楠木正成と湊川神社

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神戸に行って、ただで帰るのは面白くないので、湊川神社へ行く。高速神戸の駅を上がったところが神社の入口。

楠木正成墓所入口

右側に楠木正成の墓所がある。墓を建てたのは徳川光圀(水戸黄門)。正成の墓の墓碑銘を書いたのが光圀で、撰文は朱舜水。

楠木正成の墓石
正成の墓石の拓本。事務所で販売している。

 

 

 

 

 

 

 

 

何枚か撮したがうまく写らないので、売店にあった拓本も添えておく。

朱舜水撰の墓碑銘の拓本
徳川光圀(水戸黄門)像と徳富蘇峰撰の光圀顕彰碑

この縁で、光圀の銅像が建てられ、さらに光圀顕彰の石碑も建てられる。撰文は徳富蘇峰。漢文でなく現代文でかかれ
る。
横の石灯篭をみると、元治2年とか、文久2年と言った幕末の年号が多いのに気づく。幕末期、楠公ブームが到来していたことを物語る。石灯籠の寄進者の多くは尼崎・(桜井)松平家。この頃はこの地は幕領とされていたが、この地の領主であった時期もあったのかもしれない。
最初のものは文化年間。この頃から、大楠公崇拝、尊王論が高まりを見せたことを物語っている。勝手な推測をするなら、尊王論、歴史ブームの高まりの中で、尼崎・松平家が領内のこの墓所を観光資源⁈としようとしたのかもしれない。

 

岡藩士奉献灯籠2

別の献納者の石灯籠も見つける。名前がなく「岡藩士」とのみ記され、献納の時期は元治2年(慶応元年に改元される)。岡藩は九州・大分の竹田にあった藩。この時期、「藩」という語は正式にもちいられておらず、尊王の志士らが自称したことから考えて、尊王の志士と考えられる。
岡藩の志士といえば、小河一敏の名が浮かんでくる。
調べてみると小河は文久2年の寺田屋事件で薩摩に拘束され、岡藩に引き渡されたが、一時釈放されていたとウィキペディアに記されており、その可能性は高いと思われる。小河はのちに明治天皇の側近となるので、湊川神社の隆盛に影響を与えたと考えて良いと思う。
宝物館は休館日なので、境内をうろうろ。

楠木正成像 湊川神社ではなく湊川公園内に設置されている。現在は仮住まい。

正成の銅像くらいあるだろうと思ったがなかった。、本殿の横に正成「殉節」の地なるものがある。忠君大楠公が作り出される中での遺跡か。先の墓所といい、「殉節」の地といい、歴史ブーム、尊王ブームの中で、江戸後期にはじまり、幕末・明治と時代を経るにつれ、整備され、神話化されていったと考えられる。
楠木正成という人物、歴史上の「悪党」としてみた場合、非常に面白い人物なのだか、尊王の偉人として位置づけられるに従って、面白くなくなる。本気で天皇を守るつもりなら、簡単に死なずにもっとやり方があっただろう!とツッコミたくもなる。そもそも、みんな自決したのに、正季が「七生報国」と言ったなんてこと伝わらん!太平記以来の創作だろう。リアル正成兄弟よ、こんな風に神様として、祀って欲しかったの?、などと考えてしまう。