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’45年8月15日、なにが終わったのか?

45年8月15日に、なにが終わったのか?
~「授業中継」戦前・戦中編の完成によせて

この「授業中継」、58回目でやっと1945年8月15日まで来ることができました。見直せば問題だらけですが、一応の区切りがついたとほっとしています。ほぼ1年、玉音放送を聞いた「国民」のような虚脱感にとらわれています。
ここでは、これまでの内容を、総括する意味で8月15日の意味を考えてみたいと思います。

8月15日、「戦争」が終わった!

1945(昭和20)年8月15日、「戦争」がおわりました

東京書籍「新選日本史B」P27

なお、国際的な意味合いでの、戦争の終結は、ポツダム宣言の受諾を連合国に通告した8月10日、あるいは降伏文書に調印した9月2日ですが、「やっと終わった!」という気持ちは8月15日の方が強かったと思うので、象徴的な意味でこの日付を用います。
8月15日、いったい何が終わったのでしょうか。
多くの人はいうでしょう。
1941年12月8日に始まったアジア太平洋戦争だと。(ちなみに、私たちの世代がよく用いた「太平洋戦争」という言葉は、アメリカ主導で始まった名称で、1941年12月以後も、中国戦線が主要な戦場であり続けていたことや日本軍の東南アジア、さらにはインド進出という事実を組み込んだものといえないので、現在での歴史学界ではつかわれなくなっています。)
1939年9月1日ドイツのポーランド侵攻によって始まった第二次世界大戦もこの時に終わりました。
5400万人とも、それ以上とも言われる天文学的な死者をだし、アウシュビッツやヒロシマ・ナガサキに象徴される世界中の人びとを地獄においやった戦争、これがほぼ完全におわりました。世界中の大多数の人が、掛け値なしに、心の底から喜んだ日ではなかったでしょうか。

「解放記念日」としての8月15日

ジアの人びとにとって、8月15日は、日本による軍事占領や植民地支配が終わった解放記念日です。そしてあらたな時代が始まった日でした。

日本の敗戦は朝鮮半島に人々にとっては植民地支配からの解放そのものであった。
東京書籍「日本史A」P152

インドネシアやベトナムでは、この直後に独立宣言が出され、あらたな独立運動、旧宗主国との戦いがスタートすることになります。
1910年以来、日本の植民地であった朝鮮半島では「独立万歳」の声が響きわたり、どこから現れたのか太極旗が町中にはためきました。夕刻には独立運動家・呂運亨を中心に朝鮮建国準備委員会が設置され、9月はじめ、これを母体とした朝鮮人民共和国の樹立が宣言されました。あたらしい朝鮮半島の歴史も生まれるはずでした。

苦しかった「戦争」の開始としての日中戦争

私は、小さい頃から、「戦争中はしんどかった」「大変だった」ということばを繰り返し聞かされ育ちました。昭和30年生まれというのは、そのような世代です。しかし、不思議に思ったことがあります。

中国との戦争によって多くの戦死者が発生した。写真は満州事変によるもの。東京書籍日本史AP132

しんどかった内容の多くが、戦争が始まった「昭和16年の12月8日」以前から始まっていたのです。召集令状の乱発も、戦没者や「傷痍軍人」の急増も、勤労動員も、切符や配給も、「贅沢は敵」というスローガンも、金物回収や木炭自動車も、戦場から聞こえてくる血なまぐさい事件の話も、「とんとんとんからりと隣組」の歌も、尋常小学校から国民学校への改称も。「苦しく、つらかった『戦争』」は12月8日以前に始まっていました。親たちの世代は、日中戦争、当時の言い方では「支那事変」のことは、あまり考えたくなかったように感じます。しかし生活実感としての「戦争」は1937年7月7日の盧溝橋事件に本格化しました。

日中戦争~総力戦の「戦争」、制御の聞かない「戦争」

日中戦争の開始とともに、総力戦体制(「国家総動員体制」)が本格化し始めます。

国民の生活が戦時色に染まっていく。東京書籍「日本史A」P131

徴兵や徴用の強化、戦時経済の導入、隣組・町内会を底辺とする国民の戦時体制への組織化などなど、「戦争」は一挙に本格化しました。人々の生活に深く「戦争」が入り込みます。自由は極端に失われていきます。
政府も軍部さえも「戦争」を制御できなくなっていきます。その暴走に軍中央もふくめたリーダーたちは手をこまねくしかなくなりました。
12月8日にはじまる戦争は、この戦争を終結させるための劇薬として処方されたものでもありました。
実感としての「戦争」が始まったのは1937年でした。12月8日を重視する背景には、日本が敗れたのはアメリカだと思い込みたい日本人の意識が隠れていると思えてなりません。日本が中国に負けたことを信じたくないために。
でも、日本はアメリカ以上に、中国に敗れたのです。
7月7日は七夕(たなばた)の日としてしか意識されていません。しかし、この日はとりかえしのつかない「戦争」へと足を踏み入れ、国民生活を破壊し、中国の人びとを塗炭の苦しみにあわせる始まりの日として記憶すべきなのでしょう。
そして、「苦しかった戦争」、「リーダーたちが制御できなくなった戦争」である日中戦争が、8月15日におわりました。

「昭和の戦争」としての十五年戦争

8月15日には中国との間の絶え間ない「戦争」、十五年戦争が終わりました。

十五年戦争は1931年9月18日の柳条湖事件によって開始された満州事変を出発点とする昭和の前期をほぼ覆い尽くす戦争、「昭和の戦争」そのものでした
この時代、人々は、強弱はあるものの、いつも何らかの形で「戦争」をしていました。
文字通りの「戦争の時代」でした。
満州事変は、軍隊の出先機関が勝手に、政府や軍の中央の命令すら無視して拡大した戦争です。それを、マスコミが、多くの国民が応援しました。その暴走を軍中央も政府も追認し、批判するものにはさまざまな暴力が加えました。国家、軍人や右翼による暴力が一般化、人々は暴力の前に萎縮し、ものが言えなくなりました。平和を主張したり、民主主義的な考え方は、「国体」に反するといわれるようになっていきます
この出発点となるのが、9月18日でした。

平和維持の国際秩序の破壊としての9月18日

9月18日は日本が世界からの孤立をすすめるきっかけでもありました。

国際連盟脱退を報じた新聞記事 帝国書院「図説日本史通覧」P269

第一次大戦後の国際秩序を無視した「満州国」建国は、当然のこととして世界の承認を得られませんでした。苦し紛れに、小手先の責任回避から国際連盟を脱退、軍縮条約からも離脱しました。これによって、なんとか平和を維持していこうという第一次大戦後の国際秩序は破綻し、ドイツやイタリアのファシストたちは安心して国際秩序を破壊しました。そのきっかけが、9月18日に始まる満州事変でした。

こうした国際秩序の破壊に終止符が打たれたのも8月15日でした。
8月15日は、二度と戦争を行わないという決意の日でしたが、すでに米ソを中心とする冷戦的な国際秩序がスタートを切っている日でもありました。

「『中国』との戦争」が本格化した日としての9月18日

9月18日以降、十五年戦争で日本軍が戦ったのは、目覚め始めた民衆に基盤にした『中国』そのものでした

日本の中国進出にともなって、中国の民族運動の対象は日本へと変わっていった。帝国書院「図説日本史通覧」P252

日本は『中国』など簡単に屈服できると考えていたのでしょう。たしかに、当時の中国国民政府は日本との戦争を避けようとしました。しかし立ち上がった民衆、民族運動、つまり『中国』は「国民政府」のそうした態度に納得しませんでした。そして『中国』の大きな力は国民政府に日本との戦いを決意させ、安易な妥協を許させませんでした。
このような『中国』を黙らせるため、日本軍は侵略をエスカレートせざるを得ませんでした。「功名心」にはやる軍人たちは『中国』との戦争をいっそう泥沼へと導きました。泥沼は、7月7日以降になっていっそう深くなります。『中国』はアメリカやイギリスの日本との妥協を許しませんでした。そして米英に対日強硬姿勢をとらせ、ついには日本に対米英戦争を余儀なくさせます。もちろん『中国』も抵抗をやめませんでした。
8月15日はこうした泥沼化した『中国』との十五年戦争の終結、そして敗北の日でもありました。

絶え間なく続く「五十年戦争」
~日本の帝国主義支配

満州事変は、中国東北部などの権益を取り返そうとする中国側と、権益を維持し続けようとする日本側との対立が背景にありました。当時、日本側がよく言ったことは「日露戦争の犠牲を無駄にするな」ということばです。日露戦争の大きな犠牲によって獲得した「満州」は「日本の生命線」だというのです。

満蒙の「特殊権益」を、「日本民族の血と汗の結晶」と表現している。帝国書院「図説日本史通覧」P269

日露戦争の勝利が、満州事変の原因となっていました。このように、近代の日本では、それぞれの戦争が、つぎの戦争の原因となり、「『戦争』で得たものを守り抜く」ことが、国内での「大義名分」でした。日露戦争は、日清戦争によって火ぶたを切ることになる中国をめぐる列強の中国分割競争、朝鮮半島への進出をめぐる日露の対立が原因でした。

帝国主義体制が世界を覆った20世紀初頭は、植民地支配に対する民族運動の時代でもありました。こうした民族運動の高まりが帝国主義体制を追い詰めていくのですが、遅れて帝国主義化し、時代遅れの19世紀的な手法でアジア進出をはかる日本にはとくに厳しいものがありました。

帝国主義は帝国主義本国の人々も苦しめる

帝国主義的支配=植民地経営は結局自国の民衆を苦しめる」といわれます。日本は、日清戦争で台湾と澎湖諸島、日露戦争で関東州や南樺太、そして朝鮮半島と植民地を拡大していきした。満州事変では中国東北部も事実上の植民地とします。これによって日本は大きな「コスト」を強いられます。

抗日義兵闘争。幼い少年の姿も見える(東京書籍「日本史A現代からの歴史」より

植民地化は必然的に植民地化された人々の公然・非公然の反対運動を引き起こしました。植民地の統治は、治安維持の必要から強力な統治機構を必要とします。総督府などがおかれ、憲兵や警察などの抑圧機関を肥大化させます。いつ発生するかわからない抵抗の恐怖は緊張状態を強い、準戦闘状態を恒常化させます。緊張状態は国内にも波及し、帝国主義本国自体の軍事国家化をつよめます。大正政変のきっかけとなった陸軍の二個師団増設問題が「韓国併合」にともなうものであったように、財政負担を拡大させ、政情不安にもつながりました。

「『戦後』が『戦前』である時代」

日本では1894年の日清戦争開始以来、戦後が次の戦争の戦前となる状態がつづきます。「この戦争が終われば・・・」という人々の願いは裏切られ続けます。
戦勝による軍事大国化は、大国にふさわしい軍備を必要とし、さらに大きな負担を強います。財政は膨張し、債務は膨大となり、国民生活を顧みることは困難となります。
10年ごとに大規模な戦争がおこる時代、それをある歴史家は「五十年戦争」といいます。五十年間つづく「戦後が戦前である時代」、この緊張から解き放されたのが、8月15日でした。

「内地」と「外地」~ダブルスタンダードの法治主義

植民地の獲得は統治のあり方を変化させました。
植民地=「外地」を獲得することで、大日本帝国は「内地」と「外地」という二つの領域を支配するになりました。「明治憲法」とそれに基盤を置いた法体系が適用される「内地」、これにたいし「外地」=植民地においては「内地」の法は部分的にしか適用しないというダブルスタンダードとなります。その矛盾が「帝国」日本を苦しめます。それともあいまって、フルスペックの権利を認められる内地のヤマト系日本人と、植民地人とされた朝鮮人や台湾人などとの間の明らかな差別も拡大します。こうしたダブルスタンダードの「国家」、ダブルスタンダードの「日本人」、これが解消されるきっかけが8月15日でした。

「富国強兵」としての「近代日本」

ペリーの来航以来の近代日本のあり方に「ノー」がだされたのも8月15日でした。
日本は欧米列強からの国際的なストレスや緊張、つまり『外圧』を感じながら、歴史を重ねてきました。外圧という感覚のなかには、リーダーたちの頭の中で増幅された強迫神経症的なものも一部あったでしょう。天皇制国家建設の「口実」という面もあったかもしれません。そうしたものも含め「外圧」が幕末以来の日本を規定しました。
「外圧」のストレスは、その反動として対外進出へと転化します

岩倉使節団の出発
岩倉使節団の出発 欧米の文明が導入される大きなきっかけとなった。「東京書籍日本史A」

外圧のストレスは、日本の文化への極端な二つのまなざしを作り上げます。
日本が参加を余儀なくされた国際関係は、ヨーロッパ中心の主権国家体制=「万国公法」体制でした。参加資格は欧米的価値観の共有であり、それをもたない「未開」の地域は、欧米諸国による容赦ない「早い者勝ち」の植民地とされます。「不十分」と見なされた「半文明国」は「不平等条約」を強要されました。
「半文明国」である日本もこのルールに従って不平等条約を強要されました。こうした位置づけは、幕末から明治初年のリーダーたちにとっても不本意なものでした。その不本意さが、幕末には攘夷運動として表面化したのです。明治の新政府は「条約改正」という「攘夷実行」のために岩倉遣欧米使節団を送りました。かれらがそこでみたものは、日本と「万国公法クラブ」のグローバルスタンダードとの大きな隔たりでした。条約改正までの道のりの遠さを実感しました。こうして、明治のリーダーたちは「不平等条約」を強要されざるをえない日本を、「万国公法クラブ」への参加資格をみたす欧米基準に作り替えなければなりませんでした。ちょうど、EUへの加入をめざす諸国がその厳しい基準をクリアするため国内法を改正するなど血の汗を流すような苦労をするように。

「文明開化」と「未開」「非文明」

「万国公法クラブ」参加のための「欧米化」と、参加の前提となる国民国家建設手段でもあった天皇制の整備を併存させたものが「文明開化」でした。

廃仏毀釈 多くの寺院や仏像が破壊された。「図説日本史通覧」帝国書籍

この基準に適うものが「文明」であり、それに反するものは「未開」「非文明」としてみなし、排除の対象とされした。一時は、仏教さえもその対象となりました。「廃仏毀釈」はその典型です。そして「文明」に従わない人々、多くは一般民衆ですが、一方での暴力による抑圧と他方での「教化」をすすめました。「文明開化」によって日本が伝統的に作り出してきた多くのものが抑圧され、天皇制の関わりがない場合は排除の対象となり、「無知蒙昧」「非文明的」として侮蔑されました。
「文明化」は伝統世界で生きる民衆との緊張関係のなかですすみました。自由と民主主義という政府とは別に違う「文明化」の論理で迫る自由民権運動との緊張関係もうまれました。明治憲法と帝国議会などはこうした緊張関係の産物といえます。

「文明開化」に隠され「劣等感」と「独善」

「文明開化」の過程は、欧米文明に対する劣等感を蓄積していく側面をもっていましたが、他方で「文明化」しない人々への優越感と侮蔑をも作り上げるものでもありました。こうした優越感と侮蔑意識は国際関係にも応用され、日本がアジアを教化していくリーダーであるという意識を形作り、さらには日本のアジア進出は、アジアを「文明化」することであるという意識をつくりだすことになりました。こうして朝鮮や中国は非文明的な遅れた国、したがって日本というリーダーに従うべき国という論理に転換され、植民地化の、侵略の、理由にならない理由とされました。

欧化政策を皮肉したビゴーの戯画。鏡に映った着飾った高官の姿は「猿」

他方、文明開化の過程で国内におりのように蓄積されていった劣等感は、「文明化」=「欧米化」の一定の成功、さらに日清戦争に始まる帝国主義化、軍事大国化、つまり条約改正=「万国公法クラブ」加入によって、一挙に反転し始めます。日本文化への見直しが、国民国家建設のツールとして用いられた天皇制と結びついて、根拠のない優越感となっていき、ついには「八紘一宇」という形での独善的な思想へと変わっていきます。これは「外圧」と対峙するというなかでつくられてきた劣等感が暴力的な形で反転したものでした。
江戸時代末期から、国民生活をないがしろにして、軍事大国を目指す、植民地を獲得して帝国主義大国に上り詰める、そのなかで生まれた劣等感と裏返しの独善的な優越感、こうした幕末以来の日本のあり方が、清算された出来事、それも1945年8月15日の敗戦でした。

近代日本はこれでよかったのか?

8月15日は、これまで日本を動かしてきたもの、それに巨大な疑問符をつけるものでした。「日本は多くの誤りを犯してきた。なぜそんなことになったのか?」と。
多くの日本人は、信じてきたものを否定されました。だからこそ、虚脱感に襲われたのかもしれません。これまでの約90年近く信じ続けてきたもの、日本のあり方、それらが敗戦によって否定されたのです。

「戦争責任」の問い直しの機会を逸した日本

重層的な歴史、日本にかかわる歴史、そこで行われたさまざまな行動、考え方、そういったものがいったん否定され、一挙に問い直されていたのが8月15日の意味でした。日本の近代自体が、本当にそれでよかったの?どこで間違え、どこが間違いだったのか?これがと問い直されたのが、8月15日の意味でした。
こうした問いかけにどれだけ向き合ったか?

東京裁判 連合軍によって日本の戦争犯罪が裁かれ、東条英機や広田弘毅ら7名が絞首刑となった。

日本人は「戦争犯罪」という形での問いかけに自分の力で応じることができませんでした。それにかわって連合国が行ったのが東京裁判です。東京裁判は、問題山積ながら、曲がりなりにも軍国主義と侵略戦争を断罪する裁判でした。罪刑法定主義に反するという法手続き上の問題、勝者による敗者の裁きなどの疑問は当時からも出されており、こうした批判は、現在でも問題視され、これに乗じて戦争犯罪のみならず、日本の戦争さえも免罪しようという動きもあります。
もし日本人が、自らの手で、自らの身を切り裂いて、がん細胞を摘出するような裁判がなされたなら、この批判は通用するでしょう。しかしそれはなされませんでした。日本人は、自分たちで裁けなかったのです。このことをまず恥ずべきなのかもしれません。勝者による裁判だからといって東京裁判を否定するだけなら、それこそ、だれも責任をとらなかったことになります。東京裁判は、日本国民、アジア諸民族、そして世界を苦しめた戦争にないして何の責任もとらない、こうした事態を七人を「人身御供」とすることで回避させたのです。日本人自身ではなく、日本との新たな関係を求める連合軍とくにアメリカが「落とし前をつけた」という言葉がもっとも適切なような気がします。

2014年の安倍首相の靖国参拝は、中国や韓国などにとどまらず、アメリカ高官の「失望」との発言も生んだ。

世界が靖国神社への首相の公式参拝に反対するのは、45年8月15日に対する責任を象徴する責任者を免罪することで、日本政府は戦争の責任をとらないと宣言しているように見えるからです。慰安婦問題や歴史認識について中国や韓国・朝鮮から厳しい批判を受けることがあります。その批判の多くは、これまで見てきたような近代日本の課題にたいし向き合ってこなかった点を厳しくついていると思います。
しかし、日本人が、8月15日に終わったこれまでの日本の近代をまったく問い直さなかったかといえば、そうではないような気もします。

日本人は、8月15日を問わなかったのか?

10数年前、中国に行ったときのことです。道路のドライブインに、日本のコンビニにならんでいるエッチな本のような感じで、戦争中と現在を混同させた「これはちょっと」と思わざるをえない「日本批判本」が多数並べられていました。

売り場に殺到する訪日観光客

たしかに問題だとは思いました。しかし、私が思ったのは、このような「本」を書いたり、読んだりしている人に、「是非、日本に来て、いまの生きている日本人があなたたちが思うような人間なのか、その目で検証してください」という思いでした。
現在、中国や韓国から大量の人たちがやってきます。10数年前、思ったことが実現しつつあります。高度成長期、パリなどでの「ノウキョウさん」が、中国の人たちによっても日本の地で再現されました。しかしパリでの日本人がそうだったように、二度、三度というリピーターになるにつれて、かれらなりの日本を発見をしつつあります。中国国内にも、あたらしい冷静な「知日派」が生まれつつあります。表面上、あの「日本批判本」を信じているかに見える中国人も韓国人も、現実は大きく異なるという印象を持ち始めているように思えます。

文部省が編纂した副読本「新しい憲法のはなし」より(東京書籍「日本史A」P157)

10数年前の直感は、日本にすむ生活者の中に、普通の日本人の生き方の中に、8月15日への反省が隠れていると感じたからだったかもしれません。たしかに「日本」は、「戦争」へのきっちりとした向き合い方も、反省もできませんでした。とくに、政府レベルではまったく不十分でした。しかし、時代の中で生きていた多くの人は、様々なレベルで戦争に向き合い、「二度と戦争はしないでおこう」という思いをもちました。そうした象徴が、日本国憲法でした。憲法制定過程については、アメリカという自分の政策に都合のよく日本をもっていこうとする「助産師」さんの力も借りました。しかし、完成した憲法を感動を持って受け入れたのは戦争をくぐり抜けてきた日本人です。何度も出てきた憲法改正要求を挫折させ、憲法を大切にし骨肉化してきたのも日本人でした。戦争が続いた戦後七十年間、戦争で人を殺したり、殺されたりしないかった平和国家・日本にたいし、戦後の日本人は自信を持ってもよいとおもうのです。

2015年の安保法制反対デモ(©日刊ゲンダイ)

いろいろと問題があり、批判される点は山ほどありながらも、人々が平和的に生きている国、そうしたやり方で8月15日に向き合ってきた日本、それは誇ってよい、それが十数年前の私の直感でした。日本が軍を前に立てての侵略をおこなうということは思いもよらない、その日本を見てください。それがあのときの気持ちでした。(過去形で書いているのが残念でなりませんが・・)
戦後の日本、その背景には、それぞれの人の、いろいろなレベルで8月15日におわった戦争についての思いがあり、戦争とその時代への反省があり、それが戦後の日本の歩みの底流に流れているのです。

「あなたは8月15日にどのような感情を持ちましたか?」
   ~公開問題を出します。

こうした思いから、私は定期考査(多くの場合は年度末考査になります)の1問をあらかじめ生徒に知らせる公開問題をしました。以下の業務連絡のような感じです。
なかなかの名作揃いとなりますよ。

業務連絡:公開問題・・「戦後日本を作ったもの」

今度の考査では、公開問題を出します。10点分、ですからかなり大きいですよ。さらに、ぼくが「うーん」とうならされた解答にはプラスαをつけますので本来の満点10点にボーナス5点の15点満点とします。プラス5点を加えて100点を超える場合は、100点で打ち止めとしますから許してください。ただし手元の計算では100点を超えて計算しますので。
さて、その内容ですが。みなさんに1945(昭和20)年8月15日時点の「人間」「もと人間」あるいは「人間以外の何か」でもかまいません。とりあえず、8月15日の気持ちを、自分なりに考察して、「手紙」または「手記」の形で書いてもらいたいのです。
そのときに生きていた人間~日本の子ども、兵士、戦地に愛する人を送り出した女性、老人、朝鮮人、中国人、台湾人、東南アジアの人でも、戦争を戦ったアメリカ人やロシア(ソ連)人~でもかまいません。幽霊もおもしろそうですね。神、宇宙人でも、あるいは犬・猫でも、「アホーアホー」と鳴きながら飛ぶカラスでもかまいません。そういった何かの8月15日の気持ちを書いて欲しいのです。
配点基準は、それまでの日本や世界の歴史と矛盾なくそれらを踏まえているか、8月15日当時の状況を理解しているかなどを前提とし、なぜそういった感想や気持ちをもったのか、十分に説明しているかをもとに採点します。当時の人びとの気持ちを調べろという内容ではありませんので、間違えないでください。
もちろん解答はありません。字数は、A41枚分解答用紙をつけておきますが、全部を書けというわけでもありませんし、増えすぎて足りない時は裏を使ってもらってもかまいません。
みなさんに、そのときの気持ちになって欲しいと思うのです。そこから、戦後の日本が、世界が生まれてきたのですから。
以上、業務連絡です。

 

新たな疑惑~不幸は明治天皇一家にも

以前、「なぜ将軍の子どもたちは短命だった?~ある疑惑」という記事を書きました。その内容は、将軍家、とくに江戸末期の将軍の子どもたちの短命は、大奥の女性たちの化粧品白粉(おしろい)にふくまれる鉛ないし水銀中毒ではないかというものでした。また、同一のことを主張するブログも紹介しました

ところが、話はこれで終わらないことに気がついたのです。発端は、牧原憲夫氏が著した「民権と憲法」(岩波新書)の記述です。その部分をよんでください。
明治天皇には「皇后には子供がなく、側室五人の間に15人の子(男5女10)が生まれたが、10人は夭折(ようせつ)し、成人した男子は典侍柳原愛子の子・明宮だけだった。」

幼いころ、巡幸にきた現皇后(当時は皇太子妃)の化粧をみた小学生連中が、あまりの分厚い白粉のため、とても「不敬な」ことをいっていました。昭和四〇年代の初めでもそんな状態でした。明治時代の宮中では、もっと大量の白粉を使っていたことは明らかでしょう。現皇后の白粉にはもちろん鉛や水銀は入っていません。しかし鉛入りの白粉が製造中止になったのは昭和初年(Wikipedia「鉛中毒」)のことです。それまでは、鉛入りの白粉を使っていたのです。そしていずれかの時期までは、宮中で使っていた白粉も、鉛や水銀を原料とするものでした。

Emperor_Taishō
大正天皇(Wikipedia「大正天皇」より)

ですから、明治天皇の子どもたちも、大奥と同様に、乳首までしっかりと鉛を塗った女性の母乳を飲んでいた可能性が高いのです。

明治天皇は1887年までに9人の皇子女をもうけたが、大正天皇を除いてみな夭折し、誕生後直ちに死んだ2件以外の初発の病名は全て慢性脳膜炎であった」とし、さらに「大正天皇自身も誕生後まもなく脳膜炎様の病気を患い、その後遺症に苦しんだ」と記されています。
 さらに、当時の公家・武家の華族の三歳以下の子どもの死亡原因の大部分が脳膜炎様症状であることが問題になっていて、1923年に京都帝国大学教授が「原因は慢性鉛中毒ではないか」との研究成果を発表した、実は明治末年からすでに疑いが持たれていたとも書いてありました。
明治天皇の子どもたちの死産や夭折は、鉛ないし水銀の中毒であった可能性が濃厚といわざるを得ません。

さらに大正天皇は分娩時、すでに湿疹があったという記事ものっていました

こうしたことを総合すると、大正天皇は鉛ないし水銀中毒の胎内中毒をおり、さらに母乳からさらに金属毒を摂取した。このため出産時より湿疹がでており、虚弱であり、生まれてすぐ脳膜炎様症状を発症した。なんとかこういった「病」を乗り切ったものの、後遺症や体内に蓄積した金属毒を原因とする障害で苦しみ、その特異な行動などで人びとの密かな「嘲り」(差別!)をうけ、最終的には公職をまっとうすることができず、のちの昭和天皇を摂政とし、印象の薄い人生を終えた。
このような人生であったとかんがえられないでしょうか。
気がつきませんか?
家定将軍と大正天皇の共通点
兄弟の大部分が夭折し、生き残った唯一の成人男子。虚弱で、障害をもち、短命。

しかし、他の子どもたちが金属毒に耐えきれずなくなったのに、大正天皇(もしかしたら家定も)が生き残ったのは、DNA的には長寿遺伝子をもっており、元来は強健な身体の持ち主であったのかもしれません。
大正天皇の4人の男の子たちは全員が成人し、もっとも短命であった秩父宮でも50代まで生き、最も長命の三笠宮は昨年(2016年)101歳で大往生を遂げました。
大正天皇の子どもたちは、明治天皇の子どもたちとは好対照を示しています。
宮中では、密かに不幸の原因を探っており、鉛や水銀の入った白粉を使わないようにしたのではないかとも想像されます。
彼の子どもたちの長寿はこうしたところから来ているのかもしれません。(もちろん、栄養状態もよかったのでしょうが・・)
金属中毒は、足尾鉱毒事件によってひきおこされた利根川流域の人々にたいしてだけでなく、宮中の女性のぶ厚い化粧を通して天皇家にも取り憑き、不幸をもたらしていました。
大正天皇はこうした犠牲者であったとおもわれます。
 

日本人はなぜ英語が苦手なのか?

日本人はなぜ英語が苦手なのか?

~高度な学問に耐えられる言語としての「日本語」~

 またまた余談をします。
みんな、日本人は英語が苦手だというんだけど、なぜ苦手か、
分かるかな。教育制度とか、教え方とかいろいろ理由がいわれるけど、実は日本は英語(外国語)な しでもやっていける珍しい国だから。だから切実じゃない。
生活レベルだけじゃなくて、大学や大学院といった高等教育、さら には研究レベルにおいてもそうだから。
日本で普通に暮らし、学んでいくうえでは英語は、怪しげなジャパニーズイングリッシュというか、カタカナ英語を除いて、あまり必要ない。あまり使わないので、そんなに真剣にならない。だから、英語がうまくならない。こんな風に考えられないかな。
でも、英語(欧米語)なしで、何でもできるってすごいこと思わない?
自国語だけで高度な研究ができる国って、欧米語を母語としない国のなかでどのくらいあるんだろうね。
残念だけど、インドのヒンドゥー語だけで世界レベル の研究はできないだろうね。だからインドの高度な研究や高等教育は英語をつかう。高度な学問なんかで使えるほど洗練されていないから。大学などの高等教育が英語が行われるというのはその国の言葉で難しい研究をするのが不可能だから。植民地化された国では、そうさせなかったからといってもよい。
こうした結果、その国の中には、英語を使うエリートと、英語が使えず高度な内容を持った会話ができない一般人という二層構造ができてしまう
しかし日本にいれば、英語なしで高度なレベルの教育も高度な研究もほぼできる。普通の人もそれなりの質の話ができる。高度な知識にすべての日本人が触れることができる。これってすごいとおもわない?だったらなぜこんなことができたか、
最も大きな理由は日本が植民地にならなかったこと。そして啓蒙主義者、福沢諭吉や西周、森有礼といった連中、そして中江兆民や植木枝盛といったそれにつづく人たちが、なんとかして重要な用語などを日本語(じつは「漢語」)にしようと頑張ったから
世界の知識をなんとか日本人に伝えたいと思ったかれらは、重要な単語について、日本語(実際には中国語なんだけど)で近いニュアンスの言葉はないかと必死で探し、当てはめていった
freedomということばは、幕末の通訳が「わがまま、放蕩」という意味の「自由」ということばを当てていたのを、福沢が「西洋事情」という本で用い、広めたらしい。またfeudalismという英語は中国の周の時代の「封建制度」に似たシステムだということで「封建制」という訳語を当てはめた。
困ったのはeconomicという単語。ちょうどよい言葉が見つからない。そこで福沢諭吉か西周か、あるいは二人が相談したのか、「世の中をおさめ、人々をすくうこと」という意味の「経世済民」を略して「経済」という新しい言葉をつくったんだ。
こういう風にして、英語などの文章は日本語で読めるようになったんだ。彼らの使ったり作ったりした言葉は、日本だけじゃな
く漢字文化の国々にも影響を与えた。現在の中国では、そこら中で「経済」という言葉を使っている。
以上、余談でした。
(※以上の文章は、「明治維新(3)殖産興業・文明開化・国家神道」の一部にくみこんでいたものです。)

書いたあとで考えたこと

 ここまでは、以前から考えていた内容に、大学の授業で学んだ内容もまじえて書いていました。ほぼ同じ内容を、高校の授業の中でも話してきました。
ところが原田敬一氏の「日清・日露戦争」(岩波新書)を読んで大きな問題に気がつきました。ある意味で「ナショナリズム」に侵されていることに気がついたのです。このことを少し考えたいと思います。

「蘭学」はどのようにして始まったのか?

海禁政策(「鎖国」)の結果、ヨーロッパ文明と切り離される結果となった日本人が、どういう経過で再度ヨーロッパ文明と接触をしたのか。あるいは「蘭学」という名で呼ばれる西洋学問の研究がどのように始まったのか、私たちは、知っていながら、重要なポイントを見落としています。
蘭学がはじまったのはいつでしょうか?
出発点のひとつは前野良沢や杉田玄白たちによるターヘルアナトミア(「解体新書」)の翻訳です。この過程で、オランダ語の知識が蓄積され、その知識とスキルを用いて、オランダ語を翻訳する技術が身につき、そのオランダ語の力を借りて西洋の知識を学んでいったのです?
このころの「蘭学」で、必ず一人の人物の名前が出てきます。
「万能の天才」「日本のダビンチ」こと平賀源内です。
解体新書表紙 山川出版社「詳説日本史」P225
平賀源内は前野良沢や杉田玄白と同時代人です。狂気にとらわれて殺人を犯し獄死した源内の追悼文を杉田玄白が書いています。
源内は、オランダ語はできませんでした。オランダの本の図版を必死でながめていたということです。ちなみに、玄白もオランダ語の力はたいしたことなかったみたいですが?!
では、源内の西洋知識はどのように入手されたのでしょうか?

日本人は西洋を「漢文」で学んだ。

もう一つの出発点の話をします。
徳川吉宗、享保の改革の時代です。それは、吉宗が○○を解禁したため、サツマイモを日本に持ち込んだことで有名な青木昆陽という先生などが西洋の学問を学ぶようになったこと、これが蘭学のきっかけとなったという話です。
吉宗が、解禁したもの・・それは欧米人が書いた書物=洋書の輸入でした。でも、洋書にはキリスト教の書物が紛れ込む可能性がありますね。そこで、このとき輸入が認められた洋書は、欧米からワンステップおかれた洋書でした。前に何か付いていましたね・・・。
「漢訳」洋書。漢文に翻訳された西洋の書物でした。
これなら、キリシタンの書物かどうか、すぐわかりますね。
では西洋の言葉を漢文に訳したのはだれでしょうか?
考えればわかりますね中国人、正式にいうと中国人が、中国にやってきた西洋人(とくにイエズス会系の宣教師)の協力を得て翻訳していたのです。
このことの意味に、私たちは無頓着であったように思います。
まず、西洋知識を東アジアの人が分かることばに翻訳したのは中国人です。
西周

福沢や西が幕末から明治初年にかけて行った苦労、それを蘭学で前野良沢らがおこなったような基礎作業も含めて行ったのが、中国人の学者とそれに協力した西洋人の宣教師たちでした。

「蘭学」と呼ばれることになる西洋の知識の導入のきっかけは、中国人が翻訳した洋書を読むことからはじまりました。
中国の学者たちが、自然科学の用語をはじめ多くの欧米語を、宣教師たちとともに「あーでもない、こーでもない」と頭をひねりながら漢語に訳していったのです。
こうした人たちの努力の成果を青木昆陽が、そして平賀源内が学んだのです。前野良沢らの解体新書の翻訳も、こうした基礎作業のうえに立っていたのだろうと考えられます。
日本人は中国人が翻訳した洋書で、西洋文化を学びました。現在用いられる西洋の言葉の訳語は、まず中国の学者がまず考えたものでした。

東アジア共通語=「漢文」の実力

東アジアの知識人にとってありがたかったのは、漢文という共通語の存在です。中国の公式の文語である漢文は、そもそも話をすることができない国内の人びとや中国周辺の蛮族(日本人ももちろんその一つです)との間で意思疎通をするため、しゃべれなくとも意味が通じるという言語です。返り点をうってその内容を理解するという日本的な漢文の読み方は邪道でなく正当な漢文の読み方です。音声で通用させることなどは最初から期待していないのですから・・。
話が横道にそれました。このように、音声でなくとも意味が通じるという言語上に、まず中国の学者たちが西洋の知識を漢語でアップロードしました。東アジア文化圏の知識人はこれにより、東アジア共通語によって西洋の知識のアクセスできるようになったのです
幕末の日本において、蘭学者と並んで西洋への深い知識を持っていたのは、中国直系の学問であるため大義名分論に凝り固まったなどとの誤解を受けてきた朱子学を学んだ人びとでした。
高い国際的教養に裏付けられていたと近年評価される幕府の開明派官僚たちは、こうした朱子学の基礎の上で育てられました。

東アジア共通のデータベースの存在

では西洋の知識を翻訳した中国の学者たちは、どのようにして適切な漢語を選び出していったのでしょうか。
それは、中国文明のなかで蓄積された歴史・思想・学問などの膨大な知識、データベースからです。このデータベースの中から、西洋の言葉に最適な訳語を見いだし、当てはめていったのです。
注意しておきたいのは、このデータベースは東アジア世界全体で共有されていたということです。日本や朝鮮の知識人は、自国の歴史以上に中国の歴史についての深い知識を持っていました。「儒教」とくに「朱子学の知識は東アジア全土に共有されていました。やや衰退傾向にあった「仏教」ですが、それでもデータベース上にはしっかりと保存されていたのです。
こうした知識の多くが共有されていたため、個々の単語についてのニュアンスはかなり細かい部分まで共有可能であり、相互理解できたと思われます。言葉に対する日中朝の共通の知識のデータベースが存在したのです。これによって西洋の単語に対する訳語はそれほどのズレもなく、こまかいニュアンスも含めて共有できたのです。民族の枠を越えた討論なども行うことが可能なのです。
さらに、漢語にない言葉、例えば「経済」といった語も、なぜこの語を使ったのかという了解の上で利用できたのです。
西や福沢も、主にこのデータベースから適切な語を選び出してきました。だからこそ、彼らが用いた訳語が中国にも逆輸出可能だったのです。

「西洋知識の導入」という壮大なプロジェクト

こうして考えるならば、西や福沢に代表される欧米の思想や文明の導入自体、16世紀以来、続けられてきた東アジア文化圏全体で行われた西洋知識の導入という国際的共同作業の一環、巨大なプロジェクトの一環だったと考えることができます。東アジア諸民族の知識を結集し、適切な訳語を中国史・思想を中心とする巨大なデータベースから選び出し、吟味して、あてはめていく作業でした。
私たちは、英語の力がそれほどなくとも、世界の高度な知識にアクセスすることが可能です。それは東アジア文化圏、とくにインターナショナルな言語である漢文・漢語のもつ偉大な力、漢文とそこにつながる中華文明圏の巨大なデータベースの恩恵があったからこそでした
日本人が中国に漢語を逆輸出したというような浅薄でナショナリスティックないい方では、とらえきれない広がり、壮大なプロジェクトが、私たちがつかっている欧米起源の用語の翻訳の背景にあったのです。
最後に、最初に示した原田敬一氏の著書の一部を引用して、今回のまとめとします。
近代日本が、欧米文化の学習で優等生だったことが、1945年の破滅を呼ぶことになるが(中略)問題は、優等生だったことが一方的に強調されすぎることである。日本で欧米文化を消化し、翻訳語を作り、清国や韓国などの漢字文化圏に輸出していったことが語られすぎている。
15世紀から19世紀にかけての中国文明が、まずヨーロッパ文明を消化し、アジアに送り出していったことが、なぜこんなに簡単に忘れられたのであろうか。日本が、世界を把握できたのは、まずヨーロッパ語を中国で漢訳したものを通じてであった

徳川時代の物価はどのくらいだったのか?

徳川時代のいろいろな値段は?

江戸時代の物価って一体どのくらいなのでしょうか。
私がでている授業でおもしろいデータがありましたので、そのレジュメ(パワーポイント)のデータをもとに紹介します。

三種類の貨幣(金・銀・銭)が併存

江戸時代には金貨、銀貨、銭(銅貨)の三種類があったことはご存じの通りだと思います。
帝国書院「図説日本史通覧」P167
帝国書院「図説日本史通覧」P167
日本国内で、地域的な偏りをもって、三種類の貨幣が流通し、取引されていました。なにか、現在の世界のようですね。

金貨・銀貨・銭の交換レートを確認しよう。

まず交換レートです。1625年現在のものです。
金1両=金・銀4分=金・銀16朱=銀16匁=銭4000文
これが  1764~71年の 明和年間には
金1両=5000文
と交換されるようになります。
先生の感覚で、1文は10円と換算されました。
あくまでも根拠は・・感覚とのことです。
だから、ここでは
1両=4000文=40000円
という換算式ですすめていきます。

注記:他のHPでの換算率について

 
※京都故実研究会「江戸時代の貨幣価値と物価表」というHP
(http://www.teiocollection.com/kakaku.htm)では次のような換算式を用いています。
江戸前期 25.0円/文
    江戸中期 20.0円/文
    江戸後期  5  円/文
江戸期の平均 16.5円/文
このHPには、詳細な物価表がきっちりと紹介されており、引用したりするときはこちらの方を使った方がよいと思います。
※江戸時代のちょっとびっくりな文化と生活「江戸時代の文化と生活」というHP
http://www.edojidai.info/bukka.html)では、いろいろなベースを元に換算しています。
 
     1両=  4 万円 (米ベースの換算・日銀による)
    1両=12~13万円 (そば代で換算)
            1両=30~40万円 (大工の手間賃で換算)
 
 こうしたなかから、このHPでは
    1両= 8万円 1文=20円 が妥当としています。

日銭稼ぎの都市住民収入は月収10万円以下

 まずは収入から、ここでは日銭稼ぎの都市住民の例です。
大工・左官・土方など 1日324~540文(3240~5400円)
1か月 6万~10万円    年収 72万~120万円
野菜棒手振(野菜の行商)1日100~200文(1000~2000円)
1か月 2万~4万円  年収69万~48万円
1日の数字と月収の間のずれがあるようです。
計算したものでなく、それぞれ別々の史料から出されたのか、月20日働いたぐらいの金額となっています。
古典落語の主人公や時代劇の名脇役の収入です。
かなり厳しい生活だったことが分かります。
1文=20円で計算しても、月収4万円~20万円
     やはり厳しい数字となっています。

中級武士でも年収160万円

では、武士はどうでしょうか。
先生が示したのは100石取りの中級武士の例です。
しかし、中小の藩では上級武士に準じる場合もあります。
100石取りというのは、100石の収穫が見込める土地分の年貢がもらえるということで、実際に手に入るのはその40%程度の40石ということになります。
武士100石取り 実質40石=40両
        年収160万円位(月給13.3万円
  という悲惨な数字となってしまいます。
中級でこの数字ですので、下級武士の場合はいっそう厳しかったことがわかります。
武士たちが、各種のバイトに励んだり、次男や三男を養子に出したことの意味が少しは見えてきそうです。

住まいは狭いが、家賃は安い

生活費の内の住居費です。町屋の家賃が示されています。
イメージ 1
江戸の長屋(写真・深川江戸資料館) http://blogs.yahoo.co.jp/seizoh529/46836013.html
ちなみに「一般的な裏長屋の広さは、間口が9尺(2.7m)で奥行きが2間(1.8メートル)というのが一般的な大きさで、部屋全体の大きさとしては6畳相当になりますが、土間や台所なども含めてその大きさですから、居間兼寝室となる部分は4畳半ほどしかありませんでした。」(「江戸時代の文化と生活HP」http://www.edojidai.info/kurashi/uranagaya.html)
ということで4畳半、1Kの住まいの家賃です
     文政年間(1818~29)の例です
    長 屋・・・ 1か月 800~1000文(8000~10000円

        棟割長屋・・ 1か月      500文       (5000円

この両者の違いはわかりません。先生が調べた史料の関係かもしれません。

一人一日5合の米を食べているが・・

    つぎは食料費です。
江戸時代の庶民の食事(再現)の拡大画像
江戸時代の庶民の食事(再現)http://edo-g.com/blog/2016/02/meal.html/edo_meal_l
江戸時代の人(とくに都市の住民)はわれわれの想像を超える量の米を食べており、一人一年間1石以上消費しています。
1日一人あたり5合前後の米を食べていたのです
ちなみに、昭和の初め、宮沢賢治が
一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ」(雨ニモマケズ)
と書いています。1合の米を炊いても数日間残るという現在とは大きな違いですね。
夫婦と子ども1人の3人家族で1年3石5斗4升と計算されています。
米以外の食品の価格について、現在とは雰囲気が違いますね。
牛乳2合2万円とか、ゆで卵1個200円とか、
びっくりしますね。食べ物というより薬だったのでしょうね。
魚も結構高価なものが多かったこともわかります。
      米代 1年3人分 3石5斗4升で約6両(24万円)
                  1か月2万円
 塩・味噌・油・薪炭代 1年約11両(44万円)
                  1か月3万円
その他の食料品と外食費
 豆腐1丁(現在の4倍の大きさ)56~60文(500~600円)
 納豆4文(40円)                    しじみ1升6文(60円)
 まぐろ1尾200文(2000円)

 初鰹1本(棒手振り売り)1000文(10000円)

 酒 1升 40文 (400円)慶安年間(17世紀中期)
      文化年間(19世紀初期)には 200文 (2000円)
 砂糖水 8~12文(80~120円) 水一荷4文(40円)
 牛乳2合2分(2万円)  ゆで卵20文(200円)

外食はどうかというと、これもそんなに安くはない。
いきおい、屋台で腹を満たす。鮨も天麩羅も屋台で食べられていました。
 鰻丼100文(1000円)のち400文(4000円)
 屋台で食べると
そば16文(160円)  握り鮨1個8文(80円)
  天麩羅1個4~6文(40~60円)
縄のれんで一杯
  酒1合30文(300円)
茶店では 4~10文(40~100円)
串団子1串5文(50円)  大福餅や桜餅一個4文(40円)
羊羹一棹66文(660円)

 さまざまな生活費

さまざまな生活費ともいうべきものの値段を示します。
   刻み煙草 10匁(38g) 8文(80円)
   灯油          1升(1か月分)    410文(4100円)
                      →幕末には    2000文(20000円)に急騰
           下駄         50~100文(500~1000円)  
           草鞋        12~16文(2000~3000円)
           蛇の目傘   1000文(1万円) 
           番傘   200~300文(2000~3000円)
           銭湯                  6文(     60円)   瓦版     4~30文(40~300円)
           宿場駕籠    250文(2500円)
           髪結                 28文(    280円)
             →19世紀以降32文(320円)→幕末は48~56文(480~560円)
           出会い茶屋利用料 1/4両=1000文(10000円)

人々の「楽しみ」の値段

人々の楽しみにかかる費用です。
歌舞伎の値段の上下の差、びっくりしますね。
また浮世草子などの本を買うのは非常に高かったことが江戸の貸本文化を支えたことも見えてきます。
歌舞伎小屋(HP「歌舞伎への誘い」より)http://www2.ntj.jac.go.jp/unesco/kabuki/jp/1/index.html
           歌舞伎 桟敷席 銀35~40匁(2~3万円) 
                 一般席    100文       (1000円)
                立ち見席              10文          (100円)
           相撲  桟敷席   銀43匁    (27000円) 
                                木戸銭   銀  3匁      (2000円)
          浮世草子                    銀25匁  (17000円)
今も昔も、一攫千金を夢見た人たち、当時の宝くじがこれ。

  富籤 12文 (120円)

1730年では賞金25両(100万円)が5人に当たるということでしたが、賞金はどんどんエスカレート。100両(400万円)から、ついには1000両(4000万円)にまで達します。

男性の「天国」?!吉原にいくと

   吉原の太夫の揚げ代 1回  1両2分(60000円)
 しかし、その裏返しで、こういった悲劇もあります。
  吉原への娘を身売り得るのが 50両(200万円)
      妻を身売りしたら  80両(320万円)
  娘は親の薬代のために、妻は夫の窮地を助けるためだった
  とのことです。

  病気や健康維持のためにかかる費用

     医者の診察代 1~2分  (1万から2万円)
     薬代 3日分               1分           (1万円)安政年間
                         按摩上下 1回        50文           (500円)
                同じ薬でも
                        避妊薬       1回       124文        (1240円)
               こんなものも、でも効果あったのかな?

  結婚持参金や教育費

       一般町人 5~10両 (20万から40万円)
豪商           500両      (2000万円)

上下の差が大きいですね。こんなのもあります。
不倫の示談金 1回 7両2分 (30万円)

  江戸後期に急速に増えた寺子屋にかかる教育費
       机・硯箱 250~270文 (2500~2700円)
   筆      一本    4文(40円)  墨    1つ12文(120円)
     半紙  20枚8~12文(80~120円)
入門料200~300文(2000~3000円)
他に炭代(暖房費?)や五節句のお礼なども必要です。

旅行にかかる費用は

  一度はいきたいお伊勢さん。もさかんになります。
 庶民の宿は安かったみたいで
    旅籠代200文(2000円)、木賃宿16~32文(160~320円)
    渡し船が、12~15文(120~150円)
東海道 大井川の図(広重)島田市博物館所蔵 HP「東海道川を渡る道」よりhttp://tokaido.canariya.net/1-rene-tokdo/5book/2bu/12_fr.html
     面白いところでは、東海道・大井川の渡し
 人々は人足に担がれて川を渡ります。
      人足料
         腰まで48文(480円)
         乳下70文(700円)、
         脇下90~100文(900~1000円)
水の深さで値段が違ったのですね。
 普通は人足の肩車で渡ります。
 でもお金持ちは四人で担ぐ輿にのって渡りました。
 当然、費用は4人分、水の深さで費用が違うのは肩車同様です。

参勤交代の費用は

庶民の旅でなく、大名方の旅行(参勤交代)にかかる費用です。
帝国書院「図説日本史通覧」P150
帝国書院「図説日本史通覧」P150

 

関東地方・群馬県にあった高崎藩 82000石でかかった費用
   片道 900両(3600万円)

九州の大藩佐賀藩357000石で参勤交代にかかる費用
    片道 2600両(1億400万円)
参勤交代の負担は大名に重くのしかかっていました。

借金の利息は

最後は借金の利息。享保年間(1716~35)の例です。
       1両(4万円)を借りた場合の利息が
   1か月1匁6分=74文(740円)、
      月利1.85%、単純に12倍した年利が22.2%
 複利ならもっと多くなります。現在なら許されない利息率ですね
少額金融はもっと厳しく、
 銭100文(1000円)について
   1か月4文(40円) 月利4%、年利48%
 というとんでもない利率になります。複利ならもっと増えることは先に見たとおりです。

江戸時代の値段から見えるもの

提示された例を挙げただけでも、いろいろなテーマが見えてきそうなですね。
本来なら、自分で調べたものならよかったのですが、全くのパクリです。
個々で出された数字は、担当の先生が、いろいろな史料をみて出てきた値段を記されたものだと思います。
江戸期は物価の変動が小さかったとはいえ、約270年の長い時間であり変化があったことは確かです。
先に見たように、「1文10円は自分の感覚でしかない」と何度も話しておられましたのでとくにご注意ください。
最後に、このデータは先生が授業のなかで時代のイメージをつくるために出されたものであることにご留意ください。

なんとか「終戦」までは! ~「お助けプリント」を準備しました。

なんとか「終戦」までは!
~「お助けプリント」を準備しました。

とうとう12月、2学期の期末考査の時期です。
毎年、ぞっとする時期です。
というのは、残っている授業時間があまりに少ないから
残る授業は、3年生で実質2~3週間2年生は約2か月
そこで、指導手帳に講座ごとの授業時間をまとめ、その枠内で教える内容を考える。
是非教えたい内容も涙を呑んで削る。
それでも、どうしても時間が足りない。
何としても日本国憲法の制定、少なくとも終戦まで」という目標をあきらめなければと思う時期です。
「まあいいか、できたところまで」と考えてしまいますが、桑田佳祐の「知りたいことは時間切れ」というフレーズが頭をよぎり「本当にそれでいいの?」という心の声が聞こえます。
昨年もそうでした。
2学期の期末考査時点で、やっと日露戦争が終わったところ。(「日本の産業革命」や「条約改正」を犠牲にしてもこのありさまです。)
普通のやりかたなら大正で終わり、終戦までは絶対無理という場面です。
しかし、毎年、こんな状態でも予定まではやりきります(^_^)v
その手段が超短縮プリントと、ビデオの併存です。
ということで、昨年度(それ以前から(^_^;)も)使用していたプリントをアップすることにしました。
実際には、さらなる短縮版も作っていますが。
今回は、ちょっとええかっこして量を増やしすぎました。
日本史Aの資料室」に「時間短縮用プリント(大正期~占領期)」としてアップしておきます。「なんや、いつも書いてる内容とえらい違うやないか!」とのご批判もあるかとは思いますが、実際はこんなものです。プリントのネタの多くは、例によって旺文社「教科書よりもやさしい日本史ノート」(監修:石川晶康)です。
(注記:当方のミスで同じプリントばかりが表示されていることに気がつきました。今回、正しいプリントに訂正しましたので、ご利用ください。17.4.26記)
またビデオはユーキャンの「昭和と戦争~語り継ぐ7000日」シリーズを使っています。2巻・赤紙が届く日(昭和11~12年)、4巻・立ち上がれ少国民(昭和16~18年)、6巻・本土決戦の覚悟(昭和20年)を飛ばし飛ばし見せていました。どう見ても不要な所や「ン?」という所もありますが、おおむね良心的に作られているように感じます。
さらに時間に余裕があるときは、7巻8巻という戦後編も見せていました。
6巻についての授業用プリントもアップしておきますので、ご覧いただければ光栄です。

五色塚古墳で考えたこと~「本物」と実際

「本物」を見せただけでは実際の姿には近づけない
 ~五色塚古墳で考えたこと~

 

ふと、気がむいて、神戸の五色塚古墳へ行ってきた。

五色塚古墳①
五色塚古墳①

神戸市西方にあり、淡路島と淡路海峡大橋を眼前においた兵庫県屈指の規模を誇る古墳である。

ここの古墳の特徴は工事用のじゃり置き場のように丸い小石、葺石がゴロゴロしているところにある。この古墳が作られたころの姿に復元すると、このような姿となるのた。

五色塚古墳②葺き石
五色塚古墳②葺き石

僕たちは、古墳といえば、大仙陵古墳(いわゆる仁徳天皇陵)のような鬱蒼とした木々に覆われた緑の森を想像してしまう。古墳といえばこういう姿だとして、こうした写真ばかり見せられるてきたからだ。歴史の教師の側からいえば、見せてしまうというべきか。

正面から・・・一般には、ここからの拝観・・・仁徳天皇陵古墳拝所・・これよ... [大仙陵古墳(伝
大仙陵古墳http://pds.exblog.jp/pds/1/201308/21/45/a0249645_1943557.jpg
たしかにこうした古墳は「本物」ではある。しかし、これを見せて、古代の人はこのような古墳を作りましたというのは正しいだろうか?ここに、五色山古墳再生の面白さがある。1000年以上経った古墳ではなく、古代の人々がつくったような、彼らが実際に目にしていた古墳を再生して現在の我々に提示しているからだ。

大仙陵古墳や周囲の陪塚全てにおいて、葺石や円筒埴輪が忠実に復元されてい... 歴史文化学科の学生
大仙陵古墳の復元図(近つ飛鳥博物館の展示) http://www.osaka-ohtani.ac.jp/blog_campus/literature/003124.html

現代人にとっては神々しいとは思えない土砂置き場のような盛り土の山、これが実際の古墳なのだ。しかし、これも実際の姿とはいえないかもしれない。周りが、まったく違うからだ。現在の我々は嫌になる程、毎日、人工物を目にしている。そうした我々にとって、自然の緑は美しく生き生きしたものと感じる。しかし、古墳が作られた時代はまったく逆なのだ。

古墳が作られた時代、人間は荒々しいまでの森林と戦いつつ自らの支配地域を広げて行く時代であった。そこに実に人工的な建造物が作られる。鬱蒼とした緑の中に、明石海峡を通る船からもくっきりとみえつ人工物、周りの葺石は太陽の光を浴びて輝き、頂上部分には埴輪が隙間なく並べられている、それは自然と対峙している人間の力の象徴のようにもみえる。古墳は自然に戦いを挑んでいる人間の力を示しているのだ。

五色塚古墳②明石海峡と明石海峡大橋を望む
五色塚古墳③ 明石海峡と明石海峡大橋を望む

だからこそ、現代人にとっての古墳が緑に覆われた神聖な空間と感じるように、緑の自然の中の人工的な輝きこそが多くの人間たちを組織してこのようなものを作らせた古代人のリーダーの権力を示すものであったのだ。 

我々は、現在に残された「本物」、本物の現況を見て、過去のことを想像する。しかし大仙陵古墳のように「本物」ではあるが、当時の現実とは異なる姿に慣らされている。

復元鋳造された銅鐸 京都の青銅器工房 「和銅寛」のHPより https://wadokan.ocnk.net/contact

私たちは、銅鐸や銅鏡が青緑色をしていると教えてこなかっただろうか。あのような輝きのない色をしたものを古代人がありがたく思ったように思わせていないだろうか。これは古代人たちの信仰をミスリードする。当時の人々が見た、銅鐸や銅鏡は金色にぴかぴかと輝いて、叩けば当時の人たちが聞いたことのないような高い金属音を発した。だからこそ、信仰の対象となったのだ。こうした古代人たちが見ていた姿を伝えていただろうか。

仏像でもそうだ。

新薬師寺十二神将婆娑羅大将 JR東海「うましうるわし奈良」より http://nara.jr-central.co.jp/campaign/shinyakushiji/special/index.html

木目が見えていたり、銅の地金が見えている仏像、これを当時の人々が信仰したと思わせていないだろうか。実際の仏像は金色に輝き、濃い群青色で隈取れるものであったり、様々な色で塗り分けられたものであった。

奈良、新薬師寺の十二神将像にいたってはヘビメタ真っ青の色彩で表現されていた。そのケバさを超自然的な力をもつ仏や神として尊んだ感覚を伝えられているだろうか。我々が感じる長い時間を生き延びるなかで得られた虚飾を脱ぎ捨てた仏像の物語とともに、もともとの姿をも思い浮かべる想像力も必要なのだろう。

浄土寺(兵庫県小野市)の阿弥陀三尊像 採光を最も劇的に用いた建物と仏像とされる。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E5%AF%BA_(%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%B8%82)#/media/File:%E5%B0%8F%E9%87%8E%E6%B5%84%E5%9C%9F%E5%AF%BA%E4%B8%89%E5%B0%8A.jpg

仏像の場合は、光の状態やそれを見る目線も重要である。蝋燭の光、差し込むわずかな光、護摩の炎、こうしたなかでの仏像、さらには時々で移ろっていく光に照らされた仏像こそが、人々にとっての仏像である。電気の光に照らされたり、さらには写真用の照明で完璧に照らし出された仏像とは異なるものであった。

 我々は、現在の姿で歴史的なものを見て、分かったような気になっている。しかし、それが作られた時の姿にも注意を向ける努力をしなければ、当時の人々に近づくことはできないように思う。

 鬱蒼とした緑のなかに、ひときわ輝く砂利置き場のような人工物のなかにこそ我々は古代人の思いを知ることができる。「本物」であることで満足するのではなく、作られた時代の姿や人々の前に現した状況などにも、時には配慮しなければ、実際の歴史には近づけないのだろう。

授業は「仕事」の合間にやる「仕事」?!

 授業は、「仕事」の合間にやる「仕事」?!

ある先生の「怒り」

はるか昔、教育実習生の講評会でのことです。
教育実習が終わりました。実習生たちは「授業の準備がとても大変だった」「授業を進めることの難しさを学んだ」といった感想を口々に話していました。
普通なら、にこにこしながら、「みなさんごくろうさんでした。がんばって採用試験に受かってくださいね」とかいってお引き取り願うのが通例です。
ところが、かなり厳しいクラスを持っていた先生が、憤然としていわれました。
みんなは、授業、授業といっているけど、教師にとっての仕事はそれだけではないの。実際には補導にかかわる生徒指導や学級運営、分掌業務など、それに会議、そのような仕事で手一杯。
授業研究はそうした合間の時間にやっていること。
教師は教材研究だけやっていられる仕事ではないの。教師というのはそのような仕事だということ、そうでないと教師の仕事なんて分からないと思う。

授業は、仕事の合間におこなう「仕事」?

授業研究は『仕事』の合間にやっている
これは大部分の先生方の「本音」でしょう。さらにすすんで
「仕事」の合間に授業をやっている」と感じておられる先生も多いのではないでしょうか。私もそうでした。
もちろん「授業が中心です」といわれる先生も多いでしょう。
当時の私なら「ほんとですか?いい学校におられますね」と心の奥で毒づき、「生徒指導などは多いですか?」とひねった憎まれ口をたたいたかもしれません。
「授業は大事だ」とはいいながら「一番力を入れている」とはいいにくい実態があります。
冒頭の話の時代、授業にかかわる仕事、とくに教材研究などをやっていれば、「こんなに忙しいのに」とか思われかねない実態がありました。
そんな時期でも、そんな時期だからこそ、スゴく授業に力を入れていた人もおられました。「すごいな、尊敬するわ」といわれました。生徒指導などでも情熱的で「すごい情熱」とか「エネルギッシュ」とかいわれましたが、いつのまにか「やっぱりできる人はすごい」、「自分にはあそこまでの力量や情熱はない」となってしまうのです。
でも、多くの先生はせっかく準備した授業がコケたりしながら、頑張ってもいたのですが。

生徒指導・分掌業務・ホームルーム運営・保護者対応・・・

教師には本当にいろんな仕事があります。
冒頭の話の時代、学校はとても厳しい状態にありました。生徒指導からみの案件がつぎつぎと起こり、家庭訪問や保護者への連絡、会議、場合によっては関係機関との調整などに走り回り、予定などがたたない状態でした。
しかも、緊急性が高いことが普通ですから「ちょっと失礼します」とはいえないのです。
緊急とはいえなくともクラス運営は、毎日毎日が勝負。この先生の所のように厳しいクラスでは何もなくても神経がやられてしまいます。
現在でも、分掌業務などでは、学校全体や学年全体の行事・会議など期日が決められたものが多いのでどうしてもそちらが優先します。管理職や分掌などから、期限付きの調査やアンケートなどが山のようにやってきます。的確に生徒に伝えたり、生徒や保護者との連絡が必要な内容だったり、データ処理が必要だったり、文章化したりと、時間がとられます。
保護者との対応も大変です。連絡を取るために帰宅してから遅い時間に連絡しなければならないので、ゆっくり酒も飲んでられません。
とくに担任はつねにのどに骨の刺さっているような感覚がありました。学校や教育問題を扱うドラマやドキュメンタリーなどは「家に帰ってまでこんなもの見てられるか」という気持ちでスルーしました。家に帰ってまで学校のことを考えたくないのです。

部活動顧問という「本務外」の仕事

また教師を苦しめるのが部活動です。
多くの人は部活動というとグランドや体育館などで校内で生徒たちの活動を指導している姿しか思い浮かばないと思います。もちろんこれが中心です。
これだけでもたいがい大変で、休みの日の多くがつぶれます
練習をしている間、顧問は校内にいなければならないのです。
もちろん試合の時は顧問のだれかが付き添わねばなりません。
私のようないい加減な顧問でも、月に数回は「出勤」していました。校内練習は授業準備に使えましたが、試合はそうはいきません。ある程度強い部だったので、9時から18時なんてこともありました。
メインの顧問で、すべて自分がかぶるタイプの先生に「いつから休んでないの?」ときくと「正月から」とか「今年に入って3日くらい」、あるいは「今月は休んでない」とかいう答がよく出てきました。
体育の先生でない一般教科の先生ですよ。
こうした先生は部活動のスキをねらって授業の準備をしておられるのです。
こうした先生の多くは部活動に生きがいを持って取り組んでおられる先生が多いのですが、そうでない先生もいます。
全員が顧問にならなければならないという圧力のもと、ほかのことをやりたいなとおもいながら、今週もクラブかとため息をつき出かけるのです。
でも生徒にいやそうな顔を見せることは決してしませんでしたし、もちろん試合に勝てばうれしかったです。
思わず時計を見たり、カレンダーを見ることはありましたが・・。

顧問の仕事はグランドや体育館だけではない!

部活動の仕事はこれでおわりません。
数年前、人事異動の関係である体育系部の主顧問となりました。急にこんな仕事をすると、事務作業の量が半端なくて、異様に忙しいことに気づくのです
校内予算のための書類、県教委に提出する書類、生徒会への予算請求、名簿の作成。試合のメンバー表を作成、校長印をもらっての発送。泊がともなえば、宿舎や交通手段の手配、親宛の文書。また練習試合の相手探しと日程調整をする。部費や交通費などの金を集め、おわれば決算をし、さらにその管理・・・などなど
実際には、別の顧問の先生がてきぱきとこなしていただいたのでぎりぎりのところで生徒に迷惑をかけることはなかったのですが、緊張の連続でした。顧問の責任で試合に出られないなんてことになれば困りますので・・・。
教師を長くやっていながら、他の先生がこんなに面倒なことをしておられたのかと気づき、申し訳なかったと退職直前になって知りました。
とくに面倒なのがお金です。近年はいろいろ不祥事があって、「世間の目が厳しくなって!」、さらに管理が面倒、つまり仕事が増えました。私のようなずさんな人間はたまりません。これって教師の仕事なんですかね?
ここまでが普通の顧問の仕事であり、教師の本務でないボランティアとしての「仕事」です。

役員になるとさらに大変・・らしい

さらに高体連の役員とかしていればもっと大変・・らしいです。遅い時間から会議が開かれ、会場との調整、試合の組み合わせを作り、顧問たちからのいろいろな泣き言やクレームを処理し、試合が終われば、そのあとのまとめ・・などなど
とんでもないほどの仕事が飛んできているようです。
ある先生は、19時くらいに部関係の会議に行き、それが終わって22時くらいに学校に戻ってきて仕事をしておられたということで、案の定、健康を害されてしまわれました
この先生も一般教科、補習や補充の多い教科の先生です。
無茶せんといて、手伝えることはやるから」といっても聞いてもらえないのですね。
ついでにいうと、こうした先生に限って部長・主任といった校内の重要な仕事が回されるのです。
さすがに翌年、校内の役職ははずれられましたが。
(このへんは一般企業のかたは理解できない学校の特徴かもしれません。)

まず片付けるのは授業以外の仕事から

教師の仕事の優先順位としては、緊急を要すること、みんなでやらなければならないこと、日程が決まっていること、こうした順番で決まっていきます。
内容的にいうと生徒指導、保護者対応、分掌業務、事務的な内容としての部活動、といったものが先に来ます。
職員会議や分掌会議、教科会議なども会議もあります。
そうなると、クラス経営とくに個人面談、指導としての部活動、さらに授業準備など、個人でできる仕事はあとの方におかれることになります
やりたい仕事より、やらされる仕事、時間に追われる仕事がどうしても先に来てしまいます。
強い部や部活動に熱心な先生は会議は、もちろん部活動第一です。その結果、優先順位がかわり、いろんな仕事をすっとばされます・・。
さきもいったように部活動に熱心な先生が部長・主任となりやすいので「肝心の部長さんがいない」ということも、ときどき起こります。

授業準備でも、優先順位が・・・

そしてやっと授業です。
授業自体についても優先順位があります。
社会科というか歴史の場合は、ルーチン的な作業は少ないのですが、英語・国語・数学などの習熟的な側面の強い科目は、ルーチン的な作業、ノート提出・点検・返却、小テストの作成・返却などが仕事の大きな部分を占めます。
私が教えていた歴史などは考査作成・採点といった仕事が大きな負担となり、考査前の1週間と考査終了後の数日間はほかの仕事は一切手がつきませんでした。睡眠時間を削ってということは普通のことです。
なお、最後の学校では四十人クラスで二単位、同一内容の授業になったので、自分の健康と分掌などの仕事の関係もあって、教育的ではないと思いながらいくつかのクラスでマークシート方式を使いました。
できないことはできません!
でも、その分だけ作問に時間がかかるのですが・・。
私のように割り切っている先生はやはり少なく、無理をしている先生がたくさんいました。
とくに添削や小テストを重視している教科・英語や国語の先生などの労働環境はとんでもないものです
学校内にいる勤務時間としてみた場合、短く見えるのですが、実際はそんなものではありません。
とくに子育て中の女性の場合、帰宅されるのは早めなのですが、聞いていると「子どもと一緒に寝てしまったので、朝の3時に起きて、ノートの添削をした」といった話がごろごろと出てきます。「身体壊すから、もっと手を抜いた方がいいよ」と何度も説得したものです。
という私でも、採点や分掌の仕事で「あかん、今日は3時起きやった」というはめに陥りました。
授業関係の仕事は、一人でやる仕事が多いので、夜なべ仕事になることが多いのです
こうした状況であるにもかかわらず、マスコミが「テストや○○を学校外に持ち出している」などと非難されると、「学校に住み着けとでもいうのか」とキレそうになったりするのです。
問題があるのはわかっているのですが、それならどうしろというのかと思ってしまいます。
このように授業の準備などに費やす時間と労力といっても、こういったルーチン的なものが優先されます。

やっと授業内容の準備にはいれる・・・

こうしてやっと日常の授業の準備にあたることになります。
授業直前になってバタバタと準備をするのが実際です。
その最中に、いろいろな用事が入ってくることも多く、「悪いけどちょっと待って、次の授業なんで」などと嘆願します。そんなこんなで、結局、去年のノートでお茶を濁そうということになるのです。楽勝・得意の分野だからと思っていたところでも、年をとると人名や歴史用語などがすぐにはでてこずに恥をかくことも多いのです。やっぱりしっかり授業準備がいるなあと反省しながら、また同じ事を繰り返してしまいます
ですから、本来の意味の教材研究、授業の中に新しい研究成果を反映させるとか、内容を深めるとか言った作業はめってにできません。
すくなくとも私の意識の中では、そうしたものは、授業のカテゴリーではなく、趣味としての読書の一環とかテレビ視聴とかいったカテゴリーに分類されていました
そのくせして、「最近の研究では」といいながら、昭和や二〇世紀の研究成果を話していたものですが。
学校の机に学術書なんかを置いている人はごく少なく、実際に読んでいた人は、思い出しても一人か二人いたかな、という程度です。ただ、家には研究書などが山積みという人が多いことも知っていますが。
私のように買っただけで開いていないという人も多いみたいです。そうした本とおもわれるものが古本屋では1円とか229円で販売しており、定年になった今、せっせと買い集めています。

いかに「風船」を割らないかが第一?!

昔、テレビでこんなゲームをやっていました。
一周二分くらいの線路の上を先に針のついたおもちゃの列車が走っている。線路の上に風船が置いてあり、割れたらゲームオーバー。ゲームをやる人は列車が風船を割らないように気をつけ、列車が近づくと風船を持ち上げて割れないようにしながら課題に取り組みできた数で勝敗が決まる。ときどき障害物もでる・・。
こんな内容だったと思います。覚えておられる方も多いのではと思います。強迫神経症になりそうなゲームですね。
学校現場は、まさにこのゲームのような状態です。
分掌のための会議資料と会議への参加、生徒用プリント作成、分掌間の調整、部関係の仕事をし、採点やノート点検、飛び込みの来客との対応。アンケートや調査のためのデータ処理、出張準備のための時間割変更や課題作成、代行の先生への依頼。辛いなという表情をしながら快諾する先生、露骨に不快感を示す先生。こちらが代行するときもある。予定していた作業時間がつぶれる。気がつくと授業の時間が迫っているのでバタバタと準備をする。
こんな風に、つぎつぎとおそってくる課題や「障害」を片付けたり乗り越えたり、ときには見て見ぬふりやスルーしたりしながら、授業や行事、HRといったなどをこなしていく。時間をかけすぎたり、計画をミスったり、手抜きをしすぎると「風船」が割れてしまい、ゲーオーバーとなる。
ひとつひとつの授業もこの「風船」のようでした。ときどきは「風船」を割ってしまうこともありましたが。
強迫神経症を患いそうな環境。「やっつけ仕事」の毎日。

もっとしっかりと授業がしたかったのかな?!

一般的にいって、多くの教師はまじめですし、優秀な人が多いと思います。そのせいか、仕事をやめてからもろいろな分野で活躍できる人が多いように思います。
いろいろな人がいます。授業との関わりでいうと
授業で教えることが好きな人、授業は得意でないがその学問は好きな人、超名門校出身でとんでもない学識を持っているけど授業は○○という人、普通の授業は嫌いだけれどいろいろなチャレンジがすきな人・・・などなど
ところが多くの場合、力を出し切れないまま、動いていることが多いのです
実は「しっかり授業をしたい」「授業をさせて欲しい」こういった声はもっと大きいのかもしれません。それが、いろいろな要因によって抑圧され、欲求不満のまま推移している、それが授業をめぐる教師の姿のなのかもしれないと思います。
そういえば、授業もそれほど好きでなく、最後まで教師という仕事に違和感を感じていた私がこのようなホームページを立ち上げたのかのも、実はしっかり授業がしたかったからなのかもしれません。

よい授業ができる条件とは

いろいろと教師批判をする人がいます。いわれても仕方ない人、場合があるのも確かです。
大学で授業を受けていると「高校の授業はどうなっているのだ」という声がよく聞こえます。
しかし、多くの職場ではこのような日々を送っている先生方が多いのです。
「教師が悪い」「いい加減な仕事をしている」といったような「○○が悪い」「□□がよくなればもっとよくなるはずだ」といった犯人捜しや責任の押しつけではなく、みんなでもっとうまくいく方法を考えませんか。

前半部分がつながりました。

文体などがブレブレです。すいません。

~途中の「工事中」がなくなりました~

 

このHPの「日本近現代史(日本史A)の授業」ですが、今回UPした「日清戦争と下関条約・立憲政友会」で、最初につくった日露戦争編と戦国時代から始めた部分がドッキングしました。「工事中」看板のうち、前のものをなくすことができました。

日露戦争編を作り始めたのは、まだ教師をしていた昨年末のことです。11月下旬授業が終わってまだ日が経っていなかった日露戦争のあたりを文章化しようとして、実験的につくったものです。

その後、本年2月、授業が終了したので本格的に始めようと思い、最初の部分、戦国時代あたりから作り始めました。幕末あたりになると、某大学の図書館を利用できるという素晴らしい環境のもとで、まとめています。おかげさまで、ちょっと気になるところは研究書などにもあたれるという信じがたいほどの幸運の中、仕事をしています。ただ現場を離れ、日に日に感覚が薄らいでいるので、ついつい難しすぎることを書いてしまいます。

「時間がない時間がないといいながら、どんだけ細かいこと書いてんね!」というおしかりもいただきそうです。

このようなやり方をしたため、困ったことが起こりました。日露戦争部分の文体も、雰囲気も、かなり変わってしまっているのです。日露戦争編は実際の授業の雰囲気が非常に強い一方、司馬遼太郎風の記述が多すぎたりしています。現在は、さっき記したような内容です。

こうして授業中継に断層が生じてしまいました。この断層をどうしようかと考えましたが、授業は毎年変化するのだから、と居直って、次は日露戦争前後の経済から、とりあえずの完成を目標に進めたいと思います。

それから、あと全体を見直したいとおもっています。

文体などがブレブレできっと違和感を感じられると思います。ご容赦ください。

毎回の事ながら、不細工な話で申し訳ありません。

 

 

 

戦争にむきあうこと~両親の知覧訪問

戦争に向き合うということ
~父と母の「知覧」訪問~

はじめて中国旅行をしようとした。

前回、おもわず中国のことを書いてしまいました。
その内容に手を加えようとしたら、訂正では済みそうもないので、別稿を起こすことにしました。
書きかけたのは、中国に最初に行こうとしたときの葛藤でした。
まずそこから書きます。
私は中学生か高校生の時代から日本軍が中国で行っていたことは、それなりに知っていました。かつての日本軍が中国へいくことをためらわせていたのです。
「「東洋鬼子」(残虐行為をした日本人をさすことば)の子孫が、どの面をさげて中国に来ているのだ」という目を恐れ、いやな思いをすることを恐れました。
でも、「実際に行ってみなければ分からない、いやな思いをするのなら、いやな思いをさせたからだ」と下腹に力を入れて、旅行に行きました。
立場は逆ですが、なんか、かつての侵略者である「日本」を訪れる中国人の心境に近いかもしれませんね。
そして、日本を訪れた中国人が感じるように、すくなくとも表面的には、「別にどうってことないやん」という感想でしたが。

戦争にかかわるところは行きたくない!

私の中国行きへの感覚は、戦中派であった父の思いとも重なっていました。それを引き継いでいたのかもしれません。父は、私が中国に行くという話を聞くと、「自分は絶対いかない」といいました。父もそこで何があったのか、よく知っていたのでしょう。そんなところへはいけない。
さらに戦場になった所にも行こうとしませんでした。ひょっとしたらハワイは立ち寄ったかもしれませんが。
父は卑怯だったのかもしれません。
戦争に向き合っていなかったのかもしれません。

両親が「知覧」にいった!

 とても仲がよかった両親ですが、このような父の姿には、母は批判的でした。
父の定年後、両親は日本中を旅行しました。

知覧特攻平和会館
鹿児島で母は知覧特攻平和会館に父を誘ったそうです。ところが父は、拒否しました。
母は、父がいないとき、不服そうに私に話しました。
兄を二人戦争で亡くした母は、そこに兄たちの姿を見ようと思い、会いに行ったのかもしれないし、戦争の現実を見たかったのでしょう。
本当は行きたくなかった、「でも、いかなくちゃダメだと思ったの」
と、私に語りました。行かなくちゃダメなのは父も同じ、それが母の思いでした。
かなり日がたってからですが、今度は父が言いました。
「母さんは、知覧の特攻隊の記念館に自分を連れて行こうとしたんだ。そんなところ行けると思うか?」と。
よくしゃべる父ですが、歳をとってからは、踏み込んだ話は互いにしなくなっていました。意外といえば意外でした。
二人のそれぞれの話に、私は黙ってうなずくしかありませんでした。

「父のこと」

大正13年生まれの父の世代は敗戦時22歳、理系であったため召集を免れましたが、同級生の多くが戦死しています。特攻に参加した人もいたでしょう。そうした人を記念館に見ることが辛かったのでしょう。
さらに、そこに多くの遺書が展示されていることも知っていたのでしょう。その遺書、自分も書いたかもしれない遺書、それを見ることがたまらなく辛かったのかもしれません。
そして、「例によって逃げた」のかもしれません。

「遺書」にかけられた二つのフィルター

彼らの遺書には、二つの意味のフィルターがかけられています。
一つは、時代のフィルターです。多くの若者は、戦争の実態を知らされないまま、戦場に連れて行かれました。国家の繁栄を信じ、自分の死が自分の家族を、郷土を、日本国家のためになると無邪気に誠実に信じていました。
しかし、現在、あの戦争がいったい何だったのかを知り、特攻がいかに愚劣な作戦であったのか、時代のフィルターの欺瞞を知る今であるからこそ、事実を知らされないまま、死を強要された若者の無惨さが見えてきます。

「遺書」には書けなかった思い

今、多くの若者は時代のフィルターによって、戦争の実態を知らなかったといいました。それは真実でしょうか。戦争の実際をある程度知っていたう若者たちはそれなりにいたでしょう。特攻隊員の多くは、学徒動員された大学生たちだったのですから。では、なぜ、多くの遺書はそのことに触れていないのでしょうか。

 

リベラルな教育を受けてきた父は、この戦争の実際を、当時からある程度分かっていたでしょう。とすれば、父の目に映る遺書は違って見えると思います。
特攻が決まって遺書を書くことになっても、大部分の人は本当に書きたい遺書は書けませんでした。そう、「検閲のフィルター」です。作戦遂行上問題があったり、国家や軍部の方針に反するような内容であるような文章は残すことが許されませんでした。さらに「軍神」となる特攻隊員が特攻や軍隊を批判する文章を書くことは許されるはずがありません。
それにもかかわらず、いろいろな手段で書き残し伝えようとした人たちもいました。それが「きけ、わだつみのこえ」などに集められた手記です。
しかし、多くの特攻隊員、いや兵士たちも、戦争や政府・軍部への批判、特攻作戦への疑問、自分の死の無意味さなど本当にいいたいことがいろいろあっても、このフィルターに触れないことしか書けなかったのです。そこで、かれらはもう一つの真実である両親や親しい人への思いと感謝、郷土や日本の将来への思い、自分の死がなんとかその役に立って欲しいという思いを、このフィルターで許された内容を遺書に記し、作戦に参加し、命を失っていったのです。
特攻作戦の実態について、別の機会があればと思いますが、とりあえず、当時、知覧で特攻隊員を取材していた高木俊朗の作品などを読んでください。

「遺書」~ゆがめられた肖像

同じ時代を、同じように生き、一人一人の人間の生を、笑った顔やともに語り合った姿を知っていたからこそ、このような遺書しか書かせてもらえなかった無惨さを感じたのかもしれません。君の本当の思いはこれでいいの?君の「生」は、この遺書に反映されているの?
すくなくとも、君たちの「未来」、70年後の君たちの一人である自分にとって、そうは思えない。あれは、作られた無知、自分たちの命を無惨に消費し疑問をもつことを許さない国家、そしてそれを「時代の宿命」とあきらめてしまった当時の「自分」たちの、ゆがめられた肖像なのだ。

知覧特攻平和会館 に対する画像結果
三角兵舎 特攻兵たちはこのような兵舎で出撃をまっていた。http://media-cdn.tripadvisor.com/media/photo-s/05/a1/f0/5e/caption.jpg
そして、ここに展示された遺書たちは、このふたつのフィルターの存在について、あまり注意を向けないまま展示されています。そしてこの遺書たちは、かつてもっていたように、特攻隊員が国家のために命を捧げた「軍神」として美化されることに利用されうるものであり、戦争や戦死者の本来の姿を覆い隠すものとして利用されかねないものなのです。
父たちにとっては、かれらの遺書は、当時の若者であった自分たちの当時の「真実の一部」であって、かれらの約70年後の「未来」である自分から見ると、「あの時代」に国家の強制と作られた無知の産物であったのです。
そんなものは見たくない。

母の思い

母は、いいました。
「実際にあったことは、やっぱり見ておかなければならない。だからいやがってたけど、つれていったの」
両親とも、「やっぱり、いかねばならない」「そんなものいけるか」と、それぞれが同意を求めるように、私に話しました。
両親からの、実際にいったことについての感想の記憶はありません。
母は「やっぱり、いってよかった」といったような気もしますが。
母は、父に同意を求めたとおもいますが、父は無言だったのでしょう。
 母はつねづね、「あなたたちを、ぜったいに戦争に行かせたくない」といいつづけていました。
気丈な祖母が、自分の二人の子どもの死にさいしても涙を見せられなかったつらさを見ていたからでしょう。
戦死した二人の兄のことを楽しそうに語っていた母でした。知覧の遺書や写真に兄たちの姿を見て、自分のかわいい孫たちにこのような遺書を書かせたくないと思ったでしょうし、私たちに自分の父や母の辛い思いをさせたくないと、知覧の記念館で再確認したとおもいます。

「戦争のどのように向き合うのか」

十数年前に母が、昨年父も他界しました。
戦争について、きっと考え続けてきたけれど、ある意味、その問いがつらすぎると避けてきた父。自分のふたりの兄と子どもを失った母(私の祖母)について考えてきた母。甥たちが通っていた小学校の先生から、母が「平和の語り部」をしていると聞いて驚いたことがありました。母は、大好きな父(祖父)が遺族会で活動することにはやや批判的だったようにも感じます。
戦場にも行かず、空襲で逃げ惑ったわけでもない、あの時代にしては「幸福な」二人です。それでも、それぞれの体験を通して、戦争に対して向き合ってきたのでしょう。
「知覧特攻平和会館」へのそれぞれの、ちょっとした、しかし誰かに話したくて仕方なかったセリフから感じることができたような気がしました。

新しい「井戸を掘る」こと~「反日」と「愛国」

新しい「井戸を掘る」こと

~「反日」と「愛国」~

日本の「エロ本」と中国の「反日」本

 

中国にはもう10数年前以来、いっていません。
最後にいったとき、立ち寄った中国のドライブインに、日本のコンビニの週刊誌やエロ本のような感じで、日本帝国主義時代の暴露本(ある人たちの言い方の「反日本」)と「米中戦えば」のような軍事関係の本ばかりが並んでいました。ストレス解消が、日本ではエッチな本で、中国はナショナリズムなのか、と変に納得した思い出があります。

不思議な「日本人論」

別の旅行の時は、空港の本屋で研究書風のペーパーバックを買い、とぼしい中国語の知識でながめました。加藤周一などそうそうたる日本人の本を引用しているのですが、結論は「日本人は歴史的に人を殺すことに躊躇しない(※細かいニュアンスは私の中国語の能力では無理です)性格を持っている」。それは「日本人の道徳である『武士道』からくる」というトンデモ本で、いくら何でもこんな書き方はないやろ、と愕然とした記憶があります。それも戦前ならともかく、戦後についても妥当するかのような書き方だったのです。(正確には「のように思いました」)
そのとき、切に思ったのは「ぜひ、日本国憲法下の現在の日本に来て、生活者としての日本人を見て、自分の説が妥当なのか、その目でたしかめて欲しい」ということでした。

怖いところでなかった「シリア」

それからのち、私の旅行先は中近東や南アジア中心となり、中国へ行くことは少なくなりました。
今は、決して行けないシリアも、当時は「怖いところやろ」といわても、「なんの心配もない」と答え、その通り何の心配もなく帰ってきました。アレッポのバザールで困っていたら、日本語で声をかけてくださった人もいました。あの人たちは、どうなってしまったのでしょうか?

反日デモと「知日」

その間、中国では尖閣をめぐる反日デモがありました。ちょっと行きにくいかな、とも思いました。その後、中国では日本旅行ブームがおこり、爆買いブームとなり、最近は中国旅行者も多様になってきました。テレビ報道では雑誌「知日」に代表される日本への冷静な視点をもつひとたちも増えているようです。
ストレスのはけ口を「反日」にもとめていた中国がどのように変わったのか、変わっていないのか、興味があるところです。

中国のドライブイン化した日本

しかし、ふと考えてみました。今の日本ってどうなの?って。
なんのことない、日本自体がかつての中国のドライブインのようになっているのじゃないかと
ストレス発散の対象を、他国や他民族をおとしめ、必要以上の日本礼賛をするナショナリズムに求める人が増えているんじゃないかと・・。
学校の授業で歴史学の常識をいったことが、全国紙や雑誌に取り上げられ、ネット上には「反日」というようなヤジがあふれだす。聞くに堪えないヘイト発言が路上でまき散らされ、ヨーロッパでは逮捕されるような旗をもった人たちが「愛国」といっている。
中国への侵略はなかった」と公言している人物が防衛大臣となる。

中国の「反日」主義者と日本の「愛国」者

中国でもっとも「困ったちゃんの反日」主義者を鏡に写したような、日本の「困ったちゃんの「愛国者」があふれている。
こうした人たちの特徴は、自分を逆の立場に置いて考えるということができないことです。
古いタイプの中国の「反日」主義者は主張しそうですね。政府に統制されたニュースとプロパガンダを信じ、実際の日本の姿を見ていないような人たち「やっぱり日本人は変わっていない」と。
エロ本代わりの「反日」本が、過去の侵略の話でなく、現在のこととして書かれる・・・。恐ろしい未来予測です。

今、「井戸」を掘っている人たち

日中関係で、周恩来でしたかが「井戸を掘ってくれた人のことは忘れない」といっていました。
現在はいろいろな人、とくに庶民が井戸を掘るようになってきたのではないでしょうか
私は、さっきもいったようにもっと多くの中国の人が日本に来て欲しいと思っています。最初は爆買いでもいい。たしかに、ちょっと「うーん」というところもあるでしょう。でも、長い目で見ましょう。

これって「自虐史観」ですか?

私が幼い頃の日本人がそうだったのですから。
ノウキョウさん」といわれて世界のひんしゅくを買っていたのが日本人だったことを、健忘症の日本人は忘れています。
ついでにいうと、日本の町はとても汚かった。新聞やニュースでは「欧米の町は何でこんなにきれいなのだ。日本の町がゴミだらけなのに。」という特集記事がよくありましたよ。川の水は、悪臭を放ち、京都の鴨川は化学染料のおかげで「色彩豊か」でした。
恥をさらしますが、ちょっとアカン奴だった私は町中でよく尿意を催しました。困った両親はやむなく繁華街の街路樹に立ち小便をさせてくれました。ごめんなさい&お恥ずかしい。でも、そんなことは、それほど珍しいことでもなかったのです。
欧米の人は思ったでしょうね。「だから日本人は・・・
こんな風な日本の恥ずかしい歴史をいう私の言い方は、きっと自虐史観なのでしょう。
でも、実際あったことを忘れるのは健忘症で、「あったことをない」と強弁するのはウソですし、人間として卑怯だと思います。

外国に行くと『愛国者』になる!

だから、中国の人のなかには、欧米の人だってそうですけど、確かにうーんという事をする人はいます。でも、日本に住んでいる人、この場合、やはり日本人というべきでしょうでも、そんな人はいくらでもいます。問題は、その人間であって、その国籍や民族を問うべきではないでしょう。文化の発展段階というかもしれませんが、他者の目にさらされることのない状態におかれていたことの反映でしょうし、ひょっとしたら世界を知らない日本人(「日本で生まれ育った人」の方がいいか)が、何の問題もないことを、おかしく考えているだけかもしれないのですから。逆ももちろんです。(私はくしゃみだけは派手にしないと気が済まないたちです?!ふたたび、お恥ずかしい。)互いに学びあい、長い目で見ることが大切なのでしょう。ノウキョウさんを迎えたパリの人たちもそうしたのですから。
日本の人も、どんどん外国に行くようになったこともあって、変わったでしょ。当時よく言った言葉があります。「外国に行けば『愛国者』になる世界を知って、こんなことはすべきでない、逆に日本にもこんないいところがあることを学んできました。
だから、中国の人はもっと日本に来ればいいと思います。欧米よりもはるかに安く来られるのですから。ぼくが中国の本がある程度理解できるように、ある程度は漢字で分かるのですから。
しかし、できれば「ノウキョウさん」でない形で。

「よい日本の人」が新たな「井戸」を掘る

実際に目で見て日本の良さも、ダメさも知ってほしい。そしてより深い日本理解へつながってほしい。できれば「よい日本の人」と知り合い、「日本のよさやダメさ」にも触れ、「中国のよさ」も気づいて、よい意味の『愛国者』となって欲しい。それが中国のよりよい発展へとつながっていくと期待しています。
私は、多くの人たちが日本で「よい日本の人たち」にふれることが、新たな「井戸」を掘ることになると思っています。そして、あいがたいことに、今のところ、多くの日本に住む人たちもいっしょに「井戸」を掘っているのだと思っています。たいそうなことではありません。ほほえみ合うだけでも、落とし物をしましたよ、どうかしましたか、の一言でも、それが新たな「井戸を掘る」ことだと思っています。

新たな「井戸」を埋めさせてはならない

残念ながら、先に見たように、井戸を埋めたくて仕方がないような人が日本でも増えてきたのも事実ですし、やはり残念ながら、今の中国のリーダーたちの中にも、「井戸」の大切さを理解していない人たちがいます。
しかし、私たちは、彼らが気がつかないうちに、庶民の普通の良識によって、日本と中国の間で多くの「井戸」が掘られるようになっています。新しい「水路」を築きつつあります。
両国政府の言動に惑わされたり、偏見と対立をあおるえせ「愛国者」にまどわされることなく、「井戸」に「水路」に清涼な水をたたえていきたいものです。
※ある依頼をした方が、北京に居られると聞いて、そのメールに添えるつもりで書き出した文章がもとです。
せっかくだから、もう少し書き継ごうと思うと、えらく長いぶんになってしまいました。