アヘン戦争はなぜおこったのか。

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アヘン戦争はなぜおこったのか

はじめに~ある質問から

私が参加させていただいている市民講座、前回のテーマは「開国と開港」でした。
そこで、以下のような質問をいただきました。
それにお答えしたいと思います。

■イギリスが何故アヘンを中国に輸出したのか、今ではイギリス人意志(ママ)が大反対するでしょうが、民度が高くなかったということですか?

私は、どちらかというと人間をシニカルに見る性格があり、金儲けをしたいイギリス人がそもそも誠実な商売をするとは思っていないので、このように考えた事がありませんでした。
「いい人もいれば悪い人もいる」、あるいは「金儲けとなれば悪いことをする人もいる」といってしまえば、おしまいですが、それではあまり歴史的ではないので、

①当時のイギリスにとってアヘン貿易とはどのような意味があったのか、
②中国国内になぜアヘンが大量に流入したのか、
③なぜアヘン戦争が始まったのか、
④アヘン貿易、それへの取り締まりをきっかけとした武力行使(アヘン戦争)という「不正義」にたいし、イギリス国内はどのように対応したのか、

主にこの四点を話させていただきす。

なぜ「アヘン」に手を出したのか
~イギリス・紅茶ブームの陰で

一つ目は、イギリスにとってアヘン貿易の持っていた意味です。
18世紀後半に始まる産業革命はイギリスを豊かな国へ変えました。(その豊かさは貴族や中産階級に限定されており、並行して発生した農村での囲い込みなどもあり、大量の貧困な無産階級を生み出したのですが)
そして富裕層の間で流行したのが「紅茶ブーム」でした。
中国産の茶葉を用い中国製ないし日本製の陶磁器(chine)を用い、カリブ海沿岸の奴隷たちによって作られた砂糖を入れて飲む、これがイギリスの有産階級の豊かさのシンボルでした 。この風習は現在のイギリスでも定着していることはご存じの通りです。
1823年、インド・アッサム地方で新たな品種の茶の木が発見されるまでは、原料の茶はほぼすべて中国産でした。さらに産業革命で経済が急速に発展したとはいえ、18世紀末でも、多くの産業での中国製品が圧倒していました。

浜島書店『世界史詳覧』p213

それはイギリスが世界に売り込みたい戦略商品・綿織物でも同様でした。18世紀段階では、イギリスの対中貿易は大幅な輸入超過であり、対外収支の赤字は新大陸で手に入れた銀で支払われました。せっせと集めた銀が穴が開いたように中国に流出しました。

「欲しいものは何もない」~乾隆帝のことば

こうした事態に対応すべく、イギリスでは、貿易に対する清側の規制緩和と貿易港増加を実現し、イギリス産の安価で大量の綿織物など工業製品の輸出増を実現、貿易収支の改善し、イギリス産業のさらなる発展をめざそうという声が高まりました。

乾隆帝(1736~96)清第六代皇帝。清の全盛期を実現させた皇帝。

こうした声を受け、イギリス政府が派遣したのがマカートニーです。彼は、皇帝に会いたいというのなら三跪九叩頭皇帝との面会に際しては、3回ひざまづき,そのつど頭を3回,合計9回床につけるという儀礼という屈辱的な儀礼を求められるなどさまざまな苦労の末、1793年皇帝との謁見を実現しました。しかし、皇帝(乾隆帝)から受け取った書状には「中国は豊かな国であり何でもある、おまえたちがほしいというからお情けで売る事を認めているのだ。おまえたちから欲しいものは何もない。貿易拡大とは笑止千万である」との文字が記されました。1816年に派遣されたアマーストに至っては皇帝との謁見すら認められませんでした。
イギリスは正式なルートでのイギリス製品の販路拡大に失敗します

中国では、伝統的な知恵として、辺境で国家の管理の下に外国人との間で交易をおこなうという「互市」という制度をとっていたのです。
ところが正式な国交を求めようとすると、華夷秩序というたてまえ部分が表面化し、臣としての対応が求められることになったのです。

とはいえ、中国との貿易赤字=銀流出はイギリスにとって大きな懸念材料となり、さらにイギリス産業界にとっても、急速に生産力を増やしている綿織物などの輸出拡大への欲求はいっそう高まっていきました。

三角貿易~インドの購買力を高めるために

こうした貿易収支の改善の材料として導入されたのがアヘン貿易でした。

浜島書店『世界史詳覧』P213

イギリスは1773年インド・ベンガル地方におけるアヘンの専売権を、1797年には製造権をも獲得、その一部を中国でひそかに販売しはじめていました。
さきの皇帝の言葉にからめていうと、イギリス人が持ち込むもので中国(人)がほしがるものがアヘンでした。そしてその規模はどんどん多くなり、両国間の貿易収支の赤字はみるみるうちに縮小し、イギリスの銀流出に歯止めがかかります。

イギリスからの綿布の流入とインド綿業の破壊 浜島書店『世界史詳覧』p213

インドにおけるアヘン栽培はインドに新たな輸出産業を創出する事でした。アヘン貿易は、イギリス産業によって綿工業という世界に冠たる主要産業を破壊されたインドに新たな収益源を与える事になりました。アヘンを中国に売って得た資金が、イギリス産の綿織物などの購買力を高めました。
こうして戦略産業であるイギリスの綿工業が活性化されます。
アヘン貿易はイギリスの経済の重要な環となって来ました。
1834年、イギリス本国での自由主義化のなかで、イギリス東インド会社が統制下に置いていた対中国貿易の特許が失効、多くの冒険的な商人が中国貿易に乗り出していきました。輸出における主力商品がアヘンであったことはいうまでもありません。こうしてアヘン貿易は更に規模を拡大していきました。

脆弱な統治機構
~「密売」商人を取り締まれない清帝国

二つ目は、中国側の事情です。

浜島書店『世界史詳覧』p108

日本では人口増加率が急速に低下していった18世紀、中国では人口の激増が始まっていました。
その結果、中国人は条件の悪い土地、辺境などに可耕地などの生業をもとめ移住していきました。
大量の貧困層が出現する一方、それまでの住民との間との対立も発生しました。
さらに可耕地を求めて行われた乱開発は洪水や干ばつといったも引き起こし、各地で不穏な事態を引き起こしていました。
こうした事情はアヘンの中に救いを求める人々を生み出していました。

こうした人口増は、政府によって移住が制限されていた東北部(「満州」)や台湾などへの入植を活発化させ、新たなフロンティアとしていきました。そのことが先住民族との対立も引き起こしました。さらに華僑として東南アジアなどに移住する人も現れました。

18世紀はこうした時代でした。

清の支配。わずか100万人にもみたない女真(満州人)が約2億の漢人を支配する体制であった。
(浜島書店『世界史詳覧』p97)

また清朝政府の統治体制もアヘン拡散の背景となりました。
清朝は、ごく少数の満州人(女真族)が圧倒的多数の漢民族を統治するという国家でした。
したがって、その統治は末端に及ぶことは不可能であり、社会の最上層にいる満州人たちが、漢民族の郷紳や中間団体などの力を借り、租税を課すという仕組みがとられました。
そしてこうした中間団体の中には専売商品である塩などを扱う非合法なネットワークを形成するものも多く存在しました。
こうしたネットワークを経由して、やはり非合法であるアヘンが流通したのです。アヘンは従来の塩の密売組織などを通じて中国各地に浸透していきました。さらに民間社会から利益を得ていた清の官憲もアヘンの取り締まりに対しては消極的でした。こうした事情がアヘンの大量流入を実現させたといえます。

浜島書店『世界史詳覧』p

アヘンの流入とそれにともなう銀の流出は中国を混乱させていきます。
アヘン自体の生理的害悪はいうまでもありませんが、同時に、正貨である銀の大量流出は、デフレを発生さて中国経済を混乱させました。
非合法で危険な存在であるアヘンが公然と社会に広がっていくことは清朝政府の統治の問題点を否応なく見せつけました。
アヘンの害の広がりを通じて、清朝政府は主権国家的な枠組みで「中国」という存在を考えなければならない事態においこまれつつあったのです。
世界の中心であるべき中国が「国益」を問わねばならない事態におちいったのです。こうした問題に自覚的であったのが林則徐でした。

林則徐~主権国家としての対応であったが

なぜアヘン戦争が発生したのか、それが三つ目です。
これも中国側からの事情とイギリス側からの事情双方から考えることができるでしょう。
19世紀に入ると「世界の一体化」が一挙進みます。東アジアの諸国も、否応なく「世界=経済」の存在を意識、対抗して、自らを主権国家として認識しはじめます。
日本では、18世紀末以降、それまでの海禁政策を「鎖国」と再定義しなおします。林子平の「海国兵談」の出版などはその典型でしょう。ばくぜんとではあっても「国家としての日本」を意識する層もひろがりをみせはじめます。松平定信政権が、この本を危険視し出版を差し止めたことはこうした事態を逆方向から示しているようにも見えます。そして幕府の影響力も深く浸透していました。
これに対し、中国=清王朝は征服王朝という性格上、社会の中で発生した混乱をコントロールする手段を余り持っていませんでした。取り締まりは中間団体の場所で跳ね返され、民衆に直接届くきにくかったからです。こうした社会に規定されてアヘンの害は社会内部に浸透していきました。
清朝政府がアヘンの拡大のためとった政策は、
アヘン常用者を処刑するという厳罰と、開港場での貿易ルールを厳格化し国内への流入を避ける水際作戦です

林則徐(1785~1850) 清末の政治家。アヘン厳禁を主張、欽差大臣として1839年広州に着任し、アヘンの没収・廃棄、中国人密貿易者の処罰、イギリス商館区の封鎖などを強行した。アヘン戦争が勃発すると、動揺した清朝に解任され、さらにイリ地方に追放された。

取り締まりを命じられたのは西洋事情にも造詣が深かった林則徐です。
林は国際法に則って、アヘン貿易を規制します。
貿易港広州在住のイギリス商人を官憲に取り囲無というやり方で脅し、所有するアヘンを提出させ、それを破却します。
よく「焼却」したといわれがますが、実際は大きな池を作り、塩水のなかにアヘンを投げ込み、生石灰をなげこみ無害化するという手段がとられます。しっかりとした知識を持って対応した事がわかります。
さらに、アヘン貿易にかかわった商人は死刑に処するという通達もだします。こうした清の対応は、刑罰については問題があるものの、基本的には正当なものといえるでしょう。
イギリス側でもそうした認識もあり、本国の支持には困難もありました。そこでアヘン商人たちは、この出来事は「私有財産権の侵害」であると訴えます。また現地外交部は、イギリス人への中国の法の適用に強く反発しました。
治外法権が認められない事に反発したのです。

イギリス側がめざしたもの~貿易の拡大

こうしてボールはイギリスの側に投げ返されます。
イギリスにとって最大の問題は工業製品の輸出が進まない、中国市場への進出が思うに任せないことでした。産業革命の進展にともなって、急速に増加していく工業製品の輸出は至上命令でした。とくに世界一の人口をほこる中国市場への進出は、とくに綿製品の輸出はイギリス資本の夢でした。
しかし、こうした期待はなかなか実現しませんでした。

公行13行
浜島書店『世界史詳覧』P108

イギリス側は、その原因を
貿易港を広州一港しか認めず、しかも②公行という特許商人が貿易を独占するという中国側の外交政策に求めていました。③朝貢という東アジア的な枠組みの中で両国関係を処理しようとする伝統的な対応にも反発をもっていました。
イギリス人のアヘン商人たちは、国際法上も正当である中国側の取り締まりを、中国官憲がイギリス人を死刑という処罰でおどし、イギリス人の財産を没収・破棄したと本国に訴えました。清がイギリス人の生命・財産を侵害していると主張したのです。非合法な取引であるということはぼかしつつ。
アヘン戦争とは、イギリスが、中華思想に基づく清の態度を改めさせ、制限貿易を打破して自由貿易を強要し中国市場をイギリス資本に開放させるために、清によるアヘン貿易取り締まりを口実におこしたものでした。

「イギリスの永久の恥さらし」
~不正義の戦争とわかっていたイギリス

最後に、国際法に反したようなこうしたイギリスのやり方を本国はどのように考えていたかをみたいと思います。
アヘンの蔓延はイギリスの、ヨーロッパでの国内問題でもありました。コナンドイルは名探偵のシャーロック=ホームズをアヘン(モルヒネ)常用者として描き出し、ブロンテの『嵐が丘』の登場人物の中にはアヘン中毒者をおもわせるものがいます。このようにアヘンは世界各地に拡散されていきます。

アヘン靴の様子

こうした状態ですから、アヘン密輸を取り締まった清と戦争をすることには、強い異論が生まれます。
イギリス国内でも、クェーカー教徒やイギリス国教会、また議会内のリベラル派などが、道徳的理由、ないしアヘン貿易が綿製品の市場を狭めるという経済的理由から、アヘン貿易、またアヘンを契機とする中国との戦争に反対してい」ました。とくに後の首相グラッドストンは「イギリスの永久の恥さらしとなるべき」との反対論を展開しました。
しかし「対華貿易を安定した基礎のうえに置くのに必要な諸条件の獲得」を図るべきとのアヘン商人や資本家に押される形で、わずか9票差で可決、開戦となりました。

アヘン戦争(1840~42)

とはいえイギリス政府もアヘン貿易を立派な事とは思っていないのも確かだったようで、アヘン戦争の結果、結ばれた南京条約および付属条約において、アヘン貿易については触れられていません
これ以降もアヘン貿易は密輸の形で、実際に新たに開港場となった上海を舞台に繰り広げられます。

アヘン貿易が公認されたのは、アロー戦争(第二次アヘン戦争)の最中に結ばれた1858年の天津条約のことです
イギリスがアヘン戦争で本当にほしかったのは、貿易の拡大や香港島の割譲といった点にあったことはここから見えてくると思われます。
<おわり>

参照文献:

岡本隆司 『中国「反日」の源流』(ちくま学術文庫)
岡本隆司 『中国の形成 現代への展望』(岩波新書)
吉沢誠一郎『清朝と近代世界19世紀』(岩波新書)
「日本大百科全書(ニッポニカ)」(https://kotobank.jp/word/アヘン戦争-27018)