「罪なきもの、まず石を投げうて」

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先に歴史を道徳に貶めてはならない!という文章をかきました。そして、次のように記しました。

現在、世界で過剰に「道徳」を歴史に持ち込む動きが広がっているように思います。
歴史上の人物について、人種差別主義者であったという面のみから捉えて彼らを全否定する動きです。コロンブスが、リー将軍が、チャーチルが、批判の対象として描き出されます。
ある人物を銅像にするということ自体が歴史を「道徳」として見ており問題があるのですが、逆に自分たちの視点だけから批判し、撤去をもとめることも気になります。
こうした動きを受け、映画「風と共に去りぬ」の配信が配信会社からいったんとめられました。しかし十分に注意を喚起した上で再配信するとのことです。こうした冷静な対応が必要だとおもいます。

もともとは韓国における反「親日派」キャンペーンへも疑問を呈する文章の中で、触れた内容です。こうしたキャンペーンとヨーロッパで起こっている銅像倒しがオーバーラップして仕方なかったのです。

「右派」として批判されそうですね。

個別の人種差別の「戦犯」探しをしながら銅像を倒しているひとたち、かれらには是非とも先住民を虐殺して建国したアメリカの「罪」、アメリカの「原罪」も問いかけてほしいとおもいます。
奴隷貿易を利用し、インドを犠牲にして産業革命を達成したイギリス資本主義の「原罪」をも問うてほしいと思います。

そして、それをもとに現在をどう考えべきなのか、歴史とどう向き合うべきと考えているのか、是非聞きたいと思います。

そうした視点は、アイヌモシリを奪った和人にも、アテルイを捕らえ、処刑したヤマトへの目ともオーバーラップしてきますね。

そうした歴史への「羞恥」をお互いにもたねばならないと思っています。

そもそも銅像なんてもの自体、人物に対する一方的な評価を押し付けるウザい存在なんだから、ぶっつぶせ!という態度、
これも嫌いではないけど、
「じゃ、立派な人っているの?」と、問い返したい気持ちが先にきてしまいます。
「立派な人の言ったことはすべて正しいの?」とも問いかけたくもなります。
かつて、朝日新聞が「空海の文章の中に差別的な表現がある」って、問題視したことを思い出しました。

「とにかく、歴史を、現在の価値観だけで一方的に非難するのは気に入らん」のです。
あかんたれの自己弁護なのかもしれません・・・。

先の文章は以下のようにまとめました。

私自身、歴史叙述において、善悪という道徳を語ることはときには必要だし、重要なことではあります。しかし「悪」として終わってしまえば、歴史叙述としては正しくないと思います。
歴史叙述には、悪や非道の中にも、客観的には歴史をすすめたことも認められるような、ある種のニヒリストの目が必要なように思っています。

ここに書いたニヒリズムを少しフォローしたいと思います。

私は、歴史を評価するとき、「汝らの中、罪なき者、まず石をなげうて」という聖書の言葉をつねに思います。

この言葉の前に来る部分は以下のようなものでした。

学者たちが、不倫の現場で捕らえられた女性をイエスのもとに連れてきて、イエスに一つの問いを投 げかけます。「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはど うお考えになりますか。」と。

これに対するイエスの答えがこの言葉でした。

私たちの中に、私たちの歴史に、「罪なきものはいるのでしょうか」。

「石を打つ」ことによって、さらなる罪を得るのではないでしょうか

人類は歴史の中で犯して愚行や許しがたい行為、それを繰り返してきました。

昨日見ていたテレビでは、かつてヨーロッパで多くの黒猫が大量に虐殺された話を紹介していました。魔女裁判の一環でした。

歴史を学ぶものは、こうした「闇」そして「罪」を暗い目でジッと凝視しながら、その中にも輝くものを見つけだそうとする。そして、今生きているものが、再び愚行を繰り返したり、さらなる「悪」に陥ることに警告を発する。そうしたものが歴史の使命であるような気がするようになってきました。

わたしには「不幸な女性に対し石を投げつける」勇気はありません。

「石を投げつける」人に、「それでいいの?」とは、声をあげたいのです。