<前の時間:日露戦争(1)戦争の経過>
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日露戦争(2) ポーツマス条約と「国民」
日露戦争の二回目です。前回が戦争の経過を見てきたのに対し、今回はこの戦争が日本およびロシア「国民」、さらに世界に対してもっていた意味を、講和条約の内容にも触れながら見ていきたいと思います。
なお、日露戦争の原因の中心であった韓国との関わりやその後の世界については、次回以降にまとめたいと思います。
世界史初の近代戦争・ハイテク戦争・総力戦
日露戦争は、史上初の近代戦争でした。
欧米などから集まった従軍記者や観戦武官たちはここで行わている戦争の実態に驚きを隠せなかったといいます。
近代国家同士での総力を挙げた戦争は1870~71年の普仏戦争以来、30数年ぶりでした。
この間、世界では重化学工業を中心とする第二次産業革命が急速に進展し、軍事技術も急速な革新がすすみ、10年前の日清戦争のころとはまったく様相がかわっていました。日清戦争時の軍艦はもはや老朽艦として扱われ、新しい兵器が次々と開発され、それに基づき戦術も急速に変わりつつありました。
日露戦争は、新世紀の戦争の凄惨さをはっきりと示しました。
機銃の普及が、旅順攻防戦での大量殺戮を発生させました。旅順要塞を陥落させる大きな要因が巨大な28センチ榴弾砲でした。日本海海戦を制した背景には下瀬火薬と伊集院信管という新たな技術がありました。電信線が決定的な意味をもったのは前回見たとおりです。
日露戦争は多くの面で第一次大戦を先取りしています。ハイテク戦争の性格をもち、それを裏付ける生産技術などの発展と国民の組織化が求められました。
戦争は、総力戦の性格を示し始めていました。
日露戦争の経済学
戦争では桁違いの砲銃弾が使用されました。
国内の軍需産業はフル回転となり、軍工廠などでは過労死と労災事故が頻発しました。それでも不足する兵器・弾丸、工作機械などは輸入に頼りました。
戦費は膨大な額に上ります。この膨大な出費をまかなう必要がありました。
まず税金が引き上げられます。
すでに国民は「臥薪嘗胆」のスローガンでロシアとの戦争準備のための重税に苦しんでいました。
開戦はその国民にさらなる負担を強いました。
税収で計算するとその負担増は約2倍となりました。
おもに間接税、現在の消費税があげられます。こうした税は一般に逆進性をもつといわれ、貧しい人により重い負担を強いるものです。
それにくわえ、議会は、国債消化に影響があるとの口実で、所得税や地租、利子への課税の比率を下げ、その結果、間接税など大衆課税にかかわる税の割合が大きくなったといいます。
議会は、金持ちの代表という性格を明らかにしていました。
国税の増加は国民生活に直結する地方税の収入減につながりました。教育費や道路整備費などが削減されました。
ともあれ、こうした増税によって約5億円が調達されました。
次が、国民から借金、内国債です。
国債は必要額が算出され、それの金額が各地方に割り振られ、行政組織を通して地域に押しつけてきます。
最終的には、一戸一戸、戸別訪問による「勧誘」がなされます。事実上は強制に近かったと言われます。これで約6億円が調達されました。
それでも不足する部分は外国からの借金、外債でまかなうことになります。
イギリスやアメリカの銀行家などがこれに応じました。これが7億円です
総額約18億円という多額の戦費は、増税と強制に近い国債購入という国民負担、そして外国からの多額の借金によって賄われました。
外国債の発行
外国から金を借りることが植民地・半植民地につながるリスクをもつことを明治政府の指導者はよく知っていました。このため「万国対峙」を国是とする政府は、極力外債に頼らない健全財政を進めました。
ところが戦争がこのルールを破棄させます。
日露戦争は日本の財政のあり方も変えてしまいました。
ちなみに、日露戦争の外債はこれ以後、借り換え、借り換えで後まで引き継がれ、昭和恐慌の引き金を引くことにもなりました。借金が完済するのは、なんと戦後のことになります。
外国債は、だれが、どういう理由で引き受けたのでしょうか。
日英同盟を結ぶイギリスは好意的でした。門戸開放政策をとるアメリカもロシアの満州占領に強い反発から協力的です。
しかし、勝利の可能性が低いと日本に投資するのはリスクが高く、募集に応じるものなかなかみつかりません。当初、日本が勝つとは誰も思っていなかったのです。
この状態の中、外債募集という面倒な交渉に当たったのが、のちに総理大臣(というより大蔵大臣のほうが有名ですが)となった高橋是清です。
募集を成功させるためのポイントは二つでした。
一つは欧米社会に日本への印象をよくすること、とくに「日本が勝ちそう」との空気を作り出すことでした。こうしてメディア戦術が展開されます。
今ひとつは、ロシアに強い反発をもつひとたちにアピールし、日本が勝利した場合の利益を伝えることでした。
こうしたアピールに反応したのがユダヤ系金融資本でした。
ユダヤ人への組織的な大虐殺を「ポグロム」とよびます。この言葉は「集団的な迫害や虐殺」を指すロシア語です。この時期、ユダヤ人への迫害が最も厳しかった国がロシアでした。
ユダヤ人の銀行家ヤコブ=シフは日本の勝利で、ロシアが立憲国家に生まれ変わればユダヤ人の苦難が軽減されると考えました。欧米のユダヤ系の金融ネットワークが日本の外債募集に協力しました。(山室信一『日露戦争の世紀』参照)
ヤコブ=シフの投資銀行は鉄道王ハリマンの最大の出資者でもありました。ハリマンは南満州の門戸開放をもとめ、満鉄への出資をいち早くめざした鉄道家としても有名です。
日本の勝利は、かれらの利害にもつながっていたのです。
こうして得た資金で、高橋はイギリスやドイツのメーカーから武器・弾薬を大量に買い付け、日本に送りました。この武器で、日本は戦争をしたのです。
なお、イギリスの軍需産業・アームストロング社は戦争前から日本からの艦船や武器の発注のおかげで大企業へと発展しました。
本来、武器輸出は国際法に反する行為です。
にもかかわらず、輸送ルートをイギリスが確保していたので、可能になっていたのです。さらにイギリスはバルチック艦隊を妨害し、その航海に苦難をもたらしました。
日英同盟は、非常に有効に働きました。
メディア戦略と「文明国の開かれた戦争」
日本は外国債の販売と並行して、メディア戦略に力を入れました。
海外でその中心となったのがT=ローズヴェルト米大統領と大学の同級であった金子堅太郎です。
「キリスト教国と非キリスト教国による宗教戦争」「白色人種と黄色人種という人種戦争」との図式で理解しがちな欧米にたいし、金子は「野蛮な専制国家ロシアにたいする憲法や議会をもつ立憲国家日本の間の戦争」「専制と野蛮に対する文明と正義・人道の戦争」という図式を積極的に打ち出します。
また、「正義の国」との印象を強めるべく「武士道」などの価値観を宣伝します。前年に出版された岡倉天心の『東洋の覚醒』は大きな役割を果たしました。
しかし何といっても大きかったのは英・米のメディアが報じた日本の個々の戦闘での勝利を知らせる報道です。こうした戦闘での勝利の積み重ねが日本優勢との印象を持たせ、日本への関心を高めるからです。それが結果としての高橋の成功にもつながりました。
これに呼応する形で、日本でもメディア対策を展開します。欧米人記者を招き、欧米のメディアに日本軍優勢の記事を書いてもらおうとしたのです。
戦場は軍事上の秘密があふれている場所です。軍部は当初外国人記者の従軍には消極的で、外国人記者を歓迎するものの戦場には近づかせないとの姿勢を取りました。しかし外国人記者にそのようなやり方は通じません。かれらは「飲ませたり食わせたりしても戦場に近づけない」やり方に反発、記事も辛辣になりがちでした。
これでは戦費調達の妨げとなると考えた日本は従軍を認めます。苦戦しつつも勇敢で統制のとれた日本軍の姿を見た外人記者は「日本優勢」の記事を発信、欧米の世論は大きく変わり始めました。
司馬遼太郎にボロクソにいわれた乃木大将ですが、その古武士的な風貌はアメリカ人記者を魅了しました。
こうした記事が金子らの工作ともあいまって、親日的な空気をつくりだしました。
高橋らの活動は順調となりユダヤ人を中心とする金持ちや日本の満州支配に先行投資しようという人びとの財布を緩めました。
「野蛮な専制国家」とたたかう「近代的な文明国家」を装おうと日本軍は捕虜への対応などにも非常に気を配りました。外債の必要性は、日本軍や政府の行動を制約しました。
他方、敗勢が明らかになるにつれてロシアは外債が集まらなくなっていきます。同盟国フランスが外債募集に応じなくなったのです。頼りはドイツだけになっていきます。これが戦争継続を困難にします。
マスコミの報道と熱狂する「国民」
日本の新聞は戦争によって発展しました。
各新聞社は、大量の特派員を派遣、号外を乱発しました。朝日新聞は号外のあまりの多さと取材費で赤字に転落したほどです。各紙とも開戦前は開戦論をあおり、開戦後は記事に写真版を用いるなど戦争報道に力を入れました。
そのようすを『朝日新聞社史(明治編)』の見出しから探ってみることにします。
ここでは朝日新聞社史の見出しから関わりのあるものを拾ってみました。第 7章 日清戦争で部数躍進 厳重なる新聞統制 はじめての写真銅板付録 3.戦局の展開と特派員の労苦 苦難の従軍行、西村時輔の死、通信連絡に苦心 ・三国干渉:大朝・発行停止さる、大朝・号外戦で制覇 第9章 2.北清事変おこる: 三山・出兵を主張、国際的スクープ 第10章 終始、対露強硬を主張 三山強硬論を唱える、軍・報道検閲を開始 3.日露開戦で特派員の活躍 大特ダネの芝罘便、号外戦も火ぶた切る 戦死者家族訪問記、朝日に初の写真、記者に初の戦死者 5.講和条件に反対 とどかぬ特電、論調一変・桂を非難、東朝の発行停止 |
軍の新聞統制、特派員の奮闘・特ダネ合戦その戦病死、新聞写真などの技術革新、一貫した主戦論・強硬論、号外合戦、その結果として発行部数の急増などが見られました。戦争報道に熱狂、「国民」意識が高まりました。
「君死にたまふこと勿れ」
他方、「口外」できない人々の思いを率直に謳ったのが、与謝野晶子の「君死にたまふこと勿れ」です。
あゝをとうとよ、君を泣く、 君死にたまふことなかれ、末に生れし君なれば 親のなさけはまさりしも、 親は刃(やいば)をにぎらせて 人を殺せとをしへしや、 人を殺して死ねよとて 二十四までをそだてしや。 堺(さかひ)の街のあきびとの 君死にたまふことなかれ、 あゝをとうとよ、戰ひに 暖簾(のれん)のかげに伏して泣く |
国民にとっての戦争とは
戦争は社会を大きく変えました。
出征兵士の歓送迎、慰問、戦病死者への弔魂儀礼などが実施され、否応なく戦争に駆り立てられました。
しかし、戦争が長引き、過酷な実態があきらかになるにつれ、人びとの気持ちも揺れ始めます。
戦争とは、周囲の人たち、夫が、子供が、兄弟が、恋人が、召集されて戦場に連れて行かれることでした。
かれらは、戦闘で、戦傷で、傷つき、病み、死んでいきました。
出征に先だっての足手まといと考え子どもたちを殺したシングルファーザーの兵士がいました。
徴兵逃れがれをする若者がいました。
夫の召集によって生活がたちいかなくなり、乞食生活となった母子がいました。帰還した兵士が知ったのは、家族が一家心中していたことでした。
戦争は前線だけの問題ではありません。
戦争は、ただでさえ増加していた税金がさらに倍増する、債券の購入を強制されることでした。
鉄道や船は軍事優先となり、生活必需品も手に入りにくく、間接税のひきあげとあいまって物価を上昇させました。
人だけでなく馬までも戦場に連れて行かれ、農業生産に影響がでました。教育や道路といった生活関連の事業もおろそかにされました。
増産に次ぐ増産がおこなわれた軍需工場では一日三時間程度の睡眠しか与えられず、過労死や労働災害が多発しました。東京砲兵工廠では大爆発事故が発生しました。
平和に、自らの分を守って生きていたかつての江戸時代の百姓や町人が「近代国家の国民になる」ことは国家の戦争に巻き込まれ、傷つき、命を奪われることでもありました。
戦勝祝賀行事などが開催され、有力者などは料理や花火などを提供、提灯行列なども行われ、祝祭気分が演出されました。それは、戦争の痛みを紛らす鎮痛剤でした。
「日本のために!」と「国民意識」が煽り立てられました。
日露戦争、終結へ
日本海海戦で大勝したものの、陸軍は戦闘能力を失ないつつありました。他方、北部に撤退したロシア軍はシベリア鉄道の効率的運用によって立ち直りつつありました。ロシア軍が再び南下した場合、日本が再度勝利することは厳しかったでしょう。
ロシア側の戦意も著しく低下していました。
ロシア第一革命が発生するなど、国内には戦争に反対し皇帝専制を批判する声にあふれていました。多くの人びとは苦戦の原因は帝政のありかたであると考え始めていました。
もはやこれ以上の戦争継続は危険でした。
こうしたなかアメリカが調停に乗り出します。
両国の同盟国であるイギリスも、フランスも同様の期待を持っていたと思われます。
アメリカはロシアを嫌い、南満州の開放を公約する日本を事実上応援していました。
しかし、日本の優勢は新たな脅威となりはじめてきました。日本が東アジアで最大の軍事強国になるからです。これ以上力を持ちすぎることは危険である、日本がロシアにかわるだけでないかと。
両国とも、もはや戦争を続けられない状態であるなかセオドア・ローズヴェルト米大統領の講和仲介は「渡りに船」でした。
しかし、その間、日本は講和条約で有利となるように、サハリン(樺太)に軍隊を派遣、全島を占領しています。
ポーツマス講和会議
日露講和会議がアメリカ東岸の軍港ポーツマスで始まりました。
日本側全権は外務大臣小村寿太郎です。元老ではないものの、開戦前から日本外交の戦略をになう中心人物でした。
実際の戦争はメディアが報道するような圧勝でありません。とくに陸軍は判定勝ち程度でしかありません。
しかも日本の強大化をアメリカやイギリスも警戒し始めている中での会議でした。
講和条約にさいし、日本側が絶対条件としたのは「韓国の指導監督権」と「旅順・大連の租借権引き渡し」「のちの南満州鉄道南部の敷設権」の三点です。鉄道敷設権が長春以南となったことを除きロシア側も異存がありませんでした。
小村はこれで終わったら、国内でどのような反応がおきるか分かっていました。したがって、これを超えるオプション部分で議論は白熱しました。中心となったのは「賠償金」と「樺太の割譲」です。
小村からすれば、国民の感情をおさえるためには、金と領土が必須でした。
ロシアからすれば敗戦を認めたことになります。
小村は本国からの指示にもかかわらず、粘り強い交渉をすすめ、「北緯50度以南の樺太の割譲」「沿海州などでの漁業権」で妥協します。日本がどさくさまぎれに占領した樺太北部を返す代わりに金をよこせとも主張しますが、賠償金は絶対に認めませんでした。
こうしてポーツマス条約が締結されました。
ロシア側の全権ヴィッテは「勝利した」と叫んだともいわれます。
とはいえ小村は頑張ったといえるでしょう。
領土割譲はロシアが敗北を認めたことですし、戦争目的からして韓国と「満州」の権利獲得は「成功」でした。
しかし、韓国にも清にも相談せずに、かれらの運命を勝手に決めたのだから、おかしいといえばおかしいですが。
国民の怒り爆発~あの戦争は何だった?
戦争は大勝利であったと信じ込まされていた国民にとって、この条約はまったく納得がいかないものでした。
具体的に考えてみましょう。「韓国の指導・監督権」といっても、何のことかわからないし、「旅順大連の租借権」というが下関条約はこの二つの都市を含む遼東半島全部が日本のものだった。「鉄道敷設権」だってロシアが清から借りているものに過ぎない。「樺太」も交換条約以前は日本領でもあった。こんなもので我慢しろというのか。なんといっても賠償金がもらえない。
「日清戦争の時の戦果と比べて、あまりにも乏しい」という声が日本中に満ちあふれます。
とくに「戦闘を再開せよ」との強硬論を展開したのが新聞です。
朝日新聞は村山龍平社長の命を受け講和条約反対キャンペーンを繰り広げます。紙面には「白骨」が涙を流すイラストが添えられました。他の新聞も同様です。
徳富蘇峰が創刊し、政府とも強いつながりをもつ国民新聞以外の新聞は講和反対で一致しました。
民衆にとっての講和条約~賠償金がとれない
民衆がもっとも怒ったのは賠償金がもらえなかったことです。
戦争に際して国内外から膨大な金をかりました。
賠償金がもらえないということは、大量の借金が残り、長い間借金を返し続けなければならないことです。
「戦争中だけ」ということで我慢した「臨時的な増税」中止のめども立ちません。
賠償金がないことは、戦争中の苦しみがつづくことでした。
そして民衆を暴動に駆り立てたのは、朝日新聞が掲げた「白骨の涙」がしめす論理です。
つまり「戦争で命を失ったり傷ついたりした兵隊さんたちの犠牲に、この条約は釣り合うのか、戦争中の国民の苦労に釣り合うのか?」という思いです。
「釣り合うわけがない」。しかも苦労は報わず、苦難はつづく。だから国民は激怒したのです。
「白骨の涙」の論理は極めて危険な論理でした。
これに従えば、戦争をすると必ず利益を得なければならない、さもなくば、兵士や国民の犠牲を無駄にしたと攻撃されます。
戦争で獲得した利権はその中身がどのようなものであろうと、兵士の血で購ったものであるので、その放棄はゆるされないと攻撃されます。
こうして、以後、日本帝国は「日清・日露戦争の犠牲者」という怨霊に取り憑かれ、戦争中毒に陥ります。
怨霊は新たな怨霊をなかまに引き入れてさらに大きな魔力を手に入れ、ついには日本帝国を死においやりました。
ちなみに、同じ論理が米軍にも存在します。敗戦直後、使い道のない沖縄やその土地を返還しなかったのは、大量の犠牲によって奪い取った地の返還に陸軍が強く反対したからです。戦い取った沖縄を優先して使うのは当然という思いは現在も残ってように思われます。
日比谷焼き討ち事件
講和条約反対の声の高まりの中、東京・日比谷公会堂で「講和反対国民大会」が開催されました。東京府は主催者に開
催中止を申し入れる一方、会場の入り口を封鎖しました。しかし、続々と集まってきた群衆はバリケートを壊して公園内にはいり、結局、予定通り大会が開催されました。
大会終了後、主催者たちはこの場をはなれますが、公園周辺に残った群衆は新たな参加者をくわえ、警察署や派出所・交番、国民新聞、内務大臣宅、さらには首相の愛人宅などをつぎつぎと襲撃、警察隊や軍隊と衝突、双方に死傷者がでました。
勢いは翌日になってもとまらず、路面電車やキリスト教会が襲撃されるなど大暴動となり、戒厳令も発令されました。これを日比谷焼き打ち事件といいます。
事件は、好戦的・排外主義的というネガティブな評価が多かったのですが、政府に対する怒り、兵役を課しながら自分たちの意見を反映させる手段を与えていない政治への怒り、などの要素も含まれており、大正時代に活発化する民衆運動のさきがけともなりました。
また、メディアが民衆運動をリードするという時代の出発点でもありました。
「戦場の死」をどう捉えるのか。
「白骨の論理」すなわち「戦争で死んだものは無駄死にだったのか?」、この問いかけは多くの人びとにせまる大きな問いでした。
軍や政府にとってみれば、扱いを間違えれば、国民に兵役を課し、戦争のため命を捧げてくれといいにくくなるからです。
これにたいし軍などが出した解答が「靖国神社」拡張と「靖国の論理」の拡散でした。
靖国神社はもともと、幕末・維新期に尊王派・官軍として命をうしなった人びとの魂を招き、神として祈ることを目的として作られ招魂社が基礎になっています。そして相次ぐ国家の戦争の中で命を失ったものを祭神としてつぎつぎ組み込んでいきました。日露戦争は「祭神」の数が急激に増加させることになりました。
靖国神社の中の資料館(遊就館)には、これまでの戦争での戦死者の写真や遺品が並んでいます。遺品を飾られた人は、その名前の下には「命」という字がつけられます。これは「いのち」ではなく「みこと」です。この意味わかりますか。国のために命(いのち)を捧げた兵士たちは靖国神社に祭られる「神さん」となったから、というのです。
あまりの数の戦死者を出したとの批判にたいし、政府は次のように切り返します。
「あの戦争は、日本のための戦争であった。戦争で死んだものは日本を守る神様になり、靖国神社でお祀りされるようになった。そして今後も、日本を守って暮れる。
さらにありがたいことに、天皇様自らが、百姓の小せがれを、うちの息子を、…を、神様として拝んでくださる。ありがたいことだ。だから戦争で死んでも命は惜しくないではないか」と。
人間は親しい人の死を、何らかの形で意味づけ、美化しようとします。そうしなければ耐えられないのです。そこに、靖国の論理がつけこみました。
この論理は、これ以後、戦場に送り込まれる兵士たちにも刷り込まれます。兵士たちはいいます「靖国神社であおう」と。
護国神社・忠魂碑
戦場などでの軍関係者の死(空襲などの死はふくまれず、賊軍や敵などはふくまれません)を納得させる役割を果たしたのが、靖国神社でした。
「靖国の論理」はそれぞれの地域にまで拡散していきます。都道府県には招魂社(のちの護国神社)が、村々には忠魂碑が一気に作られます。戦争での死は、自分たちが生まれ、育った地域を守るための犠牲になったのだと。ナショナリズムは、素朴な郷土愛と結びつけて論じられるようになったのです。
こうして靖国神社を頂点とする慰霊のシステムが作られ、人びとに国家のため、郷土のために命を捧げることが求められるようになっていきます。
※本稿は2020年6月にUPした新版です。
2016年度版「ポーツマス条約、靖国神社~」(旧版)は
以下のリンクから見ることができます。