戦争体験を語るということ

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つらい真実は、話すことができないものだ・・・!~戦争体験を語るということ~

 

市民講座で話された講師の先生の話を紹介します。
戦争責任という話にかかわって、話された内容です。

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戦争の真の姿はなかなか語られませんでした。復員兵も、引き揚げ者も、シベリア抑留の人もなかなか口を開きませんでした。
実際は、開けなかったのです。
戦争のすべてを話すまで、気持ちの整理をするまでには、時間がかかりました。自分のやってきたこと、つらい思い出などを整理するのに時間がかかったからです。残虐な行為をしてしまったり、なかまを見殺しにしたり、逃げてくる途中で子どもを捨てたり、置き去りにしてきた体験を話すことは、簡単ではありません。

こんなことがありました。
満州移民が逃げる途上、松花江を渡る船をソ連軍が機銃掃射で沈めました。多くの人が川に投げ出されました。そうして投げ出された母子は、なんとか木片をみつけ、それにすがったそうです。ところが、別の男性が母子からその木片を奪いとり、自分だけ命を長らえました。
同じ村の出身で、一緒に暮らしていた親子の命を奪う行動をしたのです。そんなつらい経験、すぐに話すことなどできますか。なかなかできなかったと思います。

私(「講師の先生」)は80年代、南京事件にかかわった元兵士から聞き取りをつづけていました。ある人の所にいったときのことです。
元兵士は仏壇の前に自分たちを連れて行き、そこで両手を固く握りしめ、震えながら話し始められました。おっしゃられました。「自分はもうすぐあっちへ行く。そこで、自分がひどい目にあわせた人にあうことになるだろう。ここで話しておかなければ、向こうでひどい目にあわせた人たちに合わせる顔がない」。こういって話をされました。

つらい経験をした人は、本当のことをなかなか話せないものです。「軍隊で病気になった」こととか、「ひどい上官がいた」とかは話しても、すべてのことを話せるものではありません。とくに思い出したくないほど、つらい出来事は。だから、戦争直後といっても、戦場のほんとうに厳しい話は、なかなか世間には伝わらなかったのです。
シベリア抑留の人は比較的話されることが多かったようです。原爆被爆者の方が口を開かれるのも、かなり時間が経ってからのことでした。

参加している方に)あの話はやはりできないのですね。(うなずかれる)

いまでも口を開かれない人もいます。

それは韓国の人にとってもそうでした。元慰安婦の方が、名乗り出られて、話し出されたのも、90年代になってからでしょう。

こうした理由から、戦場の体験が共有されたことが少なかったのです。人生の最後になって、やっと話し始められた人が多いのです。死んでも死にきれないという気持ちで話されるのでしょう。
したがって、こうした戦争の加害責任の問題が語られることはすくなかったと思います

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わたしも、授業中継のなかに同様のことを書いている。
しかし、実際に聞き取りにまわられた先生の話だけにその重みを感じた。戦争中の体験を話せないまま、生き続けた人のいることを忘れてはならないと思う。

さらに、こうした人を苦しめたのは、「日本軍がそんなことをするはずがない」「日本兵をおとしめる」などといい、それに同意を求める動きであった。さらに、勇気をもって証言した人を「嘘」呼ばわりする風潮も。
戦後になっても、国家は「兵士」たちを苦しめ続けたし、続けている。