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「領土問題」をめぐって

「領土問題」をめぐって

第9回目の東北アジア史のオンライン授業がおわりました。(20,7,9)
前回までの「通史」がおわり、残り二回はテーマ史ということで、今回は「周辺国との領土問題」という内容です。
双方のマスメディアが「自国の論理のみを紹介している」中で、領有権をめぐる双方をいい分を確かめながら検討する内容でした。とくに以下の三点をめぐって話をすすめられました。
①「固有領土」という説明は歴史的に通用するのか、
②「尖閣諸島や竹島の存在を知っていた」ことが領有の根拠となるのか
③中国・韓国の強い反発の背景は何か、対立と妥協の歴史

いずれも納得できる内容でした。

とくに日韓国交正常化交渉の中で、「竹島の存在は、両国の国交回復の障害になるから爆破(!)してしまえ」という都市伝説のような話が、あったとかなかったとかいう話は笑えました。しかし、領土とは何かを示唆に富んでいるようにも思えました。
「爆破して、さっぱりした」と考えれば、解決策もでてくるのかもしれませんね。
今回の意見・感想のコーナーには、おおよそ以下のような内容(かなり加筆・訂正をしましたが)を書いておきました。
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ありがとうございました。
「領土」問題という生活人にとってどうでもよい問題なのに、各「国」・「国」民が角突き合している、この問題を考える上での貴重な示唆を与えていただいたことに感謝します。
 以下、本日の話を聞いて考えたことをやや理屈っぽく書かせていただきます。

前近代の東アジアは、朝貢=冊封体制にもとづくアナログな国際関係にもとづいて動いてきました。
これにたいし、19世紀になって、欧米諸国が主権国家体制(「万国公法」体制)をもちこんできます。そこでは、国境でへだてられた平等な国家が対峙しているというデジタルな原則に立っています。しかし、「平等な国家」というのは、欧米先進国にのみ通用する規定で、かれらが「文明」と認めない住民は、「国家を維持する資格」がない「無主地」とみなし、早い者勝ちで手に入れることができるという「無主地先占」の原則をもちこんできました。無人島などにたいしてはいうまでもありません。
ちなみに東アジアの諸国(「琉球王国」も含めて)は、文明国に準じる「半文明」とみなされました。そしてこの国際秩序をいちはやく導入したのが、東アジアでは異端の地位にいた日本でした。
*なお、両者を自分に都合よく利用したのが戦前の日本軍国主義であり、現在、自国の覇権主義の正当化に利用しているのが現在の中国であるようにおもわれます。

朝貢=冊封という原理にたっていた前近代の東アジア世界は、圧倒的な高度な文明を誇る中国の皇帝の「徳」をしたって周辺の君主が朝貢品を持って服属を申し出、中華帝国の皇帝が彼らを臣下としての「地位」と「暦」をあたえ保護することで、外交や内政の自由がみとめられるという、君主間、拡大解釈しても「民族」間の関係でした。
侵入と排除という関係が続いた中華世界の西半分とは異なり、おもに海で隔てられた東半分では、とくにこうした関係が強かったと思われます。
1873年、牡丹社事件(「台湾出兵」)にさいし、日本側の照会に対し、清が先住民を「化外の民」と表現したことは、朝貢を求めていない以上当然の説明でした。
この原理は東アジア諸地域でも一般的であり、支配の基本は貢納などを負担する民衆を把握するという属人主義であり、それと結びついた形での土地支配でした。人間が住んでおらず、収益をもたらすことも考えられない無人島などは支配という範疇の外の存在でした。

尖閣諸島

琉球と清との進貢船・冊封使が尖閣諸島を経由し、ときには停泊していたことは沖縄県立博物館の展示などを見ても明らかですが、当時の人びとにとって、無人島であるこの島がどちらの国のものなのか、などということは問題になりません。服属すべき人間がいないのですから。
さらに中国=清の理屈からすれば、この地球=宇宙全体が皇帝の支配下にあり、さらに琉球自体が属国なので、この無人島が中国本体のものか、琉球王国に管理を委託しているかなどは、議論の必要のないことです。しいていえば、公共の財産とでもいうべき存在だったのでしょう。
このように東アジアにおいて、無人島が「固有の領土」であるという考えは出てくるはずがなかったのです。にもかかわらず、「昔から自国領であった」と強弁することは、主権国家体制を原則とする国際秩序を前提とする「固有の領土」が存在したかのような論理は、現在の国際法を過去に反映させる暴挙です。
にもかかわらず、「固有の領土」を主張すれば、鎧の下から「無主地先占」という弱肉強食の議論が顔を出してきます。

竹島(韓国の表記では独島)

とはいえ、欧米列強の立場にたっても、19世紀段階では無人島の領有権ということはそれほど問題にならなかったのかも知れません。
19世紀、諸国が植民地化や開国を求めたのは、市場として有望な農業地帯であったり、軍事的な重要地点でした。無人島は無用の存在でした。アフリカの熱帯雨林や中近東の砂漠と同様に。
しかし20世紀が近づき、国際関係が緊張してくるとまず軍事的ニーズが高まります。植民地獲得競争が過熱し、さらには再分割をめざす動きも始まりました。列強同士の紛争も発生、軍事拠点がもとめられます。第二次産業革命は天然資源を必要とします。
たとえ無人島であっても、領海(現在は経済水域も)を拡大するという意味をもってきます。
そして、東アジアで、いち早く「万国公法体制」を採用した日本が尖閣諸島(1895年)や竹島(1905年)の領有を打ち出してきました。
尖閣諸島については1885年段階で開拓許可願いが出されていますが、日清間で両先島諸島を清の領土(新たな「琉球王国」の復活)という形での妥協が図られる中、黙殺されていました。

「領土」問題が、純粋に領土問題として存在したことはあまりありません。つねに政治とのかかわりでもちだされました。
たとえば北方領土問題は、鳩山一郎が進める「自主独立」=日ソ共同宣言路線、それが日ソ平和条約と歯舞・色丹返還という方向にすすむことを妨害するために、アメリカ=自民党吉田派が実現困難な四島一括返還を強硬に主張、米軍も返還される二島への基地配備をちらつかせることで、日ソ間の「雪解け」に水を差しました。

2012年、日本の尖閣諸島国有化に反対する中国のデモ隊

領土問題はつねに政治問題に利用され、ナショナリズムを利用して政権への求心力を図るためにも利用されてきました。
韓国では、大統領の人気が下がり求心力が失われてくると「独島」問題を持ち出すというのはよく指摘されことです。
2012年、民主党政権の尖閣諸島国有化にたいする中国での猛烈な抗議行動は中国政府に対する民衆の不満を日本に向けさせる目的があったともいわれています。

はっきりいえば、誰も住んでいない無人島の帰属などどうでもいい問題です。
ところがそれがナショナリズムを利用した勢力によって排外主義的に利用されること、領海・経済水域とそこにおける利権がからみ合っている以上、なんらかの形の解決が必要です。
日韓国交正常化交渉に際して、「竹島など爆破してなくしてしまえ!」という暴論があったという都市伝説もありますが、こうした国境問題というトゲが、不要な対立を引き起こしていることもたしかです。

こうした問題を解決するには、基本的には、国家が国境というもの区切られるという主権国家的な国際秩序を無力化させることが大切です。象徴的にいえば、国家の一部であることによって国家間のトゲとなっている存在を「爆破し、なくす」ことです。具体的にはこうした島を国家の枠組みからできる限り自由にすることでしょう。
EUでの経験は国境のカベを低くすることで長い間殺し合ってきた国々との間で友好的・平和的な国際秩序を構築することができることを示しました。ガルトゥングが主張するように、国境問題を平和的に解決しようという努力のなかに、あらたな平和的国際秩序構築という展望がみえてくるかもしれません。

追記:竹島(独島)爆破を発言したのは金鍾泌や朴正煕といわれてきましたが、最初に発言したのは日本側であるとの指摘もあります。
“http://www.f8.wx301.smilestart.ne.jp/kai/news/news-13suppl.pdf“

歴史を「道徳」に貶めてはならない

歴史を「道徳」に貶めてはならない

本日(20,6,18)の「東北アジア史」のオンライン授業が終了した。
本日の内容は皇民化政策、連合国による戦後構想など。
そのなかで、対日協力者の扱いの問題が触れられていた。
次の時間のテーマにつながるのかとおもいつつ、この点を意見質問欄に書き込んだ。今回はその内容に手を入れたものをアップした。

台湾人すべてが「対日協力者」とみなされた?

ありがとうございました。
「対日協力者の扱い」という点、考えれば考えるほどいろいろな課題がありそうですね。

林献堂 台湾の民族運動家・資産家。台湾の自治議会設立請願運動などをすすめていた。1945年4月貴族院議員となる。

台湾で、中華民国政府は対日協力者を処罰せず、逆に自治議会運動にかかわり最終的には貴族院議員として日本に協力した林献堂と、蒋介石が笑顔で握手しているのですから。林は対日協力者として意識されているのでしょうか、ある研究者は民族運動家という面だけで林を評価し、貴族院議員・対日協力者という点には触れられませんでしたが)

しかし、話を聞きながら逆のことを考えました。
国民党というか、外省人は台湾の人間すべてをトータルに「対日協力者」「敵」として扱っていたのではないかと。
中華民国の台湾獲得とは、敵(「日本」)から自領をとりもどすとともに、その対日協力者(「台湾人」)をトータルに統治から排除したようにも見えます。政治・行政機構はもちろん、国公営企業の経営からも排除し、「味方」である外省人が独占する。「差別」は容易です。外省人(大陸系中国人)と内省人(旧日本籍中国人)という確実に分離されたカテゴリーがあったからです。理由付けとして、中国語(北京語)の習熟度などを名目にしました。台湾人は北京語をしゃべれない「二等中国人」であり、もっといえば「敵性中国人」として扱われました。個々人の「対日協力者」は罪を問わない代わりに台湾人すべてが「対日協力者」とされたのでは、と思いました。

誰が「対日協力者」なのか?誰が決めるのか?

これにたいし、韓国の場合はどうでしょうか。
台湾のように全体を「対日協力者」としてトータルに捉えることは不可能です。そんなことをすれば、国外ないし獄中で抵抗をつづけている一部の運動家を除き、すべてがこのカテゴリーに含まれてしまうからです。

蔚山の市場の風景 https://11958787.at.webry.info/upload/detail/123260429466716215814.jpg.html

戦争中、多かれ少なかれすべての日本人が「戦争協力者」であったように、半島内で普通に生きていたほぼすべての朝鮮人(「朝鮮系「日本」人」)が、何らかの意味で「対日協力者」にならざるをえなかったからです。
税金を払い、法令を遵守し、子弟を学校に通わせ、警察などの命令にとりあえず従う。総督府の命令に耐えきれず、日本人風の名を名乗る・・・。

韓国では、個人のなかに対日協力者=「親日派」を捉えることになります。何らかの基準を設けて。
日本に協力して朝鮮人に被害を与えた、総督府の統治に能動的な協力をおこなった、軍や総督府と結んで不当な利益を得たなどなど。
しかし、現実に当てはめれば、ありとあらゆるグレーゾーンがでてくるでしょう。
帝国議会への参政権を求める運動は朝鮮を日本の一部であるという前提に立っています、この運動は「親日」なのでしょうか。植民地議会を求める運動も日本統治を前提としています。韓国が独立するための力量を得るために総督府の役人となった人物は役人になってからも朝鮮に工場を誘致することが利益になると考え努力したと主張します。ある歴史家は「親日」と一刀両断にしましたが、その判断でいいのでしょうか。自分が戦死することで韓国人の地位が向上されると心底からおもって特攻隊に志願した青年は「親日」なのでしょうか。

 問題は、だれが、どのような権限で、こうした判断をするのかということです。そしてともすれば自分は無謬であると自称する人によって、判断がなされがちなのです。

植民地支配が作り出した「闇」と、「特効薬」

朴正熙(1917~79)師範学校卒業後、日本陸軍士官学校卒業。満州に配属される。一時南労党(共産党)に入党。61年クーデターで権力掌握、63~79年大統領として独裁政権を樹立、79年、暗殺される。

台湾では台湾人(内省人)は多くの公的な仕事からトータルに排除されましたが、韓国ではこれまで日本人が行ってきた業務のほぼすべてを自分たちで運営する必要がありました。
その際、実際には総督府や日系企業のエリート韓国人=「対日協力者」に頼らざるを得ませんでした。
軍隊や警察も同様です。かつて取り締まる側にいた人間が取り締まられる側にいた人間が机をならべる事態もうまれました。かつての「親日派」が「親日派」を取り締まる法律を策定する、逮捕するといった事例もありました。
こうして多くの人が、濃淡の違いはあれ「闇」を抱えたまま戦後を生きることになりました。
「闇」を抱えた人が他の人の「闇」を告発する、こうした苦悩のなか韓国は歩き出しました。親日派の分別と、逮捕と処罰はそれほど簡単ではありませんでした。ときに「親日」派への糺弾と処罰は政治的思惑と結びつきました。

こうした「闇」を見えなくために、朴正熙政権が強調した「特効薬」が、新たな敵「アカ」でした。
共産主義の侵略と戦うということを表に建てることで、「親日」という過去は第二義的にできたのです。朴自身が「親日派」であるとともに「共産主義者」でもあったのですが。

絶対的「正義」と萎縮する人たち

共和国(「北朝鮮」)は少し事情が違うかも知れません。印象とすれば、台湾に似た面がありそうです。
絶対的な「正義」を背負った抗日運動の闘士が外から入ってきて、解放者であるソ連の力も借りて、日本と戦わないまま「解放」のときを迎えた積極的・消極的な「親日派」を統治する形です。

この構図は、戦後の日本における「戦争協力」「転向」という問題とも似ているようにおもいます。
戦争直後の日本で「抗日英雄」の位置にいたのは、「獄中非転向」の共産党員たちでした。積極的・消極的に戦争に協力した、させられた幾多の人びとにとって、戦争中も戦争反対を唱え説を曲げなかったかれらは輝ける存在でした。それが共産党の無謬神話を生み出しました。
しかし戦時下の抵抗で得られた賞讃と、かれらが「正義」を独占することとは別問題です。あるいは転向し、あるいは戦争に協力したこと自体、行為や弱さを批判されることはあっても、人格を全否定されたり、かつての行動をもとに、その後の行為自体を否定することは違うと思います。誠実な人に限って、こうした落とし穴に落ちたように思えます。

歴史を道徳に貶めてはならない

歴史を善悪二元論で判断することは極めて危険であり、それまでの行動が正しかったからといって、それを権威として正当化することは誤りです。
その愚は現在の共和国(「北朝鮮」)指導者の例を見れば明らかだと思います。
21世紀に入り、韓国の盧武鉉政権が「親日派」の摘発をすすめました。たしかに歴史の「闇」を掘り出すうえでは有効でしたが、そこにその人間が「善」か「悪」かという二元論的な判断が入りこむことによって、歴史を「道徳」に貶めてしまったように思います。
豊饒な歴史事象、善悪でくくりきれない人間の存在、善・悪が一体化してすすむ「近代」をこうした「道徳」で描きだすことは、干からびた歴史像しか提供できないでしょう。
かつて小田実が「巻き込まれながら、巻き返す」重要さを説いていました。歴史においては、こうした視点が必須だと思います。
歴史を儒教的、二元論的な「道徳」に貶めてはいけないと思います。

現在、世界で過剰に「道徳」を歴史に持ち込む動きが広がっているように思います。

リー将軍(1807~70)像 南北戦争における南部連合の軍司令官。アメリカ史上屈指の名将とされる。

歴史上の人物について、人種差別主義者であったという面のみから捉えて全否定する動きです。コロンブスが、リー将軍が、チャーチルが、批判の対象として描き出されます。
ある人物を銅像にするということ自体が歴史を「道徳」として見ており問題があるのですが、逆に自分たちの視点だけから批判し、撤去をもとめることも気になります。
こうした動きを受け、映画「風と共に去りぬ」の配信が配信会社からいったんとめられました。しかし十分に注意を喚起した上で再配信するとのことです。こうした冷静な対応が必要だとおもいます。

歴史叙述において、善悪という道徳を語ることはときには必要だし、重要なことではあります。しかし「悪」として終わってしまえば、歴史叙述としては正しくないと思います。
歴史叙述には、悪や非道の中にも、客観的には歴史をすすめたことも認められるような、ある種のニヒリストの目が必要なように思っています。

例によって、たいそうな物言いになってしまい申し訳ありません。
次回は戦後ですね、期待しています。

何でも死刑!台湾の匪徒刑罰令

今日は、朝から、自宅で大学の授業をネットで受講。

内地と外地の法律面での違いなど。
とくに台湾では、内地や近代国家ではとうてい信じられ程、無茶苦茶な法令が作られていた。
そのひとつに匪徒刑罰令がある。

この法律の内容や日本の植民地支配については以下の文章も参照してください。

http://jugyo-jh.com/nihonsi/日本史aの自習室/植民地の「文明化」と「『日本』化」~参政権問/

なんでも、かんでも死刑とされた。
軍や警察に逆らったものはもちろん、電信柱を傷つけても、野積みの食料、さらにワラを燃やしても、人を匿っても、場所を提供しても、飯を食わせてやっても死刑というのだから、驚く。
こまわり君ならギャグで済むが、実際に行われたのだから驚く。
この法律をつくったのは、児玉源太郎、後藤新平コンビ。

ちなみに後藤は1896〜1902年の間で捕縛もしくは護送の際抵抗せしめたため」5673人、「判決による死刑」2999人、「討伐隊の手に依るもの」3279人合計1万1951人を「殺戮」さらにその他、9000人を「帰順証交付」と呼び出し、一斉射撃で殺した。と講演会で、得意げに語っている。原田敬一「日清・日露戦争」(岩波新書)p102〜3

年号に注意してほしい。公的な台湾掃討戦は1895年のうちに終わっている(中国人兵士・住民の死者14000人)。したがってこの数字は、それ以後の、別の数字である。
こうした残虐行為ののちに、「親日国・台湾」が作られたのである。

本日の講師の先生曰く、台湾では抗日勢力が根絶やしにされたので日本統治は比較的平穏であった。
朝鮮ではそれが残ったし、逃げ場もあったし、人口も多かったから、抵抗運動が以後も激しく展開された。

以下、匪徒刑罰令の全文引用。

全文引用。

第一条 何等ノ目的ヲ問ハス暴行又ハ脅迫ヲ以テ其目的ヲ達スル為多衆結合スルヲ匪徒ノ罪ト為シ左ノ区別ニ従って処断ス
一 首魁及教唆者ハ死刑ニ処ス
二 謀議ニ参輿シ又ハ指揮ヲ為シタル者ハ死刑ニ処ス
三 附和随従シ又ハ雑役ニ服シタル者ハ有期徒刑又ハ重懲役ニ処ス
第二條 前條第三号ニ記載シタル匪徒左ノ所為アルトキハ死刑ニ処ス
一 官吏又ハ軍隊ニ抗敵シタルトキ
二 火ヲ放チ建造物汽車船舶橋梁ヲ焼燬シ若ハ毀壊シタルトキ
三 火ヲ放チ山林田野ノ竹木穀麦又ハ露積シタル柴草其他ノ物件ヲ焼燬シタルトキ
四 鉄道又ハ其標識灯台又ハ浮標ヲ毀壊シ汽車船舶往来ノ危険ヲ生セシメタルトキ
五 郵便電信及電話ノ用ニ供スル物件ヲ毀壊シ又ハ其他ノ方法ヲ以テ其交通ノ妨害ヲ生セシメタルトキ
六 人ヲ殺傷シ又ハ婦女ヲ強姦シタルトキ
七 人ヲ略取シ又ハ財物ヲ掠奪シタルトキ
第三條 前條ノ罪ハ未遂犯罪ノ時ニ於テ仍本刑ヲ科ス
第四條 兵器弾薬船舶金穀其他ノ物件ヲ資給シ若ハ会合ノ場所ヲ給与シ又ハ其他ノ行為ヲ以テ匪徒ヲ幇助シタル者ハ死刑又ハ無期徒刑ニ処ス
第五條 匪徒ヲ蔵匿シ又ハ隠避セシメ又ハ匪徒ノ罪ヲ免カレシムルコトヲ図リタル者ハ有期徒刑又ハ重懲役ニ処ス
第六條 本令ノ罪ヲ犯シタル者官ニ自首シタルトキハ情状ニ依リ其刑ヲ軽減シ又ハ全免ス
本刑ヲ免シタルトキハ五年以下ノ監視ニ附ス
第七條 本令ニ於テ罰スヘキ所為ハ其本令施行前ニ係ルモノモ仍本令ニ依テ之ヲ処断ス
附 則

本令ハ発布ノ日ヨリ施行ス

「自治議会開設」運動と「参政権請願」運動

今日(20/6/11)の東北アジア史のオンライン授業がおわりました。
一つは三・一運動にさいしてだされた「独立宣言」文の格調高さです。これは別の場所に投稿しました。

いま一つは、朝鮮における民族運動を「独立運動(武装闘争・外交論・実力養成)」「自治議会開設運動」「参政権請願運動」と3類型に分けるやりかたです。

韓国の「革新」派や共和国の見解からすれば、「独立運動」のうちの武装闘争と外交論以外は「親日派」としてバッサリやられかねませんが、抵抗運動(民族運動とすれば落としてしまうものも出てきそうな気がする・・)としてトータルに捉え、問題性をも含めつつ捉えていくことが重要だと思います。

そのなかで、「自治議会開設運動」「参政権請願運動」の二つの運動のことが気になりました。このふたつは日本帝国内のの、対植民地政策の二つの潮流に対応しているだけでなく、朝鮮の近代化、さらには琉球王国・日本をも含む「植民地的近代化」を余儀なくされた人びとの近代化にも共通する二つの課題とかかわると考えたからです。昔ながらの言い方をすると「反侵略」と「反封建」という二つの課題です。

<以下は感想・意見欄に書いた文章の一部です>
この二つの民族運動のありかたは、「朝鮮の近代化」(実は「植民地的近代」を歩むそれぞれの地全体というべきかも知れませんが)において、一方では対外侵略(ここでは日本)といかにたたかうかという「反侵略」の課題があると共に、他方で旧来の支配者(ここでは李朝)がおこなってきた前近代的な支配(「苛斂誅求」)に対する抵抗運動(昔の言い方では「反封建」の課題)に対応しているように思えるのです。
自治議会論は前者の「反侵略」に見られる民族主義に、参政権請願論は「反封建」のながれを引いた権利拡大の流れに対応しているのではないかと考えました。
同時にこの二つは、日本側の特別統治論と内治延長主義にも対応しており、特別統治論は総督府の独裁的な権限の維持を図るものですが、結果として朝鮮の独自性を強調することで朝鮮民族の独自性を認め自治議会論の議論につながります。
他方、参政権請願論は李朝以来の民衆の無権利状態を、完全な「日本臣民」になることによって日本臣民並みの権利を獲得しようとするもののようにも見えます。それは政党などの内治延長主義の具体化であったことは明らかでしょう。
こうして考えれば、この二つの潮流は日本を含めて「植民地的近代化」を余儀なくされた諸民族の二つの課題に即したものであったようにおもわれました。
どちらの議論も日本帝国からすれば受け入れがたいものであったことには変わりなかったと思います。

三・一運動における「独立宣言書」

今日(20/6/11)の東北アジア史のオンライン授業がおわりました。本日の授業のなかで、興味深く聞いた内容は三・一運動にさいしてだされた「独立宣言」文の格調高さです。
李朝末期の歴史をまとめていて、やるせなく悲しい気持ちにとらわれていたなか、独立宣言書の内容に目をみはりました。

授業後の感想・意見欄の一部を引用したあと、独立宣言書の口語訳・現代語訳を二種類引用しておきます。(<>で区切った文は歴史学研究会編「世界史史料」の中略部です)

*****

<感想・意見欄>

ありがとうございました。
恥ずかしながら、三・一運動の独立宣言文、はじめてじっくりと読みました。19世紀段階とくに衛正斥邪思想中心の「かなしい」状態に対し、この文書の質の高さ、国際性や時代性を感じます。こうした思想が19世紀段階で広がっていたらと妄想したりしました。この文章には、「5000年の歴史」という辺りを除いては「小中華」的な意識が見えないのですが、それは日本や世界にアピールするための配慮とみるべきでしょうか、儒者が参加していないメンバーとのかかわりなのでしょうか。
また起草者のなかに、朝鮮(韓国)の政治文化をリードし、ある意味、イデオロギー的には以後にも影響を与え続けたとおもわれる衛正斥邪派の姿(私の勝手な思い込みかも知れませんが)が見えないのですが、かれらはどうしていたのでしょうか。また独立宣言「文」をどのように見たのでしょうか。義兵運動で壊滅、ないし国外での闘争に移行したのでしょうか。前にレポートした任文恒の父親のように隠遁と儒教的行事に沈潜していたのでしょうか。
(以下、略)

*****

wikisourceによる口語訳

宣 言 書

我らはここに我朝鮮が独立国であることと朝鮮人が自主民であることを宣言する。これをもって世界万国に告げ人類平等の大義を克明にし、これをもって子孫万代に教え民族自存の正当な権利を永久に保有させる。半万年歴史の権威によってこれを宣言し、二千万民衆の誠忠を合わせてこれを布明し、民族の恒久一の如き自由発展のためにこれを主張し、人類的良心の発露に基因する世界改造の大機運に順応併進するためにこれを提起するものである。これは天の明命、時代の大勢、全人類共存同生権の正当な発動であり、天下何者といえどもこれを阻止抑制することはできない。

旧時代の遺物としての侵略主義、強権主義の犠牲となり有史以来数千年で初めて異民族に束縛される痛苦を嘗めてからここに十年が過ぎた。我が生存権が剥喪されたのはどれほどか、心霊上発展が障礙されたのはどれほどか、民族的尊栄が毀損されたのはどれほどか。新鋭と独創によって世界文化の大潮流に寄与、補裨できる機縁をわれらはどれほど遺失したであろうか。

<噫旧来の抑欝を宣暢しようとすれば、時下の苦痛を擺脱しようとすれば、将来の脅威を芟除しようとすれば、民族的良心と国家的廉義の圧縮銷残を興奮伸張しようとすれば、各個人格の正当な発達を遂げようとすれば、可憐なる子弟に苦恥的財産を遺与しないようにするならば、子々孫々の永久完全なる慶福を導迎しようとすれば、最大急務は民族的独立を確実にすることである。二千万各個人が方寸の刃を懐にし、人類の通性と時代の良心が正義の軍と人道の干戈とで護援する今日、我が進んで勝ち取るのにどんな強さが挫かせられるだろうか、退いて作すのに何の志が展するだろうか。
丙子修好條規以来時々種々の金石盟約を食んだとして、日本の信の無さを罪しようとするものではない。学者は講壇で、政治家は実際で我が祖宗世業を植民地視し、我が文化民族を土昧人遇し、ただ征服者の快を貪るだけで、我が久遠の社会基礎と卓越する民族心理を無視するものとして、日本の義の少なさを責めようとするものではない。自己を策励することに急ぐ我は他を怨尤する暇はない。現在を綢繆することに急ぐ我は宿昔を懲弁する暇はない。今日我の所任はただ自己の建設にあるだけで、決して他を破壊することにあるのではない。厳粛な良心の命令によって自家の新運命を開拓しようとするものであり、決して旧怨や一時的感情によって他を嫉逐排斥するものではない。旧思想、旧勢力に覇靡されている日本為政者の功名的犠牲である不自然で不合理な錯誤状態を改善匡正して、自然で合理な政経の大原に帰還させようとするものである。>

当初民族的要求に出されない両国併合の結果が、畢竟姑息的威圧と差別的不平と統計数字上虚飾の下で利害相反する両民族間に永遠に和同することのできない怨溝を去益深造させた今来実積をみよ。勇明果敢をもって旧誤を廓正し真正な理解と同情とを基本とする友好的新局面を打開することが、彼と我が間の遠禍召福の近道であることを明知すべきではないだろうか。二千万含憤蓄怨の民を威力で拘束することは東洋の永久の平和を保障する理由にならないだけでなく、これによって東洋安危の主軸としての四億万中国人の日本に対する危懼と猜疑を濃厚にし、その結果として東洋全局の共倒同亡の悲運を招致することは明らかである。今日我の朝鮮独立は朝鮮人に正当な生栄を遂げさせると同時に、日本を邪路から出て東洋支持者としての重責を全うさせ、中国に夢にも逃れられない不安恐怖から脱出させ、東洋平和に重要なる一部をなす世界平和、人類幸福に必要な階段とさせるものである。これがどうして区々たる感情上の問題なのであろうか。

<ああ新天地は眼前に展開された。威力の時代は去って道義の時代が来た。過去全世紀に錬磨長養させられた人道的精神は、今や新文明の曙光を人類の歴史に投射し始めた。新春は世界に来て万物の回蘇を催促しつつある。凍氷寒雪に呼吸を閉蟄したのも一時の勢いとすれば和風暖陽の気脈を振舒するのも一時の勢いであり、天地の復運に際し世界の変潮に乗じた我はなんらの躊躇なく、なんら忌憚することもない。我に固有の自由権を護全し生旺の楽を飽享し、我に自足の独創力を発揮し春満てる大界に民族的精華を結紐すべきである。>

我らはここに奮起した。良心は我と同存し、真理は我と併進する。老若男女は陰欝な古巣から活発に起来して、万彙群象とともに欣快な復活を成し遂げる。千百世祖霊は我らを陰佑し、全世界気運は我らを外護する。着手はすなわち成功であり、前頭の光明に驀進するのみである。

公 約 三 章

一、今日我らのこの行動は正義、人道、生存、尊栄のための民族的要求であり、自由的精神を発揮するものであり、決して排他的感情に逸走してはならない

<一、最後の一人まで、最後の一時まで民族の正当な意思を快く発表せよ
一、一切の行動は秩序を最も尊重し、我の主張と態度をあくまで光明正大とすること>

朝鮮建国四千二百五十二年三月一日 朝鮮民族代表
孫秉熙   吉善宙   李弼柱   白龍城   金完圭
金秉祚   金昌俊   權東鎭   權秉悳   羅龍煥
羅仁協   梁甸伯   梁滿默   劉如大   李甲成
李明龍   李昇薫   李鍾勳   李鍾一   林禮煥
朴準承   朴熙道   朴東完   申洪植   申錫九
呉世昌   呉華英   鄭春洙   崔聖模   崔 麟
韓龍雲   洪秉箕   洪基兆 >

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3・1朝鮮独立運動100周年キャンペーンによる現代語訳

宣言書

わたしたちは、わたしたちの国である朝鮮国が独立国であること、また朝鮮人が自由な民であることを宣言する。このことを世界の人びとに伝え、人類が平等であるということの大切さを明らかにし、後々までこのことを教え、民族が自分たちで自分のことを決めていくという当たり前の権利を持ち続けようとする。
5000年の歴史を持つわたしたちは、このことを宣言し、2000万人の一人ひとりがこころを一つにして、これから永遠に続いていくであろう、わたしたち民族の自由な発展のために、そのことを訴える。そのことは、いま、世界の人びとが、正しいと考えていることに向けて世の中を変えようとしている動きのなかで、いっしょにそれを進めるための訴えでもある。
このことは、天の命令であり、時代の動きにしたがうものである。また、すべての人類がともに生きていく権利のための活動でもある。たとえ神であっても、これをやめさせることはできない。
わたしたち朝鮮人は、もう遅れた思想となっていたはずの侵略主義や強権主義の犠牲となって、初めて異民族の支配を受けることとなった。自由が認められない苦しみを味わい、10年が過ぎた。支配者たちはわたしたちの生きる権利をさまざまな形で奪った。そのことは、わたしたちのこころを苦しめ、文化や芸術の発展をたいへん妨げた。民族として誇りに思い大切にしていたこと、栄えある輝きを徹底して破壊し、痛めつけた。そのようななかで、わたしたちは世界の文化に貢献することもできないようになってしまった。

<これまで押さえつけられて表に出せなかったこの思いを世界の人びとに知らせ、現在の苦しみから脱して、これからの危険や恐れを取り除くためには、押しつぶされて消えてしまった、民族として大切にして来た心と、国家としての正しいあり方を再びふるい起こし、一人ひとりがそれぞれ人間として正しく成長していかなければならない。
次世代を担う若者に、いまの状況をそのままとしていくことはできないものであり、わたしたちの子どもや孫たちが幸せに暮らせるようにするためには、まず、民族の独立をしっかりとしたものにしなければならない。2000万人が固い決意を相手と闘う道具とし、人類がみな正しいと考え大切にしていること、そして、時代を進めようとするこころをもって正義の軍隊とし、人道を武器として、身を守り、進んでいけば、強大な権力に負けることはないし、どんな難しい目標であってもなしとげられないわけはない。
日本は、朝鮮との開国の条約を丙子年・1876年に結び、その後も様々な条約を結んだが、〔朝鮮を自主独立の国にするという約束は守られず〕そこに書かれた約束を破ってきた。
しかし、そのことをわたしたちは、いま非難しようとは思わない。日本の学者たちは学校の授業で、政治家は会議や交渉の際に、わたしたちが先祖代々受け継ぎ行なってきた仕事や生活を遅れたものとみなして、わたしたちのことを、文化を持たない民族のように扱おうとしている。彼ら日本人は征服者の位置にいることを楽しみ喜んでいる。
わたしたちは、わたしたちが作り上げてきた社会の基礎と、引き継いできた民族の大切な歴史や文化の財産とを、彼ら日本人が馬鹿にして見下しているからといって、そのことを責めようとはしない。わたしたちは、自分たち自身をはげまし、立派にしていこうとしていて、そのことを急いでいるので、ほかの人のことをあれこれ恨む暇はない。いまこの時を大切にして急いでいるわたしたちは、かつての過ちをあれこれ問題にして批判する暇はない。
いま、わたしたちが行なわなければならないのは、よりよい自分を作り上げていくことだけである。他人を怖がらせたり、攻撃したりするのではなしに、自ら信じるところにしたがって、わたしたちは自分たち自身の新しい運命を切り開こうとするのである。決して昔の恨みや、一時的な感情で、ほかの人のことをねたんだり、追い出そうとしたりするわけではない。
古い考え方を持つ古い人びとが力を握って、そのもとで手柄を立てようとした日本の政治家たちのために、犠牲となってしまった、現在の不自然で道理にかなっていないあり方をもとにもどして、自然で合理的な政治のあり方にしようとするということである。>

もともと、日本と韓国(注・大韓帝国)との併合は、民族が望むものとして行なわれたわけではない。その結果、威圧的で、差別・不平等な政治が行なわれている。支配者はいいかげんなごまかしの統計数字を持ち出して自分たちが行なう支配が立派であるかのようにいっている。
しかしそれらのことは、二つの民族の間に深い溝を作ってしまい、互いに反発を強めて、仲良く付き合うことができないようにしている、というのが現在の状況である。きっぱりと、これまでの間違った政治をやめ、正しい理解と心の触れあいに基づいた、新しい友好の関係を作り出していくことが、わたしたちと彼らとの不幸な関係をなくし、幸せをつかむ近道であるということを、はっきり認めなければならない。

また、怒りと不満をもっている、2000万の人びとを、力でおどして押さえつけることでは、東アジアの永遠の平和は保証されないし、それどころか、東アジアを安定させる際に中心になるはずの中国人の間で、日本人への恐れや疑いをますます強めるであろう。

その結果、東アジアの国々は共倒れとなり、滅亡してしまうという悲しい運命をたどることになろう。いま、わが朝鮮を独立させることは、朝鮮人が当然、得られるはずの繁栄を得るというだけではなく、そうしてはならないはずの政治を行ない、道義を見失った日本を正しい道に戻して、東アジアをささえるために役割を果たさせようとするものであり、同時に、そのことで中国が感じている不安や恐怖をなくさせようとするためのものである。つまり、朝鮮の独立はつまらない感情の問題として求めているわけではないのである。

<ああ、いま目の前には、新たな世界が開かれようとしている。武力をもって人びとを押さえつける時代はもう終わりである。過去のすべての歴史のなかで、磨かれ、大切に育てられてきた人間を大切にする精神は、まさに新しい文明の希望の光として、人類の歴史を照らすことになる。

新しい春が世界にめぐってきたのであり、すべてのものがよみがえるのである。酷く寒いなかで、息もせずに土の中に閉じこもるという時期もあるが、再び暖かな春風が、お互いをつなげていく時期がくることもある。いま、世の中は再び、そうした時代を開きつつある。

そのような世界の変化の動きに合わせて進んでいこうとしているわたしたちは、そうであるからこそ、ためらうことなく自由のための権利を守り、生きる楽しみを受け入れよう。そして、われわれがすでにもっている、知恵や工夫の力を発揮して、広い世界にわたしたちの優れた民族的な個性を花開かせよう。>

わたしたちはここに奮い立つ。良心はわれわれとともに進んでいる。老人も若者も男も女も、暗い気持ちを捨てて、この世の中に生きているすべてのものとともに、喜びを再びよみがえらせそう。

先祖たちの魂はわたしたちのことを密かに助けてくれているし、全世界の動きはわたしたちを外側で守っている。実行することはもうすでに成功なのである。わたしたちは、ただひたすら前に見える光に向かって、進むだけでよいのである。

公約三章

一、今日われわれのこの拳は、正義、人道、生存、身分が保障され、栄えていくための民族的要求、すなわち自由の精神を発揮するものであって、決して排他的感情にそれてはならない。

<一、最後の一人まで、最後の一刻まで、民族の正当なる意志をこころよく主張せよ。

一、一切の行動はもっとも秩序を尊重し、われわれの主張と態度をしてあくまで公明正大にせよ。>

朝鮮建国四千二百五十二年三月一日

朝鮮民族代表

<孫秉煕 吉全宙 李弼柱 白龍城 金完圭 金秉祚
金昌俊 權東鎮 權秉悳 羅龍煥 羅仁協 梁甸伯
梁漢默 劉如大 李甲成 李明龍 李昇薰 李鍾勳
李鍾一 林礼煥 朴準承 朴煕道 朴東完 申洪植
申錫九 呉世昌 呉華英 鄭春洙 崔聖模 崔麟
韓龍雲 洪秉箕 洪基兆>

現代語訳/3・1朝鮮独立運動100周年キャンペーン
※『週刊金曜日』第1221号(2019年2月22日)より転載。

3・1運動の「宣言書」の現代日本語訳の意義・東アジアの平和、人権、民主宣言~外村大・東京大学大学院教授による解説

植民地化以前の台湾「近代化」(メモ)

今回も、大学で受けている授業をもとに考えてみたものです。
授業で学んだことと、調べたこと、考えたことがごちゃごちゃになっていることをお許しください。
 またあくまでも自分用の備忘メモですので、ご承知ください。
おもに授業で学んだ内容はオレンジ色を用いて、区別していますが、完全に区別できたわけではありません。

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今回の台湾史の授業は19世紀の台湾の歴史に関わる内容であった。
その内容を下に、考えたことをまとめてみる。

1858年、列強からアロー戦争の結果、押しつけられた天津条約の開港場に台南・淡水2港が含まれ、これによって台湾は本格的に世界資本主義の枠組みに組み込まれる。(開港場でなかった基隆(鶏籠)・高雄(打狗)もそれまでから開国商人が出入りしていた関係で開港される)その際、主要な輸出品となったのが砂糖・茶・樟脳といった商品作物であり、両岸交易の主要な商品であった米とともに栽培が拡大する。
さらに基隆郊外で産出される石炭も輸出品として位置づけられる。(ちなみに輸入品は「アヘン!」と織物)
貿易の担い手は洋人(欧米人)の商人であったが、実際に栽培者と彼らを結んだのは「買弁ばいべん※」とよばれた商人たちであった。

こうした動きは日本の開港と似た事態が発生している。日本では外国人の国内旅行が禁止されたこともあって、「買弁」商人の役割を製糸業の産地などの在郷商人や横浜などの商人が果たした。また近年の研究では、中国商人(華僑)の役割を重視する研究もあるとのこと。
なお、台湾(中国)ではこうした商人が「買弁」という「外国の手先」とした差別的なニュアンスをもって捉えられたのに対し、日本ではこうしたニュアンスが少なかったようにみえる。(台湾では輸入品の過半数がアヘンであったのに対し、日本の商人は扱わなかったことなども関係があるか。また日本では貿易品を扱った特別な商人というより、こうした商人自体に「国民」的な広がりがあったからかもしれない)

※買弁…① 中国で外国資本と中国人とが取引きをする際、その仲介人となり、前者に従属しながら後者から中間搾取を行なった、中国の商人・商業資本。〔モダン辞典(1930)〕
② 植民地・発展途上国などで、外国資本と結びついて利益を得、自国ないし自国民の利益を抑圧する土着の資本、または資本家。
(コトバンク「精選版日本国語大辞典」より)

日本では、開港による輸出という刺激によって製糸業を中心に一挙に農村でのマニュファクチュアが広がったのと同様に、台湾では在地の有力者、さらに中堅の農民たちの共同経営による小規模な製糖所が次々と創業されるなど、貿易に対応しつつも従来の台湾資本が柔軟に対応していった様子をみられた。

日本において、開港と同時に急速に貿易額が拡大したのは、すでに流通・生産という経済的発展が貿易の開始というインパクトに十分対応できるだけの段階にあったと考えられる。
これをあてはめると、台湾においても、洋人たちが直接流通網の把握や農園の整備をしなくとも、商品作物生産に対応して自らを改造していける発展段階にあったことが予想できる。
ただ日本とは経済規模に大きな差があるため、一概に同一視することはできないが。

こうした開港時の台湾経済の発展の背景として、いくつか考えてみた。
①「台湾」の「開発」「植民」がアメリカや北海道に見られるような圧倒的に有力な「外の勢力(=漢人たち)」が先住民族を追いやる形ですすめられ、そこに、すでに高度に発展していた清朝期の経済制度(商品生産)や科挙や私塾などの文化をも移植したこと。
②台湾では早い時期から甘蔗や米が商品作物として作られ、日用品を本土から輸入するという商品経済が生まれていたこと
③とくに漢人は彼らの故地である対岸の福建省、福建省などの出身者による華僑の流通ネットワークの一環のなかに組み込まれ、東南アジアを含めた経済圏のなかの「植民地」として開発される性格を持っていたこと。つまり、漢人の「植民」自体が、ネットワークに「商品」を供給するという意味合いをもっていたこと。
④入植において墾戸とよばれた有力者が影響下にある人々を率いるという方法をとったことなどもかかわりがあるのかもしれない。
ともあれ、東南アジアや南アジアにおける「近代化」、欧米人による農場経営・インフラの整備といった方向性とはかなり異なっていたように見える。(こうした捉え方は変化しているのかもわからないが)

すくなくとも、19世紀中期において、台湾においては開港という事態に際し、ある程度主体的に対応しうるだけの内在的経済発展が存在していたことは明らかである。

1895年までの20年間、台湾は清のなかでも、経済発展が顕著な地域であった。浅野和生は、この時期の中国大陸における貿易額の平均成長率が3.4%なのにたいし、台湾は8%、清朝支配地の中では輸出超過が継続する成長センターであったと指摘している。

 主要な輸出品が茶や樟脳(原料はクスノキ)であることは新たな問題を生み出した。なぜならこういった作物は島西部の平地ではなく、少数民族の多く居住する山地と接続する丘陵部で作られ、こうした作物生産は少数民族の土地と資源を奪うことに他ならなかったからである。これにより、開発を進める漢人と少数民族とくに高山族とのあいだでの抗争が頻発する。こうした抗争は、大農園を経営する「豪紳」たちに有力な漢人のリーダーたちに武力を用いる武装集団のリーダーという性格を付加させた。そして、その活動によって少数民族、とくに高山族たちをさらに山岳部に追いやることとなる。

こうした点に見られる内在的な「近代化」と、日本植民地下での強要された面を強く持つ「近代化」、双方の関わりの中で、台湾の近代化を見ていく必要があると思われる。

1874年の台湾出兵は、アヘン戦争・アロー戦争に次ぐ東アジアの華夷秩序を大きく揺さぶる事件であった。
琉球王国の併合をめざす日本は、1871年に発生した台湾先住民による琉球・宮古島使節の殺害事件(「牡丹社事件」)への謝罪を清朝政府に要求、清国政府が先住民を「化外けがいの民」と釈明すると「化外の民」の住む地は清国領土外であるとして強引に出兵した。
長く東アジア世界を支配していた国際秩序(「華夷秩序」)は中国を中心とし、周辺になるにしたがって中国は影響力を減じていくという形であり、属国もかなり形式的な存在で実際の外交や政治にはあまり介入しない、それが本来の華夷秩序の立場であった。
台湾は、福建省の一部として位置づけられてはいたが、「何か起きたらそれに対応するという消極的な政策」をとりつづけ、漢人が禁制をやぶって開拓するという事実がおこってから、そこに役所を設置するという姿勢がつづき、台湾出兵で問題とされた島東部は翌年の1875年になってやっと版図に組み入れられた状態であった(浅野・前掲書)
しかし、華夷秩序の論理からみれば、それであっても皇帝にしたがう人民・領土であり、そのなかに皇帝の威がおよばない「化外の民」がいることは何ら不思議ではなかった。
日本がつけ込んだのは、東アジアの旧来の国際秩序と、欧米列強が持ち込んだ主権国家体制(「万国公法」体制)の間隙であった。主権国家体制では国家は国境線に囲まれ、そのなかにいるものは「国民」として国家が責任を負い、国境の外は無関係である。こうして「『化外の民』が住む台湾は中国領でない」という論理で出兵したのである。
台湾出兵、さらには1879年の日本の琉球併合は、清に「華夷秩序」が東アジアにおいても通用しないことを自覚させた。こうして清は「万国公法」的な位置づけによる本格的な台湾経営をはじめる。
砲台をはじめとする軍事施設が増設され、西洋の近代技術導入による石炭採掘、電報網などの整備、道路の開通、東部開発などが中国人中心にすすめられた。しかし清朝の官僚制の弊害と台湾軽視のなか、しだいに行き詰まりを見せる。

1884年、清仏戦争においてフランス軍は台湾へ侵攻、一時基隆などを攻撃するが、劉銘傳率いる清軍によって撃退される。1885年清は台湾省を設置され巡撫として劉銘傳(写真の人物)が任命された。
劉のもと、「新政」とよばれる改革がすすめられる。
土地調査とそれに伴うと隠田摘発、人口調査と税改革、鉄道・道路の建設、産業育成など、のちの日本統治下での改革を先取りするような先駆的な改革が進められた。
劉を「台湾近代化の父」とする記述なども見られる。
しかし、改革に対しての住民側の反発も強く、その成果が十分に上がったとはいえないまま、日本の植民地時代へと移行していく。
台湾の学会において、こうした植民地以前の経済、政治における「近代化」が日本統治下、さらには現在の台湾の発展の「台木」となったという主張も見られるという。
こうした改革が、日本侵攻に対するアジア最初の共和制国家「台湾民主国」創設の背景になったこと。さらに「『ボロ』を出させない程にブルジョワ的物的条件が朝鮮と比べて広汎に存在していたこと」や劉の下での改革などが「日本人地主の水田地帯における形成ならびに「東洋拓殖会社」の類似会社の台湾における成立を阻んだ」などの指摘もある。(戴國煇)

しかし、台湾の近代化が始まったのは、植民地期にあるのか、植民地以前に見られるのかという議論は近年においてはやや下火になっている。

たしかに、「近代化」は外圧・あるいは植民地化という外からファクターを重視すべきか、内在的な社会・経済・政治のファクターが強いのかという議論は、ナショナリズムというバイアスがかかりがちであるため激烈な議論となりがちであるが、両方とも重要であったという折衷的な回答しか提出できない不毛な議論となりがちである。両者が密接に絡み合い、それぞれの「近代化」をなしとげていったと考えるべきである。
戴國煇はいう。
当時の世界史的段階においても植民主義によって扼殺できない程に発展した厚い層の地主が存在し、資本主義への胎動をもった台湾経済といった『台木』があったからこそその後の接ぎ木効果が経済面において可能となり、国民所得の再配分に歴然たる民族的階級的差別等のひずみはあったが、『植民地的経済発展』の具現化も又可能となったのである。
(中略)
 植民地統治を受けたあらゆる国は何らかの意味でプラス、マイナス両面の植民地遺産を具える。マイナス面はさておき、経済発展にプラスと思われる遺産も、その存在や形成の程度は植民地統治前史とむ関係ではないし、ましてや植民地統治から解放された後、それらの遺産を守り且つ自らの経済発展の手段として活用していく主体はあく迄かっての一社である。」(『台湾史の探索』P55)

「近代化」は一般に考えられるようなバラ色のものではなく、一面では残酷で重苦しい側面を持つ。さらに植民地とされた地域は、植民地化という苦難がそれに付け加えられる。そのなかで、「近代化」がすすむ。植民地における近代は、こうした苦難の相乗効果のなかですすむ。

しかし、近代化の輝かしい面ともいえる「民主主義」「人権」といった面をみれば、かつてこうした苦難のなかで「近代化」をすすめた国でこそ、実態をともなって、花開いているようにみえる。
東アジアで、もっとも実態として民主主義が機能している国は、韓国であり、台湾であるようにみえる。こうした事実は、こうした「近代化」の逆説を示しているようにも見える。

<参考文献>
戴國煇「清末台湾の一考察」『台湾史の探索』(みやび出版2011)
浅野和生『台湾の歴史と日台関係』(早稲田出版2010)
遠流台湾館編著『台湾史小辞典』(中国書店2010増補版)
周婉窈『図説台湾の歴史』(平凡社2013増補版)

なぜ発砲できたのか~韓国映画「タクシー運転手」を見ました。

なぜ「なかま」に向けて銃が撃てたのか?

遅ればせながら韓国映画「タクシー運転手」を見ました。一九八〇年、韓国の光州で当時の全斗煥軍事政権が起こした大規模な住民虐殺事件=光州事件での実話をもととした韓国映画です。

韓国映画「光州5・18」 2007

10年ほど前、「光州5・18」を観て、なぜこんな事件のことをあまり知らないまま過ごしてきたのか、自分が深く考えていなかったということにショックを受けたことを思い出しました。

その時も、今回も、一番気になったことは、なぜ兵士たちが市民に発砲できたのかということでした。
同じ言葉を話し、自分たちのよく知っている歌を歌う人々(前回の映画では「国歌」だったと思います。今回はこのシーンはありませんでした。日本でいえば「ふるさと」?「翼をください」?みたいな感じかな。)。
反抗的な若者だけでなく、老人も子供も、自分たちの父親や母親のようなひとびとにもひとことで言うと「どこにもいるような普通の人たち」に、銃口を向け、殴りつけ(ここまではありえますがついには射殺するのです
もちろん、激しい葛藤を感じた兵士もいたでしょう。(今回の映画でも分かっていながら見逃す「石橋山の梶原景時」のような兵士を、それを表現していました)

それが軍隊の本質だ。軍隊は「国家の暴力装置」なのだから、と訳知りな言葉が聞こえてきそうです。たしかにその通りですし、私も同意します。しかし、それでも、なぜ?という言葉が頭をよぎるのです。暴力装置の暴発が革命を引き起こすことも多いのですから。 

朝鮮戦争のなかで起こったこと

 

ここ数週間程、韓国の現代史を学んでいるのですが、そのなかで気づいたのが、朝鮮戦争中の、あるいはその前後に多発した互いに虐殺しあうというあまりにも無惨な歴史の存在です。(例えば済州島四・三蜂起)。

朝鮮戦争の推移(帝国書院「図録日本史総覧」P295)

少しリアルに考えるため、朝鮮戦争のことを考えてみます。
戦闘の経緯をみていきます。1950年6月25日、開戦と同時に北朝鮮軍は三八度線を越えて一挙に南下し、ソウルを占領します。韓国軍は大統領の命令で牢獄にいた政治犯を全員殺害し、住民を置き去りにしたまま、避難民で殺到した橋を爆破して逃げ去りました。「北」軍の進軍は早く、韓国軍とそれを支援する米軍を主体とする「国連軍」は釜山周辺に押し込まれます。「北」の主張する「南進統一」が間近と思われました。「北」軍は、占領地域の住民を義勇軍などに組織して自らに協力させます。他方、地主や警察官・官僚などを反対派とみなし殺害する事件もおこりました。
9月15日、「国連」軍の仁川上陸作戦が成功すると状況は一変します。最前線にいた「北」軍は取り残され、ゲリラ戦に移ります。韓国軍は「国連軍」の支援のもと、敗残の「北」軍の掃討戦にうつります。義勇軍に参加した人はもちろん、「北」側を支持したとされる人々(支持者だけでなく、やむなく支持したものも、誤解によってそう思われたものも)もその一味とみなされ、つぎつぎと殺害します。

朴正熙は仲間を売って生きのびた!

朴正熙(1957年)

戦闘の各場面で、命の危険を感じた人たちは故郷を捨て「北」に「南」にと避難します。またどちらかの影響下に入ります。そして支持している側が故郷を制圧するともどってきて、自分たちを追った人々に報復します。自分の命を守るために仲間を売る者も現れます。軍事独裁政権下に韓国の経済発展の基礎をつくった朴正熙もその一人でした。朴正熙は韓国軍における南朝鮮労働党(=共産党)の秘密党員でした。捕らわれたかれは、なかまの名前を積極的に話すことで命を長らえます。こうした経歴をもつ人がより苛烈な迫害者となることは、古今東西を問わずよくあることです。

戦争に翻弄される人々

ソウルにもどった韓国軍は自らが見捨てたにもかかわらず、残されたソウル市民に疑いの目を向けます。「北」側に協力したではないか!と。そして親「北」派とみなした人々を殺害します。恐れた人々は「北」に向かって逃げていきます。
「国連」軍が三八度線を越えてさらに北上、平壌も制圧、中国国境に向かって進みます。今度は「北」で同様のことが起こったことはいうまでもありません。
ところが、こうした「国連」軍の動きに危機感を持った中国が、11月「中国人民義勇軍」という名で大軍を派遣すると、再び戦況が逆転します。「南」側についた「北」の人々は南に逃れ、逃げ遅れたものは迫害されます。12月には平壌が奪回され、翌1951年1月再びソウルをも占領されます。「国連軍」はふたたび体制を立て直します。3月にはソウルを奪還、その後、戦局は膠着化し、ほぼ現在の軍事境界線附近で両軍がにらみあい、南北間の人々の行き来は止まります。大量の離散家族が生まれました。

人々は命をうばいあった。

私たちはついつい軍の動きのみに目を奪われがちです。そのなかで多くの住民が、右往左往させられたのです。逃げ惑ったという言葉は妥当でないかもしれません。現実はもっと深刻です。人々は「北」か「南」かを迫られ、「敵」となった人とたたかわされます。「戦い」は戦場だけではありません。自分の生まれ育った場所であり、逃げ惑う人々への「山狩り」であり、それから逃れる恐怖であり、疑わしい村人への拷問や虐殺です。こうした「戦い」です。憎しみは憎しみを生みます。隣人への「恐怖」は「やられる前にやってしまえ」という感情を生み出します。親しい人の死や自らへの迫害は強い復讐心を生みます。命からがら逃げ回った体験はその原因を作った人たちへの怒りをうみます。怒りと恐怖、復讐心、暴力が暴力を生み、すべてを支配します。

「あの行為」を「正統化」するために。

光州事件 韓国の国旗を掲げ「民族民主化大集会」のため校門を出た全南大学の教授ら。「光州事件とは 1980年5月、韓国の街は戦場だった。」吉野太一郎huffpostNEWS 2015年05月19日以後、光州事件の写真はこのブログから

こうしたなかで発生したのが数多くの惨劇でした。その体験はあまりに生々しいものです。人々はその死骸とともに、「記憶」も秘かに深く埋葬しました。
耐えがたい体験を耐えるには自らの行為を正統化する「ことば」と論理が必要です。その正統化の論理が「アカ(共産主義者)」「スパイ」、「『北』の手先」「民族の敵」といった一連のことばです。このことばを用いることで「こうした連中だったから殺されて当然だった。自分たちの行為は『正義』なのだ」という理屈が成り立ちます。さらに、この論理は、過去だけでなく未来に向かっても投影されます。「共産主義者、スパイ、「北」の手先、民族の敵は殺してもかまわない」という風に。
重要なことは、こうした認定は「事実」である必要はないのです「事実」であるか厳密に追求することは「危険」です。それは自分たちの「行為」の「正当性」を問うてしまうからです
こうしてこの論理は、
共産主義者であろうが、なかろうが無関係に適用されました。
相手にこの言葉を投げつけ「敵」とみなせば、多少乱暴なことをしても自己正当化できるのです。自分たちの「暴力」を「正義」とできるのです。
韓国でこの論理を多用したのが朴正熙ら軍事独裁政権でした。「反共法」が軍事独裁政権維持の根拠となりました。

『北の手先』論が隠したもの

光州事件 https://www.huffingtonpost.jp/2015/05/19/kwangju-35th-aniv_n_7311100.html

この用法にはかれらにとって、もう一つの利点がありました。「北」の脅威、共産主義の脅威を強調することで、日本軍の軍人(正式には「満州国軍」ですが)であったという過去を後景に置くことが出来るという効果でした。かつての「親日派」に支えられた軍事独裁政権にとっては非常に都合がよい論理でした。韓国軍の中には旧日本陸軍の体質・DNAが濃厚にながれています。韓国軍は旧日本軍のOBによって組織されたと入っても過言ではありません。かれらが民族主義派などの軍事組織関係者を排除し、アメリカの援助の元に育成されたのです。日本軍のDNAは韓国軍がベトナムで犯してしまった残虐行為にもつながったとの指摘もあります。

「北の手先」は殺してもかまわない!

今回の映画の中でも、私服将校が「アカは裏切り者だ、殺してもかまわない」といういい方をしていました。自分や自分たち、軍隊や軍事政権に逆らう者は「アカ」であり、「『北』の手先」だ。だからどのように扱ってもかまわない。殺してもいいのだという論理が光州事件のあのシーンのなかには確かにありました。同様の理屈は「北」でも同じように用いられていることでしょう。

韓国に「民主主義の伝統はない」か?

ドイツのシュピーゲル誌に掲載された、光州事件で死んだ父の遺影を持つ幼児の写真 (上記 HUFFPOSTNEWS)より

しかし、韓国の人々は、こうした論理を克服しつつあります。この映画の存在自体がそうですし、朝鮮戦争前後に「秘かに深く埋葬された『遺体』」を掘り起こす取り組みがすすみました。それは「象徴」的な意味だけでなく、現実の「遺体」を発掘するとりくみでもあります。
また、日本帝国主義の植民地支配を告発する以上、韓国軍がベトナムで犯した残虐行為に目をつむってはならないという声も出てきました。
このように、韓国の人々は「民族の恥部」ともいえるさまざまな事件、いまだに生々しい傷口をを切り開き、ときには映像化し、意味を問いかけ、向き合おうとしています。わたしはこのような人々に敬意を表したいと思います。

韓国の歴史家が「韓国には民主主義の歴史がない」と書いていましたが、しかし私は反対です。私たちが一九七〇年代にみてきた「朴正熙の下にあったあの国」を、この映画が作れるまでにした人々、触れることの出来なかった傷に向き合える国にした、それは、光州事件に象徴される韓国の人々の民主主義をもとめる力の成果なのですから。

「朝鮮米はうまくて高い! ~「産米増殖計画」異聞

「朝鮮米はうまくて高い!」  ~「産米増殖計画」異聞

「朝鮮米はうまくて高い!」

本格的な歴史研究をして来た人の話を聞くと、知識の浅さを実感させられることが多々あります。そんな話をしたいと思います。
講義で聞いた一つの話を紹介します。
「みんなは、朝鮮米というから、質が低く、安い。だから労働者など低所得者が食べたもの、そのように考えるでしょう。実は、朝鮮米を一番消費したのは、『グルメ』の町大阪。消費高は大阪全体の米消費量の70%を超え、国内産より値段も高値で取引されたのです。朝鮮米は、質がよく、関西人の口に合う米でした。1930年代、「朝鮮米」はうまいと評判で、高値で取引されていた米だったのです」。

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帝国書院「図説日本史通覧」p224

戦前の「朝鮮米」は、高品質のわりに値段が安く、しかも品種がそろっていたため、人気が高く、他の国産米より高値で取引され、大阪市場では国産米を圧倒的にしのいでいたのです。
ちなみに、大阪市場における取扱高は1925(大正14)年以降、朝鮮米がつねに70~80%台を占め、10~20%台前半の「国産米」をはるかにしのいでいました
「日本が朝鮮の農業を改革し、近代化させてやったのだ」という声が聞こえてきそうです。たしかにそうした側面もあります。しかし話はそう簡単ではありません。「植民地農業」の姿がみごとに「刻印」され、日本内地の農業も苦しめたのです。

「産米増殖計画」とは

朝鮮での日本の農業政策としては、1910年代「武断政治」期の「土地調査事業」と、1920年代「文化政治」期の「産米増殖計画」が重要です。そしてこうした日本の農政によって押し出されるようにして日本や中国東北部(「満州」)への人口流出がみられる、いうのが一般的な説明です。私もそのように教えてきました。
一応、「産米増殖計画」についての私の説明を見てください。


産米増殖計画

「文化政治」を進めるとした日本・朝鮮総督府でしたが、実際には朝鮮の人をいっそう苦しめる政策をはじめています。

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物価の急騰と賃金の上昇 帝国書院「図説日本史通覧」P250

このころ、日本では都市化・工業化が急速に進行し、米の需要が急速に増えてきました。1918年には急激な米価上昇が引き金となって米騒動も起こりました。
このため、日本本土以外から米を買い集めようという動きが高まります。その最大のターゲットが朝鮮半島でした。
そこで朝鮮総督府がすすめたのが産米増殖政策です。朝鮮での米栽培を活発化させ、米の収量を増やし、それを本土に持ってこようと考えたのです。
中心となったのは、農業用水の整備と用地改良、さらに化学肥料などの利用です。しかし、こうした計画に総督府が金を出しますか?結局、計画は日本人がつくり、カネを払うのは地元の農民たち、できた米は日本人が持っていく。こうした負担は、没落しつつある朝鮮人農民の生活をいっそう苦しめました。
確かにこの政策によって朝鮮半島での米の生産量は増えました。ところが、もともと内地での米不足が出発点に始まったものであり、この政策で増えた分よりも日本に運び出す米の方が多かったのです。これにより米の値段が上がって、朝鮮の人は逆に米が食べにくくなりました。かわって中国東北部から大量の粟(あわ)を輸入されるようになりました。


あわせて、これにつづけ日本や「東北部」への人口流出についても触れています。一般的な内容は記したつもりです。

市民講座での話の中から

講義の数日前、市民講座で別の先生からも話を聞いました。
この先生の話をもとに、朝鮮での「日本式米作り」普及の話をしたいと思います。講座の中で先生は、産米増殖運動にかかわって、朝鮮での米づくりの指導にかかわった日本人の話を紹介されました。「美談」として扱われるたぐいの話です。
記憶とメモで再現しつつ、私が調べたことが考えたことを付け加えながら、見ていきたいと思います。

「脱穀や調整が『疎漏』」な朝鮮米

当初、朝鮮産の米は日本では売れ行きがよくありませんでした。なぜなら、質が不安定で、最初は小石なども混じっていて、商品化しても安値でしか取り扱われなかったからです。
資料でも、明治後期の朝鮮米について、品質は日本米と外米の「中間」、日本米の中等米に類似するが、「収穫後の脱穀や調整が『疎漏』であったため、三割の異物が混入していることすらあった」と記しています。(大豆生田稔「お米と食の近代史」)
日本への朝鮮米の輸出は日朝修好条規をうけた開国によってはじまります。凶作期に米などの穀物の流出を制限できるという防穀令が1889(明治22)年にだされたことで日本商人とのトラブルも発生しました。朝鮮米の流出が、朝鮮での飢えにもつながりました。
1882(明治15)年の壬午軍乱では、長い欠配の後、やっと支給された米に石が混じっていたことが軍人反乱の直接の原因となりました。(「朝鮮問題の深刻化と日清戦争」参照)日本との貿易開始に伴う米不足の中、支給されたのが安い「三割の異物が混入している」ような米であったという推測も成り立ちそうですね。
日本で、朝鮮米は、食用としてではなく、酒造用や家畜のエサ用として使用されることも多かったようです。

「日本式米つくり」の導入~「用水の整備」と肥料

朝鮮に渡った農業の日本人指導者が行ったことが、日本式米作りの導入でした。
朝鮮では、ため池や農業用水路が未整備で、天水(雨水など)に頼る水田も多く、畑で米を作る陸稲(おかぼ)も多いというように栽培の方法にばらつきがありました。そうした条件に合うような在来品種が用いられるため、米の品種・品質も雑多でした。こうした米を日本市場に送り出しても、低い評価しか得られないのはいうまでもありません。さらに、品質はよくても、脱穀や「石抜き」などの行程が不十分であったため、評価が低かったのは見てきたとおりです。
だから、日本における「高度な」農業技術を朝鮮に導入しようというのです
栽培の質を変えるため、日本式の水田が導入されます。まずため池や小規模な水利施設、王朝末の混乱で荒廃していた用水が整備されます。当初は日本人地主の土地が中心でした。さらに、水田を拡大するためには、降雨にかかわらず一定量の水が供給される必要があります。産米増殖計画がすすむなか、朝鮮人地主をもまきこむかたちで、水利組合が結成され、総督府の資金も借りながら、大規模な用水路が整備されていきます。

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帝国書院「図説日本史通覧」P231

実は、朝鮮人地主所有の水田の多くは既存の用水でかなりフォローできていたのに対し、新たな用水の恩恵を受けることが多かったのは日本人地主の田でした。にもかかわらず、水利組合の拠出金は折半されたため、朝鮮人地主と比べ、恩恵の多くは日本人地主が得たという指摘もありました。(許粋烈「植民地朝鮮の開発と民衆」)
総督府は早い時期から肥料の使用を進めています。1920年以前は自家製のものであったのですが、日本式の米作りには不十分であるということから1920年代以降は購入肥料が用いられ、朝鮮北部での化学肥料工場の発展と軌を一にして化学肥料も使用されるようになります。

「石抜き」と品質管理、品質検査

さらに指導者は朝鮮米の品質向上に努めます。
小石を取り除き、米の選別を厳しくチェックさせ、品質を一定させて売りに出すようにしたのです。
思わず「カムイ伝」の1シーン、江戸時代の百姓たちが、殿様に献上するため一粒一粒米を選ぶ場面を思い出しました。たしかに、初期は人力によるチェックもあったかもしれません。
しかし、それ以上に大きな役割をもったのが、大量に朝鮮米を扱った日本人米穀商人です。かれらは釜山の日本人が発明した「タービン式石抜唐箕」を導入するなどの技術改良で小石や不純物の混入を防止し、さらに最新鋭の精米装置なども導入して市場の評価を上げました。朝鮮総督府は厳格な品質検査を行ってこうした動きを援助します。こうして安い仕入れ値と、品質管理と品質検査を経た高品質の朝鮮産米が日本市場に持ち込まれ、シェアを伸ばしたのです。
この背景には、土地調査事業にかかわる強引な手段や朝鮮人農民からの購入によって獲得した安価な土地、必要経費の多くを朝鮮人側に転嫁したこと、労働力過剰からくる労働力の安さなど、コストの安さがありました。
こうした朝鮮米の流入によって日本産米は苦しいたたかいを強いられます。日本産米は、小規模農家でつくられるため米商人の監督が行き届きにくく、品質管理も検査も不十分であるため、品質も不揃いだったからです。九州産米はより高い品種の米を生産しようとし、北陸山陰産米では生産費を抑え、安さで勝負しようとしました。(この項、李熒娘「朝鮮植民地の米と日本」など参照)
日本人商人が、規格化された「籾」を安く仕入れ総督府の厳しい基準に合格すべく高度な技術で商品化した植民地産の「朝鮮米」を内地市場にもちこむことで、従来の低い技術しか持たない零細な生産者中心の国産米の価格が引き下げられるという、多国籍企業と国内の中小零細企業の関係を彷彿させるような関係です。では、朝鮮の人の食べる米は、どうなってしまったのでしょうか。

日本種の「奨励」

先生はさらにつづけます。
日本の米作りをそのまま持ち込んだということは、日本の種籾も持ち込んだということです。それまでの朝鮮米は品種が雑多であることが、日本の米市場における朝鮮米の評価を下げ、安価で取引される結果となっていたからです。
そこで、日本から持って行った品種を蒔かせることにします。日本から持って行った品種の米をもちいることで朝鮮米の質を統一しようとしたのです。
こうして「優良」品種が日本から持ち込まれます。ただ1920年代に導入された「新品種」は、「産米増殖」という目的とは異なって、収量の減少をもたらすものだったという研究もあります。収穫を増やすよりも、内地の米市場での評価、価格の方が重視されていたことをよく示しています。なお、1930年代になって多収穫品種が日本から導入されることで、生産量が急増しました

朝鮮在来種の「絶滅」

ところがそのままでは困った問題が起こります。せっかく評価が高い日本の品種を持って行っても、しだいに周辺の朝鮮在来の米と交雑してしまい、品質を低下させるおそれがあるのです。そうした米が増えると、市場での評価は下がってしまいます。
だから、朝鮮在来種の米の栽培をやめさせようとしたのです。ときには官憲の力も使って!
この指導者からしたら、質のよい米を輸出して高値で取引された方が朝鮮の人の幸福につながると考えたのかもしれません。
この点について、資料的裏付けを得ようと調べたところ、こうした事実は1910年代の武断政治期によく見られたことでした。当時の関係者が語っています。
在来種の絶滅と改良種たる穀良都、早神力種の普及に全力を注ぐことになり、同地の東拓(*東洋拓殖株式会社のこと)移民に採種●(●は「水」の下に「田」という文字、「dab」とよみ水田のこと、「田」が日本の「畑」をさす)をやらせ、又在来種の苗代を踏み荒しなどして徹底的に乱暴な奨励方針を断行したが幸い身辺の危害もなく、きわめて順調に普及して行きました」(「山口賢三回顧録」李熒娘前掲書より)というように、やっている本人が「身辺の危害」があって当然というような手法で「優良種」とされた日本品種が強要されました。こうして、日本種の耕作率は0.7%(1911年)から52.8%(1919年)、生産量に占める割合は5%(1912年)から70%(1922年)と急増しています。(*この二つの数字については出典が別です)

「近代的」「植民地的」な米作の導入のもたらしたもの

植民地支配は、朝鮮の米作を資本主義経済に適合した農業に変えました。それにより朝鮮の農地と米作技術が「近代化」され、収穫高の多く味もよい品種を普及し、収穫高も増えました。すると内外の産米の地位が立場が逆転しました。品質が安定せず、とくには小石も混じる国内産米とは違い、朝鮮米は高品質で小石などの混入も少ない高評価な米です。朝鮮米は、同一品種の米を大量にそろえることができます。しっかりした検査を受けた安心安全かつ安定した高品質の米を、大企業が大量に供給したのです。グルメの大阪人をうならせた朝鮮米はこのようにしてつくられました。
それは、それまでの朝鮮の農業のあり方を否定し、朝鮮産の「米」種すらも否定し、帝国主義本国・日本の市場が求める米を供給する植民地農業への移行でもありました
こうした政策は、朝鮮の農業や農民のあり方を大きく変えました。その費用の多くは朝鮮の農民が負担し、増産された米が日本に持ち出されました。
産米増殖計画は名目的には、第一の目標を朝鮮における食糧不足解消でした。しかし、実際におこったのは朝鮮での食糧不足解消でなく、日本市場で高値で取引される米を生産することでした。朝鮮内部で流通したのは、日本に移出された残りの米でした。こうして米の生産量は増えても、朝鮮人の米消費量は減少しました。日本の米市場で高値で取引されるような質の高さが、朝鮮米を朝鮮に残さなかったのです。石が混じり品質も安定しなかった安価な朝鮮米にかわって高品質で高価な朝鮮米が生産されたため、朝鮮米は朝鮮の人々が食べるためには高価になりすぎたのです。
こうして朝鮮人の一人あたりの米の消費量は年0.75石(1912~16の平均)から、1932~36年には0.41石へと激減します。米の生産量は1230万石から1700万石と増加しているのに。そして、米を食べられなくなった朝鮮の人々の腹を満たしたのが、「満州」(中国東北部)産のアワやヒエでした。こうして「満州」においても、朝鮮向けのアワやヒエの商品生産が活発化します。

「昭和恐慌」と日本への渡航者の急増

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こうした朝鮮における米作りが、日本の米市場と密接に結びついて軌道に乗りはじめたのが1930年代です。この年号で何か気づきませんか。1930年といえば、昭和恐慌の発生です。このため、米価は暴落、朝鮮米の価格も一挙に暴落したのです。さらに日本国内では、朝鮮米の大量流入が米価を押し下げているとして、朝鮮米の移入制限を求める声が農村各地から起こり、政府もそれにおされます。
昭和恐慌による米価など農産物価格の暴落は朝鮮の農村に大きなダメージを与えました。なぜなら、植民地支配下では、農民の土地に対する権利ははるかに不安定であったし、産米増産計画は用水や肥料などで農民の負担増を強いていたからです。高利貸資本も農村に深く食い入っていました。

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東京書籍「日本史A」p110

米価急落は零細農の経営を破壊、1920年代に増加の兆しを見せていた日本への渡航者=「出稼ぎ」「移住」は激増します。日本本土に渡った朝鮮人たちは厳しい労働・生活環境の中、しだいにそこに生活基盤を築き、朝鮮から妻子など家族を呼び寄せます。貧しい状態がつづく農村からは、先に渡った人たちを頼って新たな人たちも移ってきます。各地の「朝鮮人部落」が形成されました。
土地調査事業、産米増殖計画による植民地的・資本主義的農業の朝鮮半島への導入と、それにつづく昭和恐慌は朝鮮の農村を疲弊させ、多くの人々が、日本などに押し出され、在日朝鮮人が急増していきました。

追記:授業中継「『朝鮮経営』と在日朝鮮人の形成」では、在日朝鮮人形成につながる朝鮮人移民の増加を産米増殖計画とかかわって記していましたが、より決定的であったのは世界恐慌=昭和恐慌というべきでした。こうした点を踏まえ、訂正することにします。

<参考文献>
大豆生田稔「お米と食の近代史」(吉川弘文館2007)
李熒娘「朝鮮植民地の米と日本」(中央大学出版部2015)
許粋烈「植民地朝鮮の開発と民衆」(明石書店2008)
鈴木讓二「日本の朝鮮統治」(学術出版会2006)
河合和男「朝鮮における産米増殖計画」(未来社1986)

「追いつけ追い越せ」「開発独裁」「日本人の創出」~明治維新編によせて

「追いつけ追い越せ」「開発独裁」「日本人の創出」~明治維新編によせて~

 明治維新編をアップしました。

今の研究環境はすごい!

大学で課されたレポートとかかわって、自分の先祖につながる人を調べていました。すると、つぎつぎと面白い事実が出てきて、先祖の戸籍をあつめ、市史や県史をよみ、ネット上から国会図書館や郷土資料館などのデータにアクセスし、大学図書館からも史料を探し、なんてことをしているうちに、しっかり一ヶ月使ってしまいました。
しかし、いまの研究環境の進歩はすごいですね明治や大正時代の官僚名簿や、昭和初年の業界史や郷土史が国会図書館のネット上で簡単に見られました。著作権の関係で見にくい国会図書館の書籍も、大学図書館の協力で閲覧・複写できました。
台湾総督府で働いていた人物の足取りを検索エンジンでつかまえることもできました。
おかげで、名前しか知らなかった私の曾祖父の写真ゲットすることもできました。
こうしたことで、先祖調べにはまってしまい、一区切りつくまでと調べている内に、六月をまるっぽ使ってしまい、HPの更新ができませんでした。

近代日本のテーマ「追いつけ、追い越せ」

さて、「明治維新」の範囲、こんな無茶苦茶を書いていいのかと思いながら、作ってみました。
昨年の授業でやった内容を元に書いているのですがどうも大胆な仮説ばかりで、生徒にそんないい加減なことを教えていたのかというご批判もいただきそうですが、ご容赦ください。
見ていただければ分かりますように、近代日本のテーマを「列強に追いつけ、追い越せ」とまとめてみました。
その中心は軍隊の近代化から、しだいに条約改正交渉の基礎となる広義のインフラ整備へと移っていきます。
それを実現するための強大な権限をもつために、天皇の権威を利用したこと。
天皇の権威をにぎりつづけた大久保や岩倉をはじめとする少数のリーダーが開発独裁的に強引な欧米化政策を進めたという流れを中心にまとめています。この言い方は、数年前から始めた言い方です。

「開発独裁」ということ

開発独裁」などという大胆ないい方をつかっていいのかとも思いましたが、大学時代に受けた先生の授業で聞いた話を思い出し、ネットでも授業の実践例があったので使ってみました。
ついついソ連や中国の「社会主義」の方が似てそうだと知ってて脱線させました。
こんなふうに、実際の授業では、かなり大胆な話をするのですが、さすがにそれをおこして、ネットに載せるのは躊躇しました。まあ、しがない元高校教師の思いつきということで、大胆ないいかたをしています。
というのは、歴史の授業というのは過去のことのみではなく、現在の世界を分析する手段を生徒たちに与えたいと思っているからです。過去のこの事例と、現在のこの事例、こういう面では共通しているところがある」といった目を養って欲しいからです。
ある意味、高校教師は楽です。研究者の皆さんがいいたくてのど元まででかかっていても、しっかりした論証がなくていえないことをいってしまいます。ただし、「こんな風に考えられないかな?」という形で。
居直った言い方をすると、かなり大胆にいわないと生徒には歴史の意味も含めて、生徒には伝わらないのですよ。きっと、批判があると思いますが・・・。

「開発独裁」、辞書によると

もとにもどして「開発独裁」の件、ネット上の辞書を見てみると、以下のような記述があったので、ある程度安心しました。
<以下、引用>
「開発独裁」
経済発展の途上にある国の政府が、国民の民主的な政治参加を抑制しつつ、急速な発展と近代化を目指す体制。福祉や自由の尊重などの政策は後回しにして、工業・資源開発・土木・軍事部門に経済資源を優先的に配分し、国力の底上げを図ろうとする。第二次世界大戦後の韓国やフィリピン・インドネシアなどに見られたが、政権内の腐敗を招くことが多かった。広義には第二次世界大戦前のドイツや日本の体制、ソ連など共産主義国家の体制をも含む。
「デジタル大辞泉」
<引用終わり>

「国民」(=「日本人」)の創出という視点

 また、近代国家を形成するという点に関しては、「国民(「日本人」)」の形成という視点を重視しました。
昨年度の授業から、おっかなびっくりだったのですが、幕藩制(「ヨコのカベ」)と身分制(「タテのカベ」)という「二つのカベ」を取り除くことが「日本人」を形成する大きな前提になるという風に説明してきました。
今回は、授業中継としてまとめる中で少し深めてみようと思いました。ちょうど、本年度前期にうけた大学の講義の中でネーション(「国民」「民族」)の形成の話があり、ネーションの形成には公教育が大きな意味を持つというゲルナー「民族とナショナリズム」の説が紹介されたこともあり、日本ではどうだったのだろうということで、教育にかかわる内容も触れてみました。

ネーションとしての日本人の成立を追求すると、さまざまな意味での江戸時代のユニークさ・面白さがもっと際立ってくるような気がしました。

とおもって近年の歴史の研究書を見ると、1990年代以降の歴史学の世界の人気のテーマが「国民国家」だったんですね。自分の不勉強さを暴露してしまいました。

また思いつきで使った「二つのカベ」ということも、言い方は別として、研究者も使っていたので、これまたほっとしました。
 よく考えれば、教科書や啓蒙書、あるいはテレビなどを通じて、新しい研究を学べていたのだということを身にしみて感じた次第です。
< 注記>
本来なら7月中に出すべき内容の文章だったのですが、放置していたため、あとから出した自由民権編と順番が逆になってしまいました。ちょっと不細工になったことをお詫びします。