武士はどこに行ったのか(4)国民教育の定着と学歴エリート

Pocket

武士はどこに行ったのか~明治期の社会と政治
4,国民教育の定着と学歴エリート

Ⅵ、教育の国家主義化と教育勅語

(1)「教育令」~自由主義化とその破綻

学制以後の教育政策を見ていきたいと思います。

 学制が公布された1872年はまだ明治維新と文明開化の改革が日本社会を吹き荒れていた時代でした。重要な政策も、十分な議論なしに、極端に言えば担当者の「理想」や外国事情の翻訳で導入できた時代です。
学制発布とくに教育の目的を個人の立身出世にもとめた「被仰出書」などにはそうした傾向を感じることができます。
(この理由づけで、学校建設などの財政負担を国民に押しつけることが可能になったのですが)
しかし秩禄処分強行と西南戦争(=士族反乱の敗北)で、激動と混乱の時代、大久保利通流にいえば「創成の時代」はひとまず終わりました。
それ以降、一方では自由民権運動と対抗しつつ、それまでの行き過ぎを正す時期、大久保のいう「内治を整え、民産を殖する」時代となっていきます。
教育においても、西村茂樹が指摘したような問題の改善に向かいます。

1879(明治12)年学制にかわってだされたのが「(第一次)教育令」です。
学制による強圧的な進め方を「督励・強制は就学率を上げるのに何らの効果を示すものではない」と批判、実業主義を施し、生産性を高めて民衆を富ませ、知識を普及すべきとの立場をとります。
現実や地方の事情を十分に適応した公教育をめざし、あわせて経費削減を図ろうとしました。アメリカ留学経験がある田中不二麿文部卿の体験が生かされた自由主義的な政策であり、民権運動の理念にもつながる側面を持っていました。
内容としては

①学区制の廃止。町村を小学校の設置単位とする。
②学齢児童の就学は父母の責任で行う
③各町村に人民公選の学務委員をおく
④カリキュラム編成は地域民衆と学務委員で考える。
⑤最低就学期間を4年間で16ヶ月とする。

といったものがあげられ、中央集権化され画一化された教育にかえて、教育への地域の関与を大幅に認め、地域や親たちの負担を軽減しようという画期的な内容を持っていました。

ただ、こうした自由主義的な教育が実現するには、地域の理解と成熟という条件が必要でした。
しかし、地域も人々も、改革に次ぎ改革と重い財政負担のなかで疲れ切っていました。
インフレの好景気を背景とした民権運動の高まりは、新しい取り組みよりも負担軽減を重視していました。
そうしたなかにこの法令がでたのですから、結果は改革の否定の方向に進みました。
学校の新築は中止され、教員の削減、給料も減額が行われます。学制がすすめた教育のあり方を地域が否定したのです。
学校制度をすすめようとしてきた側は、この動きを「自由教育を我儘勝手教育とはき違える」と批判しました。
教育内容に対する国家的規制の緩和は、あたらしい教育をともすすめる方向ではなく寺子屋への復帰へと向かいました
教育期間を短縮し内容を単純化した簡易科への人気が殺到、小学校制度自体が解体の危機をむかえます。
これにたいし、学制による「上からの教育」を促進してきた地方官の反対意見、民権運動に反対する政府内の声・攻撃のなか、教育令はわずか1年で中止されました。

「ゆとり教育」を報じた新聞記事

第一次教育令の失敗は、理想的で自由な教育をめざしながらも、教育や教職員が置かれていた現状や地域の実態を見ないため無残な失敗に終わりました。それは現場の事情をみず、教育学の成果も軽視したため教育現場からも、強圧的・詰め込みによる学力向上を求める人たちからの、総スカンを食い、わずかな期間で撤退を余儀なくされた「ゆとり教育」を彷彿させます。

(2)第二次教育令~教育の国家主義化へ

自由主義的、理想主義的であった「(第一次)教育令」は1年で破棄されます。1880(明治13)年、第二次教育令が実施され、日本の教育は上からの官僚統制のもとで、国家主義的な内容へとかわっていきます。現在の私たちにとっておなじみの教育のあり方が見え始めます。

その内容は
①学校は地方官の指示によって設置、
②学務委員と教員は地方官が任命、
③カリキュラムは文部省の指導のもと地方官が編成する(「文部卿頒布スル所ノ綱領二基キ,府知事県令、土地ノ情況ヲ量リテ之ヲ編制」)、
④就学期間を3年、毎年16週日以上通学すること、
⑤修身を小学校の首位科目とする、
⑥小学校教員に師範学校の卒業証書を要求する
こういった内容です。

「地域、町村、父母」といった要素の関与は、地方行政(現在とは異なって内務省に任命される知事県令が率いています)の権限へと置きかえられます。
地方官は、中央と連絡を取り合い、その指示に従うという習性をもっていますから、教育においても、政府⇒文部省⇒地方官(内務官僚)という形で中央集権化がすすみました。
カリキュラムにおいても文部省の関与が強まります
教科書も1883年以降認可制となり、自由な選択は不可能となりました。
こうして教育への国家=文部省の関与が強化されました。
しかし、この法令の下、学校や教育内容の質的保障がなされ、混乱を続けた学校教育が一定の軌道に乗った側面も否定できないでしょう。

(3)「修身」の登場

第二次教育令では修身というあらたな教科を設置し、首位科目とされます。
これによって、教育システムにとどまらず教育内容においても国家への忠誠への忠誠をつくすとの国家主義的色彩が強まります。「個人の立身治産昌業」という「被仰出書」の教育目標からの大きな変更でした。実際には「第二次教育令」の方が、これまでから政府が意図していた内容に近かったという方が正しいのかもしれません。

「修身」という名称は、儒教の『大学』に由来し「天下を平らげ国を治めるためには、個人がそれぞれ悪を改め身を慎む」という意味からとられていました。
「修身」は、明治の教育に、江戸時代の武士が身につけてきた儒教道徳を持ち込むことをめざしたといっていいでしょう。
個人の修養をもとに、「家」や「国家」の尊重、ひいては天皇に対する崇拝と献身
の精神を身につけさせようとしてものでした。
この教科設置の中心となったのは、天皇側近の漢学者、元田永孚もとだながざねです。永田は文明開化の啓蒙主義を批判し、儒教思想の立場に立って幼い頃から「仁義忠孝」をたたき込むべきと主張、明治天皇の合意を得て『教学聖旨』を起草し、学校に配ろうとしました。
その背景には、薩長閥の影響の強い明治政府にかわって、天皇親政を実現しようとする天皇側近グループの動きがありました。
第一次教育令は、天皇親政運動に対する伊藤らの反発でもあったのです。

元田永孚

ところが、自由主義的な第一次教育令は失敗に終わり、他方、自由民権運動はいっそうの高まりをみせます。
こうしたなか、政府内では民衆教化策としての儒教的徳育を進めるべきとの声が高まります。こうした民衆教化策の柱として「修身」が位置づけられたのです。
元田らがつくった「教学聖旨」は仁義忠孝を中核とした徳育を教育の根本にすえることの重要性を説くもので、当初は批判的であった伊藤らも、民権運動と対抗し、「国家の良民」を育てるイデオロギーとして、儒教主義=修身の導入を認めるようになっていきます。
小股憲明は「旧治者階級の学問・道徳であった儒教を平易な形で四民に拡大し、忠孝・忠君愛国を四民一般の道徳とすることによって、国民形成の観念的回路を得ようとすること、これが修身科における儒教主義採用の意図するところであった」と指摘しています。(小股憲明「国民像の形成と教育」)

(4)教育勅語の制定

戦争中に作られた「教育勅語図解読本」のさし絵東京書籍「日本史A」p140

1889(明治22)年、大日本帝国憲法が発布されます。
これにともない、憲法に即した教育・徳育の基本方針を創るべきだとの声が上がりました。
ひとつは知事や県令などを務める地方官=内務官僚たちです。かれらは民権派の影響や西洋思想が人々の間に浸透していることへの危機感から、国民道徳の基礎となるような勅諭の制定をもとめ、地方長官(=内務官僚)会議で政府に要望しした。
今一つは明治天皇自らの考えです。元田永孚らの保守的・儒教的な側近に親近感を持つ天皇が、自ら芳川文相に徳育の基礎となるべき箴言の編纂を命じました。
これをうけ、当時の山県首相も、「軍人勅諭」と同様教育にかかわる勅諭作成のため、草案作成を啓蒙思想家としての経歴を持つ中村正直に依頼、中村は西洋哲学などにも学びつつ「哲学論的・宗教論的色彩」のつよい草案をつくりました。
こうした動きに危機感を感じたのが伊藤であり、憲法草案作成の中心で、当時法制局長官をつとめていた井上毅いのうえこわしでした。井上は中村草案が信教の自由にかかわり、憲法の理念と抵触するとして、その危険性を指摘しました。

井上毅

そこで山県は、今度は井上に「教育勅語」の草案作成を命じたのです。井上は明治憲法との齟齬がないように配慮しつつ、草案作りをすすめました。
井上はこの過程で、教科「修身」導入をすすめた元田永孚に意見も聞きながら草案を完成させました。元田の意見を取り入れることは、徳育の導入に熱心な明治天皇の意図を間接的に組み込むことでもありました。
井上がさらに配慮したのがその公布のしかたでした。
井上は、教育勅語自体が政治上のテーマとって議論の対象となることをつよく嫌いました。そこで採用されたのが、天皇が自分の考えを国民に示すというやり方でした。
具体的には天皇が文部大臣に自分の考えを伝え、それを文部省が全国の学校にしらせるという手法した。教育勅語は天皇の社会的著作ということで憲法上の問題を回避したのです。この結果、国民は臣民である以上、主権者である天皇の考え方をありがたく拝受し、その教えを実現すべく努力するという関係となったのです。
教育勅語は、天皇が期待する徳育の導入と、憲法の枠を守る、この妥協の上に制定・公布されたものでした。このやりかたは、教育勅語にいっそうの神聖性を付与し、より大きな影響力をもつ理由ともなりました。

(5)教育勅語体制の成立

こうして、1890年10月30日、天皇が宮中で、首相・文相に教育勅語を下賜し、それをうけ文部省は、教育勅語の謄本を全国学校に配布し、祝祭日の儀式などでの奉読を命じました。
山住正巳は教育勅語について以下のように説明しています。

教育勅語

日本における教育は天照大神ら神々や歴代天皇によってつくられた日本独自の〈国体〉に基礎づけられている。
②その教えにもとづき、臣民は親孝行から国法を守ることまで国民が実践すべきと14の徳目を並べる。
そしていったん国が危険な事態に直面したならば一身を捧げて天皇の治世を助けなければならないと述べる。

③教育勅語が示す教育方針は歴代天皇の遺訓であり,それは古今中外に通用する普遍妥当性をもつと天皇は考えている。(だから、臣民としての国民はこれを守らなければならない)
④教育勅語の徳目は抽象的であり、個々についてはさまざまな解釈も可能ではあるが、普遍的人類的な遺産としてではなく,皇運扶翼のために実践すべき皇祖皇宗の遺訓として位置づけている。(世界大百科事典の記述を元に記載)

いったん制定・下賜された教育勅語は驚くべき勢いで広がっていきます。
文部省は1891年儀式における祝日には、天皇・皇后の肖像写真(御真影)への拝礼, 教育勅語奉読,《君が代》斉唱など強要します。
教育勅語の謄本は新たに交付された天皇皇后の写真(「ご真影」)とともに「ご神体」として扱われ、それを安全に保管するための奉安殿・奉安庫の設置も命じられます。
教育勅語を間違えて朗読した校長は辞任を覚悟せねばならないし、これらを焼失から守ろうとして殉職した校長の話は美談されます。
教育勅語への拝礼を偶像崇拝として拒否したキリスト教徒で第一高等中学校教諭の内村鑑三は退職を迫られました。

マスコミなどで大々的に伝えられたこの事件は、教育勅語の不可侵性をいっそう高め、こうした方針への批判を許さないものとされていきました。
教育勅語は、儀式での朗読にとどまらず、暗記が強要され、修身・国語・歴史・唱歌などさまざまな教科・目でその精神が徹底されました。
天皇があるべき生活規範を国民に強要するという手法は、その後、「戊申詔書」(1908)、「国民精神作興詔書」(1923)、「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」(1939)などでも用いられ、その対象は学校教育にとどまらず、社会教育全般に拡大され、教育勅語体制が構築されていきました。

(7)学校教育の定着へ

以下に掲げる図は清川育子「『壮丁教育調査』にみる義務制就学の普及」(教育社会学研究511992)の図をマーカーで色づけしたものです。
壮丁教育調査は徴兵検査のときに実施される学歴・学力調べであり、20歳における教育履歴や学力でしることができます。これにより約10年前に小学校を卒業した(14年ごろに入学した)生徒の教育成果を見ることができます。
これに公的な就学率と安川寿之輔が推計した実質就学率を加えたものがこの図です。

清川育子「『壮丁教育調査』にみる義務制就学の普及」(教育社会学研究511992)

マーカーなしの実線は文部省調査の就学率です。
就学率は第二次教育令の前後から急上昇し、明治16年には70%にせまります。
第二次教育令によって、行政の圧力が強まったこと、教育内容などが整備されてきたことなどが考えられますが、地方官の責任が厳しく問われ、就学率を水増しした可能性もありそうです。
すでに指摘されてきたように、入学したものの数字で、途中で不登校したり退学したものを加えたもともと水増しされた数字であり、実態ははるかに低いと考えられます。
これを考慮し補正し実質就学率をだそうとしたのが黄緑のマーカーで示したもの、教育史研究家・安川寿之輔による推計です。この推計によると文部省集計で65%となる明治22年の実質就学率は約35%、半分強に過ぎないことになります。
水色のマーカーで示した徴兵検査時に「小学校を卒業した」と回答したもの40%強と比較すると、安川の推計はやや厳しすぎるようにもみえます。
ともあれ、いったん明治16年時点で公称70%に達した就学率は、農村不況の深刻化もあって、明治20年には明治14年ごろの数字にまで低下します。しかしそれ以後、急上昇を開始します。
黄色のマーカーは自己の姓名を書ける程度の学力、赤は小学校卒業程度の学力を示します。こうした学力リテラシーの面でもこの間の向上は著しく、初等教育がしだいに効果を発揮し始めたことが明らかになります。
そして日清戦争後の1899(明治32)年ごろにはほぼ全員が自己の姓名を書ける程度の学力を身につけ、日露戦争の終わった1905(明治38)年ごろには約90%が小学校卒業程度の学力を身につけるようになりました。
このように、1890年代になると平民層の間にも学校教育が浸透、識字率が100%へと近づき、国民教育実現という課題の第一段階が実現したこと、第二段階の中等・高等教育の整備へと移っていったことがわかります。
初等教育の定着は、第二次教育令で示された国家の強い統制下に進んでいきました。
それは「一旦緩急あれば義勇、公に報じ」といった国家主義的な内容が定着させられる過程でもありました
教育の国民化は、教育勅語体制の定着でもありました。

おわりに~「武士はどこにいったのか」

(1)学校教育の定着と「国民国家」

学校教育が定着していくことで、国民国家としての日本の姿が急速に見え始めます。

「モースが見た日本の子ども」(佐々木克『日本近代の出発』)

学校発信の文化は、子どもたちを通じて大人世代へも影響を与えていきます。
運動会を典型とする行事は、新たな地域の祭りとして大人たちを学校文化の中に組み込むことに成功しました。
子どもたちが唄う唱歌を大人たちも口ずさみ始めます。
こどもたちが話す言葉は、大人たちの話す言葉を「周辺」化し、遅れた恥ずべきものみなします。
また検定・国定教科書などでとりあげられた「物語」(神話・「国史」・修身など)は全国規模で共有化され、国民共有の「物語」となります。そのに「物語」は「教育勅語」によって示された天皇を中心とした世界観のなかで体系化され、意味づけがされており、教育勅語の精神はこうした「物語」を通じても植え付けられていきます。
「立身出世」という価値観も学校を通して民衆の中にも広がっていきました。「家」の維持という「分をまもる生き方」より、「家」の発展という「立身出世」型の生き方の方がすばらしいと考えられるようになりました。
体操や武道・行事などでの行進練習などは、こどもたちに軍隊でに見合った「身体」づくりを促し、こどもの遊びにも大きな影響を与えました。
「学校の学び」には、自然科学を中心に科学的なに裏付けのあるものも多く、合理的で有益なものが多く、また狭い世界で生きていた人々に見知らぬ世界を伝える面も持っています。
同時に、学校が提供する知識=「学校知」「文明」はもう一つの面を持っていました。西洋的科学主義・合理主義だけでなく、「万世一系の天皇神話」と東アジアの文化で育まれた身分制的な儒教道徳を、近代天皇制国家による統治に適合させようとした面を。学校が提供した「文明」はこうした奇妙な融合体でした。

社会が安定化、明治憲法体制下が定着し、国家を「正当」なものとみなす意識が定着していくとこのような「学校知」も「正当」化され、「地方」や「世間知」は周辺化され、ともすれば軽侮の対象とされていきました。

 こうした性格を持つ日本の「近代文明」は、日本に学び近代化を進めようとした東アジアの知識人をも悩ませるました。学ぶべき文明と、拒絶すべき文明の腑分けは簡単なのではありません。とくに、日本帝国によって植民地化された朝鮮・台湾では「親日」「反日」という区分とも相まって、いっそうかれらを苦しめることになります。この課題は現在にも尾を引いているように感じます。

学校教育が定着化し「再生産」が軌道に乗るにつれてすすみ、学校の権威は高まり、学校発の「国民文化」が庶民生活の中にも蔓延、さらに新聞(とくに「小新聞こしんぶん」とよばれる通俗的なもの)や日本雄弁会講談社などの雑誌・読み物なども学校文化を補完するようになっていきます。

『朝日百P10-115P10-115

こうして、日清・日露期、ナショナリズムの高まりのなかで、国民意識が急速に形成・定着されていきます。
この時期の国民国家形成の大きな要素となったのが、学校教育、とくに小学校教育でした。
しかしこの時期の国民国家としての日本は、あくまでも国家主義的教育や戦争という「上からの『国民』化」のなかでつくりだされたものであって、脆弱性をもとものでした。
「日本を自分の国」として認識するには、国民自身が政治の、国家の主体とならねばならないという民主化の過程が必要でした。この課題は、1905年の日露講和反対運動のなかでゆがんだ形で提出され、以後「大正デモクラシー」とよばれる運動の過程の中で本格化します。

(2)「武士」の転身~緩慢で漸進的な変化

こうした学校教育の国民教育化という流れの中で、「士族」はどうなっていったのかを再確認しておきたいと思います。
政治の急激な変化にもかかわらず、「士族」の核心部分ともいうべき上・中級士族の意識や慣習・行動といったレベルでの変化は緩慢でした。
かれらは、「家」「郷党」といった伝統的な価値観、社会国家のために奉仕するという「士」的倫理観などを維持します。他方、かれらは、新たに生まれてきた教育制度にこうした伝統的な価値観などを同調させることで新しい時代に対応し始めます。そのさいの武器となったのが、江戸時代以来の知的・文化的な生活環境でした。
廣田照幸は記します。
「旧身分の高い層が学校教育を経て明治社会の上層に移動していったのは、ある時期までは、彼らの開明的な意識によるのではなく、逆に彼らの伝統的な身分意識によるものだったことになる。彼らの身分意識が、『生業』ではない『職』へ、彼らの選択肢を限定し、学校教育という一種のモラトリアムの期間を余儀なくされた結果が、かえって近代的職業への『横滑り』をうんだのである。」 (『研究』p342)
「上級武士~下級武士の間での大規模な逆転現象もなかったし、士族~平民の間での大規模な逆転劇も存在しなかった。変化はもっと緩慢で漸進的なものであった」(『研究』p334~5)

(3)「士族」から「学歴エリート」へ

江戸時代においては、武士「身分」とくに上・中級武士と、平民との間では、知的文化的環境で大きな差がありました。これを利用し、士族たちはまだ未熟な学校教育で優位を獲得、政官界といった世界に進出しました。成功者たちはそこでえた新たな「資産」にも支えられ新たな階層を形成、その再生産を開始します。

他方、「四民平等」の原則と教育制度の定着は士族の優位性を奪っていきます。
明治中期以降、開かれた条件で実施される入学試験や高文試験などに、経済的資産と整備されつつある学校制度下に育った平民が進出、伝統的な資産でたたかう士族との競合、士族の姿は後景に退いていきます。
とはいえ、広田が言うように「社会秩序が安定した後は、教育機会も職業機会も拡大していったため、地位達成の機会はたえず増え続け」(『研究』p334)たため、士族は排除されることなく、急増する平民出身者と肩を並べて増加たものの、母数の大きな平民から、はるかに多くの人々を受容したため、相対的な割合は減少します。
こういう事態の中では、あえて族籍を問題にする意味も失われつつありました。
士族出身者は平民出身のエリートと融合し、かれらを受け入れ、新たな階層としての学歴エリートを形成し、社会の中枢部を占めていきます

学業に目覚め、家を捨て、都会で代言人=弁護士を開業した平民出身の曾祖父は、弁護士仲間の姪で、父親の再婚で行き場を失っていた上級士族の血を引く娘をひきとり、息子とめあわせようとしました。その後、さまざまな経過を経て、祖父母は結婚しました。祖母は士族の娘として、平民出身の祖父に対しややネガティブな感情を持ち続けていたようにも思います。なお平民出身の曾祖父は、人生の最終局面において、弁護士をすて下級裁判官となり、官位官職を墓石に刻ませました。かれの屈折した思いをそこから読み取ることができるようです。

注意すべきことは、学歴エリートの横滑りしていった士族は上級・中級士族が中心であり、士族全体の30%を占める下級武士、60%を占める足軽・中間といった陪臣の大部分は該当しなかったことです。かれらは、時代の激動の中、平民の大海の中に飲み込まれていきました。
ただ、そうであっても、学校へ行き学力を身につけ、チャンスに恵まれれば、エリートの仲間入りできるという意識をもつことはあったと思われます。それは、しだいに平民の中にも共有されていきます。こうした「立身出世」という価値観が明治という時代の開放感を支えることにもなっていました。

(4)武士はどこに行ったのか

江戸末期、支配領主階級としての「武士」は、「仁政」面ではもちろん、軍事力でも、民衆をおさえることは困難となっていました。ペリーの来航は、さらに夷狄から守ることすらできないことをさらけ出しました。
こうしたなか、武士の中から、多くの武士はあるべき武士の姿を見失い地位や俸禄などに固執しているとの自己批判の声が生まれます。「士」とはいかにあるべきか
そうして生まれてきたのが「国家・社会に奉仕する『士』」という「機能主義的な武士観(園田英弘)です。とはいえ「家」の存続、発展を倫理観の中心におくという考え方も根強かったとも思われます。
明治維新は「機能主義的武士観」に適合しない「士族」に族籍と一定の資金を与え、整理したという性格をもっています。
整理された士族たちですが、その中核部分においては武士的な知的・文化的生活習慣を維持しようとしつづけ、意に染まない仕事につくことを嫌い、多くが無職であることを選びました。
しかし重要なのは、かれらの教育への向き合い方でした。
かれらはあらたに導入された学校教育に、江戸期同様の態度で向きあい、新しい時代に即した能力を身につけました。
こうして新しい時代であっても、あたらしい時代であるからこそ、さらなる「立身出世」が可能であり、「家」の維持を超えてさらなる発展を可能にすると気づき始めました。
近代化の進行の中で、士族たちは学校教育を経由することで、社会の中枢部に進出していきました。こうした仕事は「士族」にふさわしい仕事でもありました。

しかし教育は基本的には能力をもつものに開かれた世界であったため、ある程度の時間差を経て平民の進出が本格化します。
こうして「士族」の核心部ともいうべき上・中級武士出身の士族たちは平民でのエリートたちと融合し学歴エリートという新たな階層を形成、学閥・閨閥などで結びつき、「士族」という族籍すら時代遅れと思わせる世界を形成します。
しかし、注意しておきたいのは、当初社会の中枢部を占めていた世界の構成メンバーの多くが士族だったことです。

時間的にいえば「士」の文化・風習や考え方が根付いていた世界に、あとから平民出身者が参加するという経過をたどったことです。
この結果、士族のなかにあったいろいろな傾向、たとえば農工や実業よりも俸給生活者をありがたがる風潮なども社会全体に浸透していきました。
そのほかにも、士族の文化や生活習慣、価値観などが拡散され、「美風」として押しつけられていきます。こうした価値観が天皇中心の国家作りをめざす道具としての教育勅語と結びつき、日本の「醇風美俗」とされていきました。

さらには武士の道徳・倫理観は民法などの近代法体系の中にも組み込まれ、「男尊女卑」や「家」制度の重視といった近代日本社会の前近代性を形作ります。
この結果、江戸時代、少なくとも庶民の間でははかなりの力をもっていたとされる女性の権利は法的に押さえ込まれます。明治時代は、女性の権利がもっとも弱かった時代とさえいわれます。
実際民法制定は離婚率の激減という数字として表れます。婚姻という形式だけが重視され、個人の意思がさらに軽視される時代となったのです。

園田英弘・濱名篤・廣田照幸『士族の歴史社会学的研究』(名古屋大学出版会1995)

武士はどこにいったのか、広田照幸による結論を掲げておきます。
明治維新の諸事件によって身分的障壁が取り除かれたにもかかわらず、かつての上級武士層の多くは、旧来の生活を維持し、さらに教育機会を利用して再編成された階級構造の上位の部分に席を占め続けたわけである。
一方、窮乏化し労働者階級の一部に吸収されていったのは下級武士層に多かったということになるだろう。卒や足軽の多くは、明治維新で生活の基盤を失い、肉体労働者になっていったわけで、下級武士は明治維新による利得者であるとはけっしていえず、むしろ歴史の変動に翻弄された、気の毒な存在であったといえる。
結局のところ、明治維新によって生じたのは、社会構造のランダムな再編成ではなく、むしろそれは家庭と学校を媒介とした、身分の階級への横滑り(スライド)」だったのである」(『研究』p333)

               おわり

目次とリンク:
「武士」はどこに行ったのか(明治期の教育と社会)

1:江戸期の教育と武士
2:明治維新のなかで~武士から士族へ
3:学校教育と、士族の生き残り戦略
4:国民教育の定着と学歴エリート

<参考文献>

園田 英弘・濱名 篤・廣田 照幸『士族の歴史社会学的研究』
(名古屋大学出版会1995)
天野郁夫『学歴の社会史』(新潮選書1992)
同『教育と近代化』(玉川大学出版部1997)
佐藤秀夫『教育の歴史』(放送大学2000)
朝日新聞社『朝日百科・日本の歴史10』
竹内洋『学歴貴族の栄光と挫折』(中央公論新社1999)
牧原憲夫『民権と憲法』(岩波書店2006)
中村 哲『明治維新』   (集英社1992)
佐々木克『日本近代の出発』(集英社1992)
清川育子「『壮丁教育調査』にみる義務制就学の普及」(教育社会学研究511992)

元高校教師の近現代史の授業と講座を公開します