「朝鮮経営」と在日朝鮮人の形成

帝国書院「図説日本史通覧」p224
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「朝鮮経営」と在日朝鮮人の形成

おはようございます。
前回は、日露戦争の最大の結果は、朝鮮を植民地にしたことだという話をしました。今日は、そのあと朝鮮がどのような状態にされたのかを見ていきます。
このことを通じて、日本になぜ在日コリアン(韓国・朝鮮人)が多く暮らすようになったのかもみていきたいと思います。

朝鮮総督府の設置

朝鮮を植民地化したこと、日本政府はそれを「韓国併合」ということばで表現しました。
Japanese General Government Building.jpg

朝鮮総督府 (Wikipedia「朝鮮総督府」より)

ちなみに、それは、・・・1910年。明治でいえば明治43年、明治は45年までですから、明治の末期です。この年以降、1945年の日本の敗戦まで35年間、韓国(朝鮮)は日本の植民地支配下におかれました。朝鮮半島では「日帝35年」といういい方がされていました。今はどうでしょうか?
Masatake Terauchi 2.jpg

寺内正毅 初代朝鮮総督として武断政治を進めた。

韓国は「朝鮮」という地名で呼ばれるようになり、朝鮮総督府がその統治の中心となります。初代朝鮮総督には陸軍大将の寺内正毅が就任します。

武断政治

1908年の第三次日韓協約をきっかけに、解散を命じられた軍隊がボランティアの軍隊(「義勇軍」あるいは「義兵」といいます)として抗日義兵運動に参加、日本軍との間で戦闘を繰り広げたことは前回話しました。
義兵運動の高揚 帝国書院「図説日本史通覧」P230

義兵運動の高揚  帝国書院「図説日本史通覧」P230

旧式の銃しか持たない義兵たちは、最新の銃を持ち戦闘経験も豊富な日本軍の前に圧倒されていきました。しかし、日本の植民地支配に納得できない多くの人々がいました。ほんのわずかの人をのぞいて大部分がそうでしょう。ある意味「まわりはすべて敵」という状態です。
こうした状態で日本は朝鮮の植民地化を進めようとしたのです。だから軍隊を表に立てて、力で、支配を進めます。

朝鮮北部(咸鏡北道)の憲兵隊。警察隊と一緒に撮影されているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%B2%E5%85%B5%E8%AD%A6%E5%AF%9F%E5%88%B6%E5%BA%A6_(%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%B7%8F%E7%9D%A3%E5%BA%9C)#/media/File:Gendarmes_in_Korea_under_Japanese_rule.JPG

朝鮮の各地に、憲兵という警察的な役割をもつ軍の部隊を配置し、抵抗する者、反抗的と感じた者に対し、厳罰で臨みました。懲役や罰金刑のかわりにむち打ち刑を選択できるという前近代的な朝鮮笞刑令なども出されました。刑務所に入れるとカネががかるので、このような刑罰を設けたともいわれています。
軍事力で朝鮮の人々を押さえ込む、この時期の植民地統治武断政治といいます。

土地調査事業

この時期の政策で最も重要なのは土地調査事業です。読んで字のごとく、土地調査が名目的な内容です。問題は何を調査し、その結果にもとづき何をするのかが問題です。
東洋拓殖会社 東京書籍「日本史A」p93

東京書籍「日本史A」p93

何だと思います。・・・

土地の所在、どこにあるか。それから・・・広さ。それから・・・、持ち主、それ重要ですね。

太閤検地や地租改正とイメージがかぶりますね。
しかし、それをどのように、調査したのか?
検地や地租改正のときのように、わざわざいって調べたのか?大変だし、トラブルも起こりやすそうですね。
もっと簡単に、もっとずるいやり方があります。どうすればいいかって。
持ち主に申告させるのです。
日本の場合、持ち主が分からないと年貢や税金がとれないので困りますが、朝鮮の場合は困らないのです。
困らないどころか、分からない方がトクと考えたのです。
理由を考えながら聞いてください。
まず「土地の持ち主は○月○日までに申し出なさい」という指示がでます。
こうするとどんなことが起こりますか?
あなたたちが、こんな立札を見たらどう思い、どうしますか?
自分の土地だと正直の申し出る」それが普通ですね。
でも、ちょっと心配ではありませんか?
そうすると重い税金をかぶりそうで、ちょっと引きますね。どうしようかな?
あなたが、地主なら
貸している土地はすべて俺のものだから俺の名で申し出る
ということになって、この場合は、実際に土地を耕している人の権利は無視され、小作の人の立場は弱まりますね。
ちょっとずるい村のリーダーは
みんな、いちいち行くのは面倒だろうから、自分が一括して申し出ておいてやる」とかいって、他の人の土地も、村の土地も、自分の土地として登録する。こんなことも起こりそうですね。
朝鮮の人の中にも、日本のやりかたに便乗した人がいたみたいです。
こうして小作農はもとより、自作農も小作農とされてしまうこともありました。
気がつかないままに期限をオーバーした、申し出すれば、負担をかぶりそうなので躊躇したという例も考えられます。
村の共有地でだれものもかはっきりといえないような土地もありました。
こうして、最終的に申告されない、あるいは受理されない土地がでてきます
帝国書院「図説日本史通覧」P231

帝国書院「図説日本史通覧」P231

ここで、最初の問いに戻ります。
持ち主が「分からない」「申告されない」場合はどうなったのでしょうか。・・・
どうしたかな?
そう、総督府側は待ってましたとばかり容赦なく土地をとりあげます。そして多くを日本人地主に払い下げました。
最大の地主が国策会社である東洋拓殖会社です。
だから申し出なくてもよいし、実は申し出ない方がよいのです。
こうして、土地調査事業は、結果として朝鮮の農民の土地を奪うことになったり、小作農など貧しい農民を増やしたりました。
土地を離れて山の中で焼き畑農業で生活する火田民となったり、生活の手段を求めて中国東北部などに移り住んだり、日本へ移り住む人たちも現れてきます。

朝鮮会社令・朝鮮教育令

朝鮮会社令という命令が出され、朝鮮における会社設立は総督府の許可が必要となりました。ところが、朝鮮の人たちだけで会社設立を申請すると、待てど暮らせど許可が下りません。やむなく日本人と共同経営という形式をとれば、あっさりと許可するという運用がされました。このように朝鮮の人々の経済的自立を妨害する対応がされました。
朝鮮教育令では「教育勅語」にもとづく「忠良な国民」を育てる教育を進めるとして日本語教育などに力をいれました。多くの人はこれを嫌がって、こどもを塾などに通わせました。

三・一運動と「文化政治」

このような武断政治が破たんしたのが1919(大正8)年の三一独立運動です。
三・一独立運動(万歳事件)

三・一独立運動(万歳事件)

朝鮮全土の人々が「独立万歳」を叫んで各地で立ち上ったこの事件は、力による支配は朝鮮の人々の反発を呼ぶだけであることを示しました。
そこで総督府が打ち出したのが「文化政治」です。

齋藤実(朝鮮総督)  三・一独立運動をうけて、武断政治から文化政治への転換を図った。

 

武力による抑圧ではなく「文化の発展と民力の充実」をはかるとして、朝鮮語の新聞の創刊を認め、朝鮮人からも官吏を任用するなどの改善をはかりました。
とくに大きかったのが憲兵政治をやめたことです。といっても、憲兵に代えて警察官にしただけ、人数も増えたのですが。
(三・一独立運動については、「原敬内閣とヴェルサイユ体制」のところで、もう一度触れています。

日本人に「同化」するということ

朝鮮教育令を改正し、「内地準拠主義」として日本国内と同様の教育内容を教えることで、朝鮮人も日本人と同じだという同化政策を強化しました。そして「文明国日本」の一員になることをすばらしいと考えさせようとしました。
帝国書院「図説日本史通覧」P231

帝国書院「図説日本史通覧」P231

ここで考えて欲しいのは、日本人と朝鮮人を同じように扱うことは正しいのでしょうか、これは朝鮮を日本より一段低いものと思わせ民族性を捨てさせる政策です「同じように扱う」ことが常に正しいことではないことも知っておいてください。このことは、つねに大きな問題となり、現在でもふとしたときに表面化します。
このころ沖縄でも「日本(本土)への同化か、独自の文化の継承か」という対立が、標準語の強制、方言の禁止という論点を中心にして激しい論争となりました。

産米増殖政策

「文化政治」を進めるとした日本・朝鮮総督府でしたが、実際には朝鮮の人をいっそう苦しめる政策をはじめています。
このころ、日本では都市化・工業化が急速に進行し、米の需要が急速に増えてきました。1918年には急激な米価上昇が引き金となって米騒動も起こりました。
このため、日本本土以外から米を買い集めようという動きが高まります。その最大のターゲットが朝鮮半島でした。
そこで朝鮮総督府がすすめたのが産米増殖政策です。朝鮮での米栽培を活発化させ、米の収量を増やし、それを本土に持ってこよう考えたのです。
中心となったのは、農業用水の整備と用地改良、さらに化学肥料などの利用です。しかし、こうした計画に総督府が金を出しますか?結局、計画は日本人がつくり、カネを払うのは地元の農民たち、できた米は日本人が持っていく。こうした負担は、没落しつつある朝鮮人農民の生活をいっそう苦しめました。
帝国書院「図説日本史通覧」p224

帝国書院「図説日本史通覧」p224

確かにこの政策によって朝鮮半島での米の生産量は増えました。ところが、もともと内地での米不足が出発点に始まったものであり、この政策で増えた分よりも日本に運び出す米の方が多かったのです。これにより米の値段が上がって、朝鮮の人は逆に米が食べにくくなりました。かわって中国東北部から大量の粟(あわ)を輸入されるようになりました。

在日朝鮮人の形成

こうして、産米増殖政策は農家だけでなく朝鮮の人々全体を苦しめました。こうしたことを背景に、1920年代にはいるころから、多くの朝鮮の人たちが土地などなけなしの財産を売り払って渡航費を作り、日本へ出稼ぎにくることが増えてきます
東京書籍「日本史A」p110

東京書籍「日本史A」p110

 そして1930年の昭和恐慌以降、爆発的に増加します。
かれらは、土木現場や炭鉱などの危険な職場において低賃金、無権利状態で働かされます。そしてある程度の生活の基盤ができると家族を呼び寄せました。
とはいえ、多くの人は、激しい差別と低賃金の中、湿地帯や河原など極めて劣悪な環境の中でしか住むことができませんでした。そして、低賃金で、非衛生、危険で、厳しく過酷、一言でいえば多くの人があまりかかわりたくない仕事にかかわりました。
こうしてかれらは日本の中に、自分たちの生活基盤を築いていったのです。このようにして日本に住み着いた人たちの子孫が、在日コリアン(韓国・朝鮮人)の人たちです。
朝鮮のひとが大量に日本にやってきて、より安い賃金で、より過酷な条件で働くということは、同じような仕事をしてきた日本の人々にとって、自分たちの仕事が奪われ、賃金や労働環境をいっそう引き下げることになると感じさせました。さらに、朝鮮における独立への闘いの報道は朝鮮の人々への恐怖感をも生み出しました。
日本国内における朝鮮人への差別と偏見が広がりました。

現在における人種主義とヘイトスピーチ

このような現象は、現在、世界各地で発生している事態と重なって見えてきませんか。
現在、 アメリカではメキシコ人の移民が、イギリスでは東ヨーロッパなどの移民が、フランスではかつての植民地であったイスラム圏やアフリカからの移民が、EU全体では戦火を逃れたシリアなどの難民などが、流入しています。
これにたいして、移民や難民が自分たちの仕事を奪い、本来は自分たちに使われるべくお金を使い、自分たちがつくってきた秩序を破壊するという主張が広がっています。
アメリカのトランプ現象やイギリスのEU離脱はこういった主張が背景にあります。このように人種主義が台頭し、ネオナチと呼ばれる右派勢力が各国で力を伸ばしています。

日本でも、近年このような人種主義的な動きが広がりを見せ、朝鮮半島にルーツを持つ人々に対する差別を公然と叫ぶようになってきました。しかし、このような公然とした人権侵害に反対し抗議する人々も現れ、彼らを圧倒するようになっていきました。
またこのような人種差別は許されないことだということで、2016年、ヘイトスピーチ規制法も成立しました。
なぜ日本に在日コリアンの人がいるのか、その背景にあったものを是非理解するようにしてください。そのためには、歴史の知識が必要です。
本日は、このあたりで終わります。
それでは、ありがとうございました。
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