「世界史と日本」カテゴリーアーカイブ

「自治議会開設」運動と「参政権請願」運動

今日(20/6/11)の東北アジア史のオンライン授業がおわりました。
一つは三・一運動にさいしてだされた「独立宣言」文の格調高さです。これは別の場所に投稿しました。

いま一つは、朝鮮における民族運動を「独立運動(武装闘争・外交論・実力養成)」「自治議会開設運動」「参政権請願運動」と3類型に分けるやりかたです。

韓国の「革新」派や共和国の見解からすれば、「独立運動」のうちの武装闘争と外交論以外は「親日派」としてバッサリやられかねませんが、抵抗運動(民族運動とすれば落としてしまうものも出てきそうな気がする・・)としてトータルに捉え、問題性をも含めつつ捉えていくことが重要だと思います。

そのなかで、「自治議会開設運動」「参政権請願運動」の二つの運動のことが気になりました。このふたつは日本帝国内のの、対植民地政策の二つの潮流に対応しているだけでなく、朝鮮の近代化、さらには琉球王国・日本をも含む「植民地的近代化」を余儀なくされた人びとの近代化にも共通する二つの課題とかかわると考えたからです。昔ながらの言い方をすると「反侵略」と「反封建」という二つの課題です。

<以下は感想・意見欄に書いた文章の一部です>
この二つの民族運動のありかたは、「朝鮮の近代化」(実は「植民地的近代」を歩むそれぞれの地全体というべきかも知れませんが)において、一方では対外侵略(ここでは日本)といかにたたかうかという「反侵略」の課題があると共に、他方で旧来の支配者(ここでは李朝)がおこなってきた前近代的な支配(「苛斂誅求」)に対する抵抗運動(昔の言い方では「反封建」の課題)に対応しているように思えるのです。
自治議会論は前者の「反侵略」に見られる民族主義に、参政権請願論は「反封建」のながれを引いた権利拡大の流れに対応しているのではないかと考えました。
同時にこの二つは、日本側の特別統治論と内治延長主義にも対応しており、特別統治論は総督府の独裁的な権限の維持を図るものですが、結果として朝鮮の独自性を強調することで朝鮮民族の独自性を認め自治議会論の議論につながります。
他方、参政権請願論は李朝以来の民衆の無権利状態を、完全な「日本臣民」になることによって日本臣民並みの権利を獲得しようとするもののようにも見えます。それは政党などの内治延長主義の具体化であったことは明らかでしょう。
こうして考えれば、この二つの潮流は日本を含めて「植民地的近代化」を余儀なくされた諸民族の二つの課題に即したものであったようにおもわれました。
どちらの議論も日本帝国からすれば受け入れがたいものであったことには変わりなかったと思います。

ロシアのクシュンコタン占領とアイヌ政策

ロシアのクシュンコタン占領とアイヌ政策、「樺太」~鳥居存九郎の旅にも触れて~

※この文章は私が聴講している授業の内容をもとに、いくつかの内容を付け加えて記した内容です

ロシアによるクシュンコタン占領

 

ロシア船

1853(嘉永6)年秋、サハリン南部アニワ湾の最大の漁業基地クシュンコタン(大泊・現コルサコフ)に、ロシア船がやってきた。町の隣接地に砦を築き、ロシア軍が駐屯する。サハリン島占領隊長は25才のブッセ少佐。彼が命じられた任務は「日本人とは事を構えず、サハリンがロシア領であること」というアクロバット的なものである。和人の多くか逃げだし、宗谷海峡をわたり幕府・松前藩に走った。
アメリカのペリー、ロシアのプチャーチンとの交渉に忙殺されていた幕府は、新たな課題を抱えることになる。
他方、ブッセは持ち前の誠実さを発揮しこの地のアイヌたちとの交流につとめ、占領の実績をつんでいく。他方、副隊長のルダノフスキー中尉も犬ぞりを駆使して、サハリン島南部を精力的に探索する。和人たちが冬になると島外に去ったりするのとは対照的である。
しかし翌春、日本側が大挙として上陸してくるとブッセらはあわただしく島を去っていった。
ブッセの日記『サハリン島占領日記1853~54』は東洋文庫から出版されている。(平凡社2003)

ロシア軍撤退の背景

撤退の事情をブッセは記していない。

日本人が描いたブッセの姿

当時長崎で開国交渉中のプチャーチンの指示ないし命令と推測されている。
実はこの時期、ロシアは英仏とのクリミア戦争の最中であった。カムチャツカ半島にある北東太平洋のロシア側の最大拠点ペブロパブロフスクも英仏側の砲撃をうけた。戦争は世界戦争の性格も持っていたのである。日本に開国をせまるプチャーチンもつねに両国の動きをみながら行動している。
ロシアがサハリンにとどまることは英仏の攻撃を受ける可能性があった。もともと、この占領に異論をもっていたブッセはこれ幸いと撤去したというのが実際かも知れない。
かれに守備隊長を命じたネヴィスコイ少佐は島を離れずゲリラ戦を命じていたが。
ちなみに先生によるとロシア軍アジア艦隊の被害が少なくてすんだのはタタール海峡(間宮海峡)が通行可能であるという事実が英仏艦隊に知られていなかったからことが大きいからということである。

クシュンコタン占領と「万国公法」

ロシアがクシュンコタンに拠点を設けたこと自体、ペリー艦隊の日本来航と関係があった。アメリカはペリー艦隊と並行して北太平洋沿岸に測量艦隊を派遣、千島などの測量も計画していた。1853年段階ではロシア・ムラヴィヨフ総督もこの事業への援助も約束していた。(後藤敦史『忘れられた黒船』講談社2017)
しかし、かれらの来航は、サハリンなどの地の情報が世界に広がることでもある。
当時の国際法(「万国公法」)は世界を「文明」「半未開」「未開」の3つのカテゴリーに分類、「未開」と認識されれば「文明」(つまり欧米諸国)は「早いもの勝ち」で植民地とできるという勝手な論理を含んでいた。
つまり「文明」が、ある地域を未開(「無主の地」)と認識し、占領すれば領土にできる。
こうした事態に対応すべくロシアが「サハリンはロシア領」という既定事実つくりを急いだのだ。
そのためにも砦は辺境ではなくサハリン島内でももっとも開発が進んでいた南海岸のクシュンコタンでなければならなかった。リスクを冒しても。

幕府による「和人化」政策

ロシアと同じ論理は幕府にも働く。
幕府側からすれば、サハリン(「北蝦夷」)さらには蝦夷地(北海道)が「無主の地」と認識されれば、「文明」とくにロシアによる植民地が正当化される。
「万国公法」にたいしても一定の知識をもっていた幕府官僚たちは、蝦夷地(北海道)、さらにはサハリン(とくに南部)が「無主の地」でないことをアピールする必要があった。

ちなみに、幕府官僚の外交能力はかなり高いものがあり、それによって日本の歴史は大きくかわった。かれらが無能であるかの言説はあたらない。

 そのためには対象となる可能性がある蝦夷地および北蝦夷(サハリン)に住むアイヌ、出来ればサハリンのニブフ・ウィルタも日本支配下の民であることを示す必要があったのである。
これをビジュアルに伝えられるのが「和人」の髪型をすることである。アイヌにひげを剃らせ、月代を剃って髷を結わせることでカタチだけでも日本人であると見せようとした。こうした政策はとくにサハリンの対岸である宗谷地方で強要された。

これについて従来の研究は、幕府の圧政として全土での実施をあげていた。これについて先生は疑義を呈している。ロシア人の来訪の可能性が高い宗谷はともかく、他の地域では髪を結ぶ(つまりすぐ元に戻る)程度で妥協されることもあり、さらに実施されない地域もあった。典拠とされた松浦武四郎の史料の読み違いもある。アイヌ側から「自分たちを和人化したいのなら、自分たちの生産や生活も保障してくれるのか」という反問され、答えきれなかった例もある。
幕府にとっては、ロシアや他の列強の目に付きやすい「ショーウィンドウ」の中のアイヌが、見た目だけ「日本人」化していればそれでよかった。いわば、「日本人」というマーキングができれば良かったのだ。
幕府側からすれば、こうしたやり方がよくないこともわかっていた。より蝦夷地の本格的な開発をしなければサハリンどころか蝦夷地すらどうなるかわからないという箱館奉行の書状がのこされている。明治以降の植民政策と重なる内容である。

サハリンでのロシアの動きと幕府

さらに問題となるのが、ロシアが自領と主張し、いったんは占領しようとした「北蝦夷」=「サハリン」の扱いである。
1854年クシュンコタンの施設は撤去されたものの、「全島ロシア領、日本との紛争は起こさない」というロシアの方針は撤去されていない。

日本人が書いたルダノフスキーと思われる人物

1857(安政4)年にはかつての副隊長であったルダノフスキーが西海岸のナヨロに寄港した。当時、樺太を探索中であった筆者の高祖父らもロシア船の姿を見、大砲の音も聞いている。さらに雇用していたアイヌがロシア人船員に招かれて酒を飲み食事を共にしたとの記事も記される。帰国途上で、現地に急行する奉行所の役人とも面談している。
さきのロシアのクシュンコタン占領は、幕府がこの地をしっかりと管理するとともに、「日本」領という証拠を示す必要を求めていた。
箱館奉行所は、クシュンコタン占領に対応すべく堀利忠・村垣範正らを派遣、撤去を見届けると共に、この地の詳細な調査をおこなった。
他方、この地の住民が日本の影響下にあるという既成事実をつくるための諸政策を進めた。奉行所はサハリン東海岸の漁業権や開発権を越後出身の松川弁之助に与え開発を進めさせると共に、ウィルタの人々への物資の提供などで影響力の拡大に努め、日本領としての実質を固めようとしたことが分かる。
またアイヌに対する虐待も問題であった。こうした行動はこの地に住むアイヌたちをロシア側においやる可能性があったからである。ブッセは、クシュンコタン周辺での和人への反発の大きさを記しており、「日本人と事を構えない」というロシア側の政策との間の葛藤を記している。

「北緯50度」~鳥居存九郎の樺太紀行

多くの探検隊が派遣された。安政4年頃には一種のブームともいえる状態となる。私の高祖父・鳥居存九郎も幕府老中であった藩主内藤信親の命をうけて、蝦夷地から北蝦夷(サハリン・樺太)への探検を行う。
めざしたのは北緯50度をすこし超えたホロコタンであり、多くの人々もこの辺りを目的としていた。
その背景には和人の間のサハリン=アイヌと、ニブフやウィルタにたいする位置づけの差がある。アイヌは多くが蝦夷地にも住んでおりサハリン=アイヌと共通性が多い。日本商人の進出によってその生活や労働は「和人」と深く結びついていた。和人によって、漁民に編成され労働に従事させられるものもおおかった。
クシュンコタン周辺のアイヌは和人の酷使によってはつらつとした気風を失い卑屈な態度を示すようになったとブッセは記し、西海岸ナヨロからやってきた首長の独立自尊の堂々たる態度と対比して示す※。
こうした記述はサハリン=アイヌの生活や社会に和人との関係が浸透し、さまざまな問題を引き起こしていたことを示すと考えられる。
これとくらべ、ニブフやウィルタは別との認識があったようである。高祖父一行もホロロッカでの「スメレンクル人(ニブフ)の様子を詳しく記述、さまざまな物資を交換(実際は供与に近い)している。彼らと出会ったことが日本領の北限に来たと考えたと感じさせたようでもある。
北緯50度附近が、アイヌとニブフやウィルタが棲み分けている境界と感じられていたことから、アイヌ中心の南側が「日本」、ニブフやウィルタ中心の北側が日本の「外」との意識が生まれたように思われる。
北緯50度を日本領の北限と考えたのは徳川斉昭ということであるが、背景にあったものはこのような事情が影響していたように思われる。

主権国家形成とアイヌ政策

幕末のアイヌ政策は、ロシアとそれにつづく欧米主権国家との接触のなか、主権国家体制の枠組みに組み込まれる過程で領土確定とかかわって進んだ。
とくに1853~54年のロシアによるクシュンコタン占領は衝撃的であり、その結果として急速に進められた。しかし、それは国際関係の急迫という事態の中での弥縫策であり、明治期の「国民」への包摂~「和人」への同化とは大きく異なるものであった。

※補足 ナヨロの首長シタクロのこと

次の授業では、登場人物の後日談を聞くことが出来た。
西海岸ナヨロからやってきて、堂々たる態度をみせ、ブッセらを感銘させた首長シタクロのことである。クシュンコタンで彼とあったかつての副隊長ルダノフスキーが三年後にナヨロにやってきた。その軍艦を存九郎一行が見たことは上に書いたとおり。
今回の授業での再会の様子を知ることができた。そのことが、ルダノフスキーのプチャーチンへの報告書に記されている。先生に紹介していただいた史料を示す。

70才の老人シタクレロー~1854年にロシア人に献身した~は今回は次のように述べて働くことを拒否した。日本人たちは一度、私を許してくれた。今度は私を許さないし、私を厳しく罰するだろう。彼は、自分の仲間に示唆しながら、そのように述べた。

アニワ湾のサハリンアイヌと異なり、ロシア人に友好的であったナヨロの首長シタクロは、ロシアの撤退後、和人(堀や村垣、その部下と思われる)から詮議をうけている。暴力を伴ったことも容易に想像できる。
シタクロは、ロシア人による砦建設をきっかけにロシアの力を借りることで和人に撤退をすすめていた。

異国人宿営いたし候島中に番人共罷在候は宜ケ間敷氷海明次第本蝦夷地之方江引取可申旨申勧メ候

シタクロは運上屋の忠助にこのように説いている。
こうした態度に幕府側が怒ったことはいうまでもない。
とはいえ、幕府側にも弱みがある。サハリンアイヌの最有力者シタクロを必要以上に痛めつけることは彼らをよりロシア側に近づける結果ももたらす。「私を許してくれた」というシタクロの言葉にはこうした二面性が隠れていると思われる。
こうして和人と距離を持っていたグループも和人の支配を受け入れていく。サハリンアイヌを影響下に置くという幕府側の政策が、ロシア側のサハリン領有・サハリンアイヌ懐柔という政策を打ち砕いたことが分かる。
ついでにいえば、存九郎らが雇用していたアイヌたちがロシア人によって酒食の提供を受けたのも、その事実を翌朝ただちに存九郎らに語ったことも、こうした両国のあいだの駆け引きのなかでおこったことと考えることが出来る。
こうして1857(安政4)年のロシアの西海岸の拠点作りはアイヌ側の協力を得ることが出来ず、困難をともなったことが分かる。
これはロシア側のクシュンコタンへの強引な砦建設と占領、クリミア戦争発生に伴う短期間での撤退という政策が引き起こしたものでもあった。

植民地化以前の台湾「近代化」(メモ)

今回も、大学で受けている授業をもとに考えてみたものです。
授業で学んだことと、調べたこと、考えたことがごちゃごちゃになっていることをお許しください。
 またあくまでも自分用の備忘メモですので、ご承知ください。
おもに授業で学んだ内容はオレンジ色を用いて、区別していますが、完全に区別できたわけではありません。

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今回の台湾史の授業は19世紀の台湾の歴史に関わる内容であった。
その内容を下に、考えたことをまとめてみる。

1858年、列強からアロー戦争の結果、押しつけられた天津条約の開港場に台南・淡水2港が含まれ、これによって台湾は本格的に世界資本主義の枠組みに組み込まれる。(開港場でなかった基隆(鶏籠)・高雄(打狗)もそれまでから開国商人が出入りしていた関係で開港される)その際、主要な輸出品となったのが砂糖・茶・樟脳といった商品作物であり、両岸交易の主要な商品であった米とともに栽培が拡大する。
さらに基隆郊外で産出される石炭も輸出品として位置づけられる。(ちなみに輸入品は「アヘン!」と織物)
貿易の担い手は洋人(欧米人)の商人であったが、実際に栽培者と彼らを結んだのは「買弁ばいべん※」とよばれた商人たちであった。

こうした動きは日本の開港と似た事態が発生している。日本では外国人の国内旅行が禁止されたこともあって、「買弁」商人の役割を製糸業の産地などの在郷商人や横浜などの商人が果たした。また近年の研究では、中国商人(華僑)の役割を重視する研究もあるとのこと。
なお、台湾(中国)ではこうした商人が「買弁」という「外国の手先」とした差別的なニュアンスをもって捉えられたのに対し、日本ではこうしたニュアンスが少なかったようにみえる。(台湾では輸入品の過半数がアヘンであったのに対し、日本の商人は扱わなかったことなども関係があるか。また日本では貿易品を扱った特別な商人というより、こうした商人自体に「国民」的な広がりがあったからかもしれない)

※買弁…① 中国で外国資本と中国人とが取引きをする際、その仲介人となり、前者に従属しながら後者から中間搾取を行なった、中国の商人・商業資本。〔モダン辞典(1930)〕
② 植民地・発展途上国などで、外国資本と結びついて利益を得、自国ないし自国民の利益を抑圧する土着の資本、または資本家。
(コトバンク「精選版日本国語大辞典」より)

日本では、開港による輸出という刺激によって製糸業を中心に一挙に農村でのマニュファクチュアが広がったのと同様に、台湾では在地の有力者、さらに中堅の農民たちの共同経営による小規模な製糖所が次々と創業されるなど、貿易に対応しつつも従来の台湾資本が柔軟に対応していった様子をみられた。

日本において、開港と同時に急速に貿易額が拡大したのは、すでに流通・生産という経済的発展が貿易の開始というインパクトに十分対応できるだけの段階にあったと考えられる。
これをあてはめると、台湾においても、洋人たちが直接流通網の把握や農園の整備をしなくとも、商品作物生産に対応して自らを改造していける発展段階にあったことが予想できる。
ただ日本とは経済規模に大きな差があるため、一概に同一視することはできないが。

こうした開港時の台湾経済の発展の背景として、いくつか考えてみた。
①「台湾」の「開発」「植民」がアメリカや北海道に見られるような圧倒的に有力な「外の勢力(=漢人たち)」が先住民族を追いやる形ですすめられ、そこに、すでに高度に発展していた清朝期の経済制度(商品生産)や科挙や私塾などの文化をも移植したこと。
②台湾では早い時期から甘蔗や米が商品作物として作られ、日用品を本土から輸入するという商品経済が生まれていたこと
③とくに漢人は彼らの故地である対岸の福建省、福建省などの出身者による華僑の流通ネットワークの一環のなかに組み込まれ、東南アジアを含めた経済圏のなかの「植民地」として開発される性格を持っていたこと。つまり、漢人の「植民」自体が、ネットワークに「商品」を供給するという意味合いをもっていたこと。
④入植において墾戸とよばれた有力者が影響下にある人々を率いるという方法をとったことなどもかかわりがあるのかもしれない。
ともあれ、東南アジアや南アジアにおける「近代化」、欧米人による農場経営・インフラの整備といった方向性とはかなり異なっていたように見える。(こうした捉え方は変化しているのかもわからないが)

すくなくとも、19世紀中期において、台湾においては開港という事態に際し、ある程度主体的に対応しうるだけの内在的経済発展が存在していたことは明らかである。

1895年までの20年間、台湾は清のなかでも、経済発展が顕著な地域であった。浅野和生は、この時期の中国大陸における貿易額の平均成長率が3.4%なのにたいし、台湾は8%、清朝支配地の中では輸出超過が継続する成長センターであったと指摘している。

 主要な輸出品が茶や樟脳(原料はクスノキ)であることは新たな問題を生み出した。なぜならこういった作物は島西部の平地ではなく、少数民族の多く居住する山地と接続する丘陵部で作られ、こうした作物生産は少数民族の土地と資源を奪うことに他ならなかったからである。これにより、開発を進める漢人と少数民族とくに高山族とのあいだでの抗争が頻発する。こうした抗争は、大農園を経営する「豪紳」たちに有力な漢人のリーダーたちに武力を用いる武装集団のリーダーという性格を付加させた。そして、その活動によって少数民族、とくに高山族たちをさらに山岳部に追いやることとなる。

こうした点に見られる内在的な「近代化」と、日本植民地下での強要された面を強く持つ「近代化」、双方の関わりの中で、台湾の近代化を見ていく必要があると思われる。

1874年の台湾出兵は、アヘン戦争・アロー戦争に次ぐ東アジアの華夷秩序を大きく揺さぶる事件であった。
琉球王国の併合をめざす日本は、1871年に発生した台湾先住民による琉球・宮古島使節の殺害事件(「牡丹社事件」)への謝罪を清朝政府に要求、清国政府が先住民を「化外けがいの民」と釈明すると「化外の民」の住む地は清国領土外であるとして強引に出兵した。
長く東アジア世界を支配していた国際秩序(「華夷秩序」)は中国を中心とし、周辺になるにしたがって中国は影響力を減じていくという形であり、属国もかなり形式的な存在で実際の外交や政治にはあまり介入しない、それが本来の華夷秩序の立場であった。
台湾は、福建省の一部として位置づけられてはいたが、「何か起きたらそれに対応するという消極的な政策」をとりつづけ、漢人が禁制をやぶって開拓するという事実がおこってから、そこに役所を設置するという姿勢がつづき、台湾出兵で問題とされた島東部は翌年の1875年になってやっと版図に組み入れられた状態であった(浅野・前掲書)
しかし、華夷秩序の論理からみれば、それであっても皇帝にしたがう人民・領土であり、そのなかに皇帝の威がおよばない「化外の民」がいることは何ら不思議ではなかった。
日本がつけ込んだのは、東アジアの旧来の国際秩序と、欧米列強が持ち込んだ主権国家体制(「万国公法」体制)の間隙であった。主権国家体制では国家は国境線に囲まれ、そのなかにいるものは「国民」として国家が責任を負い、国境の外は無関係である。こうして「『化外の民』が住む台湾は中国領でない」という論理で出兵したのである。
台湾出兵、さらには1879年の日本の琉球併合は、清に「華夷秩序」が東アジアにおいても通用しないことを自覚させた。こうして清は「万国公法」的な位置づけによる本格的な台湾経営をはじめる。
砲台をはじめとする軍事施設が増設され、西洋の近代技術導入による石炭採掘、電報網などの整備、道路の開通、東部開発などが中国人中心にすすめられた。しかし清朝の官僚制の弊害と台湾軽視のなか、しだいに行き詰まりを見せる。

1884年、清仏戦争においてフランス軍は台湾へ侵攻、一時基隆などを攻撃するが、劉銘傳率いる清軍によって撃退される。1885年清は台湾省を設置され巡撫として劉銘傳(写真の人物)が任命された。
劉のもと、「新政」とよばれる改革がすすめられる。
土地調査とそれに伴うと隠田摘発、人口調査と税改革、鉄道・道路の建設、産業育成など、のちの日本統治下での改革を先取りするような先駆的な改革が進められた。
劉を「台湾近代化の父」とする記述なども見られる。
しかし、改革に対しての住民側の反発も強く、その成果が十分に上がったとはいえないまま、日本の植民地時代へと移行していく。
台湾の学会において、こうした植民地以前の経済、政治における「近代化」が日本統治下、さらには現在の台湾の発展の「台木」となったという主張も見られるという。
こうした改革が、日本侵攻に対するアジア最初の共和制国家「台湾民主国」創設の背景になったこと。さらに「『ボロ』を出させない程にブルジョワ的物的条件が朝鮮と比べて広汎に存在していたこと」や劉の下での改革などが「日本人地主の水田地帯における形成ならびに「東洋拓殖会社」の類似会社の台湾における成立を阻んだ」などの指摘もある。(戴國煇)

しかし、台湾の近代化が始まったのは、植民地期にあるのか、植民地以前に見られるのかという議論は近年においてはやや下火になっている。

たしかに、「近代化」は外圧・あるいは植民地化という外からファクターを重視すべきか、内在的な社会・経済・政治のファクターが強いのかという議論は、ナショナリズムというバイアスがかかりがちであるため激烈な議論となりがちであるが、両方とも重要であったという折衷的な回答しか提出できない不毛な議論となりがちである。両者が密接に絡み合い、それぞれの「近代化」をなしとげていったと考えるべきである。
戴國煇はいう。
当時の世界史的段階においても植民主義によって扼殺できない程に発展した厚い層の地主が存在し、資本主義への胎動をもった台湾経済といった『台木』があったからこそその後の接ぎ木効果が経済面において可能となり、国民所得の再配分に歴然たる民族的階級的差別等のひずみはあったが、『植民地的経済発展』の具現化も又可能となったのである。
(中略)
 植民地統治を受けたあらゆる国は何らかの意味でプラス、マイナス両面の植民地遺産を具える。マイナス面はさておき、経済発展にプラスと思われる遺産も、その存在や形成の程度は植民地統治前史とむ関係ではないし、ましてや植民地統治から解放された後、それらの遺産を守り且つ自らの経済発展の手段として活用していく主体はあく迄かっての一社である。」(『台湾史の探索』P55)

「近代化」は一般に考えられるようなバラ色のものではなく、一面では残酷で重苦しい側面を持つ。さらに植民地とされた地域は、植民地化という苦難がそれに付け加えられる。そのなかで、「近代化」がすすむ。植民地における近代は、こうした苦難の相乗効果のなかですすむ。

しかし、近代化の輝かしい面ともいえる「民主主義」「人権」といった面をみれば、かつてこうした苦難のなかで「近代化」をすすめた国でこそ、実態をともなって、花開いているようにみえる。
東アジアで、もっとも実態として民主主義が機能している国は、韓国であり、台湾であるようにみえる。こうした事実は、こうした「近代化」の逆説を示しているようにも見える。

<参考文献>
戴國煇「清末台湾の一考察」『台湾史の探索』(みやび出版2011)
浅野和生『台湾の歴史と日台関係』(早稲田出版2010)
遠流台湾館編著『台湾史小辞典』(中国書店2010増補版)
周婉窈『図説台湾の歴史』(平凡社2013増補版)

ふたつの「リュウキュウ」のちがいは

ふたつの「リュウキュウ」のちがいは
 ~台湾と琉球の「文明」化、違いはどこで?~

今年は、いつも授業を受けている先生が研修で、台湾!へ留学され、講師の先生が、台湾史!概説を教えてくださっています。
その授業の内容にかかわって、もとは中国から「りゅうきゅう(流求・琉球)」といっしょくたにされた台湾と沖縄(ひょっとしたらフィリピンもその一部であったかもしれませんが)両者の「文明」化の違いが気になったので、疑問と思いつきを書きつらねてみました。
何の論証もない思いつきのメモです。そうした内容として見てください。
実が題名を考えるだけで悩んでしまいました。最初は「国家の形成」としたのですが、かんがえていることとずれそうです。「文明」ということばも使ってみたのですが、「文明と未開、野蛮」といった分類のうさんくささ、文明の概念などいろいろな問題が出そうです。ということでこんな題名になってみました。

なお琉球の前近代については前にこんな文章を書きました。よければ参照してください。

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今年の東洋近代史の授業は、台湾近代史。
今日は前史の部分で、17世紀のオランダ統治、鄭氏政権、清朝支配の部分。
その中で考えたこと。

17世紀以前において、台湾は少数民族の世界で統一的な動きはなかったという。

そこで気になったのが琉球との違い。
琉球は12世紀頃から「歴史時代」となり、「国家」の形成もみえてくるが、台湾では「歴史」時代はオランダ統治以降にならないとはじまらない。この違いは何か。
おもいつくまま、知識もないくせに、疑問とおもいつきを並べてみた。

①日本からの影響(遣唐使のルート、南西諸島からの距離)
→人口の流入、交易圏の中に組み込まれた
→日本の社会構造や文化が持ちこまれてきた。
→本島と両先島諸島の間はかなり距離がある。
台湾と与那国の間の海峡の潮流もかなり早い「らしい」
両先島諸島は人種的には日本との関係が、文明的には台湾先住民など東南アジア系とのつながりが強いという。

②対岸の中国の「開発」状況
→台湾の対岸が「福建省」、沖縄の対岸は「浙江省」など
→福建や広東にはまだフロンティアが広く残っていた?
→しかし、宋・元のころは福建(泉州など)の方が国際港だし・・
→明の「海禁」政策とのかかわりは?

③沖縄のスケール感の問題。
沖縄は、台湾より人口密度が高く(日本からの移民の流入などが10世紀ごろからすすんできたので)、開発に適した土地が狭かったため、対立が激化?・・
台湾の西海岸沿いの人口が少なく、フロンティアも広い。
貿易のメリットが少なかった?

④地形の問題?良港がなかった?
→沖縄は運天港や牧港、那覇港など
台湾には?
台湾(現在の台南市安水など)や打狗(高雄)など良港は多い・・ので×。

⑤中国における貿易港・広州・泉州などの存在
南蛮船の航路はベトナムから中国沿岸沿いに延び、沖合の台湾はスルーされた。
しかし、明の海禁政策によってルートは沖合の台湾ルートに移らないか。

⑥琉球王国のような貿易を担う主体がいなかった。
そのため、南蛮諸国などが住み着いても、完全な植民都市とならざるを得ず、食糧などにおいて後背地のサポートも得にくい?
→オランダの植民が根付かなかった理由もこのあたりにあるかも。

⑦ポルトガルにはマカオが、スペインにはマニラがあったので、別に中継基地はいらなかった・・

まあ、色々思いついたけど、研究者からすれば、「何アホなこというてんのや!」と笑われそうですね。
スペインの支配下に置かれていくフィリピンもあわせて考えるべきかもしれませんね。

(フェースブックに書いた文章をすこし変えて転載しました。)

なぜ発砲できたのか~韓国映画「タクシー運転手」を見ました。

なぜ「なかま」に向けて銃が撃てたのか?

遅ればせながら韓国映画「タクシー運転手」を見ました。一九八〇年、韓国の光州で当時の全斗煥軍事政権が起こした大規模な住民虐殺事件=光州事件での実話をもととした韓国映画です。

韓国映画「光州5・18」 2007

10年ほど前、「光州5・18」を観て、なぜこんな事件のことをあまり知らないまま過ごしてきたのか、自分が深く考えていなかったということにショックを受けたことを思い出しました。

その時も、今回も、一番気になったことは、なぜ兵士たちが市民に発砲できたのかということでした。
同じ言葉を話し、自分たちのよく知っている歌を歌う人々(前回の映画では「国歌」だったと思います。今回はこのシーンはありませんでした。日本でいえば「ふるさと」?「翼をください」?みたいな感じかな。)。
反抗的な若者だけでなく、老人も子供も、自分たちの父親や母親のようなひとびとにもひとことで言うと「どこにもいるような普通の人たち」に、銃口を向け、殴りつけ(ここまではありえますがついには射殺するのです
もちろん、激しい葛藤を感じた兵士もいたでしょう。(今回の映画でも分かっていながら見逃す「石橋山の梶原景時」のような兵士を、それを表現していました)

それが軍隊の本質だ。軍隊は「国家の暴力装置」なのだから、と訳知りな言葉が聞こえてきそうです。たしかにその通りですし、私も同意します。しかし、それでも、なぜ?という言葉が頭をよぎるのです。暴力装置の暴発が革命を引き起こすことも多いのですから。 

朝鮮戦争のなかで起こったこと

 

ここ数週間程、韓国の現代史を学んでいるのですが、そのなかで気づいたのが、朝鮮戦争中の、あるいはその前後に多発した互いに虐殺しあうというあまりにも無惨な歴史の存在です。(例えば済州島四・三蜂起)。

朝鮮戦争の推移(帝国書院「図録日本史総覧」P295)

少しリアルに考えるため、朝鮮戦争のことを考えてみます。
戦闘の経緯をみていきます。1950年6月25日、開戦と同時に北朝鮮軍は三八度線を越えて一挙に南下し、ソウルを占領します。韓国軍は大統領の命令で牢獄にいた政治犯を全員殺害し、住民を置き去りにしたまま、避難民で殺到した橋を爆破して逃げ去りました。「北」軍の進軍は早く、韓国軍とそれを支援する米軍を主体とする「国連軍」は釜山周辺に押し込まれます。「北」の主張する「南進統一」が間近と思われました。「北」軍は、占領地域の住民を義勇軍などに組織して自らに協力させます。他方、地主や警察官・官僚などを反対派とみなし殺害する事件もおこりました。
9月15日、「国連」軍の仁川上陸作戦が成功すると状況は一変します。最前線にいた「北」軍は取り残され、ゲリラ戦に移ります。韓国軍は「国連軍」の支援のもと、敗残の「北」軍の掃討戦にうつります。義勇軍に参加した人はもちろん、「北」側を支持したとされる人々(支持者だけでなく、やむなく支持したものも、誤解によってそう思われたものも)もその一味とみなされ、つぎつぎと殺害します。

朴正熙は仲間を売って生きのびた!

朴正熙(1957年)

戦闘の各場面で、命の危険を感じた人たちは故郷を捨て「北」に「南」にと避難します。またどちらかの影響下に入ります。そして支持している側が故郷を制圧するともどってきて、自分たちを追った人々に報復します。自分の命を守るために仲間を売る者も現れます。軍事独裁政権下に韓国の経済発展の基礎をつくった朴正熙もその一人でした。朴正熙は韓国軍における南朝鮮労働党(=共産党)の秘密党員でした。捕らわれたかれは、なかまの名前を積極的に話すことで命を長らえます。こうした経歴をもつ人がより苛烈な迫害者となることは、古今東西を問わずよくあることです。

戦争に翻弄される人々

ソウルにもどった韓国軍は自らが見捨てたにもかかわらず、残されたソウル市民に疑いの目を向けます。「北」側に協力したではないか!と。そして親「北」派とみなした人々を殺害します。恐れた人々は「北」に向かって逃げていきます。
「国連」軍が三八度線を越えてさらに北上、平壌も制圧、中国国境に向かって進みます。今度は「北」で同様のことが起こったことはいうまでもありません。
ところが、こうした「国連」軍の動きに危機感を持った中国が、11月「中国人民義勇軍」という名で大軍を派遣すると、再び戦況が逆転します。「南」側についた「北」の人々は南に逃れ、逃げ遅れたものは迫害されます。12月には平壌が奪回され、翌1951年1月再びソウルをも占領されます。「国連軍」はふたたび体制を立て直します。3月にはソウルを奪還、その後、戦局は膠着化し、ほぼ現在の軍事境界線附近で両軍がにらみあい、南北間の人々の行き来は止まります。大量の離散家族が生まれました。

人々は命をうばいあった。

私たちはついつい軍の動きのみに目を奪われがちです。そのなかで多くの住民が、右往左往させられたのです。逃げ惑ったという言葉は妥当でないかもしれません。現実はもっと深刻です。人々は「北」か「南」かを迫られ、「敵」となった人とたたかわされます。「戦い」は戦場だけではありません。自分の生まれ育った場所であり、逃げ惑う人々への「山狩り」であり、それから逃れる恐怖であり、疑わしい村人への拷問や虐殺です。こうした「戦い」です。憎しみは憎しみを生みます。隣人への「恐怖」は「やられる前にやってしまえ」という感情を生み出します。親しい人の死や自らへの迫害は強い復讐心を生みます。命からがら逃げ回った体験はその原因を作った人たちへの怒りをうみます。怒りと恐怖、復讐心、暴力が暴力を生み、すべてを支配します。

「あの行為」を「正統化」するために。

光州事件 韓国の国旗を掲げ「民族民主化大集会」のため校門を出た全南大学の教授ら。「光州事件とは 1980年5月、韓国の街は戦場だった。」吉野太一郎huffpostNEWS 2015年05月19日以後、光州事件の写真はこのブログから

こうしたなかで発生したのが数多くの惨劇でした。その体験はあまりに生々しいものです。人々はその死骸とともに、「記憶」も秘かに深く埋葬しました。
耐えがたい体験を耐えるには自らの行為を正統化する「ことば」と論理が必要です。その正統化の論理が「アカ(共産主義者)」「スパイ」、「『北』の手先」「民族の敵」といった一連のことばです。このことばを用いることで「こうした連中だったから殺されて当然だった。自分たちの行為は『正義』なのだ」という理屈が成り立ちます。さらに、この論理は、過去だけでなく未来に向かっても投影されます。「共産主義者、スパイ、「北」の手先、民族の敵は殺してもかまわない」という風に。
重要なことは、こうした認定は「事実」である必要はないのです「事実」であるか厳密に追求することは「危険」です。それは自分たちの「行為」の「正当性」を問うてしまうからです
こうしてこの論理は、
共産主義者であろうが、なかろうが無関係に適用されました。
相手にこの言葉を投げつけ「敵」とみなせば、多少乱暴なことをしても自己正当化できるのです。自分たちの「暴力」を「正義」とできるのです。
韓国でこの論理を多用したのが朴正熙ら軍事独裁政権でした。「反共法」が軍事独裁政権維持の根拠となりました。

『北の手先』論が隠したもの

光州事件 https://www.huffingtonpost.jp/2015/05/19/kwangju-35th-aniv_n_7311100.html

この用法にはかれらにとって、もう一つの利点がありました。「北」の脅威、共産主義の脅威を強調することで、日本軍の軍人(正式には「満州国軍」ですが)であったという過去を後景に置くことが出来るという効果でした。かつての「親日派」に支えられた軍事独裁政権にとっては非常に都合がよい論理でした。韓国軍の中には旧日本陸軍の体質・DNAが濃厚にながれています。韓国軍は旧日本軍のOBによって組織されたと入っても過言ではありません。かれらが民族主義派などの軍事組織関係者を排除し、アメリカの援助の元に育成されたのです。日本軍のDNAは韓国軍がベトナムで犯してしまった残虐行為にもつながったとの指摘もあります。

「北の手先」は殺してもかまわない!

今回の映画の中でも、私服将校が「アカは裏切り者だ、殺してもかまわない」といういい方をしていました。自分や自分たち、軍隊や軍事政権に逆らう者は「アカ」であり、「『北』の手先」だ。だからどのように扱ってもかまわない。殺してもいいのだという論理が光州事件のあのシーンのなかには確かにありました。同様の理屈は「北」でも同じように用いられていることでしょう。

韓国に「民主主義の伝統はない」か?

ドイツのシュピーゲル誌に掲載された、光州事件で死んだ父の遺影を持つ幼児の写真 (上記 HUFFPOSTNEWS)より

しかし、韓国の人々は、こうした論理を克服しつつあります。この映画の存在自体がそうですし、朝鮮戦争前後に「秘かに深く埋葬された『遺体』」を掘り起こす取り組みがすすみました。それは「象徴」的な意味だけでなく、現実の「遺体」を発掘するとりくみでもあります。
また、日本帝国主義の植民地支配を告発する以上、韓国軍がベトナムで犯した残虐行為に目をつむってはならないという声も出てきました。
このように、韓国の人々は「民族の恥部」ともいえるさまざまな事件、いまだに生々しい傷口をを切り開き、ときには映像化し、意味を問いかけ、向き合おうとしています。わたしはこのような人々に敬意を表したいと思います。

韓国の歴史家が「韓国には民主主義の歴史がない」と書いていましたが、しかし私は反対です。私たちが一九七〇年代にみてきた「朴正熙の下にあったあの国」を、この映画が作れるまでにした人々、触れることの出来なかった傷に向き合える国にした、それは、光州事件に象徴される韓国の人々の民主主義をもとめる力の成果なのですから。

「朝鮮米はうまくて高い! ~「産米増殖計画」異聞

「朝鮮米はうまくて高い!」  ~「産米増殖計画」異聞

「朝鮮米はうまくて高い!」

本格的な歴史研究をして来た人の話を聞くと、知識の浅さを実感させられることが多々あります。そんな話をしたいと思います。
講義で聞いた一つの話を紹介します。
「みんなは、朝鮮米というから、質が低く、安い。だから労働者など低所得者が食べたもの、そのように考えるでしょう。実は、朝鮮米を一番消費したのは、『グルメ』の町大阪。消費高は大阪全体の米消費量の70%を超え、国内産より値段も高値で取引されたのです。朝鮮米は、質がよく、関西人の口に合う米でした。1930年代、「朝鮮米」はうまいと評判で、高値で取引されていた米だったのです」。

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帝国書院「図説日本史通覧」p224

戦前の「朝鮮米」は、高品質のわりに値段が安く、しかも品種がそろっていたため、人気が高く、他の国産米より高値で取引され、大阪市場では国産米を圧倒的にしのいでいたのです。
ちなみに、大阪市場における取扱高は1925(大正14)年以降、朝鮮米がつねに70~80%台を占め、10~20%台前半の「国産米」をはるかにしのいでいました
「日本が朝鮮の農業を改革し、近代化させてやったのだ」という声が聞こえてきそうです。たしかにそうした側面もあります。しかし話はそう簡単ではありません。「植民地農業」の姿がみごとに「刻印」され、日本内地の農業も苦しめたのです。

「産米増殖計画」とは

朝鮮での日本の農業政策としては、1910年代「武断政治」期の「土地調査事業」と、1920年代「文化政治」期の「産米増殖計画」が重要です。そしてこうした日本の農政によって押し出されるようにして日本や中国東北部(「満州」)への人口流出がみられる、いうのが一般的な説明です。私もそのように教えてきました。
一応、「産米増殖計画」についての私の説明を見てください。


産米増殖計画

「文化政治」を進めるとした日本・朝鮮総督府でしたが、実際には朝鮮の人をいっそう苦しめる政策をはじめています。

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物価の急騰と賃金の上昇 帝国書院「図説日本史通覧」P250

このころ、日本では都市化・工業化が急速に進行し、米の需要が急速に増えてきました。1918年には急激な米価上昇が引き金となって米騒動も起こりました。
このため、日本本土以外から米を買い集めようという動きが高まります。その最大のターゲットが朝鮮半島でした。
そこで朝鮮総督府がすすめたのが産米増殖政策です。朝鮮での米栽培を活発化させ、米の収量を増やし、それを本土に持ってこようと考えたのです。
中心となったのは、農業用水の整備と用地改良、さらに化学肥料などの利用です。しかし、こうした計画に総督府が金を出しますか?結局、計画は日本人がつくり、カネを払うのは地元の農民たち、できた米は日本人が持っていく。こうした負担は、没落しつつある朝鮮人農民の生活をいっそう苦しめました。
確かにこの政策によって朝鮮半島での米の生産量は増えました。ところが、もともと内地での米不足が出発点に始まったものであり、この政策で増えた分よりも日本に運び出す米の方が多かったのです。これにより米の値段が上がって、朝鮮の人は逆に米が食べにくくなりました。かわって中国東北部から大量の粟(あわ)を輸入されるようになりました。


あわせて、これにつづけ日本や「東北部」への人口流出についても触れています。一般的な内容は記したつもりです。

市民講座での話の中から

講義の数日前、市民講座で別の先生からも話を聞いました。
この先生の話をもとに、朝鮮での「日本式米作り」普及の話をしたいと思います。講座の中で先生は、産米増殖運動にかかわって、朝鮮での米づくりの指導にかかわった日本人の話を紹介されました。「美談」として扱われるたぐいの話です。
記憶とメモで再現しつつ、私が調べたことが考えたことを付け加えながら、見ていきたいと思います。

「脱穀や調整が『疎漏』」な朝鮮米

当初、朝鮮産の米は日本では売れ行きがよくありませんでした。なぜなら、質が不安定で、最初は小石なども混じっていて、商品化しても安値でしか取り扱われなかったからです。
資料でも、明治後期の朝鮮米について、品質は日本米と外米の「中間」、日本米の中等米に類似するが、「収穫後の脱穀や調整が『疎漏』であったため、三割の異物が混入していることすらあった」と記しています。(大豆生田稔「お米と食の近代史」)
日本への朝鮮米の輸出は日朝修好条規をうけた開国によってはじまります。凶作期に米などの穀物の流出を制限できるという防穀令が1889(明治22)年にだされたことで日本商人とのトラブルも発生しました。朝鮮米の流出が、朝鮮での飢えにもつながりました。
1882(明治15)年の壬午軍乱では、長い欠配の後、やっと支給された米に石が混じっていたことが軍人反乱の直接の原因となりました。(「朝鮮問題の深刻化と日清戦争」参照)日本との貿易開始に伴う米不足の中、支給されたのが安い「三割の異物が混入している」ような米であったという推測も成り立ちそうですね。
日本で、朝鮮米は、食用としてではなく、酒造用や家畜のエサ用として使用されることも多かったようです。

「日本式米つくり」の導入~「用水の整備」と肥料

朝鮮に渡った農業の日本人指導者が行ったことが、日本式米作りの導入でした。
朝鮮では、ため池や農業用水路が未整備で、天水(雨水など)に頼る水田も多く、畑で米を作る陸稲(おかぼ)も多いというように栽培の方法にばらつきがありました。そうした条件に合うような在来品種が用いられるため、米の品種・品質も雑多でした。こうした米を日本市場に送り出しても、低い評価しか得られないのはいうまでもありません。さらに、品質はよくても、脱穀や「石抜き」などの行程が不十分であったため、評価が低かったのは見てきたとおりです。
だから、日本における「高度な」農業技術を朝鮮に導入しようというのです
栽培の質を変えるため、日本式の水田が導入されます。まずため池や小規模な水利施設、王朝末の混乱で荒廃していた用水が整備されます。当初は日本人地主の土地が中心でした。さらに、水田を拡大するためには、降雨にかかわらず一定量の水が供給される必要があります。産米増殖計画がすすむなか、朝鮮人地主をもまきこむかたちで、水利組合が結成され、総督府の資金も借りながら、大規模な用水路が整備されていきます。

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帝国書院「図説日本史通覧」P231

実は、朝鮮人地主所有の水田の多くは既存の用水でかなりフォローできていたのに対し、新たな用水の恩恵を受けることが多かったのは日本人地主の田でした。にもかかわらず、水利組合の拠出金は折半されたため、朝鮮人地主と比べ、恩恵の多くは日本人地主が得たという指摘もありました。(許粋烈「植民地朝鮮の開発と民衆」)
総督府は早い時期から肥料の使用を進めています。1920年以前は自家製のものであったのですが、日本式の米作りには不十分であるということから1920年代以降は購入肥料が用いられ、朝鮮北部での化学肥料工場の発展と軌を一にして化学肥料も使用されるようになります。

「石抜き」と品質管理、品質検査

さらに指導者は朝鮮米の品質向上に努めます。
小石を取り除き、米の選別を厳しくチェックさせ、品質を一定させて売りに出すようにしたのです。
思わず「カムイ伝」の1シーン、江戸時代の百姓たちが、殿様に献上するため一粒一粒米を選ぶ場面を思い出しました。たしかに、初期は人力によるチェックもあったかもしれません。
しかし、それ以上に大きな役割をもったのが、大量に朝鮮米を扱った日本人米穀商人です。かれらは釜山の日本人が発明した「タービン式石抜唐箕」を導入するなどの技術改良で小石や不純物の混入を防止し、さらに最新鋭の精米装置なども導入して市場の評価を上げました。朝鮮総督府は厳格な品質検査を行ってこうした動きを援助します。こうして安い仕入れ値と、品質管理と品質検査を経た高品質の朝鮮産米が日本市場に持ち込まれ、シェアを伸ばしたのです。
この背景には、土地調査事業にかかわる強引な手段や朝鮮人農民からの購入によって獲得した安価な土地、必要経費の多くを朝鮮人側に転嫁したこと、労働力過剰からくる労働力の安さなど、コストの安さがありました。
こうした朝鮮米の流入によって日本産米は苦しいたたかいを強いられます。日本産米は、小規模農家でつくられるため米商人の監督が行き届きにくく、品質管理も検査も不十分であるため、品質も不揃いだったからです。九州産米はより高い品種の米を生産しようとし、北陸山陰産米では生産費を抑え、安さで勝負しようとしました。(この項、李熒娘「朝鮮植民地の米と日本」など参照)
日本人商人が、規格化された「籾」を安く仕入れ総督府の厳しい基準に合格すべく高度な技術で商品化した植民地産の「朝鮮米」を内地市場にもちこむことで、従来の低い技術しか持たない零細な生産者中心の国産米の価格が引き下げられるという、多国籍企業と国内の中小零細企業の関係を彷彿させるような関係です。では、朝鮮の人の食べる米は、どうなってしまったのでしょうか。

日本種の「奨励」

先生はさらにつづけます。
日本の米作りをそのまま持ち込んだということは、日本の種籾も持ち込んだということです。それまでの朝鮮米は品種が雑多であることが、日本の米市場における朝鮮米の評価を下げ、安価で取引される結果となっていたからです。
そこで、日本から持って行った品種を蒔かせることにします。日本から持って行った品種の米をもちいることで朝鮮米の質を統一しようとしたのです。
こうして「優良」品種が日本から持ち込まれます。ただ1920年代に導入された「新品種」は、「産米増殖」という目的とは異なって、収量の減少をもたらすものだったという研究もあります。収穫を増やすよりも、内地の米市場での評価、価格の方が重視されていたことをよく示しています。なお、1930年代になって多収穫品種が日本から導入されることで、生産量が急増しました

朝鮮在来種の「絶滅」

ところがそのままでは困った問題が起こります。せっかく評価が高い日本の品種を持って行っても、しだいに周辺の朝鮮在来の米と交雑してしまい、品質を低下させるおそれがあるのです。そうした米が増えると、市場での評価は下がってしまいます。
だから、朝鮮在来種の米の栽培をやめさせようとしたのです。ときには官憲の力も使って!
この指導者からしたら、質のよい米を輸出して高値で取引された方が朝鮮の人の幸福につながると考えたのかもしれません。
この点について、資料的裏付けを得ようと調べたところ、こうした事実は1910年代の武断政治期によく見られたことでした。当時の関係者が語っています。
在来種の絶滅と改良種たる穀良都、早神力種の普及に全力を注ぐことになり、同地の東拓(*東洋拓殖株式会社のこと)移民に採種●(●は「水」の下に「田」という文字、「dab」とよみ水田のこと、「田」が日本の「畑」をさす)をやらせ、又在来種の苗代を踏み荒しなどして徹底的に乱暴な奨励方針を断行したが幸い身辺の危害もなく、きわめて順調に普及して行きました」(「山口賢三回顧録」李熒娘前掲書より)というように、やっている本人が「身辺の危害」があって当然というような手法で「優良種」とされた日本品種が強要されました。こうして、日本種の耕作率は0.7%(1911年)から52.8%(1919年)、生産量に占める割合は5%(1912年)から70%(1922年)と急増しています。(*この二つの数字については出典が別です)

「近代的」「植民地的」な米作の導入のもたらしたもの

植民地支配は、朝鮮の米作を資本主義経済に適合した農業に変えました。それにより朝鮮の農地と米作技術が「近代化」され、収穫高の多く味もよい品種を普及し、収穫高も増えました。すると内外の産米の地位が立場が逆転しました。品質が安定せず、とくには小石も混じる国内産米とは違い、朝鮮米は高品質で小石などの混入も少ない高評価な米です。朝鮮米は、同一品種の米を大量にそろえることができます。しっかりした検査を受けた安心安全かつ安定した高品質の米を、大企業が大量に供給したのです。グルメの大阪人をうならせた朝鮮米はこのようにしてつくられました。
それは、それまでの朝鮮の農業のあり方を否定し、朝鮮産の「米」種すらも否定し、帝国主義本国・日本の市場が求める米を供給する植民地農業への移行でもありました
こうした政策は、朝鮮の農業や農民のあり方を大きく変えました。その費用の多くは朝鮮の農民が負担し、増産された米が日本に持ち出されました。
産米増殖計画は名目的には、第一の目標を朝鮮における食糧不足解消でした。しかし、実際におこったのは朝鮮での食糧不足解消でなく、日本市場で高値で取引される米を生産することでした。朝鮮内部で流通したのは、日本に移出された残りの米でした。こうして米の生産量は増えても、朝鮮人の米消費量は減少しました。日本の米市場で高値で取引されるような質の高さが、朝鮮米を朝鮮に残さなかったのです。石が混じり品質も安定しなかった安価な朝鮮米にかわって高品質で高価な朝鮮米が生産されたため、朝鮮米は朝鮮の人々が食べるためには高価になりすぎたのです。
こうして朝鮮人の一人あたりの米の消費量は年0.75石(1912~16の平均)から、1932~36年には0.41石へと激減します。米の生産量は1230万石から1700万石と増加しているのに。そして、米を食べられなくなった朝鮮の人々の腹を満たしたのが、「満州」(中国東北部)産のアワやヒエでした。こうして「満州」においても、朝鮮向けのアワやヒエの商品生産が活発化します。

「昭和恐慌」と日本への渡航者の急増

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こうした朝鮮における米作りが、日本の米市場と密接に結びついて軌道に乗りはじめたのが1930年代です。この年号で何か気づきませんか。1930年といえば、昭和恐慌の発生です。このため、米価は暴落、朝鮮米の価格も一挙に暴落したのです。さらに日本国内では、朝鮮米の大量流入が米価を押し下げているとして、朝鮮米の移入制限を求める声が農村各地から起こり、政府もそれにおされます。
昭和恐慌による米価など農産物価格の暴落は朝鮮の農村に大きなダメージを与えました。なぜなら、植民地支配下では、農民の土地に対する権利ははるかに不安定であったし、産米増産計画は用水や肥料などで農民の負担増を強いていたからです。高利貸資本も農村に深く食い入っていました。

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東京書籍「日本史A」p110

米価急落は零細農の経営を破壊、1920年代に増加の兆しを見せていた日本への渡航者=「出稼ぎ」「移住」は激増します。日本本土に渡った朝鮮人たちは厳しい労働・生活環境の中、しだいにそこに生活基盤を築き、朝鮮から妻子など家族を呼び寄せます。貧しい状態がつづく農村からは、先に渡った人たちを頼って新たな人たちも移ってきます。各地の「朝鮮人部落」が形成されました。
土地調査事業、産米増殖計画による植民地的・資本主義的農業の朝鮮半島への導入と、それにつづく昭和恐慌は朝鮮の農村を疲弊させ、多くの人々が、日本などに押し出され、在日朝鮮人が急増していきました。

追記:授業中継「『朝鮮経営』と在日朝鮮人の形成」では、在日朝鮮人形成につながる朝鮮人移民の増加を産米増殖計画とかかわって記していましたが、より決定的であったのは世界恐慌=昭和恐慌というべきでした。こうした点を踏まえ、訂正することにします。

<参考文献>
大豆生田稔「お米と食の近代史」(吉川弘文館2007)
李熒娘「朝鮮植民地の米と日本」(中央大学出版部2015)
許粋烈「植民地朝鮮の開発と民衆」(明石書店2008)
鈴木讓二「日本の朝鮮統治」(学術出版会2006)
河合和男「朝鮮における産米増殖計画」(未来社1986)

史料紹介「エドウィン・O・ライシャワー『対日政策に関する覚書』」

史料紹介「エドウィン・O・ライシャワー『対日政策に関する覚書』」

新年度を迎え、本年もいくつかの大学に聴講に行くこととしました。そうしたなか、ある講義でとんでもなく面白い史料をもらいました。ぜひ、多くの人に紹介したいと思います。

『対日政策に関する覚書』について

それは1942(昭和17)年9月段階、ひとりの日本研究者の青年が戦争省に提出した覚書(メモランダム)です。そこには、敗戦後のアメリカの対日政策がみごとに先取りされています。

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エドウィン・O・ライシャワー(1910~1990)

提出したのはエドウィン・O・ライシャワー、当時31歳です。私が物心ついた頃の日本大使で、日本生まれ、日本育ち、妻(結婚(再婚)したのは戦後ですが・・)も日本人。日本の歴史や文化にも造詣が深く、親日派の筆頭としてあげられた人物です。つねに日本に友好的であり、戦争中も敵意を持っていなかったと主張し続けています。この史料で見る限り、そうとはいいにくいのですが・・。
ライシャワーは、日米開戦直前に、名門ハーバード大学極東言語学部の講師となります。1941年夏には一時的に国務省調査分析官に席を置き、アメリカの対日政策にもかかわりますが、秋には大学に戻ります。12月の日米開戦を受け、1942年9月以後は陸軍省で暗号解読と翻訳など情報関係の仕事を携わりました。回顧録には、この間、国務省のプロジェクトチームにもかかわったと記していますが、この時期を対日政策を研究した書物などには不思議なほど名前が出てきません。
しかし日本研究者がわずかしかおらず、日本についての知識が切望されていた時期、1941年段階で関係を持っていた国務省が、この人物を放っておくとは思えません。戦争が終わる前後には国務省チームの責任者をすることから考えて、回顧録の証言はあたっている気がします。

この史料『対日政策に関する覚書』(以下『覚書』)は、ライシャワーが陸軍省に移る1942年9月、戦争省に提出したものです。カリフォルニア大サン・ディエゴ校のタカシ・フジタニ氏がアメリカ公文書館で発見、雑誌『世界』2000年3月号で紹介と解説を行いました。(タカシ・フジタニ「ライシャワー元米国大使の傀儡天皇制構想」なお史料の英文テキストは『世界』のホームページhttps://www.iwanami.co.jp/sekai/2000/03/146.htmlから、現在も見ることができます。)コーネル大学の酒井直樹氏はこの文書の重要性に着目、『希望と憲法』(以文社2008)のなかで検討、さらに日本語訳を巻末資料として掲げました。講義で渡されたのはこの資料でした。
(なお、この文書をテキスト化したサイト(「忘馬楼の『老馬新聞』」2008年5月24日http://16.huu.cc/~mamo/bd080524.htm)があったので、転載させていただいています。

ライシャワーが語る『覚書』

では、ライシャワーはこの『覚書』をどのようにかたっているのでしょうか。『ライシャワー自伝』(徳岡孝夫訳 (株)文藝春秋・1987)には

 日付ははっきりしないが戦争初期に書いたらしい私の覚書の写しには、戦後日本の協力と民主化に必要な天皇を罵倒するのは避けるようにとの提案が書かれている。
 日系アメリカ人の部隊をつくり、彼らに忠誠心を証明する機会を与えよ、それは戦争の人種間闘争的な性格を弱め、われわれが日本国民ではなく軍部と戦っている事実を示す好機になるはずだ、という進言も残っている。

と、その存在を簡潔に記しています。またNHKで話した内容を文章化した『日本への自叙伝』(日本放送出版協会1982・以下『自叙伝』)では、戦後改革の章で内容の一部を紹介しています。そこには「先に見た『覚書』」という記述があるにもかかわらず、その記述を見つけることはできませんでした。
自らの先見性とその影響力は自慢したいものの、その内容の過激さから「親日家」という自分のイメージを守るために現物は見せたくなかったのではと、ついつい邪推したくなってしまいます。
ライシャワーは、この『覚書』を「アジアにおけるわが国の戦争努力と、特にこの地域で戦争が終結した後の政策目標に密接な関係をもつ」「些末に見えてもじつはきわめて重要な二つの点について意見を喚起したい」と書き始めます。
その一点目は「戦争終結後、我々の価値体系の側に日本人を転向させる」ための手段を論じた内容であり、二点目はさきの『自伝』にあった日系アメリカ人を軍人として戦争に参加させることです。

日系アメリカ人部隊創設を提案

話の都合上、後者の方から見ていきます。
1942年のアメリカ大統領令9066号は、アメリカ西海岸などに住む日系アメリカ人に「敵性市民」として立ち退きを命じました。その結果、12万人を超える日本人に、さらに日本にルーツを持つアメリカ国民と日本人移民、そしてメキシコやペルーなどアメリカの友好国である中南米諸国に在住する日系人と日本人移民が、アリゾナ州の砂漠など荒れ地に設けられた11か所の強制収容所に送られました。

アメリカ軍の監視下、強制収容所に向かう日系アメリカ人(1942年4月5日)Wikipedia「第442連隊戦闘団」より

このことは当時から、アメリカの「理想」などとのかかわりで問題とされていました。なお、1988年レーガン大統領が国家として正式に謝罪を表明、補償を行います。
この日系移民の強制移住という政策にライシャワーは危機感を感じます。かれが問題視したのは、アメリカ憲法に反した人権を侵害する行為だからではありません。

日本人を祖先にもつアメリカ市民を米国籍をもたない日本人とともに西海岸から移動させることは、緊急の軍事的配慮からみて、必要な行動であったことは疑いを容れません。

このように、この行為を妥当な行為として評価、さらに、20世紀初頭から続く日系アメリカ人排斥運動を認める発言も行います。

現在に至るまで、日本人を祖先に持つアメリカ人は我々の目的にとって負債以外の何物でもありませんでした。一方ではわが国にとって人口の移動と軍事的な監視という大きな問題を課し、他方ではアジアの日本人にプロパガンダの切り札を与えてきたのです。

このように日系アメリカ人を「負債」と表現し、アメリカに負担を与える邪魔な存在として位置づけています。
ライシャワーが危機感を感じるのは、日本がアメリカのこの政策をプロパガンダに利用することでした。この戦争を人種間の戦争と主張する日本の考え方を正当化する論拠となる、だから危険だというのです。かれはこの危機感を次のように語ります。

日本は国際連合(the United Nations:注:酒井氏は連合国をこのように訳している)に対する戦争を黄・褐人種の白人種からの解放のための聖戦としようとしております。(中略)日本のプロパガンダはシャムや東南アジアの植民地、そして中国の一部でさえ、ある程度の成功を収めております。中国が戦争から脱落するような事態があった場合は、日本人はアジアにおける闘争を全面的な人種戦争へと変換することが可能であるかもしれません。

日本が、近代以来の欧米諸国による植民地支配という弱みをついて、白人対黄色・褐色人種という人種間戦争という枠組みに持ち込む材料となる、それが危機感の内容でした。
ライシャワーはこうしたことにならないために、日系アメリカ人という「負債」を「資産」に変える方法を提案します。

この状況を逆転させ、これらのアメリカ市民をアジアにおける思想戦の資産に変えるべきでありましょう。現時点において、今次の戦争はアジアにおける白人優越主義を温存するための戦争ではなく、人種にかかわらずすべての人間にとってよりよい世界を樹立するための戦争であることを示すためには、(日系アメリカ人による) 合州国に対する誠実で熱意に満ちた支持ほど優れた証拠はありえません。

こうした意図から、ライシャワーは日系人部隊を結成することを提案します。これによって「日系アメリカ人を負債ではなく資産にする」ことができるというのです。

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第二次世界大戦における日系二世将兵を称えた議会名誉黄金勲章(表) Wikipedia「第442連隊戦闘団」より

この提案は、『覚書』から5ヶ月後、1943年2月、日系人部隊(第422歩兵連隊)結成という形で実現します。この部隊は、ヨーロッパ戦線でもっとも過酷な戦場に送り込まれ、勇敢に戦い、米軍全体を見てもとくに多くの犠牲者をだしたことでも有名な部隊です。(先日、NHKがこの部隊の過酷な戦いのようすを扱った番組(BS1スペシャル「失われた大隊を救出せよ~米国日系人部隊 英雄たちの真実 )を放送しました。)
この部隊結成と『覚書』の直接的な関連はわかりませんが、政策実施に一定の役割を果たしたのではと思います。本人としてもそうした自覚はあったようで、さきにみたように『自伝』のなかでこの部隊のことに触れ、多くの日系人がこの部隊に参加したと誇らしげに語っています。
これが二点目の内容です。

日本人に有効な「スケープゴート」は?

しかし、これ以上に重要なのが、一点目の内容です。ライシャワーが自伝でいったような「戦後日本の協力と民主化に必要な天皇を罵倒するのは避けるようにとの提案」にはとどまらないインパクトをもつ提起です。
ここで論じられているのは日本の敗戦後の占領政策を見越した上での政策提言です。すこし丁寧に見ていきたいとおもいます。

ライシャワーの中心的な関心は、敗戦後の日本において「アメリカの政策に誠実に協力する」日本人の「頭数」をそろえ、アメリカ側に「転向」させ、その協力を得ることです。

戦後の日本を友好的で協力的な国家の仲間に引き戻すためには多くの日本人の協力が必要でありますが、わが国の政策に誠実に協力するような日本人を十分な頭数(sufficient numbers of Japanese)我々の側に転向させることは極度に困難な課題になると思われます。(中略)日本の人民の協力なしには、この地域に健全な政治的・経済的状況を作り出すことができないことは、極東を専門的に研究する者にとって、あまりにも明らかなことであります。

そしてこういった「頭数」を確保する上での、ドイツやイタリアと異なる日本の困難さを記しています。東京裁判が、ニュルンベルク裁判と違って難しかった理由をすでに予知していたかのようです。

戦争終結後、我々の価値体系の側に日本人を転向させるに当たって、大きな困難の一つは、敗北の重荷を転嫁する適当な適当なスケープゴートが存在しないことであります。ドイツとイタリアでは、ナチ党とファシスト党が、さらに有り難いことにヒトラーとムッソリーニという全体主義をひとまとめに象徴してくれる人格が、最も都合のよいスケープゴートの役割を果たしてくれるでありましょう。(中略)この政権の解体と指導層の追放という行為を通じて、彼ら自身、すなわち人民ではなく、彼らの邪悪な指導者が悪かったのでそのため敗北したのだと、自分たち自身を納得できるはずであります。

ドイツなどでは敗戦の重荷を「悪かったのはナチス党やヒトラーなどの政権と指導者」に押しつけ(実際にそうした面も大きかったのですが)、「がん細胞」を切除するかのように取り除くことで国内的にも決着をつけられると考えました。

ヒトラーとムッソリーニT128
東京書籍「日本史A」P1278

しかし、「日本ではこのようにいかない、無理だろう」というのがライシャワーの見立てです。連合軍側では多くの人が天皇をヒトラーやムッソリーニと同格に考えていました。しかし、日本人の多くがそう考えていないことは、日本に生まれ育った彼にとっては明白でした。天皇にスケープゴートの役割をおしつけることは無理であり、逆効果と考えました。

日本ではこのように指導者に責務を転嫁することによって、(人民の)面子を救うことはできません。なぜなら、すべての人民が天皇には責任がないことをよく知っているからで、天皇を告発することは国旗を非難すること以上の憂さ晴らしになるとは思えないからであります。

では、ちょうどいい、敗戦の責任を押しつけうる「悪」、日本人の「憂さ晴らし」になるスケープゴートはいるのか、と問うたとき、適当な人物を見つけにくいというのが、かれの見立てでした。かれは、当時の日本の統治形態をつぎのように見抜いています。

日本では現実の指導者はむしろ匿名的な権力使用を常習としており、責任をとらせる政党は存在せず、スケープゴートの役を演じてもらえるような傑出した個人はほとんど見当たりません。偽りの邪悪な指導者の役を演じてもらえる唯一の組織は陸軍でしょうが、いまや全国民が何らかの形で陸軍と軍人崇拝の永い伝統と同化してしまっており、陸軍を責めることで日本人が憂さを晴らせるとは思えないのです。

日本には都合のよいスケープゴートがいない。「現実の指導者はむしろ匿名的な権力使用を常習」とするからだ。なかなか見事な分析です。ニュルンベルク裁判に比べて、東京裁判が難しく、そのあり方に疑問が多く出され、国民にとってもストンと落ちなかった理由もこのあたりにあるのでしょう。「軍国主義」のがん細胞は、日本という肉体の深くに根ざしており、外科手術で取り除くことは困難だったのです。ライシャワーは東京裁判での連合軍の困惑を見抜いていたかのようです。
少し読み違えがあったとすれば、敗戦後の国民は彼が考えた以上に、陸軍というか軍部に批判をもっていたようです。しかし、それはこの文書のかかれた時期が原因かもしれません。なぜなら、この文書が書かれたのは、ガダルカナル島攻防戦がもっとも激しく戦われていた時期、戦いの帰趨すらはっきりしない、ライシャワー自身が「本当に戦争自体に勝利できるか自信がなかった」と述べている時期だからです。しかし『覚書』が書かれた時期から三年弱、日本人は戦争の苦しみを味わいます。しかもそれは口には出せなかった。口に出せなかったからこそ、次々と国民に犠牲を強いてくる軍への怒りを沈殿させていったのでしょう。

アメリカにとって最良の「傀儡」は?・・

スケープゴート作戦がうまくいかない日本でどのようにして、敗戦後、「日本の人民の協力」をえるのか。「注意深く計画された戦略を通じて思想戦を勝ち取ることが我々には期待されるでしょう」と「思想戦」という用語を使い、もったいぶった言い方で論を展開します。内容は過激さを増していきます。

当然のことながら、第一歩は、喜んで協力する集団を我々の側に転向させることであります。そのような集団が少数派しか代表しない場合には、我々に喜んで協力する集団は、いわば傀儡政権ということになるでしょう。
日本は何度も傀儡政府の戦略に訴えてきましたが、たいした成功を収めることはできませんでした。というのも、彼らが用いた傀儡が役不足だったからであります。

たしかに満州国の溥儀も、南京政府の汪兆銘も、中国の人々の支持を取り付けるためには役不足でした。しかし、日本には、最高の、これ以上ないという傀儡がいるとライシャワーは言います。この『覚書』ももっとも過激で、衝撃的な部分に入りましょう。

ところが、日本それ自身が我々の目標に最も適った傀儡を作り上げてくれております。それは、我々の側に転向させることができるだけでなく、中国での日本の傀儡が常に欠いていた素晴らしい権威の重みをそれ自身が担っています。もちろん、私が言おうとしているのは、日本の天皇のことであります。

アメリカが日本を統治するのに最適な「傀儡」として天皇がいるとライシャワーは主張します天皇を「傀儡」として利用し、占領統治を行えばうまくいくというのです。「協力」とか「利用」といったことばでなく、「傀儡」(puppet regime)という最大限の刺激的なことばをつかっています。天皇を占領政策に利用すべきという政策のはしりであり、だからこそ、むき出しの政策意図が見える気がします。
このようにライシャワーは、きわめて冷徹に敗戦後、日本をアメリカに従属させるための方法を提案しています。かれが、よく口にする「日本の友人たち」という言葉ですが、心の中では「友人」ではなく「傀儡」と思っていたのではと邪推したくなります。
つづいて、天皇の「傀儡」としての資質について触れます。

日本の基準からいって、天皇は自由主義者であり、内心は平和主義者であると考えてもよい理由があります。天皇を国際連合(the United Nations)と協力する政策に転向させることが、彼の臣民を転向させることよりも、ずっと易しいことであるというのは、大いにありそうなことです。天皇が、おそらく天皇のみが、彼の臣民に影響を与え、彼らに現在の軍事指導層を弾劾するに至らせることができるのであります。

日米合意としての「国体護持」

ライシャワーは、みずからの体験と交友関係、さらにはこの約1ヶ月前に帰国した元駐日大使グルーらの意見も踏まえたかもしれませんが、裕仁天皇を「自由主義者」「平和主義者」と分析し、アメリカ戦略のため「傀儡」として「転向」させうる、最高・最適の人物と評価しました。「天皇のみが、彼の臣民に影響を与え、彼らに現在の軍事指導層を弾劾するに至らせる」という一節は、裕仁天皇と側近グループが、本土決戦を主張する軍部を押さえ込んだという敗戦に至る経過を見通していたかのようです。

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ジョセフ=グルー 戦前、十年以上にわたりアメリカの駐日大使をつとめ、日本の占領政策に大きな影響を与えた。

敗戦に際して、1945年6月の沖縄陥落以降、戦争終結をめざすようになった裕仁天皇らがもっとも重視したのは「国体護持」=天皇制の維持でした。
他方、アメリカでは国務次官となった国務省内「日本派」の代表ともいうべきグルーが「立憲君主制を含めて」という一言を連合軍の文書に組み込むいれるべく全力を尽くし、省内の「中国派」と暗闘を繰り返していました。グルーら国務省内の「日本派」はこの言葉こそ天皇グループがもっともほしがっている「国体護持」の実態だということを知っていたからです。吉田茂ら「和平派」(「傀儡」?!)と何らかの接触があったのかもしれません。
そして、「国体護持が可能である」というなんらかの見通しを得たなか「和平派」であった裕仁天皇と側近たちは行動に移しました。彼の臣民に影響を与え、彼らに現在の軍事指導層を弾劾するに至らせる」力をフルに生かして。
そして、この実績をひっさげて、天皇はみごとに「転向」し、アメリカ占領政策の「傀儡」の役割を積極的に果たします。たぶんライシャワーやグルーが思った以上に。

「傀儡」としての天皇の役割

天皇による「玉音」放送と武装解除命令の「臣民に与える影響力」は絶大でした。
実態としての厭戦気分が満ちあふれていたこともあり極度に自尊心が敏感で、強度に民族主義的な人民」である日本臣民はみごとに「転向」しました。アメリカ軍はこれといった抵抗もなく占領を開始、軍隊の武装解除も約1ヶ月という短期間で完了しました。
天皇制、とくに裕仁天皇の存在は多くの連合国側が思いもつかないほど効果をしめし、『覚書』の見通しはおどろくべきの正しさをもって証明されました。

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1945年9月のマッカーサーとの会見以後、裕仁天皇はGHQとの関係を強化、アメリカ側とくにマッカーサーの意向を受け入れた行動をとります。マッカーサーはその華麗な「転向」ぶりに目を見張ったのでしょう。
こうして戦前の万世一系の神話の上に立っていた絶対主義天皇制は「傀儡天皇制」へと姿をかえました。
マッカーサーはこれ以降、有能な「傀儡」である裕仁天皇を最大限利用するため、強引ともいえるようなやり方で天皇制の維持を図ります。アメリカ国民や連合国の意見を無視して、天皇の戦争犯罪人としての起訴を拒みます。さらに戦争放棄・軍隊の非所有という衝撃的なまでに平和を前面に打ち出した日本国憲法の制定をすすめていることで日本の軍国主義が克服されつつあると世界にアピールします。世界が廃絶を求める天皇制を維持するためには、過激なまでの平和憲法が必要だったのです。だからこそ、極東委員会で天皇の処罰を厳しく求めるソ連やオーストラリアも、明治憲法を残したい日本政府も、憲法9条をもつ日本国憲法と象徴天皇制のセットを認めざるを得なかったのです。
他方、裕仁天皇は1946年正月の人間宣言をだし、さらに全国巡幸を積極的に行うことなどで「愛される天皇」を演出、GHQの期待どおりの「傀儡」の役割を演じます。裕仁天皇からすれば「国体護持」=天皇制存続のための必死の工作だったのでしょう。双方の利害が、憲法上の「象徴天皇制」で一致したのです。

裕仁天皇は憲法制定後もアメリカのエージェントともいえる役割を演じます。
1947年9月「米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む」という内容のメッセージを側近経由でGHQに伝え、日本国内の米軍基地の自由使用などの問題では、吉田首相やマッカーサーの頭越しにダレスと結んでアメリカ政府につながり、豊下楢彦氏が「二重外交」と指摘するような行動をとります。それは、米軍基地の存続に制約をつけようとする吉田や外務省の意向とも異なる、アメリカにとっては心強い動きでした。
裕仁天皇は、天皇制維持という目的から憲法の規定をも超えて「自発的」に「傀儡」の役割を果たしつづけました。

天皇の「利用価値」を高めるために・・

さて、『覚書』にもどりましょう。

もし、天皇が、彼の祖父(明治天皇のこと:訳者)のような真の指導者としての資質をもっていることにでもなれば、我々にとってはますます都合の良いことになります。たとえ、彼の半気違いの父親(大正天皇のこと:訳者)程度の能力さえないことが判明したとしても、それでも、協力と善意の象徴としての彼の価値はきわめて貴重であります。

この文章はあくまでもライシャワーの言葉です。疑問の方は、英文テキストで確認してください。大正天皇を「半気違い(his half-demented father)」と呼ぶなど、紳士的でハト派の親日家として知られるライシャワーとは思えない書きぶりです。アメリカの政策遂行上の利用価値という点から、冷酷に天皇を見ていることをよく示しています。
このように利用価値の高い天皇です。このため、天皇がヒトラーやムッソリーニと同様の「邪悪な日本の体制を象徴するもの」といったアメリカでの報道を控えて「貴重な同盟者あるいは傀儡」として天皇を日本においても、アメリカにおいても「使用可能な状態に温存する」ことが必要だと考えました。

戦後に日本人が(敗戦によって受けるであろう)精神的な傷から回復するために天皇が演じることができる役割は、現在の状況と確実に関係しております。戦争終結の後の思想戦のために、天皇を貴重な同盟者あるいは傀儡として使用可能な状態に温存するためには、現在の戦争によって汚点がつかないように、我々は彼を隔離しておかなければならないのであります。(中略)新聞やラジオで天皇を広く冒涜することは、戦後の世界において我々にとっての彼の利用可能性を容易に損なうことになりかねません。このような政策をとるかぎり、我々の道具として、天皇に協力したり、あるいは極端な場合には、天皇を受け入れたりする心の準備をアメリカの人びとから奪い取ってしまうことになるでありましょう。当然その結果として、天皇自身と天皇周辺の人びとはわが政府に協力する気持ちが弱まるでありましよう。(中略)戦後問題を考慮して、政府におかれましては、本邦の報道波及機関に対しまして、裕仁への言及をできるかぎり避けること、むしろ東条あるいは山本、さらには滑稽な神話的人物ミスター・モト──軍服姿で──を現在わが国が戦争状態にある敵国日本の人格的具現として使用するよう、ご指導されるべきかと考える次第であります。

この部分でやっと『自伝』で紹介した内容がでてきます。『回顧録』でも、このあたりの内容が紹介されています。「自分は、アメリカでの天皇批判から彼を守ろうとしたのだ」というふうにいいたいのでしょう。しかし、見ての通り有益な「傀儡」の価値を減じるから批判を控えるべきだというのです。『覚書』での天皇への目は非常に現実的かつ政治的です。
なお、この提言を考慮してかどうかはわかりませんが、国務省は日本向けの放送での「天皇批判を避け」つづけます。

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ミスター=モト ジョン・P・マーカンド原作の小説の主人公。微笑を絶やさず「アイム・ソーリー」を連発する冴えない人物。しかし物怖じしない度胸と鋭い頭脳を隠し、小柄な体の下に大男もねじ伏せる怪力と鮮やかに敵を倒す柔術の業を極めた秘密情報部員。日米関係の悪化とともに悪役として描かれるようになる。(http://www.aga-search.com/)より

しかしアメリカ国内やオーストラリアなど他の連合国の反天皇報道をおさえることは困難でした。1944年グルーが天皇を免罪するかのような内容の講演を行ったときにはアメリカ内外から激しい反発がまき起こり、グルーは一時沈黙を強いられました。国務省内部にも、天皇の責任を厳しく追及する「中国派」がおり、天皇制維持をめざすグルーら「日本派」の間で対立がつづきました。
この間、ライシャワーは陸軍で暗号解読に全力を挙げていたことになっていますが、国務省内でも何らかの影響力を持っていたことは考えうるのであり、従来、グルーの主導とされてきた政策のいくつかにはライシャワーの影響があったことも考えられます。
ちなみに、『自叙伝』で自分の同級生であり「平和を欲していたはずだ」と持ち上げている山本五十六を『覚書』では東条と並ぶ「敵国日本の人格的具現」としてマスコミの批判対象として掲げるように誘導していることも興味を引きます。
日本では、英雄視されることの多い山本五十六ですが、アメリカでは東条英機や「謎の日本人ミスター=モト」とならぶ、真珠湾に卑劣な奇襲作戦を行った「悪役」だったことがわかります。

「アメリカにとって都合のよい日本」という視点

アメリカ内外の天皇批判をやめさせ、非人道的な日系アメリカ人への迫害をなんとかやめさせようと思っていたが、普通の言い方では通用しないため、あえて政策提案者が受け入れやすい露骨な、偽悪的な書き方をした、その方が正しいのかもしれません。かりに、そうであっても、この文書は現在に至るアメリカの対日政策の基本構図をあまりにリアルに描き出してしまいました。

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裕仁天皇(昭和天皇) 日本国憲法に署名しているときの写真

この『覚書』の重要さはアメリカにとって都合のよい日本を作り出すという点に焦点をあてて論じているところです。
こうしたアメリカの世界戦略のもと、戦後日本は、アメリカの「政策に誠実に協力するような日本人を十分な頭数」を現在に至るまでうみだしつづけ、「日本の人民の協力」によって「この地域に健全な政治的・経済的状況」を作り出し、「友好的で協力的な国家の仲間」でありつづけています 。こうした日米関係をつくりあげる、「戦争終結の後の思想戦のため」のアメリカの「目標に最も適った傀儡」こそが天皇でした。
このようなアメリカにとって都合のよい日本は、サンフランシスコ平和条約による「独立」後もつづきます。いっそう強まったというべきかもしれません。その核心となったのが日米安保体制です。その核心ともいうべき米軍基地の自由使用、沖縄の分離と占領継続において、裕仁天皇はアメリカの利害を援護する「傀儡」としての役割をみごとに発揮しました。こうして成立した「日米安保体制」は現在の日本のあり方を大きく規定しています。
この『覚書』は、日本をアメリカに従属する「都合のよい日本」に変えていくというアメリカの『本音』を見事に描き出しました。そして「都合のよい日本」は、現在、いっそう「都合のよい」存在となっています。この「都合のよい日本」への「転向」の「てこ」として使われたのが、アメリカの「目標に最も適った傀儡」としてライシャワーらに見いだされたのが天皇制であり、裕仁天皇個人でした。

 

’45年8月15日、なにが終わったのか?

45年8月15日に、なにが終わったのか?
~「授業中継」戦前・戦中編の完成によせて

この「授業中継」、58回目でやっと1945年8月15日まで来ることができました。見直せば問題だらけですが、一応の区切りがついたとほっとしています。ほぼ1年、玉音放送を聞いた「国民」のような虚脱感にとらわれています。
ここでは、これまでの内容を、総括する意味で8月15日の意味を考えてみたいと思います。

8月15日、「戦争」が終わった!

1945(昭和20)年8月15日、「戦争」がおわりました

東京書籍「新選日本史B」P27

なお、国際的な意味合いでの、戦争の終結は、ポツダム宣言の受諾を連合国に通告した8月10日、あるいは降伏文書に調印した9月2日ですが、「やっと終わった!」という気持ちは8月15日の方が強かったと思うので、象徴的な意味でこの日付を用います。
8月15日、いったい何が終わったのでしょうか。
多くの人はいうでしょう。
1941年12月8日に始まったアジア太平洋戦争だと。(ちなみに、私たちの世代がよく用いた「太平洋戦争」という言葉は、アメリカ主導で始まった名称で、1941年12月以後も、中国戦線が主要な戦場であり続けていたことや日本軍の東南アジア、さらにはインド進出という事実を組み込んだものといえないので、現在での歴史学界ではつかわれなくなっています。)
1939年9月1日ドイツのポーランド侵攻によって始まった第二次世界大戦もこの時に終わりました。
5400万人とも、それ以上とも言われる天文学的な死者をだし、アウシュビッツやヒロシマ・ナガサキに象徴される世界中の人びとを地獄においやった戦争、これがほぼ完全におわりました。世界中の大多数の人が、掛け値なしに、心の底から喜んだ日ではなかったでしょうか。

「解放記念日」としての8月15日

ジアの人びとにとって、8月15日は、日本による軍事占領や植民地支配が終わった解放記念日です。そしてあらたな時代が始まった日でした。

日本の敗戦は朝鮮半島に人々にとっては植民地支配からの解放そのものであった。
東京書籍「日本史A」P152

インドネシアやベトナムでは、この直後に独立宣言が出され、あらたな独立運動、旧宗主国との戦いがスタートすることになります。
1910年以来、日本の植民地であった朝鮮半島では「独立万歳」の声が響きわたり、どこから現れたのか太極旗が町中にはためきました。夕刻には独立運動家・呂運亨を中心に朝鮮建国準備委員会が設置され、9月はじめ、これを母体とした朝鮮人民共和国の樹立が宣言されました。あたらしい朝鮮半島の歴史も生まれるはずでした。

苦しかった「戦争」の開始としての日中戦争

私は、小さい頃から、「戦争中はしんどかった」「大変だった」ということばを繰り返し聞かされ育ちました。昭和30年生まれというのは、そのような世代です。しかし、不思議に思ったことがあります。

中国との戦争によって多くの戦死者が発生した。写真は満州事変によるもの。東京書籍日本史AP132

しんどかった内容の多くが、戦争が始まった「昭和16年の12月8日」以前から始まっていたのです。召集令状の乱発も、戦没者や「傷痍軍人」の急増も、勤労動員も、切符や配給も、「贅沢は敵」というスローガンも、金物回収や木炭自動車も、戦場から聞こえてくる血なまぐさい事件の話も、「とんとんとんからりと隣組」の歌も、尋常小学校から国民学校への改称も。「苦しく、つらかった『戦争』」は12月8日以前に始まっていました。親たちの世代は、日中戦争、当時の言い方では「支那事変」のことは、あまり考えたくなかったように感じます。しかし生活実感としての「戦争」は1937年7月7日の盧溝橋事件に本格化しました。

日中戦争~総力戦の「戦争」、制御の聞かない「戦争」

日中戦争の開始とともに、総力戦体制(「国家総動員体制」)が本格化し始めます。

国民の生活が戦時色に染まっていく。東京書籍「日本史A」P131

徴兵や徴用の強化、戦時経済の導入、隣組・町内会を底辺とする国民の戦時体制への組織化などなど、「戦争」は一挙に本格化しました。人々の生活に深く「戦争」が入り込みます。自由は極端に失われていきます。
政府も軍部さえも「戦争」を制御できなくなっていきます。その暴走に軍中央もふくめたリーダーたちは手をこまねくしかなくなりました。
12月8日にはじまる戦争は、この戦争を終結させるための劇薬として処方されたものでもありました。
実感としての「戦争」が始まったのは1937年でした。12月8日を重視する背景には、日本が敗れたのはアメリカだと思い込みたい日本人の意識が隠れていると思えてなりません。日本が中国に負けたことを信じたくないために。
でも、日本はアメリカ以上に、中国に敗れたのです。
7月7日は七夕(たなばた)の日としてしか意識されていません。しかし、この日はとりかえしのつかない「戦争」へと足を踏み入れ、国民生活を破壊し、中国の人びとを塗炭の苦しみにあわせる始まりの日として記憶すべきなのでしょう。
そして、「苦しかった戦争」、「リーダーたちが制御できなくなった戦争」である日中戦争が、8月15日におわりました。

「昭和の戦争」としての十五年戦争

8月15日には中国との間の絶え間ない「戦争」、十五年戦争が終わりました。

十五年戦争は1931年9月18日の柳条湖事件によって開始された満州事変を出発点とする昭和の前期をほぼ覆い尽くす戦争、「昭和の戦争」そのものでした
この時代、人々は、強弱はあるものの、いつも何らかの形で「戦争」をしていました。
文字通りの「戦争の時代」でした。
満州事変は、軍隊の出先機関が勝手に、政府や軍の中央の命令すら無視して拡大した戦争です。それを、マスコミが、多くの国民が応援しました。その暴走を軍中央も政府も追認し、批判するものにはさまざまな暴力が加えました。国家、軍人や右翼による暴力が一般化、人々は暴力の前に萎縮し、ものが言えなくなりました。平和を主張したり、民主主義的な考え方は、「国体」に反するといわれるようになっていきます
この出発点となるのが、9月18日でした。

平和維持の国際秩序の破壊としての9月18日

9月18日は日本が世界からの孤立をすすめるきっかけでもありました。

国際連盟脱退を報じた新聞記事 帝国書院「図説日本史通覧」P269

第一次大戦後の国際秩序を無視した「満州国」建国は、当然のこととして世界の承認を得られませんでした。苦し紛れに、小手先の責任回避から国際連盟を脱退、軍縮条約からも離脱しました。これによって、なんとか平和を維持していこうという第一次大戦後の国際秩序は破綻し、ドイツやイタリアのファシストたちは安心して国際秩序を破壊しました。そのきっかけが、9月18日に始まる満州事変でした。

こうした国際秩序の破壊に終止符が打たれたのも8月15日でした。
8月15日は、二度と戦争を行わないという決意の日でしたが、すでに米ソを中心とする冷戦的な国際秩序がスタートを切っている日でもありました。

「『中国』との戦争」が本格化した日としての9月18日

9月18日以降、十五年戦争で日本軍が戦ったのは、目覚め始めた民衆に基盤にした『中国』そのものでした

日本の中国進出にともなって、中国の民族運動の対象は日本へと変わっていった。帝国書院「図説日本史通覧」P252

日本は『中国』など簡単に屈服できると考えていたのでしょう。たしかに、当時の中国国民政府は日本との戦争を避けようとしました。しかし立ち上がった民衆、民族運動、つまり『中国』は「国民政府」のそうした態度に納得しませんでした。そして『中国』の大きな力は国民政府に日本との戦いを決意させ、安易な妥協を許させませんでした。
このような『中国』を黙らせるため、日本軍は侵略をエスカレートせざるを得ませんでした。「功名心」にはやる軍人たちは『中国』との戦争をいっそう泥沼へと導きました。泥沼は、7月7日以降になっていっそう深くなります。『中国』はアメリカやイギリスの日本との妥協を許しませんでした。そして米英に対日強硬姿勢をとらせ、ついには日本に対米英戦争を余儀なくさせます。もちろん『中国』も抵抗をやめませんでした。
8月15日はこうした泥沼化した『中国』との十五年戦争の終結、そして敗北の日でもありました。

絶え間なく続く「五十年戦争」
~日本の帝国主義支配

満州事変は、中国東北部などの権益を取り返そうとする中国側と、権益を維持し続けようとする日本側との対立が背景にありました。当時、日本側がよく言ったことは「日露戦争の犠牲を無駄にするな」ということばです。日露戦争の大きな犠牲によって獲得した「満州」は「日本の生命線」だというのです。

満蒙の「特殊権益」を、「日本民族の血と汗の結晶」と表現している。帝国書院「図説日本史通覧」P269

日露戦争の勝利が、満州事変の原因となっていました。このように、近代の日本では、それぞれの戦争が、つぎの戦争の原因となり、「『戦争』で得たものを守り抜く」ことが、国内での「大義名分」でした。日露戦争は、日清戦争によって火ぶたを切ることになる中国をめぐる列強の中国分割競争、朝鮮半島への進出をめぐる日露の対立が原因でした。

帝国主義体制が世界を覆った20世紀初頭は、植民地支配に対する民族運動の時代でもありました。こうした民族運動の高まりが帝国主義体制を追い詰めていくのですが、遅れて帝国主義化し、時代遅れの19世紀的な手法でアジア進出をはかる日本にはとくに厳しいものがありました。

帝国主義は帝国主義本国の人々も苦しめる

帝国主義的支配=植民地経営は結局自国の民衆を苦しめる」といわれます。日本は、日清戦争で台湾と澎湖諸島、日露戦争で関東州や南樺太、そして朝鮮半島と植民地を拡大していきした。満州事変では中国東北部も事実上の植民地とします。これによって日本は大きな「コスト」を強いられます。

抗日義兵闘争。幼い少年の姿も見える(東京書籍「日本史A現代からの歴史」より

植民地化は必然的に植民地化された人々の公然・非公然の反対運動を引き起こしました。植民地の統治は、治安維持の必要から強力な統治機構を必要とします。総督府などがおかれ、憲兵や警察などの抑圧機関を肥大化させます。いつ発生するかわからない抵抗の恐怖は緊張状態を強い、準戦闘状態を恒常化させます。緊張状態は国内にも波及し、帝国主義本国自体の軍事国家化をつよめます。大正政変のきっかけとなった陸軍の二個師団増設問題が「韓国併合」にともなうものであったように、財政負担を拡大させ、政情不安にもつながりました。

「『戦後』が『戦前』である時代」

日本では1894年の日清戦争開始以来、戦後が次の戦争の戦前となる状態がつづきます。「この戦争が終われば・・・」という人々の願いは裏切られ続けます。
戦勝による軍事大国化は、大国にふさわしい軍備を必要とし、さらに大きな負担を強います。財政は膨張し、債務は膨大となり、国民生活を顧みることは困難となります。
10年ごとに大規模な戦争がおこる時代、それをある歴史家は「五十年戦争」といいます。五十年間つづく「戦後が戦前である時代」、この緊張から解き放されたのが、8月15日でした。

「内地」と「外地」~ダブルスタンダードの法治主義

植民地の獲得は統治のあり方を変化させました。
植民地=「外地」を獲得することで、大日本帝国は「内地」と「外地」という二つの領域を支配するになりました。「明治憲法」とそれに基盤を置いた法体系が適用される「内地」、これにたいし「外地」=植民地においては「内地」の法は部分的にしか適用しないというダブルスタンダードとなります。その矛盾が「帝国」日本を苦しめます。それともあいまって、フルスペックの権利を認められる内地のヤマト系日本人と、植民地人とされた朝鮮人や台湾人などとの間の明らかな差別も拡大します。こうしたダブルスタンダードの「国家」、ダブルスタンダードの「日本人」、これが解消されるきっかけが8月15日でした。

「富国強兵」としての「近代日本」

ペリーの来航以来の近代日本のあり方に「ノー」がだされたのも8月15日でした。
日本は欧米列強からの国際的なストレスや緊張、つまり『外圧』を感じながら、歴史を重ねてきました。外圧という感覚のなかには、リーダーたちの頭の中で増幅された強迫神経症的なものも一部あったでしょう。天皇制国家建設の「口実」という面もあったかもしれません。そうしたものも含め「外圧」が幕末以来の日本を規定しました。
「外圧」のストレスは、その反動として対外進出へと転化します

岩倉使節団の出発
岩倉使節団の出発 欧米の文明が導入される大きなきっかけとなった。「東京書籍日本史A」

外圧のストレスは、日本の文化への極端な二つのまなざしを作り上げます。
日本が参加を余儀なくされた国際関係は、ヨーロッパ中心の主権国家体制=「万国公法」体制でした。参加資格は欧米的価値観の共有であり、それをもたない「未開」の地域は、欧米諸国による容赦ない「早い者勝ち」の植民地とされます。「不十分」と見なされた「半文明国」は「不平等条約」を強要されました。
「半文明国」である日本もこのルールに従って不平等条約を強要されました。こうした位置づけは、幕末から明治初年のリーダーたちにとっても不本意なものでした。その不本意さが、幕末には攘夷運動として表面化したのです。明治の新政府は「条約改正」という「攘夷実行」のために岩倉遣欧米使節団を送りました。かれらがそこでみたものは、日本と「万国公法クラブ」のグローバルスタンダードとの大きな隔たりでした。条約改正までの道のりの遠さを実感しました。こうして、明治のリーダーたちは「不平等条約」を強要されざるをえない日本を、「万国公法クラブ」への参加資格をみたす欧米基準に作り替えなければなりませんでした。ちょうど、EUへの加入をめざす諸国がその厳しい基準をクリアするため国内法を改正するなど血の汗を流すような苦労をするように。

「文明開化」と「未開」「非文明」

「万国公法クラブ」参加のための「欧米化」と、参加の前提となる国民国家建設手段でもあった天皇制の整備を併存させたものが「文明開化」でした。

廃仏毀釈 多くの寺院や仏像が破壊された。「図説日本史通覧」帝国書籍

この基準に適うものが「文明」であり、それに反するものは「未開」「非文明」としてみなし、排除の対象とされした。一時は、仏教さえもその対象となりました。「廃仏毀釈」はその典型です。そして「文明」に従わない人々、多くは一般民衆ですが、一方での暴力による抑圧と他方での「教化」をすすめました。「文明開化」によって日本が伝統的に作り出してきた多くのものが抑圧され、天皇制の関わりがない場合は排除の対象となり、「無知蒙昧」「非文明的」として侮蔑されました。
「文明化」は伝統世界で生きる民衆との緊張関係のなかですすみました。自由と民主主義という政府とは別に違う「文明化」の論理で迫る自由民権運動との緊張関係もうまれました。明治憲法と帝国議会などはこうした緊張関係の産物といえます。

「文明開化」に隠され「劣等感」と「独善」

「文明開化」の過程は、欧米文明に対する劣等感を蓄積していく側面をもっていましたが、他方で「文明化」しない人々への優越感と侮蔑をも作り上げるものでもありました。こうした優越感と侮蔑意識は国際関係にも応用され、日本がアジアを教化していくリーダーであるという意識を形作り、さらには日本のアジア進出は、アジアを「文明化」することであるという意識をつくりだすことになりました。こうして朝鮮や中国は非文明的な遅れた国、したがって日本というリーダーに従うべき国という論理に転換され、植民地化の、侵略の、理由にならない理由とされました。

欧化政策を皮肉したビゴーの戯画。鏡に映った着飾った高官の姿は「猿」

他方、文明開化の過程で国内におりのように蓄積されていった劣等感は、「文明化」=「欧米化」の一定の成功、さらに日清戦争に始まる帝国主義化、軍事大国化、つまり条約改正=「万国公法クラブ」加入によって、一挙に反転し始めます。日本文化への見直しが、国民国家建設のツールとして用いられた天皇制と結びついて、根拠のない優越感となっていき、ついには「八紘一宇」という形での独善的な思想へと変わっていきます。これは「外圧」と対峙するというなかでつくられてきた劣等感が暴力的な形で反転したものでした。
江戸時代末期から、国民生活をないがしろにして、軍事大国を目指す、植民地を獲得して帝国主義大国に上り詰める、そのなかで生まれた劣等感と裏返しの独善的な優越感、こうした幕末以来の日本のあり方が、清算された出来事、それも1945年8月15日の敗戦でした。

近代日本はこれでよかったのか?

8月15日は、これまで日本を動かしてきたもの、それに巨大な疑問符をつけるものでした。「日本は多くの誤りを犯してきた。なぜそんなことになったのか?」と。
多くの日本人は、信じてきたものを否定されました。だからこそ、虚脱感に襲われたのかもしれません。これまでの約90年近く信じ続けてきたもの、日本のあり方、それらが敗戦によって否定されたのです。

「戦争責任」の問い直しの機会を逸した日本

重層的な歴史、日本にかかわる歴史、そこで行われたさまざまな行動、考え方、そういったものがいったん否定され、一挙に問い直されていたのが8月15日の意味でした。日本の近代自体が、本当にそれでよかったの?どこで間違え、どこが間違いだったのか?これがと問い直されたのが、8月15日の意味でした。
こうした問いかけにどれだけ向き合ったか?

東京裁判 連合軍によって日本の戦争犯罪が裁かれ、東条英機や広田弘毅ら7名が絞首刑となった。

日本人は「戦争犯罪」という形での問いかけに自分の力で応じることができませんでした。それにかわって連合国が行ったのが東京裁判です。東京裁判は、問題山積ながら、曲がりなりにも軍国主義と侵略戦争を断罪する裁判でした。罪刑法定主義に反するという法手続き上の問題、勝者による敗者の裁きなどの疑問は当時からも出されており、こうした批判は、現在でも問題視され、これに乗じて戦争犯罪のみならず、日本の戦争さえも免罪しようという動きもあります。
もし日本人が、自らの手で、自らの身を切り裂いて、がん細胞を摘出するような裁判がなされたなら、この批判は通用するでしょう。しかしそれはなされませんでした。日本人は、自分たちで裁けなかったのです。このことをまず恥ずべきなのかもしれません。勝者による裁判だからといって東京裁判を否定するだけなら、それこそ、だれも責任をとらなかったことになります。東京裁判は、日本国民、アジア諸民族、そして世界を苦しめた戦争にないして何の責任もとらない、こうした事態を七人を「人身御供」とすることで回避させたのです。日本人自身ではなく、日本との新たな関係を求める連合軍とくにアメリカが「落とし前をつけた」という言葉がもっとも適切なような気がします。

2014年の安倍首相の靖国参拝は、中国や韓国などにとどまらず、アメリカ高官の「失望」との発言も生んだ。

世界が靖国神社への首相の公式参拝に反対するのは、45年8月15日に対する責任を象徴する責任者を免罪することで、日本政府は戦争の責任をとらないと宣言しているように見えるからです。慰安婦問題や歴史認識について中国や韓国・朝鮮から厳しい批判を受けることがあります。その批判の多くは、これまで見てきたような近代日本の課題にたいし向き合ってこなかった点を厳しくついていると思います。
しかし、日本人が、8月15日に終わったこれまでの日本の近代をまったく問い直さなかったかといえば、そうではないような気もします。

日本人は、8月15日を問わなかったのか?

10数年前、中国に行ったときのことです。道路のドライブインに、日本のコンビニにならんでいるエッチな本のような感じで、戦争中と現在を混同させた「これはちょっと」と思わざるをえない「日本批判本」が多数並べられていました。

売り場に殺到する訪日観光客

たしかに問題だとは思いました。しかし、私が思ったのは、このような「本」を書いたり、読んだりしている人に、「是非、日本に来て、いまの生きている日本人があなたたちが思うような人間なのか、その目で検証してください」という思いでした。
現在、中国や韓国から大量の人たちがやってきます。10数年前、思ったことが実現しつつあります。高度成長期、パリなどでの「ノウキョウさん」が、中国の人たちによっても日本の地で再現されました。しかしパリでの日本人がそうだったように、二度、三度というリピーターになるにつれて、かれらなりの日本を発見をしつつあります。中国国内にも、あたらしい冷静な「知日派」が生まれつつあります。表面上、あの「日本批判本」を信じているかに見える中国人も韓国人も、現実は大きく異なるという印象を持ち始めているように思えます。

文部省が編纂した副読本「新しい憲法のはなし」より(東京書籍「日本史A」P157)

10数年前の直感は、日本にすむ生活者の中に、普通の日本人の生き方の中に、8月15日への反省が隠れていると感じたからだったかもしれません。たしかに「日本」は、「戦争」へのきっちりとした向き合い方も、反省もできませんでした。とくに、政府レベルではまったく不十分でした。しかし、時代の中で生きていた多くの人は、様々なレベルで戦争に向き合い、「二度と戦争はしないでおこう」という思いをもちました。そうした象徴が、日本国憲法でした。憲法制定過程については、アメリカという自分の政策に都合のよく日本をもっていこうとする「助産師」さんの力も借りました。しかし、完成した憲法を感動を持って受け入れたのは戦争をくぐり抜けてきた日本人です。何度も出てきた憲法改正要求を挫折させ、憲法を大切にし骨肉化してきたのも日本人でした。戦争が続いた戦後七十年間、戦争で人を殺したり、殺されたりしないかった平和国家・日本にたいし、戦後の日本人は自信を持ってもよいとおもうのです。

2015年の安保法制反対デモ(©日刊ゲンダイ)

いろいろと問題があり、批判される点は山ほどありながらも、人々が平和的に生きている国、そうしたやり方で8月15日に向き合ってきた日本、それは誇ってよい、それが十数年前の私の直感でした。日本が軍を前に立てての侵略をおこなうということは思いもよらない、その日本を見てください。それがあのときの気持ちでした。(過去形で書いているのが残念でなりませんが・・)
戦後の日本、その背景には、それぞれの人の、いろいろなレベルで8月15日におわった戦争についての思いがあり、戦争とその時代への反省があり、それが戦後の日本の歩みの底流に流れているのです。

「あなたは8月15日にどのような感情を持ちましたか?」
   ~公開問題を出します。

こうした思いから、私は定期考査(多くの場合は年度末考査になります)の1問をあらかじめ生徒に知らせる公開問題をしました。以下の業務連絡のような感じです。
なかなかの名作揃いとなりますよ。

業務連絡:公開問題・・「戦後日本を作ったもの」

今度の考査では、公開問題を出します。10点分、ですからかなり大きいですよ。さらに、ぼくが「うーん」とうならされた解答にはプラスαをつけますので本来の満点10点にボーナス5点の15点満点とします。プラス5点を加えて100点を超える場合は、100点で打ち止めとしますから許してください。ただし手元の計算では100点を超えて計算しますので。
さて、その内容ですが。みなさんに1945(昭和20)年8月15日時点の「人間」「もと人間」あるいは「人間以外の何か」でもかまいません。とりあえず、8月15日の気持ちを、自分なりに考察して、「手紙」または「手記」の形で書いてもらいたいのです。
そのときに生きていた人間~日本の子ども、兵士、戦地に愛する人を送り出した女性、老人、朝鮮人、中国人、台湾人、東南アジアの人でも、戦争を戦ったアメリカ人やロシア(ソ連)人~でもかまいません。幽霊もおもしろそうですね。神、宇宙人でも、あるいは犬・猫でも、「アホーアホー」と鳴きながら飛ぶカラスでもかまいません。そういった何かの8月15日の気持ちを書いて欲しいのです。
配点基準は、それまでの日本や世界の歴史と矛盾なくそれらを踏まえているか、8月15日当時の状況を理解しているかなどを前提とし、なぜそういった感想や気持ちをもったのか、十分に説明しているかをもとに採点します。当時の人びとの気持ちを調べろという内容ではありませんので、間違えないでください。
もちろん解答はありません。字数は、A41枚分解答用紙をつけておきますが、全部を書けというわけでもありませんし、増えすぎて足りない時は裏を使ってもらってもかまいません。
みなさんに、そのときの気持ちになって欲しいと思うのです。そこから、戦後の日本が、世界が生まれてきたのですから。
以上、業務連絡です。

 

日本人はなぜ英語が苦手なのか?

日本人はなぜ英語が苦手なのか?

~高度な学問に耐えられる言語としての「日本語」~

 またまた余談をします。
みんな、日本人は英語が苦手だというんだけど、なぜ苦手か、
分かるかな。教育制度とか、教え方とかいろいろ理由がいわれるけど、実は日本は英語(外国語)な しでもやっていける珍しい国だから。だから切実じゃない。
生活レベルだけじゃなくて、大学や大学院といった高等教育、さら には研究レベルにおいてもそうだから。
日本で普通に暮らし、学んでいくうえでは英語は、怪しげなジャパニーズイングリッシュというか、カタカナ英語を除いて、あまり必要ない。あまり使わないので、そんなに真剣にならない。だから、英語がうまくならない。こんな風に考えられないかな。
でも、英語(欧米語)なしで、何でもできるってすごいこと思わない?
自国語だけで高度な研究ができる国って、欧米語を母語としない国のなかでどのくらいあるんだろうね。
残念だけど、インドのヒンドゥー語だけで世界レベル の研究はできないだろうね。だからインドの高度な研究や高等教育は英語をつかう。高度な学問なんかで使えるほど洗練されていないから。大学などの高等教育が英語が行われるというのはその国の言葉で難しい研究をするのが不可能だから。植民地化された国では、そうさせなかったからといってもよい。
こうした結果、その国の中には、英語を使うエリートと、英語が使えず高度な内容を持った会話ができない一般人という二層構造ができてしまう
しかし日本にいれば、英語なしで高度なレベルの教育も高度な研究もほぼできる。普通の人もそれなりの質の話ができる。高度な知識にすべての日本人が触れることができる。これってすごいとおもわない?だったらなぜこんなことができたか、
最も大きな理由は日本が植民地にならなかったこと。そして啓蒙主義者、福沢諭吉や西周、森有礼といった連中、そして中江兆民や植木枝盛といったそれにつづく人たちが、なんとかして重要な用語などを日本語(じつは「漢語」)にしようと頑張ったから
世界の知識をなんとか日本人に伝えたいと思ったかれらは、重要な単語について、日本語(実際には中国語なんだけど)で近いニュアンスの言葉はないかと必死で探し、当てはめていった
freedomということばは、幕末の通訳が「わがまま、放蕩」という意味の「自由」ということばを当てていたのを、福沢が「西洋事情」という本で用い、広めたらしい。またfeudalismという英語は中国の周の時代の「封建制度」に似たシステムだということで「封建制」という訳語を当てはめた。
困ったのはeconomicという単語。ちょうどよい言葉が見つからない。そこで福沢諭吉か西周か、あるいは二人が相談したのか、「世の中をおさめ、人々をすくうこと」という意味の「経世済民」を略して「経済」という新しい言葉をつくったんだ。
こういう風にして、英語などの文章は日本語で読めるようになったんだ。彼らの使ったり作ったりした言葉は、日本だけじゃな
く漢字文化の国々にも影響を与えた。現在の中国では、そこら中で「経済」という言葉を使っている。
以上、余談でした。
(※以上の文章は、「明治維新(3)殖産興業・文明開化・国家神道」の一部にくみこんでいたものです。)

書いたあとで考えたこと

 ここまでは、以前から考えていた内容に、大学の授業で学んだ内容もまじえて書いていました。ほぼ同じ内容を、高校の授業の中でも話してきました。
ところが原田敬一氏の「日清・日露戦争」(岩波新書)を読んで大きな問題に気がつきました。ある意味で「ナショナリズム」に侵されていることに気がついたのです。このことを少し考えたいと思います。

「蘭学」はどのようにして始まったのか?

海禁政策(「鎖国」)の結果、ヨーロッパ文明と切り離される結果となった日本人が、どういう経過で再度ヨーロッパ文明と接触をしたのか。あるいは「蘭学」という名で呼ばれる西洋学問の研究がどのように始まったのか、私たちは、知っていながら、重要なポイントを見落としています。
蘭学がはじまったのはいつでしょうか?
出発点のひとつは前野良沢や杉田玄白たちによるターヘルアナトミア(「解体新書」)の翻訳です。この過程で、オランダ語の知識が蓄積され、その知識とスキルを用いて、オランダ語を翻訳する技術が身につき、そのオランダ語の力を借りて西洋の知識を学んでいったのです?
このころの「蘭学」で、必ず一人の人物の名前が出てきます。
「万能の天才」「日本のダビンチ」こと平賀源内です。
解体新書表紙 山川出版社「詳説日本史」P225
平賀源内は前野良沢や杉田玄白と同時代人です。狂気にとらわれて殺人を犯し獄死した源内の追悼文を杉田玄白が書いています。
源内は、オランダ語はできませんでした。オランダの本の図版を必死でながめていたということです。ちなみに、玄白もオランダ語の力はたいしたことなかったみたいですが?!
では、源内の西洋知識はどのように入手されたのでしょうか?

日本人は西洋を「漢文」で学んだ。

もう一つの出発点の話をします。
徳川吉宗、享保の改革の時代です。それは、吉宗が○○を解禁したため、サツマイモを日本に持ち込んだことで有名な青木昆陽という先生などが西洋の学問を学ぶようになったこと、これが蘭学のきっかけとなったという話です。
吉宗が、解禁したもの・・それは欧米人が書いた書物=洋書の輸入でした。でも、洋書にはキリスト教の書物が紛れ込む可能性がありますね。そこで、このとき輸入が認められた洋書は、欧米からワンステップおかれた洋書でした。前に何か付いていましたね・・・。
「漢訳」洋書。漢文に翻訳された西洋の書物でした。
これなら、キリシタンの書物かどうか、すぐわかりますね。
では西洋の言葉を漢文に訳したのはだれでしょうか?
考えればわかりますね中国人、正式にいうと中国人が、中国にやってきた西洋人(とくにイエズス会系の宣教師)の協力を得て翻訳していたのです。
このことの意味に、私たちは無頓着であったように思います。
まず、西洋知識を東アジアの人が分かることばに翻訳したのは中国人です。
西周

福沢や西が幕末から明治初年にかけて行った苦労、それを蘭学で前野良沢らがおこなったような基礎作業も含めて行ったのが、中国人の学者とそれに協力した西洋人の宣教師たちでした。

「蘭学」と呼ばれることになる西洋の知識の導入のきっかけは、中国人が翻訳した洋書を読むことからはじまりました。
中国の学者たちが、自然科学の用語をはじめ多くの欧米語を、宣教師たちとともに「あーでもない、こーでもない」と頭をひねりながら漢語に訳していったのです。
こうした人たちの努力の成果を青木昆陽が、そして平賀源内が学んだのです。前野良沢らの解体新書の翻訳も、こうした基礎作業のうえに立っていたのだろうと考えられます。
日本人は中国人が翻訳した洋書で、西洋文化を学びました。現在用いられる西洋の言葉の訳語は、まず中国の学者がまず考えたものでした。

東アジア共通語=「漢文」の実力

東アジアの知識人にとってありがたかったのは、漢文という共通語の存在です。中国の公式の文語である漢文は、そもそも話をすることができない国内の人びとや中国周辺の蛮族(日本人ももちろんその一つです)との間で意思疎通をするため、しゃべれなくとも意味が通じるという言語です。返り点をうってその内容を理解するという日本的な漢文の読み方は邪道でなく正当な漢文の読み方です。音声で通用させることなどは最初から期待していないのですから・・。
話が横道にそれました。このように、音声でなくとも意味が通じるという言語上に、まず中国の学者たちが西洋の知識を漢語でアップロードしました。東アジア文化圏の知識人はこれにより、東アジア共通語によって西洋の知識のアクセスできるようになったのです
幕末の日本において、蘭学者と並んで西洋への深い知識を持っていたのは、中国直系の学問であるため大義名分論に凝り固まったなどとの誤解を受けてきた朱子学を学んだ人びとでした。
高い国際的教養に裏付けられていたと近年評価される幕府の開明派官僚たちは、こうした朱子学の基礎の上で育てられました。

東アジア共通のデータベースの存在

では西洋の知識を翻訳した中国の学者たちは、どのようにして適切な漢語を選び出していったのでしょうか。
それは、中国文明のなかで蓄積された歴史・思想・学問などの膨大な知識、データベースからです。このデータベースの中から、西洋の言葉に最適な訳語を見いだし、当てはめていったのです。
注意しておきたいのは、このデータベースは東アジア世界全体で共有されていたということです。日本や朝鮮の知識人は、自国の歴史以上に中国の歴史についての深い知識を持っていました。「儒教」とくに「朱子学の知識は東アジア全土に共有されていました。やや衰退傾向にあった「仏教」ですが、それでもデータベース上にはしっかりと保存されていたのです。
こうした知識の多くが共有されていたため、個々の単語についてのニュアンスはかなり細かい部分まで共有可能であり、相互理解できたと思われます。言葉に対する日中朝の共通の知識のデータベースが存在したのです。これによって西洋の単語に対する訳語はそれほどのズレもなく、こまかいニュアンスも含めて共有できたのです。民族の枠を越えた討論なども行うことが可能なのです。
さらに、漢語にない言葉、例えば「経済」といった語も、なぜこの語を使ったのかという了解の上で利用できたのです。
西や福沢も、主にこのデータベースから適切な語を選び出してきました。だからこそ、彼らが用いた訳語が中国にも逆輸出可能だったのです。

「西洋知識の導入」という壮大なプロジェクト

こうして考えるならば、西や福沢に代表される欧米の思想や文明の導入自体、16世紀以来、続けられてきた東アジア文化圏全体で行われた西洋知識の導入という国際的共同作業の一環、巨大なプロジェクトの一環だったと考えることができます。東アジア諸民族の知識を結集し、適切な訳語を中国史・思想を中心とする巨大なデータベースから選び出し、吟味して、あてはめていく作業でした。
私たちは、英語の力がそれほどなくとも、世界の高度な知識にアクセスすることが可能です。それは東アジア文化圏、とくにインターナショナルな言語である漢文・漢語のもつ偉大な力、漢文とそこにつながる中華文明圏の巨大なデータベースの恩恵があったからこそでした
日本人が中国に漢語を逆輸出したというような浅薄でナショナリスティックないい方では、とらえきれない広がり、壮大なプロジェクトが、私たちがつかっている欧米起源の用語の翻訳の背景にあったのです。
最後に、最初に示した原田敬一氏の著書の一部を引用して、今回のまとめとします。
近代日本が、欧米文化の学習で優等生だったことが、1945年の破滅を呼ぶことになるが(中略)問題は、優等生だったことが一方的に強調されすぎることである。日本で欧米文化を消化し、翻訳語を作り、清国や韓国などの漢字文化圏に輸出していったことが語られすぎている。
15世紀から19世紀にかけての中国文明が、まずヨーロッパ文明を消化し、アジアに送り出していったことが、なぜこんなに簡単に忘れられたのであろうか。日本が、世界を把握できたのは、まずヨーロッパ語を中国で漢訳したものを通じてであった

「治外法権」なしの通商条約なんて無理!~幕末編、UPしました。

「 幕末編をアップしました。」
と景気よく書くつもりが、アップしてから一か月以上たってしまいました。見ていただいたでしょうか。
大学時代に、少し時間を掛けてやったところなので、しゃべりすぎてしまいました。
「時間がない、時間がない」といいながら・・・。
言行不一致は教師の特徴?!(苦笑)。
幕末維新史は、かなり研究がすすんでおり、学生の頃のようにあっさりとしたものではなくなってきたように思えますし、逆にわかりやすくなったようにも思えますが。

「不平等条約」って言うけれど

内容紹介を兼ねて、
「不平等条約」と言うけれど、平等な条約なんてあり得たの?
ということを考えてみます。
かつて、「幕府の役人は無能」というステレオタイプで見られる傾向がありました。当時からもそんな風でした。
役人=公務員バッシングは今も昔も変わりませんね(苦笑)
いい加減な仕事しかしないとか、給料が高すぎるとか、お役所仕事とか、親方日の丸とか、ぼろくそに言われます。
教師もぼろくそに言われますから、公立高校の教員なんかは
まるで、「人間サンドバッグ」
大部分は、一生懸命やっていますよ。つつましい生活してますよ。
大金持ちは「セレブ」とかいって持ち上げるのに、なんで一生懸命やっている公務員や教師をひとまとめにしてバッシングしたがるのでしょうね。
役人にも教師にもいろいろな人がいます。そのヤバい人だけをみて、ひとまとめに叩くのはおかしいですよ。
叩きやすい者をたたくというのは、甘利さんや石原さんには触らずに、セコい舛添さんだけを袋にするというのとよく似てますね。
ついついグチをいってしまいました。

江戸末期の役人は優秀だった?!

ということで、江戸末期、一生懸命頑張ったのに、バッシングされまくった人たちについて見ていきたいと思います。
近年の研究の成果によると、和親条約や通商条約で外交折衝に当たった幕府役人の優秀さが強調されつつあります。
世界情勢をしっかりと冷静に把握したうえで、日本の国益を考え、列強の圧力に対しても、粘り強い交渉を繰り返し、かなりの成果を上げたと。

「治外法権」を認めず済みますか?

しかし「不平等条約を認めたではないか」という反論が聞こえてきそうです。
では、聞き返します。
幕末の時点で「治外法権」の条項をいれずにすみますか
当時の日本の裁判を考えてみてください。
「まず不衛生で、金がないといじめられ、人数が増えると数名が殺されるという牢獄に放り込まれ、
異様に発達したさまざまな拷問器具で自白を強要され、
お白洲という白砂利や土間の地面に座らされ、
未整備で人権などにはまったく配慮されない法律??で
弁護士もなく裁判され、
首を切られたり、自殺を強要されたりして
首をさらされる」
こんな裁判を受けたいですか?
逆に全然言葉も通じず、文化も法律も、そして価値観もちがう、「差別しない事の方が犯罪的」である当時の日本と、
「人間は平等である」西洋、
その間できっちりとした裁判なんてできますか
すぐ国際問題となってしまいます。
こんなリスクを侵してまで、当時の日本で裁判をしたいですか?
何事も、リアルに考える事が大切です。
ぼくなら、外国人の立場でも日本人の立場でも、御免蒙ります。
そう、この段階で「治外法権をいれない」なんて、あり得ないことなのです。

「治外法権」撤廃の条件は、日本の「近代化」

こうして考えれば、「条約改正」を実現する事の大変さが見えてくるでしょう。
明治新政府の連中は最初は甘く考えていたのでしょう。
その認識が大きく変わったのが、岩倉使節団の事です。
「治外法権」を撤廃するためには、
しっかりした国内法が必要ですし、裁判制度の整備も必要です、その法律も欧米人が「ま、いいか」という段階までいかねばだめです。
簡単に言うと「自分たちの仲間(国民)を、日本の法律・裁判の手にゆだねることができること、ゆだねても自国内で批判されないだけの国になっていること
これが治外法権の撤廃の条件だったのです。
だからこそ、条約改正には時間がかかったし、
条約改正をするためには、日本を近代的な、あるいは西洋的な国にしなければならなかったのです

当時の日本で関税率を決められた?

関税自主権がなかったではないか」たしかにそうです。
なら、当時の日本で、関税額をどのような基準で決めるのですか?決められたのですか?
結局は「外国に相談をして、言いくるめられて」というのが関の山です。
ですから、関税額を一定にするという協定関税という枠組みは、この時代では合理的なのです
そのなかで、幕府の役人たちは、できる限り高い関税率を守ろうとしました。
あとから条約を結んだイギリスなどは関税率の高さに強い不満を持ちます。
「ハリスの野郎、よくもこの率で妥協したな!」てな具合です。
ですから、長州が外国船を砲撃した事を理由に、協定関税率の引き下げを認めさせたのです。
関税でも、官僚たちは頑張りました。

役人たちが守ろうとした「国益」

では通商条約締結時、官僚たちが守ろうとしていたのは何か?
それは「外国人の国内旅行の制限」や「国内雑居を認めない
ことでした。
なぜなら、中国やベトナムの植民地化・半植民地化はこの条項を用いて進んだからです。
各地でトラブルが続発し、その処理に走り回る
攘夷派の連中が急速に力を伸ばしている、こうした状況でこれは認められないことでした。
幕府の外交官僚らはこれを守り抜きます。
これは評価に値する事だったと思います。
このように、幕府の外交担当の官僚たちは、
これまでの経過や列強間の力関係、他国の事例なども丹念に調べ上げて、粘り強く交渉し、条約を締結しようとしたのです
彼らが優秀だったからこそ、ハリスがヒステリックになっていた面もあるのでしょう。

「公務員は辛いよ!」

こんだけ頑張ったのに、ぼろくそ言われ、外国の手先みたいに云われ・・・。
「人間サンドバッグ状態!」
辛かったでしょうね。
Iwase Tadanari.jpg
岩瀬忠震https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Iwase_Tadanari.jpg
とくにかわいそうなのは、先頭に立ちがんばった岩瀬忠震さん。条約を結んだとたんにお払い箱。
ならいいんですが、井伊直弼さんから謹慎処分にされ、
「使うだけ使ってこの扱いか(怒)」って感じで死にます。
岩瀬さん、攘夷を唱える連中にも言いたかったでしょうね。
そんだけ言うんやったら自分でやってみろ!」
新政府で外交担当となった伊藤博文さんや大隈重信さん、あるいは井上馨さんなんかは、岩瀬さんたちの苦労、身にしみて分かったのでしょうね。
ひょっとしたら、「あの連中、よくやった。俺たちならここまでできなかったかも・・」なんていってほしかったな。
そういえば、彼らの親分、木戸孝允(桂小五郎)さんは、幕府の外交官僚中島三郎助の弟子です、その苦労も少しはわかっていたかもしれませんね。
 ちなみに中島三郎助は箱館戦争で戦死します。

こんな授業、していません?

 不平等な条項は「治外法権」(領事裁判権)と「関税自主権がない事」(協定関税)、そして和親条約に含まれていた「一方的最恵国待遇」、この3つ。
日本は、このような不当な扱いを受け、外国側はなかなか交渉に応じず条約改正が実現したのは明治末年であった。
なんて紋切り調の授業、していませんか?
ごめんなさい、実は、私もやっていました・・・。
(注記)この趣旨にもとづき、「内地雑居」について、「ペリー来航の来航と開国」大幅に書き直しました。(2016/08/06記)