説にしがみつくのだ。
しかし、多くの教師は、この言い方の胡散臭さもうすうす感じている。
よく言う言葉、やや差別的な言い方であるが、
職場でよく聞こえるせりふ。
あいつ、本当にやばいで
いくらやってもすぐ忘れてしまう
何も分かってない
そもそも
日本語が通じない!
少しの努力で、少しの努力もせずに、かなりの結果を出せる生徒がいる。
ものすごい努力をしても、時間を掛けても、なかなか、まったく結果の出ない生徒もいる。
席に座りつづけることが苦痛で、なにかしゃべっていないと不安な生徒もいる。
言葉の理解が困難な生徒もいる。
そりゃそうだろう。
先天的、後天的な様々な事情で、資質の違いがあることぐらいだれでも知っている
smapの歌ではないが「普通の人」なんかどこにも存在しないのだ。
 それぞれ、”only one”の存在なのだから。
近年、現場では「発達障害」のことが話題になってきた。
人間には「個性」などという言葉では間に合わないくらいの差異がある。
「発達障害」といっても、深刻な人もいれば、
「自分にも当てはまるな!」と思う程度の人もいて、途中でラインを引くことは困難である。
特定の能力は「普通」なのに、 ある分野に集中して「課題」があるものもいる。
「発達障害」ということばで、ひとまとめに言い切ってしまうことは難しいし、危険だ」ということに気がつき始めている。
しかし、たしかに努力してもなかなか報われない生徒がいる。
そして、それが成績などに、結果として出てくるのだ。
そんなことは、われわれも実際の生活で分かっているではないか。
ここで難題がでてくる。教育を実践する教師としての課題。
目の前の生徒をどうするのか?
教課審議会の元座長氏(作家!であり元文化庁長官!)のように
努力しても無理だから、実直な精神だけを養えばそれでいい」 と、あきらめてしまうのか?
それはできない。
わたしたちは、それぞれの人間が、それぞれ、いろいろな道筋を経て、 発達することを知っているし、そうした事例に感動する
それが付け刃に過ぎないとわかっていても
かなり無理があることが分かっていても
努力をあきらめさせてはいけない。
現場の苦闘はここにある
生徒の発達の仕方は、いろいろな道筋をたどる。
本来なら、ひとりひとりにあったプログラムが必要なのであろう。
しかし、高校現場、とりわけ全日制の現場で多数の生徒を相手に、 しかも教科ごとに教科担当が異なる中で、個別の対応することは無理に近い。
最近は、とりわけ課題が深刻な生徒については、個別プログラムを準備する、要求されるようになってきた。
それが、さらなる負担を現場の教師に強いていることも事実だ。
時間がとられ、課題のやや軽い生徒へのケアがおろそかになる面もある。
こうした取り組みの困難さを、「生徒が努力しないから悪い」と仮説で自分をごまかし、言い逃れてきた面があるのもたしかだ。
 
教師の多くもこのことの胡散臭さをうすうす感じている
※現役最後の始業式の教務部長のあいさつを聞いて感じたことを書いてみました。
 結論のないままになってしまいました。
結局、「同じ仮説にしたがって、やっていくしかない
という結論になるのが現場かもしれません・・・。
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