「準備室にて」カテゴリーアーカイブ

100万アクセス達成のお礼

ありがとうございました。
ついにホームページ「日本近現代史の授業中継」の
総アクセス数が100万を突破しました。
ビクビクしながら始めたこのページですが、
このように多くアクセスしていただいたことは、
みなさまのおかげです。
ありがとうございました。
深く、深く感謝しております。
これを機会に、このページのリニューアルを進めたいと

準備をすすめており、正式なごあいさつもそれにあわせてさせていただきたいと思っております。

今後とも、小生の趣味にお付き合いいただき、
もしもいくぶんなりとも、みなさまのお役に立てたら光栄と思っております。
本当にありがとうございました。
そして今後とも、なにかのついでにでも除いていただければ
光栄です。

まずはご報告と、お礼まで。

日本近現代史の授業中継 店主

植民地での「悪行」から「連帯」を考える

植民地での「悪行」から「連帯」を考える

~韓国・天安の「独立記念館」の展示をみて~

 本日(20,6,25)の「東北アジア史」の受講終了。
テーマは戦後の東アジア世界。的確にまとめられ、なおかつ興味深いエピソードも満載。
かつてまとめた内容を再確認できる面も多かった。
今回、とくに興味深かったひとつは、受講生からの「敗戦後、国家総動員法違反者はどうなったのか」という質問。先生も虚をつかれたみたいで、調べてこられ、終戦後半年も経った46年2月に朝鮮人連盟が総動員法違反者の釈放を求め拒否された新聞記事を出してこられた。治安維持法違反者のうち政治家などは10月に共産党関係者と共に釈放されたが、宗教関係者などは釈放されないまま満期までほっておかれた例もあるとのこと、まだまだ知られていないことも多いことを知った。
 本日の「感想と意見」欄、何を書こうかと考える。そこで同じ国家総動員法とくに国民徴用令は、内地と植民地で違う意味を持ったのではないかと考えて見ることにした。
 以下、「感想と意見」欄に書いた文章をもとに、まとめてみる。

追記:2年以上前に書いた文章が、公開したつもりのまま、放置されていた。重要な内容を含んでおり、引用したい内容もあったので、手直しの上、公開することとした。(2022,8,15記)

*****

植民地の「悪行」から「連帯」を考える

本日の講義、ありがとうございました。丁寧で行き届いた説明でよくわかりました。
国家総動員法違反者さらには治安維持法違反者の釈放問題、気がつかない視点でした。

独立紀念館のジオラマの前で

国家総動員法違反の話を聞いて、天安の独立紀念館でみた展示を思い出しました。(もう20年も前のことなので、現在は変わっていると思いますが)

独立記念館の展示より

そこには、「日帝の悪行」が生々しいジオラマで再現・展示されていました。
とくに有名なのは、特高警察だか憲兵だかが独立運動家に加えた拷問のジオラマです。
このジオラマを見たとき、私はとっさにこの被害者は朝鮮の民族運動家であるとともに、虐殺された作家「小林多喜二」でもあると思いました。
更に思ったのは、なぜこんなものを展示するのかではなく、なぜ日本国内ではこんな重要な出来事を展示しないのかということです。
戦前、治安維持法体制下、国内・植民地をとわず、同じような拷問・虐待が各地の警察署で、憲兵隊で、行われていました。
同じようなひどいことが行われているのに、なぜ日本国内で展示されないのか・・。

植民地で行った残虐行為と同様の拷問が、朝鮮人に対してだけでなく内地人に対しても行われたこと、もっと両国の人びとに知られてよい、知られるべきだと考えました。

植民地における「悪行」を考える

朝鮮など植民地で行われた「悪行」は、3つの類型に分けることができます。
①日本国内・植民地を問わず行われたもの
②植民地のみで限定的に行われたもの
③同じ名目で行われたが、植民地という構造のなかで、より過酷に、より無配慮に実施されたもの
この3つです。

独立紀念館に展示されている特高警察や憲兵の拷問は、植民地だから行われたと考えがちですが、実は①ないし③の類型です。
日本国内でも同様の虐待が数多く行われました。
小林多喜二の虐殺がその典型です。
ただ、時期的には台湾や朝鮮で行われたことの方が早いと思われますので、逆輸入されたというべきかもしれませんね。

虐殺された小林多喜二の死体。太ももの内出血の跡が生々しい。https://ameblo.jp/kurogane-0306/image-12412224658-14285086569.html

ともあり、天皇制国家に敵対していると考えたものは、朝鮮の民族運動家であろうと、共産党員であろうと、自由主義者や宗教家であろうと容赦せず、逮捕、拷問にかけました。途中で死んでもかまわない…。
植民地であるからという以上に、国体に反するものは殺してもかまわない、それが天皇制国家の論理でした。
わたしはこうした「悪行」の表現として独立紀念館の展示を見ました。

「人民の連帯」を展望した近代史を

私は、支配民族による被支配民族への迫害という視点に加え、「人民の連帯」を展望した見方が必要だと考えます。
日本人が朝鮮人に拷問を加えた側面にあわせて、天皇制国家が、朝鮮人の独立運動家に、日本のさまざまな運動家に、拷問を加え、ときには命を奪ったことをあわせてつかむことで、より実際の姿に近づくことが出来る、私が考えたのはそういうことでした。

もちろん「帝国」の中心である日本(内地)と、周辺である植民地(外地=朝鮮・台湾等)では、「悪行」の現れ方は異なります。植民地がさまざまな矛盾が集中した場所である以上、「悪行」はさらに高い頻度で、さらに露骨に、さらに残虐な形で現れるのは当然です。あのジオラマが韓国(同様ものは「北」にもあるかもしれませんね)にあるのは、そのためでしょう。

法律は本国と同様に運用されるのか?

 右派の人たちかつては日本のという限定がつきましたが、近年は韓国の、しかも優れた業績もある研究者も…はいいます。

「朝鮮人強制連行」とよばれてきた諸現象は、戦時下のわずかな期間「国民徴用令」などの内地と同様の法令によって行われたのであり、それ以前の募集や官斡旋は「法的強制力はなく」「応じなければそれだけのこと」とか、慰安婦は民間の公娼制が軍事的に動員・編成されたものにすぎませんなどなど。(李栄薫編『反日種族主義』文藝春秋社2019)

このように彼らは植民地での「悪行」を①の枠組みで一般化することで免罪にしようとします。
これにたいし、なぜ内地の不利な法令だけを植民地におしつけ、明治憲法(とくに人権規定など)や選挙法は持ち込まないのかという国内法の選択的適用という法圏の問題からの反論もできるでしょう。しかし、今回はすこしおいておきます。

問題は、同じ法律だから本国も、植民地も同様に運用されるのかという前提にかかわってきます。
同じ法だからといって、内地と植民地が同様に運用されるはずはない。そのようなことは戦後生まれの私にさえわかります。
それに目をつむって、同じ条文だから同じように適用されると考えられるのは、よほど「よい時代に生まれた」のか。あるいは見る目がないのか、見ようとしていないのか、いずれかしか考えられません。
このようなことを韓国ですぐれた実績のある研究者までが主張すているのは驚くしかありません。ある意味、よい時代になったものだと思ってしまいます。

挺身隊として日本で働いた少女たち

先日、TBS「報道特集」で挺身隊の少女たちを集めるため、教師たちが甘言で少女たちを誘い、富山の工場での過酷な労働に参加させた事実を報道していました。学校自体にノルマが課されていたか、あるいは日本人教師たちの「愛国心」がこうした行動を取らせたのでしょう。その結果、挺身隊として日本ではたらいた経験が彼女たちを苦しめました。

元勤労挺身隊の韓国人女性が死去小学6年生で強制動員
アンさんは小学6年生だった1944年、富山市にあった不二越の軍需工場に動員され、強制的に働かされた。
不二越は朝鮮半島から勤労挺身隊を最も多く動員した企業とされる。2022.2聯合ニュース

(番組では指摘しなかったのですが、朝鮮では「挺身隊」と偽って慰安婦を募集した例が多かったことから両者が同一視される傾向がありました。それがはっきりと訂正されなかったことも彼女らを苦しめたと思われます。)

内地にも女子挺身隊はありました。しかし、小学校卒業の子どもを家族から切り離して、共同生活で労働させるという記録はあまり聞きません。
対朝鮮人にたいしてのみ、以後の「官斡旋」などの影響もあってか、内地の挺身隊と異なる運用がされたように思われます。
なお高崎宗司氏に「『半島女子挺身隊』について」という研究があります。

国民徴用令

国家総動員法にもとづき制定された国民徴用令を見ていきましょう。これは「国家総動員法に基づき 1939年7月7日公布された。戦時下の重要産業の労働力を確保するために,厚生大臣に対して強制的に人員を徴用できる権限を与えたもので,これにより国民の経済生活の自由は完全に失われた。(ブリタニカ国際大百科事典より)との命令です。
戦時中、とくに内地は労働力不足、物資不足が深刻で、労働力をかりあつめるための命令で、のちに植民地にも適用されました。総力戦体制構築の中、政府が労務動員計画をたて、地域に割当、労働者をかき集めさせる。ここまでは内地と同様です。
朝鮮では、政府の計画にともない朝鮮総督府がこの作業を実施します。ただ「国民徴用令」が内地で実施されたのは1939ですが、朝鮮に適用されのは1944年のことです。

「募集」の開始~1939年

1939年、内地で国民徴用令が出されたのに対し、朝鮮では労働者「募集」が開始されます。内地の労働力不足を補うために、炭鉱などの事業主が労働者募集の申請をして朝鮮総督府が認可、事業主が募集予定地で労働者を集め警察の許可を得て日本に連れて行き、働かせる。文書的にはこうなっています。
1939年段階、日本への出稼ぎ渡航を希望する朝鮮人たちはまだかなりの数に上っていました。朝鮮での生活苦は、新たな働き口を内地に求めさせました。それを押しとどめたのは、ほかならぬ日本政府です。朝鮮人の大量流入・定着によって日本人の仕事を奪うなどトラブルが発生することを嫌い、押しとどめていたのです。他方、労働力不足に悩む炭鉱主などは渡航制限の緩和を要求していました。
とはいえ、自分から渡航した朝鮮人も、賃金が安く、危険で、前近代的な労務管理がなされている炭鉱などに向かうことは少なく、条件のよい仕事を求めます。労働力が軍隊にとられることが多くなるにつれ、炭鉱などの労働力不足は進行していきました。
日中戦争が泥沼化、石炭などへの需要はさらに高まると、炭鉱など労働現場では労働環境を無視した操業がさらにすすみ、労働者不足はいっそう深刻化、朝鮮人労働者の移入を求める声にこうしきれず、商工省が内務省をおしきるかたちで朝鮮人労働者の「募集」がはじまりました。

外村大『朝鮮人強制連行』(岩波書店2012)ここでの記述はこの本を参考としました。

1939年段階での募集は、当時の干魃もあって順調に人びとが集まったといいます。朝鮮では労働力の過剰がつづいていました。こうしたなか、一年目の「募集」は順調でした。
しかし、朝鮮人を受け入れた事業所は、労働環境が劣悪で、募集内容とも大きく異なります。言語の違いによる誤解などもありました。こうして労働争議が発生し、官憲が「内鮮人争闘事件」と呼んだ日本人と朝鮮人との衝突事件も多発しました。1939年から40年にかけて338件が発生、23383人が参加したと記されています。また逃亡や紛争が相次ぎ、逃亡防止のための監視が強化されていきました。
こうした事情は朝鮮にも伝わります。日本で働くことを希望する人も、「募集」による渡航を嫌い、密航などで渡航、自分たちのネットワークを使い条件のよい働き口をさがそうとします。日本側はこれを阻止しようしました。
みすみす悪条件の「募集」で働きたい朝鮮人はいません。逆に日本人は「募集」という方法を使って条件の悪いところにいかそうとしたのです。希望者があつまらないなか、「募集」は強制という性格を強めますそこで募集主たちは、地域の役場と警察の協力を取り付け募集」活動をすすめるようになっていったのです。

「官斡旋」と強制連行

1941年、日本は対米英戦争に突入、労働力不足は一層深刻となります。そうしたなか1942年政府はこれまでの朝鮮半島からの労働力流入の抑制方針を完全に放棄、積極的に朝鮮人労働者の内地への導入を進めることとします。こうして導入されたのが「朝鮮総督府の強力な指導」による日本内地送出の要員確保、いわゆる「官斡旋」です。「募集」段階でも強制があったのですが、末端の行政では農業生産への影響、家族や地域の反発も考え躊躇もありました。ところが「官斡旋」は警察や翼賛団体、労務補導員などと協力し進めることが明記されます。行政側が動員すべき人数を決め、警察官や職員、企業や業界の関係者である労務補助員が各戸を訪問し協力を強要しました
こうした「募集」は毎年くりかえされていきます。「官斡旋」で日本に渡った人たちのようすはいろいろな形で伝わっていきます。「募集」という色彩はさらに薄れ、強制という暴力的手法が強化されました。

労働の現場で~「徴用」と「応募」

かれらが連れていかれた炭鉱などの現場での労働者の待遇はきびしく、差別的でした。

筑豊の炭鉱で働く朝鮮人労働者(飯塚市営霊園内の「無窮花堂」歴史回廊より)https://hidsby.blog.fc2.com/blog-entry-742.html

支配民族である内地人には過酷すぎる労働は割り当てない方向で運用されます。もっとも厳しい現場は連行された朝鮮人、ややマシな場所は自分から応募してきた朝鮮人、内地人でも被差別部落民とその他の人びとという形でのランク分けが厳然としてあったことは、以前より指摘されてきたとおりです。
さらに、内地人の中でも国民徴用令や学徒勤労動員で連れてこられた労働者と、正規労働者の間での待遇に大きな差があったことはいうまでもありません。
こうして内地で不足する労働力、とくに内地人には過酷すぎる仕事などを朝鮮人(さらには中国人)に肩代わりさせようとしました。
同じ朝鮮人でも「徴用」と「応募」の違いがあったし、内地の日本人の間でも「徴用」と「採用」の間では大きな違いがありました。

「強制連行」された李さんの話

あるとき、「強制連行」されたという在日コリアン一世のかたから、直接話を聞かせていただいく機会をいただきました。(のちに地元紙でも証言しておられました。)
記憶のあいまいな点などもあり、実際とは異なる証言が混じっている可能性もあったのですが、私が聞き・理解した形で掲げさせていただきます。

朝鮮南部(慶尚南道金海)の李さんは、村で農耕をしていた最中にむりやりにトラックに乗せられるという乱暴な手段で日本に「連行され」た。
その後、北海道の夕張炭鉱(新鉱)へ送られ、働かされた。そこは同じ炭鉱の中でも水やガスが出るもっとも危険で過酷な現場であり、働き始めた直後から連日、事故が起こるといった状態がつづき、このままでは殺されてしまうと考えて、脱走をはかり、成功した。
その後、先の方は名前を変えて、人夫を募集している現場~炭坑や土木工事現場などを転々とし、飛行場建設をしているときに終戦を迎えた。
最初の炭鉱のときと、応募して雇ってもらったときとの労働条件・待遇は天と地ほども違い、応募した現場では逃亡しようと思うことはなかった。日本で生活するうちに、生活の基盤が出来、朝鮮半島の様子も不安定になったで帰国を見合わせているうちに朝鮮戦争が発生、帰国できなくなった。

内地の「徴用」と外地の「応募」

朝鮮の労働者の「募集」や「官斡旋」の手法は、内地における満蒙開拓団の募集においても、隣組・部落会を通して大多数の国民に戦時公債を購入させたやりかたにも通じるものがあります。
とくに総力戦体制構築にさいしては、上意下達の行政期間を通して計画を立案・伝達し、それを地元の国防婦人会や隣組といった団体を通して組織し・強制していくというやりかたでした。その背景に、治安維持法などの弾圧法の存在、軍や警察といった暴力装置による強圧などがあったことはいうまでもありません。
ただ内地においては「お国のため」「戦地で戦っている兵隊さんに報いる」といった感情を利用、要請を拒むことは「非国民」として白眼視されるという心理的強制をない交ぜとしたソフトな強制であり、むき出しの暴力が行使されることはあまりなかったとはいえそうです。
他方、植民地では「愛国心」といった「緩衝材」が基本的には存在せず、「心理的強制」の度合いも弱く、強制する側もあくまでも自分たちよりも「一段低い」民族(もともとが非「国民」)という感覚からむき出しの暴力がみえかくれするハードな強制になりがちでした。差別が当然という意識は不当な政策に対する批判やチェックを届きにくくしました。こうして、人権上問題がある諸政策も安易に計画され、その実施にさいして強要や暴力が多用されます。異民族であり、自民族のほうが優秀であるというゆがんだ劣等民族であるという差別意識が、いっそう卑劣な行動に向かわせました。
こうして、内地と同じ法令、おなじ文面であっても、植民地で運用される場合にはおおきな違いが生じました。
(法的強制力がなかったから、朝鮮人には「自発的選択権があった」などという議論はあまりに現実をみないものといわざるをえません。こうした発言が韓国側からも出たことは驚くばかりです。)

慰安婦問題とかかわって

こうした手法は従軍慰安婦でも同様であったと思われます。この制度は「からゆきさん」の伝統を受け継いだ面もあり、1932年最初の慰安所開設にさいし、陸軍は「からゆきさん」の伝統もある長崎県知事に「慰安婦団」の派遣を依頼しています。

吉見義明『従軍慰安婦』 岩波書店1995

初期の、需要がまだ少ない時期、慰安婦たちは、おもに内地から、ついで植民地などから、主に娼妓たちが集められたと考えられます。史料に残る最初の「慰安婦」は内地にいた朝鮮人女性でした。
正式な契約にもとづくものもあったでしょうが、女性の弱みにつけ込んだ問題ある募集も多かったと考えられます。
需要が拡大するにつれて娼妓だけでは足らず、不幸な境遇の女性たちが、内地や植民地から送られました。いろいろな事情や思いをもって、自ら応じた人もいたし、だまされて向かった女性もいたでしょう。
戦線の拡大と軍隊の大量動員は、大量の慰安婦の需要を生み出しました。軍は、戦線の拡大によって必要とされる慰安婦の数を割り出し、要望してきます。
こうした需要をどのように賄うか、内地では法律などによって、年齢基準など多くの縛りがあり、乱暴な手段を用いれば世間の非難を浴びかねず、さらに慰安婦という存在が表面化すれば「皇軍」の威信にもかかわります。
いきおい、募集先は法的縛りが弱く、それを破っても内地からは見えにくく、非難されることも少ない地域へシフトしていきました。具体的には占領地そして植民地でした
軍から必要とされた女性たちの調達は軍の御用商人などを中心に、さまざまな人びとを通して進めたと考えられます。日本人や朝鮮人の女衒、人身売買組織、誘拐団など、反社会組織なども巻き込んでの「募集」がなされたと考えられます
募集人たちは「日本に挺身隊として働きに行く」「別の仕事の募集」など虚偽の話をしたり、両親などを借金によって債務奴隷化して子供を差し出させたり、甘言を用いて誘拐するなど、さまざまな手法を用いて、女性たちを集め、戦場につれていきました。
もともと軍の要望からはじまったことですので、付随して発生する犯罪や類似した行為は多くは問題視されず、ときには官憲や行政側の支援も与えたと考えられます。
ノモンハン事件に際して、関東軍はあらたに2万人もの「朝鮮人慰安婦」の募集を総督府に依頼し、それに応えた総督府は約1万人(8000人という説も)もの慰安婦をおくったといわれます。
このように「需要」が急増するなか、内地の、おもに娼妓にたいする「募集」から、制約がより少なく行政や官憲の協力を得やすい植民地へと「供給」の場が変わっていきました。さらに性感染症などの心配のある娼妓から一般の女性へと「募集」の対象を変化していきました。
さらに、規模が拡大するにつれて、犯罪まがいの手法も多くなっていったと考えられます。
行政や官憲、地域がどのように関与したか、たとえ直接的な関与はともかく、違法な行為を見逃したり渡航に便宜をはかるといった間接的な関与は明らかだと思われます。
このように、内地でははばかられるやり方が、植民地では半ば公然とおこなわれ、「募集」にかかわる問題事例も表面化しにくいところに植民地のありかたがありました。

帝国の「悪行」を統一的にとらえること

わたしたちは、戦前天皇制国家の凶暴さや残虐性を内地の問題として限定的にみたり、逆に植民地だけで問題が発生したと、両者の連関を考えないことが多いように思います。その結果、発生した問題を民族主義的にとらえがちになります。
独立紀念館の展示などをみると、残念ながら「日本人の残虐性」という視点で民族対立を煽り、韓国国民のナショナリズムをかき立てることで、日本帝国主義を全体像としてとらえることを困難にしているように思えます。

官憲によって虐殺された小林多喜二の遺骸を取り囲む友人たちhttps://ameblo.jp/kurogane-0306/image-12412224658-14285086569.html

戦前天皇制国家の凶暴さ残虐性は、日本人・朝鮮人双方に、さらに多くのアジア人などにも行使されました。多くの民衆は、こうした戦前の天皇制国家の共通の被害者という面も、もっています。
内地に存在していた「悪行」は、植民地という空間、世間の目などの制約が弱まる空間のなかではさらに巨大化・怪物化しやすく、問題は肥大化しました
本国と植民地を対立的に捉えるのではなく、戦前の天皇制国家のあり方自体の問題として、「帝国」というあり方として、本国・植民地の民衆を共に苦しめた存在として統一的に捉えること、そうした問題が植民地という矛盾が蓄積された場によって拡大されたと考える必要があります
さらにいえば、こうした「悪行」は戦場や占領地さらにおぞましい姿をみせることになります。

今回も、テーマとずれた内容になったことをおわびします。次週は日韓協定と日中国交正常化ですね。現在のさまざまな問題を考える上でも重要な問題だと思います、期待しています。
本日はありがとうございました。

<参考文献>

李栄薫編『反日種族主義』文藝春秋社2019
吉見義明『従軍慰安婦』 岩波書店1995
外村 大『朝鮮人強制連行』岩波書店2012
高崎宗司「『半島女子挺身隊』について」(https://www.awf.or.jp/pdf/0062_p041_060.pdf)

井上毅という人物~明治14年政変を中心に

はじめに

辻義教『評伝井上毅』(弘生書林 1988)を読んだ。
この井上毅という人物、明治政治史・法制史においてきわめて重要であるにもかかわらず、手頃な評伝がなく、おおよその概略をつかもうとして図書館にあったこの本を借りることにした。
(もう一冊、別の評伝も見つけたが、パラパラ見ているとあきらかに問題のありそうな記述があったので……。)
時間の都合もあり、飛ばし飛ばしではあったが、おおまかに井上の生涯をたどることができた。

井上毅という人物

まず井上毅という人物について「世界大百科事典」の長尾竜一氏の解説を引用する

井上毅(いのうえこわし)1844-95(弘化1-明治28)
明治期の官僚,政治家。大日本帝国憲法,教育勅語などの起草にあたったほか,明治10-20年代の法制・文教にかかわる重要政策の立案・起草に指導的役割を果たした。熊本藩士の出身。生家は飯田家で,井上家の養子となった。幕末に江戸に遊学,奥羽戦争にも従軍した。1870年大学南校中舎長となり,翌年司法省に出仕,72-73年渡欧し,主としてフランスで司法制度を調査した。帰国後,大久保利通,岩倉具視,続いて伊藤博文に協力して,枢機に関与した。とくに明治14年の政変では参謀として活躍,また元老院国憲按を却下して,プロイセンに範をとった君権主義的憲法を採用するよう岩倉に建言した。大日本帝国憲法起草の中心人物で,また,教育勅語の起草にあたっては,元田永孚の儒教的君主論を抑えて,勅語の中立性を確保し,権威そのものに高めるよう尽力した。法制局長官,枢密院書記官長,枢密顧問官を歴任した後,93年3月から8月まで第2次伊藤博文内閣の文部大臣を務めた。冷徹な政治的リアリストで,漢籍と西洋法制の両面に通じ,ボアソナード,レースラーらの協力を得て,日本法制の近代化に大きな功績を残した。儒学の非実用的性格を排し,尚武の気風と《韓非子》などの統治術を尊び,また政治における〈機〉を重視した。中江兆民は〈真面目なる人物,横着ならざる人物〉として評価している。終生,持病の結核に悩み,日清戦争の遂行に関与できないことを悔やみつつ世を去った。号は梧陰。[長尾 龍一]

辻の評伝を読んでの井上の勝手な印象は、職場にいそうな「デキる人」。有能な秀才型官僚・エリートの典型。
豊富な知識と形式論理で最適解、さらには次善の解までを提示し、NGはきびしく指摘する。
課題と条件にとっての最適な対応策を打ち出すAI的人物。
他方、「あなたが本当に実現したいことは何ですか?人生のテーマは?」などの質問には「自分の職務に関係のないことには応える必要はありません」と返してきそうな……。
有能であるが、夢の実現よりも自分の能力・有能さを発揮することに生きがいを感じるタイプ。自分が正しいと考える原則についてはとても頑固であり、その点については相手も忖度しない。自分がトップに立つことはあまり考えていないようなので、まわりの信頼感も大きいし、本人もぶれない。

明治憲法の起草と井上毅

井上の頑固さは、草案を作り、発布のときまで、強くかかわることになった大日本帝国憲法(明治憲法)制定の過程でとくに発揮される。井上は憲法を作る以上、日本は立憲政治として恥じることのないものでなければならないと考えていた。
欧米の政治理論に詳しい井上にとって、
立憲政治は君主権を制限し国民の人権を守るものでなければならないとの原則にきわめて厳格であり、
憲法における国民の人権規定や、国会は君主権を制限する機関
という立場を一歩も引こうとしなかった。
こうした点だけから見るとリベラルにも見える。
また外国からの憲法の直輸入を嫌い、日本における伝統的な政治のあり方にもとづいた憲法を制定しようとする。こうした国粋主義的な面もみえる。

井上の頑固さは憲法に内閣という条文を書き込まさなかったところで発揮される。井上は、第一次伊藤内閣がとっていた内閣の連帯責任制と総理大臣の優越権は、あらたに設けようとする憲法の天皇主権論とは非整合性になると強く主張する。それは大宰相主義であって幕府の再来につながると強く否定したのである。伊藤らも折れ、憲法の規定から内閣についての条文を消えた。
井上自身は第一次伊藤内閣のような総理大臣の優越性と連帯責任を否定したわけではなく、他の法令によって定めればよい考えていたとされる。
井上の主張によって憲法は
第55条国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス2 凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス
とのみ記され、憲法だけから見れば内閣は集団輔弼をとらず単独輔弼をとったと見える。明治憲法の問題点と指摘されるし、実際にこの規定により、閣内不一致が内閣崩壊につながり、少数の大臣の強硬姿勢が政変を引き起こす理由ともなる。井上の頑固さが引き起こしたともいえる。

教育勅語の起草

憲法制定と並ぶもうひとつの仕事が教育勅語の起草である。井上は気乗りする仕事ではなかったといわれる。憲法への姿勢から、国家は国民の「思想信条の自由」に口出すべきでないという立場をとっていたからだ。
ところが、儒教的イデオロギーによる国民の思想統制を強化したいしたいという内務省=地方官の意向、さらには天皇側近の元田永孚もとだなおざねらの強い意向(実は明治天皇の個人的意向でもある)、そうした意向を支持する当時の山県有朋首相芳川顕正文相、こういった人々の手によって天皇の名で提出される道徳上の文書(勅語)の作成が動き出した。
山県が最初に原案の作成したのは啓蒙思想家として有名であった中村正直である。しかし中村の草案は宗教的・哲学的色彩の強いもので、「滅私、国に奉ずるよりも人間としての完成に力点が置かれ…あまりに長文で…とても読み通し暗誦することはできな」いものであった。(山住正己)
井上は、中村の案は宗教家や哲学研究者からの疑問を生じる性格を持っており、天皇の考えとして発表する勅書としては問題が多い、「思想信条の自由」を定めた憲法との法的整合性に問題があるなど七点にわたって批判を展開した。
井上にとって、作成されべき勅語は、
憲法の精神と合致し、特定の宗教や哲学から距離を置くものでなければならず、なんといっても天皇の尊厳を傷つけるものであってはいけないと考えたのである。そのためには細心の注意が必要であるとしたのである。
このような文章がつくれるのは井上しかいなかった。
こうして「教育勅語」は、井上が元田や関係者の意見を聴きながら完成したものであった。
「教育勅語」の交付に際しても、井上は細心の注意を払う。そこでとられたのが担当大臣の副署が必要な「勅令」ではなく、天皇自身が個人的な意見表明した社会的著作物という形式である。
一見すれば見事な「解」であった。
しかし、この形式のため「教育勅語」は他の勅令とはことなる天皇自らが、直接国民に道徳の規準を示した天皇の思い「肉声」との意味合いを与えてしまったのである。

この結果、「教育勅語」(御名御璽がしるされた「謄本」)は天皇夫妻の肖像である「御真影」とともに、一種の「御神体」という性格をあたえられ、それをまつる神殿としての奉安殿などのなかに納められた。
さらに学校教材なども「教育勅語」の精神に沿うことが求められ、国民の思想統制の最大の武器となり、批判的な意見や扱いは「不敬」にあたるものとされる。

明治国家と井上毅

井上毅はこうした人物である。
かれは、政府の有力者から課題を与えられ、それに対する的確な回答を提出し続けることで、その地位を保ってきた
明治初年の江藤新平にはじまり、欧州留学後は私設秘書的役割を果した岩倉具視、清との外交交渉にさいする知恵袋・通訳官として用いた大久保利通であり、なんといっても憲法制定などにおける伊藤博文、こうした人物が井上を利用し、その力を引き出す。山県にも教育勅語で協力する。
明治憲法や教育勅語のみならず、井上がいなければ明治の日本が大きく異なったものとなったことは明らかである。
しかし、このように有能すぎる人物を並の人物が使いこなすのは困難である。伊藤も、憲法や立憲政体について余裕をもって議論したり使いこなせたりする自信は、憲法留学、とくにシュタインの講義を聞いてからと思われる。

現在なら、誰も使いこなすことができず、不遇をかこちそうな井上が、大きな仕事を増し遂げたのは、こうした時代であり、有力有能な政治家が存在したからである。さらに明治という時代、富国強兵という「国是」を守るという名目の下にかつての「志士」たちが巨大な権力をもつ明治国家であったからともいえる。
このような世界で、藩閥出身でないかれが藩閥勢力の求めに応じ、各時期にかれらにとっての最適解、ないし次善の解を提示し続けた。
原田敬一は、井上を「権力者による『共通の頭脳』として行動していた。誰に対しても自らの持つ能力を発揮するのは、官僚制の重要な能力である。近代国家誕生期に、まさにかれらはまさに有能な『官僚』としての位置を自覚していたのである」と評している。(『帝国議会誕生』)

ただ、こうしたタイプは自らの地位を脅かそうとする人、みずから同様にあるいはそれ以上に有能とみえたり、有利な立場の人間には激しい敵意をむけることがある。
また自分のやってきた業績・仕事への執着が強く、それを批判するものへの反撃も厳しい……。

ここでは、そうした井上毅の人物像を、1884年の明治14年の政変をめぐる動きの中から見ていきたい。

明治14年の政変と井上毅

まずは明治十四年の政変についての日本大百科全書における芝原拓自の説明から。

明治十四年の政変
1881年(明治14)10月、10年後の国会開設、開拓使官有物払下げ中止の決定とともに、参議大隈重信 とその一派を追放し薩長 藩閥政府の強化を計った政治的事件。自由民権派による国会開設請願運動の高揚のなかで、政府はこれを弾圧しつつも憲法制定・国会開設への決断を余儀なくされつつあったが、その内部では、参議伊藤博文を中心とする薩長系参議の漸進論と大隈の急進即行論とが対立していた。同年3月、大隈が政党内閣制を容認するような憲法意見書を単独で上奏するや、この対立はさらに激化した。そのうえ、北海道の開拓使官有物の有利な払下げ条件をめぐる開拓使長官黒田清隆と開西貿易商会の五代友厚 との薩摩閥同士の癒着が暴露され、民権派はじめ国民的な非難攻撃のなかで大隈もまたこれに反対するや、政府部内での対立は決定的となった。右大臣岩倉具視も伊藤と組んで井上毅にプロシア流の憲法構想を立案させ、大隈のイギリス的議会主義を排撃していたが、ついに井上をブレーンとして大隈放逐のクーデターを計画、岩倉・伊藤は薩長系参議とともに、天皇の東北・北海道巡幸からの帰京を待ってこれを断行した。この政変で明治憲法体制確立への第一歩が画され、下野した大隈の立憲改進党も含め、板垣退助 らの自由党を中心とする自由民権運動と薩長藩閥政府との対抗も新段階に入った。 [芝原拓自]

 この事件において、井上毅は岩倉と組んで大隈のイギリス的議会政治を退けプロシア流憲法実現を推進し、他方で伊藤とむすんで大隈放逐の陰謀をすすめた
この時期の井上の行動の背景には、イギリス流議会政治への危惧と同時に、ある人物へのつよいライバル意識、敵意が指摘される。その人物とは福沢諭吉である。井上は大隈の背後に、福沢の姿をみていた。

福沢諭吉と井上毅

福沢諭吉(1835*-1901)幕末-明治時代の思想家。

いうまでもなく、福沢は幕末から明治にかけての日本を代表する知の巨人であり、自由民権運動とは一線を画しつつ、藩閥政府に対しても歯に衣着せぬ批判をあびせかけた人物である。
門下生は言論界や経済界などに各界に進出した。この時期は矢野文雄や小野梓・犬養毅らが官界にも進出、大隈のシンクタンクとして活躍、岩倉の私設秘書的性格であったとされる井上とはライバル関係にあった。
福沢グループは1881年機関誌「交詢雑誌」に「交詢社私擬憲法案」を発表する。イギリスの立憲君主制をモデルとしたこの案はきわめて完成度が高く、すこしの手直しですぐにも採用できる質を備えていた。
これをみた井上は過剰ともいえる反応をみせている。
政変の直前に井上は伊藤に次のような手紙をおくる。
福沢の交詢社は、すなわち今日全国の多数を牢絡し、政党を約束する最大の器械にこれあり、その勢力は無形の間に行われ、冥々の中に人の脳漿を泡醸せしむ、その主唱者は充満の精兵を引て無人の野を行くに均し(伊藤宛M14、7,12)

たしかに自由民権派は最大の盛り上がりをみせつつあり、私擬憲法作成を運動する動きも活発化していた。井上は交詢社案がこうした運動に確かな質と論点を供給し、イギリス流の憲法をめざす動きが政府側を圧倒すると危惧していたのである。井上がめざすドイツ流の憲法制定と漸進的な国会開設にとってきわめて深刻な事態であった。

井上が知っていたかどうかは不明ではあるが、この時期、彼にとって気になる動きが水面下で進行していた。
民権運動のたかまりとそれに呼応したジャーナリズムの活発化に圧倒される状況を打破すべく、井上馨が伊藤博文・大隈重信とともに官製新聞の発刊を検討していた。その主筆として声をかけたのが福沢であった。
言論界に影響力のある福沢を自陣営に取り込むことで、一方では政府内開明派グループの影響力を在野の都市知識層へと広げることで民権派の影響力を分断し、他方で政府内の立憲政治に後ろ向きな勢力を牽制しようとしたのである。
井上馨は、福沢に憲法制定・国会開設を語り、さらに大隈や伊藤も合意している述べたという。福沢も心をうごかしつつあった。
伊藤も、薩摩閥を中心とする立憲政治に消極的な勢力と対抗するため、大隈や福沢と組もうとしていた。
1884年正月の熱海会議でも、伊藤は大隈らとともに立憲政体への移行を薩摩閥のボス黒田清隆に説いていた。
こうした動きを、井上毅がどこまで知っていたたか明らかでない。また伊藤と大隈、井上馨、三者の理解が異なっていたことものちに明らかになる。ともあれ、井上にとっては憲法制定・国会開設といった「大口の仕事の受注」を福沢一派にとられかねない危機であった。

「大隈意見書」の衝撃

矢野文雄(龍渓)1851*-1931 明治-大正時代のジャーナリスト,新聞経営者

この時期、太政官では左大臣・有栖川宮熾仁親王を主管として、国会開設(立憲政体移行)についての意見書提出をもとめていた。多くの参議が提出する(伊藤の意見書は井上に作成させている)中、提出が遅れていた大隈は、三月になり「他のものには秘密にする」という条件で有栖川宮に意見書(「大隈重信国会開設奏議(史料)」)を提出した。
その内容をみた有栖川宮は驚愕する。
年内に憲法を制定し、二年後に国会を開設、さらに議院内閣制に基づく政党政治をはじめるべきという急進的な内容であったからである。
大隈は主張する。国会の多数派が政権を獲得すれば、輿論も空論を唱えることができなくなり、責任をもった政治が行われると。
ちなみに、ゴーストライターは「交詢社私擬憲法」の中心メンバー矢野文雄でる。
大隈が、なぜ、どのような成算があってこうした行動にでたのか、なぜそれを伊藤博文や井上馨にも秘密にしていたのか。
のちに、大隈は伊藤らも合意してくれると思い込んでいたと弁明しているが。
有栖川宮は扱いに困り2ヶ月以上手元におき、5月やっと太政大臣の三条と右大臣の岩倉に見せることとする。
 ちなみに有栖川宮や三条さらには岩倉も、政治が薩長に偏することをきらい、非薩長の中心である大隈には好意的であったとされる。先の芝原の説明では、岩倉がクーデタの首謀者のように記されているが、岩倉は大隈追放には消極的であったと考えられている。

大隈意見書と岩倉・伊藤

岩倉具視(1825〜83)
当時、右大臣。大隈の即時国会開設案に危機感を感じ、井上毅に意見書を書かせ、自らの名で提出した。

大隈意見書に衝撃を受けた岩倉は、まず六月上旬にこの意見書を私設秘書的性格をもつ大書記・井上に見せる。エンジンがかかった井上の動きは速い。数週間のあいだに意見書を次々と岩倉の手元に届ける。井上がそれだけの緊急性を感じていたようにも見える。
井上は、さらに意見書を伊藤に見せることをすすめたとおもわれる。
それをうけ岩倉は、まず大隈に会い「自分の意見は伊藤とは異ならない」との言質をとった上で、伊藤に意見書をみせる手はずをととのえた。
伊藤が大隈意見書の内容を知ったのは六月末である。大隈を同志と考えていた伊藤は激怒、辞意を表明、驚いた大隈は弁解に終始、伊藤は岩倉の顔を立てる形でいったんは引くが許さなかった。

「岩倉憲法大綱領」

さて井上からすれば力の見せ場である。法律顧問のドイツ人ロエスレル(レースリーとも表記される)の協力を得ながら、大隈案のベースとなるイギリス流の憲法案とドイツ(プロシア)流の憲法との得失を検討、岩倉に「天皇の名で憲法作成の方向性を示す」ように勧めた。岩倉に宛てた意見書は、井上自身の手で整理しなおされ、岩倉の意見書として三条らの下に提出された。これが「岩倉憲法大綱領史料)」である。
井上によると
イギリス流立憲君主制・政党政治は日本の伝統や現実には適合しておらず、日本は王権の強いプロイセン(ドイツ流)憲法の方向性をめざすべきであり、大隈意見書がめざすような政党政治=議院内閣制ではなく、天皇の信任によって政治をおこなう、のちに「超然主義」とよばれる政治体制をめざすべきと主張した。更に踏み込んでそしてドイツ流の憲法をめざすなどの方針(18項目)を天皇の名で明示すべきとしたのである。
岩倉=井上にとってみれば、大隈=福沢がめざすイギリス流の国家像は、政党政治への途を開き、藩閥政治のみならず天皇制をゆるがしかねない危険なものだったのである
この「岩倉憲法大綱領」には大日本帝国憲法の主要なテーマのほとんどが含まれており、これ以後の制定過程は時間つぶしに過ぎないとの極論も存在する。

しかし「大綱領」の議論を詳細に見ていくと、面白いものが見えてくる。
大日本帝国憲法の中心部分、
たとえば「天皇の神聖不可侵性」や「天皇大権」とくに「統帥大権」、「二院制議会」「欽定憲法」といった特徴の多くが、実はライバルである福沢グループの「交詢社私擬憲法案」から借用されているのである。
坂野潤治は明治憲法の制定が遅れたのはこの類似点が明らかになることを嫌ったという。
福沢グループの憲法案の枠組みを利用しつつ、正反対の内容を打ち出した、それが「大綱領」であった。

「立憲政治樹立」の主導権をめぐる対立

井上が大隈意見書に強く反発した背景には、その内容と共に、福沢一派への強い対抗意識があったと考えられる。
大隈意見書が採択され、大隈主導で憲法制定・国会開設がすすめられた場合、その主導権とシンクタンクの役割を福沢グループとなる。過酷な外交交渉や激しい非難をあびつつ国家建設の第一線で働きつづけてきた井上からすれば、政府外から「気楽に」「無責任な」政府批判を繰り返してきた福沢らはそもそも不快に感じていたと考えられる。
そうした福沢グループが、自分たちが作ってきた国家を危機に陥れるような憲法案を制定し、やや軽薄なところのある大隈と結んでそれを実現しようとしたことに、井上はつよい反発を感じたことは容易に考えられる。
大隈意見書は、国家・政府を危機に陥れるものであると同時に、藩閥の知恵袋である井上個人の危機でもあった。あるべき将来像はイギリスではなくドイツにあり、国家にとって有益なアドバイスができるのは福沢でなく自分であると井上は示したかった。

井上毅と伊藤博文

井上は、非藩閥のリーダー大隈に甘い岩倉よりも、藩閥勢力内の憲法制定や立憲政実現には積極的であるが、大隈=福沢の危険性をも理解し、自分を立憲政治実現の中心として働かせてくれるであろう人物、伊藤博文に接近する。

ただ、伊藤は井上の考えをそのままうけいれる人物ではない。たとえ結論が同じであっても、最初に憲法の原則を天皇が明示するという拙速なすすめ方はすべきでないと考える人物であった。伊藤はこの有能な官僚のいうがままになることはない政治家である。とはいえ、大久保・木戸からドイツ流の憲法制定という大事業を託された伊藤にとって、やはり井上はかけがえのない存在であった。憲法制定を井上中心に進めることは既定のコースとなっていく。
かれらがめざす漸進的な立憲体制への移行を実現するためには、一方における大隈=福沢派の影響力の排除(イギリス流の憲法の否定)と、他方における薩摩閥を中心とする立憲政治消極論を押さえ込むことが課題となる。
この点で伊藤と井上の利害は一致していた。

開拓使官有物払下げ問題

こうしたなか、黒田清隆による開拓使官有物払下げ問題が発生する。この事件について、世界大百科事典における永井秀夫の解説をみることとする。

開拓使官有物払下げ事件
開拓使廃止の時期が迫った1881年に,開拓使の官営事業を官吏や政商に払い下げようとして世論のはげしい攻撃をうけ,払下げを中止した事件。藩閥政府攻撃が強まったため,明治14年の政変をひきおこした。開拓長官黒田清隆は,開拓使官吏の結成する北海社と,関西の政商で鹿児島出身の五代友厚らがつくった関西貿易商会とに開拓使官営諸事業を払い下げ,継承させようとし,8月1日政府は黒田の要求を認めた。払下物件は,当時建設中だった幌内炭坑や鉄道を除くほとんどの官船,倉庫,工場,鉱山などをふくみ,38万7000余円,無利息30年賦という破格の条件だったことから,薩摩閥の官僚・政商が結託して官物を私するものとして,はげしい憤激を呼んだ。自由民権派だけでなく,政府派の新聞や論客まで反対の立場を表明し,政府は苦境に立った。北海道でも函館の豪商はこの払下げに対抗して開拓使の官船・倉庫の払下げを出願し,函館区民の請願・建白運動がおこった。払下反対運動のかげに国会早期開設を唱える筆頭参議大隈重信と岩崎弥太郎(三菱),福沢諭吉の共謀援助があるという説が流布され信ぜられた。政府は10月12日払下げの中止とともに国会開設の詔勅を発し,あわせて大隈重信とその系統の官僚を免職にした。これを明治14年の政変という。[永井 秀夫]

  きっかけは開拓使の官有物払下げである。薩摩派のボスで開拓使長官・黒田清隆が膨大な税金を投入した財産を同じ薩摩の政商に極端に安い価格と条件で売却しようことがきっかけである。不透明なやり方に政府内外から反対の声が噴出したことはいうまでもない。しかし、この問題を最初に報道したのが福沢系の新聞(東京横浜毎日新聞)とされたことで、話は別の方向にそれていく。払い下げに反対する大隈が、福沢グループにリークしたとささやかれたからである。
裏で暗躍したのが井上といわれる。井上は福沢周辺から情報を収集、大隈が福沢や岩崎弥太郎と通謀し、政府転覆の陰謀を図っているという噂をつくりあげた。

明治14年政変

薩摩閥のボス黒田の危機は薩長藩閥の危機と感じた薩摩系有力者は長州派のボス伊藤のもとに結集、伊藤は藩閥のリーダーとして薩長の敵・大隈追放をすすめた。あわせて、それによって起こるであろう世論の反発に対抗するため、黒田に払い下げを断念させ、民権派が求める国会開設を認める。ただし十年後という中途半端な時期で。

計画は、7月にはじまった天皇の東北巡幸を利用してすすめられた。大隈や黒田・有栖川宮が随行し、さらに岩倉が東京を離れた間隙をぬって進められた。東京を離れていた井上馨のもとに井上毅を、岩倉の下に山田顕義を派遣、説得にあたる。東京では明治六年の政変同様、三条実美がつらい立場に追いやられていた。今度は、薩長の勢力に取り囲まれて。岩倉も覚悟を決めて東京にもどる。
クーデターは10月の帰着をまって決行された。大臣・参議連名の大隈罷免の上奏に天皇もしぶしぶ同意、伊藤自ら西郷従道とともに大隈のもとを訪ね辞職を勧告、黒田は天皇の命ならばと払い下げ中止を承諾し辞職、あわせて国会開設の詔勅が発表された。
政府内の矢野文雄や小野梓ら大隈=福沢系の官僚はつぎつぎと辞職、辞職しないものは罷免された。
伊藤=井上毅の完勝であった。

十年後の国会開設を公約する勅諭を起草したのも井上毅である。
井上はそのねらいを
①内閣の一致とくに薩長の一致を示す
②天皇の命令(勅諭)でなければ事態を鎮静できない
③急進派はムリでも中立派の士族は味方にできる
④反対するものは急進派と見なすことができる
と記している。
草案を受け取った伊藤は
「ことさらに躁急を争い、事変を煽し、国安を害するものあらば処するに国典をもってすべし」と詔勅には用いるべきでない脅しのことばをつけくわえた。

井上毅の勝利と伊藤博文

大隈の失脚は、井上が期待したように大隈=福沢のすすめるイギリス流の政党政治の否定と、岩倉=伊藤=井上のドイツ流の超然主義の勝利であった
この路線をとったことは、大隈意見書が記した政府を国民の支持の上に樹立するという立憲政体のありかたを捨てることであり、国民の信任が不十分な立憲政体(かつては「外見的立憲制」とよばれた)でよしとする路線の勝利であった。
非藩閥のエース大隈を切り捨てることは薩長閥がさらなる勢力拡大をすすめることでもあった
薩長閥は井上毅の後継者ともいうべき帝大卒などのエリート官僚と融合、権力を維持しつづけ、国会の外におかれた強力な執行機関=官僚組織を維持し続ける。これが伊藤がヨーロッパで学んだ事である。
国会開設後も、国民の信任のうえに政府を樹立することを拒否、さまざまな利益を供与することで国会議員たちを飼い慣らし、藩閥とその後継勢力が権力を維持し続ける
こうしたありかたが日本の政治の特徴となる。

作戦参謀ともいうべき位置にいたのが井上毅は、伊藤との関係を強めるとともに、政権最大のイデオローグとしての地位を確実なものし、明治憲法の第一次草案作成の栄誉を獲得し、憲法制定と憲法体制樹立の中心として名を残す。
井上のあらたな保護者となった伊藤ではあるが、有能すぎる井上をおさえようとしていたようにも見える。欧州への憲法調査には井上ではなく伊東巳代治を同行させ、シュタインの議論を聞いて「死処を得た」と狂喜したのも、井上と互角に対峙しうるだけの論点を得たこと面もあるように思われる。
憲法起草でも井上に独走させないよう、ロエスレルにも草案をつくらせ、原案作成の過程では伊東、さらに金子堅太郎も同席させている。伊藤にとって、井上をいかに使いこなすかは課題であったように思われる。

注記:この文章は「明治憲法の制定と憲法体制(1980年代後半~1889)~憲法と帝国議会(2)」を記す過程のなかでできたものです。よろしければあわせてご覧いただければ光栄です

 

【参考文献】
辻 義教『評伝 井上毅』(弘生書林1988)
梅溪 昇『増補明治前期政治史の研究 』(未来社1978)
稲田正次『明治憲法成立史(上)(下)』(有斐閣1960)
坂野潤治『日本近代史』(筑摩書房2012)など
山住正己『教育勅語』(朝日新聞社1980)
原田敬一『帝国議会誕生』(文英堂2006)
伊藤之雄『伊藤博文』(講談社2009)など
佐々木克『日本近代の出発』(集英社1992)

 

 

アヘン戦争はなぜおこったのか。

アヘン戦争はなぜおこったのか

はじめに~ある質問から

私が参加させていただいている市民講座、前回のテーマは「開国と開港」でした。
そこで、以下のような質問をいただきました。
それにお答えしたいと思います。

■イギリスが何故アヘンを中国に輸出したのか、今ではイギリス人意志(ママ)が大反対するでしょうが、民度が高くなかったということですか?

私は、どちらかというと人間をシニカルに見る性格があり、金儲けをしたいイギリス人がそもそも誠実な商売をするとは思っていないので、このように考えた事がありませんでした。
「いい人もいれば悪い人もいる」、あるいは「金儲けとなれば悪いことをする人もいる」といってしまえば、おしまいですが、それではあまり歴史的ではないので、

①当時のイギリスにとってアヘン貿易とはどのような意味があったのか、
②中国国内になぜアヘンが大量に流入したのか、
③なぜアヘン戦争が始まったのか、
④アヘン貿易、それへの取り締まりをきっかけとした武力行使(アヘン戦争)という「不正義」にたいし、イギリス国内はどのように対応したのか、

主にこの四点を話させていただきす。

なぜ「アヘン」に手を出したのか
~イギリス・紅茶ブームの陰で

一つ目は、イギリスにとってアヘン貿易の持っていた意味です。
18世紀後半に始まる産業革命はイギリスを豊かな国へ変えました。(その豊かさは貴族や中産階級に限定されており、並行して発生した農村での囲い込みなどもあり、大量の貧困な無産階級を生み出したのですが)
そして富裕層の間で流行したのが「紅茶ブーム」でした。
中国産の茶葉を用い中国製ないし日本製の陶磁器(chine)を用い、カリブ海沿岸の奴隷たちによって作られた砂糖を入れて飲む、これがイギリスの有産階級の豊かさのシンボルでした 。この風習は現在のイギリスでも定着していることはご存じの通りです。
1823年、インド・アッサム地方で新たな品種の茶の木が発見されるまでは、原料の茶はほぼすべて中国産でした。さらに産業革命で経済が急速に発展したとはいえ、18世紀末でも、多くの産業での中国製品が圧倒していました。

浜島書店『世界史詳覧』p213

それはイギリスが世界に売り込みたい戦略商品・綿織物でも同様でした。18世紀段階では、イギリスの対中貿易は大幅な輸入超過であり、対外収支の赤字は新大陸で手に入れた銀で支払われました。せっせと集めた銀が穴が開いたように中国に流出しました。

「欲しいものは何もない」~乾隆帝のことば

こうした事態に対応すべく、イギリスでは、貿易に対する清側の規制緩和と貿易港増加を実現し、イギリス産の安価で大量の綿織物など工業製品の輸出増を実現、貿易収支の改善し、イギリス産業のさらなる発展をめざそうという声が高まりました。

乾隆帝(1736~96)清第六代皇帝。清の全盛期を実現させた皇帝。

こうした声を受け、イギリス政府が派遣したのがマカートニーです。彼は、皇帝に会いたいというのなら三跪九叩頭皇帝との面会に際しては、3回ひざまづき,そのつど頭を3回,合計9回床につけるという儀礼という屈辱的な儀礼を求められるなどさまざまな苦労の末、1793年皇帝との謁見を実現しました。しかし、皇帝(乾隆帝)から受け取った書状には「中国は豊かな国であり何でもある、おまえたちがほしいというからお情けで売る事を認めているのだ。おまえたちから欲しいものは何もない。貿易拡大とは笑止千万である」との文字が記されました。1816年に派遣されたアマーストに至っては皇帝との謁見すら認められませんでした。
イギリスは正式なルートでのイギリス製品の販路拡大に失敗します

中国では、伝統的な知恵として、辺境で国家の管理の下に外国人との間で交易をおこなうという「互市」という制度をとっていたのです。
ところが正式な国交を求めようとすると、華夷秩序というたてまえ部分が表面化し、臣としての対応が求められることになったのです。

とはいえ、中国との貿易赤字=銀流出はイギリスにとって大きな懸念材料となり、さらにイギリス産業界にとっても、急速に生産力を増やしている綿織物などの輸出拡大への欲求はいっそう高まっていきました。

三角貿易~インドの購買力を高めるために

こうした貿易収支の改善の材料として導入されたのがアヘン貿易でした。

浜島書店『世界史詳覧』P213

イギリスは1773年インド・ベンガル地方におけるアヘンの専売権を、1797年には製造権をも獲得、その一部を中国でひそかに販売しはじめていました。
さきの皇帝の言葉にからめていうと、イギリス人が持ち込むもので中国(人)がほしがるものがアヘンでした。そしてその規模はどんどん多くなり、両国間の貿易収支の赤字はみるみるうちに縮小し、イギリスの銀流出に歯止めがかかります。

イギリスからの綿布の流入とインド綿業の破壊 浜島書店『世界史詳覧』p213

インドにおけるアヘン栽培はインドに新たな輸出産業を創出する事でした。アヘン貿易は、イギリス産業によって綿工業という世界に冠たる主要産業を破壊されたインドに新たな収益源を与える事になりました。アヘンを中国に売って得た資金が、イギリス産の綿織物などの購買力を高めました。
こうして戦略産業であるイギリスの綿工業が活性化されます。
アヘン貿易はイギリスの経済の重要な環となって来ました。
1834年、イギリス本国での自由主義化のなかで、イギリス東インド会社が統制下に置いていた対中国貿易の特許が失効、多くの冒険的な商人が中国貿易に乗り出していきました。輸出における主力商品がアヘンであったことはいうまでもありません。こうしてアヘン貿易は更に規模を拡大していきました。

脆弱な統治機構
~「密売」商人を取り締まれない清帝国

二つ目は、中国側の事情です。

浜島書店『世界史詳覧』p108

日本では人口増加率が急速に低下していった18世紀、中国では人口の激増が始まっていました。
その結果、中国人は条件の悪い土地、辺境などに可耕地などの生業をもとめ移住していきました。
大量の貧困層が出現する一方、それまでの住民との間との対立も発生しました。
さらに可耕地を求めて行われた乱開発は洪水や干ばつといったも引き起こし、各地で不穏な事態を引き起こしていました。
こうした事情はアヘンの中に救いを求める人々を生み出していました。

こうした人口増は、政府によって移住が制限されていた東北部(「満州」)や台湾などへの入植を活発化させ、新たなフロンティアとしていきました。そのことが先住民族との対立も引き起こしました。さらに華僑として東南アジアなどに移住する人も現れました。

18世紀はこうした時代でした。

清の支配。わずか100万人にもみたない女真(満州人)が約2億の漢人を支配する体制であった。
(浜島書店『世界史詳覧』p97)

また清朝政府の統治体制もアヘン拡散の背景となりました。
清朝は、ごく少数の満州人(女真族)が圧倒的多数の漢民族を統治するという国家でした。
したがって、その統治は末端に及ぶことは不可能であり、社会の最上層にいる満州人たちが、漢民族の郷紳や中間団体などの力を借り、租税を課すという仕組みがとられました。
そしてこうした中間団体の中には専売商品である塩などを扱う非合法なネットワークを形成するものも多く存在しました。
こうしたネットワークを経由して、やはり非合法であるアヘンが流通したのです。アヘンは従来の塩の密売組織などを通じて中国各地に浸透していきました。さらに民間社会から利益を得ていた清の官憲もアヘンの取り締まりに対しては消極的でした。こうした事情がアヘンの大量流入を実現させたといえます。

浜島書店『世界史詳覧』p

アヘンの流入とそれにともなう銀の流出は中国を混乱させていきます。
アヘン自体の生理的害悪はいうまでもありませんが、同時に、正貨である銀の大量流出は、デフレを発生さて中国経済を混乱させました。
非合法で危険な存在であるアヘンが公然と社会に広がっていくことは清朝政府の統治の問題点を否応なく見せつけました。
アヘンの害の広がりを通じて、清朝政府は主権国家的な枠組みで「中国」という存在を考えなければならない事態においこまれつつあったのです。
世界の中心であるべき中国が「国益」を問わねばならない事態におちいったのです。こうした問題に自覚的であったのが林則徐でした。

林則徐~主権国家としての対応であったが

なぜアヘン戦争が発生したのか、それが三つ目です。
これも中国側からの事情とイギリス側からの事情双方から考えることができるでしょう。
19世紀に入ると「世界の一体化」が一挙進みます。東アジアの諸国も、否応なく「世界=経済」の存在を意識、対抗して、自らを主権国家として認識しはじめます。
日本では、18世紀末以降、それまでの海禁政策を「鎖国」と再定義しなおします。林子平の「海国兵談」の出版などはその典型でしょう。ばくぜんとではあっても「国家としての日本」を意識する層もひろがりをみせはじめます。松平定信政権が、この本を危険視し出版を差し止めたことはこうした事態を逆方向から示しているようにも見えます。そして幕府の影響力も深く浸透していました。
これに対し、中国=清王朝は征服王朝という性格上、社会の中で発生した混乱をコントロールする手段を余り持っていませんでした。取り締まりは中間団体の場所で跳ね返され、民衆に直接届くきにくかったからです。こうした社会に規定されてアヘンの害は社会内部に浸透していきました。
清朝政府がアヘンの拡大のためとった政策は、
アヘン常用者を処刑するという厳罰と、開港場での貿易ルールを厳格化し国内への流入を避ける水際作戦です

林則徐(1785~1850) 清末の政治家。アヘン厳禁を主張、欽差大臣として1839年広州に着任し、アヘンの没収・廃棄、中国人密貿易者の処罰、イギリス商館区の封鎖などを強行した。アヘン戦争が勃発すると、動揺した清朝に解任され、さらにイリ地方に追放された。

取り締まりを命じられたのは西洋事情にも造詣が深かった林則徐です。
林は国際法に則って、アヘン貿易を規制します。
貿易港広州在住のイギリス商人を官憲に取り囲無というやり方で脅し、所有するアヘンを提出させ、それを破却します。
よく「焼却」したといわれがますが、実際は大きな池を作り、塩水のなかにアヘンを投げ込み、生石灰をなげこみ無害化するという手段がとられます。しっかりとした知識を持って対応した事がわかります。
さらに、アヘン貿易にかかわった商人は死刑に処するという通達もだします。こうした清の対応は、刑罰については問題があるものの、基本的には正当なものといえるでしょう。
イギリス側でもそうした認識もあり、本国の支持には困難もありました。そこでアヘン商人たちは、この出来事は「私有財産権の侵害」であると訴えます。また現地外交部は、イギリス人への中国の法の適用に強く反発しました。
治外法権が認められない事に反発したのです。

イギリス側がめざしたもの~貿易の拡大

こうしてボールはイギリスの側に投げ返されます。
イギリスにとって最大の問題は工業製品の輸出が進まない、中国市場への進出が思うに任せないことでした。産業革命の進展にともなって、急速に増加していく工業製品の輸出は至上命令でした。とくに世界一の人口をほこる中国市場への進出は、とくに綿製品の輸出はイギリス資本の夢でした。
しかし、こうした期待はなかなか実現しませんでした。

公行13行
浜島書店『世界史詳覧』P108

イギリス側は、その原因を
貿易港を広州一港しか認めず、しかも②公行という特許商人が貿易を独占するという中国側の外交政策に求めていました。③朝貢という東アジア的な枠組みの中で両国関係を処理しようとする伝統的な対応にも反発をもっていました。
イギリス人のアヘン商人たちは、国際法上も正当である中国側の取り締まりを、中国官憲がイギリス人を死刑という処罰でおどし、イギリス人の財産を没収・破棄したと本国に訴えました。清がイギリス人の生命・財産を侵害していると主張したのです。非合法な取引であるということはぼかしつつ。
アヘン戦争とは、イギリスが、中華思想に基づく清の態度を改めさせ、制限貿易を打破して自由貿易を強要し中国市場をイギリス資本に開放させるために、清によるアヘン貿易取り締まりを口実におこしたものでした。

「イギリスの永久の恥さらし」
~不正義の戦争とわかっていたイギリス

最後に、国際法に反したようなこうしたイギリスのやり方を本国はどのように考えていたかをみたいと思います。
アヘンの蔓延はイギリスの、ヨーロッパでの国内問題でもありました。コナンドイルは名探偵のシャーロック=ホームズをアヘン(モルヒネ)常用者として描き出し、ブロンテの『嵐が丘』の登場人物の中にはアヘン中毒者をおもわせるものがいます。このようにアヘンは世界各地に拡散されていきます。

アヘン靴の様子

こうした状態ですから、アヘン密輸を取り締まった清と戦争をすることには、強い異論が生まれます。
イギリス国内でも、クェーカー教徒やイギリス国教会、また議会内のリベラル派などが、道徳的理由、ないしアヘン貿易が綿製品の市場を狭めるという経済的理由から、アヘン貿易、またアヘンを契機とする中国との戦争に反対してい」ました。とくに後の首相グラッドストンは「イギリスの永久の恥さらしとなるべき」との反対論を展開しました。
しかし「対華貿易を安定した基礎のうえに置くのに必要な諸条件の獲得」を図るべきとのアヘン商人や資本家に押される形で、わずか9票差で可決、開戦となりました。

アヘン戦争(1840~42)

とはいえイギリス政府もアヘン貿易を立派な事とは思っていないのも確かだったようで、アヘン戦争の結果、結ばれた南京条約および付属条約において、アヘン貿易については触れられていません
これ以降もアヘン貿易は密輸の形で、実際に新たに開港場となった上海を舞台に繰り広げられます。

アヘン貿易が公認されたのは、アロー戦争(第二次アヘン戦争)の最中に結ばれた1858年の天津条約のことです
イギリスがアヘン戦争で本当にほしかったのは、貿易の拡大や香港島の割譲といった点にあったことはここから見えてくると思われます。
<おわり>

参照文献:

岡本隆司 『中国「反日」の源流』(ちくま学術文庫)
岡本隆司 『中国の形成 現代への展望』(岩波新書)
吉沢誠一郎『清朝と近代世界19世紀』(岩波新書)
「日本大百科全書(ニッポニカ)」(https://kotobank.jp/word/アヘン戦争-27018)

幕末の人物へのアンケート調査

幕末の人々にアンケート調査をとると…

はじめに

幕末の人々の行動は、非常にわかりにくい。
昔ながらの
尊王vs佐幕攘夷vs開国
となどという基準で分類したら、?マークがそこら中にでてくる。
研究レベルで、こんな基準で分類する人はいないと思うが、時代劇などではいまでもよく使われる。そしてさっきの「?」のために訳がわからなくなる。
この基準でいけば、明治維新の指導者たちは、攘夷の理念を裏切ったものばかりである。
最初から最後まで幕府の中心として活動した一橋慶喜や松平春嶽は開国と攘夷の双方を行き来しているし、長州の周布政之助は条約締結のために攘夷を行うといった一見理解不能な議論を展開する。

旧来のやり方では分類不可能な人たち

人間はそんな単純なものでない。さまざまな思いを持ちつつ、それぞれの価値観・倫理観にもとづいて行動する。

井伊直弼 幕府権威の立て直しを図り、安政の大獄などを進めたが、桜田門外の変で殺害された。

具体的に、この時期に即して考えて見よう。
 尊王家井伊直弼
まず佐幕、開国派の代表とされる井伊直弼はどうか。
井伊は国学の素養があり、熱心な尊王家とされる。その井伊が朝廷関係者を次々と捕らえ、苦しめ、ときには命を奪う。
「攘夷」藩・長州
攘夷の拠点・長州藩では、外国公使館を焼き討ちの実行犯・井上馨(志道聞多)や伊藤博文(俊輔)が、その直後にイギリス船で留学にでる。列強の脅威を身をもって学んだ高杉は、日本を対外戦争に巻き込む行動をとる。
 一橋派と島津久光
尊王攘夷の総本山ともいえる徳川斉昭は外国の技術導入に熱心であった。尊攘派の代表選手である徳川斉昭・藤田東湖と蘭癖大名の島津斉彬や開国論者松平慶永・橋本左内が一橋派として同盟関係をくむ。
上記の図式では理解しがたいことだらけである。

尊王攘夷とは違う思惑で政局にかかわった人物も多い。島津久光は、尊王家であるより薩摩幕府を開きたいという野心があると、当時から思われていた。
 「二心殿」徳川慶喜
とくに理解困難なのがさきにみた「二心殿」として当時から呼ばれ、いまも非難され続ける徳川慶喜である。かれは尊王と佐幕の間で、開国と攘夷の間で、次々と態度をかえる。
もはや攘夷が不可能との意識が共有されかけた時期、慶喜は孝明天皇ののぞむ攘夷実現のため横浜の閉港を強硬に主張し、議論をぶちこわす。逆に、慶応3年には列強の代表を集め、洗練されたマナーで紅茶を振る舞う。
 実は一貫していた松平慶永
開国論者松平慶永は、政事総裁職についた文久2年、攘夷の方針をうちだし、文久3年春、京にやってくる。しかし攘夷が現実問題として日程に上ると難色をしめし引き籠もり、ついには幕命・朝命をふりきって帰国する。
しかし、攘夷・開国、尊王・佐幕といった議論をいったん下位の判断基準とみなし、公議政体論=オールジャパンの実現という基準を第一に考え、さらに「議論をすればみんなわかってくれるはず」という彼独自の楽観主義を組み合わせると、慶永の行動は一貫していたように見え始める。

人々は何を根拠に行動するのか?

人々は、自らの世界観・倫理観、本音とたてまえ、さらに深層心理などにさえ動かされて、一見すると極めて多様で矛盾とも見える行動をとる。
では幕末期、それぞれの人物の行動を律していた原理は何なのだろうか。
身分社会の中でのさまざまな立場、武士・豪農豪商としての身分的な使命感・信念であるかもしれないし、家名を上げたい立身出世という上昇志向もあるだろうし、怨恨かもしれない。憂国家・思想家としての矜持かもしれないし、組織を守るためという現在につながる悲しい習性かもしれない。家庭人としての生き方かもしれないし、ただただ面白さをもとめた愉快犯もいただろうし、サイコパスともいえる人物もいたであろう。
それぞれ各自、多様な価値観や倫理観の中、ときには矛盾した想念を持ちつつ、それぞれが重視する「理屈」、意識的・無意識的な感情にもとづいて、順位づけをし、ときには変化させつつ行動する
こうした人間個々の、判断の重層化の中で歴史は動いていった。ではこうした多様な判断の基準をどのようにして拾い出す事ができるのであろうか。

分析手法としてのアンケート調査

そこで考えて見たのがアンケート調査を行ったとすればどうなるのかというアイデアである。
当時生きていた人間にアンケート調査をしたと仮定し、さまざまな史料や行動経過からそれぞれの人物を多面的にとらえ、そのことを通じて、それぞれ大切と思った原理をさぐりつつ、その優先順位を考える事でその行動の合理性を考える事ができないかということである。

おもいつくままに作ったのが以下のアンケート項目である。
そしてさまざまな人物が、このアンケートに応えたとしたらどのような結果になるであろうかと「妄想」した。

専門的な研究が不足している筆者がこのような事をするのは力不足なのは明らかであり、丁寧に史料にあたって考えられておられる方からすれば、納得できない事も多いだろう。逆にそういった方が別の知見を打ち出す事も可能になるだろうし、さらにはアンケート項目で不十分な内容を付け加えてもらえればもっとおもしろくなるであろう。

こうして一見矛盾に満ちた人物の行動がそれなりの筋道をとって理解できるのではないかと考える。

昨夜、テレビを見ていて「他国に利権を供与してでも資金を獲得し、日本の近代化を図るべきである。」という選択肢を考えた。
今回挙げる人物でいえば、慶喜は賛成したし、提案した小栗忠順の先輩・水野忠徳もそうだろう。
逆に、孝明天皇をのぞき、明確に反対した人物は誰であろうと考える方が正しいアプローチかもしれない。自分たちのヘゲモニーを獲得するためには、このような事は下位レベルの判断基準とみなされたであろうから。
慶永は、あるいは高杉も、もっとうまい儲け方があるとの視点から批判をするかもしれないなどと妄想した。

歴史教育の教材として

また、私の昔の仕事でいえば、それぞれの生徒に一人ずつの人物を割り当てて「憑依」(=研究)させ、このアンケートを応えさせ、それをまとめ、発表させれば、歴史の多面性を考えさせる事ができるかもしれない。その際は、最後の記述欄は必須であるし、できればⅠ~Ⅵの大項目についても、その判断の基準についてのコメントをつけさせれば取り学習が深まるように考える。

※冒頭の写真は、一藩に高須四兄弟とよばれる尾張の支藩高須藩出身の四兄弟を撮影した写真です。明治14年のものです。
向かって右から 尾張徳川家14代当主慶勝、 尾張徳川家15代当主でのちに一橋徳川家10代当主となった茂栄(尾張藩主引退後、将軍家茂の補佐役もつとめた)、 会津松平家9代当主容保(京都守護職)、 桑名松平久松家4代当主定敬(京都所司代)です。いずれも幕末の日本の最重要人物で、戊辰戦争では敵味方に分かれたたかう事となりました。

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アンケートと「回答」例

以下、「アンケート用紙」と、私が「妄想」した数人方の「回答」を示しておく。(ただし、記述「回答」は松平春嶽のみ)

アンケート~幕末期、活躍されたみなさまへ

<アンケートのお願い>

幽冥界にて、静かにお休みの処申し訳ありません。 
 みなさまがそちらに赴かれ、長い方では170年、短い方でも100年もの日々が経ちました。 
 当時、みなさまが考え、行動された結果は、2020年代の日の本にもさまざまな影響を与えていると感じます。
 ところが、長い時間がたち、研究が進んだにもかかわらず、みなさまの思いを曲解したり、お聞かせするのもはばかられるような物言いをするものや、ひいきの引き倒しをするものなどがひきもきらず、まことにお恥ずかしい次第でございます。
 つきましては、みなさまの真意を少しでも後生のものにつたえるべく、アンケート調査を企画してみました
 みなさま方の真意を理解していると思う人間に「憑依」し、お答えいただければ幸いと存じます。
 ご協力お願いします。

                 お名前(              )
Ⅰ,開国・開港についての態度について、お答えください。
1)(  )賛成
2)(  )立場上・戦略戦術上、賛成しているが、本心は反対

3)(  )立場上・戦略戦術上、反対しているが、本心は賛成
4)(  )反対

Ⅱ,攘夷についてのあなたのお考えをお聞かせください。
○はいくつつけてもかまいません。とくに重視したものがあれば、一つに限り◎をつけてください。絶対許せないというものに×をつけてください。
(A)攘夷実現のためには
1)(  )こちらから戦争に訴えるべきである
2)(  )強硬に対応し、もし戦争になってもやむを得ない。
3)(  )できるかぎり戦争は避けるべきである
4)(  )なにがあっても戦争は避けるべきである。
(B)攘夷実現の方法
5)(  )条約は完全に破棄し「鎖国」状態に戻すべきである
6)(  )いったん条約の破棄を通告・実現し、再交渉に望むべきである。
7)(  )いちおう現行条約は維持しつつ、条約改正交渉を申し入れるべきである。
8)(  )現行条約の維持を基本とし、必要に応じ改定を進めるべきである。
(C)攘夷実現の交渉の理念について
9)(  )攘夷を実現するためには、国際信義など無視すればよい。
10)(  )攘夷という事態になったとしても、国際信義を守らねばならない。

Ⅲ,尊王についてのあなたのお考えをお聞かせください。
○はいくつでもかまいません。できればもっとも重視するもの一つに◎をつけてください。これは許せないというものに×をつけていただいてもかまいません。

1)(  )天皇の意志を尊重することが第一
2)(  )挙国一致を実現するためには、尊王という政策が有効。
3)(  )幕府の威信を取り戻すには、天皇・朝廷との友好関係が不可欠。
4)(  )朝廷の威信を回復するには、幕府との友好関係も必要。
5)(  )自藩の立場を有利にするため天皇・朝廷との関係を強めることが有利。
6)(  )身分の低いものが注目をあびるため、天皇・貴族に近づくことが有利。 
7)(  )天皇や朝廷などのいうことを聞く必要はない。有害である。

Ⅳ,今後の朝廷と幕府の関係はどうあるべきだと考えますか。
○はいくつつけてもかまいません。でいればもっとも重視されるもの一つに◎をつけてください。これは許せないというものに×をつけていただいてもかまいません。 

1)(  )すべての権力を天皇に集中し、将軍・幕府は廃止すべき。
2)(  )朝廷がすべてを決定、幕府はその命令を受け執行する役目に専念すべき。
3)(  )幕府がこれまで通り政治を行うが、京都守護・外交政策・宗教政策など
 重要な諸政策については、朝廷が直接諸藩や人民に命じる権利を保留すべきだ。

4)(  )国政の重要な政策については幕府と朝廷が相談するが、基本的には幕府が
政治や外交を
になうべき。

5)(  )これまで通り、朝廷が幕府に政治外交などの大権を委任すべき。
6)(  )幕府が、朝廷など気にせずに独裁権を行使すべき。

Ⅴ,挙国一致ということについてあなたはどう考えますか。
○はいくつつけてもかまいません。できればもっとも重視されるもの一つに◎をつけてください。これは許せないというものに×をつけていただいてもかまいません。

1)(  )天皇がすべてを決め、それに日本中が従えば挙国一致が実現する
2)(  )幕府がすべてを決めれば問題はない
3)(  )幕府のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
4)(  )天皇のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
5)(  )中・下級武士や草莽と呼ばれる人々が発言できる場も設定すべき
6)(  )朝廷のもとで開催される大名たちの会議の議長は将軍が就くべき
7)(  )朝廷のもとで開催される大名たちの会議に将軍が招きべきでない。
8)(  )天皇の下、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
9)(  )幕府の下に、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。

Ⅵ,以下の諸政策についての重要だとおもうものに○をつけ、できれば優先順位も示してください。なお、逆に有害だと思うときは×をつけてください。

 (   )開国・攘夷
 (   )挙国一致(幕府・朝廷・諸大名などの協力体制確立)
 (   )尊王(天皇中心の政治実現・天皇の意志尊重・朝廷の発言力拡大)  
 (   )諸大名の意思の尊重・諸藩の地位向上
 (   )幕府の威信
 (   )諸列強に対しての日本としての威信
 (   )軍事・産業・技術の近代化
 (   )万国公法の遵守、法令の整備、統治機構の近代化
 (   )統一した軍隊(とくに海軍)創設  
 (   )下級武士や草莽の志士の登用

Ⅶ、このアンケートを書いた後で、考えられたこと、最も大切だと思っておられたこと、歴史に伝えられている自分の評価について、思っておられることなどをご自由にお答えください。

*************************

回答を妄想する

数人の方の回答を妄想した。
あくまでも筆者の狭い範囲の知識での判断なので、ご了承いただきたい。

<回答例 1>松平春嶽(慶永)
松平慶永(春嶽) 幕末から明治初年にかけて、改革派としてつねに政局の中心にいた。

Ⅰ,開国・開港についての態度について、お答えください。
1)◎ 賛成 
2)   立場上・戦略戦術上、賛成しているが、本心は反対

3)△立場上・戦略戦術上、反対しているが、本心は賛成
4)      反対
Ⅱ,攘夷についてのあなたのお考えをお聞かせください。

<A>攘夷実現のためには
1)×こちらから戦争に訴えるべきである
2)△強硬に対応し、もし戦争になってもやむを得ない。
3)◎できるかぎり戦争は避けるべきである
4)△なにがあっても戦争は避けるべきである。
<B>攘夷実現の方法
5)×条約は完全に破棄し「鎖国」状態に戻すべきである
6)△いったん条約の破棄を通告・実現し、再交渉に望むべきである。
7)○いちおう現行条約は維持しつつ、条約改正交渉を申し入れるべきである。
8)△現行条約の維持を基本とし、必要に応じ改定を進めるべきである。
<C>攘夷実現の交渉の理念について
9) ×攘夷を実現するためには、国際信義など無視すればよい。
10)○攘夷という事態になったとしても、国際信義を守らねばならない。
Ⅲ,尊王についてのあなたのお考えをお聞かせください。
1)○天皇の意志を尊重することが第一
2)◎挙国一致を実現するためには、尊王という政策が有効。
3)○幕府の威信を取り戻すには、天皇・朝廷との友好関係が不可欠。
4)○朝廷の威信を回復するには、幕府との友好関係も必要。
5)○自藩の立場を有利にするため天皇・朝廷との関係を強めることが有利。
6) 身分の低いものが注目をあびるため、天皇・貴族に近づくことが有利。 
7)×天皇や朝廷などのいうことを聞く必要はない。有害である。
Ⅳ,今後の朝廷と幕府の関係はどうあるべきだと考えますか。
1)△すべての権力を天皇に集中し、将軍・幕府は廃止すべき。
2) 朝廷がすべてを決定、幕府はその命令を受け執行する役目に専念すべき。
3) 幕府がこれまで通り政治を行うが、京都守護・外交政策・宗教政策など重要な諸政策については、朝廷が直接諸藩や人民に命じる権利を保留すべきだ。
4)◎国政の重要な政策については幕府と朝廷が相談するが、基本的には幕府が政治や外交をになうべき。
5)○これまで通り、朝廷が幕府に政治外交などの大権を委任すべき。
6)×幕府が、朝廷など気にせずに独裁権を行使すべき。
Ⅴ,挙国一致ということについてあなたはどう考えますか。
1) 天皇がすべてを決め、それに日本中が従えば挙国一致が実現する
2)×幕府がすべてを決めれば問題はない
3)◎幕府のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
4)○天皇のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
5)△中・下級武士や草莽と呼ばれる人々が発言できる場も設定すべき
6)○朝廷のもとで開催される大名たちの会議の議長は将軍が就くべき
7)×朝廷のもとで開催される大名たちの会議に将軍を招くべきでない。
8)○天皇の下、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
9)○幕府の下に、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
Ⅵ,以下の諸政策についての重要だとおもうものに○をつけ、できれば優先順位も示してください。なお、逆に有害だと思うときは×をつけてください。
(○  )開国・攘夷
(◎  )挙国一致(幕府・朝廷・諸大名などの協力体制確立)
○  )尊王(天皇中心の政治実現・天皇の意志尊重・朝廷の発言力拡大)  
(○  )諸大名の意思の尊重・諸藩の地位向上
(○  )幕府の威信
(○  )諸列強に対しての日本としての威信
(○  )軍事・産業・技術の近代化
(○  )万国公法の遵守、法令の整備、統治機構の近代化
(○  )統一した軍隊(とくに海軍)創設  
(△  )下級武士や草莽の志士の登用
Ⅶ、このアンケートを書いた後で、考えられたこと、最も大切だと思っておられたこと、歴史に伝えられている自分の評価について、思っておられることなどをご自由にお答えください。

自分は、清国がアヘン戦争で敗れた事情から、欧米列強がいずれ我が国に開国を求めにくるだろうと思い、優秀な家臣橋本左内の助けも借り、清の轍を踏まないためには、挙国一致が第一だと考えた。
 私は、現実を虚心坦懐に学び、丁寧に説明し、心の底から真摯な話し合いを行えばわかり合えると愚かにも信じ続けている。したがって、条約勅許・開国こそが正しいということを、斉昭様のような攘夷論者にも、朝廷の方々も、かれらが心底から我が国の将来を考えておられる以上、今後日本が進むべき道を理解していただけると思っていた。
だから大切な事は話し合いの場というプラットホーム作りであると考えた。慶喜殿を将軍となっていただこうとかんがえたのもその一環である。
しかし、これまでの幕府のあり方を守ろうというある意味忠義第一の井伊直弼殿が大老になることで、左内は私の代わりに殺され、私も隠居と蟄居を余儀なくされた。

 文久年間になると、私は蟄居をとかれ、政事総裁職という重職についた。朝廷は和宮様降嫁の条件、攘夷決行を強く要求してきた。もとより私が攘夷に否定的なのはいうまでもない。しかし、本来楽天的な私は真摯な話し合いをすれば、朝廷の方々はわかっていただけると考えた。いったん攘夷決行を承認し、話し合いの場で開国にもっていけると考えた。その主張が通り、慶喜殿、私や山内容堂殿、有力諸大名、そして将軍家茂様までも京都に集結、話し合いを持つ事になった。
 しかし、京都にいった私はその誤りを知った。この地では、長州や土佐の支援を受けた狂犬のような尊攘派がテロを繰り返し、彼らと結ぶ公家たちが天皇の名をかたって勝手なことを繰り返した。彼らは、「勅命」といわれれば反論できない弱みを利用し、私たちに攘夷決行を強要した。私はなんとかそれを拒もうとしたが、尊王の思いの強い慶喜殿たちはそれを受け入れてしまった。さらに急進派の公家たちは本来幕府が委託されてきた軍事や諸藩への命令権まで奪おうとしてきた。いたたまれなくなった私はいったん京を離れ、福井に帰る事とした。
 それでも、私は諸侯同士、さらには天下の有志を加えた話し合いによって、日本のあるべき道を決めることができると工作を務めた。
しかし、薩摩など雄藩を疑い幕府中心の政治への回帰をめざす慶喜殿の態度などでうまくいかず、幕府中心の挙国一致にも協力的であった薩摩は次第に幕府打倒を考え始めるようになった。

 慶応3年の王政復古では、薩摩にしてやられたが、それでも尾張の慶勝殿や容堂殿と連携し、岩倉様も折れて、慶喜殿を議長とする形でおさまる寸前までいったのだが・・。慶喜殿は・・・。
 こうして心ならずも徳川宗家とそれを守ろうとする諸藩を賊軍としてたたかうこととなってしまった。そこでも私は話し合いによる政治運営を実現しようとした。その成果が我が藩士三岡八郎が草案をつくった「五か条の誓文」のなかの「広く会議を興し、万機公論に決すべし」という一文であったのかもしれない。
 時代は話し合いによる決定などという悠長な事を認めてくれなかった。大久保や木戸といった連中は、岩倉様や三条様の力を借りて、天皇様の名のもとに、相談もなしに新しい政策を決定、実施していった。あるいは、その内容は私や左内がぼんやりと思い浮かべていたものであったのかもしれない。小楠はこうした政治に参加しようとしたが、命を奪われた。
すでに私のいる場所はなかった。
コメント:幕末政治の最初から明治政権の成立期まで、つねに政権の中枢付近にいた春嶽です。
その考えも「妄想」してみました。つねに、話し合い(「公議世論」)によって合意が得られるという非常に楽天家でしたが、その理想主義はさまざまな欲望と思惑、価値観の対立によって跳ね返されていったといえそうです。
民主主義を実現するための困難という現在的な問題が、春嶽の理想主義をはね飛ばしたというところかもしれません。
<回答例 2>孝明天皇
孝明天皇 ある意味、天皇としての責任感が強い人物であったともいえる。

Ⅰ,開国・開港についての態度について、お答えください
1) 賛成 
2)     立場上・戦略戦術上、賛成しているが、本心は反対
3) 立場上・戦略戦術上、反対しているが、本心は賛成
4)  ◎ 反対
Ⅱ,攘夷についてのあなたのお考えをお聞かせください。
<A>攘夷実現のためには
1) こちらから戦争に訴えるべきである
2) 強硬に対応し、もし戦争になってもやむを得ない。
3)◎できるかぎり戦争は避けるべきである
4) なにがあっても戦争は避けるべきである。
<B>攘夷実現の方法
5) 条約は完全に破棄し「鎖国」状態に戻すべきである
6)○いったん条約の破棄を通告・実現し、再交渉に望むべきである。
7) いちおう現行条約は維持しつつ、条約改正交渉を申し入れるべきである。
8) 現行条約の維持を基本とし、必要に応じ改定を進めるべきである。
<C>攘夷実現の交渉の理念について
9)○攘夷を実現するためには、国際信義など無視すればよい。
10) 攘夷という事態になったとしても、国際信義を守らねばならない。
Ⅲ,尊王についてのあなたのお考えをお聞かせください。
1)◎天皇の意志を尊重することが第一
2○挙国一致を実現するためには、尊王という政策が有効
3) 幕府の威信を取り戻すには、天皇・朝廷との友好関係が不可欠。
4)△朝廷の威信を回復するには、幕府との友好関係も必要
5) 自藩の立場を有利にするため天皇・朝廷との関係を強めることが有利。
6) 身分の低いものが注目をあびるため、天皇・貴族に近づくことが有利。 
7)×天皇や朝廷などのいうことを聞く必要はない。有害である。
Ⅳ,今後の朝廷と幕府の関係はどうあるべきだと考えますか。
1) すべての権力を天皇に集中し、将軍・幕府は廃止すべき。
2) 朝廷がすべてを決定、幕府はその命令を受け執行する役目に専念すべき。
3)◎幕府がこれまで通り政治を行うが、京都守護・外交政策・宗教政策など重要な諸政策については、朝廷が直接諸藩や人民に命じる権利を保留すべきだ。
4)○国政の重要な政策については幕府と朝廷が相談するが、基本的には幕府が政治や外交をになうべき。
5)△これまで通り、朝廷が幕府に政治外交などの大権を委任すべき。
6)×幕府が、朝廷など気にせずに独裁権を行使すべき。
Ⅴ,挙国一致ということについてあなたはどう考えますか。
1)△天皇がすべてを決め、それに日本中が従えば挙国一致が実現する
2)×幕府がすべてを決めれば問題はない
3)△幕府のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
4)○天皇のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
5) 中・下級武士や草莽と呼ばれる人々が発言できる場も設定すべき
6)△朝廷のもとで開催される大名たちの会議の議長は将軍が就くべき
7)×朝廷のもとで開催される大名たちの会議に将軍が招きべきでない。
8)△天皇の下、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
9) 幕府の下に、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
Ⅵ,以下の諸政策についての重要だとおもうものに○をつけ、できれば優先順位も示してください。なお、逆に有害だと思うときは×をつけてください
(○  )開国・攘夷
(○  )挙国一致(幕府・朝廷・諸大名などの協力体制確立)
(◎  )尊王(天皇中心の政治実現・天皇の意志尊重・朝廷の発言力拡大)  
(   )諸大名の意思の尊重・諸藩の地位向上
(   )幕府の威信
(   )諸列強に対しての日本としての威信
(   )軍事・産業・技術の近代化
(   )万国公法の遵守、法令の整備、統治機構の近代化
(   )統一した軍隊(とくに海軍)創設  
(   )下級武士や草莽の志士の登用

コメント:幕末の混乱の引き金を引く形になった孝明天皇。
 かれにとっては、「祖法=皇祖皇宗の道」に反しないか、さらに朝廷の権威を高めることが最大の関心事であったと考えました。こうした事情から摂関家や武家伝奏などによる朝廷統治への反発もあったでしょう。他方、そうして点が維持できれば、幕府への大政委任については、とくにこだわりがなかったという形で、回答を考えました。基本的に○は少なかったと考えて見ました。
<回答例 3>徳川(一橋)慶喜
徳川慶喜

Ⅰ,開国・開港についての態度について、お答えください
1)  賛成 
2)     立場上・戦略戦術上、賛成しているが、本心は反対

3)○立場上・戦略戦術上、反対しているが、本心は賛成
4)      反対
Ⅱ,攘夷についてのあなたのお考えをお聞かせください。

<A>攘夷実現のためには
1) こちらから戦争に訴えるべきである
2)○強硬に対応し、もし戦争になってもやむを得ない。
3)○できるかぎり戦争は避けるべきである
4) なにがあっても戦争は避けるべきである。
<B>攘夷実現の方法
5) 条約は完全に破棄し「鎖国」状態に戻すべきである
6)○いったん条約の破棄を通告・実現し、再交渉に望むべきである。
7)△いちおう現行条約は維持しつつ、条約改正交渉を申し入れるべきである。
8) 現行条約の維持を基本とし、必要に応じ改定を進めるべきである。
<C>攘夷実現の交渉の理念について
9) 攘夷を実現するためには、国際信義など無視すればよい。
10)△攘夷という事態になったとしても、国際信義を守らねばならない。
Ⅲ,尊王についてのあなたのお考えをお聞かせください。
1)○天皇の意志を尊重することが第一
2)○挙国一致を実現するためには、尊王という政策が有効。
3)○幕府の威信を取り戻すには、天皇・朝廷との友好関係が不可欠。
4)○朝廷の威信を回復するには、幕府との友好関係も必要。
5)×自藩の立場を有利にするため天皇・朝廷との関係を強めることが有利。
6)×身分の低いものが注目をあびるため、天皇・貴族に近づくことが有利。 
7)×天皇や朝廷などのいうことを聞く必要はない。有害である。
Ⅳ,今後の朝廷と幕府の関係はどうあるべきだと考えますか。
1)×すべての権力を天皇に集中し、将軍・幕府は廃止すべき。
2)△朝廷がすべてを決定、幕府はその命令を受け執行する役目に専念すべき。
3)×幕府がこれまで通り政治を行うが、京都守護・外交政策・宗教政策など重要な諸政策については、朝廷が直接諸藩や人民に命じる権利を保留すべきだ。
4)◎国政の重要な政策については幕府と朝廷が相談するが、基本的には幕府が政治や外交をになうべき。
5)○これまで通り、朝廷が幕府に政治外交などの大権を委任すべき
6)×幕府が、朝廷など気にせずに独裁権を行使すべき。
Ⅴ,挙国一致ということについてあなたはどう考えますか。
1) 天皇がすべてを決め、それに日本中が従えば挙国一致が実現する
2)○幕府がすべてを決めれば問題はない
3)△幕府のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
4) 天皇のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
5) 中・下級武士や草莽と呼ばれる人々が発言できる場も設定すべき
6)◎朝廷のもとで開催される大名たちの会議の議長は将軍が就くべき
7) 朝廷のもとで開催される大名たちの会議に将軍が招きべきでない。
8×)天皇の下、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
9)○幕府の下に、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
Ⅵ,以下の諸政策についての重要だとおもうものに○をつけ、できれば優先順位も示してください。なお、逆に有害だと思うときは×をつけてください
(○  )開国・攘夷
(○ )挙国一致(幕府・朝廷・諸大名などの協力体制確立)
(◎1 )尊王(天皇中心の政治実現・天皇の意志尊重・朝廷の発言力拡大)  
(△  )諸大名の意思の尊重・諸藩の地位向上
(◎1 )幕府の威信
(◎  )諸列強に対しての日本としての威信
(○  )軍事・産業・技術の近代化
(△  )万国公法の遵守、法令の整備、統治機構の近代化
(△  )統一した軍隊(とくに海軍)創設  
(×  )下級武士や草莽の志士の登用

コメント:当時から「二心殿」と賞されていた慶喜、春嶽と同様、ほぼすべての項目になんらかの記号が付きそうなのが、特徴的かもしれません。(ただ春嶽の場合は○が多かったのに、慶喜は×も多い)
たしかに、かれは悩めるリーダーだったのでしょう。少し考えただけも、彼の判断の根拠となったものは、「日本全体の責任者としての自負」「徳川宗家を守る事」「天皇崇拝」「尊王攘夷のカリスマであった父斉昭への孝心」「出身藩としての水戸藩への配慮」あるいは「安政の大獄という愚かな判断を下した井伊直弼への反発」「薩摩=島津久光主従をはじめとする混乱に乗じて影響力拡大をはかる雄藩への反発」などなど、こうした意識・無意識の判断基準がかれを「二心殿」にしたと考えました。そのなかで、かれがもっとも重視したのは「徳川」「天皇」「日本」「自己都合」のいずれだったのでしょうか。ここでは「天皇」を選択してみましたが。
<回答例 4>島津久光
島津久光

Ⅰ,開国・開港についての態度について、お答えください
1)○ 賛成 
2)     立場上・戦略戦術上、賛成しているが、本心は反対

3) 立場上・戦略戦術上、反対しているが、本心は賛成
4)      反対
Ⅱ,攘夷についてのあなたのお考えをお聞かせください。

<A>攘夷実現のためには
1) こちらから戦争に訴えるべきである
2)○強硬に対応し、もし戦争になってもやむを得ない。
3)△できるかぎり戦争は避けるべきである
4) なにがあっても戦争は避けるべきである。
<B>攘夷実現の方法
5) 条約は完全に破棄し「鎖国」状態に戻すべきである
6) いったん条約の破棄を通告・実現し、再交渉に望むべきである。
7) いちおう現行条約は維持しつつ、条約改正交渉を申し入れるべきである。
8) 現行条約の維持を基本とし、必要に応じ改定を進めるべきである。
<C>攘夷実現の交渉の理念について
9)○攘夷を実現するためには、国際信義など無視すればよい。
10) 攘夷という事態になったとしても、国際信義を守らねばならない。
Ⅲ,尊王についてのあなたのお考えをお聞かせください。
1)○天皇の意志を尊重することが第一
2)○挙国一致を実現するためには、尊王という政策が有効。
3)○幕府の威信を取り戻すには、天皇・朝廷との友好関係が不可欠。
4)○朝廷の威信を回復するには、幕府との友好関係も必要。
5)◎自藩の立場を有利にするため天皇・朝廷との関係を強めることが有利。
6) 身分の低いものが注目をあびるため、天皇・貴族に近づくことが有利。 
7) 天皇や朝廷などのいうことを聞く必要はない。有害である。
Ⅳ,今後の朝廷と幕府の関係はどうあるべきだと考えますか。
1)△すべての権力を天皇に集中し、将軍・幕府は廃止すべき。
2)△朝廷がすべてを決定、幕府はその命令を受け執行する役目に専念すべき。
3) 幕府がこれまで通り政治を行うが、京都守護・外交政策・宗教政策など重要な諸政策については、朝廷が直接諸藩や人民に命じる権利を保留すべきだ。
4)◎国政の重要な政策については幕府と朝廷が相談するが、基本的には幕府が政治や外交をになうべき。
5) これまで通り、朝廷が幕府に政治外交などの大権を委任すべき。
6)×幕府が、朝廷など気にせずに独裁権を行使すべき。
Ⅴ,挙国一致ということについてあなたはどう考えますか。
1) 天皇がすべてを決め、それに日本中が従えば挙国一致が実現する
2)×幕府がすべてを決めれば問題はない
3)○幕府のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
4)○天皇のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
5) 中・下級武士や草莽と呼ばれる人々が発言できる場も設定すべき
6)△朝廷のもとで開催される大名たちの会議の議長は将軍が就くべき
7)△朝廷のもとで開催される大名たちの会議に将軍が招きべきでない。
8) 天皇の下、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
9) 幕府の下に、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
Ⅵ,以下の諸政策についての重要だとおもうものに○をつけ、できれば優先順位も示してください。なお、逆に有害だと思うときは×をつけてください。
(   )開国・攘夷
(   )挙国一致(幕府・朝廷・諸大名などの協力体制確立)
(○  )尊王(天皇中心の政治実現・天皇の意志尊重・朝廷の発言力拡大)  
(◎  )諸大名の意思の尊重・諸藩の地位向上
(   )幕府の威信
(   )諸列強に対しての日本としての威信
(○  )軍事・産業・技術の近代化
(   )万国公法の遵守、法令の整備、統治機構の近代化
(○   )統一した軍隊(とくに海軍)創設  
(   )下級武士や草莽の志士の登用

コメント:雄藩・薩摩の最高実力者代表です。○も◎も少なく、「自藩ファースト」との人物として回答してみました。こうした久光の思惑や行動力、兄斉彬への対抗心や虚栄心、それを大久保や西郷らが利用した面が大きかったように思います。
<回答例 5>高杉晋作
高杉晋作

Ⅰ,開国・開港についての態度について、お答えください。
1)  賛成 
2)     立場上・戦略戦術上、賛成しているが、本心は反対

3)◎立場上・戦略戦術上、反対しているが、本心は賛成
4)      反対
Ⅱ,攘夷についてのあなたのお考えをお聞かせください

<A>攘夷実現のためには
1)◎こちらから戦争に訴えるべきである
2) 強硬に対応し、もし戦争になってもやむを得ない。
3) できるかぎり戦争は避けるべきである
4) なにがあっても戦争は避けるべきである。
<B>攘夷実現の方法
5) 条約は完全に破棄し「鎖国」状態に戻すべきである
6)◎いったん条約の破棄を通告・実現し、再交渉に望むべきである。
7) いちおう現行条約は維持しつつ、条約改正交渉を申し入れるべきである。
8) 現行条約の維持を基本とし、必要に応じ改定を進めるべきである。
<C>攘夷実現の交渉の理念について
9)○攘夷を実現するためには、国際信義など無視すればよい。
10) 攘夷という事態になったとしても、国際信義を守らねばならない。
Ⅲ,尊王についてのあなたのお考えをお聞かせください。
1) 天皇の意志を尊重することが第一
2)◎挙国一致を実現するためには、尊王という政策が有効。
3) 幕府の威信を取り戻すには、天皇・朝廷との友好関係が不可欠。
4) 朝廷の威信を回復するには、幕府との友好関係も必要。
5)△自藩の立場を有利にするため天皇・朝廷との関係を強めることが有利。
6)○身分の低いものが注目をあびるため、天皇・貴族に近づくことが有利。 
7)×天皇や朝廷などのいうことを聞く必要はない。有害である。
Ⅳ,今後の朝廷と幕府の関係はどうあるべきだと考えますか。
1)○すべての権力を天皇に集中し、将軍・幕府は廃止すべき。
2)○朝廷がすべてを決定、幕府はその命令を受け執行する役目に専念すべき。
3)△幕府がこれまで通り政治を行うが、京都守護・外交政策・宗教政策など重要な諸政策については、朝廷が直接諸藩や人民に命じる権利を保留すべきだ。
4) 国政の重要な政策については幕府と朝廷が相談するが、基本的には幕府が政治や外交をになうべき。
5)×これまで通り、朝廷が幕府に政治外交などの大権を委任すべき。
6)×幕府が、朝廷など気にせずに独裁権を行使すべき。
Ⅴ,挙国一致ということについてあなたはどう考えますか。
1)△天皇がすべてを決め、それに日本中が従えば挙国一致が実現する
2)×幕府がすべてを決めれば問題はない
3)△幕府のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
4) 天皇のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
5)○中・下級武士や草莽と呼ばれる人々が発言できる場も設定すべき
6) 朝廷のもとで開催される大名たちの会議の議長は将軍が就くべき
7) 朝廷のもとで開催される大名たちの会議に将軍が招きべきでない。
8)○天皇の下、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
9) 幕府の下に、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
Ⅵ,以下の諸政策についての重要だとおもうものに○をつけ、できれば優先順位も示してください。なお、逆に有害だと思うときは×をつけてください。
(○  )開国・攘夷
(◎  )挙国一致(幕府・朝廷・諸大名などの協力体制確立)
(○  )尊王(天皇中心の政治実現・天皇の意志尊重・朝廷の発言力拡大)  
(○  )諸大名の意思の尊重・諸藩の地位向上
(×  )幕府の威信
(○  )諸列強に対しての日本としての威信
(○  )軍事・産業・技術の近代化
(△  )万国公法の遵守、法令の整備、統治機構の近代化
(△  )統一した軍隊(とくに海軍)創設  
(○  )下級武士や草莽の志士の登用

コメント:長州の尊王攘夷派の中心、高杉晋作です。挙国一致とそれによる列強に対する危機感と独立の確保をめざす急進的改革派という位置づけで回答してみました。そうした大きな戦略の下に、尊王攘夷・長州藩の軍国主義化といった戦術を位置づけてみました。しかし、同時に上士出身という面から、「藩」意識もときどき姿をみせた面も意識しています。
<回答例 5>水野忠徳
水野忠徳

Ⅰ,開国・開港についての態度について、お答えください。
1)◎ 賛成 
2)     立場上・戦略戦術上、賛成しているが、本心は反対

3) 立場上・戦略戦術上、反対しているが、本心は賛成
4)      反対
Ⅱ,攘夷についてのあなたのお考えをお聞かせください

<A>攘夷実現のためには
1)×こちらから戦争に訴えるべきである
2) 強硬に対応し、もし戦争になってもやむを得ない。
3) できるかぎり戦争は避けるべきである
4)◎なにがあっても戦争は避けるべきである
<B>攘夷実現の方法
5)条約は完全に破棄し「鎖国」状態に戻すべきである
6)いったん条約の破棄を通告・実現し、再交渉に望むべきである。
7)いちおう現行条約は維持しつつ、条約改正交渉を申し入れるべきである。
8)◎現行条約の維持を基本とし、必要に応じ改定を進めるべきである。
<C>攘夷実現の交渉の理念について
9) 攘夷を実現するためには、国際信義など無視すればよい。
10)◎攘夷という事態になったとしても、国際信義を守らねばならない。
Ⅲ,尊王についてのあなたのお考えをお聞かせください。
1) 天皇の意志を尊重することが第一
2)△挙国一致を実現するためには、尊王という政策が有効。
3)△幕府の威信を取り戻すには、天皇・朝廷との友好関係が不可欠。
4) 朝廷の威信を回復するには、幕府との友好関係も必要。
5)×自藩の立場を有利にするため天皇・朝廷との関係を強めることが有利。
6)×身分の低いものが注目をあびるため、天皇・貴族に近づくことが有利。 
7)◎天皇や朝廷などのいうことを聞く必要はない。有害である。
Ⅳ,今後の朝廷と幕府の関係はどうあるべきだと考えますか。
1)×すべての権力を天皇に集中し、将軍・幕府は廃止すべき。
2)×朝廷がすべてを決定、幕府はその命令を受け執行する役目に専念すべき。
3)×幕府がこれまで通り政治を行うが、京都守護・外交政策・宗教政策など重要な諸政策については、朝廷が直接諸藩や人民に命じる権利を保留すべきだ。
4)○国政の重要な政策については幕府と朝廷が相談するが、基本的には幕府が政治や外交をになうべき。
5)○これまで通り、朝廷が幕府に政治外交などの大権を委任すべき
6)◎幕府が、朝廷など気にせずに独裁権を行使すべき。
Ⅴ,挙国一致ということについてあなたはどう考えますか。
1)×天皇がすべてを決め、それに日本中が従えば挙国一致が実現する
2)◎幕府がすべてを決めれば問題はない
3)△幕府のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
4)×天皇のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
5) 中・下級武士や草莽と呼ばれる人々が発言できる場も設定すべき
6)○朝廷のもとで開催される大名たちの会議の議長は将軍が就くべき
7)×朝廷のもとで開催される大名たちの会議に将軍が招きべきでない。
8) 天皇の下、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
9)○幕府の下に、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
Ⅵ,以下の諸政策についての重要だとおもうものに○をつけ、できれば優先順位も示してください。なお、逆に有害だと思うときは×をつけてください。
(◎  )開国・攘夷
(   )挙国一致(幕府・朝廷・諸大名などの協力体制確立)
(   )尊王(天皇中心の政治実現・天皇の意志尊重・朝廷の発言力拡大)  
(×  )諸大名の意思の尊重・諸藩の地位向上
(○  )幕府の威信
(◎  )諸列強に対しての日本としての威信
(○  )軍事・産業・技術の近代化
(○  )万国公法の遵守、法令の整備、統治機構の近代化
(△  )統一した軍隊(とくに海軍)創設  
(△  )下級武士や草莽の志士の登用

コメント:多くの人には知られていない水野忠徳。対外実務を担ってきた官僚たちの黒幕ともいえる人物であす。こうした官僚の代表として取り上げた。俗吏とみなされがちな幕府官僚であるが、近年、反攘夷派ナショナリストの側面が強調されてきた。国際的な信義こそ国益とする立場に立ち、朝廷や雄藩との協調によって対外危機をよびこむことに強く危機感を持つ、朝廷や一橋慶喜ら在京幕僚・公議政体派への批判勢力としての回答とした。
挙国一致のためには薩長を軍事的に屈服させるという別の選択肢もあった

 

祝、70万アクセス

いつも本サイトをご覧いただきありがとうございます。
おかげさまで、2021年1月28日をもって、総アクセス数が70万に達しました。(訪問者、のべ31万5500人)
本当にありがとうございます。
100万アクセスという夢のような数字も、視野に入ってきたと驚きつつ、喜んでいます。

さて、これまでで、固定ページで198本、投稿で66本の文章をアップさせていただきました。
ときどき、これまで書いたものを読み返し、気がつくごとに内容に手を入れ、不適切な部分をさしかえるなど、気をつかっているつもりではありますが、不行き届きが多いことと思います。お許しください。
いくつかの文章は、取り下げた方がよいのかも知れませんが、一本、一本、それにかかわった思い出、喫茶店・公園・電車など文章を書いていた場所や風景、B大学など各大学図書館で文献をあさっていたときのこと、多くの先生から教えていただいたことなどなど、それぞれの文章にまつわる思いもあって、なかなか思い切れないところがあります。

新年のご挨拶でも書きましたように、昨年の後半は縁あって手伝わせていただいた社会人講座の準備に注力してきたため、本サイトでのアップが少なくなってしまいました。お詫びします。
しかし、蓄積もできましたので、現状で私が理解できた部分を、すこしずつ文章化していきたいと思っています。ご期待いただければと思います。
先ず手始めに「米騒動と大正デモクラシー」(全4本)をアップさせていただきました。ご覧いただければ、光栄です。

なお、ほんとうは、みなさまのご意見をうかがいながら、よりよいものをめざしたいのですが、昨今のネットをめぐる事情から、一方的な発信に左右していることを、お許しいただきたいと思います。

日本近現代史の授業中継 店主

2021年、新年のごあいさつ

  あけまして
  おめでとう
  ございます

旧年中は、多くの方のご訪問をたまわり、ほんとうにありがとうございました。

本サイト、「日本近現代史の授業中継」は2016年4月の開始以来、四年目をむかえております。
 2020年は、9月以降、内容を一部をのぞき全く更新しなかったにもかかわらず、年間で21万7000アクセス(のべ10万7200人)ものかたに閲覧していただきました。
 また開始以来のアクセス数は682791アクセス(のべ30万6600人)です。一年目のアクセスが5176(のべ1885人)であったことから考えると、驚くべき数字です。歴史用語をネットで検索したら、このサイトが「いの一番」に出て、うれしいやら、これでいいのかと戸惑ったりもしました。
とはいえ、少しはみなさまのお役に立っているのではないかと、うれしくもあります。
 ほんとうにありがとうございました。

一昨年は元号の切り替えということで大騒動していました。
元号の変更というものは、歴史の区切りという意味では何の意味もないことながら、明治から大正へは第一次護憲運動=大正政変、大正から昭和では金融恐慌、昭和から平成はバブルの崩壊、と改元の直後、不思議と大きな出来事がシンクロしてきました。ひょっとしたら今回も・・、と思っていたら、コロナでした。「こうくるか…」という思いです。これまでの出来事は、その歴史的意味が分かりやすかったのに比べ、今回は、その意味が現状では見えてきにくいという違いがありそうです。
アメリカではコロナの死者が大戦での死者を超えるなど、世界中で大きな影響を与えており、その世界史的意味を問う必要がありそうです。

コロナは、現在の民主主義にとってもっとも大切にすべき「人と人との結びつき」にくさびを打ち込んできました。人間が人間である上でもっとも重要な「社会」を危機におとしいれる危険性を持っています。これにたいし、この危機の中で人間同士の結びつきをいかに確保・発展させていくかということが問われているように思います。
コロナは否応なく、人と人の結びつきを変化、バージョンアップを余儀なくしました。それは、困った問題だけとはいえないのかも知れません。
今年、私は、今までは敷居が高くて、開催場所が遠方であるため、参加できなかったいくつかの取り組みや学会に参加しました。ZOOM開催となったからです。参加者のナマの声を聞けないもどかしさはあるものの、私のような外野(というかスタンドの観客)にとって、敷居が高くて躊躇してきた場所にも踏み込める機会が与えられ、非常に感動しました。そしてそれまでの距離感を一挙に縮めることができました。本年の歴研大会は近年まれに見る「参加」だったと聞いています。これまでのあり方は当然維持するとしても、ネットでも参加できるルートを是非、維持していただきたいと思っています。

研究でいえば、近年、インターネット上から、史料や論文にアクセスすることが可能になりました。コロナは、ネット環境を利用した学びや研究を否応なく進めた一年でした。(他方、感染予防の観点から大学図書館の一般利用が不可能になった大学がでてきたことは、私のような人間にとっても大きな打撃でした)。
私は、昨年から新聞の紙ベースでの購読をほぼすべて中止したのですが、逆にネット上の低価格のサービスを申し込むことで、より広く全国の記事に、過去の記事も含めてアクセスできるようになりました。(紙ベースの新聞を取らない弊害も強く感じていますが)。
YouTubeではこれまでなかなかアクセスできなかった多くの情報が玉石混淆のまま、ときには素材のまま流されます。
私たちは、コロナ禍にむきあいなかで、新たな「学び」のあり方、社会のあり方、民主主義のあり方、「新しい公共」が問われる時代になってきたのかもしれません。そして、本年はそのことがより問われる一年になるかと思っています。

さて、先にも書いたとおり、本サイトの記事は8月以来、事実上ストップ状態です。それは、本年度になって本格的に開始した社会人講座に、講師のひとりとして招いていただいたことにあります。その準備に忙殺されているためです。
しかももう少し余裕ある予定だったのが、コロナのため9月始まりとなり、予定が「密」状態になったためです。メインの「授業」のなかの、日清・日露戦争の部分などは、その内容を反映した書き直しましたが、多くの部分には手をつけられていません。
一区切りついた段階で、講座の内容も文章化し、さらには「授業」部分についても更新していきたいと考えています。それでご容赦ください。
なお、講座の内容については、「近現代史を考える講座」のなかの、学習会の記録という場所にレジュメとプレゼンテーション資料を保管しておりますので、見ていただければと思います。

新年早々、だらだらと書いてしまいました。
本年も、みなさまがたのお役に立つ内容を提供できるよう努力してまいりたいとおもいます。

是非、お誘い合わせの上(?)、当サイトへご訪問してくださることをお待ち申し上げております。

最後に、みなさまがたの健康とご多幸を祈念いたしまして、新年の挨拶とさせていただきます。

本年もよろしくおねがいします。

2021年1月1日
          「日本近現代史の授業中継」店主

ありがとうございます。60万アクセスに

ありがとうございます。
本日、2020年8月15日で、私どものホームページ
「日本近現代史の授業中継」のアクセス数のトータルが
60万件を突破しました。
みなさんのご協力のおかげと感謝します。
よりよい内容といたしますので、
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

「もやもや感」が・・映画「東京裁判」を観て

「もやもや感」が…映画「東京裁判」を観て

4時間半を超える映画「東京裁判(リンクへ)」を観ました。それについてFacebookに感想を書き込みました。
まずは、映画のあらすじです。

******
<映画のあらすじ 公式HPより>
1945年日本はポツダム宣言を受諾し、8月15日に全面降伏の旨を国民に伝えた。戦後の日本を統治する連合国軍最高司令官マッカーサー元帥は、戦争犯罪人の裁判を早急に開始するよう望み、1946年1月22日に極東国際軍事裁判所条例を発布した。通称“東京裁判”である。
満州事変に始まり、日中戦争の本格化や太平洋戦争に及ぶ17年8カ月の間、日本を支配した指導者の中から、太平洋戦争開戦時の首相・東條英機ら28名が訴追された。一方、国の内外から問われ、重要な争点となった天皇の戦争責任については、世界が東西両陣営に分かれつつあるなか米国政府の強い意志により回避の方向へと導かれていく。
同年5月3日より東京裁判は開廷。まずは「平和に対する罪」など55項目に及ぶ罪状が読み挙げられるが、被告は全員無罪を主張した。検察側は日本軍の非道の数々を告発。弁護側は「戦争は国家の行為であり、個人責任は問えない」と異議申し立てするが、「個人を罰しなければ、国際犯罪を実効的に阻止できない」と、裁判所はこれを却下した。1948年11月12日、病死した被告などをのぞく25名のうち東條ら7名に絞首刑、他18名は終身禁固刑もしくは有期刑が宣告が下された。
*****

そしてFacebookに書いたものが以下のような内容です。
かなり補足しており、元のものからはかなり変わっています。(とくに裁判の積極的側面の部分)

東條や広田などの肉声を聞くことができただけでも、面白かった。
とはいえ、「もやもや」感がのこる。

歴史屋の立場からすると、ここをもっと詰めてほしいし、
この解釈は違うやろ、といったところも多い。
なんでもかんでもナレーションでという手法も気になる。
史実の扱い方に、作られた時代(1983年公開)の限界も感じる。

しかし、「もやもや感」は映画の問題ではない
それ以上に、この裁判自体がもつ性格のせいだ。

キーナン検事は「天皇免責」のために裁判自体をねじ曲げ、
ウエッブ裁判長は、強引な裁判運営を行う。
原爆投下や本土空襲といったアメリカの戦争犯罪は問われず、
(このため、日本軍による重慶爆撃は免罪となる)
勝者による敗者への報復が表面化してくる。
(仕方ないことではあるが)
被告席の席の制限から、ソ連側の容疑者ごり押しのせいで、阿部信行ら二名が第一次訴追から免れ、結果として岸信介らは被告としての出廷は免れる。

法律上・国際法上の問題点を利用して、日本の戦犯たちは保身を図る。
犯罪事実の認否を問われ、全員が「無罪」を主張するシーンには不快感を感じたが、二者択一を問うような裁判のすすめかたについても問題もある。
たとえ良心的な被告がいたとしても、連合軍がもっていたであろう「ナチス流の共同謀議」との妄想にも似た検察側の冒頭陳述について聞かれるのだから。
当時は「田中上奏文(メモランダム)」なる偽書の存在を連合軍は信じており、それをもとに「ナチス流の共同謀議」という怪しげな議論を組み立てたといわれる。
これが偽書なしいことが明らかになるとそれにかわる「共同謀議」にかかわるものとして扱われたのが広田弘毅内閣の「国策の基準」である。陸軍と海軍の利害調整のなかでうまれたこの文書が「田中上奏文」にかわるものとみなされたふしがある。広田が処刑されたのはこの文書にかかわった面があったとも考えられる。

そして有罪か無罪か二者択一でいえといわれるのだから。
「どう答えたらいいね!」

本当はこう聞てほしかった。
「(あのハチャメチャな)冒頭陳述は置いといて、あなたたちはこの戦争に対して、本当には無罪だと思っているのですか」「罪はなかったのですか」と。

考えれば、「ナチス流の共同謀議」で日本の戦争責任を問うという図式自体にボタンの掛け違いがあったのかも知れない。分かりやすい図式は真実の追究から離れていく。ナチスはともかく、日本に対しこの切り口で戦争責任を問うたことで、被告たちは「自分は無罪」といいやすくなったことは確かだ。

裁判では、多くの事実が明らかになっていく。
このことの意味は大きい。
戦後を生きてきた我々にとっての常識は、当時は非常識であったことを我々は肝に銘じる必要がある。
張作霖は中国人に殺されたのであり、柳条湖事件も張学良側の起こした挑発行動であった。「東洋平和」のために戦う皇軍を中国の人たちは感謝している。悪いのはこの日本の好意をみとめない蒋介石やソ連の手先どもだ。ミッドウェーでの戦いも勝利し、ガダルカナルもある程度成功したから撤退したのだ。(とはいえ、それならなぜ戦線が日本に近づいてくるのかという当然の疑問はあったのだろうが、口には出せない)。こんな中で、庶民は生きてきたのだ。
軍部や政府のいうこと、新聞に書いてあることは、たとえ胡散臭いと思っていたとしても口に出せない。異論を加えれば、特高警察や憲兵につかまり、拷問をうけ、下手をすれば死体で返されてくる。そうでなくとも、地域の人から「主義者」などといって、自分だけでなく、家族や知人も嫌がらせをされる。ときには子どもたちすらも信用できない。人びとはこうした社会に生きていたのだ。だからこそ、敗戦と同時に人びとは、真実を知りたがったのだ。ときにはなけなしの食料とも引き換えに。
こうした中で、一応の証拠をそろえて、日本及び日本軍の悪行を暴露した東京裁判は、人びとの目を覚ます大きな力にもなった。東京裁判がもっていた成果は多い。
多くの日本人は、自分たちが騙されていたことを知り、
日本軍が行った悪行の数々を知った。
この重要さは、強調しても強調しすぎることはない。

裁判では戦前日本の病巣が十分追及されないまま、欧米風の組織のあり方を日本に当てはめるやり方、個人責任を追求する議論が中心となり、明治憲法体制下の日本の病巣に手をつけられなかった。
ニュルンベルグ国際法廷流のやり方はナチスには有効であったが、日本向きではなかった。戦犯指名されなかった石原莞爾向きではあったが、戦犯指定された大部分の被告向きではなかった。実際に指名された戦犯たちの多くは、小さな権力を振りかざす卑劣な軍人であり、小役人でしかなかった。被告席に並んだ凡庸な戦犯たちが日本に悲劇をもたらしたことの意味を、裁判官や検察官はどれだけ理解できたのだろうか。

さらに、マッカーサーそしてアメリカ政府の意を受けたキーナン検事は、当然審理されなければならないはずの天皇の戦争犯罪・戦争責任に話を及ぶことを全力で阻止し、ついには東条にまで偽証を強要した。
こうして裁判は、本来の戦争犯罪、戦争責任の追及からどんどんと離れていった。
その間、外の世界で冷戦の過程が深化すると、外の世界とくにアメリカはやる気を失い、裁判の早期決着を図る。そして7人を絞首台に送ると、そそくさと裁判の幕を引く。
ちなみに、唯一文官として処刑された広田弘毅を総理大臣に推薦し引き出したのが、彼を処刑したときの総理大臣吉田茂であったことは、事態の意味を考える上で示唆的である。

他方で、第一陣のはずだった戦犯全員が有罪ならば、当然有罪であると推測しうる第二陣で裁かれるはずの戦犯たちは、裁判に掛けられることもなく釈放される。彼らは、自分たちを裁くはずだった勢力に取り入って、その支持の下に政界に復帰する。そして開戦の勅書に副署した戦犯岸信介が総理大臣に上り詰める。

東京裁判における「もやもや感」は、戦後の日本の「もやもや感」につながっていく。

とはいえ、東京裁判はやはり重大なトピックだったことは明らかである。
だからこそ、右派の勢力はこれ以後も、裁判の形式上の問題をあげつらって、裁判の事実自体、戦争の責任自体を否定しようとする。パル判事の意見書をねじ曲げて賞賛し、裁判への不信を煽る。

残念なことに、私たちの先輩たちは、そして戦後に生まれた私たちも、
日本人の手で、二度と同じことを繰り返さないという立場からの、本来の意味の「東京裁判」をしなかった、できなかった。
その「屈辱」を心に留めなければならないのではないか、
そう思った。

以上のような趣旨をFacebookにのせた。
ある友人から
「戦勝国の勝手な裁判という人もいるが戦争責任を認めたがらない人の勝手の言い分。裏取引もあるだろう、このような大きなことに完璧はあり得ない。一定の歴史的意義はあった思っているのですが。」
とのコメントをいただきました。
このコメントの意見もうけいれながら、少し書き直したのが上の文章です。
そしてこのコメントに対しての私のコメントが以下のものです。

意義はたしかにあるのです。とても大きい。
しかし天皇の免罪という大きなテーマ、さらに連合国側の戦争犯罪の免責、とりあえず何人かを殺して方をつけるというやり方、最終的には勝者が敗者を裁くというところからくる限界がありました。
それに乗じて、戦争を起こした連中が、戦争責任をあいまいにし、さらに「正義の戦争」とさえいいつのる隙を与えました。
その結果、自分で戦争責任に向き合おうとしなかった以後の日本、反省しない日本という戦後の日本の問題が生み出したのでしょう。
そこに「もやもや感」の正体があったのかもしれません。そして、裁判で裁いた側(責任をあいまいにしようとした人でもあるのですが)と裁かれた側が手を握り、本気で戦争責任を追及する人たちを妨害したというのが戦後の姿だったのでしょう。
映画で感じた「もやもや感」の正体は戦後日本のあり方の「もやもや感」なのかなと思ったりします。

「領土問題」をめぐって

「領土問題」をめぐって

第9回目の東北アジア史のオンライン授業がおわりました。(20,7,9)
前回までの「通史」がおわり、残り二回はテーマ史ということで、今回は「周辺国との領土問題」という内容です。
双方のマスメディアが「自国の論理のみを紹介している」中で、領有権をめぐる双方をいい分を確かめながら検討する内容でした。とくに以下の三点をめぐって話をすすめられました。
①「固有領土」という説明は歴史的に通用するのか、
②「尖閣諸島や竹島の存在を知っていた」ことが領有の根拠となるのか
③中国・韓国の強い反発の背景は何か、対立と妥協の歴史

いずれも納得できる内容でした。

とくに日韓国交正常化交渉の中で、「竹島の存在は、両国の国交回復の障害になるから爆破(!)してしまえ」という都市伝説のような話が、あったとかなかったとかいう話は笑えました。しかし、領土とは何かを示唆に富んでいるようにも思えました。
「爆破して、さっぱりした」と考えれば、解決策もでてくるのかもしれませんね。
今回の意見・感想のコーナーには、おおよそ以下のような内容(かなり加筆・訂正をしましたが)を書いておきました。
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ありがとうございました。
「領土」問題という生活人にとってどうでもよい問題なのに、各「国」・「国」民が角突き合している、この問題を考える上での貴重な示唆を与えていただいたことに感謝します。
 以下、本日の話を聞いて考えたことをやや理屈っぽく書かせていただきます。

前近代の東アジアは、朝貢=冊封体制にもとづくアナログな国際関係にもとづいて動いてきました。
これにたいし、19世紀になって、欧米諸国が主権国家体制(「万国公法」体制)をもちこんできます。そこでは、国境でへだてられた平等な国家が対峙しているというデジタルな原則に立っています。しかし、「平等な国家」というのは、欧米先進国にのみ通用する規定で、かれらが「文明」と認めない住民は、「国家を維持する資格」がない「無主地」とみなし、早い者勝ちで手に入れることができるという「無主地先占」の原則をもちこんできました。無人島などにたいしてはいうまでもありません。
ちなみに東アジアの諸国(「琉球王国」も含めて)は、文明国に準じる「半文明」とみなされました。そしてこの国際秩序をいちはやく導入したのが、東アジアでは異端の地位にいた日本でした。
*なお、両者を自分に都合よく利用したのが戦前の日本軍国主義であり、現在、自国の覇権主義の正当化に利用しているのが現在の中国であるようにおもわれます。

朝貢=冊封という原理にたっていた前近代の東アジア世界は、圧倒的な高度な文明を誇る中国の皇帝の「徳」をしたって周辺の君主が朝貢品を持って服属を申し出、中華帝国の皇帝が彼らを臣下としての「地位」と「暦」をあたえ保護することで、外交や内政の自由がみとめられるという、君主間、拡大解釈しても「民族」間の関係でした。
侵入と排除という関係が続いた中華世界の西半分とは異なり、おもに海で隔てられた東半分では、とくにこうした関係が強かったと思われます。
1873年、牡丹社事件(「台湾出兵」)にさいし、日本側の照会に対し、清が先住民を「化外の民」と表現したことは、朝貢を求めていない以上当然の説明でした。
この原理は東アジア諸地域でも一般的であり、支配の基本は貢納などを負担する民衆を把握するという属人主義であり、それと結びついた形での土地支配でした。人間が住んでおらず、収益をもたらすことも考えられない無人島などは支配という範疇の外の存在でした。

尖閣諸島

琉球と清との進貢船・冊封使が尖閣諸島を経由し、ときには停泊していたことは沖縄県立博物館の展示などを見ても明らかですが、当時の人びとにとって、無人島であるこの島がどちらの国のものなのか、などということは問題になりません。服属すべき人間がいないのですから。
さらに中国=清の理屈からすれば、この地球=宇宙全体が皇帝の支配下にあり、さらに琉球自体が属国なので、この無人島が中国本体のものか、琉球王国に管理を委託しているかなどは、議論の必要のないことです。しいていえば、公共の財産とでもいうべき存在だったのでしょう。
このように東アジアにおいて、無人島が「固有の領土」であるという考えは出てくるはずがなかったのです。にもかかわらず、「昔から自国領であった」と強弁することは、主権国家体制を原則とする国際秩序を前提とする「固有の領土」が存在したかのような論理は、現在の国際法を過去に反映させる暴挙です。
にもかかわらず、「固有の領土」を主張すれば、鎧の下から「無主地先占」という弱肉強食の議論が顔を出してきます。

竹島(韓国の表記では独島)

とはいえ、欧米列強の立場にたっても、19世紀段階では無人島の領有権ということはそれほど問題にならなかったのかも知れません。
19世紀、諸国が植民地化や開国を求めたのは、市場として有望な農業地帯であったり、軍事的な重要地点でした。無人島は無用の存在でした。アフリカの熱帯雨林や中近東の砂漠と同様に。
しかし20世紀が近づき、国際関係が緊張してくるとまず軍事的ニーズが高まります。植民地獲得競争が過熱し、さらには再分割をめざす動きも始まりました。列強同士の紛争も発生、軍事拠点がもとめられます。第二次産業革命は天然資源を必要とします。
たとえ無人島であっても、領海(現在は経済水域も)を拡大するという意味をもってきます。
そして、東アジアで、いち早く「万国公法体制」を採用した日本が尖閣諸島(1895年)や竹島(1905年)の領有を打ち出してきました。
尖閣諸島については1885年段階で開拓許可願いが出されていますが、日清間で両先島諸島を清の領土(新たな「琉球王国」の復活)という形での妥協が図られる中、黙殺されていました。

「領土」問題が、純粋に領土問題として存在したことはあまりありません。つねに政治とのかかわりでもちだされました。
たとえば北方領土問題は、鳩山一郎が進める「自主独立」=日ソ共同宣言路線、それが日ソ平和条約と歯舞・色丹返還という方向にすすむことを妨害するために、アメリカ=自民党吉田派が実現困難な四島一括返還を強硬に主張、米軍も返還される二島への基地配備をちらつかせることで、日ソ間の「雪解け」に水を差しました。

2012年、日本の尖閣諸島国有化に反対する中国のデモ隊

領土問題はつねに政治問題に利用され、ナショナリズムを利用して政権への求心力を図るためにも利用されてきました。
韓国では、大統領の人気が下がり求心力が失われてくると「独島」問題を持ち出すというのはよく指摘されことです。
2012年、民主党政権の尖閣諸島国有化にたいする中国での猛烈な抗議行動は中国政府に対する民衆の不満を日本に向けさせる目的があったともいわれています。

はっきりいえば、誰も住んでいない無人島の帰属などどうでもいい問題です。
ところがそれがナショナリズムを利用した勢力によって排外主義的に利用されること、領海・経済水域とそこにおける利権がからみ合っている以上、なんらかの形の解決が必要です。
日韓国交正常化交渉に際して、「竹島など爆破してなくしてしまえ!」という暴論があったという都市伝説もありますが、こうした国境問題というトゲが、不要な対立を引き起こしていることもたしかです。

こうした問題を解決するには、基本的には、国家が国境というもの区切られるという主権国家的な国際秩序を無力化させることが大切です。象徴的にいえば、国家の一部であることによって国家間のトゲとなっている存在を「爆破し、なくす」ことです。具体的にはこうした島を国家の枠組みからできる限り自由にすることでしょう。
EUでの経験は国境のカベを低くすることで長い間殺し合ってきた国々との間で友好的・平和的な国際秩序を構築することができることを示しました。ガルトゥングが主張するように、国境問題を平和的に解決しようという努力のなかに、あらたな平和的国際秩序構築という展望がみえてくるかもしれません。

追記:竹島(独島)爆破を発言したのは金鍾泌や朴正煕といわれてきましたが、最初に発言したのは日本側であるとの指摘もあります。
“http://www.f8.wx301.smilestart.ne.jp/kai/news/news-13suppl.pdf“