日本を変えた2つの「1868」年1月3日~「暦」をめぐる話
1867年12月9日でない「1867」年12月9日が存在する!
歴史の教科書には1867年12月9日ではない、「1867」年12月9日という不思議な日が存在します。なにを訳のわからないことをいっているのかと怒られそうですが、そんなことが存在するのです。
ちょっと詳しい人ならわかりますよね。明治6年1月1日以前、日本は旧暦で日付を表記していました。だから、ズレが生じていたこと。そして、面倒くさいものだから、教科書を含み多くの書物では、1868年=慶応4年または明治元年という等式で書きます。したがって慶応3年12月9日は「1867」年12月9日と書かれてしまうのです。
もし、その時代に飛行機があって、江戸からロンドンへ飛んだりしたら、約1ヶ月ぐらい時間を飛び越えたことになったのでしょうね。
今回も、大学の講義で学んだことを紹介しつつ、記していきます。
1868年1月3日~王政復古のクーデタ
さて、括弧付きの「1867」年12月9日、つまり慶応3年12月9日は、欧米では1868年1月3日でした。
その日、岩倉具視は大久保らと組んでクーデタを決行、天皇親政を宣言した王政復古の大号令が発せられました。そして、夕刻からは小御所会議が開かれ、岩倉や大久保、西郷と、山内豊信や松平慶永らとの間で、どなりあいをも含む、息詰まるようなドラマが演じられた日として知られています。(どこまでが本当か、近年は疑問視されていますが)これによって、旧幕府は日本の統治権を完全に失い、天皇中心の新政府が生まれました。
しかし、クーデタや小御所会議に参加したメンバーは、こうしたやり方に反対していました。大政奉還などにおける徳川慶喜の行動を評価し、慶喜が新政府にしかるべき地位で参加するべきだと考えていたのです。
この日以後、活躍が目立つのは、瞬発力の豊信でなく持久力の慶永らです。慶喜を新政府の中に組み込むための工作がすすみます。実は、新政府内で、慶喜を排除しようというのは、大久保ら薩摩、朝敵の汚名を着せられた長州、そして岩倉を中心とするごく一部の公家だけです。しかも、岩倉にしても、薩長が力を持ちすぎるのについては心配しています。こうして慶永らの工作が功を奏しはじめます。徳川家の責任を追及し、慶喜の官位と領地を朝廷に返還せよという「辞官納地」の要求は事実上骨抜きとなりました。さらに、慶永らは、慶喜を議定として参加させようと画策、ついに岩倉も折れて、慶喜が新政府に議定として参画することが内定しました。
もし、慶喜が新政府に入るとどうでしょうか。新政府の議定の大部分は徳川家を議長格にした公議政体論を求めてきた人たちで、江戸時代の上下関係が新政府部内でも反映することは、容易に想像がつきます。なんといっても将軍家の親戚筋(親藩)や将軍への忠義の強い大名たちです。参予も、そうした大名の家臣です。さらに、慶喜の頭脳明晰さと言説の鋭さ、かつて神童と呼ばれその能力はずば抜けています。多くの議定や参予が支持したでしょうし、さすがの岩倉も、大久保も、対抗するのは困難だったでしょう。西郷が小御所会議でいったという「短刀一本で勝負がつく」という事態が発生していたかもしれません。
これが慶応3年の年末、1868年の1月の状況でした。王政復古のクーデターは失敗に終わる直前でした。大久保や西郷、木戸といった連中は、それを覚悟していたかもしれない状況でした。
「1868」年1月3日~鳥羽伏見の戦い発生
こうした事態が急変したのが、年が明けて慶応4年の1月3日、今度はカギ括弧つきの「1868」(慶応4)年1月3日です。(カッコなしの西暦標記では1868年1月27日)
江戸では、薩摩側が行っていた江戸攪乱工作への反発から、庄内藩などが薩摩藩邸を襲撃、これが大坂につたわると、慶喜配下の旧幕府側武士たちがいきり立ち、「京都進発」を主張、慶喜もそれを認めます。
しかし、「京都進発」とは何でしょうか。戦争に訴えるのなら作戦を練って多方面から攻撃すべきだし、平和的に抗議したり、議定就任の請状を提出するのなら、少数で行くべきでした。どちらの方法でも旧幕府側の有利は動かない状況でした。
ところが、旧幕府側は最悪のやり方をします。時代錯誤の感覚が彼らを動かしていました。将軍の軍隊が「まかり通る」といえば、黄門様の印籠を出された武士のように恐れ入るという感覚でしかなかったかとしか思えません。当初より、戦闘意欲旺盛な薩摩・長州の武士たちは、江戸期のフツウの武士ではないことを理解できなかったのでしょう。こんな風だからこそ、幕府は滅びなければならなかったのかもしれません。
ともあれ旧幕府側はたたかいには不向きな隊列で京に向かい、薩長と衝突しました。鳥羽伏見の戦いです。慶応4(1868)年1月3日のことでした。旧幕軍の武士たちの奮戦もむなしく、旧幕側は敗れ、ショックを受けた慶喜は家臣たちを見捨てて、江戸へと逃げ帰ります。
逆に、戦闘状態になったことで薩長側は、旧幕府は天皇に楯を突く「賊軍」であるというレッテルを貼ることができました。そして自分たちのやり方を「天皇の命令」として押しつけることができるようになります。
慶喜のため尽力した慶永や尾張の徳川慶勝らも新政府側に立ち、慶勝は家中を大粛清、多くの武士が斬られます。
こうして、慶応3年末、1868年1月段階で、風前の灯火であった新政府が、旧幕府側の愚行のおかげで、「天皇の信任」という神話をもとに確立することになりました。
和暦と西暦、この二つの1月3日をターニングポイントとして、日本は新しい時代へとこぎ出しました。
1年は13ヶ月?~閏月の話
もうすこし暦の話をします。太陰暦は月の満ち欠けをもとに、新月から新月までを1ヶ月(約29.5日)とします。ですから1ヶ月は大の月が30日か、小の月が29日となります。月の満ち欠けと一致しますから、かならず15日は満月です。「○月1日は満月であった」なんて小説やドラマがあれば、明らかなミスですね。龍馬が殺害された日は旧暦の11月15日ですので、晴れていれば、満月が見られたはずです。
しかし、おかしなことに気づきませんか。1ヶ月が29~30日ならば、1年は355日となり、太陽暦の1年(365.24日)との間で、1年でほぼ11日のズレが生じます。
イスラム暦は、この点を一切気にしないので、季節と月の関係ががたがたになります。だから断食月(ラマダン)は夏にあったり、冬になったりと、いろいろ大変なのです。1年はもちろん365日ではありません。
ところが、中国など多くの国では、やはり季節と月がある程度一致した方がよいと考えました。したがって、月の満ち欠けを基本とする太陰暦を太陽の動きで1年を図る太陽暦で補正します。これが太陰太陽暦です。どのように補正するかというと、約3年に1回、1年を13ヶ月としたのです。そのプラスアルファ分の月を閏(うるう)月といいます。中国では殷の時代から始まっていました。
たとえば慶応4(明治元)年の場合では、4月の次に閏(うるう)4月という月がやってきて、その次に5月・6月と続くことになります。
季節とのずれが生じないよう、どこに閏月を入れるかが暦をつくる人たちにまかされます。
江戸時代には、江戸の天文方と京都との間でキャッチボールしながら暦を編成、それにしたがってつくられた暦を伊勢御師など認められた人たちが印刷、配布していました。
なお、戊辰戦争のことをしらべていたとき、本来なら閏4月の記事と思われるものが、4月と記されていたり混乱していて、ちょっと困ったことがありました。
2日しかなかった明治5年12月~大隈重信の「悪だくみ」
和暦(太陰太陽暦)と太陽暦の併存がなくなったのは明治5年12月のことです。岩倉使節団が海外に行っているどさくさ紛れに12月3日を明治6年1月1日にしてしまいます。この年の12月は2日しかなかったのです
では、なぜこの年、太陽暦に変えたのか。「グローバルスタンダードにあわせた」といいそうですが、実際はもっとせこい。明治6年が閏年だったせいです。
わかります?閏年は1年が13ヶ月。だから給料は・・・13回・・・けど、カネがない・・・。もうわかりますね。給料を13回払いたくなかったのです。しかも、「明治5年12月は2日しかない、それもいらないじゃないか!」ということで、2回分の給料をボツったのです。
考えたのは、当時の大蔵省のボス・大隈重信です。
改暦による混乱はなかったのか。先生の話によると、その通知はぎりぎり(11月9日)だったが、それほど混乱はなかった、百姓は旧暦で生きていたからとの話でした。しかし私には疑義があります。私が卒論で扱った金光教の教祖金光大神(赤沢文治・川手文治郎)のことばのなかに、太陽暦に伴う節句の廃止を「四季節句、五節句は天地のお祭り事。今は節句を廃いておる。すれば、神の祭り事もなし。神への祭り事なければ人への例なし。子孫危うし」として節句や暦を神の祭りと結びつけて捉え、その廃止は民衆世界を脅かすものとして受け止める視点があったからです。
また急に決まったため10月1日から暦の販売に当たっていた業者も、返品の嵐で、数百万部の廃品を抱えることになりました
時間を支配するのは誰か?~昭和から平成へ
青山忠正氏は次のように記します。
時を支配するのは、近代以前では「皇帝」あるいは「王」といった最高統治者です。東アジアならば、中華皇帝が定めた暦を授けられることを「正朔を奉ず」といって、その臣従下に入ることを象徴する意味を持ちました。その意味で、文明の認識基準をヨーロッパタイプに転換する際の、一つのカギに当たる大事件なのですが、一般には文明開化の一端という程度で、軽く見過ごされているようです。(青山忠正「明治維新を読み直す」清文堂2017)
金光大神は、直感的にこの象徴性を捉えていたのかもしれません。
こうした「支配者」による時の支配を私に強く感じさせたのが1989年1月でした。昭和天皇が死亡、1月7日をもって昭和が終わり、平成が始まりました。なぜ僕たちの時間が一人の人物の生死によって決められなければならないのか、強烈な違和感と不快感をもったことを思い出します
もう一つの「1月3日」~坂本龍馬が死んだのは満32歳の誕生日?
最後に、もう一つの1月3日の話をしたいと思います。歴史マニアの人たちにすれば、日本の歴史を変えたもう一つの1月3日といえるかもしれません。
それは1836年1月3日です。そんな日は知らないといわれそうです。これを、和暦に換算すると天保6年11月15日です。
小説などでは「彼が殺害されたのは奇しくも慶応3年11月15日、満32歳の誕生日のことであった」と記される人物の誕生日とされる日です。もうわかりますね。坂本龍馬の誕生日とされる日です。
しかし、ここにはいくつかの問題があります。
1つめ、殺害された日は資料的に裏付けられますが、誕生日を裏付ける史料はありません。記録がないのです。
2つめ、そもそも満年齢という考えがない。
3つめ、満年齢で数えるならば、1歳はおよそ365.25日で計算するはずなのに、西暦換算すると日数が足りない、などなど。
細かい論証は青山氏の前掲書をご覧ください。
<参考文献>
青山忠正「明治維新を読み直す」清文堂2017
広瀬秀雄「日本史小百科 暦」近藤出版社 1978
ブログ・映画「天地明察」と日本の暦について https://www.offinet.com/news/entry_73578.html
注記、明治6年の改暦のドタバタと、その責任者である大隈の話を書いたところ、その内容ドタバタが、前進座で芝居として上演されたとの話を聞かせて頂きました。ありました。「明治おばけ暦」脚本は、「ゲゲゲの女房」や「八重の桜」の山本むつみだったそうです。一応、リンク貼っておきますね。