「準備室にて」カテゴリーアーカイブ

開戦の年に建てられた「慰霊碑」

「慰霊」ということ(後)
~開戦の年にたてられた「慰霊碑」~

「慰霊碑」は開戦の年に建てられた!

 前編では2019年4月1日付で「朝日新聞」が報じたマレーシアに残る「慰霊碑」の記事にかかわって、現地において「慰霊」を行うという行為を、戦後の「けじめ」という点にかかわりながら記してきました。
しかし、前編の最後で、この「慰霊碑」は、こうした範疇には当てはまらないことに気がついたと記しました。なぜならこの「慰霊碑」が建てられたのは、1941年、つまり戦争中、しかも開戦の年に建立された、正確には、建立されたことになっているからです。
とすれば、戦後の慰霊について記した前編の文章とは前提が全く異なっています。
以下、ネット上に記された他の記事なども参照しながら、この「慰霊碑」について考えてたいと思います。

「修復」という名の新たな「建立」?

Record china「「日本軍は英雄」?マレーシアの慰霊碑案内板に韓国ネットがため息」2019年3月28日(木)発信https:// ://www.recordchina.co.jp/b698498-s0-c30-d0058.html

いくつかの写真を見ると、慰霊碑は御影石で作られたピカピカ光っているお墓型の慰霊碑です。式典参列者の背丈から推測して2メートルはゆうにこえる、かなり背の高いものだということがわかります。今回、周辺も整備されました。他方、写真で見る限りこの碑のまわりに古い「慰霊碑」らしきものは見当たりません。
朝日新聞デジタルの写真から、碑の正面には「慰霊碑」という題字が刻まれ、左側面には以下の文字が認められます。

この地に眠る先人をしのび、平和の思いを込めて、この碑を建立する。
  平成31年吉日
  在ベナン日本総領事館

この碑文から見れば、在ベナン総領事館は修復というよりあらたに「建立」したつもりだったようにもみえます。碑文は前回見た「慰霊と祈り」という形式を踏襲します。
いくつかの記事を総合すると、この地に放置された日本軍の古い慰霊碑があったことに気づいた現地の人々が、日本人観光客への観光資源として利用することを思いつき、ベナンの日本領事館と相談し、慰霊碑を建立し、周辺を整備したというということだとおもわれます。
それなら、もともとの慰霊碑はどこにいったのでしょうか。本来なら横にでも置かれていそうなものですが、見当りません。一つの可能性としては、もともとの碑の一部を削って、修復したということですが。

「昭和16年建立」ということへの疑問

もとの慰霊碑が建てられたのは、1941年(昭和16年)と記されています。
アロースターの占領はこの年の12月12~3日です。1941年は約2週間強しか残っていません。さらに日本軍はシンガポールをめざして南進を急いでいます。ちなみにシンガポール陥落は翌年の2月15日です。このような時期に、このような条件下で「慰霊碑」を建てたことになります。
最初は、この記事の記述自体がミスではないかと考えました。現在の慰霊碑は石に文字を刻んだかなり大きな、本格的なものです。もともとの碑を修復したというのなら、短期間にこれだけ「立派」ものが建てる余裕があったのか、これだけのものをつくれる石工がいたのかなど、いくつかの疑問が生じます。
とはいえ、ネット上にある「朝日」の記事に先行する現地に取材した記事は、いずれも1941年建立と記してあることから、記述ミスではなさそうです。もとの碑に「昭和16年建立」と記されていたのだと推測できます。
1942年以降にたてられた(ひょっとすれば日本国内で作られた?)碑に、1941年建立と刻んだのかもしれませんし、逆に元の碑は木製やコンクリート製などより簡素なものだったのかもしれません。
修復というものの、写真で見ることができるように、今回新しくつくったという方が妥当だと思われます。ならば、本来の慰霊碑はどうなったのか、疑問はつきません。
とりあえず、元の碑が戦争中に建てられたことは確かみたいなので、こうした疑問は保留のままとしておきます。

戦意高揚の目的の「慰霊碑」

戦争中に建立されたとすれば、この碑は、前編で考察したようなタイプの「慰霊碑」とはまったく異なる性格をもちます。
現地の観光協会はこの碑を「日本の英雄を讃える記念碑」として売り出そうと考えたといいます。

もっとも問題となったのが、現地の観光協会がつけたこの「碑」の説明文です。全文がネット上の記事に掲載されていました。英・中・マレー語の3つの言語で記したうちの英文からの訳とのことです。

 “1941年、タイのシンゴラに上陸した約5日後の12月11日、日本の闘士たちはチャンドラとジトラ間の英印軍第5師団の第一防衛団を倒すことに成功し、アロールスターの街を征服した。
 日本の次なる標的は第11師団ミュレイ・リオン少将の統治下にあったケダ川の主要な橋だった。1941年12月13日午前10時10分、歩兵第11連隊からの指示を受けた朝井肇中尉はオートバイに乗り、英印軍が橋に仕掛けた爆弾の導火線を切断するべく、橋の北部に向かった。しかし、同時に爆弾が爆発し、彼を殺した。
 同じ部隊の2人の仲間、金子伍長も死亡し、中山伍長は重傷を負った。助けにやってきた仲間たちによる銃撃が続き、最終的に橋は確保された。
 1942年2月15日、シンガポールが陥落し、東南アジアの大日本帝国軍・山下奉文大将は、橋を征服した歩兵第11連隊の戦士たちの固い闘志を讃えるべく、感状を授与した。彼は「朝井肇中尉と彼の仲間たちの勇気と責任感は卓越しており、比類ない。彼らの闘志を見習うべきだ」と強調した“
林泰人「マレーシアに設立された日本兵慰霊碑への波紋。現地紙報道に見る『批判の理由』」ハーバート=オンライン 2019.03.28

記念式典の様子(現地紙 the SUN daily 24 MAR 2019

説明文はこの碑の建てられた当初の目的を見事に描き出してしまいました。
もともと、この碑によって「慰霊」されたのはケダ川をめぐる整備完成の記念式典のようす。戦いでの朝井肇中尉と金子伍長らの「英雄」的行為です。司令官である山下奉文大将から感状を与えられるという性格の「英雄」的行為です。マレーシアの人の命あるいは文化などを救ったというようなものではありません。作戦行動中の兵士たちに戦死した朝井中尉や金子伍長のように勇敢に戦うように叱咤激励する目的のものでした。
 ちなみにネット上のあるブログ(「犀の角」)の記事によると、この説明文の記事は1942年に朝日新聞社が発行した『大東亜戦史 マレー作戦』の要約・引用で、人物名などに誤りがあるということです。(https://sai001.com/malaysia-japan/)
その点では、日本各地に建てられ、「英雄」「軍神」である「肉弾三勇士」を讃えた像と共通した役割を担った性格をになう碑であったということができます。
なお、山下大将が朝井中尉らに感状を与えたのは1942年ということは、この碑の建立の年を考える上で、興味があることです。

「慰霊碑」を「負の遺産」として、

このように、もともとあった「慰霊碑」は私たちがレイテや沖縄で見ている慰霊碑とは全く別ものであることは明らかです。戦後建てられた「慰霊碑」が戦争によって殺された人々を追悼し、慰霊し、二度と戦争を起こさないようという思いで建てられたのと異なり、日本軍に勇敢に戦うようにと鼓舞するための「装置」でした。現地の人が詣らされた可能性も否定できません。
このような碑が撤去されないまま放置され、約70年後、よみがえったのです。
現地の観光協会は、戦争において日本軍がどのような存在であったのか、住民とくに中国系の住民にどのような振る舞いをしたのかなどについて、深く考えることのないまま、日本人観光客を招くための観光資源として利用できると考え、ベナンの日本領事館に「修復」と「整備」をもちかけ、日本の文献をもとに説明文を記しました。その背景には、マレー系住民と中国系住民の間の、戦争と日本兵に対する受け止め方の違いがあることも想像に難くありません。
日本領事館は、この碑のもっている意味も考えず、現地の人とくに日本兵によって残虐な仕打ちをうけ十分な「けじめ」ないまま過ごしてきた中国系住民の感情も考えないままないまま、「修復」に協力したのです。もっとも、もとの「碑」の姿が見えないことは都合の悪い古い「碑」を隠蔽し、一般的な「慰霊碑」という風に見せかけようとしたとも邪推が可能です。
しかし、それはあきらかに誤ったやりかたでした。「この地に眠る先人をしのび」というには、もともとの「慰霊碑」自体、問題の多すぎるものでした。日本軍の侵略のためにつくられた「負の遺産」だったからです。もし「慰霊碑」を建てるとすれば、もとの「碑」がフィリピンなどで戦後建てられた慰霊碑とは全く別のものであるという位置づけと意味を明確に記した上で建てられねばならなかったでしょう。もともとの「碑」があるのならそこに何が書いてあるのか、どのように利用されたのかを明らかにしたうえで、マレーシアの人に対する謝罪と慰霊、平和への祈りを明確にしめした新たな「碑」とともに、「負の遺産」であることを示しながら残すべきものだと考えます。

「戦争での死」を悼むことについて

わたしたちは「死者を悼む」「慰霊する」というと思考停止に陥る場合があります。しかし、その「死」がどのような意味をもち、「慰霊」がどのような方向性をもってなされたのかを考える必要があります。それ抜きに、死者を弔うことは大切なことだと一般化するべきではないと考えます。
さきに、戦後に建てられた「慰霊碑」は「戦争によって殺された人々を追悼し、慰霊し、二度と戦争を起こさないようにとして建てられた」と記しました。このいい方は妥当でないかもしれません。戦後建てられた「慰霊碑」のなかにも、このマレーシアの「慰霊碑」とさほど変わらないものを目にすることが多いからです。なくなった人を悼むあまり、その死を意味のあるもの、美しいものとして「顕彰」することを目にすることが多いからです。こうしていつのまに死者への弔いのはずが、戦後の「慰霊碑」をもともとたっていたマレーシアの慰霊碑に近いものにしてしまうのです。
こういったことは、戦争展などでの戦争への語りでも同様です。二度と戦争を行わないという方向で「戦争での死」を語るのか、死者を英雄視することで新たな戦争の道を掃き清めるものとなるのか、ときには厳しく問いかけることが必要だとおもいます。

現地に「慰霊碑」を建てるということ

「慰霊」ということについて(前)
~現地に「慰霊碑」を建てるということ~

フィリピンでの戦争にかかわる文章を書いていたとき、朝日新聞2019年4月1日に次のような記事が載りました。

朝日新聞 2019年4月1日付

かつて日本の占領下にあったマレーシアで、地元政府が旧日本軍兵士の慰霊碑に添えた説明文をめぐり、激しい反発が起きている。日本政府の財政支援を受けて慰霊碑を修復した際、兵士を「英雄」とたたえたためだ。旧日本軍による犠牲が多かった中華系の団体は今週にも日本大使館を訪れ、撤去を求める方針だ。
 ■財政支援の日本、内容把握せず・中華系団体が抗議
 この慰霊碑は北部ケダ州の州都アロースターにある。戦いの要衝だった橋の爆破によって戦死した旧日本軍の兵士らを追悼するため、1941年に建設された。長く破損したまま放置されていたが、日本のペナン総領事館からの財政支援を受け、地元政府などが修復。3月21日に落成式が行われた。
 ところが、慰霊碑の横に、兵士を「英雄」とたたえる説明ボードが設置されたことで、地元で非難がわき起こった。マレーシアでは戦時中、中華系を中心に多くの住民が旧日本軍に殺されており、地元メディアは「侵略軍がなぜ英雄なのか」などと連日報道。華人団体や野党が抗議行動を繰り広げた。
 批判の高まりに、説明文を考案した歴史協会ケダ支部は「慰霊碑を歴史ツアーの名所にして日本の観光客を誘致したかった」と釈明。州政府の担当者が謝罪し、説明ボードも撤去されたが、その後も慰霊碑自体の撤去を求める声が広がり続けている。
 抗議を続ける華人団体「中華大会堂」チェン・ライホック副会長は「戦争被害を受けた人々の傷口に塩を塗る行為。慰霊碑の再建自体が配慮に欠ける」と話す。
 クアラルンプールの日本大使館によると、総領事館は慰霊碑の再建費は出したが、説明ボードの内容は把握していなかった。日本大使館は「ケダ州政府とともに冷静な対応をしていきたい」としている。
 アロースターはマハティール首相の生家がある地盤で、現在は首相の三男のムクリズ氏がケダ州首席大臣を務める。騒動は野党が親日家として知られる首相やムクリズ氏を攻撃する格好の材料になっている。(アロースター=守真弓)

 レイテ島やサマール島で慰霊碑をまわってきただけに、戦争中に日本軍が攻め込み、戦争中に占領し、さらに戦場とした土地に日本兵の「慰霊碑」を建てることの意味を再度考えました。

侵略者の「慰霊」行為は「不快」な行為

最初に押さえておくべきことは、日本人による「慰霊」とその象徴としての「慰霊碑」は、侵略をうけた側からすれば本質的に「不愉快」なことだということです。
この記事の舞台となったシンガポールやマレーシアでは、おもに中国系住民(華僑)が大量虐殺の対象となりました。また私が訪ねたフィリピンでも「バターン死の行進」にはじまり、ゲリラ掃討戦にかかわる住民虐殺、戦場となったレイテ島やルソン島での戦闘に巻き込まれるなどフィリピン人の犠牲者は100万人を超えました。
さらに、日本は、食料や資源を調達する目的での強奪、その「代価」としての軍票(軍が発行した不換紙幣、無制限に発行されたため事実上価値をもたない)発行・使用による破滅的なインフレーションなどを引き起こし、住民の生活や生産基盤を破壊し、耐えがたい苦しみを与えることも多かったのです。
このように、マレーシアでも、シンガポールでも、フィリピンでも、日本兵は侵略者以外の何者でもありませんでした。現地の人から「悪鬼」のように恐れられた日本兵も多くいました。

現地での「慰霊」行為が成り立つために

したがって、現地住民にとっては、日本人による「慰霊」とは、自分たちを苦しめた人間の関係者が、自分たちを苦しめた人間を弔うことです。それをどのように迎えればいいのでしょうか。厳しい言葉を浴びせかけたり、ものを投げつけるという選択肢も可能です。遺骨収集の受け入れや慰霊碑、慰霊行事を断るという選択肢もあります。
しかし多くの地域では、受け入れました。家族を失ない、つらい思いをした人への同情もあったのかもしれません。遺骨収集や慰霊団が落としていくであろう「お金」が必要でもあったでしょう。さまざまな葛藤の中での受け入れでした。

「慰霊」が成り立つ前提としての「儀式」

しかしこうしたことがなりたつためには、「けじめ」をつけるためのいくつかの「儀式」が必要でした。
一つは公的なレベル、政府間での「けじめ」をつけることです。
その点で、フィリピンは条件に恵まれていたかもしれません。アメリカの影響下とはいえ自治政府が、その影響下に独立します。日本政府に対応しうる政治主体が存在しました。日本との戦いにおけるフィリピン人ゲリラの活躍を、アメリカも認めていました。
それにたいし、マレーシアはマレーシア人ではなく宗主国イギリスが代行して日本と対応する形となります。イギリス人にとっては、住民の被害よりも、イギリス軍捕虜の虐待などが重要でした。
また多民族国家マレーシアの特殊性もあります。日本軍はこの地の支配にあたり、住民を人種によって区別して支配しました。中国系住民は「敵」とみなして残虐な対応を、マレー系住民には寛容な態度で臨みます。それにより両者の離反を図りました。今回の出来事に裏にもこうした事情が隠れていると思われます。

「儀式」その1~戦犯訴訟

「けじめ」をつける「儀式」の一つ目は、戦争犯罪者の処罰でした。
連合軍は、マレー半島やフィリピンなど現地で、さらに東京と横浜で、戦争犯罪人を裁判にかけ、約1000人におよぶ人間を死刑に処すなどの処罰を行います。
そして、こうした判決を、日本政府がサンフランシスコ平和条約の第11条において承諾、戦争犯罪の問題はカタがつきました。これが最初の「儀式」です。サンフランシスコ平和条約の全文はここ)

なお、実際の裁判においては、さまざまな問題があったことは事実です。本来裁かれるべきものが日本に逃げ帰ったり、連合国側の都合で訴追されないこともありました。また現場で上からの命令をうけて「手を汚した・そのように見えた」兵士・軍属たちが不十分な証拠で裁かれた例も多々ありました。
勝者の裁判であり、一方的な論拠で裁かれたとの主張もあります。現地の裁判では、人違いや、証拠不十分という例もあり、弁護士・通訳抜きの裁判も多くあります。裁判よりも復讐の思いの方が先行した場合が多くあったことも事実でしょう。また、戦争責任者を裁いた東京裁判では国際情勢の変化から決着を急いだ面もありました。
逆に日本による侵略・占領によって塗炭の苦しみを強いられた現地の側からすれば、戦争犯罪の規模に比してまったく不十分であるという印象を持った人も多く、寛容に過ぎるという批判もあるでしょう。
そういったことすべてを含めて、政府間では「カタをつけた」のです。戦争犯罪人への判決そして処刑・処罰したという事実を日本が国家として認めたのです。
戦争指導者であるA級戦犯が合祀された靖国神社への政府関係者の参拝に、世界が神経質になるのは、この点にかかわるからです。サンフランシスコ平和条約で確認された戦争犯罪を日本政府が否認しようとしている、日本は戦争責任を認めようとしないとみえるからです。

「儀式」その2~賠償問題

戦争犯罪とも重なる問題ですが、「けじめ」をつける二つ目の「儀式」が戦争被害にたいする賠償問題です。
本来なら賠償問題はサンフランシスコ講和会議の席上で決着がつけられるべきでした。しかし西側陣営の一員としての日本の「独立」を急ぐアメリカは、会議で、条約で、賠償問題を扱うことをさけ、減免、あるいは賠償に応じるとしてもその額を軽減する方向をうちだしました。
平和条約(安保条約も)の「実質的なライター」のダレスは、こうした方向で、戦時被害を受けた東南アジアの国々など迫りました。これをきらったビルマ(現:ミャンマ)は会議に参加せず、フィリピンは強い不満をもちつつもアメリカに押し切られる形で条約に調印します。
なお日本が最も迷惑をかけた中国(中華人民共和国も中華民国)は参加せず、植民地であった「朝鮮」代表(韓国も北朝鮮も)も呼ばれませんでした。しっかりとした決着をつけなかったという「負の遺産」が現在の「歴史問題」につながります。
その後、東南アジア諸国などとの、賠償問題(別の形式をとることもあったが)は、二国間交渉を経て、実際の被害からみると非常に少ない金額で、しかも日本側の役務提供という日本資本に有利な形で決着がつきました。
現地の人には不満が残るものではありましたが、「賠償」にかかわる問題は、会議に不参加のビルマを含め、いちおう決着しました。
こうして、多くの問題はあるものの中国や朝鮮半島などを除いて、一連の「儀式」が完了、政府間の「けじめ」がつけられたことになります。

「上からの解決」と「公的な慰霊施設」の建設

比島戦没者の碑 日本政府のフィリピンにおける戦没者慰霊事業として建てられたもの、厚生労働省のHPによると碑文は「ない」。(1953)

もちろん、こうした決着は国家同士の、「親分」間の「手打ち」にすぎません。
戦争のなか、日本軍の行為によって傷ついた人々が日本を赦すかどうかはまったく別です。とはいえ、政府間の合意は、住民にとってもひとつの「けじめ」にはなりました。

「相手も謝っているのだから許してやろう」と考えた人もいたでしょう。不承不承ながらも、了解した人も増えてきたでしょう。「はしごをはずされた」。それでも「赦せない」と考える人も当然いたはずです。
ともあれ、政府間で「けじめ」がついたという事態を踏まえで、遺骨収集事業が始まり、慰霊団も派遣されます。現地政府の協力を得て慰霊碑も建てられ、共催で行われる慰霊行事も実施されました。こうした事業は、上に記したような「儀式」を経ることで実現したのです。(慰霊にかかわる問題ではここでも論じています。)

双方の配慮のもとでの「慰霊」活動の開始

しかし政府の協力を得たとしても、釈然としない人がいて当然でしょう。最初に述べたように、侵略者の家族がやってきて、自分たちを苦しめた人たちに手を合わせるのですから。
日本人戦死者の遺族たちは緊張しながら、海を渡っていきました。日本政府も緊張しつつ、事業に協力します。

フィリピン・レイテ島ドラグの「垣兵団慰霊碑」題字は記されず、日本語と英語の以下の碑文が記される。「ここは太平洋戦争に於いて、比・日・米の多くの戦士達が祖国の為に激しい攻防戦の中で無残に散り果てた痛恨の地である。再びあの愚かにして悲惨な殺戮を繰り返さぬ為に(略)不戦の誓いを込めて、弔魂の誠を捧げる共に悠久の平和を祈念してこの碑を建立するものである。」

しかし、多くの人たちは思いがけない歓迎と暖かい言葉をうけます。このことが慰霊団の人を感動させました。
初期の慰霊碑の碑文には地元の人々の「目」を意識し、感謝と平和への決意、ときには謝罪のことばも刻まれます。
現地の人々に迷惑をかけたことや双方の平和と友好を求めるといった趣旨の碑文が現地の人々にもわかるように英語や現地語でも記されます。
数次にわたる遺骨収集事業が実施され、遺族会や戦友会などの慰霊団も派遣されました。日本が豊かになると個人的に現地を訪れる人もでてきます。
こうしたことが可能となったのは現地の「協力」あってのことでした。感動した人々のなかには、帰国後も現地の人々と交流を続ける人もいました。さまざまな「お礼」や寄付の意味をこめた援助も行われました。
しかし、いつしかお金を媒介とした関係という性格が生まれてきたことも事実です。現地の感覚とかけ離れた多額の謝礼や寄付は、新たな問題を生みかねないものでした。

「慰霊」事業をめぐる問題の発生

実際に現地に行って日本人が建てた慰霊碑を訪れると「自らが『碑』の管理者である」と名乗る人がときどき現れます。不審に思える人物もいましたが、実際に管理してくれたり、案内してくれる方にはやはりお礼は必要と考え、いろりろと話を聞き、ドライバーにも信頼できそうかを尋ね、妥当な額を渡しました。
しかし「本当かな」という気持ちものこり、「本当に世話をしている方にお礼できていないのでは」との思いもありました。
このように慰霊碑の管理や協力が収入になるという状況がうまれるなか、ルソン島ではフィリピン人の墓から遺骨を盗み、旧日本兵のものとして日本側に売りつけようとした事件も発生しました。
時間がたち、戦争へのリアルな記憶が薄れると、日本人の間でも「現地の目」を気にすることが減りました。日本語のみで記され、現地の人への配慮を欠いた慰霊碑などが増えてきたようにおもわれます。
慰霊碑は現地の人の協力なしには維持できません。慰霊に訪れる人々が減少するなか、その慰霊碑に共感できるなにかがなければこうしたなか慰霊碑は消えていかざるを得ないのでしょう。建てた人たちが慰霊碑を撤去するという事例もふえています。

あるべき「慰霊」とは

フィリピンの歴史家レナト=コンスタンティーは次のようないらだちの言葉を発しています。

長い間くすぶっている不満の原因は、過去に植民地とされた人々に対する日本人の無神経さに由来している。フィリピンのレジスタンスの英雄たちの碑がないのに、フィリピン各地に日本が金を出して、日本人戦没者の慰霊碑が建立されたことに対して、フィリピン人は心を痛めてきた。

慰霊と謝罪の碑(サマール島)  「ここサマール島においては、日本の天皇の軍隊、特に京都からの軍隊によって残虐・非道で人権侵害の行為が行われました。私たち京都市民はそのことを心から謝罪します。そして今後カルバヨク市やサマールの人々と、京都市民のより強い、より長い友好を求めたいと思います。」

日本人が戦死した日本兵のために建てた「慰霊碑」は、現地の人にとっては「見たくない」、本質的に「不愉快」な代物です。あくまでも現地の人の「好意」や「配慮」で、場合によっては自らの感情を押し殺しながら建てさせてもらっているということをつねに頭の中に置いておく必要があると思われます。
サマール島カルバヨクには、「慰霊と謝罪の碑」という碑がたてられました。この「碑」は、サマール島で日本兵が犯した残虐行為をしっかり見すえて、そのことを謝罪し、今後のあるべき友好関係をめざそうと考えています。
(具体的な内容についてはここを参照)
わたしたちは、わたしたちの先輩たちが各地で行った行為を再度検証し、あらたな友好関係をつくりだすのか、こうした視点を持ちながら、「慰霊」のありかたを考えていく必要があると思います。

おわりに

ここまで書いてきて、もう一度「朝日新聞」の記事をみなおすと、私が大きな間違いを犯していることに気づきました。この慰霊碑を、勝手に遺族が戦後の建立したと考えていたのです。この前提自体が誤りでした。したがって、ここで記したことの多くは今回問題となった「マレーシアの慰霊碑」とは、かなりずれてきます。この点については後編で記すことにします。

<つづく>

参考文献:中野聡×荻上チキフィリピンで日本軍は何したのか?」(SYNODOS 2016.03.01)
     中野聡「追悼の政治――戦没者慰霊をめぐる第二次世界大戦後の日比関係史――(WEB公開版)」

 

感謝!二〇万アクセス突破

「日本近現代史の授業中継」のホームページへのアクセス数が、昨七月十二日で20万件を突破しました。ことしの一月から約6ヶ月で10万件ものアクセスがあったことになります。本当にありがとうございました。
とくに、今年初めにUPした「世界史Bの授業プリント」など教材にたいするアクセスの多さが追い風になりました。
本編はミスに手を入れる程度で、「準備室」「自習室」の内容が多くなり、たいそうで授業では使いにくいものも多くなっているかとおもいます。初心に戻って、先生方にとって役に立つ内容も充実していきたいと思っています。
また本編についても、とくに近世の部分などで古い研究に依存した部分もあり、手を入れたい部分があります。どういう風に直していけばいいのか、少し考えていきたいと思っています。とりあえず、近世については「自習室」の「日本近代史のスケッチ」第1章や「準備室」などであたらしい研究成果を組み込んでいますので、もしよろしければ、ご覧ください。

ともかく、このように多くの方にみていただいたこと、まことに感謝しております。本当にありがとうございます。今後とも、よろしくお願いします。

なぜ発砲できたのか~韓国映画「タクシー運転手」を見ました。

なぜ「なかま」に向けて銃が撃てたのか?

遅ればせながら韓国映画「タクシー運転手」を見ました。一九八〇年、韓国の光州で当時の全斗煥軍事政権が起こした大規模な住民虐殺事件=光州事件での実話をもととした韓国映画です。

韓国映画「光州5・18」 2007

10年ほど前、「光州5・18」を観て、なぜこんな事件のことをあまり知らないまま過ごしてきたのか、自分が深く考えていなかったということにショックを受けたことを思い出しました。

その時も、今回も、一番気になったことは、なぜ兵士たちが市民に発砲できたのかということでした。
同じ言葉を話し、自分たちのよく知っている歌を歌う人々(前回の映画では「国歌」だったと思います。今回はこのシーンはありませんでした。日本でいえば「ふるさと」?「翼をください」?みたいな感じかな。)。
反抗的な若者だけでなく、老人も子供も、自分たちの父親や母親のようなひとびとにもひとことで言うと「どこにもいるような普通の人たち」に、銃口を向け、殴りつけ(ここまではありえますがついには射殺するのです
もちろん、激しい葛藤を感じた兵士もいたでしょう。(今回の映画でも分かっていながら見逃す「石橋山の梶原景時」のような兵士を、それを表現していました)

それが軍隊の本質だ。軍隊は「国家の暴力装置」なのだから、と訳知りな言葉が聞こえてきそうです。たしかにその通りですし、私も同意します。しかし、それでも、なぜ?という言葉が頭をよぎるのです。暴力装置の暴発が革命を引き起こすことも多いのですから。 

朝鮮戦争のなかで起こったこと

 

ここ数週間程、韓国の現代史を学んでいるのですが、そのなかで気づいたのが、朝鮮戦争中の、あるいはその前後に多発した互いに虐殺しあうというあまりにも無惨な歴史の存在です。(例えば済州島四・三蜂起)。

朝鮮戦争の推移(帝国書院「図録日本史総覧」P295)

少しリアルに考えるため、朝鮮戦争のことを考えてみます。
戦闘の経緯をみていきます。1950年6月25日、開戦と同時に北朝鮮軍は三八度線を越えて一挙に南下し、ソウルを占領します。韓国軍は大統領の命令で牢獄にいた政治犯を全員殺害し、住民を置き去りにしたまま、避難民で殺到した橋を爆破して逃げ去りました。「北」軍の進軍は早く、韓国軍とそれを支援する米軍を主体とする「国連軍」は釜山周辺に押し込まれます。「北」の主張する「南進統一」が間近と思われました。「北」軍は、占領地域の住民を義勇軍などに組織して自らに協力させます。他方、地主や警察官・官僚などを反対派とみなし殺害する事件もおこりました。
9月15日、「国連」軍の仁川上陸作戦が成功すると状況は一変します。最前線にいた「北」軍は取り残され、ゲリラ戦に移ります。韓国軍は「国連軍」の支援のもと、敗残の「北」軍の掃討戦にうつります。義勇軍に参加した人はもちろん、「北」側を支持したとされる人々(支持者だけでなく、やむなく支持したものも、誤解によってそう思われたものも)もその一味とみなされ、つぎつぎと殺害します。

朴正熙は仲間を売って生きのびた!

朴正熙(1957年)

戦闘の各場面で、命の危険を感じた人たちは故郷を捨て「北」に「南」にと避難します。またどちらかの影響下に入ります。そして支持している側が故郷を制圧するともどってきて、自分たちを追った人々に報復します。自分の命を守るために仲間を売る者も現れます。軍事独裁政権下に韓国の経済発展の基礎をつくった朴正熙もその一人でした。朴正熙は韓国軍における南朝鮮労働党(=共産党)の秘密党員でした。捕らわれたかれは、なかまの名前を積極的に話すことで命を長らえます。こうした経歴をもつ人がより苛烈な迫害者となることは、古今東西を問わずよくあることです。

戦争に翻弄される人々

ソウルにもどった韓国軍は自らが見捨てたにもかかわらず、残されたソウル市民に疑いの目を向けます。「北」側に協力したではないか!と。そして親「北」派とみなした人々を殺害します。恐れた人々は「北」に向かって逃げていきます。
「国連」軍が三八度線を越えてさらに北上、平壌も制圧、中国国境に向かって進みます。今度は「北」で同様のことが起こったことはいうまでもありません。
ところが、こうした「国連」軍の動きに危機感を持った中国が、11月「中国人民義勇軍」という名で大軍を派遣すると、再び戦況が逆転します。「南」側についた「北」の人々は南に逃れ、逃げ遅れたものは迫害されます。12月には平壌が奪回され、翌1951年1月再びソウルをも占領されます。「国連軍」はふたたび体制を立て直します。3月にはソウルを奪還、その後、戦局は膠着化し、ほぼ現在の軍事境界線附近で両軍がにらみあい、南北間の人々の行き来は止まります。大量の離散家族が生まれました。

人々は命をうばいあった。

私たちはついつい軍の動きのみに目を奪われがちです。そのなかで多くの住民が、右往左往させられたのです。逃げ惑ったという言葉は妥当でないかもしれません。現実はもっと深刻です。人々は「北」か「南」かを迫られ、「敵」となった人とたたかわされます。「戦い」は戦場だけではありません。自分の生まれ育った場所であり、逃げ惑う人々への「山狩り」であり、それから逃れる恐怖であり、疑わしい村人への拷問や虐殺です。こうした「戦い」です。憎しみは憎しみを生みます。隣人への「恐怖」は「やられる前にやってしまえ」という感情を生み出します。親しい人の死や自らへの迫害は強い復讐心を生みます。命からがら逃げ回った体験はその原因を作った人たちへの怒りをうみます。怒りと恐怖、復讐心、暴力が暴力を生み、すべてを支配します。

「あの行為」を「正統化」するために。

光州事件 韓国の国旗を掲げ「民族民主化大集会」のため校門を出た全南大学の教授ら。「光州事件とは 1980年5月、韓国の街は戦場だった。」吉野太一郎huffpostNEWS 2015年05月19日以後、光州事件の写真はこのブログから

こうしたなかで発生したのが数多くの惨劇でした。その体験はあまりに生々しいものです。人々はその死骸とともに、「記憶」も秘かに深く埋葬しました。
耐えがたい体験を耐えるには自らの行為を正統化する「ことば」と論理が必要です。その正統化の論理が「アカ(共産主義者)」「スパイ」、「『北』の手先」「民族の敵」といった一連のことばです。このことばを用いることで「こうした連中だったから殺されて当然だった。自分たちの行為は『正義』なのだ」という理屈が成り立ちます。さらに、この論理は、過去だけでなく未来に向かっても投影されます。「共産主義者、スパイ、「北」の手先、民族の敵は殺してもかまわない」という風に。
重要なことは、こうした認定は「事実」である必要はないのです「事実」であるか厳密に追求することは「危険」です。それは自分たちの「行為」の「正当性」を問うてしまうからです
こうしてこの論理は、
共産主義者であろうが、なかろうが無関係に適用されました。
相手にこの言葉を投げつけ「敵」とみなせば、多少乱暴なことをしても自己正当化できるのです。自分たちの「暴力」を「正義」とできるのです。
韓国でこの論理を多用したのが朴正熙ら軍事独裁政権でした。「反共法」が軍事独裁政権維持の根拠となりました。

『北の手先』論が隠したもの

光州事件 https://www.huffingtonpost.jp/2015/05/19/kwangju-35th-aniv_n_7311100.html

この用法にはかれらにとって、もう一つの利点がありました。「北」の脅威、共産主義の脅威を強調することで、日本軍の軍人(正式には「満州国軍」ですが)であったという過去を後景に置くことが出来るという効果でした。かつての「親日派」に支えられた軍事独裁政権にとっては非常に都合がよい論理でした。韓国軍の中には旧日本陸軍の体質・DNAが濃厚にながれています。韓国軍は旧日本軍のOBによって組織されたと入っても過言ではありません。かれらが民族主義派などの軍事組織関係者を排除し、アメリカの援助の元に育成されたのです。日本軍のDNAは韓国軍がベトナムで犯してしまった残虐行為にもつながったとの指摘もあります。

「北の手先」は殺してもかまわない!

今回の映画の中でも、私服将校が「アカは裏切り者だ、殺してもかまわない」といういい方をしていました。自分や自分たち、軍隊や軍事政権に逆らう者は「アカ」であり、「『北』の手先」だ。だからどのように扱ってもかまわない。殺してもいいのだという論理が光州事件のあのシーンのなかには確かにありました。同様の理屈は「北」でも同じように用いられていることでしょう。

韓国に「民主主義の伝統はない」か?

ドイツのシュピーゲル誌に掲載された、光州事件で死んだ父の遺影を持つ幼児の写真 (上記 HUFFPOSTNEWS)より

しかし、韓国の人々は、こうした論理を克服しつつあります。この映画の存在自体がそうですし、朝鮮戦争前後に「秘かに深く埋葬された『遺体』」を掘り起こす取り組みがすすみました。それは「象徴」的な意味だけでなく、現実の「遺体」を発掘するとりくみでもあります。
また、日本帝国主義の植民地支配を告発する以上、韓国軍がベトナムで犯した残虐行為に目をつむってはならないという声も出てきました。
このように、韓国の人々は「民族の恥部」ともいえるさまざまな事件、いまだに生々しい傷口をを切り開き、ときには映像化し、意味を問いかけ、向き合おうとしています。わたしはこのような人々に敬意を表したいと思います。

韓国の歴史家が「韓国には民主主義の歴史がない」と書いていましたが、しかし私は反対です。私たちが一九七〇年代にみてきた「朴正熙の下にあったあの国」を、この映画が作れるまでにした人々、触れることの出来なかった傷に向き合える国にした、それは、光州事件に象徴される韓国の人々の民主主義をもとめる力の成果なのですから。

千本釈迦堂にて

FBに書いた文章を転載します。

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医者に血糖値が高いと言われたので、B大学まで歩くこととした。

途中で千本釈迦堂に寄り道。

この辺りで戦われた内野の戦い(明徳の変)で討たれた山名氏清の碑と、氏清らの菩提を弔い、経文を納めたお堂を受け継いだ建物をまず見る。さらに氏清と山名宗全

山名氏清の碑

の念持仏が納められたお堂も。(ちなみに、「内野」とは、かつての大内裏があった場所に広がっていた荒れ地のこと)

 

国宝千本釈迦堂本堂

国宝の本堂は応仁の乱を生き延びた数少ない建物として有名。

千本釈迦堂本堂内部、応仁の乱における刀槍の痕

堂内の柱には、乱の時の刀や槍の傷が多数見られる。この堂内で戦闘があったことを実感する。横に並ぶと首から胸くらいの高さに傷が集中、命のやり取りがあったことがわかる。

ふとパリのペール=ラシェーズ墓地でみた連盟兵が銃殺された壁の弾痕を思い出す。撮影禁止の文字がないのをいいことに、パシャり。

 

宝物館、素晴らしい仏像が並んでいる。(こっちは撮影厳禁の文字、多数)。

慶派の定慶による六観音、綺麗な顔が印象的。六道とのかかわりで作られたことを考えながら観る。修羅道の十一面観音の目の下の傷がなぜか、涙のように見えた。また餓鬼道の准胝観音だけが異形、不思議に思う。

十大弟子像(千本釈迦堂HPより)

十大弟子は、半分が修理中で、五人だけが並ぶ。さすがに快慶。ふと「第一説法」の弟子の姿が日蓮像に似ているような気がした。快慶と当時の鎌倉仏教の偉人たちとは交流があったとも考えられ、彼らの姿が、その仏教への真摯な思いとともに、仏の弟子として造形されてもおかしくないと夢想する。だったら、「受戒第一」の弟子は明恵で、釈迦の実子の羅睺羅はいい氏のボン「道元」か。優しそうなお顔の弟子は法然。親鸞は、快慶の師匠の運慶はだれか?などとひとしきり妄想する。

千本釈迦堂境内にて

その後、B大学へ向かったはずが、いつの間にか90度曲がって、R大学の方に来てしまった。
ということで、今R大学図書館でこの文を書いている。今日は、5時まで、閉館も近い。

注:パリのペール=ラシェーズ墓地の壁とは、1871年のパリ=コンミュンに参加した市民兵たちが集められ、次々と銃殺された壁のことです。柔らかい石のちょうど胸のあたりに、無数の銃痕が残っており、そこで行われたことを物語っていました。

パリ・ペールラシェーズ墓地・連盟兵の壁(いい町.netさんのブログより転載)

 

 

楠木正成と湊川神社

神戸に行って、ただで帰るのは面白くないので、湊川神社へ行く。高速神戸の駅を上がったところが神社の入口。

楠木正成墓所入口

右側に楠木正成の墓所がある。墓を建てたのは徳川光圀(水戸黄門)。正成の墓の墓碑銘を書いたのが光圀で、撰文は朱舜水。

楠木正成の墓石
正成の墓石の拓本。事務所で販売している。

 

 

 

 

 

 

 

 

何枚か撮したがうまく写らないので、売店にあった拓本も添えておく。

朱舜水撰の墓碑銘の拓本
徳川光圀(水戸黄門)像と徳富蘇峰撰の光圀顕彰碑

この縁で、光圀の銅像が建てられ、さらに光圀顕彰の石碑も建てられる。撰文は徳富蘇峰。漢文でなく現代文でかかれ
る。
横の石灯篭をみると、元治2年とか、文久2年と言った幕末の年号が多いのに気づく。幕末期、楠公ブームが到来していたことを物語る。石灯籠の寄進者の多くは尼崎・(桜井)松平家。この頃はこの地は幕領とされていたが、この地の領主であった時期もあったのかもしれない。
最初のものは文化年間。この頃から、大楠公崇拝、尊王論が高まりを見せたことを物語っている。勝手な推測をするなら、尊王論、歴史ブームの高まりの中で、尼崎・松平家が領内のこの墓所を観光資源⁈としようとしたのかもしれない。

 

岡藩士奉献灯籠2

別の献納者の石灯籠も見つける。名前がなく「岡藩士」とのみ記され、献納の時期は元治2年(慶応元年に改元される)。岡藩は九州・大分の竹田にあった藩。この時期、「藩」という語は正式にもちいられておらず、尊王の志士らが自称したことから考えて、尊王の志士と考えられる。
岡藩の志士といえば、小河一敏の名が浮かんでくる。
調べてみると小河は文久2年の寺田屋事件で薩摩に拘束され、岡藩に引き渡されたが、一時釈放されていたとウィキペディアに記されており、その可能性は高いと思われる。小河はのちに明治天皇の側近となるので、湊川神社の隆盛に影響を与えたと考えて良いと思う。
宝物館は休館日なので、境内をうろうろ。

楠木正成像 湊川神社ではなく湊川公園内に設置されている。現在は仮住まい。

正成の銅像くらいあるだろうと思ったがなかった。、本殿の横に正成「殉節」の地なるものがある。忠君大楠公が作り出される中での遺跡か。先の墓所といい、「殉節」の地といい、歴史ブーム、尊王ブームの中で、江戸後期にはじまり、幕末・明治と時代を経るにつれ、整備され、神話化されていったと考えられる。
楠木正成という人物、歴史上の「悪党」としてみた場合、非常に面白い人物なのだか、尊王の偉人として位置づけられるに従って、面白くなくなる。本気で天皇を守るつもりなら、簡単に死なずにもっとやり方があっただろう!とツッコミたくもなる。そもそも、みんな自決したのに、正季が「七生報国」と言ったなんてこと伝わらん!太平記以来の創作だろう。リアル正成兄弟よ、こんな風に神様として、祀って欲しかったの?、などと考えてしまう。

羽仁五郎の「教育勅語」論

昨年12月、FBに投稿した文章に少し手を入れて再録。

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「都市の論理」の画像検索結果
羽仁五郎 戦前以来の講座派マルクス主義の立場にたつ歴史家。戦後は参議院議員となったり、大学紛争では全共闘派の立場に立った発言をするなど、行動的な歴史家であった。

大学の授業「現代日本政治論」の資料で高校時代によんだ懐かしい言葉に再会した。
当時のベストセラー『都市の論理』の中で、歴史家羽仁五郎本人が紹介した一節。本の内容は、ほとんど忘れたけど、この一節だけは頭の中にドラマの一部のように残っていた。『授業中継』のなかにも、この一節を生かしたつもりだ。

この一節のもとになった参議院での発言の議事録が、授業の中で紹介された。

それは、教育勅語排除決議にかかわる参議院議員であった羽仁五郎自身の発言。
羽仁はいう。「教育勅語というものは、今まで非常に悪い影響があったのだということを国民がはっきり認めること」が大切である。
何故か、それは「道徳の問題を君主が命令したことにある
そして、羽仁の真骨頂とも言える理論が展開される。

たとえ、完全なる真理を述べておろうとも、それが君主の命令によって強制されたところに大きな間違いがあるのである。だから、内容に一点の瑕瑾がなくとも、完全な真理であっても、専制君主の命令で国民に強制したという所に間違いがある。

「都市の論理」の画像検索結果
羽仁五郎著「都市の論理」  学生運動が盛んな頃、新左翼系の学生たちのベストセラーとなった。

『都市の論理』で、羽仁は振り返っていう。
親孝行は大切だし、そのことを書いているなど教育勅語にもいいことがあるという議員がいた。だからぼくはいってやったんだ。だったら天皇に命じられたから『親孝行』をしたのかと。するとその人は黙ってしまったよ(この一文は小生の記憶をもとに、羽仁の口調を再現した創作だから使わないでくださいね。)

そして、羽仁の参院での発言は戦争に突入していった日本の近代史に重ねて論じられる。
やがては全く違ったことが、専制君主の命令によって命ぜられて、国民が率いてこれに従わざるを得ないで今日の不幸を招いたという所に、重大な原因があった
だから
国民は自発的にこれを痛切な批判をもってこれを廃止する。そうして将来再びこういう間違いを繰り返さないということが要請されているのであります。」と。

羽仁はつづける。
道徳の問題、教育の問題というものは、国民の自発的意志によって尊重されるということを我々は期待すべきであって、その点行き過ぎた指図をされない方がよいのではないか。どうか、道徳の問題、教育の問題を法律や命令の下に置いたという過去の過ちを繰り返されたくないと思うのであります。教育や思想の問題というものは、政治の下に置くべきではない。政治の下の置かない方がそれを真実に尊重する所以であるという点を明らかにされたいと希望いたします。
こういって羽仁は話を締めくくった。

羽仁がいっていることは、民主主義の原則からして、あまりにも当然のことである。国家や権力、他の人間が「他の人間の心を支配してはならない」。これを出発点に近代人権思想が全面的に開花する。
ところが戦前の日本は、国家権力が人々の心にずかずかと踏み込んでいた。その象徴が「教育勅語」であり、「治安維持法」であった。
丸山真男や大塚久雄ら当時の進歩的近代主義者が問題視したのは、こうした日本における民主主義の基礎にかかわる弱さでもあった。

日の丸・君が代の強要にはじまり、2006年の教育基本法の改変、そして近年の教育勅語の礼賛の風潮は、ヨーロッパでの信仰をめぐる激烈で目をおおいたくなるような惨劇の中から定着した「精神の自由」「内心の自由」という基本的人権や民主主義、自由主義の基礎がいまだに日本の中に定着していないことを示した。新たに始まる教科『道徳』はこの近代人権思想の根幹を揺るがす可能性を持っている。

内容に一点の瑕瑾がなくとも、完全な真理であっても、専制君主の命令で国民に強制したという所に間違いがある。
この羽仁の懐かしく、厳しい声は、いまだに私たちに日本の民主主義の質とあり方を問いかけている。

「日本近代史をどうとらえるか」をUPしました。

「日本近代史をどうとらえるか、そのスケッチとして」をUPしました。

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(「日本史Aの自習室」)

<日本近代史をどうとらえるか、そのスケッチとして>

    はじめに
    第1章 幕末期の政治過程をどのように理解するか
      (上) (下)
    第2章 明治維新をいかに評価するか
    第3章 「明治憲法体制」の矛盾と展開
    おわりに

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最初は「準備室」のコラム程度のつもりでした。
大学で幕末・明治維新史の授業を聞いて「現在の研究レベルをもとに簡潔な幕末・維新の歴史をまとめよう」と考えたことが出発点です。市民講座での「倒幕・天皇制国家という道とは違う日本近代史があったのではないか」という議論にも触発され「幕末維新」の変革とは何であったのかということも考えたくなり、一昨年の秋くらいから文章を書き始めました。第1章はこうした経過で記され、時間軸に沿ってまとめた形になっています。あれもいれよう、これもいれようとするうちに、簡単にまとめるつもりが、どんどんと膨らみました。王政復古あたりで終わらせるつもりが、それでは終わらなくなりました。なぜなら大政奉還・王政復古の時点では、単に幕府がつぶれた以外なにひとつ解決されていないからです。倒した方も、これといった構想を持っていなかったのですから。
その後、巨大な建築物が崩れ落ちる映像を見るかのように幕藩体制や身分制社会の崩壊していきます。「破壊」というより「自壊」のイメージ。自分たちがはじめたことが想定よりもはるかに大変な事業であることに気づいた連中が、「天皇の信任」を利用して開発主義的な変革をすすめたという筋道を考えました。それなら、そのようにはじめられた「日本の近代」はどのような性格を持っていたのか、天皇制国家論争も頭の端に思い浮かべながら、「受容された近代」と「拒絶された近代」を考えてみました。
終章として、明治憲法体制への展望を記そうとしたました。しかし、それでは不十分でした。維新のなかで生まれた「藩閥政府」=執行権力独裁がその権力を維持しつつ、権力基盤を地主・ブルジョワという階級の間にどのように広げていったのか、強い権力を持ちつづけた執行権力はどのような運命をたどるのか、それは新たな章を必要としました。そして執行権力はしだいに制御能力を失い、戦争へと突入していきます。最終的には裕仁天皇しか、混乱を収めきれないというところまでいってしまいました。
「はじめに」では、大学時代考えたことや学んだことも整理するなど、文章もどんどん長くなってしまいました。
私が書いた文章は論証や研究史の裏付けもない、元高校教師の単なる思いつきにすぎないものだと思います。時間の無駄にすぎないものでしょう。しかし自分なりに日本近代史をまとめてみることは、非常に楽しいことでした。もし、気が向かれたら、目を通していただけると光栄です。

ありがとうございました。10万アクセスを達成しました。

ありがとうございました!

このホームページ「日本近現代史(日本史A)の授業中継」の総アクセス数が、昨日1月22日、ついに100,000件!(「自習室」などでPDF提供分を除く)に達しました。
2015年12月、まだ現役の教員だった頃、直前に行った日露戦争の授業を文章化しはじめてから約3年のことです。『準備室』の「大切なことは何を教えないかだ」には2016年1月5日のタイムスタンプがついています。しかし実際にはHPの設定がうまくいかず、悪戦苦闘の連続でした。公開に踏み切ったのは退職後の2016年4月27日です。その日の「投稿」にはばたばたした様子が描かれています。
それ以降、とりあえず「日本近現代史の授業」を中心に書き続けようと大学図書館を中心にさまざまな「隠れ家」(?)、喫茶店、野外など本当にいろいろな場所を転々としながら文章を書き継ぎました。織豊政権の文章の一部は京都・船岡山(山腹には信長を祀った建勲神社がある)のベンチで書きました。一つ一つの文章には書いていた場所も含め、いろいろな思い出があります。
その後、大学で学んだこと・考えたことを文章にしたり、授業プリントや評価問題などもUPしました。なかなか認知してもらえず、2016年末のアクセス数は約5000件でした。それでもありがたかったです。(年賀状には10000と書いていました。チェックミスでした。お詫びして訂正します)
その後、2017年になるとすこしずつ認知していただき、アクセス数も少しずつ増加し、いくつかの項目は検索エンジン上位にヒットするようになりました。秋にはフェイスブックを開き、ツイッターBOTも開始しました。
それでも400アクセス/日の壁を越えられない毎日でした。ところが昨年11月26日、突如1日1000件以上のアクセスがあり、同時にトータル70000件超えというダブルの達成、本当にうれしかったです。
そして、ついに昨日、100000アクセスという大きな節を超えることができました。
このような粗末な手作りHPにこのような多くの方が見に来ていただいたことに、感謝し、さらによいものにしたいと思っています。
 今後は、中断している「授業中継」を再開させるとともに、「世界史」のHPを立ち上げようと準備しています。
とりあえずは、10万アクセス記念として、時間をかけて取り組んだ「日本近代史をどうとらえるのか、そのスケッチとして」をUPします。近世後期から幕末期の変動、明治維新がなぜあのようなかたちになったのか、そしてその特徴がどのように展開していったのかなどを自分なりに考えまとめたものです
江戸期から明治初年の農村史を総括した百姓成立~その成立と展開、そして崩壊と同様、歴史の全体像を私なりにまとめてみたいという思いで書いたものです。
現在は、1990年代の「政治改革」について考えてみたいと取り組んでいます。これをもとに授業中継再開の材料としたいと思っています。
そのほか、歴史教育や様々なエピソードなど現場の先生方の役に立つものもできれば、考え取り組みたいと思っています。

最後に人気の記事ランキングベストテンを掲げておきます。
いずれもリンクを貼っておきます。(目次やPDF提供分などを除く)

1,日本の産業革命 7995
2,ペリーの来航と開国 3307
3,江戸期の社会~身分制度と農村 3151
4,明治憲法体制の成立 2487
5,貿易の開始~世界資本主義と日本 2301
6,大正デモクラシー~社会運動の発展 2073
7,条約改正 1809
8,大正政変と第一次世界大戦 1614
9,自由民権運動の展開と松方デフレ  1315
10,明治維新(1)明治初年の改革と廃藩置県 1204
(アクセス数は1月23日17時現在)