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何でも死刑!台湾の匪徒刑罰令

今日は、朝から、自宅で大学の授業をネットで受講。

内地と外地の法律面での違いなど。
とくに台湾では、内地や近代国家ではとうてい信じられ程、無茶苦茶な法令が作られていた。
そのひとつに匪徒刑罰令がある。

この法律の内容や日本の植民地支配については以下の文章も参照してください。

http://jugyo-jh.com/nihonsi/日本史aの自習室/植民地の「文明化」と「『日本』化」~参政権問/

なんでも、かんでも死刑とされた。
軍や警察に逆らったものはもちろん、電信柱を傷つけても、野積みの食料、さらにワラを燃やしても、人を匿っても、場所を提供しても、飯を食わせてやっても死刑というのだから、驚く。
こまわり君ならギャグで済むが、実際に行われたのだから驚く。
この法律をつくったのは、児玉源太郎、後藤新平コンビ。

ちなみに後藤は1896〜1902年の間で捕縛もしくは護送の際抵抗せしめたため」5673人、「判決による死刑」2999人、「討伐隊の手に依るもの」3279人合計1万1951人を「殺戮」さらにその他、9000人を「帰順証交付」と呼び出し、一斉射撃で殺した。と講演会で、得意げに語っている。原田敬一「日清・日露戦争」(岩波新書)p102〜3

年号に注意してほしい。公的な台湾掃討戦は1895年のうちに終わっている(中国人兵士・住民の死者14000人)。したがってこの数字は、それ以後の、別の数字である。
こうした残虐行為ののちに、「親日国・台湾」が作られたのである。

本日の講師の先生曰く、台湾では抗日勢力が根絶やしにされたので日本統治は比較的平穏であった。
朝鮮ではそれが残ったし、逃げ場もあったし、人口も多かったから、抵抗運動が以後も激しく展開された。

以下、匪徒刑罰令の全文引用。

全文引用。

第一条 何等ノ目的ヲ問ハス暴行又ハ脅迫ヲ以テ其目的ヲ達スル為多衆結合スルヲ匪徒ノ罪ト為シ左ノ区別ニ従って処断ス
一 首魁及教唆者ハ死刑ニ処ス
二 謀議ニ参輿シ又ハ指揮ヲ為シタル者ハ死刑ニ処ス
三 附和随従シ又ハ雑役ニ服シタル者ハ有期徒刑又ハ重懲役ニ処ス
第二條 前條第三号ニ記載シタル匪徒左ノ所為アルトキハ死刑ニ処ス
一 官吏又ハ軍隊ニ抗敵シタルトキ
二 火ヲ放チ建造物汽車船舶橋梁ヲ焼燬シ若ハ毀壊シタルトキ
三 火ヲ放チ山林田野ノ竹木穀麦又ハ露積シタル柴草其他ノ物件ヲ焼燬シタルトキ
四 鉄道又ハ其標識灯台又ハ浮標ヲ毀壊シ汽車船舶往来ノ危険ヲ生セシメタルトキ
五 郵便電信及電話ノ用ニ供スル物件ヲ毀壊シ又ハ其他ノ方法ヲ以テ其交通ノ妨害ヲ生セシメタルトキ
六 人ヲ殺傷シ又ハ婦女ヲ強姦シタルトキ
七 人ヲ略取シ又ハ財物ヲ掠奪シタルトキ
第三條 前條ノ罪ハ未遂犯罪ノ時ニ於テ仍本刑ヲ科ス
第四條 兵器弾薬船舶金穀其他ノ物件ヲ資給シ若ハ会合ノ場所ヲ給与シ又ハ其他ノ行為ヲ以テ匪徒ヲ幇助シタル者ハ死刑又ハ無期徒刑ニ処ス
第五條 匪徒ヲ蔵匿シ又ハ隠避セシメ又ハ匪徒ノ罪ヲ免カレシムルコトヲ図リタル者ハ有期徒刑又ハ重懲役ニ処ス
第六條 本令ノ罪ヲ犯シタル者官ニ自首シタルトキハ情状ニ依リ其刑ヲ軽減シ又ハ全免ス
本刑ヲ免シタルトキハ五年以下ノ監視ニ附ス
第七條 本令ニ於テ罰スヘキ所為ハ其本令施行前ニ係ルモノモ仍本令ニ依テ之ヲ処断ス
附 則

本令ハ発布ノ日ヨリ施行ス

「自治議会開設」運動と「参政権請願」運動

今日(20/6/11)の東北アジア史のオンライン授業がおわりました。
一つは三・一運動にさいしてだされた「独立宣言」文の格調高さです。これは別の場所に投稿しました。

いま一つは、朝鮮における民族運動を「独立運動(武装闘争・外交論・実力養成)」「自治議会開設運動」「参政権請願運動」と3類型に分けるやりかたです。

韓国の「革新」派や共和国の見解からすれば、「独立運動」のうちの武装闘争と外交論以外は「親日派」としてバッサリやられかねませんが、抵抗運動(民族運動とすれば落としてしまうものも出てきそうな気がする・・)としてトータルに捉え、問題性をも含めつつ捉えていくことが重要だと思います。

そのなかで、「自治議会開設運動」「参政権請願運動」の二つの運動のことが気になりました。このふたつは日本帝国内のの、対植民地政策の二つの潮流に対応しているだけでなく、朝鮮の近代化、さらには琉球王国・日本をも含む「植民地的近代化」を余儀なくされた人びとの近代化にも共通する二つの課題とかかわると考えたからです。昔ながらの言い方をすると「反侵略」と「反封建」という二つの課題です。

<以下は感想・意見欄に書いた文章の一部です>
この二つの民族運動のありかたは、「朝鮮の近代化」(実は「植民地的近代」を歩むそれぞれの地全体というべきかも知れませんが)において、一方では対外侵略(ここでは日本)といかにたたかうかという「反侵略」の課題があると共に、他方で旧来の支配者(ここでは李朝)がおこなってきた前近代的な支配(「苛斂誅求」)に対する抵抗運動(昔の言い方では「反封建」の課題)に対応しているように思えるのです。
自治議会論は前者の「反侵略」に見られる民族主義に、参政権請願論は「反封建」のながれを引いた権利拡大の流れに対応しているのではないかと考えました。
同時にこの二つは、日本側の特別統治論と内治延長主義にも対応しており、特別統治論は総督府の独裁的な権限の維持を図るものですが、結果として朝鮮の独自性を強調することで朝鮮民族の独自性を認め自治議会論の議論につながります。
他方、参政権請願論は李朝以来の民衆の無権利状態を、完全な「日本臣民」になることによって日本臣民並みの権利を獲得しようとするもののようにも見えます。それは政党などの内治延長主義の具体化であったことは明らかでしょう。
こうして考えれば、この二つの潮流は日本を含めて「植民地的近代化」を余儀なくされた諸民族の二つの課題に即したものであったようにおもわれました。
どちらの議論も日本帝国からすれば受け入れがたいものであったことには変わりなかったと思います。

なぜ発砲できたのか~韓国映画「タクシー運転手」を見ました。

なぜ「なかま」に向けて銃が撃てたのか?

遅ればせながら韓国映画「タクシー運転手」を見ました。一九八〇年、韓国の光州で当時の全斗煥軍事政権が起こした大規模な住民虐殺事件=光州事件での実話をもととした韓国映画です。

韓国映画「光州5・18」 2007

10年ほど前、「光州5・18」を観て、なぜこんな事件のことをあまり知らないまま過ごしてきたのか、自分が深く考えていなかったということにショックを受けたことを思い出しました。

その時も、今回も、一番気になったことは、なぜ兵士たちが市民に発砲できたのかということでした。
同じ言葉を話し、自分たちのよく知っている歌を歌う人々(前回の映画では「国歌」だったと思います。今回はこのシーンはありませんでした。日本でいえば「ふるさと」?「翼をください」?みたいな感じかな。)。
反抗的な若者だけでなく、老人も子供も、自分たちの父親や母親のようなひとびとにもひとことで言うと「どこにもいるような普通の人たち」に、銃口を向け、殴りつけ(ここまではありえますがついには射殺するのです
もちろん、激しい葛藤を感じた兵士もいたでしょう。(今回の映画でも分かっていながら見逃す「石橋山の梶原景時」のような兵士を、それを表現していました)

それが軍隊の本質だ。軍隊は「国家の暴力装置」なのだから、と訳知りな言葉が聞こえてきそうです。たしかにその通りですし、私も同意します。しかし、それでも、なぜ?という言葉が頭をよぎるのです。暴力装置の暴発が革命を引き起こすことも多いのですから。 

朝鮮戦争のなかで起こったこと

 

ここ数週間程、韓国の現代史を学んでいるのですが、そのなかで気づいたのが、朝鮮戦争中の、あるいはその前後に多発した互いに虐殺しあうというあまりにも無惨な歴史の存在です。(例えば済州島四・三蜂起)。

朝鮮戦争の推移(帝国書院「図録日本史総覧」P295)

少しリアルに考えるため、朝鮮戦争のことを考えてみます。
戦闘の経緯をみていきます。1950年6月25日、開戦と同時に北朝鮮軍は三八度線を越えて一挙に南下し、ソウルを占領します。韓国軍は大統領の命令で牢獄にいた政治犯を全員殺害し、住民を置き去りにしたまま、避難民で殺到した橋を爆破して逃げ去りました。「北」軍の進軍は早く、韓国軍とそれを支援する米軍を主体とする「国連軍」は釜山周辺に押し込まれます。「北」の主張する「南進統一」が間近と思われました。「北」軍は、占領地域の住民を義勇軍などに組織して自らに協力させます。他方、地主や警察官・官僚などを反対派とみなし殺害する事件もおこりました。
9月15日、「国連」軍の仁川上陸作戦が成功すると状況は一変します。最前線にいた「北」軍は取り残され、ゲリラ戦に移ります。韓国軍は「国連軍」の支援のもと、敗残の「北」軍の掃討戦にうつります。義勇軍に参加した人はもちろん、「北」側を支持したとされる人々(支持者だけでなく、やむなく支持したものも、誤解によってそう思われたものも)もその一味とみなされ、つぎつぎと殺害します。

朴正熙は仲間を売って生きのびた!

朴正熙(1957年)

戦闘の各場面で、命の危険を感じた人たちは故郷を捨て「北」に「南」にと避難します。またどちらかの影響下に入ります。そして支持している側が故郷を制圧するともどってきて、自分たちを追った人々に報復します。自分の命を守るために仲間を売る者も現れます。軍事独裁政権下に韓国の経済発展の基礎をつくった朴正熙もその一人でした。朴正熙は韓国軍における南朝鮮労働党(=共産党)の秘密党員でした。捕らわれたかれは、なかまの名前を積極的に話すことで命を長らえます。こうした経歴をもつ人がより苛烈な迫害者となることは、古今東西を問わずよくあることです。

戦争に翻弄される人々

ソウルにもどった韓国軍は自らが見捨てたにもかかわらず、残されたソウル市民に疑いの目を向けます。「北」側に協力したではないか!と。そして親「北」派とみなした人々を殺害します。恐れた人々は「北」に向かって逃げていきます。
「国連」軍が三八度線を越えてさらに北上、平壌も制圧、中国国境に向かって進みます。今度は「北」で同様のことが起こったことはいうまでもありません。
ところが、こうした「国連」軍の動きに危機感を持った中国が、11月「中国人民義勇軍」という名で大軍を派遣すると、再び戦況が逆転します。「南」側についた「北」の人々は南に逃れ、逃げ遅れたものは迫害されます。12月には平壌が奪回され、翌1951年1月再びソウルをも占領されます。「国連軍」はふたたび体制を立て直します。3月にはソウルを奪還、その後、戦局は膠着化し、ほぼ現在の軍事境界線附近で両軍がにらみあい、南北間の人々の行き来は止まります。大量の離散家族が生まれました。

人々は命をうばいあった。

私たちはついつい軍の動きのみに目を奪われがちです。そのなかで多くの住民が、右往左往させられたのです。逃げ惑ったという言葉は妥当でないかもしれません。現実はもっと深刻です。人々は「北」か「南」かを迫られ、「敵」となった人とたたかわされます。「戦い」は戦場だけではありません。自分の生まれ育った場所であり、逃げ惑う人々への「山狩り」であり、それから逃れる恐怖であり、疑わしい村人への拷問や虐殺です。こうした「戦い」です。憎しみは憎しみを生みます。隣人への「恐怖」は「やられる前にやってしまえ」という感情を生み出します。親しい人の死や自らへの迫害は強い復讐心を生みます。命からがら逃げ回った体験はその原因を作った人たちへの怒りをうみます。怒りと恐怖、復讐心、暴力が暴力を生み、すべてを支配します。

「あの行為」を「正統化」するために。

光州事件 韓国の国旗を掲げ「民族民主化大集会」のため校門を出た全南大学の教授ら。「光州事件とは 1980年5月、韓国の街は戦場だった。」吉野太一郎huffpostNEWS 2015年05月19日以後、光州事件の写真はこのブログから

こうしたなかで発生したのが数多くの惨劇でした。その体験はあまりに生々しいものです。人々はその死骸とともに、「記憶」も秘かに深く埋葬しました。
耐えがたい体験を耐えるには自らの行為を正統化する「ことば」と論理が必要です。その正統化の論理が「アカ(共産主義者)」「スパイ」、「『北』の手先」「民族の敵」といった一連のことばです。このことばを用いることで「こうした連中だったから殺されて当然だった。自分たちの行為は『正義』なのだ」という理屈が成り立ちます。さらに、この論理は、過去だけでなく未来に向かっても投影されます。「共産主義者、スパイ、「北」の手先、民族の敵は殺してもかまわない」という風に。
重要なことは、こうした認定は「事実」である必要はないのです「事実」であるか厳密に追求することは「危険」です。それは自分たちの「行為」の「正当性」を問うてしまうからです
こうしてこの論理は、
共産主義者であろうが、なかろうが無関係に適用されました。
相手にこの言葉を投げつけ「敵」とみなせば、多少乱暴なことをしても自己正当化できるのです。自分たちの「暴力」を「正義」とできるのです。
韓国でこの論理を多用したのが朴正熙ら軍事独裁政権でした。「反共法」が軍事独裁政権維持の根拠となりました。

『北の手先』論が隠したもの

光州事件 https://www.huffingtonpost.jp/2015/05/19/kwangju-35th-aniv_n_7311100.html

この用法にはかれらにとって、もう一つの利点がありました。「北」の脅威、共産主義の脅威を強調することで、日本軍の軍人(正式には「満州国軍」ですが)であったという過去を後景に置くことが出来るという効果でした。かつての「親日派」に支えられた軍事独裁政権にとっては非常に都合がよい論理でした。韓国軍の中には旧日本陸軍の体質・DNAが濃厚にながれています。韓国軍は旧日本軍のOBによって組織されたと入っても過言ではありません。かれらが民族主義派などの軍事組織関係者を排除し、アメリカの援助の元に育成されたのです。日本軍のDNAは韓国軍がベトナムで犯してしまった残虐行為にもつながったとの指摘もあります。

「北の手先」は殺してもかまわない!

今回の映画の中でも、私服将校が「アカは裏切り者だ、殺してもかまわない」といういい方をしていました。自分や自分たち、軍隊や軍事政権に逆らう者は「アカ」であり、「『北』の手先」だ。だからどのように扱ってもかまわない。殺してもいいのだという論理が光州事件のあのシーンのなかには確かにありました。同様の理屈は「北」でも同じように用いられていることでしょう。

韓国に「民主主義の伝統はない」か?

ドイツのシュピーゲル誌に掲載された、光州事件で死んだ父の遺影を持つ幼児の写真 (上記 HUFFPOSTNEWS)より

しかし、韓国の人々は、こうした論理を克服しつつあります。この映画の存在自体がそうですし、朝鮮戦争前後に「秘かに深く埋葬された『遺体』」を掘り起こす取り組みがすすみました。それは「象徴」的な意味だけでなく、現実の「遺体」を発掘するとりくみでもあります。
また、日本帝国主義の植民地支配を告発する以上、韓国軍がベトナムで犯した残虐行為に目をつむってはならないという声も出てきました。
このように、韓国の人々は「民族の恥部」ともいえるさまざまな事件、いまだに生々しい傷口をを切り開き、ときには映像化し、意味を問いかけ、向き合おうとしています。わたしはこのような人々に敬意を表したいと思います。

韓国の歴史家が「韓国には民主主義の歴史がない」と書いていましたが、しかし私は反対です。私たちが一九七〇年代にみてきた「朴正熙の下にあったあの国」を、この映画が作れるまでにした人々、触れることの出来なかった傷に向き合える国にした、それは、光州事件に象徴される韓国の人々の民主主義をもとめる力の成果なのですから。

日比谷焼打事件の史料から(1)

日比谷焼き打ち事件の史料から(1)
~教会堂襲撃をめぐって~

アジア歴史資料センター(「国立公文書館」のデータベース)で公開されている史料を基にレポートを作成するという史料講読の時間。今回与えられた史料は防衛省防衛研究所所蔵の日比谷焼き打ち事件の実態報告「明治38年自9月至12月暴徒に関する内報綴」(JACAR Ref.C06041160500)のなかの臨秘1・2・4・5号である。

警察署ごとの暴動の実態や破壊状況、負傷者や逮捕者などを警察側の立場からまとめ、報告したもの。発信者は警視総監・安立綱之で、受信者は元帥・山県有朋。暴動の状況を生き生きと描き出し、ルポルタージュとしてまとめる手法を採れば面白いものができる素材となる。
しかし、この史料をもとに、起承転結の形でA4一枚に整理し、5日後までにレポートとして提出するという課題には向かない。H先生には裏テーマを隠しているのだろうがみつからない以上、史料のなかからつっこみどころをみつけまとめるしかない。そこで、史料の中に一定数のサンプルが示され、研究ではあまり取り上げられることがないと思われるキリスト教会堂襲撃をまとめることにした。
とりあえず被害報告のあった教会等8カ所の表を作成する。全焼は3カ所、いずれも監理人が外国人(アメリカ・スイス・フランス)である。偶然か、それとも襲撃の性格を示すのか、興味のあるところだ。(なお、「植村正久と其の時代(5)」で「もっとも惨澹たる惨状」と記したのもこの3カ所である)。史料の関係上、あまり深く追求することは困難な気がする。

焼き打ちにあった施設(Wikipedia「日比谷焼き打ち事件」より)

課題史料は、個々の事件の場所、様子、被害、といったことが中心に網羅的にまとめられ、表などにまとめ全体像をつくりあげる分には役立つが、深めることは難しい。参加者の手記や新聞資料などに当たるべきかも知れないが、さらにレポートの趣旨から離れる。とりあえず事件の基本文献「所謂日比谷焼打事件の研究」を読みたいと思う。アジ歴の「日比谷焼打事件」の検索で唯一ヒットしたのもこの文献(昭和14年調・所謂日比谷焼打事件概況)であった。実際に開いてみれば、一部判読が困難な部分もあるが、読めなくもない。さらに調べるとこの文献をも含めた復刻版が出版されており、R大学図書館が所蔵していた。ここには襲撃された教会堂等13カ所の表があったので、さきに作成した表と合体する。この本の表は襲撃時間ごとに並んでおり、襲撃時間がほぼ一時間ないし三〇分という時間経過で変化する。このことから襲撃は、各地で同時多発的に起こったのではなく、同一グループが野次馬などを組み込みつつ、教会堂を襲撃しながら移動していったと考えられる。藤野裕子「都市と暴動の民衆史」はこの動きを地図上で示している。こうしたことから、民衆の排外意識の爆発というよりも具体的な「教会」や信者との間でトラブルがあったり、対立したりしているグループが中心となって、前日来の騒動で興奮した群衆とともに教会を襲ってまわったと捉えた方が妥当である。「民衆の排外主義が露呈した」と強調しすぎることは危険である。

 日比谷焼き討ち事件について最も新しい研究が藤野のものである。その研究をはじめ、多くの文献が依拠するのが「植村正久と其の時代(5)」である。ここには、襲撃直後に当該教会を訪問した記録や襲撃を受けながらもかれらを説得して無事に切り抜けた牧師の発言なども残されている。そのなかには、解体のための道具を準備してテキパキと教会堂を破壊するプロらしき人物、羽織を着て十数名の壮士風の人物を指揮する大将格の人物、教会の土地の地主の姿などの参加のようすも描いている。どこまでの信憑性があるか、確定が難しいながら、攻撃の背景になんらかの意志の存在を想像させる。藤野氏が他の章で描いた下層民とかれらを組織する親方の存在を想起させる光景ではある。また襲撃側が、教会に「この教会はどこの国の教会か」と問いかけ、「貧しい日本人が金を出しあって作った」というと退散したという牧師の証言も、外国籍の教会がとくにひどい破壊にあったことを裏付けるようで興味深い。
おもに、こうしたことを中心に、今回のレポートをまとめてみた。H先生が求める課題史料に語らせるという内容からはかなり離れたものとなってしまったことは微力のなせるわざとあきらめるしかない。
なお、襲撃された教会堂のなかに外国籍のものがあったので、外務省がどのような対応をしたのか、少し興味があったので、アジ歴の文献を見たところ、やはりそうした外務省史料「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B08090142300、東京横浜騒擾一件(5-3-1-0-16)(外務省外交史料館)」)が存在した。ある文献には「被害がなかった」との文言を見せ消しして被害を記している部分があり、現在の官僚の姿を思い浮かべ苦笑してしまった。

なおこの文書の補足として、文書の宛先がなぜ山県であったかということに触れようとして、H先生の狙いにふと気づいた。提出時間までわずか。さっそくレポートパート2を作ることにする。このことは次の稿で記す。

提出したレポートはより読みやすい形に整形して、「自習室」と「準備室」にアップするつもりです

「朝鮮米はうまくて高い! ~「産米増殖計画」異聞

「朝鮮米はうまくて高い!」  ~「産米増殖計画」異聞

「朝鮮米はうまくて高い!」

本格的な歴史研究をして来た人の話を聞くと、知識の浅さを実感させられることが多々あります。そんな話をしたいと思います。
講義で聞いた一つの話を紹介します。
「みんなは、朝鮮米というから、質が低く、安い。だから労働者など低所得者が食べたもの、そのように考えるでしょう。実は、朝鮮米を一番消費したのは、『グルメ』の町大阪。消費高は大阪全体の米消費量の70%を超え、国内産より値段も高値で取引されたのです。朝鮮米は、質がよく、関西人の口に合う米でした。1930年代、「朝鮮米」はうまいと評判で、高値で取引されていた米だったのです」。

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帝国書院「図説日本史通覧」p224

戦前の「朝鮮米」は、高品質のわりに値段が安く、しかも品種がそろっていたため、人気が高く、他の国産米より高値で取引され、大阪市場では国産米を圧倒的にしのいでいたのです。
ちなみに、大阪市場における取扱高は1925(大正14)年以降、朝鮮米がつねに70~80%台を占め、10~20%台前半の「国産米」をはるかにしのいでいました
「日本が朝鮮の農業を改革し、近代化させてやったのだ」という声が聞こえてきそうです。たしかにそうした側面もあります。しかし話はそう簡単ではありません。「植民地農業」の姿がみごとに「刻印」され、日本内地の農業も苦しめたのです。

「産米増殖計画」とは

朝鮮での日本の農業政策としては、1910年代「武断政治」期の「土地調査事業」と、1920年代「文化政治」期の「産米増殖計画」が重要です。そしてこうした日本の農政によって押し出されるようにして日本や中国東北部(「満州」)への人口流出がみられる、いうのが一般的な説明です。私もそのように教えてきました。
一応、「産米増殖計画」についての私の説明を見てください。


産米増殖計画

「文化政治」を進めるとした日本・朝鮮総督府でしたが、実際には朝鮮の人をいっそう苦しめる政策をはじめています。

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物価の急騰と賃金の上昇 帝国書院「図説日本史通覧」P250

このころ、日本では都市化・工業化が急速に進行し、米の需要が急速に増えてきました。1918年には急激な米価上昇が引き金となって米騒動も起こりました。
このため、日本本土以外から米を買い集めようという動きが高まります。その最大のターゲットが朝鮮半島でした。
そこで朝鮮総督府がすすめたのが産米増殖政策です。朝鮮での米栽培を活発化させ、米の収量を増やし、それを本土に持ってこようと考えたのです。
中心となったのは、農業用水の整備と用地改良、さらに化学肥料などの利用です。しかし、こうした計画に総督府が金を出しますか?結局、計画は日本人がつくり、カネを払うのは地元の農民たち、できた米は日本人が持っていく。こうした負担は、没落しつつある朝鮮人農民の生活をいっそう苦しめました。
確かにこの政策によって朝鮮半島での米の生産量は増えました。ところが、もともと内地での米不足が出発点に始まったものであり、この政策で増えた分よりも日本に運び出す米の方が多かったのです。これにより米の値段が上がって、朝鮮の人は逆に米が食べにくくなりました。かわって中国東北部から大量の粟(あわ)を輸入されるようになりました。


あわせて、これにつづけ日本や「東北部」への人口流出についても触れています。一般的な内容は記したつもりです。

市民講座での話の中から

講義の数日前、市民講座で別の先生からも話を聞いました。
この先生の話をもとに、朝鮮での「日本式米作り」普及の話をしたいと思います。講座の中で先生は、産米増殖運動にかかわって、朝鮮での米づくりの指導にかかわった日本人の話を紹介されました。「美談」として扱われるたぐいの話です。
記憶とメモで再現しつつ、私が調べたことが考えたことを付け加えながら、見ていきたいと思います。

「脱穀や調整が『疎漏』」な朝鮮米

当初、朝鮮産の米は日本では売れ行きがよくありませんでした。なぜなら、質が不安定で、最初は小石なども混じっていて、商品化しても安値でしか取り扱われなかったからです。
資料でも、明治後期の朝鮮米について、品質は日本米と外米の「中間」、日本米の中等米に類似するが、「収穫後の脱穀や調整が『疎漏』であったため、三割の異物が混入していることすらあった」と記しています。(大豆生田稔「お米と食の近代史」)
日本への朝鮮米の輸出は日朝修好条規をうけた開国によってはじまります。凶作期に米などの穀物の流出を制限できるという防穀令が1889(明治22)年にだされたことで日本商人とのトラブルも発生しました。朝鮮米の流出が、朝鮮での飢えにもつながりました。
1882(明治15)年の壬午軍乱では、長い欠配の後、やっと支給された米に石が混じっていたことが軍人反乱の直接の原因となりました。(「朝鮮問題の深刻化と日清戦争」参照)日本との貿易開始に伴う米不足の中、支給されたのが安い「三割の異物が混入している」ような米であったという推測も成り立ちそうですね。
日本で、朝鮮米は、食用としてではなく、酒造用や家畜のエサ用として使用されることも多かったようです。

「日本式米つくり」の導入~「用水の整備」と肥料

朝鮮に渡った農業の日本人指導者が行ったことが、日本式米作りの導入でした。
朝鮮では、ため池や農業用水路が未整備で、天水(雨水など)に頼る水田も多く、畑で米を作る陸稲(おかぼ)も多いというように栽培の方法にばらつきがありました。そうした条件に合うような在来品種が用いられるため、米の品種・品質も雑多でした。こうした米を日本市場に送り出しても、低い評価しか得られないのはいうまでもありません。さらに、品質はよくても、脱穀や「石抜き」などの行程が不十分であったため、評価が低かったのは見てきたとおりです。
だから、日本における「高度な」農業技術を朝鮮に導入しようというのです
栽培の質を変えるため、日本式の水田が導入されます。まずため池や小規模な水利施設、王朝末の混乱で荒廃していた用水が整備されます。当初は日本人地主の土地が中心でした。さらに、水田を拡大するためには、降雨にかかわらず一定量の水が供給される必要があります。産米増殖計画がすすむなか、朝鮮人地主をもまきこむかたちで、水利組合が結成され、総督府の資金も借りながら、大規模な用水路が整備されていきます。

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帝国書院「図説日本史通覧」P231

実は、朝鮮人地主所有の水田の多くは既存の用水でかなりフォローできていたのに対し、新たな用水の恩恵を受けることが多かったのは日本人地主の田でした。にもかかわらず、水利組合の拠出金は折半されたため、朝鮮人地主と比べ、恩恵の多くは日本人地主が得たという指摘もありました。(許粋烈「植民地朝鮮の開発と民衆」)
総督府は早い時期から肥料の使用を進めています。1920年以前は自家製のものであったのですが、日本式の米作りには不十分であるということから1920年代以降は購入肥料が用いられ、朝鮮北部での化学肥料工場の発展と軌を一にして化学肥料も使用されるようになります。

「石抜き」と品質管理、品質検査

さらに指導者は朝鮮米の品質向上に努めます。
小石を取り除き、米の選別を厳しくチェックさせ、品質を一定させて売りに出すようにしたのです。
思わず「カムイ伝」の1シーン、江戸時代の百姓たちが、殿様に献上するため一粒一粒米を選ぶ場面を思い出しました。たしかに、初期は人力によるチェックもあったかもしれません。
しかし、それ以上に大きな役割をもったのが、大量に朝鮮米を扱った日本人米穀商人です。かれらは釜山の日本人が発明した「タービン式石抜唐箕」を導入するなどの技術改良で小石や不純物の混入を防止し、さらに最新鋭の精米装置なども導入して市場の評価を上げました。朝鮮総督府は厳格な品質検査を行ってこうした動きを援助します。こうして安い仕入れ値と、品質管理と品質検査を経た高品質の朝鮮産米が日本市場に持ち込まれ、シェアを伸ばしたのです。
この背景には、土地調査事業にかかわる強引な手段や朝鮮人農民からの購入によって獲得した安価な土地、必要経費の多くを朝鮮人側に転嫁したこと、労働力過剰からくる労働力の安さなど、コストの安さがありました。
こうした朝鮮米の流入によって日本産米は苦しいたたかいを強いられます。日本産米は、小規模農家でつくられるため米商人の監督が行き届きにくく、品質管理も検査も不十分であるため、品質も不揃いだったからです。九州産米はより高い品種の米を生産しようとし、北陸山陰産米では生産費を抑え、安さで勝負しようとしました。(この項、李熒娘「朝鮮植民地の米と日本」など参照)
日本人商人が、規格化された「籾」を安く仕入れ総督府の厳しい基準に合格すべく高度な技術で商品化した植民地産の「朝鮮米」を内地市場にもちこむことで、従来の低い技術しか持たない零細な生産者中心の国産米の価格が引き下げられるという、多国籍企業と国内の中小零細企業の関係を彷彿させるような関係です。では、朝鮮の人の食べる米は、どうなってしまったのでしょうか。

日本種の「奨励」

先生はさらにつづけます。
日本の米作りをそのまま持ち込んだということは、日本の種籾も持ち込んだということです。それまでの朝鮮米は品種が雑多であることが、日本の米市場における朝鮮米の評価を下げ、安価で取引される結果となっていたからです。
そこで、日本から持って行った品種を蒔かせることにします。日本から持って行った品種の米をもちいることで朝鮮米の質を統一しようとしたのです。
こうして「優良」品種が日本から持ち込まれます。ただ1920年代に導入された「新品種」は、「産米増殖」という目的とは異なって、収量の減少をもたらすものだったという研究もあります。収穫を増やすよりも、内地の米市場での評価、価格の方が重視されていたことをよく示しています。なお、1930年代になって多収穫品種が日本から導入されることで、生産量が急増しました

朝鮮在来種の「絶滅」

ところがそのままでは困った問題が起こります。せっかく評価が高い日本の品種を持って行っても、しだいに周辺の朝鮮在来の米と交雑してしまい、品質を低下させるおそれがあるのです。そうした米が増えると、市場での評価は下がってしまいます。
だから、朝鮮在来種の米の栽培をやめさせようとしたのです。ときには官憲の力も使って!
この指導者からしたら、質のよい米を輸出して高値で取引された方が朝鮮の人の幸福につながると考えたのかもしれません。
この点について、資料的裏付けを得ようと調べたところ、こうした事実は1910年代の武断政治期によく見られたことでした。当時の関係者が語っています。
在来種の絶滅と改良種たる穀良都、早神力種の普及に全力を注ぐことになり、同地の東拓(*東洋拓殖株式会社のこと)移民に採種●(●は「水」の下に「田」という文字、「dab」とよみ水田のこと、「田」が日本の「畑」をさす)をやらせ、又在来種の苗代を踏み荒しなどして徹底的に乱暴な奨励方針を断行したが幸い身辺の危害もなく、きわめて順調に普及して行きました」(「山口賢三回顧録」李熒娘前掲書より)というように、やっている本人が「身辺の危害」があって当然というような手法で「優良種」とされた日本品種が強要されました。こうして、日本種の耕作率は0.7%(1911年)から52.8%(1919年)、生産量に占める割合は5%(1912年)から70%(1922年)と急増しています。(*この二つの数字については出典が別です)

「近代的」「植民地的」な米作の導入のもたらしたもの

植民地支配は、朝鮮の米作を資本主義経済に適合した農業に変えました。それにより朝鮮の農地と米作技術が「近代化」され、収穫高の多く味もよい品種を普及し、収穫高も増えました。すると内外の産米の地位が立場が逆転しました。品質が安定せず、とくには小石も混じる国内産米とは違い、朝鮮米は高品質で小石などの混入も少ない高評価な米です。朝鮮米は、同一品種の米を大量にそろえることができます。しっかりした検査を受けた安心安全かつ安定した高品質の米を、大企業が大量に供給したのです。グルメの大阪人をうならせた朝鮮米はこのようにしてつくられました。
それは、それまでの朝鮮の農業のあり方を否定し、朝鮮産の「米」種すらも否定し、帝国主義本国・日本の市場が求める米を供給する植民地農業への移行でもありました
こうした政策は、朝鮮の農業や農民のあり方を大きく変えました。その費用の多くは朝鮮の農民が負担し、増産された米が日本に持ち出されました。
産米増殖計画は名目的には、第一の目標を朝鮮における食糧不足解消でした。しかし、実際におこったのは朝鮮での食糧不足解消でなく、日本市場で高値で取引される米を生産することでした。朝鮮内部で流通したのは、日本に移出された残りの米でした。こうして米の生産量は増えても、朝鮮人の米消費量は減少しました。日本の米市場で高値で取引されるような質の高さが、朝鮮米を朝鮮に残さなかったのです。石が混じり品質も安定しなかった安価な朝鮮米にかわって高品質で高価な朝鮮米が生産されたため、朝鮮米は朝鮮の人々が食べるためには高価になりすぎたのです。
こうして朝鮮人の一人あたりの米の消費量は年0.75石(1912~16の平均)から、1932~36年には0.41石へと激減します。米の生産量は1230万石から1700万石と増加しているのに。そして、米を食べられなくなった朝鮮の人々の腹を満たしたのが、「満州」(中国東北部)産のアワやヒエでした。こうして「満州」においても、朝鮮向けのアワやヒエの商品生産が活発化します。

「昭和恐慌」と日本への渡航者の急増

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こうした朝鮮における米作りが、日本の米市場と密接に結びついて軌道に乗りはじめたのが1930年代です。この年号で何か気づきませんか。1930年といえば、昭和恐慌の発生です。このため、米価は暴落、朝鮮米の価格も一挙に暴落したのです。さらに日本国内では、朝鮮米の大量流入が米価を押し下げているとして、朝鮮米の移入制限を求める声が農村各地から起こり、政府もそれにおされます。
昭和恐慌による米価など農産物価格の暴落は朝鮮の農村に大きなダメージを与えました。なぜなら、植民地支配下では、農民の土地に対する権利ははるかに不安定であったし、産米増産計画は用水や肥料などで農民の負担増を強いていたからです。高利貸資本も農村に深く食い入っていました。

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東京書籍「日本史A」p110

米価急落は零細農の経営を破壊、1920年代に増加の兆しを見せていた日本への渡航者=「出稼ぎ」「移住」は激増します。日本本土に渡った朝鮮人たちは厳しい労働・生活環境の中、しだいにそこに生活基盤を築き、朝鮮から妻子など家族を呼び寄せます。貧しい状態がつづく農村からは、先に渡った人たちを頼って新たな人たちも移ってきます。各地の「朝鮮人部落」が形成されました。
土地調査事業、産米増殖計画による植民地的・資本主義的農業の朝鮮半島への導入と、それにつづく昭和恐慌は朝鮮の農村を疲弊させ、多くの人々が、日本などに押し出され、在日朝鮮人が急増していきました。

追記:授業中継「『朝鮮経営』と在日朝鮮人の形成」では、在日朝鮮人形成につながる朝鮮人移民の増加を産米増殖計画とかかわって記していましたが、より決定的であったのは世界恐慌=昭和恐慌というべきでした。こうした点を踏まえ、訂正することにします。

<参考文献>
大豆生田稔「お米と食の近代史」(吉川弘文館2007)
李熒娘「朝鮮植民地の米と日本」(中央大学出版部2015)
許粋烈「植民地朝鮮の開発と民衆」(明石書店2008)
鈴木讓二「日本の朝鮮統治」(学術出版会2006)
河合和男「朝鮮における産米増殖計画」(未来社1986)