なぜ発砲できたのか~韓国映画「タクシー運転手」を見ました。

世界史と日本
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なぜ「なかま」に向けて銃が撃てたのか?

遅ればせながら韓国映画「タクシー運転手」を見ました。一九八〇年、韓国の光州で当時の全斗煥軍事政権が起こした大規模な住民虐殺事件=光州事件での実話をもととした韓国映画です。

韓国映画「光州5・18」 2007

10年ほど前、「光州5・18」を観て、なぜこんな事件のことをあまり知らないまま過ごしてきたのか、自分が深く考えていなかったということにショックを受けたことを思い出しました。

その時も、今回も、一番気になったことは、なぜ兵士たちが市民に発砲できたのかということでした。
同じ言葉を話し、自分たちのよく知っている歌を歌う人々(前回の映画では「国歌」だったと思います。今回はこのシーンはありませんでした。日本でいえば「ふるさと」?「翼をください」?みたいな感じかな。)。
反抗的な若者だけでなく、老人も子供も、自分たちの父親や母親のようなひとびとにもひとことで言うと「どこにもいるような普通の人たち」に、銃口を向け、殴りつけ(ここまではありえますがついには射殺するのです
もちろん、激しい葛藤を感じた兵士もいたでしょう。(今回の映画でも分かっていながら見逃す「石橋山の梶原景時」のような兵士を、それを表現していました)

それが軍隊の本質だ。軍隊は「国家の暴力装置」なのだから、と訳知りな言葉が聞こえてきそうです。たしかにその通りですし、私も同意します。しかし、それでも、なぜ?という言葉が頭をよぎるのです。暴力装置の暴発が革命を引き起こすことも多いのですから。 

朝鮮戦争のなかで起こったこと

 

ここ数週間程、韓国の現代史を学んでいるのですが、そのなかで気づいたのが、朝鮮戦争中の、あるいはその前後に多発した互いに虐殺しあうというあまりにも無惨な歴史の存在です。(例えば済州島四・三蜂起)。

朝鮮戦争の推移(帝国書院「図録日本史総覧」P295)

少しリアルに考えるため、朝鮮戦争のことを考えてみます。
戦闘の経緯をみていきます。1950年6月25日、開戦と同時に北朝鮮軍は三八度線を越えて一挙に南下し、ソウルを占領します。韓国軍は大統領の命令で牢獄にいた政治犯を全員殺害し、住民を置き去りにしたまま、避難民で殺到した橋を爆破して逃げ去りました。「北」軍の進軍は早く、韓国軍とそれを支援する米軍を主体とする「国連軍」は釜山周辺に押し込まれます。「北」の主張する「南進統一」が間近と思われました。「北」軍は、占領地域の住民を義勇軍などに組織して自らに協力させます。他方、地主や警察官・官僚などを反対派とみなし殺害する事件もおこりました。
9月15日、「国連」軍の仁川上陸作戦が成功すると状況は一変します。最前線にいた「北」軍は取り残され、ゲリラ戦に移ります。韓国軍は「国連軍」の支援のもと、敗残の「北」軍の掃討戦にうつります。義勇軍に参加した人はもちろん、「北」側を支持したとされる人々(支持者だけでなく、やむなく支持したものも、誤解によってそう思われたものも)もその一味とみなされ、つぎつぎと殺害します。

朴正熙は仲間を売って生きのびた!

朴正熙(1957年)

戦闘の各場面で、命の危険を感じた人たちは故郷を捨て「北」に「南」にと避難します。またどちらかの影響下に入ります。そして支持している側が故郷を制圧するともどってきて、自分たちを追った人々に報復します。自分の命を守るために仲間を売る者も現れます。軍事独裁政権下に韓国の経済発展の基礎をつくった朴正熙もその一人でした。朴正熙は韓国軍における南朝鮮労働党(=共産党)の秘密党員でした。捕らわれたかれは、なかまの名前を積極的に話すことで命を長らえます。こうした経歴をもつ人がより苛烈な迫害者となることは、古今東西を問わずよくあることです。

戦争に翻弄される人々

ソウルにもどった韓国軍は自らが見捨てたにもかかわらず、残されたソウル市民に疑いの目を向けます。「北」側に協力したではないか!と。そして親「北」派とみなした人々を殺害します。恐れた人々は「北」に向かって逃げていきます。
「国連」軍が三八度線を越えてさらに北上、平壌も制圧、中国国境に向かって進みます。今度は「北」で同様のことが起こったことはいうまでもありません。
ところが、こうした「国連」軍の動きに危機感を持った中国が、11月「中国人民義勇軍」という名で大軍を派遣すると、再び戦況が逆転します。「南」側についた「北」の人々は南に逃れ、逃げ遅れたものは迫害されます。12月には平壌が奪回され、翌1951年1月再びソウルをも占領されます。「国連軍」はふたたび体制を立て直します。3月にはソウルを奪還、その後、戦局は膠着化し、ほぼ現在の軍事境界線附近で両軍がにらみあい、南北間の人々の行き来は止まります。大量の離散家族が生まれました。

人々は命をうばいあった。

私たちはついつい軍の動きのみに目を奪われがちです。そのなかで多くの住民が、右往左往させられたのです。逃げ惑ったという言葉は妥当でないかもしれません。現実はもっと深刻です。人々は「北」か「南」かを迫られ、「敵」となった人とたたかわされます。「戦い」は戦場だけではありません。自分の生まれ育った場所であり、逃げ惑う人々への「山狩り」であり、それから逃れる恐怖であり、疑わしい村人への拷問や虐殺です。こうした「戦い」です。憎しみは憎しみを生みます。隣人への「恐怖」は「やられる前にやってしまえ」という感情を生み出します。親しい人の死や自らへの迫害は強い復讐心を生みます。命からがら逃げ回った体験はその原因を作った人たちへの怒りをうみます。怒りと恐怖、復讐心、暴力が暴力を生み、すべてを支配します。

「あの行為」を「正統化」するために。

光州事件 韓国の国旗を掲げ「民族民主化大集会」のため校門を出た全南大学の教授ら。「光州事件とは 1980年5月、韓国の街は戦場だった。」吉野太一郎huffpostNEWS 2015年05月19日以後、光州事件の写真はこのブログから

こうしたなかで発生したのが数多くの惨劇でした。その体験はあまりに生々しいものです。人々はその死骸とともに、「記憶」も秘かに深く埋葬しました。
耐えがたい体験を耐えるには自らの行為を正統化する「ことば」と論理が必要です。その正統化の論理が「アカ(共産主義者)」「スパイ」、「『北』の手先」「民族の敵」といった一連のことばです。このことばを用いることで「こうした連中だったから殺されて当然だった。自分たちの行為は『正義』なのだ」という理屈が成り立ちます。さらに、この論理は、過去だけでなく未来に向かっても投影されます。「共産主義者、スパイ、「北」の手先、民族の敵は殺してもかまわない」という風に。
重要なことは、こうした認定は「事実」である必要はないのです「事実」であるか厳密に追求することは「危険」です。それは自分たちの「行為」の「正当性」を問うてしまうからです
こうしてこの論理は、
共産主義者であろうが、なかろうが無関係に適用されました。
相手にこの言葉を投げつけ「敵」とみなせば、多少乱暴なことをしても自己正当化できるのです。自分たちの「暴力」を「正義」とできるのです。
韓国でこの論理を多用したのが朴正熙ら軍事独裁政権でした。「反共法」が軍事独裁政権維持の根拠となりました。

『北の手先』論が隠したもの

光州事件 https://www.huffingtonpost.jp/2015/05/19/kwangju-35th-aniv_n_7311100.html

この用法にはかれらにとって、もう一つの利点がありました。「北」の脅威、共産主義の脅威を強調することで、日本軍の軍人(正式には「満州国軍」ですが)であったという過去を後景に置くことが出来るという効果でした。かつての「親日派」に支えられた軍事独裁政権にとっては非常に都合がよい論理でした。韓国軍の中には旧日本陸軍の体質・DNAが濃厚にながれています。韓国軍は旧日本軍のOBによって組織されたと入っても過言ではありません。かれらが民族主義派などの軍事組織関係者を排除し、アメリカの援助の元に育成されたのです。日本軍のDNAは韓国軍がベトナムで犯してしまった残虐行為にもつながったとの指摘もあります。

「北の手先」は殺してもかまわない!

今回の映画の中でも、私服将校が「アカは裏切り者だ、殺してもかまわない」といういい方をしていました。自分や自分たち、軍隊や軍事政権に逆らう者は「アカ」であり、「『北』の手先」だ。だからどのように扱ってもかまわない。殺してもいいのだという論理が光州事件のあのシーンのなかには確かにありました。同様の理屈は「北」でも同じように用いられていることでしょう。

韓国に「民主主義の伝統はない」か?

ドイツのシュピーゲル誌に掲載された、光州事件で死んだ父の遺影を持つ幼児の写真 (上記 HUFFPOSTNEWS)より

しかし、韓国の人々は、こうした論理を克服しつつあります。この映画の存在自体がそうですし、朝鮮戦争前後に「秘かに深く埋葬された『遺体』」を掘り起こす取り組みがすすみました。それは「象徴」的な意味だけでなく、現実の「遺体」を発掘するとりくみでもあります。
また、日本帝国主義の植民地支配を告発する以上、韓国軍がベトナムで犯した残虐行為に目をつむってはならないという声も出てきました。
このように、韓国の人々は「民族の恥部」ともいえるさまざまな事件、いまだに生々しい傷口をを切り開き、ときには映像化し、意味を問いかけ、向き合おうとしています。わたしはこのような人々に敬意を表したいと思います。

韓国の歴史家が「韓国には民主主義の歴史がない」と書いていましたが、しかし私は反対です。私たちが一九七〇年代にみてきた「朴正熙の下にあったあの国」を、この映画が作れるまでにした人々、触れることの出来なかった傷に向き合える国にした、それは、光州事件に象徴される韓国の人々の民主主義をもとめる力の成果なのですから。

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