戦国時代~「戦闘モード」の時代

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<2時間目>

戦国時代~「戦闘モード」の時代

 <授業プリント>

授業の時に配布したプリント。旺文社「教科書よりやさしい日本史ノート」を参考に作成、ほぼ毎時間配布し、ノートに貼付させ、授業のペースメーカーおよび板書量の軽減に利用した。しかし、このプリントに関しては、あまり、ペースメークをしていない。
この点については「日本史Aの準備室のなかの「いかに教材を精選し、スピードアップするか」で触れた。
あわせて、テキスト「近世史」も配布した。詳細は中継内で。

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<生徒の授業ノート(板書)>

生徒のノート。左側が主に板書事項、右側に口頭での説明(一部、板書事項も含む)を記入している。余談もきっちりとメモしている。ノートの取り方の例としてこのような書き方も推奨した。

 

授業の進め方について

おはようございます。それでは授業を始めます。
今日からは、日本の近現代史にいたる流れを、戦国時代ごろからみていきます

テキストについて

まず、戦国時代から江戸時代のペリー来航までを、駆け足で見ていきます。
今からやる内容の多くは、日本史Aの範囲ではないので教科書ではあまり書いてありません。特定のテーマでまとめていたり、細かすぎたりしているので。
しかたないので近世史テキストを配ります。
小学生用の丸覚えプリント教材を参考に、ぼくが書き直したものです。馬鹿にしたみたいでごめんなさい。授業の中で使っていきますが、簡単にしか触れないこともあります。
試験はここからも出すのでなくさないように。

授業用プリント~範囲ごとに配布

それからもう一枚、授業用プリントも配ります。
これは、前の時間に参考文献としてあげた日本史B問題集(「教科書よりやさしい日本史ノート」)の内容を参考に、今回の範囲用につくったものです。これからは授業の進行にあわせて配布していきます。
ノートにはりやすいサイズにカットして配布するので、きっちりとノートにはっておくように。貼っていないときは減点とします。

ノート提出について

ちなみに、ノートは学期に一回ごとに提出とします。ルーズリーフは原則として禁止です。普通のノートでお願いします。
配点は10点満点として、板書程度しかメモしていないものは、評価Bで8~5点、不十分なものはC、あるいはDで、5点未満とします。そして、授業内容をしっかりメモしている人はAで10~7点とします。
 とはいえ、みんなの先輩は抜群に素晴らしいノートを作ってくれて、10点では足りなくなったので、A°をつけそれ以上の点数をつけてしまい、とうとう15点までいってしまいました。
 どれだけすごいかというと、授業内容を見事にマンガ仕立てにしたのです。しかも、歴史上の人物の気持ちになったり、歴史の流れを見事にまとめている。素晴らしいノートは天井なしで点数をつけたいと思います
 その代わりといっては何やけど、そういうノートの人は今後の参考にしたいから、コピーさせてもらう?!ので、困る人は、そう書いといてね。

幕末までの日本

日本の近代史の開始~1853年から

日本の近代は1853年に始まるということで、ほぼ意見は一致している。
1853年、語呂合わせでは「一夜でゴミになる」。
なんの年か、分かる?・・・
そう、アメリカ・ペリー提督の来航だ。
そして「ゴミ」になったのは…。
「江戸時代の政治・考え方・秩序・社会システム。つまり江戸時代的なもの」 

なぜ、江戸時代を見ていくのか

江戸時代的なものを簡単に「ゴミ」にするのではなくて、もう少し見ていこうというのが、ここ数時間の課題。
今の日本の、よいところも、問題点も、江戸時代の特色に由来することが多い。それ以上に新しい時代が始まったといってもそれ以前がどうだったのか分からないと意味が分からないから
 
江戸時代の話をするんだけど、
江戸時代のまだ前は何時代…?
さっきのテストででてたな。今の大河ドラマなんかでも扱ってるあの時代、・・・
戦争ばっかりしていたと言われる戦国時代と、それにつづく織田信長や豊臣秀吉が出てくる安土桃山時代

戦国時代~「戦争の時代」

戦国時代戦国大名たちが争いを繰り広げたというイメージ
戦国大名いうたら、どんな人が浮かぶ・・・?
信長・秀吉、そやな、信長はそうやけど、秀吉はちょっと微妙。武田信玄。信玄といえば…、上杉謙信。

それから…、え、長宗我部元親、えらいマニアックなとこにきたな。四国を統一しようとしたイケメン大名?!

上杉謙信
上杉謙信(長尾景虎)関東管領上杉氏を継ぐ。武田氏や北条氏との激しい戦いを繰り広げた。
毛利元就とか、島津とか、伊達政宗なんてのもいる。北条早雲も。

戦国大名の特徴?

こうした人たちの特徴って何・・・?
甲斐の武田、越後の上杉、中国の覇者毛利、というふうに国名や地方名とくっついてでてくる。つまり一つ以上の国、現在の都道府県を一つ以上持っている人やな、一定の広さの領土、領国というんやけど、まあ独立国に近いようなものを支配する有力な武士を大名という

室町時代の大名と戦国大名、どこが違う?

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山川出版社「詳説日本史」P148
大名って、それ以前の室町時代にもいた。守護大名というのが。
護大名と戦国大名、どこが違うのか」から本論に入っていこう。
室町時代には、室町幕府いうのがあって、将軍様がいた。
苗字は…足利さん
足利将軍から命じられる形で、それぞれの国を治めていたのが、守護大名

守護大名は南北朝の動乱から生まれた。

室町時代のはじめ頃は、南北朝時代というやっぱり戦争の時代だった。
南朝と北朝、天皇家同士の戦いという事になってるけど、
実際は、それぞれの国で武士同士が争っていて、それぞれが自分の「お気に入り」というか、つごうのよい親分を見つけて争う、いうのがこの戦争の背景だった。
その対立を抑えるために、足利さんがかなり大きな権限を与えてそれぞれの国を治めさせたのが、守護大名

 

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守護大名と戦国大名の比較帝国書院「図説日本史総覧」P136

守護大名は足利さんの力を借りて、いうことを聞かない連中を黙らせることで、戦争を少しずつ終わらせていった。そして金閣寺を作った…足利義満の時代に南北朝時代は終わった。

守護大名と室町幕府は「相互依存」関係だが

だから守護大名は幕府の力を借りることで自分の領国を治めることができた。しかし別の言い方をすると将軍も守護大名がそれぞれの国を把握することで日本全体を治めることができる、難しいいい方をすると相互依存の関係(たがいに助け合う関係)だったわけだ。
でも、こういうのはかなり難しい。守護大名が強くなりすぎると将軍の権威は落ちるし、将軍が強くなりすぎると守護大名がそれぞれの国を治める力は落ちてくる。つねに緊張関係にあった。
そして、すきがあれば、自分の領土を拡大したいという強い欲望をもつそれぞれの国の武士たちも健在であった。

「応仁の乱」~幕府がダメになると守護大名も

将軍と守護大名の緊張関係が壊れたのが…。応仁の乱将軍の跡継ぎをめぐる争い、有力大名間の対立、有力大名家の跡継ぎをめぐる喧嘩、こういったものが複雑に混ざり合って起こった争い。京都の町で戦われた
京都の町は焼け野原に。足軽の暴行
京都の町なかに千本釈迦堂というお寺がある。その柱に応仁の乱の刀傷が残っている。他はないの…?って、応仁の乱で京都の町が丸焼けになったので、あまり残っていないと思う。
軽く余談しとくけど、京都の人が困ったのは、戦闘中だけではない。休戦しているときも大変だった。なぜかわかる?

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応仁の乱における足軽の暴行  山川出版社「詳説日本史図録」P120

休戦になると、足軽という臨時雇(バイト?!)の兵士がリストラされる。彼らは一気に泥棒集団に変身し、放火、略奪、暴行と、暴れまくったから。同じことが、約50年後、ドイツで発生した三十年戦争でも起こっている。
応仁の乱が起こったのは1467年、語呂あわせは「ひと夜、ムナしく」
室町幕府は、これによって「空しく」なってしまった。

地方武士たちの欲望が「解放」される!

目を地方に向けてみよう。地方の武士たちは、幕府がバックについていたから守護大名のいうことを聞いていた。
こういう連中が「幕府って、大したことないやん!」と聞いたらどうなる?
なんで、守護大名のいうことなんか聞かなあかんね!」となる。守護大名は基本的に京都に住まされていたからなおのこと。「顔も知らんのにうるさいことばっかりいう守護大名なんかどうでもいい」ということになって、いうことを聞かなくなる。
幕府を馬鹿にしていた守護大名は、幕府がだめになったことで、自分たちも馬鹿にされるようになった
こうして、「パンドラの箱」に押し込められていた地方武士たちの欲望が解放されてしまう。

武士たちは力あるものの下に…、でも力がなくなれば…

それぞれの国の武士は、自分がボスだと主張したり、それぞれがボスにふさわしいとおもう武士のまわりに集まる。
こうして守護大名の多くが没落し、戦国時代が始まる。
戦国大名というのは、一筋縄ではいうことを聞かない国内の武士たちを、幕府の権威などを借りることなく、実力でまとめていく有力武士のことだといえる。だからよりいっそう「独立国」化が進むことになる。
戦国大名とは「自らの実力で領国を支配する有力武士」と定義できる。

戦国大名の「実力」は、軍事能力だけでない

注意しておきたいのは、この「実力」ということだ。実力というのは、軍事力だけではない。もっとも大切なのは、国内の武士をいかにまとめ上げるかという人心掌握術だ。

武田信玄はいかにして「戦国大名」になったのか

「恐怖による支配」の破たん

武田信玄を例にとって考えてみる。
武田氏は平安時代以来、甲斐(現在の山梨県)に拠点を置いていた有力守護大名の出身だ。だから非常に有利なはずだ。
にもかかわらず、なかなかまとまらない。

信玄の父親(武田信虎)は、恐怖でまとめようとした。少しでも問題のあったものはすぐ処刑するといったやり方で。武士たちは、たしかにびびった。でも「もう堪忍や」という気持ちになり、信虎を追い出す作戦を考えた。そのために、クーデタに担ぎ出されたのが信虎の子、武田晴信(信玄)であった。

武田信玄(晴信)名門守護大名家の出身であるが、武士団の掌握に苦心している。
このエピソードからは暴力(恐怖)だけでは国内武士の掌握はできないことを示している。
クーデター側に担ぎ出された信玄も、クーデタによっていっそう勢力を増した国内武士の掌握に苦労することになる。

法律(「分国法」)による支配

人心掌握のため信玄、そして多くの戦国大名がやったのが分国法とよばれる国内のみで通用する法律をつくることであった。
そもそも、法律というのは、背後に法律を破ると痛い目に遭うという力(暴力)の裏付けが必要だ。しかし信玄はまだ力不足だった。裏づけが不十分だから分国法もあまり効果を持たない…。
なかなかいうことが聞かれなかった。

武士は領地獲得のため戦う(「一所懸命」)

次に信玄が行ったのが、侵略戦争をすすめ、武士がもっともほしがった領地などの褒美を与えることだった。
平安、鎌倉時代から、武士は自分の領地を守り、拡大することに命をかけてきた。現在、「一生懸命」という言葉があるが、もとは一所懸命」。先祖から受け継いだ領地を守る事が義務であり、それを増やしたものは一族の誇りだった。だからこそ武士たちは、もっとも危険なところへ、自分の名前を名乗りながら突撃していったのだ
こうした武士のプライドをくすぐったのが信玄のやり方である。
信玄は、隣国である信濃への侵略戦争を拡大し、獲得した領土を家臣(国内武士)に恩賞として与えるという手段で支持を拡大する。
相次ぐ戦争は国内の人心掌握のための手段でもあったんだ。
さらに黄金や武器(信長や秀吉は茶道の茶碗や茶器なども)なども恩賞として与える。こうしてモノで釣る
 最近の研究では、戦闘終了直後、武士は多くの人間を捕らえる権利(「乱取り」)が与えられた。そして、捕まえた人々を「売る」ことで得られる収入もほうびの一部であったとされる。

自分の子供でも許さない、非情な決断

対立の芽があると非情な手段にもでる。
信玄は自分の長男に切腹を命じている。自分の命令を無視し、取り巻きのグループを作ったから。さらに、戒名にまで裏切り者を示す漢字を与え永遠に許さないとの姿勢を示している。他方で、病の武士などへは、見舞いに駆けつけるなどの配慮は欠かさない。

家来を城下町に集める

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帝国書院「図録日本史総覧」P137
越前(福井県)の朝倉氏などは城下町の一乗谷に武士とその家族を集めることで、武士を常備軍にして、軍事力を高めるとともに、家臣の動向への監視をしやすくしている
こうして家来とその家族を城下町にあつめるようになってくる。これを大規模でやったのが織田信長で、全国規模に拡大したのが秀吉、そして徳川幕府だ。

人心掌握が戦国大名にとって最大の課題

このようにして優れた戦国大名は、利害関係とルール、そして恐怖、さらには裏切りへの監視と細心の心配りといったさまざまなものを、駆使して人心掌握をはかった。さらに優れた人材を見いだし、他の者と摩擦を起こさないようにしながら一定の地位に就けることも大切な実力」の一つだ。

「富国強兵」~強い軍隊を作る

もう一つの「実力」の中身は、「富国強兵」だ。
強兵」=軍事力の育成としては、西洋から伝えられた鉄砲を入手する、より戦闘にそくした軍事組織を作ることにも力を注いでいる。
農村に住んで農民と武士の二足のわらじを履いていた武士を城下町に集めたのもすぐ動くことのできる軍隊をつくるという面もあった。

「富国強兵」~堤防、鉱山、「楽市楽座」

多くの兵士たちを抱えるためには、資金も必要だ
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帝国書院「図説日本史総覧」P136
大名たちは資金集めに尽力した。
信玄は、甲府盆地に流れる笛吹川に信玄堤を設けて農地を広げたことで有名だ。このようにして年貢の源となる田畑を拡大する
さらに、甲斐の鉱山採掘は有名だ。鉱山開発では、上杉謙信は佐渡の金山、毛利氏は石見の銀山、それぞれ開発に力を入れている。
近畿地方とその周辺部の経済先進地帯を基盤に持つ大名は、商工業での収益を得ようとした。信長が安土城下で行ったことで有名な楽市楽座も、すでに始まっていた。
資金調達能力も、大名の実力の一つだったんだ。

戦国時代=「戦争モード」全開の時代

このように、この時代、戦国大名たちは、他の国に勝つために、相手よりもできるだけ多くの富を手に入れ、できるだけ多くの武器や新しい戦術を身につけ、できるだけ多くの兵士を手に入れるかで競い合った。できるだけ多くの兵士を集めるために、農民の中からも兵士を募り、足軽などの形で組み込んでいったのだ。
農民から武士という流れは、実は平安時代からあったのだが、それが全面展開していくのがこの時期だ。
ある意味では、戦争モード全開、ともいえる時代だったんだ。
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