家茂と和宮のそれから


 家茂と和宮

日本で最も有名な政略結婚をさせられた徳川家茂と和宮の二人、それからどうなったのかという話をしたいと思います。
授業では、よくする話なんだけど、本論から離れそうなので、こっちで補足しておきます。
Kazunomiya.jpg

和宮(1846~1877)、家茂の死後「静寛院宮」と名乗った。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E5%AE%AE%E8%A6%AA%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B#/media/File:Kazunomiya.jpg

和宮が野蛮人と思っていた家茂君はとってもやさしいいい人だったみたいで、この二人は将軍家でもめずらしいとってもすてきなカップルだった、という話は授業中継でもしたとおり。

でも、なぜこんな風な仲良し夫婦でいられたのかなあ。

徳川家茂(1846~66)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E8%8C%82#/media/File:Tokugawa_Iemochi.jpg

よく考えると、これまでは、たとえ夫である将軍がいい人で、子どもの誕生こそがとか、大奥のしきたりがとか、なんとかかんとかまわりが口を出して、本来の夫婦らしい関係は作りにくかったんじゃないかな。
ところが、和宮の場合は相手が悪い。天皇の妹で、鳴り物入りで嫁いで来たんだから。
これまでの大奥のしきたりでは通用しない。
将軍としても大切にしなければならない存在だったし、相手の立場が高いだけに、まわりにとやかく言われることなく、奥さんを大切にできた。
だから、普通に家茂君の優しさが発揮できたのだろう。
ある意味、奥さんの立場が高かったからこそのいい夫婦になったのかもしれないね。
でも残酷なもので、家茂君は朝廷から「京都まで来い」と何度も呼び出され、天皇のガードマン?!をやらされたり、高杉からやじられたり?!、心労がたまって、長州との戦いのため大坂城にいたときに病気で死んでしまう。21歳。いまの数え方で20歳。
ストレスからか、スイーツが大好きで、虫歯で歯がボロボロだった。 それも病気の原因につながっているらしい。
死因は脚気(かっけ)。
脚気って知ってる。お医者さんが膝のちょっと下をトンカチみ
たいなものでトントンとたたくと、自然に足がぴょこんとはねる。あれが脚気の検査。今でもやってるのかな?
明治までは、これでたくさん死んだんだ。
明治時代の日清戦争や日露戦争の兵隊さんで、病死した人のかなりが脚気だったみたい。
どうしたら直るか。
僕だって、家茂君を直してあげられる。玄米を食べればいい。
脚気はビタミンB1の不足が原因なんだから。
庶民はみんな玄米だったのに、やんごとなき将軍さんは白米ばかり食べさせられていたのが原因の一つだった。
明治の戦争の時は、かの森林太郎(鴎外)先生が、兵隊には良いものを食べさせてやりたいといって、兵士に玄米ではなく白米を食べさせつづけたのが、原因だといわれている。彼は脚気は伝染病だと信じていたからだけど、善意が裏目に出たんだね。

徳川家茂の石塔(増上寺)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E8%8C%82#/media/File:TokugawaIemochi_grave.JPG

余計な話はおいておいて、昭和33年徳川家の墓地改修のために将軍たちの墓が開けられた。そのときに和宮の墓も開けられた。
すると、人々はそのお墓の中で一枚の肖像写真を発見した。
豊かな頬をした童顔を残した若い男性のものだった。
それは家茂の写真だろうと考えられている。
しっかり見る前に風化してしまったらしいけど。
ちょっといい話だね。
注記:
和宮の墓地改葬に立ち会った鈴木尚氏は著書で次のように書いている。
「棺内には朽ちた布片のほかは服飾品としては何もなく、紙袋入りの石灰が順序よく並んでいるだけであった。唯一の副葬品として遺体の両前腕部の間に、土にまみれた1枚のガラス板が発見されたが、当初、これを重要視するもののいないまま、研究分担者が研究室に持ち帰り、整理のため電灯の光にすかして見たところ、これが湿板写真で、それには長袴の直垂に立烏帽子をつけた若い男子の姿が見えた。ところが翌日、研究室で覗いてみたところ、写真の膜面が消え、ただのガラス板になってしまっていた。思えば誠に残念なことであった。」
(『骨は語る徳川将軍・大名家の人々』鈴木尚(東京大学出版会)p117)
また同書におもしろい記述を見つけた。和宮の顔の骨の形は夫家茂とそっくりだったのだ。以下、引用する。
「以上のように和宮の頭骨形質は、後期将軍である家慶、家茂と性差を除けばまったく同一の典型的な貴族形質を示していることになるが、和宮は両人と血縁関係が全くないだけに、この一致は甚だ興味がある」(同書P121)
さらに「現在日本人(女性)よりも江戸時代人(女性)よりも全体として将軍家慶に近似していることは明らかである」(同P121)
家慶は家茂の伯父さんでもある。ひょっとしたら、和宮は家茂と会ったとき、その顔を見て、兄弟のような、親近感を持ったのかもしれないね。16,8,8追記
注記2:
新たな話を聞いたので付け加えておく。脚気は当時「江戸病」と呼ばれていた。その背景には、白米を好む江戸っ子気質があり、転地療法が進められたそうだ。実際には、玄米やビタミンB1を含む食事をとることによって、病気の好転につながったのであろう。
ちなみに、徳川家の家慶、家定、家茂ともに死因は脚気であり、いずれも6月から7月(現太陽暦では7~8月)に死亡している。脚気は暑い時期に悪化する、むくみが出て心臓ショックがでて死亡することが多いようだ。
ちなみに、遺体は大坂から軍艦に乗せて運んだようだけど、夏の暑い時期だったので・・・・・。考えただけで気分が悪くなってきた。
遺体は芝の増上寺に土葬された。16.12.1追記
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