史料紹介「エドウィン・O・ライシャワー『対日政策に関する覚書』」
新年度を迎え、本年もいくつかの大学に聴講に行くこととしました。そうしたなか、ある講義でとんでもなく面白い史料をもらいました。ぜひ、多くの人に紹介したいと思います。
『対日政策に関する覚書』について
それは1942(昭和17)年9月段階、ひとりの日本研究者の青年が戦争省に提出した覚書(メモランダム)です。そこには、敗戦後のアメリカの対日政策がみごとに先取りされています。
提出したのはエドウィン・O・ライシャワー、当時31歳です。私が物心ついた頃の日本大使で、日本生まれ、日本育ち、妻(結婚(再婚)したのは戦後ですが・・)も日本人。日本の歴史や文化にも造詣が深く、親日派の筆頭としてあげられた人物です。つねに日本に友好的であり、戦争中も敵意を持っていなかったと主張し続けています。この史料で見る限り、そうとはいいにくいのですが・・。
ライシャワーは、日米開戦直前に、名門ハーバード大学極東言語学部の講師となります。1941年夏には一時的に国務省調査分析官に席を置き、アメリカの対日政策にもかかわりますが、秋には大学に戻ります。12月の日米開戦を受け、1942年9月以後は陸軍省で暗号解読と翻訳など情報関係の仕事を携わりました。回顧録には、この間、国務省のプロジェクトチームにもかかわったと記していますが、この時期を対日政策を研究した書物などには不思議なほど名前が出てきません。
しかし日本研究者がわずかしかおらず、日本についての知識が切望されていた時期、1941年段階で関係を持っていた国務省が、この人物を放っておくとは思えません。戦争が終わる前後には国務省チームの責任者をすることから考えて、回顧録の証言はあたっている気がします。
この史料『対日政策に関する覚書』(以下『覚書』)は、ライシャワーが陸軍省に移る1942年9月、戦争省に提出したものです。カリフォルニア大サン・ディエゴ校のタカシ・フジタニ氏がアメリカ公文書館で発見、雑誌『世界』2000年3月号で紹介と解説を行いました。(タカシ・フジタニ「ライシャワー元米国大使の傀儡天皇制構想」なお史料の英文テキストは『世界』のホームページhttps://www.iwanami.co.jp/sekai/2000/03/146.htmlから、現在も見ることができます。)コーネル大学の酒井直樹氏はこの文書の重要性に着目、『希望と憲法』(以文社2008)のなかで検討、さらに日本語訳を巻末資料として掲げました。講義で渡されたのはこの資料でした。
(なお、この文書をテキスト化したサイト(「忘馬楼の『老馬新聞』」2008年5月24日http://16.huu.cc/~mamo/bd080524.htm)があったので、転載させていただいています。
ライシャワーが語る『覚書』
では、ライシャワーはこの『覚書』をどのようにかたっているのでしょうか。『ライシャワー自伝』(徳岡孝夫訳 (株)文藝春秋・1987)には
日付ははっきりしないが戦争初期に書いたらしい私の覚書の写しには、戦後日本の協力と民主化に必要な天皇を罵倒するのは避けるようにとの提案が書かれている。
日系アメリカ人の部隊をつくり、彼らに忠誠心を証明する機会を与えよ、それは戦争の人種間闘争的な性格を弱め、われわれが日本国民ではなく軍部と戦っている事実を示す好機になるはずだ、という進言も残っている。
と、その存在を簡潔に記しています。またNHKで話した内容を文章化した『日本への自叙伝』(日本放送出版協会1982・以下『自叙伝』)では、戦後改革の章で内容の一部を紹介しています。そこには「先に見た『覚書』」という記述があるにもかかわらず、その記述を見つけることはできませんでした。
自らの先見性とその影響力は自慢したいものの、その内容の過激さから「親日家」という自分のイメージを守るために現物は見せたくなかったのではと、ついつい邪推したくなってしまいます。
ライシャワーは、この『覚書』を「アジアにおけるわが国の戦争努力と、特にこの地域で戦争が終結した後の政策目標に密接な関係をもつ」「些末に見えてもじつはきわめて重要な二つの点について意見を喚起したい」と書き始めます。
その一点目は「戦争終結後、我々の価値体系の側に日本人を転向させる」ための手段を論じた内容であり、二点目はさきの『自伝』にあった日系アメリカ人を軍人として戦争に参加させることです。
日系アメリカ人部隊創設を提案
話の都合上、後者の方から見ていきます。
1942年のアメリカ大統領令9066号は、アメリカ西海岸などに住む日系アメリカ人に「敵性市民」として立ち退きを命じました。その結果、12万人を超える日本人に、さらに日本にルーツを持つアメリカ国民と日本人移民、そしてメキシコやペルーなどアメリカの友好国である中南米諸国に在住する日系人と日本人移民が、アリゾナ州の砂漠など荒れ地に設けられた11か所の強制収容所に送られました。
このことは当時から、アメリカの「理想」などとのかかわりで問題とされていました。なお、1988年レーガン大統領が国家として正式に謝罪を表明、補償を行います。
この日系移民の強制移住という政策にライシャワーは危機感を感じます。かれが問題視したのは、アメリカ憲法に反した人権を侵害する行為だからではありません。
日本人を祖先にもつアメリカ市民を米国籍をもたない日本人とともに西海岸から移動させることは、緊急の軍事的配慮からみて、必要な行動であったことは疑いを容れません。
このように、この行為を妥当な行為として評価、さらに、20世紀初頭から続く日系アメリカ人排斥運動を認める発言も行います。
現在に至るまで、日本人を祖先に持つアメリカ人は我々の目的にとって負債以外の何物でもありませんでした。一方ではわが国にとって人口の移動と軍事的な監視という大きな問題を課し、他方ではアジアの日本人にプロパガンダの切り札を与えてきたのです。
このように日系アメリカ人を「負債」と表現し、アメリカに負担を与える邪魔な存在として位置づけています。
ライシャワーが危機感を感じるのは、日本がアメリカのこの政策をプロパガンダに利用することでした。この戦争を人種間の戦争と主張する日本の考え方を正当化する論拠となる、だから危険だというのです。かれはこの危機感を次のように語ります。
日本は国際連合(the United Nations:注:酒井氏は連合国をこのように訳している)に対する戦争を黄・褐人種の白人種からの解放のための聖戦としようとしております。(中略)日本のプロパガンダはシャムや東南アジアの植民地、そして中国の一部でさえ、ある程度の成功を収めております。中国が戦争から脱落するような事態があった場合は、日本人はアジアにおける闘争を全面的な人種戦争へと変換することが可能であるかもしれません。
日本が、近代以来の欧米諸国による植民地支配という弱みをついて、白人対黄色・褐色人種という人種間戦争という枠組みに持ち込む材料となる、それが危機感の内容でした。
ライシャワーはこうしたことにならないために、日系アメリカ人という「負債」を「資産」に変える方法を提案します。
この状況を逆転させ、これらのアメリカ市民をアジアにおける思想戦の資産に変えるべきでありましょう。現時点において、今次の戦争はアジアにおける白人優越主義を温存するための戦争ではなく、人種にかかわらずすべての人間にとってよりよい世界を樹立するための戦争であることを示すためには、(日系アメリカ人による) 合州国に対する誠実で熱意に満ちた支持ほど優れた証拠はありえません。
こうした意図から、ライシャワーは日系人部隊を結成することを提案します。これによって「日系アメリカ人を負債ではなく資産にする」ことができるというのです。
この提案は、『覚書』から5ヶ月後、1943年2月、日系人部隊(第422歩兵連隊)結成という形で実現します。この部隊は、ヨーロッパ戦線でもっとも過酷な戦場に送り込まれ、勇敢に戦い、米軍全体を見てもとくに多くの犠牲者をだしたことでも有名な部隊です。(先日、NHKがこの部隊の過酷な戦いのようすを扱った番組(BS1スペシャル「失われた大隊を救出せよ~米国日系人部隊 英雄たちの真実 )を放送しました。)
この部隊結成と『覚書』の直接的な関連はわかりませんが、政策実施に一定の役割を果たしたのではと思います。本人としてもそうした自覚はあったようで、さきにみたように『自伝』のなかでこの部隊のことに触れ、多くの日系人がこの部隊に参加したと誇らしげに語っています。
これが二点目の内容です。
日本人に有効な「スケープゴート」は?
しかし、これ以上に重要なのが、一点目の内容です。ライシャワーが自伝でいったような「戦後日本の協力と民主化に必要な天皇を罵倒するのは避けるようにとの提案」にはとどまらないインパクトをもつ提起です。
ここで論じられているのは日本の敗戦後の占領政策を見越した上での政策提言です。すこし丁寧に見ていきたいとおもいます。
ライシャワーの中心的な関心は、敗戦後の日本において「アメリカの政策に誠実に協力する」日本人の「頭数」をそろえ、アメリカ側に「転向」させ、その協力を得ることです。
戦後の日本を友好的で協力的な国家の仲間に引き戻すためには多くの日本人の協力が必要でありますが、わが国の政策に誠実に協力するような日本人を十分な頭数(sufficient numbers of Japanese)我々の側に転向させることは極度に困難な課題になると思われます。(中略)日本の人民の協力なしには、この地域に健全な政治的・経済的状況を作り出すことができないことは、極東を専門的に研究する者にとって、あまりにも明らかなことであります。
そしてこういった「頭数」を確保する上での、ドイツやイタリアと異なる日本の困難さを記しています。東京裁判が、ニュルンベルク裁判と違って難しかった理由をすでに予知していたかのようです。
戦争終結後、我々の価値体系の側に日本人を転向させるに当たって、大きな困難の一つは、敗北の重荷を転嫁する適当な適当なスケープゴートが存在しないことであります。ドイツとイタリアでは、ナチ党とファシスト党が、さらに有り難いことにヒトラーとムッソリーニという全体主義をひとまとめに象徴してくれる人格が、最も都合のよいスケープゴートの役割を果たしてくれるでありましょう。(中略)この政権の解体と指導層の追放という行為を通じて、彼ら自身、すなわち人民ではなく、彼らの邪悪な指導者が悪かったのでそのため敗北したのだと、自分たち自身を納得できるはずであります。
ドイツなどでは敗戦の重荷を「悪かったのはナチス党やヒトラーなどの政権と指導者」に押しつけ(実際にそうした面も大きかったのですが)、「がん細胞」を切除するかのように取り除くことで国内的にも決着をつけられると考えました。
しかし、「日本ではこのようにいかない、無理だろう」というのがライシャワーの見立てです。連合軍側では多くの人が天皇をヒトラーやムッソリーニと同格に考えていました。しかし、日本人の多くがそう考えていないことは、日本に生まれ育った彼にとっては明白でした。天皇にスケープゴートの役割をおしつけることは無理であり、逆効果と考えました。
日本ではこのように指導者に責務を転嫁することによって、(人民の)面子を救うことはできません。なぜなら、すべての人民が天皇には責任がないことをよく知っているからで、天皇を告発することは国旗を非難すること以上の憂さ晴らしになるとは思えないからであります。
では、ちょうどいい、敗戦の責任を押しつけうる「悪」、日本人の「憂さ晴らし」になるスケープゴートはいるのか、と問うたとき、適当な人物を見つけにくいというのが、かれの見立てでした。かれは、当時の日本の統治形態をつぎのように見抜いています。
日本では現実の指導者はむしろ匿名的な権力使用を常習としており、責任をとらせる政党は存在せず、スケープゴートの役を演じてもらえるような傑出した個人はほとんど見当たりません。偽りの邪悪な指導者の役を演じてもらえる唯一の組織は陸軍でしょうが、いまや全国民が何らかの形で陸軍と軍人崇拝の永い伝統と同化してしまっており、陸軍を責めることで日本人が憂さを晴らせるとは思えないのです。
日本には都合のよいスケープゴートがいない。「現実の指導者はむしろ匿名的な権力使用を常習」とするからだ。なかなか見事な分析です。ニュルンベルク裁判に比べて、東京裁判が難しく、そのあり方に疑問が多く出され、国民にとってもストンと落ちなかった理由もこのあたりにあるのでしょう。「軍国主義」のがん細胞は、日本という肉体の深くに根ざしており、外科手術で取り除くことは困難だったのです。ライシャワーは東京裁判での連合軍の困惑を見抜いていたかのようです。
少し読み違えがあったとすれば、敗戦後の国民は彼が考えた以上に、陸軍というか軍部に批判をもっていたようです。しかし、それはこの文書のかかれた時期が原因かもしれません。なぜなら、この文書が書かれたのは、ガダルカナル島攻防戦がもっとも激しく戦われていた時期、戦いの帰趨すらはっきりしない、ライシャワー自身が「本当に戦争自体に勝利できるか自信がなかった」と述べている時期だからです。しかし『覚書』が書かれた時期から三年弱、日本人は戦争の苦しみを味わいます。しかもそれは口には出せなかった。口に出せなかったからこそ、次々と国民に犠牲を強いてくる軍への怒りを沈殿させていったのでしょう。
アメリカにとって最良の「傀儡」は?・・
スケープゴート作戦がうまくいかない日本でどのようにして、敗戦後、「日本の人民の協力」をえるのか。「注意深く計画された戦略を通じて思想戦を勝ち取ることが我々には期待されるでしょう」と「思想戦」という用語を使い、もったいぶった言い方で論を展開します。内容は過激さを増していきます。
当然のことながら、第一歩は、喜んで協力する集団を我々の側に転向させることであります。そのような集団が少数派しか代表しない場合には、我々に喜んで協力する集団は、いわば傀儡政権ということになるでしょう。
日本は何度も傀儡政府の戦略に訴えてきましたが、たいした成功を収めることはできませんでした。というのも、彼らが用いた傀儡が役不足だったからであります。
たしかに満州国の溥儀も、南京政府の汪兆銘も、中国の人々の支持を取り付けるためには役不足でした。しかし、日本には、最高の、これ以上ないという傀儡がいるとライシャワーは言います。この『覚書』ももっとも過激で、衝撃的な部分に入りましょう。
ところが、日本それ自身が我々の目標に最も適った傀儡を作り上げてくれております。それは、我々の側に転向させることができるだけでなく、中国での日本の傀儡が常に欠いていた素晴らしい権威の重みをそれ自身が担っています。もちろん、私が言おうとしているのは、日本の天皇のことであります。
アメリカが日本を統治するのに最適な「傀儡」として天皇がいるとライシャワーは主張します。天皇を「傀儡」として利用し、占領統治を行えばうまくいくというのです。「協力」とか「利用」といったことばでなく、「傀儡」(puppet regime)という最大限の刺激的なことばをつかっています。天皇を占領政策に利用すべきという政策のはしりであり、だからこそ、むき出しの政策意図が見える気がします。
このようにライシャワーは、きわめて冷徹に敗戦後、日本をアメリカに従属させるための方法を提案しています。かれが、よく口にする「日本の友人たち」という言葉ですが、心の中では「友人」ではなく「傀儡」と思っていたのではと邪推したくなります。
つづいて、天皇の「傀儡」としての資質について触れます。
日本の基準からいって、天皇は自由主義者であり、内心は平和主義者であると考えてもよい理由があります。天皇を国際連合(the United Nations)と協力する政策に転向させることが、彼の臣民を転向させることよりも、ずっと易しいことであるというのは、大いにありそうなことです。天皇が、おそらく天皇のみが、彼の臣民に影響を与え、彼らに現在の軍事指導層を弾劾するに至らせることができるのであります。
日米合意としての「国体護持」
ライシャワーは、みずからの体験と交友関係、さらにはこの約1ヶ月前に帰国した元駐日大使グルーらの意見も踏まえたかもしれませんが、裕仁天皇を「自由主義者」「平和主義者」と分析し、アメリカ戦略のため「傀儡」として「転向」させうる、最高・最適の人物と評価しました。「天皇のみが、彼の臣民に影響を与え、彼らに現在の軍事指導層を弾劾するに至らせる」という一節は、裕仁天皇と側近グループが、本土決戦を主張する軍部を押さえ込んだという敗戦に至る経過を見通していたかのようです。
敗戦に際して、1945年6月の沖縄陥落以降、戦争終結をめざすようになった裕仁天皇らがもっとも重視したのは「国体護持」=天皇制の維持でした。
他方、アメリカでは国務次官となった国務省内「日本派」の代表ともいうべきグルーが「立憲君主制を含めて」という一言を連合軍の文書に組み込むいれるべく全力を尽くし、省内の「中国派」と暗闘を繰り返していました。グルーら国務省内の「日本派」はこの言葉こそ天皇グループがもっともほしがっている「国体護持」の実態だということを知っていたからです。吉田茂ら「和平派」(「傀儡」?!)と何らかの接触があったのかもしれません。
そして、「国体護持が可能である」というなんらかの見通しを得たなか「和平派」であった裕仁天皇と側近たちは行動に移しました。「彼の臣民に影響を与え、彼らに現在の軍事指導層を弾劾するに至らせる」力をフルに生かして。
そして、この実績をひっさげて、天皇はみごとに「転向」し、アメリカ占領政策の「傀儡」の役割を積極的に果たします。たぶんライシャワーやグルーが思った以上に。
「傀儡」としての天皇の役割
天皇による「玉音」放送と武装解除命令の「臣民に与える影響力」は絶大でした。
実態としての厭戦気分が満ちあふれていたこともあり「極度に自尊心が敏感で、強度に民族主義的な人民」である日本臣民はみごとに「転向」しました。アメリカ軍はこれといった抵抗もなく占領を開始、軍隊の武装解除も約1ヶ月という短期間で完了しました。
天皇制、とくに裕仁天皇の存在は多くの連合国側が思いもつかないほど効果をしめし、『覚書』の見通しはおどろくべきの正しさをもって証明されました。
1945年9月のマッカーサーとの会見以後、裕仁天皇はGHQとの関係を強化、アメリカ側とくにマッカーサーの意向を受け入れた行動をとります。マッカーサーはその華麗な「転向」ぶりに目を見張ったのでしょう。
こうして戦前の万世一系の神話の上に立っていた絶対主義天皇制は「傀儡天皇制」へと姿をかえました。
マッカーサーはこれ以降、有能な「傀儡」である裕仁天皇を最大限利用するため、強引ともいえるようなやり方で天皇制の維持を図ります。アメリカ国民や連合国の意見を無視して、天皇の戦争犯罪人としての起訴を拒みます。さらに戦争放棄・軍隊の非所有という衝撃的なまでに平和を前面に打ち出した日本国憲法の制定をすすめていることで日本の軍国主義が克服されつつあると世界にアピールします。世界が廃絶を求める天皇制を維持するためには、過激なまでの平和憲法が必要だったのです。だからこそ、極東委員会で天皇の処罰を厳しく求めるソ連やオーストラリアも、明治憲法を残したい日本政府も、憲法9条をもつ日本国憲法と象徴天皇制のセットを認めざるを得なかったのです。
他方、裕仁天皇は1946年正月の人間宣言をだし、さらに全国巡幸を積極的に行うことなどで「愛される天皇」を演出、GHQの期待どおりの「傀儡」の役割を演じます。裕仁天皇からすれば「国体護持」=天皇制存続のための必死の工作だったのでしょう。双方の利害が、憲法上の「象徴天皇制」で一致したのです。
裕仁天皇は憲法制定後もアメリカのエージェントともいえる役割を演じます。
1947年9月「米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む」という内容のメッセージを側近経由でGHQに伝え、日本国内の米軍基地の自由使用などの問題では、吉田首相やマッカーサーの頭越しにダレスと結んでアメリカ政府につながり、豊下楢彦氏が「二重外交」と指摘するような行動をとります。それは、米軍基地の存続に制約をつけようとする吉田や外務省の意向とも異なる、アメリカにとっては心強い動きでした。
裕仁天皇は、天皇制維持という目的から憲法の規定をも超えて「自発的」に「傀儡」の役割を果たしつづけました。
天皇の「利用価値」を高めるために・・
さて、『覚書』にもどりましょう。
もし、天皇が、彼の祖父(明治天皇のこと:訳者)のような真の指導者としての資質をもっていることにでもなれば、我々にとってはますます都合の良いことになります。たとえ、彼の半気違いの父親(大正天皇のこと:訳者)程度の能力さえないことが判明したとしても、それでも、協力と善意の象徴としての彼の価値はきわめて貴重であります。
この文章はあくまでもライシャワーの言葉です。疑問の方は、英文テキストで確認してください。大正天皇を「半気違い(his half-demented father)」と呼ぶなど、紳士的でハト派の親日家として知られるライシャワーとは思えない書きぶりです。アメリカの政策遂行上の利用価値という点から、冷酷に天皇を見ていることをよく示しています。
このように利用価値の高い天皇です。このため、天皇がヒトラーやムッソリーニと同様の「邪悪な日本の体制を象徴するもの」といったアメリカでの報道を控えて「貴重な同盟者あるいは傀儡」として天皇を日本においても、アメリカにおいても「使用可能な状態に温存する」ことが必要だと考えました。
戦後に日本人が(敗戦によって受けるであろう)精神的な傷から回復するために天皇が演じることができる役割は、現在の状況と確実に関係しております。戦争終結の後の思想戦のために、天皇を貴重な同盟者あるいは傀儡として使用可能な状態に温存するためには、現在の戦争によって汚点がつかないように、我々は彼を隔離しておかなければならないのであります。(中略)新聞やラジオで天皇を広く冒涜することは、戦後の世界において我々にとっての彼の利用可能性を容易に損なうことになりかねません。このような政策をとるかぎり、我々の道具として、天皇に協力したり、あるいは極端な場合には、天皇を受け入れたりする心の準備をアメリカの人びとから奪い取ってしまうことになるでありましょう。当然その結果として、天皇自身と天皇周辺の人びとはわが政府に協力する気持ちが弱まるでありましよう。(中略)戦後問題を考慮して、政府におかれましては、本邦の報道波及機関に対しまして、裕仁への言及をできるかぎり避けること、むしろ東条あるいは山本、さらには滑稽な神話的人物ミスター・モト──軍服姿で──を現在わが国が戦争状態にある敵国日本の人格的具現として使用するよう、ご指導されるべきかと考える次第であります。
この部分でやっと『自伝』で紹介した内容がでてきます。『回顧録』でも、このあたりの内容が紹介されています。「自分は、アメリカでの天皇批判から彼を守ろうとしたのだ」というふうにいいたいのでしょう。しかし、見ての通り有益な「傀儡」の価値を減じるから批判を控えるべきだというのです。『覚書』での天皇への目は非常に現実的かつ政治的です。
なお、この提言を考慮してかどうかはわかりませんが、国務省は日本向けの放送での「天皇批判を避け」つづけます。
しかしアメリカ国内やオーストラリアなど他の連合国の反天皇報道をおさえることは困難でした。1944年グルーが天皇を免罪するかのような内容の講演を行ったときにはアメリカ内外から激しい反発がまき起こり、グルーは一時沈黙を強いられました。国務省内部にも、天皇の責任を厳しく追及する「中国派」がおり、天皇制維持をめざすグルーら「日本派」の間で対立がつづきました。
この間、ライシャワーは陸軍で暗号解読に全力を挙げていたことになっていますが、国務省内でも何らかの影響力を持っていたことは考えうるのであり、従来、グルーの主導とされてきた政策のいくつかにはライシャワーの影響があったことも考えられます。
ちなみに、『自叙伝』で自分の同級生であり「平和を欲していたはずだ」と持ち上げている山本五十六を『覚書』では東条と並ぶ「敵国日本の人格的具現」としてマスコミの批判対象として掲げるように誘導していることも興味を引きます。
日本では、英雄視されることの多い山本五十六ですが、アメリカでは東条英機や「謎の日本人ミスター=モト」とならぶ、真珠湾に卑劣な奇襲作戦を行った「悪役」だったことがわかります。
「アメリカにとって都合のよい日本」という視点
アメリカ内外の天皇批判をやめさせ、非人道的な日系アメリカ人への迫害をなんとかやめさせようと思っていたが、普通の言い方では通用しないため、あえて政策提案者が受け入れやすい露骨な、偽悪的な書き方をした、その方が正しいのかもしれません。かりに、そうであっても、この文書は現在に至るアメリカの対日政策の基本構図をあまりにリアルに描き出してしまいました。
この『覚書』の重要さはアメリカにとって都合のよい日本を作り出すという点に焦点をあてて論じているところです。
こうしたアメリカの世界戦略のもと、戦後日本は、アメリカの「政策に誠実に協力するような日本人を十分な頭数」を現在に至るまでうみだしつづけ、「日本の人民の協力」によって「この地域に健全な政治的・経済的状況」を作り出し、「友好的で協力的な国家の仲間」でありつづけています 。こうした日米関係をつくりあげる、「戦争終結の後の思想戦のため」のアメリカの「目標に最も適った傀儡」こそが天皇でした。
このようなアメリカにとって都合のよい日本は、サンフランシスコ平和条約による「独立」後もつづきます。いっそう強まったというべきかもしれません。その核心となったのが日米安保体制です。その核心ともいうべき米軍基地の自由使用、沖縄の分離と占領継続において、裕仁天皇はアメリカの利害を援護する「傀儡」としての役割をみごとに発揮しました。こうして成立した「日米安保体制」は現在の日本のあり方を大きく規定しています。
この『覚書』は、日本をアメリカに従属する「都合のよい日本」に変えていくというアメリカの『本音』を見事に描き出しました。そして「都合のよい日本」は、現在、いっそう「都合のよい」存在となっています。この「都合のよい日本」への「転向」の「てこ」として使われたのが、アメリカの「目標に最も適った傀儡」としてライシャワーらに見いだされたのが天皇制であり、裕仁天皇個人でした。