あれを本当の戦争と思っていたのか?

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あれを本当の戦争と思っていたのか?
~学長塾第二期第一回(1)~

「学長塾」が再開した

第二期第一回目の「学長塾」がはじまった。かなり無理をしながら参加しているが、いつもそれ以上の成果を得られる。先生の、学識としっかりした歴史観、歴史学の動向への目配り、地域に根ざそうとする姿勢など、懐の深さには感嘆する。
その内容を是非知ってほしいので不定期的に紹介することとする。

沖縄を出発点に東アジアを考える

「戦中期に日本浪曼派の思想に共感し、戦後それを深く悔いていた橋川ならではのすぐれた着眼であった」(加藤陽子)

今回は「沖縄を出発点に東アジアと日本の近現代史を見る」というテーマ。その出発点として語られたのが、第一次講座でよんで加藤陽子「シリーズ日本近現代史⑥満州事変から日中戦争へ」の冒頭部分。思想史家・橋川文三が日中戦争を「日本人はあれを本当の戦争と思っていたのか」という言葉を紹介する。さらに加藤が吉田健一の文章も引用しながら論じた部分をてがかりに話を進める。先生の手にかかると、凡人の小生があっさりと流してしまっていたこの著書冒頭の文章が輝きだす。

先生の話を記憶によって記していく。

戦争とは「敵が門前に現れること」

1945(昭和20)年8月、それまでの見なれた地面から、人間や建物をきれいに消し去った空襲や原爆の体験を人々に残し、日本の戦争は終わった。(本書冒頭より)

吉田健一はいう。

戦争とは、近親者と別れて戦場に赴くとか、原子爆弾で人間が一時にあるいは漸次に死ぬということではない。「それは宣戦布告が行われればいつ敵が自分の門前に現れるか解らず、又そうしたことを当然のこととして覚悟しなければならないということであり、同じく当然のこととして自分の国とその文明が亡びるということもその覚悟のうちに含まれることになる。」

これをうけて、加藤はいう。

ならばヨーロッパの人間にとっての戦争と、日本人にとっての戦争は、実態においても記憶においても異なったものとなったに違いない。(中略)いくつかの例外…を除けば、多くの日本人にとっての戦争とは、あくまで故国から遠く離れた場所で起こる事件と認識されていたとしても不思議はなかった。

ここで加藤は冒頭に記した橋川の問いを示す。

自国と敵国が地続きのヨーロッパ大陸では、戦争が始まることは、自分の町や村に、玄関先に敵がやってくること、弾丸が飛んでくることであり、戦車に蹂躙されることであり、戦場とされることであった。財産や生活を奪われ、さらには生命も危機にさらされながら、攻撃を、戦場を避け、安全な場所を求め、避難民となって逃げ回るのが戦争だった。自分たちが生活している場で行われるのが戦争であり、戦争に敗れることは自分の村が敵国のものになることでもあった。
こうした前提をもとに先生は話を始める。
こうした状態なのだから、ヨーロッパの戦争で、軍隊は非戦闘員の存在を意識しながら戦争をせざる得ない。攻撃する方も、戦場は自分たちの国から地続きなのだ。ドイツなどヨーロッパ戦線で「慰安婦」の存在があまり大きな問題になりにくいにはこうした事情がある。そのまま、歩いてでも自国の軍隊について行けるからだ。(全くいなかったわけではないが)

近代日本の戦場はつねに国外であった。

翻って日本はどうだろうか。近代の日本の戦争は沖縄戦などを例外として戦場はつねに国外であった。日清・日露戦争、シベリア「出兵」、日中戦争、そしてアジア太平洋戦争、基本的にはすべて国外での戦争だ。たしかに戦争の最終盤になると空襲や原爆が人々の生活を破壊し、生命を奪った。しかし、銃を持った敵が自分の町や村にやってきて、家の扉を蹴破って入ってくる、こうしたシーンは存在しない。沖縄を除いて!
ヨーロッパ大陸での戦争は常にこのようなものであったのだ。(ついでに言わせてもらえば、中国でも、「満州」でも、シベリアでも、朝鮮半島や台湾でも、近代日本の戦争で、日本軍はつねにこうしたことを繰り返してきた)
だから冒頭の「日本人はあれを本当の戦争と思っていたのか」という問いかけになる。

日本人は戦争を「半分」しか知らない。

 先生も、加藤氏も、橋川氏も、こうした日本人の戦争感の問題点を指摘する。「戦争はそんなに甘いものではない、日本人の戦争体験もその程度なのだ」といいたいのではないか。
 私も何かの本で、「日本国民は本当の戦争を半分しか知らない」という文章を読んだことがある。日本は1894年から五〇年間、戦争を繰り返してきた。しかし、そのうちの40年以上で、本当の戦場を知っていた日本国民は兵士のみであった。国民は「カッコよく彩られた戦争」しか知らず、知らされていなかった。自分の土地を戦場にされて逃げ惑っていたのは、けっして「日本人」ではなかった。日本人は戦争を知らなかった。日本軍は「無人の野」で「奉天大会戦」をしたのではなかった。「奉天」の周辺には大量の中国人・満州人が住んでいて、日露両軍の砲弾から逃げ惑っていたのだ。そのことに多くの日本人は思い至らなかったし、現在も思い至っていない。

今回の「学長塾」のテキストその1

 日本人が知っていた戦争の「半分」とは何か、一つは空襲や機銃掃射に逃げ惑い、原爆を投下されたという体験、今一つ戦場とされた「国土」=沖縄、さらにソ連侵攻によって追われた「満州」での出来事だ。これが「半分」なのだ。のこりの「半分」、自分の家が、町や村が戦場になり、逃げ回わる、こうした戦場体験をせずにすんできたではないか。沖縄をのぞいて
沖縄県民を除く日本人は「半分しか戦争をしらない」まま戦争を終えた。このことはありがたいことであった。もうしわけない思いを含んでのありがたいことであった。このことをいくら強調してもたりない。しかし、このことが、日本人の戦争の見方をいろいろな意味で偏ったものとした。
そして現代でも問われる。「日本人はあれを本当の戦争と思っているのか」と。

本当の「戦争」を知らなかった日本軍

「本当の戦争を知らなかった」のは日本軍も同様である
先生の話に戻る。
日本の軍隊はつねに国外に出てたたかうことを当然と考えていた
日本の国土が戦場になるということは全く考えていなかった
陸軍は戦争末期に本土決戦を主張したが、非戦闘員の民衆のことがどれだけ頭にあったのか。空襲が始まると足手まといになりそうな子どもたちの学童疎開をし、延焼を防ぐための建物疎開をした。次に考えたことは、戦えそうな人たちを子供から老人まで集めて国土防衛隊に組織し兵隊の補助とすること、そのくらいしか考えていない。そこでも国土が戦場になるという発想はなかった。

こうして話は「本当の戦争」の舞台となった、沖縄戦の話へとつながっていく。

(つづく)

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