明治憲法体制の成立と展開 憲法と帝国議会(4)
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Ⅶ、明治憲法体制の成立と展開
(1)日清戦争と帝国議会
1884年の甲申事変以来、平穏とはいうものの清の影響力拡大がつづく朝鮮では1894年になって事態が緊迫化します。2月以降南西部全羅道を中心に東学農民戦争が広がりを見せており、朝鮮政府が清に派兵要請をする動きを見せたからです。
そうなると清の属国という性格の既成事実化がすすみ、さらなる影響力低下がすすむからです。伊藤内閣は朝鮮政府の動きを注視、6月になって清に出兵の依頼をしたとの情報を受け取ると大軍を派遣、あわせて衆議院解散に踏切りました。
議会の空白を利用し7月16日、イギリスとの間で治外法権撤廃・国内旅行権開放を含む新条約を調印、条約改正の大きな一歩を踏み出しました。
朝鮮でも王宮襲撃事件(「7月23日戦争」)など清や朝鮮への挑発をくりかえし、7月25日豊島沖海戦で清国を戦争へ誘い込みました。(日清戦争)
日清開戦はナショナリズムを一挙に燃え上らせました。士族を中心に義勇兵志願者がおしかけ、政府が断ると献金運動がはじまり、軍夫の従軍希望者があらわれます。
※日清開戦時の熱狂については「日露戦争でも「軍夫」募集を請負いたい。 ~一枚の「軍夫供給願」から」をご覧ください。
ナショナリズムの高揚は条約改正反対運動や議会での対立を一挙におしながしました。
こうしたなかで実施された選挙ののち、第七議会が大本営がおかれた広島で開催されました。これまでの対決ムードは一挙に消え去り、軍事予算や戦争にかかわる法令がそのまま承認され、「軍隊への感謝決議」が全員一致で可決されました。
つづく第八議会(1894~95)でも政府予算案はもめることなくほぼそのままの形で可決されました。
政府と議会が激しくぶつかり合う初期議会は日清戦争とともに終わり、政府と国会・政党が協力体制をとる時代が始まりました。
※日清戦争については、以下の文章をご覧ください
朝鮮問題の深刻化と日清戦争の発生
朝鮮近代史(4)東学農民戦争と日清戦争の発生
日清戦争後、自由党と進歩党(改進党と他の少数政党が合流)は競いあって政府与党となります。第二次伊藤改造内閣に板垣が自民党総理のまま内相として入閣すると、次の第二次松方内閣では進歩党の事実上のオーナーである大隈が外相として入閣(松隈内閣)、内閣はそれぞれの政党を与党としました。
政党は、政府と対立しながら政治を変革、みずからが求める政治を実現するという方向性ではなく与党として従来の政権に協力・参加し、ポストや個別の要求の実現をめざすようになっていきました。
(2)日本初の政党内閣~隈板内閣の挫折
日清戦争後の日本は、「臥薪嘗胆」のスローガンのもと、ロシアとの戦争を想定、軍事予算を中心に予算規模を急速に拡大します。
政府は資金を、一方では日清戦争の賠償金で、他方では逆進性が強く大衆課税につながる各種間接税などで賄いました。それまで避けてきた公債の発行にも踏み切ります。政党は増税などには協力的でした。国民全体の代表というより一部の「国民」=有産者の代表という性格を強めたのです。
しかし更なる軍備拡張・予算の拡大が必要となり、政府は各政党が聖域化してきた地租増徴にも手をつけようとします。政党にとっていきさつ上認めがたいものでした。
1898年、第三次伊藤内閣が地租増徴を打ち出すと、自由・進歩両党は合同、憲政党を結成、選挙で圧勝しました。
この結果をうけ、伊藤は辞職を決意、次期首相を大隈か板垣のいずれかにするよう天皇に推薦しました。軍備増強など基本方針で一致している以上、かれらに任せた方が事態は進展すると考えたのです。天皇や他の元老は反対するものの別の手段は考えつかず、結局大隈が指名され、日本史上初の政党内閣第一次大隈内閣(隈板わいはん内閣)が成立しました。
しかし、閣内には天皇の命令でいやいや留任した陸・海軍両大臣が非協力的姿勢を崩さず、閣外では山県を筆頭とした藩閥勢力や官僚のサボタージュが行われます。くわえて旧自由・進歩両党関係者の対立も続きました。そうしたなか、旧進歩党尾崎行雄文相の「共和演説」発言が天皇らの怒りを買って辞職を余儀なくされると、後がまをめぐって両グループは激突、憲政党は分裂、初の政党内閣は短命におわりました。
(3)立憲政友会結成と山県派の成立
藩閥・官僚勢力の分裂
明治憲法で天皇の権限を大きく認めるが、実際には以前からの権力者や官僚たちの権力を温存する仕組みとなっていました。しかし予算を武器にした議会・政党の力が思った以上に大かったことで、二つの流れが生まれました。
伊藤グループ~政党との協力へ
一つは政党との協力体制を築き、さらには政党と一体さえめざすよいった動きです。こうした動きは、政党内閣、さらには内閣が議会に責任を負う議院内閣制を容認する方向にもつながります。
こうした事態を早くから想定し、政党経営に乗り出そうとしていたのが伊藤です。伊藤は何度か政党結成をめざしましたが、他の元老の反対や天皇にも再考をもとめられ挫折してきました。
山県派の成立~反政党派勢力の結集
今ひとつは、政党と対抗しつつ利用し、できる限り超然主義的な政治を維持しようという立場です。この方向が天皇を含め旧権力の座にいる多くの人々の立場でした。
官僚にとっては、政党とは猟官活動によって自分たちのポストを奪い、国益よりも支持者の私益を優先するものとの意識があり、これまでの国家方針をゆるがすものでした。とくに内務官僚は第一次松方内閣時の官僚の大量更迭以来、政党にちかい伊藤に反発をもち、第二次伊藤内閣が板垣を内相に就け、さらに隈板内閣を許したことを怒っていました。政党が省庁の主要ポストとりわけ知事や県令に政党員を充てたことは猟官行為・党利党略と考えたのです。
政党への反発と不信感は貴族院の主流派も同様でした。初期議会では政府に協力し行動していた貴族院ですが、政党が与党化したことで自らの存在意義が低下することを嫌いました。そして勅撰議員として任命された官僚や官僚OBのもとで組織化がすすみ、反政党の色彩を強めていきました。
衆議院における非政党系の少数党派も同様の動きをみせました。
こうした反政党勢力のリーダーとなったのが山県有朋でした。
山県は本来の地盤である軍部(陸軍)に加え、かつて大臣をつとめた内務省(およびその傘下にある警察や地方官)を中心とする保守的官僚に強い人脈を持ち、さらに政党の拡大を嫌う貴族院さらには枢密院などにも影響力を拡大、山県派ともいうべき巨大な派閥を形成しました。
かれらは藩閥勢力とその後継者である保守的官僚や省庁の利益を第一に考え、伊藤の動きを牽制し、政党政治の阻止に全力をあげました。政党による「政権交代」を阻止し、これまでの政治のあり方を維持することに全力を投入しました。
この巨大勢力の拡大は、山県の最大地盤である軍部の影響力拡大にもつながりました。
立憲政友会の成立と第四次伊藤内閣成立
第一次大隈内閣(隈板内閣)の崩壊後、第二次山県内閣が成立、憲政本党と称した旧進歩党(改進党)と分かれた旧自由党=憲政党は山県内閣への協力姿勢を示しますが入閣も認められないまま、山県内閣の文官任用令改正・治安警察法・軍部大臣現役武官制といった政策に協力していきます。とくに文官任用令改正は官僚ポストから政党員を排除するものであったため、党内の反発も高まりました。
結局、山県と袂を分かった憲政党が頼ったのが伊藤でした。そこで伊藤が憲政党を解党の上、自らが結成の準備を進めている新「政党」への参加をすすめたところ、星亨率いる憲政党は解党を決議、伊藤を総裁とする立憲政友会に参加しました。
立憲政友会には、西園寺公望や原敬ら伊藤派の有力者・官僚たちも参加し、そこに議会多数党の憲政会が参加したことで、衆議院を中心に一大政治勢力を築き上げることになります。
立憲政友会は総裁である伊藤の独裁色の強い私党的性格がつよく、藩閥の代表的政治家である伊藤がかつての民権運動の本流旧自由党を吸収した形になりました。
この立憲政友会を基盤に生まれたのが第四次伊藤内閣でした。今回は、藩閥内閣ではなく政党内閣として。
第四次伊藤政友会内閣の崩壊と第一次桂内閣
ところが、結果は惨憺たるものでした。元老の筆頭伊藤博文率いる内閣であったにもかかわらず、山県ら元老も多くの官僚たちも非協力的な態度をとり、内閣の内部対立も露呈し、短命におわりました。
その後、伊藤は枢密院議長に転出する形で総裁を辞任、第二代目総裁には公家出身でそれまで枢密院議長であった西園寺公望が就任しました。しかし西園寺自体は党務にそれほど積極的でなく、実際の党務は暗殺された星亨の跡をうけた原敬が主に担いました。
第四次伊藤内閣にかわって、新しい内閣を樹立したのが陸軍大将で長州閥の桂太郎です。第一次桂内閣は日露戦争という歴史的大事件を挟む5年間の長期政権となります。
(4)第一次桂内閣と桂園時代
第一次桂内閣はある意味で画期的な内閣でした。
首相はもとより閣内からも元老が消えました。
桂太郎は巧みな政治家でした「ニコポン」という愛称で呼ばれるように人間関係を巧みにあやつり、元老さらには天皇との良好な関係をもとに、日露開戦から戦争中の困難な政権運営・戦争指導をすすめていきました。
また山県派ではあるものの、ボスの山県とも一定の距離をおきつつ山県派=藩閥・軍部・官僚・貴族院の支持を得、政友会の西園寺公望に禅譲を約束することで議会の協力もとりつけ、日露戦争後の混乱を抑えました。
そして元老に諮ることなく、影響力を残しつつ西園寺に禅譲、西園寺と共に新世代の政治を進めました。いわゆる「桂園時代」です。
※桂園時代~原内閣治については、以下の文章をご覧ください。
桂園時代から原敬内閣へ(1)桂園時代
桂園時代から原敬内閣へ(2)大正政変と第一次大戦
桂園時代から原敬内閣へ(3)原敬内閣
桂園時代は、主に桂と政友会の実力者原敬との協力・対抗関係をもとに運営されました。
桂は鉄道建設や港湾整備など積極財政への理解を示すことで原=政友会に妥協しつつ、他方で政友会の力を削ぐ権威主義的な政策も進めます。
原たちはこうした方向に反発しつつも、政権への影響力の拡大や議会多数の維持・拡大、最終的には本格的な政友会内閣実現をめざし、議会ではときには激しく対立しつつ、政権禅譲などを条件に妥協しました。
「情意投合」を唱えつつ、テーブルの下では足を蹴り合っている状態がつづいたのです。
この間、とくに第二次桂内閣期には、韓国併合、大逆事件など大きな出来事がつづき、地方行政でも戊辰詔書発布をきっかけに改良運動がすすめられ在郷軍人会組織などが全国化するなど明治憲法体制・天皇制イデオロギーの定着がすすんだ時代でした。
1912年には明治天皇が死亡、明治時代が終わりました。
(5)明治憲法体制の定着~「元老」について
明治憲法体制では元老が「天皇の職務」を代行することが暗黙の了解でした。1901年の第一次桂内閣以前(第一次大隈内閣<隈板内閣>をのぞく)は、元老のなかから首相や主要大臣が選任され、のちに独立的色彩を強める陸海軍を実質的に支配していたのも元老やそれに準じる軍人でした。(軍隊でとくに大きな力があったとされる山県さえも元老の一人にすぎなかったともいえます。)
元老はもともと武士つまり軍人であり、軍をも含めた明治国家の創業者であり、文官の元老も当然のように軍事に口を出しました。あらゆる分野に横断的に介入すことが元老の役割であり、元老をとおして軍人も文官も一体的に指導しました。ですから伊藤は当然のように軍隊を引き連れて韓国王宮に乗り込むことができたのです。
しかし、元老たちも、生老病死という人間の避けられぬ運命のなかで生きています。明治憲法体制には元老らによる「人治主義」が内在されている以上、この意味は重大です。さらに問題なのは、元老が年老い死んでいくという当然の事態に対するシステム保障がないことでした。
(6)元老支配の弱体化と世代交代の中で
富国強兵・万国対峙というスローガンと、天皇とその代理人「元老」のもとでまとまっていた明治国家も日露戦争の終了とともに急速に求心力を失います。第一次桂内閣の成立から桂から西園寺への禅譲、桂園時代の開始といった一連の政治過程は、元老支配の弱体化と世代交代を象徴した出来事でした。
軍部でも元老支配の弱体化と世代交代がすすみます。幕末以来の職業軍人が引退、士官学校卒の職業軍人の割合が増します。
行政も同様です。多様な経歴・考えの持ち主が減っていき、帝国大学出身のエリート官僚が中心となります。こうした結果、元老=藩閥中心の人間関係を基礎とした組織横断的な協力がぎくしゃくし始めました。
国家目標が見えなくなり、政府を組織横断的に束ねていた元老が第一線を退き、さらに国家の規模が拡張してことで、内閣と省庁、軍との距離が広がり、明治国家・社会の中の遠心力が高まります。
にもかかわらず、適切な対応がなされませんでした。
軍部が憲法を都合よく解釈し、独走しても、制御するべき存在がない、そういった時代の土台が形成し始めます。憲法のもっていた矛盾が、ガン細胞のように明治憲法体制を蝕み、日本全体を制御不能に陥れはじめました。
(7)可能性としての議院内閣制
このころ、東京帝大の美濃部達吉は明治憲法の第四条を読み替えた天皇機関説によって明治憲法を国民の権利を主張する武器に読み替え大正デモクラシーの理論的基礎を提供、
吉野作造は国民を基本とした政治を民本主義と名付け、普通選挙によって示された国民の意思によって国家を真に国民の手に取り戻そうと主張しました。
遠心力を増す憲法体制において求心力を取り戻すことができるのは、議会であり、そこに「国民代表」という権威を増すことであり、その権威を背景に政府を組織してこそ、明治憲法体制を再構築できたのでしょう。
原にはこうした確信があったのかもしれません。しかし、かれは政友会の議席に固執しすぎ、さらに策を弄しすぎたようにもおもえます。
政治にあり方よりも当選することを重視する姿勢が在郷軍人会の票と陸軍の裏金を目当てに政友会に陸軍のボス田中義一を引き込むような体質を作ったのですから。
他方、閥族グループの中心とされる桂にも同じ問題意識があったようにも見えます。
桂の遺産・立憲同志会の後継政党である憲政会・立憲民政党こそが、戦前における日本の政党政治の頂点ともいえる浜口内閣を実現したのですから。
しかし桂は山県との関係や国民感情をよみ誤っていました。最大の読み違えは自分の残り寿命であったのかもしれませんが。
「国民代表」としての議会の権威を背景に、議院内閣制に準じた政府を樹立するという憲法体制の再構築という方向の前に立ちふさがったのが元老・山県有朋でした。山県はこうした政党政治が悪であると信じ、その体現者である原に政権を渡すことを頑なに拒み続けました。こうして憲法体制の再構築は遅れ、混乱がつづきました。
ところが、原政友会内閣成立後の山県は、原を信頼し、後を託そうとしたといわれます。山県が老いと闘いながら愚直に守ろうとしたものは何だったのでしょうか。山県は死の床で原が凶弾に倒れたことを知りました。
(8)「国民」とは誰のことか
日露戦争直後、講和条約の内容に反対した民衆暴動である日比谷焼き打ち事件が発生しています。この事件は対外硬に率いられた帝国主義的な側面をつよくもっていました。しかし同時に、「国民」は有産者のことではなく、戦争に命と肉体を捧げ、重税と過酷な生活を強いられている自分たちの事でなければならない。日本は自分たち「国民」のものでなければならないと民衆自身が考え始めたことを示していました。
日比谷事件にはじまる民衆暴動はさまざまな問題をはらみつつ活発化、1912~3年には政党との共闘を背景に、閥族内閣を崩壊させました。(第一次護憲運動・大正政変⇒ジーメンス事件)
国家を「みんな」のものにという動きはたしかに進展していました。「みんなの政治」を求める運動も主体的にすすめられます。そのなかには普通選挙法獲得運動もありました。しかしこの運動に、有産者の代表という性格を強めていた政友会など政党側の反応が消極的であったことは否めません。
ともあれ、いわゆる大正デモクラシーのたかまりをうけ、1925年には、男性のみではあるものの「普通選挙法」が実現します。こうして、これまで「国民」とみなされなかった人々が、主体的にこの国にかかわり始め、「みんな」のすそ野を広げていきました。
※大正デモクラシー期の民衆運動については以下をご覧ください
米騒動とデモクラシー(1)「明治」への異議申し立て
米騒動と大正デモクラシー(2)大衆騒擾と友愛会
米騒動と大正デモクラシー(3)米騒動と全国水平社
米騒動と大正デモクラシー(4)小作争議と農村の民主化
(9)議会=政党と、「相対的に独立した」政府
原に代表される政党は「国民」を自分たちにとって都合の良い人々に限定しようとする姿勢を脱却できず、普通選挙権獲得に背を向け、民衆のエネルギーをくみいれることに躊躇し、旧権力と手を組んだ利益誘導型の政治をなかなか脱却することができませんでした。
官僚主導の政治を変えていくよりもそれと融合、得られた利権を自己の勢力拡大の資源とするという手法は第二次世界大戦を超えて、戦後日本の保守政治の伝統として引き継がれていきました。「国民」は、国家を担う主体としてではなく、与えられる利益を享受する客体する考えも、伝統として受け継いでいるようにも思われます。
他方、維新期の藩閥政府以来、国家中枢の行政などの現場において、議会からも君主からも相対的に独立した存在として地位を確保し続けるように設計された政府権力側は、明治から大正となり、元老が去り、藩閥という性格が薄らぐようになってからも、帝大出身者を中心とした排他的なエリートによって運営されつづられました。
大正期以来、官僚と政党との融合がすすむなか、議会との関係に変化はあるものの、相対的に独立した存在として、日本社会を運営するという姿勢は維持され続けます。
こうしたあり方も戦後の日本にも引き継がれました。国会の本来の役割である立法権が行使されることは極めてまれであり、実際の政策の計画などは官僚に丸投げされ(往々にして省庁セクショナリズムなどによってゆがめられますが)政治家はそれを追認、生まれた利権などを利用して票を買うという日本型保守主義に。
なお軍部は明治憲法に記された統帥権を根拠としたエリート意識と偏狭な軍事思想にもとづく軍人教育、国家全体を俯瞰することができない小児病的な軍人を輩出、かれらが独占する圧倒的な暴力を見せつけることで国民を委縮させ、日本を破滅に導きました。
Ⅷ、まとめとして~「みんな」の政治は?
「万機公論に決する」政治をめざして
幕末、世界=資本が東アジア=日本を飲み込もうとする時代、日本列島の運命は一部のものが考え・対応すべきではなく「みんな」の知恵をあつめ対応すべきだという考えが生まれました。
当初、雄藩の藩主などに限定されていた「みんな」は、しだいに藩の壁を越え、身分の壁も越え、天皇中心の政治への「政権交代」をめざし、実現、「みんな」の政治をめざしました。
その象徴が「万機公論に決す」という五か条の誓文の文言でした。
衆議か、強権か
不平等条約を改正し欧米諸国と互角に振る舞うためには「国民」いう枠組みでくくられた「みんな」が参加する枠組みが必要でした。統治機構や法体系の整備が必要となり、「みんな」が参加する場=民選議会の設立も構想されます。立憲政体と呼ばれる近代国家の仕組みが必要でした。しかし、すべてを一気にすすめることはできません。
またここでいう「みんな」は誰をさすのか、も難問です。枠組みのみ作られた「国民」に実態がありませんでした。「みんなの意見」は往々にして因循姑息であったり、あるいは後先を考えない暴論となります。
現実の選択として、衆議よりエリート独裁の方が効率的でした。それを先導したのが薩長を中心の藩閥のエリートであり、協力したのが西洋文化に造詣の深い知識人でした。政府は「富国強兵」と「文明開化」をめざす強権政治の色合いを強めます。
こうしたあり方は、「みんなの政治」という当初の理想とは矛盾するものであり、強権に反対する人々は「みんなの政治」の実現、強権的な政治からの「政権交代」をもとめました。それを暴力で実現しようとしたのが「士族反乱」で、言論を重視したのが自由民権運動でした。民衆は「暴動」などの形で不同意を表明しました。
とはいえ「政権交代」を求める人の多くも強権的な人々と重なることも多く、彼らのいう「みんな」には民衆が位置づけられておらず、「政権交代」も実際には「政権参加」に過ぎなかったようにもおもわれます。
「政権維持」をはかる人々、「政権交代」をめざす人々
他方、強権政治をすすめる側も「みんなの政治」を否定したわけではありません。木戸や大久保、そして伊藤らは欧米で「みんなの政治」を学びつづけました。結論は立憲政体の「漸進的」導入でした。1875年の「立憲政体移行の詔」が回答の一つでした。「漸進的」とは、権力を譲る気はなく、自分たちの政治に「みんな」の参加を認める、限定的な「政権協力」を許すという意味であり、自分たちの「政権維持」が基本にありました。
彼らには、今ひとつの「政権交代」への危惧がありました。成人した天皇が親政すべきという「政権交代」運動です。それは「天皇親政」の名目で「政権維持」をしてきた強権政治の大義名分を揺るがしかねない危険性がありました。また天皇が絶対君主として権力を行使した場合、その失策への鋒先が天皇に向い、政治体制を不安定にする懸念もありました。(この危惧はドイツ第二帝政の崩壊で現実化します。なお朝鮮の高宗の政治が不安定だったのもこうした「親政」というあり方が原因でした。)
自立した執行権力~伊藤が学んだ「政権維持」システム
明治14年の政変と伊藤の欧州留学の意味はここにありました。
大隈重信が有栖川宮に提出した建議(意見書)は議院内閣制の導入によって議会の多数を獲得すれば「政権交代」も可能である内容でした。
これは「政権維持」を至上命題とする伊藤ら藩閥勢力が許しうるものではありませんでした。これに対抗すべくドイツ流の憲法導入が決まったといわれます。しかし伊藤にとっての課題は、大隈=福沢流の「政権交代」だけでなく、天皇親政の排除も課題でした。たんなるドイツ流でだけはだめだったのです。
こうした課題に対し、伊藤が学んできた手法は、君主からも、議会=「国民」からも、相対的な自立性をもった政府権力の創出させることでした。こうすれば強権勢力=藩閥(最終的には「元老」の存在に集約される)は立憲政治実現後も、独立性の高い政府権力の中に居場所をみつけ「政権交代」することなく生き残ることができます。
さらに帝国大学を中心としたエリート養成機関の整備が有能な後継者の再生産を可能とし、自分たちの路線を継承させることができ、「政権維持」も確実になります。
「政権交代」というドラスティックな変化をさけつつも、社会・経済の変化に即して漸進的に姿を変える、明治憲法・憲法体制はこうした設計の元に整備された「政権維持」システムでした。
しかし、いったん成立したルールを変化させることは非常に大変でした。そのことを明治国家の創業者である伊藤はどれだけ気づいていたでしょうか。
民権派にとっての「みんな」とは
「みんなの政治」をもとめる勢力、とくに自由民権運動は民選議院=国会開催が実現すれば、「国民」多数の支持によって藩閥・強権政治からの「政権交代」ができると考えていました。
ところが明治14年の政変で、政府が10年後に「みんな」の代表を集めること(=国会開設)を公約したことで当面の要求はぼやて、経済情勢の深刻化や政府の弾圧もあり、運動は停滞を余儀なくされます。
明治憲法に、民権派の多くは好意的だったと言われます。欽定憲法に反対しにくかった面もありますが、それ以上に選挙で多数を獲得し議会で政府を追い詰めれば「政権交代」=強権政治からの脱却も可能であり、憲法はそれほど問題でないと考えたといわれます。
ちなみに民権派にとって「みんな」=「国民」とは誰だったのでしょうか。当時の民権派は「民衆」、中農以下の農民や都市貧困層などを「無知」「頑迷」と捉えられていることも多く、民衆は政治に対し「客分」でありつづけようとしたともいいます。
他方、民衆が自律的に要求を掲げ、行動しはじめた「農民の民権」=秩父事件や各地の困民党事件に対し、民権派の主流は困惑したといいます。
民権派の間で、選挙制度や制限選挙に対する批判はあまり見られませんでした。政府にとっても、民権派にとっても、「みんな」の定義はそれほど違わなかったようにも見えます。
「政権交代」から「政権協力」「政権参加」へ
初期議会において民権派=「民党」は積極的でした。
「民力休養・政費節減」のスローガンのもと、与えられた予算審議権を利用して政府を追い詰めました。これによって政治のあり方を変え、「政権交代」につながることを期待して。
しかし明治憲法という武器を得た政府のガードは堅く、「政費節減」は実現したものの「民力休養」は実現できず、「政権交代」も困難でした。
政府からしても予算審議権を手にした国会=民党の力は思った以上に強力でした。「超然主義」は通用せず、憲法の規定も実際は役立ちませんでした。政府側も妥協が必要でした。
こうしたなか、「和協の詔書」をきっかけに、日清戦争を経て政府と民党の妥協が本格化します。
以前の政府の強権的な体質はそのままで、鉄道建設など積極財政による利権供与などと引き換えに「政権協力」「政権参加」するという形でした。
立憲政友会の結成~日本型立憲政治の完成
こうして「国民」の多数の信任を得た多数党が自らの主義主張に基づいた政府をつくる「政権交代」は放棄され、政府に利権提供を求め、それを利用して再選を目指すという図式が生まれてきました。
他方、藩閥勢力はしだいに学閥・エリート官僚層と融合し、議会からは相対的に独立した官僚主導という形の政治がつづき日本政治のスタイルとして定着し始めます。
ドラスティックな「政権交代」をあきらめ、旧来の政権のありかたを追認、協力し参加するという政党の一応の完成形が立憲政友会の結成でした。立憲政友会の結成は、藩閥・官僚出身者による政党支配という性格も潜んでいました。
こうして伊藤がヨーロッパで学んできた政府と議会の関係が完成しました。
「みんな」の参加はどうなったのか
日露戦争まで、議会が認めた「みんな」の範囲は主に地主・ブルジョワジーといった資産家までとされ、民衆は放置されつづけました。
日露戦争後、「差し出す」ことだけをもとめられた人々は怒りを爆発させ、自分たちも「国民」であると主張します。1905年の日比谷焼き討ち事件以後、民衆暴動が多発、1913・14年には内閣も崩壊させました。「みんなの政治」を求める運動も主体的にすすみ、1925年には「普通選挙法」が制定され、「国民」は拡大、選挙権の面では「政治参加」が本格化します。
たしかに人々の運動の中で「みんな」のすそ野は広がりつづけました。しかし、明治憲法とそこで定義された国会は、本当の意味での「みんなの政治」には程遠いものでした。なぜなら、この憲法とそれによって作られた憲法体制・帝国議会の制度自体が、「みんなの政治」=「政権交代」を排除するために作られたものだったからです。
「みんなの政治」の実現は、第二次世界大戦を経て制定された日本国憲法をまたねばなりませんでした。
<おわり>
<メニューとリンク>『憲法と帝国議会』
1:公議政体論と立憲政体の模索 (1850代~1880代前半)
2:明治憲法の制定と憲法体制(1980年代後半~1889)
3:憲法体制の整備と初期議会(1889~1894)
4:明治憲法体制の成立と展開(1894~)
<参考文献>
坂野潤治『明治憲法体制の成立』(東京大学出版会1971)
『日本近代史』(ちくま新書2012)
『明治憲法史』(ちくま新書2020)
大石 眞『日本憲法史』(講談社学術文庫2020)
ジョージ=アキタ『明治立憲制と伊藤博文』(東京大学出版会1971)
安田浩『天皇の政治史』(吉川弘文館2019)
伊藤之雄『伊藤博文』(講談社学術文庫2015)
『元老―近代日本の真の指導者たち』(中公新書2016) 『愚直な権力者の生涯 山県有朋』(文春新書2009)
原田敬一『日清・日露戦争』(岩波新書2006)
『帝国議会 誕生』(文英堂2006)
久保田哲『帝国議会』(中公新書2018)