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歴史系用語の精選問題にかかわって

歴史系用語の精選問題にかかわって
~元高校教師の視点から

 

歴史教科書の実態から

まず、実際使われている(いた)教科書を見ていただきたい。

山川出版社「詳説日本史」P225

手元にあった「詳説日本史」の1ページ「宝暦・天明期の文化」のなかの1ページ(P225)である。
ここに記載される人名本文の太字で6人(青木昆陽・野呂元丈・前野良沢・杉田玄白・稲村三伯・平賀源内)通常の文字で5人(西川如見・新井白石・大塚玄沢・宇田川玄瑞)、注釈や写真説明で2人(シドッチ・山脇東洋)、さらに表中でさらに8名(略)。計22名がこの1ページのなかで登場する。さらに書名7冊(解体新書・ハルマ和解・采覧異言・西洋紀聞・蔵志・蘭学階梯・西説内科撰要)、その他、塾の名前(芝蘭堂)などもある。
この部分は、文化史なので、多めではあるが、こうした叙述が、この教科書では415ページにわたって続く。

コラムなど省略しやすい部分があるので、約400ページ、この膨大な量が高校で授業すべき対象として期待され、大学入試の「試験範囲」となる。
さらに、大学の先生には常識であっても、高校では常識でない問題、教科書に記載されない問題が出題され、さらに教科書に載せられる用語が増える。
 かつて「天台宗の中心になる経典は」という問題(答、わかりますか:「法華経」ですよ!)が出題され、翌年にはもう教科書に載っていた。

1日50分間の授業のノルマは3ページ強

本来、日本史Bは4単位であり、実際には授業時間数は120時間程度なので、1時間に3ページ以上進むことを前提に教科書は編纂されている
さきに掲げた部分なら、「宝暦・天明期の文化」全体で約7ページなので、授業時間2回分となる。掲げた分は、洋学(蘭学)でまとまっているのでやりやすいが、これを15分で終わらせられるか。儒学は、江戸期全体(室町期も)もにらみながら、授業するのでさらに厄介だ。
本当に可能か考えていただきたい。精選しつつ教える。「入試に出るかも」という不安を抱えながら。
入試に対応する「質」を求めると、ここで示した部分だけで1時間近くかかるだろう。「思考力育成型の授業と両立可能な用語数は一時間の授業数で15語程度」という指摘からすれば、このページだけでオーバーする。1日1ページならば、鎌倉・室町で年間時間数を使い切る。
 「学校では近現代史まで教えてくれない!」という批判に、「当然じゃないか」と居直りたくなる理由をわかっていただきたい。

実際の授業では

では「宝暦・天明期の文化」全7ページを2時間、さきにみたようにこの部分は15分程度で仕上げる。
私の例を挙げよう。「授業中継(開国前夜)」では、以下のような感じとなる。

**************

蘭学も広がりを見せた。

解体新書表紙 山川出版社「詳説日本史」P225


蘭学とは、オランダ語を学び、それを元に世界の文化に触れようとする学問だ。
蘭学は、実際の人体解剖に立ち会った医師の前野良沢・杉田玄白らが、もっていたオランダ解剖書の挿絵のあまりの正確さに衝撃を受けこの本の翻訳をはじめる。いわば中学校1年の単語帳だけで医学専門書を翻訳する感じだ。
そうした努力の上に、オランダ語、さらには西洋文化の知識を蓄積される。その蓄積は辞書や文法書を作るなどの形となり、オランダ人らから直接学ぶといった過程を経ていく。そして世界の知識に飢えていた知識人(おもに医師)の中に急速に広がっていった。
18世紀後半には、その興味は医学だけにはとどまらなくなっていく。すでに18世紀中期には平賀源内のようなあらゆる分野に興味を示す人物が出現したが、この時期には林子平のように世界情勢を深く理解し、日本のあり方に警鐘を鳴らす者も現れてきた。
田沼意次はこうした動きを好意的であったが、松平定信は「幕府が世界の知識を独占すべきだ」との立場から、こうした動きを危険視、林のように弾圧されることもあった。

 これにエピソードを加えて15分。「日本史A」での内容なのでこれでいいが、入試を考えた「日本史B」では厳しい。

<板書例>
2,宝暦・天明期の文化
a.洋学
 蘭学・・吉宗期の漢訳洋書の輸入緩和とオランダ語学習(青木昆陽ら)
 18C後期、前野良沢・杉田玄白ら・・「解体新書」=オランダ語文献を翻訳
  ⇒その過程での知識の積み上げ(蘭学隆盛へ)
     蘭日辞書「ハルマ和解」や文法書
           ↓
 医学から他の分野への興味の高まり(←幕府の弾圧も)
平賀源内・・「万能の天才」

 本来ならこの程度。
黒板に書き、ノートに採らせる。それで数分。
これに「解体新書」のエピソードや源内の活躍と死(たとえば、「玄白の追悼文」を紹介)、なぜ幕府が蘭学を弾圧したか、などを紹介して、15分という展開となる。時間があれば、芝蘭堂に大黒屋光大夫がきた話なども。

教えきれないからプリントを使用するが・・

ただ、これは勤務校がそれほどの進学校でなかったからできるので、進学校で通用しない。
なぜなら、入試で出題される中心は「稲村三伯」「ハルマ和解」「宇田川玄随」「小田野直武」であり「芝蘭堂」や「蔵志」であり、私の板書にはあまり入っていない。
決して杉田玄白・前野良沢・平賀源内ではない。
 受験に対応していないとなる。

実は、ここで記した範囲は、授業で実施できなかった内容である。単純に時間不足だから。幕末維新史を残すか、こちらを残すかの判断で、カットした。
少し余裕があれば、上記「授業中継」程度の内容をさらっととながす程度である。そして、補習回しとなるが、人数不足からめったに開講されない。

板書には時間がかかるという場合とか、より正確な説明と密度を濃くしたいという場合はプリントを用いる。
板書にもどした時期も文化だけはプリントを用いることが多かった。
しかし、こうしたプリントをつくっても、多くの生徒は空欄に赤ボールペンで答を写すだけ。試験前に赤い下敷きで隠してその部分を覚えるだけ。

歴史の授業は構造的に消化不良を起こす!

丁寧に教えるべきことには時間をかけて教えたい。近現代まで教えたい。これから生きていく上で指針となったり、役立つことを身につけさせたい、私はそうおもって、歴史の教師となり、教えようとしてきた。
しかし、そのような余裕は全くなく、時間と、授業という形式(この点については別の機会に述べたい)のため、困難であった。
どうあるべきか。
一つは、いっそうの時間保障がなされることである。どの学校でも、いろいろな口実を付けて時間数を増やそうとしている。しかし、行政側は、いろいろなけちを付け、もし増加単位を置くとすれば、訳のわからない科目名をつけ、やれる訳のない教案まで要求する。そうとはいいながら、こうしたフィクションを行いながら、多くの学校で時間数を増やしている。
いま一つは、教えきれるわけもないまま、入試の都合や研究成果を盛り込みたい学界の都合などから押し込まれる膨大な歴史用語を精選するしかない
入試や教科書から来ている以上、ある程度「外側からの力」をもって精選を図るしかない。ただその精選は国家権力によるものであってはいけない。あくまでも、教育現場と研究現場が、国民的、世界市民的教養とはなにかを考えて行うべきものである。

放置すれば、歴史教育は、さらに暗記のみを強要する無駄なものとなる。入試と教科書において、歴史用語と内容の肥大化をなんとか押しとどめるガイドラインを出さねば、歴史教育の新たな展開はない。

このままでは歴史教育は崩壊しかねない。

実は、私自身、生徒たちにセンター試験のみで必要という者にたいし「世界史や日本史を選択すべきでない」と指導してきた。努力に対し、結果との乖離(コストパフォーマンス?の悪さ)があまりにも大きすぎる。
このまま「歴史総合」2単位の教科書が編成され、さらに他の「日本史探究」「世界史探究」などの選択科目が置かれ、単位数削減にさらされるとするならば、歴史教育はさらなる用語の羅列となる可能性が大きい。
無政府的に示された歴史用語から配慮なしに入試問題がつくられるという悪夢すら想定できる。2単位であることを看過したまま。

入試至上主義の高校からは歴史科目は消え去る動きが表面化したのが、世界史未履修問題であった。あまりに難度が高まり、些末に流れる「歴史」科目自体が、まとめて教育から消去されかねない。

高大連携歴史教育研究会の提案

こうした危機感の中を背景に、2011年「学術研究者の国会」ともいうべき、日本学術会議が、国民および世界市民として学ばねばならない教養としての歴史の最低限を「歴史基礎」(および「地理基礎」)にまとめて新設必履修化すること、そしてそうした最低限およびその発展した内容と視点の歴史用語精選を提案したのである。

この流れにしたがって蛮勇をふるって汚れ役を引き受けて原案を出していただいたのが高大連携歴史教育研究会の皆さんであると理解している。 それは、指導要領に影響されつつも、あくまでも現実の歴史教育の当面する問題を検討し、歴史学と歴史教育のあり方を検討するなかで出てきたものである。

今回の精選案(高等学校教科書および大学入試における歴史系用語精選の提案(第一次))に対しては、いくつかの誤解がつきまとっている。
ひとつめは、「精選」の主体を、文部科学省・中央教育審議会などといった政府系の機関と考える誤解である。こうした機関が上意下達的に提出したといった印象で見られがちである。
しかし、実際は日本学術会議の分科会による「関係学会などで重要用語を精選するガイドラインを作成し、大学入試の出題をそのガイドライン内で行うとともに、歴史的思考力を問う問題を増やすように働きかけていく」という提案にもとづくものであり、民間の「高等学校歴史教育研究会」が学術会議などで行った高大の現場アンケートを元に試案を作成し、「大学と高校の教員の交流を可能にする全国的規模の研究会の必要性が痛感されるようになり」2015年に発足した高大連携歴史教育研究会で検討、作成したものである。
今回公表されたものは第一次案で、2018年2月までにアンケート等によって意見を集約し、2017年度中に最終案を発表するとしている。
今回の精選案は、アンケート調査のための具体例として出されている。精選の是非、精選の考え方、具体的な用語選定など、高大連携歴史教育研究会へアンケートを集中することによって、より多くの意見を集約したいとしている。
※なお、アンケートは高大連携歴史教育研究会のホームページからも回答をすることができる。このページからもリンクしておくことにする。

是非、アンケートを寄せていただきたい。

さらに、本年度中にだされる、最終案自体も「学習指導要領」のように、それ自体が権力的に扱われるものではない。こうした考え方と具体例を示すことで、新たな教科書編成や入試などへ活かしてもらえるよう働きかけるという性格を持つものである。

精選によって「龍馬」が消えるわけでない。

なお、多くの人が誤解をしているのは、この精選によって、今まで載っていた語句が教科書に載らなくなるのではないかという点である。
もっともポイントとなる部分を「提案」から引用することにする。

このガイドラインに記載された用語を教科書で「基礎用語」として本文に記載し、大学入試でも知識として問うのはこの範囲に限定する、それ以外の用語については、例えば、教科書では「発展用語」などの扱いで資料や図表・課題中に含めて自主的な学びに導く、入試でも大学入試でその知識を求めることはしないが、基礎用語の知識と組み合わせで解答すべき資料中に使うことは制限しないというやり方で、高等学校の歴史教育に柔軟性と多様性を保証することが期待されます。(中略)
また授業内容や教科書執筆全体については、本用語精選案がリスト外の用語を、授業中に例示することや教科書の資料・図表やコラムなどに掲載することを否定してはいないことをよくよくご理解いただきたいと思います。精選(制限)を提案しているのは、「教科書本文に掲載し、入試で必須暗記事項として扱う」用語だけです。

 今回精選のリストから外れた坂本龍馬や吉田松陰であっても、教科書の本文には載らず、入試には出ない(現実問題として、そんな簡単な問題が出るとは思えないが)ということであって、教科書執筆に当たっては、資料や図表にだすことは可能であるし、後で示す理由から、脚注などでの補足にも記される可能性が高いと考えられる。
もちろん、高校の定期考査などでは出題可能であるし、私が現役の高校歴史教師であっても、気にせず出題する。

精選の具体例を見ていこう。

ちなみに、今回の精選提案において、先に示した「洋学」のページに関わり合いがあるのは
蘭学・杉田玄白・解体新書・平賀源内と、他の場所に記載がある新井白石に限定される。
人名では13人が3人、書名では7冊が1冊に減ることになる。
しかし、私の授業がらみでいえば、消えた人物が前野良沢・青木昆陽、書名が「ハルマ和解」くらいであり、実際の授業内容から見て違和感はない。(ただ、寛政期の林子平が消えていることは、やや違和感もあるが)
さらに、2日で扱う内容となる「宝暦・天明期の文化」全7ページ分では本文中の人名約40名(脚注・表を加えるとゆうに100人を越える!)が8名となっている。

残されたのはこれだけ。「<項目>歴史用語、で記す」
<蘭学>蘭学、杉田玄白、「解体新書」、平賀源内
<国学>国学、本居宣長、塙保己一、尊王論、頼山陽
<儒学>朱子学、藩校、郷学
<教育と思想>心学、石田梅岩、寺子屋、安藤昌益、通俗道徳
<文学・芸能>与謝蕪村、川柳、『仮名手本忠臣蔵』
<美術>錦絵、喜多川歌麿、東洲斎写楽

以上となる。さらに先ほどの新井白石のように別の場所で出てくる内容もある。

「こんなに減らされてやっていけるか!」という人もいるし、「それでも、まだこんなに覚えなければならないの!」という人もいるだろう。

幕末・維新期や戦国期ではどうか

もっとも意見が出されている幕末~維新についても見ていく。まず人名。
今回は《学習内容》と人名という形で記す。

《開国前後の世界》ペリー、ハリス、プチャーチン、孝明天皇
《開国とその影響》徳川家茂、徳川慶喜、井伊直弼、勝海舟
《尊王攘夷から倒幕へ》和宮
《廃藩置県の断行》明治天皇
《明治初期の諸改革》大久保利通、岩崎弥太郎、渋沢栄一
《明治初期の外交と国境問題》岩倉具視
《明治初期の国内政治》西郷隆盛、板垣退助、木戸孝允
《文明開化》福澤諭吉
《他の部分で》井上馨、伊藤博文、山県有朋、大隈重信

山川出版社「詳説日本史」のなかの太字(重要人物)で消えているのは、以下の10名である。

 

ビッドル、阿部正弘、堀田正睦、徳川家定、三条実美、高杉晋作、中村正直、前嶋密、尚泰(上記の範囲内で)
吉田松陰(化政文化の項で)

なお、話題に中心である坂本龍馬はもともと一般語句の扱い、近藤勇は脚注、すでに現在の教科書の扱いでもこうである。しかし、「一般語句なのに勝海舟が入った」とのだからという理屈も成り立つ。

しかし、他の語句をよく見ると《尊王攘夷から倒幕へ》のなかに、「安政の大獄」があるので松陰が、「薩長連合」があるので坂本が、長州征討があるので高杉が、禁門の変三条が、それぞれ触れられることは、授業の進めかたとして普通である。精選に際し、人名と出来事、どちらか一つを選んだ結果と考えられる。教科書の脚注などに記されることが予想されているし、そうでなくとも教師が授業のなかで補足することも想定していると考えられる。

さらに話題となる戦国大名であるが、リストには

北条早雲、毛利氏、長宗我部氏、北条氏、武田氏、今川氏、朝倉氏、島津氏、大友氏、伊達氏

と11の戦国大名家が選ばれている。こんなに多く必要とは思えない、地図や表で十分!という方が私の印象である。

誤解に基づく「用語精選」批判

ところが、精選については、総論賛成、各論反対は世の常である。予想通り、多くの反論が出てきた。まず出てきたのは、坂本龍馬や吉田松陰など自分の好みの人物が外されたという、マスコミ受けのする批判である。
この批判は、すでに見たし、研究会を主導する桃木至郎氏が何度も発言するように誤解に基づくものである。精選の対象は入試(しかも、その知識が正誤にかかわる出題のみ)と教科書本文についてである。つまり、例示や表などは使用可能である。そもそも、授業展開のシーンでは具体的な名前を入れた方がよいに決まっている。
私の「授業中継」で例を挙げれば、武田信玄の領国制を説明する中で、分国法や喧嘩両成敗による家臣団の統制、金山開発などの富国強兵策などを説明し、そこから目を転じて寄親寄子制、武士や商人らの城下町集住、指出検地、貫高制などに話を及ぼすというやり方は可能だし、そうした方が戦国大名を全体として理解できる。最終的に入試に武田信玄は出題されなくても、何ら問題はない。自分の学校の考査で出題することはなんの問題もない。

同様に、坂本龍馬や吉田松陰らを例にとって幕末期を説明することは何ら問題ないし、そうした方がいいのかもしれない。すべての教科書が横並びにその名前を出す必要はないし、入試にはでないと考えればいいのである。

これにより教科書としても、教師としてもさまざまな授業展開を可能にできる。校内の考査においてはいくら出してもかまわない。今まで教科書に出ていないものでもよい。考査は、教師の授業展開にかかわって出題すればいいものなのだから。

「国定教科書」意識は捨てるべき

多くの批判を見て感じるのは、多くの人の意識に「国定教科書」的な意識がこびりつきすぎているのではないか。教科書の本文には原則としてださないことは教えないことではない。
 高校生すべてが、坂本龍馬や吉田松陰の名前を知らなくともいいのじゃないか、全国のすべての人間が龍馬の名前を横並びで覚える必要はないというだけだ。だから入試にも出さない。
逆にいえば、他の用語も減り、時間的に余裕ができるのだから龍馬や松陰を使って、より丁寧に幕末を教える余裕もできる。授業であつかわれる龍馬や松陰の「名前」は入試にでないが、彼らがかかわった尊王攘夷運動、長州征討、薩長連合は入試にでる。自分の地域にかかわる人物を用いて尊王攘夷運動を説明できるのならそれでもかまわない。定期考査にも出題する。
武田信玄の代わりに、長宗我部元親で説明しても、伊達政宗を使って戦国大名を説明してよい。
とりあえず、記憶が自己目的化している歴史から歴史教育を解放しようということだと私は理解した。
かつての「ゆとり教育」の再現だという的外れの批判もあるが、意味のないような記憶でなく、さまざまなアプローチを可能にすることの方が大切だ。
「言葉を閉ざす」という批判もあるが、人の名前だけを意味もなく覚えることが「言葉を閉ざす」のだろうか。私が挙げた例でいえば、「稲村三伯」「ハルマ和解」「宇田川玄随」「小田野直武」「芝蘭堂」「蔵志」とぞろぞろと人の名前を覚えることにどれだけの意味があるのだろうか。
ターヘルアナトミアを中学校一年生単語だけで訳していく中で、どのようにして言語を習得したのか、学んだ単語を積み重ねることで辞書をつくり(「ハルマ和解」)、文法書をつくり、それでどのように世界を読み解いていったのか、読み解いた世界と日本の現実のギャップにどう向き合っていったのか。それを考えた方が、国際理解や言語習得の意味を深く考えられるのではないか。

芝蘭堂に集まった蘭学者たち

学ぶための共同体がつくられ、いかに協力し合ったのか。「芝蘭堂」の会合に参加した大黒屋光太夫が世界をどう紹介したか、蘭学者たちがその情報をどのように感じさせたか、説明した方がよほど「言葉を開く」。
そのなかで、必要に応じて、さりげなく、こんな人もいたよと人名を出せばいいのではないか。
歴史の流れから切り離された人名や歴史用語をマーカーで線を引かせて「さあ覚えなさい」の授業が「言葉を閉ざさない」とは私には思えない。

教科書は「厚い」方がよい!

そもそも、私自身は教科書は厚い方がよいと思っている。(ツイッターで見る限り、桃木氏も同じ考えを持っておられるようである)。教科書には、さまざまな事例が紹介され、史・資料の内容がだされ、その中から、教師(場合によっては生徒も)が、内容をチョイスし、学び、現代につながる課題を読み取っていく。それが最もよいと思っている。
問題は教科書に書いてあるすべてを記憶するものと位置づけていることだ
世界史研究の発展の中、「なぜ世界史にアフリカが登場しないのか?」「世界システム論という考え方をぜひ紹介したい!」といった声が研究者から、さらに教育者の側からも出された。それは、正しい議論であろう。しかし、今までのものが精選されないまま、教科書に反映され、新たに付け加えられた。結果は入試で扱われる内容が増えただけだった。しかも新傾向として。

内容が妥当なだけに悲しかった。結局、「さらに教えなければならないことが増えた」「さらに覚えなければならないことが増え、入試が難しくなった」との反発を受ける。あるべき世界史像を普及させようという思いが、入試という観点から拒絶される。教科書に書いてもらいたい、書くべき内容が、生徒の消化不良を促進し、入試での忌避、歴史嫌いを増やす。
理由もなく、あるいは考える余裕もなく記憶せざるを得ないものを「入試には出しません」「入試に出す可能性があるのはこの内容です」と宣言し、あとは教科書を作成する人たちと現場の教師たちの創意を活かせばいいというのが趣旨であると考える。

「精選」のさいの検討事項も

以上のような点から、私は今回の歴史用語精選はやむを得ないと考え、基本的に支持をしたい。
 ただ、検討すべき内容もある。
生徒、とくに学力に課題のある生徒にとってはみれば、何も考えず、論理構造も考えず、丸覚えする方が楽なのだ。とりあえず、言葉だけを必死になって詰め込み、「主義」がついているものには、覚えてきた「主義」がつくことばを、資本主義か、ロマン主義か、正統主義かなど、全く考えず埋め込む、そして赤点ぎりぎりで、なんとか単位認定してもらう、という現場がある。
一つ一つの「主義」を、抽象的・概念的用語を丁寧に学ばせ、理解させる方が、実はよっぽど大変なのだ。何も考えず「丸覚えする」歴史教科がさらに難しくなることにつながるし、教える側の努力も必要だ。
抽象的・概念的用語も、理解しないまま、事実の裏付けもないまま暗記させる恐れもある。歴史的な事実と結びついた形で歴史理論が組み立てるのはかまわないが、その理論を導き出した事実的裏付けなしに歴史理論だけを覚えるのならそれは非科学的なものといわざるを得ない
とくに、新科目「歴史総合」はそういった可能性が強いだけに注意が必要である。
こうした課題についても、目を向けていく必要があろう。

日本を変えた2つの「1868」年1月3日~「暦」をめぐる話

日本を変えた2つの「1868」年1月3日~「暦」をめぐる話

1867年12月9日でない「1867」年12月9日が存在する!

山川出版社「詳説日本史」P259所収の表より抄録

歴史の教科書には1867年12月9日ではない、「1867」年12月9日という不思議な日が存在します。なにを訳のわからないことをいっているのかと怒られそうですが、そんなことが存在するのです。
ちょっと詳しい人ならわかりますよね。明治6年1月1日以前、日本は旧暦で日付を表記していました。だから、ズレが生じていたこと。そして、面倒くさいものだから、教科書を含み多くの書物では、1868年=慶応4年または明治元年という等式で書きます。したがって慶応3年12月9日は「1867」年12月9日と書かれてしまうのです。
もし、その時代に飛行機があって、江戸からロンドンへ飛んだりしたら、約1ヶ月ぐらい時間を飛び越えたことになったのでしょうね。
今回も、大学の講義で学んだことを紹介しつつ、記していきます。

1868年1月3日~王政復古のクーデタ

さて、括弧付きの「1867」年12月9日、つまり慶応3年12月9日は、欧米では1868年1月3日でした。
その日、岩倉具視は大久保らと組んでクーデタを決行、天皇親政を宣言した王政復古の大号令が発せられました。そして、夕刻からは小御所会議が開かれ、岩倉や大久保、西郷と、山内豊信や松平慶永らとの間で、どなりあいをも含む、息詰まるようなドラマが演じられた日として知られています。(どこまでが本当か、近年は疑問視されていますが)これによって、旧幕府は日本の統治権を完全に失い、天皇中心の新政府が生まれました。
しかし、クーデタや小御所会議に参加したメンバーは、こうしたやり方に反対していました。大政奉還などにおける徳川慶喜の行動を評価し、慶喜が新政府にしかるべき地位で参加するべきだと考えていたのです。
この日以後、活躍が目立つのは、瞬発力の豊信でなく持久力の慶永らです。慶喜を新政府の中に組み込むための工作がすすみます。実は、新政府内で、慶喜を排除しようというのは、大久保ら薩摩、朝敵の汚名を着せられた長州、そして岩倉を中心とするごく一部の公家だけです。しかも、岩倉にしても、薩長が力を持ちすぎるのについては心配しています。こうして慶永らの工作が功を奏しはじめます。徳川家の責任を追及し、慶喜の官位と領地を朝廷に返還せよという「辞官納地」の要求は事実上骨抜きとなりました。さらに、慶永らは、慶喜を議定として参加させようと画策、ついに岩倉も折れて、慶喜が新政府に議定として参画することが内定しました
もし、慶喜が新政府に入るとどうでしょうか。新政府の議定の大部分は徳川家を議長格にした公議政体論を求めてきた人たちで、江戸時代の上下関係が新政府部内でも反映することは、容易に想像がつきます。なんといっても将軍家の親戚筋(親藩)や将軍への忠義の強い大名たちです。参予も、そうした大名の家臣です。さらに、慶喜の頭脳明晰さと言説の鋭さ、かつて神童と呼ばれその能力はずば抜けています。多くの議定や参予が支持したでしょうし、さすがの岩倉も、大久保も、対抗するのは困難だったでしょう。西郷が小御所会議でいったという「短刀一本で勝負がつく」という事態が発生していたかもしれません。
これが慶応3年の年末、1868年の1月の状況でした。王政復古のクーデターは失敗に終わる直前でした。大久保や西郷、木戸といった連中は、それを覚悟していたかもしれない状況でした。

「1868」年1月3日~鳥羽伏見の戦い発生

こうした事態が急変したのが、年が明けて慶応4年の1月3日、今度はカギ括弧つきの「1868」(慶応4)年1月3日です。(カッコなしの西暦標記では1868年1月27日)
江戸では、薩摩側が行っていた江戸攪乱工作への反発から、庄内藩などが薩摩藩邸を襲撃、これが大坂につたわると、慶喜配下の旧幕府側武士たちがいきり立ち、「京都進発」を主張、慶喜もそれを認めます。

しかし、「京都進発」とは何でしょうか。戦争に訴えるのなら作戦を練って多方面から攻撃すべきだし、平和的に抗議したり、議定就任の請状を提出するのなら、少数で行くべきでした。どちらの方法でも旧幕府側の有利は動かない状況でした。
ところが、旧幕府側は最悪のやり方をします。時代錯誤の感覚が彼らを動かしていました。将軍の軍隊が「まかり通る」といえば、黄門様の印籠を出された武士のように恐れ入るという感覚でしかなかったかとしか思えません。当初より、戦闘意欲旺盛な薩摩・長州の武士たちは、江戸期のフツウの武士ではないことを理解できなかったのでしょう。こんな風だからこそ、幕府は滅びなければならなかったのかもしれません。
ともあれ旧幕府側はたたかいには不向きな隊列で京に向かい、薩長と衝突しました。鳥羽伏見の戦いです。慶応4(1868)年1月3日のことでした。旧幕軍の武士たちの奮戦もむなしく、旧幕側は敗れ、ショックを受けた慶喜は家臣たちを見捨てて、江戸へと逃げ帰ります。

逆に、戦闘状態になったことで薩長側は、旧幕府は天皇に楯を突く「賊軍」であるというレッテルを貼ることができました。そして自分たちのやり方を「天皇の命令」として押しつけることができるようになります。
慶喜のため尽力した慶永や尾張の徳川慶勝らも新政府側に立ち、慶勝は家中を大粛清、多くの武士が斬られます。
こうして、慶応3年末、1868年1月段階で、風前の灯火であった新政府が、旧幕府側の愚行のおかげで、「天皇の信任」という神話をもとに確立することになりました。

和暦と西暦、この二つの1月3日をターニングポイントとして、日本は新しい時代へとこぎ出しました。

1年は13ヶ月?~閏月の話

もうすこし暦の話をします。太陰暦は月の満ち欠けをもとに、新月から新月までを1ヶ月(約29.5日)とします。ですから1ヶ月は大の月が30日か、小の月が29日となります。月の満ち欠けと一致しますから、かならず15日は満月です。「○月1日は満月であった」なんて小説やドラマがあれば、明らかなミスですね。龍馬が殺害された日は旧暦の11月15日ですので、晴れていれば、満月が見られたはずです。
しかし、おかしなことに気づきませんか。1ヶ月が29~30日ならば、1年は355日となり、太陽暦の1年(365.24日)との間で、1年でほぼ11日のズレが生じます。
イスラム暦は、この点を一切気にしないので、季節と月の関係ががたがたになります。だから断食月(ラマダン)は夏にあったり、冬になったりと、いろいろ大変なのです。1年はもちろん365日ではありません。

映画「天地明察」と日本の暦について

ところが、中国など多くの国では、やはり季節と月がある程度一致した方がよいと考えました。したがって、月の満ち欠けを基本とする太陰暦を太陽の動きで1年を図る太陽暦で補正します。これが太陰太陽暦です。どのように補正するかというと、約3年に1回、1年を13ヶ月としたのです。そのプラスアルファ分の月を閏(うるう)月といいます。中国では殷の時代から始まっていました。
たとえば慶応4(明治元)年の場合では、4月の次に閏(うるう)4月という月がやってきて、その次に5月・6月と続くことになります。

季節とのずれが生じないよう、どこに閏月を入れるかが暦をつくる人たちにまかされます。
江戸時代には、江戸の天文方と京都との間でキャッチボールしながら暦を編成、それにしたがってつくられた暦を伊勢御師など認められた人たちが印刷、配布していました
なお、戊辰戦争のことをしらべていたとき、本来なら閏4月の記事と思われるものが、4月と記されていたり混乱していて、ちょっと困ったことがありました。

 

2日しかなかった明治5年12月~大隈重信の「悪だくみ」

映画「天地明察」と日本の暦についてhttps://www.offinet.com/news/entry_73578.html

和暦(太陰太陽暦)と太陽暦の併存がなくなったのは明治5年12月のことです。岩倉使節団が海外に行っているどさくさ紛れに12月3日を明治6年1月1日にしてしまいます。この年の12月は2日しかなかったのです
では、なぜこの年、太陽暦に変えたのか。「グローバルスタンダードにあわせた」といいそうですが、実際はもっとせこい。明治6年が閏年だったせいです。

大隈重信

わかります?閏年は1年が13ヶ月。だから給料は・・・13回・・・けど、カネがない・・・。もうわかりますね。給料を13回払いたくなかったのです。しかも、「明治5年12月は2日しかない、それもいらないじゃないか!」ということで、2回分の給料をボツったのです。
考えたのは、当時の大蔵省のボス・大隈重信です。
 改暦による混乱はなかったのか。先生の話によると、その通知はぎりぎり(11月9日)だったが、それほど混乱はなかった、百姓は旧暦で生きていたからとの話でした。しかし私には疑義があります。私が卒論で扱った金光教の教祖金光大神(赤沢文治・川手文治郎)のことばのなかに、太陽暦に伴う節句の廃止を「四季節句、五節句は天地のお祭り事。今は節句を廃いておる。すれば、神の祭り事もなし。神への祭り事なければ人への例なし。子孫危うし」として節句や暦を神の祭りと結びつけて捉え、その廃止は民衆世界を脅かすものとして受け止める視点があったからです。
また急に決まったため10月1日から暦の販売に当たっていた業者も、返品の嵐で、数百万部の廃品を抱えることになりました

時間を支配するのは誰か?~昭和から平成へ

青山忠正氏は次のように記します。

時を支配するのは、近代以前では「皇帝」あるいは「王」といった最高統治者です。東アジアならば、中華皇帝が定めた暦を授けられることを「正朔を奉ず」といって、その臣従下に入ることを象徴する意味を持ちました。その意味で、文明の認識基準をヨーロッパタイプに転換する際の、一つのカギに当たる大事件なのですが、一般には文明開化の一端という程度で、軽く見過ごされているようです。(青山忠正「明治維新を読み直す」清文堂2017)
 

 金光大神は、直感的にこの象徴性を捉えていたのかもしれません。

新たな元号を「平成」と発表する当時の小渕官房長官

こうした「支配者」による時の支配を私に強く感じさせたのが1989年1月でした。昭和天皇が死亡、1月7日をもって昭和が終わり、平成が始まりました。なぜ僕たちの時間が一人の人物の生死によって決められなければならないのか、強烈な違和感と不快感をもったことを思い出します

もう一つの「1月3日」~坂本龍馬が死んだのは満32歳の誕生日?

最後に、もう一つの1月3日の話をしたいと思います。歴史マニアの人たちにすれば、日本の歴史を変えたもう一つの1月3日といえるかもしれません。
それは1836年1月3日です。そんな日は知らないといわれそうです。これを、和暦に換算すると天保6年11月15日です。
小説などでは「彼が殺害されたのは奇しくも慶応3年11月15日、満32歳の誕生日のことであった」と記される人物の誕生日とされる日です。もうわかりますね。坂本龍馬の誕生日とされる日です。
しかし、ここにはいくつかの問題があります。
1つめ、殺害された日は資料的に裏付けられますが、誕生日を裏付ける史料はありません。記録がないのです。
2つめ、そもそも満年齢という考えがない。
3つめ、満年齢で数えるならば、1歳はおよそ365.25日で計算するはずなのに、西暦換算すると日数が足りない、などなど。
細かい論証は青山氏の前掲書をご覧ください。

<参考文献>

青山忠正「明治維新を読み直す」清文堂2017

広瀬秀雄「日本史小百科 暦」近藤出版社 1978

ブログ・映画「天地明察」と日本の暦について  https://www.offinet.com/news/entry_73578.html

注記、明治6年の改暦のドタバタと、その責任者である大隈の話を書いたところ、その内容ドタバタが、前進座で芝居として上演されたとの話を聞かせて頂きました。ありました。「明治おばけ暦」脚本は、「ゲゲゲの女房」や「八重の桜」の山本むつみだったそうです。一応、リンク貼っておきますね。

「5つの名前」と、壬申戸籍

「5つの名前」と、壬申戸籍
~幕末維新期の「名前」(2)

江戸期の名前の複雑な構造

新潟県村上市の町並み

新潟県村上の内藤家中に鳥居与一左衛門和達という武士がいた。
この人物に興味のある方は、ここを参照してください。
源平藤橘の姓はよくわからないが、先祖は三河の鳥居氏であることは確かである。Wikipediaでは、三河の鳥居家は熊野権現の神職の末裔であり、平清盛から平姓をもらったというから、源平藤橘の「姓」は「」であったとおもわれる。したがって、前回のブログ風に、記すと下のようになる。

鳥居・与一左衛門・平・和達

前回のいい方をすると、鳥居がで、与一左衛門が通称、平が、和達が名(ということになる。

村上・鳥居三家

村上には鳥居家は、代々家老を引き継いできた鳥居本家(内蔵助家)のほかに、早い時期に分出した中鳥居、そして後年になって分出した末鳥居の三家が存在していた。
戊辰戦争で、奥羽越列藩同盟に参加し、「官軍」に敵対した責任を取って切腹(政府の命令は「斬首」)した鳥居三十郎は、本家内蔵助家の出身である。
鳥居三十郎については別稿参照

さて、この二つの分家には別の呼び方がある。末鳥居は杢左衛門家であり、中鳥居の別名が与一左衛門家である。つまり和達の通称のように見える「与一左衛門」は通称ではなく、鳥居家を分類する際に用いられる「家名」でもあり、家長が代々襲名する名であった。
遠山金四郎が、役職に就いてからは「金四郎」でなく「左衛門尉」という官名を名乗ったように、家督を襲名した当主が「氏」とは別に「家名」ともいえる「与一左衛門」を名乗ったのだ。老舗や芸道によくあるものである。
ならば、こうした人々は実際にはどう呼ばれたのであろうか。「家名」でよぶことも多かったであろうが、家族や友人などもっとくだけた場合には使いにくかったと考えられる。また「和達」というような諱は一般には使わない。となれば和達という人間を識別するべき名は公的にはなくなってしまう。
そこで、公的でない場合は、ふだんは通称にあたる別の名を用いていたようである。

鳥居与一左衛門和達と鳥居存九郎

旧鳥居与一左衛門家現況
https://blogs.yahoo.co.jp/orion_chelseaより

現在わかっている「和達」の名を挙げておこう。かれの生まれはよくわからないが、子どもたちの年齢などから逆算すると、天保5(1833)年ころの生まれと想像できる。
安政2(1855)年、藩主信親の近習として江戸住まいをしていた頃の名は「喜代之助」、安政4(1857)藩主の名を受け水谷栄之丞(孫平治)、窪田潜龍とともに樺太探検をおこなった時は「存九郎」、家督を継ぎ、町奉行となってからは「与一左衛門」となる。
郷土史家の大場喜代司氏が当時の史料をもとに記されたと思われる、慶応2年の正月のようすを記したエッセイで、「和達」は「与一左衛門」ではなく「存九郎」と呼ばれている。このことから、平時は「家の当主代々の名」である「与一左衛門」ではなく、それまでの「存九郎」という名で呼ばれることが多かったと思われる。

戊辰戦争の中で

慶應4年正月に開始された戊辰戦争は、和達は、2月新潟で行われた越後の諸大名連絡会議(「新潟会議」)に水谷孫平治とともに村上藩代表として参加、さらに奥羽列藩同盟の中心であり、村上藩に強い影響力を持つ庄内藩にも行くなど、主戦派の中心の一人として活躍していたと思われる。さらに、北越戦争が始まると、実際に戦闘にも参加している。
出撃して以後の動きはわからなかったものの、村上落城後、羽越国境での新政府との戦闘に参加しており。いったん村上に戻っていたのか、会津・米沢を経由して庄内へいったのかについては、わからない。庄内藩の降伏によって、戦争が終わると、村上帰還、市内の寺で謹慎生活に入ったようである。当初は外出し、会議への参加するなど、かなりも緩やかなものであったと考えられるが、新政府から取り調べの命令がでて、監視は強化された。反新政府派の有力者として、帰順派の江坂與兵衞暗殺事件にかかわった可能性もある。

「鳥居三十郎追悼碑」(村上市)

義兄(年下であるが)鳥居三十郎切腹後、8月に三十郎を含む戊辰戦争死没者の大施餓鬼供養を行った際の中心人物であったとの記事も見られる。
その後、こうした事態を重大視した新政府は、和達らを東京召喚、それにもかかわらず東京で謹慎中に外出し狩りを行ったため、に謹慎を続ける羽目に陥った。
その後の経過はわからないが、同一行動を取っていたと考えられる水谷孫平治が隠居し家督を譲ったのが明治4年7月であるので、おそらく同じ時期に村上に帰還、隠居して家督を長子・和邦に譲ったと考えられる。

壬申戸籍の編成の中で

当時、和邦は12歳であったが、家督を相続し、おそらく元服、与一左衛門家の当主となったとおもわれる。与一左衛門を名乗った可能性もある。
鳥居和邦についても別稿参照

このように仮定すると、和邦の名前は以下のようになっていた可能性がある。

鳥居・与一左衛門・平・和邦
(とりい・よいちざえもん・たいら(の)・まさくに)

ちょうど、この年、新たに戸籍法が制定され、翌年から、いわゆる壬申戸籍が編制されはじめる。前回も書いたように、これによって、いくつかあった名前が一つに固定されていく。いくつかある名前から、一つを選ぶのであるから、どこの家でも、かなり混乱したと思われる。
入手することができた鳥居録三郎の戸籍から、こうした混乱を読み取ることができる。一枚の戸籍の中に、3タイプの名前が併存しているからだ。
録三郎の父、つまり和達の欄にはこれまで見たことのない名前が出てくる。「淇松」である。なんと呼ぶのかはわからない。なお入手した戸籍には「淇松」の名の上に「亡」の文字が付されており、和達は、入手した戸籍が編成された時には、すでに死亡していたことがわかる。
戸籍の筆頭者は兄の「和邦」、そして弟が「録三郎」、末弟が「鍗次郎」となる。
この三つの名を見ると、和邦は諱を、録三郎鍗次郎は通称、あるいは幼名を、そして和達は隠居名をそれぞれ用いたことがわかる。そして和邦の通称は、法律上=戸籍上は消去され、録三郎と鍗次郎は諱もまたないまま、そのとき用いていた名前が登録されたことになる。
この時代、人々は、どれだけこの選択の意味を理解していただろうか。これまでと同様に、いくつかの名前が公的にも使えると考えていたのかもしれないし、年長になれば録三郎らも「諱」のような名を付けられると思っていたのかもしれない。しかし、名前の変更は、これ以降、簡単には認められなくなる。それを知って、愕然とした人間もいたと思われる。そのためかどうかはわからないが、録三郎の子どもたちには、再び一族の「諱」に用いられた「和」の文字が用いられ、「諱」系の名前が戸籍を占めるようになっていく。
鳥居鍗次郎についても別稿参照

引き継がれた江戸時代の「名前」たち

こうした江戸期の名前のつけ方のルールが、明治期以降の伝統的な日本人の男性の名前のつけ方に反映している。
①一つ目は、「」系を引き継ぐ氏名である。江戸期までは特別な場でしか用いられなかった「諱」であるが、やはり「最も大切で、系図に記される名前」ということで登録されたのであろう。「和達」「和邦」などのように、2字のからなる名前がおおい。なお「徹」「彰」など1字のみの名も、公家や大名家などに散見できることから諱系と分類することができる。
②二つ目は、「通称」(幼名)系の名前で、それまでから一般的に使っていたので親しみ深かったともいえる。「金四郎」「録三郎」「鍗次郎」のように三字となることがおおく、「喜代之助」のような四字の場合もありうる。しかし、「通称」は公的なものとは見なされにくかったため、鳥居家では長子ではない子どもたちに付けたようにも思われる。
③三つ目として考えられるのは、「官名」「一族代々の名」である。
遠山金四郎のような「左衛門尉」のようなたいそうな名前はないとしても、現在におおい「大輔」のように、律令制的な官位を引き継ぐは「○○すけ」(「すけ」には「助」・「介」・「佐」などさまざまな漢字が用いられる)」を中心に、多く存在する。明治当初は「○○衞門」「△△兵衛」などがそうしてものともいえる。
実際には「与一左衛門」のように、これまでの「名字」にかわる「家名」という性格を持っていたものもあれば、すでに官名の性格を失って通称としても用いられることも多かったと考えられる。
百姓の代名詞である「権兵衛(ごんべえ)」さんや猫型ロボットの「ドラえもん」が律令制的な役職から来ているなどといっても、どん引きされるか、笑われるだけであろう。
④四つめは、その他の名前である。鳥居家の場合は隠居名である「淇松」がこれに当たる。さらに「松陰」「子義」といった「」や「」が登録されたこともあったと思われる。僧侶は「法名」が用いられた。多くは二字名であり、難しい漢字が並ぶことがおおい。

日本人の名前にはいくつかのタイプが確かに存在する。それは、このような江戸時代の名前のつけ方から来ているものがあることは明らかであろう。

版籍奉還・「藩」・「家禄」、そして「あさが来た」

版籍奉還、「藩」「家禄」「あさが来た」

前近代から近代へ、何が変わったのか?

優れた研究者からは面白い話を聞くことができます。今回も、先生の研究の受け売りです。

現在の講義では、前近代から近代、何が変わったのかという話がされています。
前回までは「名前」が変わったことすでに一部、紹介しました。今回は版籍奉還を中心とする話です。
旧大名家(いわゆる「藩」)が解体することにかかわる大騒動の話です。この話は、かつての朝ドラ「あさが来た」のなかの宮崎あおいの婚家の倒産の話へとつながります。

「版籍奉還」はどのように説明されたのか、してきたのか?

まずは、版籍奉還の辞典による説明を見ます。
でも、こんな風に説明すれば、先生はご機嫌斜めでしょうが・・。

1869年(明治2)6月,諸藩主が土地(版)と人民(籍)を朝廷(天皇)に還納した政治行為および政治過程の称。維新政府による中央集権化の一過程で,〈奉還〉という形式をとりつつ,藩への政府の統制力強化がなされた。戊辰戦争の影響から一部の藩(たとえば姫路藩)には藩を投げ出そうとする動きがあったが,維新政府の首脳(維新官僚)は,それを抑えて,69年1月20日,薩長土肥4藩主の連名による版籍奉還の上表文を朝廷に提出させた。   (世界大百科事典)

私の現役・日本史教師だった頃の説明はこんな感じです。

 新しい政府ができても、なかなか新政府の指導が入らなかった。そこで新政府では、それぞれの『藩』への指導権を強めようと、新しい政権が成立したときに行う封建契約の更新、つまり土地(「版図」)と人民(「戸籍」)をいったん主君に返し再度主君から「封じられる」という儀式を利用しようと考えたんだ。木戸や大久保といった薩長土肥出身のリーダーたちが『藩主』の所に行き、さも再度封じられるかのように説明し、その四『藩主』に、土地(「版」)と人民(「籍」)を天皇に返還する申し入れをしてもらった。「奉還」というのは、前の「大政奉還」のときとおなじ。天皇に「かえしたてまつる」という意味。他の「藩主」たちは我も我もと申し出る。
 ところが、天皇(の名を借りた新政府)は土地・人民を国家のもととし、『藩主』を「知藩事」という役人にし、今までの藩の収入の1割を給料として支払うことにした。藩主も政府の役人になったのだから、天皇・政府の命令を聞く義務があるというわけだ。
 こうして、政府の命令を聞かせやすくなった。しかし、今まで通りの『藩』組織は残り、名前が変わったとはいえこれまでの『藩主』が君臨する。やはりなかなかうまくいかない。勝手なことをする。だから、この制度はつづかず、廃藩置県を行うことになる。

 これは退職直前で、それ以前は「形式的」で「歴史的意味も小さい」といった説明が中心でした。時間がないときは省略もしました。しかし、「授業中継」の本編では、先生の説を色濃く反映するものになっています。

先生による「版籍奉還」の説明

先生は版籍奉還を次のように説明されます。要約すると次のような感じです。

 版籍奉還とは、大名家が廃止され、『藩』が置かれたことです。大名家が領地と人民の支配権を手放したこと。そして、その代償として『家禄』を受け取ったことです。同時に武士たちも支配権を手放し、やはり『家禄』を受け取りました。
 そして、大名が手放した領地に、新しく『藩』といわれる地方行政機関が置かれ、その長官として『知藩事』という役人が置かれ、それまでの大名が就任したのです。
 このことは、武士にとっても奉公の義務がなくなったことを意味します。
武士というのは、主君から「御恩」としての「知行」を与えられ、戦場に行って主君のために討ち死にすることを最上とする「奉公」を果たすものした。しかし、こうした知行(この時代は俸禄をもらう形式が多かったのですが)がなくなることで、このような主従制も廃止されたことになります。
 木戸孝允(桂小五郎)が主君である毛利敬親を説得したとき、敬親が「それなら、これからは、自分と木戸とは主従でなくなるのだな」といい、木戸は首を垂れたまま、何も言えなかったという話も残っています。
 大名や武士が土地・人民の支配権を放棄し、主君との間の主従制を廃止し「知行」を廃止したかわりに、与えられたのが「家禄」です。それまでの知行は、大幅に減額されましたが、「奉公」の義務もなくなりました。長い間続けてきた「奉公」に報いる「年金」のようなものが与えられたと考えればいいでしょう。

 版籍奉還は、難しいいい方をすれば、封建制的所有関係を終わらせたものであり、「武士も手放した」という言い方は、前近代の土地所有関係の重層性を考慮されたものだと勝手に判断しました。(この点は難しくなるので省略)
なお版籍奉還の理由を、「それぞれの大名は、膨大な『赤字』を抱えていた。だから、倒産寸前の企業を手放すようなものであった」と説明されました。
しかし、この点については、やや疑問があります。確かにその側面があり、反対が小さかった背景としてはそれでいいと思うのですが、木戸らが藩主を説得に行ったという点から考えると、やはり政府側が主導権をもって、諸大名の支配地域へ新政府の政策を滲透させるという側面の方が大きいように思います。

「藩」は2年ほどしか存在しなかった!

さて、さきの説明で、あれ、と思った人も多いでしょう。そう「藩」の位置づけです。今度は、先生の本から引用します。

もともと「藩」という言葉は、近世初期どころか、中国の古典にも見られる言葉で、皇帝の周りを固めて守るブロックといった意味です。・・・いずれにせよ、その言葉は、理念的なもので制度として、藩というものが存在したわけではありません。
 ところが嘉永・安政年間(*いわゆる幕末です)になると、大名とその家臣の中には、みずからの領地領民をひっくるめて、「藩」と自称する例が多く現れるようになります。この場合の「藩」は・・・天子(いわゆる朝廷)の周りを固めるもの、という意味です。つまり、大名にとって将軍との主従制的な関係が弱まり、むしろみずからを天子と直結した存在と自覚する考え方が強くなったことの表れです。
  (中略)
 明治二年六月、政府は天皇の名において、全大名を改めて地方官として知藩事に任命し、その旧領を管轄地として預け、公式の藩名を定めました。
(青山忠正「明治維新を読み直す」)

 「藩」という呼び方は、江戸後期になって使われたいい方で、幕府から距離を持とうとした人たちによる自称です。「幕府の家臣」より「天皇の藩屏」を重視した自称、それが「藩」であり、そこに属する武士が「藩士」です。あくまでも、正式名称ではありませんでした。

中略した部分に書かれていたのですが、慶応四年閏四月の「政体書」では、「大名が旧慣にしたがって支配する領地」を「藩」として捉えました。
 版籍奉還は、それを国家が回収し、設置したものが地方組織としての「藩」です。鹿児島藩や山口藩といった名前は、この時付けられたので、これ以前にそういった名前は存在しません。
   ※なお、長く近世史の中心であった山口啓二氏も1971年段階でこの点を指摘しています。
その藩に住んでいる士族は、大名家との主従関係を失い「○○藩貫属士族」とよばれます。略して「藩士」です。
ちなみに、薩摩・島津家の旧領は以後「鹿児島藩」となり、そこに住む武士が略して「鹿児島藩士」となります。山口藩や高知藩も同様です。ですから戊辰戦争のときには「薩摩藩士」と自称する人はいても、「鹿児島藩士」などは存在しようがない、というのが先生の主張です。

なぜ「鹿児島藩士」なのか?

ところが、現在でも、幕末期から「鹿児島藩士」「萩藩士」といった使い方がされます。先生は、それは「孝明天皇紀」や「明治天皇紀」が原因だといいます。
それはイデオロギー的だ」と先生はいいます。こうした明治政府の「公の歴史書」は天皇制=国家権力の立場から描かれているからです。この立場からみれば、彼らは最初から「天皇の藩屏」なのです。「こうした叙述を鵜呑みにするのは歴史学ではない」。先生の毒舌は冴え渡ります。歴史の叙述、とくに国家が編纂した歴史にはこうした価値観が混入しやすい、史料にあたって確認するしかないというのが先生の立場です。

知行が廃止されて「家禄」という年金に変わる

つぎが「家禄」の話です。先生は「維新によって、すべての士族が没落したようにいうのは正しくなく、オーバーである」と主張されます。
先生の説明を記しましょう。

 先に見たように、版籍奉還によってそれまでの収入源であった「知行」が廃止され、変わって「家禄」が与えられます。これは、たしかにそれまでの「知行」から減額され、それだけでやっていくのは困難です。しかし、これは「基礎給付」です。これまでとはちがって公に別の仕事をすることが可能になり、推奨もされます。大久保や木戸らは莫大な「官禄」を、「家禄」とは別に受け取ります。
 当時、士族は約30万人、その家族を含めると約150万人くらいいた、と推測されます。実際の所、その1/3が「公務員」、「藩」や「府・県」あるいは太政官などの官にかかわる仕事に就いたと考えられます。もっとも薄給なのが小学校の先生、武士は基本的に読み書きができるので、仕事を求めやすかったと思います。こうした仕事によって「官禄」と呼ばれる収入をあわせて得ることができました。
 次の1/3は、何らかの形で「起業」します。実際には土地を買って百姓になるという例などが多いですが、商業などで成功したものもいます。
 のこり1/3がうまくいかず、不平士族となりました。こうした人たちが反乱を起こしたりしたのです。
 士族がすべて新政府に反対していたなら、政府は持たなかったでしょう。しかし、そういうことはなく、反対派は限定的でした。ですから、鎮圧可能だったのです。
 旧大名と士族をどのように転職させるかということが、維新史を考える上での「核」になると思います。

 たしかに、士族のかなりの部分が官吏、とくに巡査や教員に転職していったということは確かだと思います。ただ、先生のようにすっぱりと図式的に割り切ることが妥当かどうか、躊躇するところが、偽らざる本音です。「起業」はしたものの大失敗に終わったという人がもっと多かっただろうし、その起業の質も問わねばなりません。幕末の武士の生活困窮状態からみれば、都市雑業層やプロレタリアートなどとして社会の底辺に消えていった士族はもっと多かったのではと考えます。
また運動家としての不平士族は、残りの1/3よりも、上の2/3の中から供給されたのではという気がします。この部分の研究は未着手の部分が多く、このように単純にいえるかどうかは、率直なところ疑問を持ちました。

旧大名家などが積み上げた膨大な借金はどこに消えたのか?

先生の話を続けます。

「家禄」は明治九年八月の金禄公債証書発行条例で、すべて公債(国債)に置き替えられて打ち切られます。(※いわゆる「秩禄処分」)例えば20円の家禄を受け取っていたものは、その10年分の200円分の公債の形式で与えられ、打ち切られます。政府にも資金がありませんので分割払いの形となります。いわば政府が士族に対して、ローンを組んだという形です。最終的には明治三五年までかかりました。

 ここで、先生は面白い話をされました。「このようにして日本では武士たちが持っていた領主権を有償で買い取ったのです。フランス革命やロシア革命とは違う日本の領主権廃止の面白い所です」
こうしたブルジョワ革命との比較から、秩禄処分を捉える見方は非常に面白いと感じました。私が知らなかっただけかもしれませんが。
 さらに面白い話がつづきます。先の大名家が抱えてきた「赤字」の話です。

版籍奉還の原因には、各大名家が持っていた膨大な負債がありました。それは「藩債」に置き替えられ、さらに廃藩置県を経て、国家に付け替えられました。こうしてかつての大名家の負債は消滅します。
では、こうした「債務」はどうなったのでしょうか。それは大蔵省管轄に移り、具体的には大蔵大輔井上馨のもとで処理されます。
井上はこうした膨大な債務をほぼ全額踏み倒します。こうして江戸時代以来の積み上げられてきた大名家(および幕府)の債務をほぼ消し去られ、いったんリセットされます。
こうしたリセットの上で近代国家が作り上げます

「ツケ」は踏み倒された!

重要だと思いましたので、研究書などで裏付けしようとおもいました。

江戸時代中期以来、各大名家は深刻な財政難となっており、大坂などの両替商(有力商人)からいわゆる「大名貸」を受けたり、領内の有力商人や領民から御用金を徴収するなどして、しのいでいました。藩内でのみ流通する紙幣「藩札」の発行は重要な手段でした。
ところが、幕末の混乱と戊辰戦争出兵は各大名家の財政破綻を招きました。このことが、版籍奉還の大きな背景にあったのは、見てきたとおりです。
こうした大名家の負債は、版籍奉還の結果成立した「藩」にもちこまれます。財政の大きな柱であった「藩札」の発行が禁じられ回収・処理が命じられます。秘かに発行されていた贋金の鋳造なども禁止され、藩札・藩債は各藩の責任で償却することが求められました。各「藩」では、「家禄」の減額など厳しい改革により負債の軽減に努めています。
一八七一年、廃藩置県で「藩」は消滅します。先生の話の通り、各藩の債務は、「家禄」とともに、明治政府に移ります。
各藩から引き継いだ債務残高は、藩債7413万円、藩札3909万円、さらに外国にも400万円の借り入れがありました。

 藩債の処理は明治六年三月に方針が決定されました。(新旧公債証書発行条例)。うまくまとめているWikipediaの一文を引用します。落合・富田両氏の文献をもととしています。

新政府は藩債を3種類に分割した。即ち、
①明治元年(1868年)以後の債務については公債を交付しその元金を3年間据え置いた上で年4%の利息を付けて25年賦にて新政府が責任をもって返済する(新公債)、②弘化年間(1844年〜1847年)以後の債務は無利息公債を交付して50年賦で返済する(旧公債)
③そして天保年間以前の債務については江戸幕府が天保14年(1843年)に棄捐令を発令したことを口実に一切これを継承せずに無効とする(事実上の徳政令)というものであった。

藩札は、廃藩時の時価によって政府の紙幣と交換された。藩債のうち外交問題になりえる外債は、すべて現金で償還された。
藩以外の旗本・御家人などの債務は償還対象外とされた。朝敵となった江戸幕府による債務は発生時期を問わずに、外国債分を除いてすべて無効とされた。
また、維新後に新立あるいは再立が認められた朝敵藩の負債は新立・再立以後の負債のみが引き継がれ、それ以前のものは無効とされた。

その結果、届出額の半額以上が無効を宣言されて総額で3486万円(うち、新公債1282万円、旧公債1122万円、少額債務などを理由に現金支払等で処理されたものが1082万円)が新政府の名によって返済されることになった(藩債処分)。新公債は、西南戦争の年を除けば毎年償還され、1896年までに予定通り全額が償還された。旧公債も、予定通り1921年に償還を完了した。

踏み倒し?民事再生に従うスキーム?

つまり天保年間以前の全借金(多くは借り換えを繰り返しているので膨大な金額に上る)、幕府・旗本・御家人関係、さらに「朝敵藩」の借金は「踏み倒し。その他の藩の借金も慶応以前の分は無利息50年賦というスキームです。先の数字が正しいと仮定すると、約4000億円が「踏み倒され」ました。旧公債1120億円も利子なし50年払いだから「踏み倒し」に近いとも評価できそうです。
しかし、幕府も、諸大名も、旗本御家人も倒産したため「民事?再生法」の適用を受けたと考えるなら、別の論点もありそうです。「破綻処理」のスキームのなかで「債務放棄」「支払い延長」「支払い」に分類した。そしてそれをしっかりと履行した。残念ながら、「連鎖倒産」した「銀行」も多数に上った。しかし、非常事態だから仕方がなかったと、おかしくもないといえそうです。
公認会計士さん、弁護士さん、こんなものでいかがでしょうか?

今度は落合弘樹氏の著書を引用します。

江戸中期以降、多くの藩は借入れに頼って藩政を維持してきたが、明治政府は多く見積もっても28パーセントしか引き継いでおらず、最後のツケは貸主に回された。とりわけ解体された旧幕府家臣団の債務はすべて私債とみなされて事実上回収不能となり、江戸の金融を支えてきた札差たちは借り手の旗本・御家人とともに瓦解した。また仙台など「朝敵藩」とされた地域における商人の打撃も計り知れない。さらに、大名貸を行ってきた大阪の両替商も多額の不良債権を抱えることとなる。住友の番頭の広瀬宰平は自叙伝『半世物語』で、維新前における大阪の旧家豪商として三四家の名をあげ、そのうち天王寺屋作兵衛、平野屋五兵衛など二三家が維新の荒波を受けて破産・絶家の災厄に遭遇し、なんとか以前の勢力を保持できたのは住友吉左衛門や鴻池善右衛門、加島屋久左衛門など九家にすぎなかったと回顧している。(「秩禄処分」

 先生はこのように話をまとめられました。

士族に対する補償はなされたのに、町人に対する補償はなされませんでした。大阪を中心とする大商人の犠牲のもとに明治維新がおこなわれたのです。江戸時代がリセットされたのです。
こういった所が実は明治維新の「核」「肝」に当たる部分です。
しかし、両替商の多くは滅亡してしまったので史料が残らず、論証しようがないというのが現実です。もしこうした部分を調べれば非常に面白いと思います。
明治維新をバラ色に描きたい人が多いのですが、こういったシステムの変化こそ、明治維新の最も重要な部分だったのです。

宮崎あおい演じた「はつ」の婚家はなぜ倒産したのか?
NHKドラマ「あさが来た」京都の豪商の娘はつとあさは、それぞれ大阪の豪商の家に嫁ぐが・・・。

数年前、NHKで評判になった朝ドラに「あさが来た」があります。私が勤めていた職場でも、その話題でもりあがりました。
このドラマの二人の主人公である姉妹の嫁ぎ先は対照的な運命をたどります。
波瑠演じる主人公「(白岡)あさ」が嫁いだ「加野屋」は明治初年の混乱の中、あさの活躍もあってなんとか倒産を逃れ、炭鉱業や繊維業など、そして生命保険などに進出していきます。
他方、宮崎あおい演じる「(眉岡)はつ」が嫁いだ「山王寺屋」は明治初年の混乱の中で倒産、はつ一家は路頭に迷う。・・この二つを対照的に描き出すことで、近代の日本の姿を描こうとしていました。
さて、先の引用文の家の名前に注目してください。似た名前の存在に気がつかないでしょうか。「加島屋久左衛門」「天王寺屋作兵衛」。この話は、この時、明暗がわかれた二つの両替商の話をモデルにしていたのです。なにやら、わかりにくかった山王寺屋倒産の背景、犯人は大商人の犠牲の上に江戸時代を切り捨てようとした明治政府だったのです。

<参考文献等>
青山忠正「明治維新を読み直す 同時代の視点から」(2017清文堂)
山口啓二・佐々木潤之介「体系日本史4幕藩体制」(1971日本評論社)
落合弘樹「秩禄処分」(中公新書1999」)
富田俊基「国債の歴史」(東洋経済新報社2006)
松尾正人「廃藩置県」(中公新書1986)
「廃藩置県の研究」(吉川弘文館2001)
Wikipedia「廃藩置県」

※山口啓二は、上記の著書で次のように書いている。
「藩」という公称は、明治元(1968)年に旧幕領に府・県を置き、旧大名領を「藩」とよんでから、廃藩置県までの三年間に存在しただけである。江戸時代の公文書では、「国」「大名」「家」「領」という中世以来の武家用語を踏襲して表現しており、大名を一括してあらわす「万石以上」が慣用されるようになるのは中期以降のことである。大名の小国家を「藩」と指摘によぶことは、中期以降ひろく形容されるようになった漢学的教養のなかで、幕藩体制を中国の封建制になぞらえて、諸大名を幕府の「藩屏」と考えるようになってからであるが、一般に用いられるようになるのは、むしろ幕末に「藩」の自主意識が強まってからであった。(P24~25)

 

戦争体験を語るということ

つらい真実は、話すことができないものだ・・・!~戦争体験を語るということ~

 

市民講座で話された講師の先生の話を紹介します。
戦争責任という話にかかわって、話された内容です。

*****

戦争の真の姿はなかなか語られませんでした。復員兵も、引き揚げ者も、シベリア抑留の人もなかなか口を開きませんでした。
実際は、開けなかったのです。
戦争のすべてを話すまで、気持ちの整理をするまでには、時間がかかりました。自分のやってきたこと、つらい思い出などを整理するのに時間がかかったからです。残虐な行為をしてしまったり、なかまを見殺しにしたり、逃げてくる途中で子どもを捨てたり、置き去りにしてきた体験を話すことは、簡単ではありません。

こんなことがありました。
満州移民が逃げる途上、松花江を渡る船をソ連軍が機銃掃射で沈めました。多くの人が川に投げ出されました。そうして投げ出された母子は、なんとか木片をみつけ、それにすがったそうです。ところが、別の男性が母子からその木片を奪いとり、自分だけ命を長らえました。
同じ村の出身で、一緒に暮らしていた親子の命を奪う行動をしたのです。そんなつらい経験、すぐに話すことなどできますか。なかなかできなかったと思います。

私(「講師の先生」)は80年代、南京事件にかかわった元兵士から聞き取りをつづけていました。ある人の所にいったときのことです。
元兵士は仏壇の前に自分たちを連れて行き、そこで両手を固く握りしめ、震えながら話し始められました。おっしゃられました。「自分はもうすぐあっちへ行く。そこで、自分がひどい目にあわせた人にあうことになるだろう。ここで話しておかなければ、向こうでひどい目にあわせた人たちに合わせる顔がない」。こういって話をされました。

つらい経験をした人は、本当のことをなかなか話せないものです。「軍隊で病気になった」こととか、「ひどい上官がいた」とかは話しても、すべてのことを話せるものではありません。とくに思い出したくないほど、つらい出来事は。だから、戦争直後といっても、戦場のほんとうに厳しい話は、なかなか世間には伝わらなかったのです。
シベリア抑留の人は比較的話されることが多かったようです。原爆被爆者の方が口を開かれるのも、かなり時間が経ってからのことでした。

参加している方に)あの話はやはりできないのですね。(うなずかれる)

いまでも口を開かれない人もいます。

それは韓国の人にとってもそうでした。元慰安婦の方が、名乗り出られて、話し出されたのも、90年代になってからでしょう。

こうした理由から、戦場の体験が共有されたことが少なかったのです。人生の最後になって、やっと話し始められた人が多いのです。死んでも死にきれないという気持ちで話されるのでしょう。
したがって、こうした戦争の加害責任の問題が語られることはすくなかったと思います

*****

わたしも、授業中継のなかに同様のことを書いている。
しかし、実際に聞き取りにまわられた先生の話だけにその重みを感じた。戦争中の体験を話せないまま、生き続けた人のいることを忘れてはならないと思う。

さらに、こうした人を苦しめたのは、「日本軍がそんなことをするはずがない」「日本兵をおとしめる」などといい、それに同意を求める動きであった。さらに、勇気をもって証言した人を「嘘」呼ばわりする風潮も。
戦後になっても、国家は「兵士」たちを苦しめ続けたし、続けている。

江戸時代の名前と戸籍法 ~「名前」をめぐる明治維新史(1)

江戸時代の名前の規則と戸籍法
~「名前」をめぐる明治維新史(1)

大学での授業は気になっていたことを一挙に解決してくれることがある。
歴史研究者からすれば、当然のだが、一般人にはあまり知られていないことがある。
今回、教えていただいた内容は江戸時代において名を名乗るの原則であり、それが明治維新によってどう変わったかである。
祖先調べで資料(史料でない!)にでてくる名前で苦しんだ経験があったので、この内容は非常に興味深かった。幕末維新史の大家の先生の話からは多くの発見ができる。

今回は先生の話を紹介しつつ、追加的に調べたことを交えて、幕末維新史をめぐる「名前」について記し、次回は応用編として私が祖先調べの中でわかったことを述べていきたい。
なお、先生は幕末維新史の政治史にかかわってでてきた内容なので、武家の「名前」にかかわる話となり、庶民の名前には触れておられない。個人的に、庶民の名前についても調べたいという興味もわいてきた。

前近代の名前の原則~坂本龍馬の名前から

坂本龍馬が例として扱われた。龍馬の正式の名乗りを記すと

坂本・龍馬・紀・直柔
(さかもと・りょうま・き(の)・なおなり)

坂本」が「」の名前、今でいう名字、坂本家の出身であることを示す。
龍馬」が「通称」であり、家族や仲間が一般に用いる名前。だから、一般にはこれが用いられる。 愛称になると、省略されたりするのは現在と同じである。

実際に多く用いられるのが通称である。有名な者としては、西郷「吉之助」、大久保「一蔵」などがこれにあたる。一般に用いられるのはここまでである。

残りの「紀・直柔」は一般には用いられない名前である。子孫が系図に記したり、墓石に刻むための名前である。
ちなみに「」は、「姓(かばね)」であり、先祖の家系を示すものであり、多くは「源平藤橘」の4姓が用いられることがおおい。とくに藤原がおおい。「大部分はフィクションであろう」というのが先生の見立てだ。
そして「直柔」が「」であり「諱(いみな」ともよばれる。

なお国語大辞典では諱とは「「忌み名」の意味であり、① 本名。生前の名で、その死後人々がいう。② 死後に尊んで付けた称号。おくりな。のちのいみな。③ (①の意を誤って) 実名の敬称。貴人の一字を賜わる時などにいうことが多かった。」とあるように、本名ではあるが死後にもちいられることを原則とした名前といえるようである。
ただし、江戸時代の大名家などでは、③のように諱を貴人の一字を賜わる時などにいうことが多かった。

目上の人を呼ぶためには~吉田松陰の例

通称で呼ぶあうのは、基本的に、「上から」ないし「横から」の呼び方であり、目下から目上を呼ぶことには用いにくい。
そこで、吉田松陰の例があげられる。松陰の正式な名乗りを記す。

 吉田・寅次郎・藤原・矩方
(よしだ・とらじろう・ふじわら・のりかた)

 さきほどの理屈で、目上の者や家族、友人は、「とらじろう」やそれを略した愛称「とら」で松陰を呼ぶことになる。小説などで、主君の毛利敬親が松陰の命日に「今日はトラの日であったな」と話すのはこうした仕組みからである。
しかし、目下の者、とりわけ弟子などが「とらじろう先生」と呼ぶのは、恐れ多いことと考えられた。そこで用いられたのが「号(ごう)」である。こうして弟子たちは「松陰」先生と呼ぶことになる。門人が先生を呼ぶときは「号」が用いられる。
さらにちょっと気取った文人・学者世界では「字(あざな)」を用い、「子義」という「字」が多く用いられた。

ちなみに松陰は多くの名をもっている。
「国史大辞典」によると「幼名虎之助、のち大次郎、松次郎、寅次郎に改む。名は矩方、字は義卿または子義、松陰・二十一回猛士と号す」となる。

「号」と「字」の違いが今ひとつわからないが、「国語大辞典」によれば、「号」は「特に、学者、文人、画家などが、本名、字(あざな)のほかに付ける名。雅号。」とあり、「字」は、「㋑中国で、男子が元服の時につけて、それ以後通用させた別名。通常、実名と何らかの関係のある文字が選ばれる。実名を知られるのを忌んだ原始信仰に基づき、実名を呼ぶのを不敬と考えるようになったところからの風習。㋺ 日本で、中国の風習にならって文人、学者などがつけた、実名以外の名。」である。さらに「江戸時代には、儒者・文人の間に広まったが、総じて尊称的なものと考えられていたようである。」との説明が付されている。尊称とあるように「字」の方がより気取った感じなのだろうか。

「偉い人」は「官位」が名前~「遠山金さん」と「一橋中納言」

これが大名や有力旗本になるともっと面倒になる。先生が例を挙げたのが「遠山の金さん」だ。まず正式名を記す。

 遠山・金四郎・藤原・景元
(とおやま・きんしろう・ふじわら・かげもと)

となり、原則はこれまで通りであり、通称を用いて「遠山金四郎」という呼び方が用いられる。ところが、官職につくと、「官名」がつく。「国史大辞典」によると、天保7年に「左衛門尉」という官位があたえられる。これ以降、一般的な呼び方は官名でよばれるようになる。周囲の人々も、自らも「金四郎」でなく「左衛門尉」「左衛門尉様」と呼ぶことになるのだ。おなじみの「遠山左衛門尉様、ご出座」という呼び方になる。
ちなみに、彼は天保3年に「大隅守」の官位をもらっており、それ以後の5年間は「遠山大隅守様」であったことになる。
こうして、官位を持った者は官位で呼ばれることが大きな意味をもつ。
徳川慶喜などは「一橋中納言」と呼ばれていた。

私もたまに、幕末期の史料を見ることもあるが、大名や旗本の名前が出てくればとても困る。たとえば、幕末の村上「藩」の家臣などは、「紀伊守家中」としてしか史料にでてこないこともあり、特定することが非常に困難である。

「名前が一つにされる」~戸籍法と壬申戸籍

こうした状況が大きく変わるのが明治4年の戸籍法である。これに基づき翌明治5年から編成されたのが壬申戸籍である。近代国家形成に伴い、政府は人間を名前で掌握する必要が生まれた。これまでのように一人の人間がいくつもの名前を持ち、立場や状況によっていくつもの名前を用いるのでは個人が特定できなくなる。そうすれば、徴税や徴兵といった事業を行うことが困難になるのだ。こうして「個人の名前は一つでなければならないし、一生変えることが出来ない」という原則が打ち立てられる。
こうした中で、超有名人をめぐる一種の「喜劇」が発生する。先生が紹介したのが西郷隆盛の例だ。例によって、隆盛の幕末における正式な名を記す。

 西郷・吉之助・平・隆永
(さいごう・きちのすけ・たいら(の)・たかなが)

 おかしなことに気がつかないであろうか。西郷隆盛の「隆盛」はどこにいったのか?
戸籍法・壬申戸籍の編成にあたって、西郷は代理人に戸籍名の届けをだした。先に見たように、「名 」「諱」は一般には使われることはなく、西郷もつねに「吉之助」で通用させていた。したがって、代理人は、彼の名(諱)である「隆永」でなく父親の名(諱)である「隆盛」として届けたというのである。嘘のような話であるが、史料批判の厳しさには定評のある師のことであるので、事実だと思う。実際の所、西郷は自らの署名は常に「吉之助」で通している。しかし、先生はいう。「西郷は一度だけ『隆盛』という署名をしている。それは西南戦争に際して『伺いたきことがあり兵をつれて東京へ向かう』という文書を鹿児島県知事大山綱良に提出したとき、そのときだけはさすがに『隆盛』という署名をした」とのことである。

先生は、「明治になって『名前が変わった』。以前は名前は何種類もあったのが、戸籍法によって一つに固定された。しかし、正式にいうと近代になって『名前を支える論理が変わった』というべきである」と話された。
先生のいいたかったことは、こうした具体的な事例を通じて、明治の変革の意味が見えてくるのだといいたかったのだとおもった。

非常に興味深い話であった。この話を聞いて、さっそく私が把握しているだけでも5つの名をもつ私の高祖父、その一家がそれぞれの名前をどのように届けたかを整理したいと考えた。それによって、現在の名前のいくつかのパターンもみえてくると思う。

管理も部活動もしたくないんだけど・・

「憲法は『校門』の前で立ち止まる」

ツイッターなどで、教師の長時間労働、とりわけ部活動のあり方への厳しい批判がなされています。同時に、そこでおこなわれている指導内容にも厳しい目が向けられています。その批判をききながら、かつてきびしい「校則」批判や管理教育批判が世間をおおっていたことを思い出します。ジャーナリストで現世田谷区長の保坂展人氏などがその急先鋒でした。「憲法は『校門』の前で立ち止まる」とさえいわれました。私も、当時、指導していた社研部の生徒たちから厳しく迫られました。「たしかにその批判は当たっている」と思いつつ、なんとも腰の据わらぬ対応をしていました。

「幸福な高校」の代償としての「管理主義」?

現在、この問題はどうなっているのでしょうか。少なくともかつてのようなジャーナリスティックな批判は消えました。しかし、こうした管理的手法がなくなったとはおもえないのですが。教師というのは、自分以外の学校は意外なほどわからないのですが。こうした管理主義的指導は続いているのでしょうか。

 私が最後に勤めた高校は「管理」が大手を振っていた学校でした。「部活動」が過剰な高校でもありました。そんな学校であるという評判もあって、生徒指導案件も少なく、安定していました。「管理」によって生徒が萎縮するといういい方がされますが、私のいた数年についてはそうした面よりも中学時代には小さくなっていた生徒が安心して楽しく通えたという面が表に出ていたようです。授業を妨害したり、騒いだりする生徒がいないため、生徒もある程度授業に集中できたし、まじめに授業に取り込むことを馬鹿にする風潮もありませんでした。提出物なども出やすかったし、教師も授業でいろいろな工夫をしやすかったと思います。
目に見える「いじめ」はなく多くの生徒が「安心」して「普通に」に授業をうけ、部活動に熱中する、そんな「平和」な高校生活を送れるという点では効果があったことは認めざるをえません。学校や授業が「平和」だと、教師の側も「幸福」に暮らせます。「怒鳴りあい」と「緊張」、「居眠りの大軍」では、教師も生徒も神経を病んでしまいます。
 ただ、熱心なので、効果があがっていると思うと、そうでもないことにも衝撃を受けましたが・・。学科の特質や長時間通学が多かったせいもありますが、中退する生徒がかなりの数になっていたのも事実です。その理由の一つに、学校の管理的なありかた、それを体現した「教科」の存在もあったようです。

 学校において「管理」は「平和」「幸福」をえるための代償?!でした。この『授業中継』もこうした学校での授業が原型です。静粛にさせるのが精一杯だった学校ではこのような授業はできなかったでしょう。こうした「管理」的手法がいいのかどうかは、最後まで自分なりの答えを出せませんでした。とりあえず、事実だけを記しておきます。
ただ、世間からこのような教育における管理的手法にたいする批判や疑問がなくなってしまったことについては「それでいいの?」という気持ちもあります。

何もできない『新採』の野球部長を支えた職場

最近の部活動批判の主張自体に文句はありません。本務でない部活動の理不尽さは、退職の数年前、全く指導ができない体育系部活動の主顧問となって苦しめられた経験からもよくわかります。(この経験は別稿「授業は仕事の合間にする仕事?」のなかで一部触れています。参照してください。

 私は大学を出て講師経験もないまま採用され、担任をもち、専攻であった「日本史」「世界史」でもなく「地理」の授業をもち、そして形式的ではあれ野球部長にさせられました。まったくの運動音痴の私が!です。「練習に出てこい」といわれ、放課後、なすこともないままグランドのすみに座り、土日は平日よりも早く起きて近隣の町で行われる試合に付き添いました。田舎町では高校野球部が“町の『タイガース』『カープ』”です。飲んでいると「○○高の野球部は何をやっているんだ。△△(主顧問で監督の老先生)のせいだ。」などという酔客の声、知らんふりをし続ける、そんな日々でした。
校内暴力が話題になっていた時代です。次々と起こる生徒指導上の案件(とはいえパーマなど頭髪加工やバイク免許証取得などが中心ですが)の合間を縫っての教材研究、とはいえ、教える科目は、何を、どう教えるのか、皆目わからない「地理」です。授業は“お祭り状態!”、ひどいものでした。そうした時代、ありがたかったのは、職場の仲間の存在でした。野球部の実務はメインの先生たちがやっておられました。同じ宿舎には同期採用の先生がおり、若い先生も多く、年長の先生も(「悪い」ことも含め)なにかと気をつかってくださったので、乗り切ることができました。

失敗を許さず、馬鹿話の聞こえない学校での長時間労働

当時はいろいろな面でアバウトでした。失敗だらけの私を許す空気がありました。ところが、約四〇年の間で、しだいに教職員管理が強化され、現場では失敗を許さないピリピリした空気が生まれてきました。さらに教育の向上にはまったく不要な雑務が教育行政からおりてきます。学校改革や教育改革などと称して、現場のニーズとはかけ離れた内容から来る不満やストレスがあふれています。職場の合意のないままトップダウンですすむ学校運営は「ご勝手に!」という空気を作ります。職場の協力体制を作ることが困難になり、管理職に見込まれた(職場内では・・・の人も多いのですが)「まじめな人」に仕事が集中し、痛い目に遭わされます。(しかも部活動に熱心な人が多いので、仕事はいっそう過酷になる
自分の仕事だけをきっちりやればよい」という空気が広がり、逆に失敗には厳しくなります。こうして、自分の責任部分に対する緊張が増し、自己責任論が大手を振っていきます。かつて馬鹿話とともに教育論が語られた職員室は静粛の場となり、キーボードの音が響いているようです。(私は、オールドスタイルが残る小部屋に「隔離」されていたのでそれほどではありませんでしたが
先生方は多忙です。昔もそうでした。しかし、かつては職場で支える空気がきつさを和らげていました。「まあ、つきあってやるか」と仕事を分担したて手伝ったりしてくれる人がいました。そうした仲間や先輩たちをまわりに見いだせなくなったことが、多くの先生を痛めつけます。
仕事が終われば、そそくさと帰る人がいる一方、仕事が集中する人もいます。かつては、考査のときに行われていたような各種の職場の福利厚生事業も「地域の目」などといったことを口実に消えていきました。「先生たち楽しそうにやっているね。」というポジティブなとらえ方にかわって、「勤務時間になによやっているのだ!」というネガティブな声の方が教育現場を包むようになりました。功罪半ばともいえる「呑みニュケーション」は劇的に減りました。
孤立化が進み、相談に乗りにくい職場での長時間勤務は過酷です。肉体だけでなく精神的にも破壊的な役割を持ちます。長時間労働の身体的・精神的破壊力は職場の雰囲気で倍増します。みんなからいやがられている仕事を押しつけられている人はもっとそうでしょう。(明るい職場環境が長時間勤務を生みやすい面もあることも事実ですが…)
「本務でもない」のに圧倒的な責任を負わされる部活動は耐えられないものです。協力体制がなく、一人でかぶらされたときのきつさはひどいものです。さらに学習には期待しなくても、部活動に期待する親や地域の方が増えてきたようにも思います。そのため、さまざまなヤジが飛んできます。しんどい部活動を若い先生や転勤したての先生に押しつけられるのもよくある話です。部活動への全員加入制を取っている学校などはいっそうきびしいでしょう。「今度の顧問は・・・」という容赦のない声が聞こえます。

部活動返上となぜいいにくいのか?

現在あるような部活動は改めるべきなのはいうまでもありません。学校教育から社会教育へ移行すべきであるという主張も正しいものです。

しかし、そういったことをわかっていながら、現在の「部活動は本務でない。だから返上すべきだ」といういい方は、職場では多数派にはならず、組合活動に熱心な先生も含めて、腰が引けてしまいます。かつて一世を風靡した「『校則』などの管理は学校教育になじまない」という声とともに、「でもね・・・」という違和感が生まれているのです。

まず、社会教育に移行した場合の問題点を指摘しておきます。
ひとつは指導者の問題です。現在でも校外の技術指導者に手伝ってもらうシステムはあります。しかし、生徒指導の責任は学校・顧問教師が負い、技術指導者も顧問の管理下に指導します。ですから顧問教師の試合の付き添いも減りません。
わずかな礼金でボランティアに来てくださるありがたい外部指導者ですが、教育者ではありませんので、学校としてのルールを理解していただきにくい方もおられることも事実です。学校教育の一環としての部活動であることを忘れ、勝利至上主義になったり、学業とのバランスを欠く指導をされるなど、学校の方針とズレてしまい顧問教師など学校側が走り回ることも多々あります。一度お願いした方にお引き取り願うのは大変だという声も聞きました。「教育としての論理」を学外指導者に求めることは難しい問題でした。
近年、都市部では職業的なコーチ集団が請け負われ、試合の付き添いなども教職員なしでもよいとテレビではいっていましたが、責任の問題はどうクリアするのか、「教育としての論理」とのかねあいが気になります。活動場所や費用なども気になるし、「教育としての論理」が担保されるのかが気になります。

「教育の本質」とかかわって部活動を考える

さらに、教育の本質にかかわる問題があります。
この文章の出発点は、前々回の(高校で教える歴史の教師か、歴史を教える高校教師か?から独立させたもので、生徒指導や部活動への教師の関わりを中心に書くことにしました。しかし、前置きだけでかなりの分量になってしまいました。

ともあれ、本文に入りましょう。「教育の論理」との関わりの中で部活動を考えた部分です。

まず前々回の内容を、書き直した形で引用しておきます。(色の変わっている部分が、今回主に書き直した部分です。)

教師が課せられた役割とは

このような役割を担わされたにせよ、古い世代が次の世代に彼らが学ぶべきと考えた知識を伝授し、生きる力、集団に貢献できるような力を身につけさせようとするという教育の原初以来の機能はかわりません。
 (中略)
近代社会においては国家の要請に沿うことも多くなりますが、人類が未来を託すことが教育の目的である以上、それにとどまらない役割も持っているのです。
このように考えてくれば、教師の使命も見えてきます。それは、自分たちが先人から引き継いできた社会や文化をよい形で次の世代に受け継ぎ、よりよいものとして発達させ、再生産してもらうための手助けなのです。古い世代が受け継いできたバトンを、しっかりとバトンタッチすること、その営みが教育の役割だと思います。
こうした機能を専門的に特化した「学校」という機関において、教師たちが機能を分担しながら伝えていくのです。
近代資本主義社会は、個々の人間を「原子」化するとともに、人間関係を経済的関係へと置き替えていきます。子育ての負担は、これまで以上に家族とくに母親へ集中しますが、これまで母親を支え育ててきた家族や地域社会は衰退しています。「よってたかって子どもを育てた『おせっかいな人間』たち」が子ども(と母親)のまわりから消えていき、地域や家庭で分有されてきた「教育」機能が弱体化します。おいつめられた母親たちはその悲鳴を「教育」を公的に担う学校にクレームという形などで向けてきます。地域すらが似た行動を取るようになります。
家庭・地域・学校といった三者で担うべき「教育」機能ですが、前の二者の機能も学校教育へ吹き寄せられてきます。このなかに「生きる力、集団に貢献できるような力」という「教育の原初以来の機能」にかかわるものがあり、「この力を身に付けずに大人になることは困る」という役割すらも押しつけられます。
こうした役割は、「国家の求める「規格」に合致した「製品」としての「国民」をつくる」というあり方や「国民道徳を涵養する」という戦前以来の公教育が担わされてきた役割と響き合う形で、現在の学校に持ち込まれているのです。
こうした役割は「次の世代が学ぶべき知識を伝授」を主要な課題とする学校教育になじまないとして拒否することも可能でしょう。それは地域や家庭の問題だといって。しかし、疲弊した地域や崩壊しつつある家庭のなかで、「生きる力、集団に貢献できるような力」を育てる課題を放棄できるのか、という苦しい選択が強いられているのです。この役割も、文句も言わず引き受けてきたのが「学校」でした。「人間サンドバック」になりながら。
部活動もそうです。「本務ではない」。しかし、そこには、学校教育を超えた教育の本質にかかわるものがあり、個人や社会の形成にかかわる「教育」で効果を上げることも多い・・。
こうして、学校は、教師は、家庭や地域が担いきれなくなった教育に対する役割すらをも背負い込み、身動きがとれなくなってしまっています。
たしかに労働条件から見ると、教育現場は「ブラック企業」のひとつです。ところが、自分たちの仕事が、児童生徒の人間としての発達・成長を保障し、それによって社会を支えているという意識(思い込みが多々あるとおもいますが)が、こうした過酷な環境を容認させているのかもしれません。
ともあれ、こうした内容さえ付与されてしまった「教育」の専門機関が学校です。

いいたいことの多くはここでいってしまったような気がします。
本音の一部を言いましょう。授業では希薄な人間関係が、部活動だと親密になる(なったような気がする)という人がいます。それは生徒にとってもそうでしょう。授業などでは伝わりにくい「ことば」が入っていくのはうれしいものですし、集団のなかの一人である生徒に先生が正面から対応してくれる。生徒が真剣に物事に取り組み、真剣にとりくみ、結果もでるという状況は教師を燃えさせます。自分の指示で生徒が動くことは気持ちがよいものです。がんばれば、父母からも評価してもらえることもおおい。こうして、「部活動なんて」といっていた教師が「転向」していくことも・・。ときには勘違いも起こりやすく、マスコミを賑わす問題の発生する土壌もこのあたりにあるのですが・・・。

労働者としての教師の労働環境は「ブラック『企業』」であり、部活動は教師としても「本務ではない」し、ただちに、こうした状況を改善すべきだ。教師の長時間労働が本来の教育活動、とくに授業の質の低下につながっていることも事実です。こうした状況にただちにメスをいれる必要があります。早急に改善されねばなりません。
しかし、これまで見てきたような事情もあって、「こんなもの放り出してしまえ!」と勇敢に言い切れず、多くの先生方が口ごもってしまうのです。

青少年犯罪の割合が少ない日本~「学校」の日本的役割?!

「校則には基本的人権に反するものがある」、「服装や頭髪指導はおかしい」といういい方に対しても、やはり同様の思いがあります。そうした「管理」をやめて、本当に学校がうまく動いていくのか、学校の機能が維持できなくなるのではないかという恐怖心です。

何かで聞いたことがあります。「日本では青少年犯罪の割合が世界と比べて著しく少ない。」その話を少ししたいと思います。

外国においては、「野放し」にされている「困っている」若者が、日本ではあまり「野放し」にされていない。若者の大部分が、とりあえず学校(中学・高等学校)という「教育」機関に居場所をもち(「収容」?され)、教育的指導をうける。あるいみでは、学校は「矯正」機関であり、「警察」「裁判所」さらには「刑務所」の役割すら果たしている。裏返しとした、地域ではよっぽど「困っている」若者は以外は、あまり可視化されず、昼間からぶらぶらしていれば、それこそ「警察」などに目を付けられるというのです。
警察が行うような仕事を、学校が「生徒指導」の名で行う。こうしてよかれ悪しかれ、日本の治安は保たれ、町には、目を合わせるのを躊躇するような行き場のない若者は少なく、「△△高校の○○部の連中の電車内のマナーは悪い」の程度ですんでいるのです。警察や裁判所・刑務所はおかげで「楽」をし、司法予算も、都市政策予算も、青少年の職業支援費用も安上がりですんでいる・・・。

まあ、そんな内容でした。
話を聞いて、喜んでいいのか、腹立たしく思うべきなのか、苦笑いをした思い出があります。「それならもっと学校にカネをよこせ」といちゃもんをつけたくもなりました。
現在の学校、とくに部活動にはこうした治安維持の機能があるのかもしれません。現在の学校は、「学習」機能より「託児所」「青年保育所」の機能と「矯正」機能の方が重要なのかもしれません。ちょうど、小学生高学年の学習塾や習い事・スポーツクラブが学童保育所のかわりとなっているように・・。
 学校は秩序維持の効果を担うとともに、将来の社会問題化を鎮めている面もあります。行き場のない「困っている」生徒を支え、その苦しみをある程度聞いてやり、「このまま卒業したらあかんやろ!」という部分は指摘しとくには「矯正」し、進路保障の手助けもする。こうした役割も行っています。

管理主義に支えられる現在の「学校」

「管理」を強化する理由、もうすこし露骨な話をしましょうか。さっき前任校の話でしたように「しめあげないと、授業、そして学校が成立しなくなる」との恐怖心があるからです。教育、とくに授業は楽しいものとはいいきれません。いろんな事情で授業についてこられない生徒もたくさんいます。おとなしくすることが「体質」として苦手な生徒もいます。家庭生活上の重い事情をかかえていたり、学校以外のことが大切な生徒がいます。なぜ授業を受けなければならないのかわからないという生徒が大多数かもしれません。そうしてなかで授業を行ない、学校活動をすすめているのです。
原初の教育では教育をする側は、村の長老や父や母、年長者といったある種の権威や権力を背景に、とくにはさまざまな強制力も行使しながら、教育活動を進めます。教育というものが、ある意味では動物としての人間の本質とあまり合致しないものである以上、こうした強制力も必要になるのでしょう。こうしてこそ「矯正」といった役割も達成できるのでしょう。
「よい授業、わかる授業をしないおまえたちが悪いのだ」という声も聞こえてきそうです。教師も、生徒の状況を配慮し、興味関心を引くように工夫し、その理解を引きつけようとしますが、限界があります。考えてみてください。3~40人、しかもさっき見たようないろいろな人に、話を聞かせること、できますか?授業成立のためには、さまざまな手段を使います。発問、討論、さまざまなエピソードや各種の冗談、下ネタに特技、考査や落第などの成績面での脅し、怒声などによる威嚇、各種の「懲戒」などなど。それでもなかなかうまくいかないのが実態です。下手をすれば「反撃」を食らいます。教師は、日々こうしたなかで授業実践を進めています。しかし個人的な努力では限界があります。このため、学校全体としての権威や権力を強め、授業は静粛に受けなければならないという秩序をつくろうとするのです。こうして学校は秩序を揺るがす可能性のあるものを排除するために、校則などでハリネズミのように武装しはじめるのです。一度、こうした道を歩み出すとそれはエスカレートしていきます。
手を緩めると取り返しがつかなくなる」学校でよく話される言葉です

なぜ部活動も管理主義教育もいやでたまらないんだけど・・

学校には、校則による管理などがいやでいやでたまらない教師が山ほどいます。学校で決まっていたからとしかたなしにやっている人もたくさんいます。部活動も同様です。しかし、心のどこかで仕方ないなと思う人も一定数に上ります。その背景にはこんな事情も隠れているとおもいます。

ツイッターなどで勇敢に「部活動を拒否します」という書き込みを見て、「自分にはそれだけの勇気がなかった、がんばれ」と思う反面、現場時代のいろいろなしがらみを考え、さらに拒否しただけでは終わらない学校をめぐるさまざまな問題、若者を育てるということなど、いろいろな問題をついつい考えてしまいました。頑張っている人の足を引っ張ってしまうかのような文章になってしまったことをお詫びします。

 

 

「朝鮮米はうまくて高い! ~「産米増殖計画」異聞

「朝鮮米はうまくて高い!」  ~「産米増殖計画」異聞

「朝鮮米はうまくて高い!」

本格的な歴史研究をして来た人の話を聞くと、知識の浅さを実感させられることが多々あります。そんな話をしたいと思います。
講義で聞いた一つの話を紹介します。
「みんなは、朝鮮米というから、質が低く、安い。だから労働者など低所得者が食べたもの、そのように考えるでしょう。実は、朝鮮米を一番消費したのは、『グルメ』の町大阪。消費高は大阪全体の米消費量の70%を超え、国内産より値段も高値で取引されたのです。朝鮮米は、質がよく、関西人の口に合う米でした。1930年代、「朝鮮米」はうまいと評判で、高値で取引されていた米だったのです」。

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帝国書院「図説日本史通覧」p224

戦前の「朝鮮米」は、高品質のわりに値段が安く、しかも品種がそろっていたため、人気が高く、他の国産米より高値で取引され、大阪市場では国産米を圧倒的にしのいでいたのです。
ちなみに、大阪市場における取扱高は1925(大正14)年以降、朝鮮米がつねに70~80%台を占め、10~20%台前半の「国産米」をはるかにしのいでいました
「日本が朝鮮の農業を改革し、近代化させてやったのだ」という声が聞こえてきそうです。たしかにそうした側面もあります。しかし話はそう簡単ではありません。「植民地農業」の姿がみごとに「刻印」され、日本内地の農業も苦しめたのです。

「産米増殖計画」とは

朝鮮での日本の農業政策としては、1910年代「武断政治」期の「土地調査事業」と、1920年代「文化政治」期の「産米増殖計画」が重要です。そしてこうした日本の農政によって押し出されるようにして日本や中国東北部(「満州」)への人口流出がみられる、いうのが一般的な説明です。私もそのように教えてきました。
一応、「産米増殖計画」についての私の説明を見てください。


産米増殖計画

「文化政治」を進めるとした日本・朝鮮総督府でしたが、実際には朝鮮の人をいっそう苦しめる政策をはじめています。

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物価の急騰と賃金の上昇 帝国書院「図説日本史通覧」P250

このころ、日本では都市化・工業化が急速に進行し、米の需要が急速に増えてきました。1918年には急激な米価上昇が引き金となって米騒動も起こりました。
このため、日本本土以外から米を買い集めようという動きが高まります。その最大のターゲットが朝鮮半島でした。
そこで朝鮮総督府がすすめたのが産米増殖政策です。朝鮮での米栽培を活発化させ、米の収量を増やし、それを本土に持ってこようと考えたのです。
中心となったのは、農業用水の整備と用地改良、さらに化学肥料などの利用です。しかし、こうした計画に総督府が金を出しますか?結局、計画は日本人がつくり、カネを払うのは地元の農民たち、できた米は日本人が持っていく。こうした負担は、没落しつつある朝鮮人農民の生活をいっそう苦しめました。
確かにこの政策によって朝鮮半島での米の生産量は増えました。ところが、もともと内地での米不足が出発点に始まったものであり、この政策で増えた分よりも日本に運び出す米の方が多かったのです。これにより米の値段が上がって、朝鮮の人は逆に米が食べにくくなりました。かわって中国東北部から大量の粟(あわ)を輸入されるようになりました。


あわせて、これにつづけ日本や「東北部」への人口流出についても触れています。一般的な内容は記したつもりです。

市民講座での話の中から

講義の数日前、市民講座で別の先生からも話を聞いました。
この先生の話をもとに、朝鮮での「日本式米作り」普及の話をしたいと思います。講座の中で先生は、産米増殖運動にかかわって、朝鮮での米づくりの指導にかかわった日本人の話を紹介されました。「美談」として扱われるたぐいの話です。
記憶とメモで再現しつつ、私が調べたことが考えたことを付け加えながら、見ていきたいと思います。

「脱穀や調整が『疎漏』」な朝鮮米

当初、朝鮮産の米は日本では売れ行きがよくありませんでした。なぜなら、質が不安定で、最初は小石なども混じっていて、商品化しても安値でしか取り扱われなかったからです。
資料でも、明治後期の朝鮮米について、品質は日本米と外米の「中間」、日本米の中等米に類似するが、「収穫後の脱穀や調整が『疎漏』であったため、三割の異物が混入していることすらあった」と記しています。(大豆生田稔「お米と食の近代史」)
日本への朝鮮米の輸出は日朝修好条規をうけた開国によってはじまります。凶作期に米などの穀物の流出を制限できるという防穀令が1889(明治22)年にだされたことで日本商人とのトラブルも発生しました。朝鮮米の流出が、朝鮮での飢えにもつながりました。
1882(明治15)年の壬午軍乱では、長い欠配の後、やっと支給された米に石が混じっていたことが軍人反乱の直接の原因となりました。(「朝鮮問題の深刻化と日清戦争」参照)日本との貿易開始に伴う米不足の中、支給されたのが安い「三割の異物が混入している」ような米であったという推測も成り立ちそうですね。
日本で、朝鮮米は、食用としてではなく、酒造用や家畜のエサ用として使用されることも多かったようです。

「日本式米つくり」の導入~「用水の整備」と肥料

朝鮮に渡った農業の日本人指導者が行ったことが、日本式米作りの導入でした。
朝鮮では、ため池や農業用水路が未整備で、天水(雨水など)に頼る水田も多く、畑で米を作る陸稲(おかぼ)も多いというように栽培の方法にばらつきがありました。そうした条件に合うような在来品種が用いられるため、米の品種・品質も雑多でした。こうした米を日本市場に送り出しても、低い評価しか得られないのはいうまでもありません。さらに、品質はよくても、脱穀や「石抜き」などの行程が不十分であったため、評価が低かったのは見てきたとおりです。
だから、日本における「高度な」農業技術を朝鮮に導入しようというのです
栽培の質を変えるため、日本式の水田が導入されます。まずため池や小規模な水利施設、王朝末の混乱で荒廃していた用水が整備されます。当初は日本人地主の土地が中心でした。さらに、水田を拡大するためには、降雨にかかわらず一定量の水が供給される必要があります。産米増殖計画がすすむなか、朝鮮人地主をもまきこむかたちで、水利組合が結成され、総督府の資金も借りながら、大規模な用水路が整備されていきます。

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帝国書院「図説日本史通覧」P231

実は、朝鮮人地主所有の水田の多くは既存の用水でかなりフォローできていたのに対し、新たな用水の恩恵を受けることが多かったのは日本人地主の田でした。にもかかわらず、水利組合の拠出金は折半されたため、朝鮮人地主と比べ、恩恵の多くは日本人地主が得たという指摘もありました。(許粋烈「植民地朝鮮の開発と民衆」)
総督府は早い時期から肥料の使用を進めています。1920年以前は自家製のものであったのですが、日本式の米作りには不十分であるということから1920年代以降は購入肥料が用いられ、朝鮮北部での化学肥料工場の発展と軌を一にして化学肥料も使用されるようになります。

「石抜き」と品質管理、品質検査

さらに指導者は朝鮮米の品質向上に努めます。
小石を取り除き、米の選別を厳しくチェックさせ、品質を一定させて売りに出すようにしたのです。
思わず「カムイ伝」の1シーン、江戸時代の百姓たちが、殿様に献上するため一粒一粒米を選ぶ場面を思い出しました。たしかに、初期は人力によるチェックもあったかもしれません。
しかし、それ以上に大きな役割をもったのが、大量に朝鮮米を扱った日本人米穀商人です。かれらは釜山の日本人が発明した「タービン式石抜唐箕」を導入するなどの技術改良で小石や不純物の混入を防止し、さらに最新鋭の精米装置なども導入して市場の評価を上げました。朝鮮総督府は厳格な品質検査を行ってこうした動きを援助します。こうして安い仕入れ値と、品質管理と品質検査を経た高品質の朝鮮産米が日本市場に持ち込まれ、シェアを伸ばしたのです。
この背景には、土地調査事業にかかわる強引な手段や朝鮮人農民からの購入によって獲得した安価な土地、必要経費の多くを朝鮮人側に転嫁したこと、労働力過剰からくる労働力の安さなど、コストの安さがありました。
こうした朝鮮米の流入によって日本産米は苦しいたたかいを強いられます。日本産米は、小規模農家でつくられるため米商人の監督が行き届きにくく、品質管理も検査も不十分であるため、品質も不揃いだったからです。九州産米はより高い品種の米を生産しようとし、北陸山陰産米では生産費を抑え、安さで勝負しようとしました。(この項、李熒娘「朝鮮植民地の米と日本」など参照)
日本人商人が、規格化された「籾」を安く仕入れ総督府の厳しい基準に合格すべく高度な技術で商品化した植民地産の「朝鮮米」を内地市場にもちこむことで、従来の低い技術しか持たない零細な生産者中心の国産米の価格が引き下げられるという、多国籍企業と国内の中小零細企業の関係を彷彿させるような関係です。では、朝鮮の人の食べる米は、どうなってしまったのでしょうか。

日本種の「奨励」

先生はさらにつづけます。
日本の米作りをそのまま持ち込んだということは、日本の種籾も持ち込んだということです。それまでの朝鮮米は品種が雑多であることが、日本の米市場における朝鮮米の評価を下げ、安価で取引される結果となっていたからです。
そこで、日本から持って行った品種を蒔かせることにします。日本から持って行った品種の米をもちいることで朝鮮米の質を統一しようとしたのです。
こうして「優良」品種が日本から持ち込まれます。ただ1920年代に導入された「新品種」は、「産米増殖」という目的とは異なって、収量の減少をもたらすものだったという研究もあります。収穫を増やすよりも、内地の米市場での評価、価格の方が重視されていたことをよく示しています。なお、1930年代になって多収穫品種が日本から導入されることで、生産量が急増しました

朝鮮在来種の「絶滅」

ところがそのままでは困った問題が起こります。せっかく評価が高い日本の品種を持って行っても、しだいに周辺の朝鮮在来の米と交雑してしまい、品質を低下させるおそれがあるのです。そうした米が増えると、市場での評価は下がってしまいます。
だから、朝鮮在来種の米の栽培をやめさせようとしたのです。ときには官憲の力も使って!
この指導者からしたら、質のよい米を輸出して高値で取引された方が朝鮮の人の幸福につながると考えたのかもしれません。
この点について、資料的裏付けを得ようと調べたところ、こうした事実は1910年代の武断政治期によく見られたことでした。当時の関係者が語っています。
在来種の絶滅と改良種たる穀良都、早神力種の普及に全力を注ぐことになり、同地の東拓(*東洋拓殖株式会社のこと)移民に採種●(●は「水」の下に「田」という文字、「dab」とよみ水田のこと、「田」が日本の「畑」をさす)をやらせ、又在来種の苗代を踏み荒しなどして徹底的に乱暴な奨励方針を断行したが幸い身辺の危害もなく、きわめて順調に普及して行きました」(「山口賢三回顧録」李熒娘前掲書より)というように、やっている本人が「身辺の危害」があって当然というような手法で「優良種」とされた日本品種が強要されました。こうして、日本種の耕作率は0.7%(1911年)から52.8%(1919年)、生産量に占める割合は5%(1912年)から70%(1922年)と急増しています。(*この二つの数字については出典が別です)

「近代的」「植民地的」な米作の導入のもたらしたもの

植民地支配は、朝鮮の米作を資本主義経済に適合した農業に変えました。それにより朝鮮の農地と米作技術が「近代化」され、収穫高の多く味もよい品種を普及し、収穫高も増えました。すると内外の産米の地位が立場が逆転しました。品質が安定せず、とくには小石も混じる国内産米とは違い、朝鮮米は高品質で小石などの混入も少ない高評価な米です。朝鮮米は、同一品種の米を大量にそろえることができます。しっかりした検査を受けた安心安全かつ安定した高品質の米を、大企業が大量に供給したのです。グルメの大阪人をうならせた朝鮮米はこのようにしてつくられました。
それは、それまでの朝鮮の農業のあり方を否定し、朝鮮産の「米」種すらも否定し、帝国主義本国・日本の市場が求める米を供給する植民地農業への移行でもありました
こうした政策は、朝鮮の農業や農民のあり方を大きく変えました。その費用の多くは朝鮮の農民が負担し、増産された米が日本に持ち出されました。
産米増殖計画は名目的には、第一の目標を朝鮮における食糧不足解消でした。しかし、実際におこったのは朝鮮での食糧不足解消でなく、日本市場で高値で取引される米を生産することでした。朝鮮内部で流通したのは、日本に移出された残りの米でした。こうして米の生産量は増えても、朝鮮人の米消費量は減少しました。日本の米市場で高値で取引されるような質の高さが、朝鮮米を朝鮮に残さなかったのです。石が混じり品質も安定しなかった安価な朝鮮米にかわって高品質で高価な朝鮮米が生産されたため、朝鮮米は朝鮮の人々が食べるためには高価になりすぎたのです。
こうして朝鮮人の一人あたりの米の消費量は年0.75石(1912~16の平均)から、1932~36年には0.41石へと激減します。米の生産量は1230万石から1700万石と増加しているのに。そして、米を食べられなくなった朝鮮の人々の腹を満たしたのが、「満州」(中国東北部)産のアワやヒエでした。こうして「満州」においても、朝鮮向けのアワやヒエの商品生産が活発化します。

「昭和恐慌」と日本への渡航者の急増

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こうした朝鮮における米作りが、日本の米市場と密接に結びついて軌道に乗りはじめたのが1930年代です。この年号で何か気づきませんか。1930年といえば、昭和恐慌の発生です。このため、米価は暴落、朝鮮米の価格も一挙に暴落したのです。さらに日本国内では、朝鮮米の大量流入が米価を押し下げているとして、朝鮮米の移入制限を求める声が農村各地から起こり、政府もそれにおされます。
昭和恐慌による米価など農産物価格の暴落は朝鮮の農村に大きなダメージを与えました。なぜなら、植民地支配下では、農民の土地に対する権利ははるかに不安定であったし、産米増産計画は用水や肥料などで農民の負担増を強いていたからです。高利貸資本も農村に深く食い入っていました。

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東京書籍「日本史A」p110

米価急落は零細農の経営を破壊、1920年代に増加の兆しを見せていた日本への渡航者=「出稼ぎ」「移住」は激増します。日本本土に渡った朝鮮人たちは厳しい労働・生活環境の中、しだいにそこに生活基盤を築き、朝鮮から妻子など家族を呼び寄せます。貧しい状態がつづく農村からは、先に渡った人たちを頼って新たな人たちも移ってきます。各地の「朝鮮人部落」が形成されました。
土地調査事業、産米増殖計画による植民地的・資本主義的農業の朝鮮半島への導入と、それにつづく昭和恐慌は朝鮮の農村を疲弊させ、多くの人々が、日本などに押し出され、在日朝鮮人が急増していきました。

追記:授業中継「『朝鮮経営』と在日朝鮮人の形成」では、在日朝鮮人形成につながる朝鮮人移民の増加を産米増殖計画とかかわって記していましたが、より決定的であったのは世界恐慌=昭和恐慌というべきでした。こうした点を踏まえ、訂正することにします。

<参考文献>
大豆生田稔「お米と食の近代史」(吉川弘文館2007)
李熒娘「朝鮮植民地の米と日本」(中央大学出版部2015)
許粋烈「植民地朝鮮の開発と民衆」(明石書店2008)
鈴木讓二「日本の朝鮮統治」(学術出版会2006)
河合和男「朝鮮における産米増殖計画」(未来社1986)

高校で教える歴史の教師か、歴史を教える高校教師か?

高校で教える歴史の教師か、歴史を教える高校教師か

 

「高校で教える歴史は××だ!」

大学の先生方は、よく「こんなことも教えていない高校がある」とか、「高校までの歴史は教科書を教えているだけだ」とか、「覚えさせることが高校までの歴史だった」とか、高校の歴史教育を批判されます。こうしたいい方についての思いは、やや感情的だったかもしれない批判を何度か書いてみました。(*「歴史家としての歴史教師」参照元高校教師の私としては「そんな授業にさせているのは些末な暗記ばっかりを求める大学入試のせいじゃないか」とか、「わずか一年でそんないろいろなことができるか」(*日本史Aについては「大切なことは何を教えないかだ」、日本史Bについては「現代史」までいくのは、どう考えても無理。」参照) とか、「普通に授業ができる学校だけじゃないんだぞ」(*高校の状況について「授業は仕事の合間にやる『仕事』」参照など毒づきたくなりますし、すでに十分毒づいていますので、今回は「(高校の)歴史教育ってなんだろうか」について考え、歴史の授業で何を教えるのかについて自分の考えを記したいと思います。あわせて、このHP「日本近現代史の授業中継」を書く思いの一端を記したいと思います。

「高校で教える歴史」は歴史学の簡易バージョン?

考える出発点を表題のように考えてみました。「高校で教えている歴史の教師か、歴史を教えている高校教師か?」、同じことじゃないかと思いがちですが、実は大きな違いがあります。
大学の歴史学科の先生の多くは「高校で教える歴史の教師」として考えているように感じます。「自分たちが研究している歴史学の初歩、あるいは通史を教えるのが歴史教育」とか「歴史学の下請け」や「歴史学の簡易バージョン」と考えられている気がします。「国家が与えた指導要領の通り暗記させるのが仕事だとか。だから「荘園制を1時間しか教えない先生に習った生徒は不幸です」とか、「本居宣長については高校で習ったはずです」とかいうことばがでてくるのだと思います。

「高校で教える/歴史の教師」と「高校で教える歴史/の教師」

高校で教える歴史の教師」という言い方も、区切り方によって意味合いが変わります。
高校で教える / 歴史の教師」と考える生徒たちは歴史の授業でも、テレビや映画で出てくるような楽しい歴史の話をしてくれることを期待しているみたいです。しかし、実際の授業で歴史の教師は「高校で教える歴史 / の教師」として向き合います。自分たちが期待していたものでないと知ると、往々にして「面白くない」「退屈だ」というブーイングを出してきます。ですから実際の授業では、居眠りを減らし、授業への協力者を増やすためにも、一定の妥協をします。ビデオを見せたり、エピソードをちりばめたり。「授業中継」のなかでも戦国時代(*たとえば、本能寺の乱の「陰謀」説や幕末(*高杉の例あたりにはこうしたエピソードをちりばめています。ぼくが歴史を好きになったのも、こうした部分からなので、粗末にはできません。ただ、調子に乗ってやりすぎると時間が取られすぎてしまいますが・・。

では「高校で教える歴史」とは

高校で教える歴史」とはどのようなものでしょうか。高校ではどのような歴史を教えねばならないのでしょうか。公式的には学習指導要領で規定された内容なのでしょう。しかし、実際のねらいはここにはないでしょう。ただ、めったに、教科書を開かない、開かせない私ですが、授業の組み立てという意味では指導要領に従ってはいますし、規定されていました。しかし気分の上では人間としての、教育者としての「良心」にしたがって授業をすすめていたつもりです。ちょっとおこがましいですが・・。

最後のころになって、やっと「高校で教える歴史」のなかで教えたかったのは、こんなことかなと思うようになりました。(遅すぎますね。)
「どのような経過をたどって今の私たちがいるのか」「その中で解決してきたものは何であり、まだ未解決のものは何か」。このことを通じて、「時々の課題に対して先人たちはどのように立ち向かっていったのか。その過程で犯してしまった愚行やきらりと光る人間としての素晴らしさもみつめながら、現在、直面している課題がどのようにして生まれてきて、どこまで解決し、今の私たちに託されたものは何かを知ること」。
まだいい足りないようですが、まあこんな感じです。そして
「こうした視点から「人類の歴史」を整理して教えたい」
こんなことを考えながら授業をすすめていました。

歴史を学ぶことによって新しい世代に「自分たちの世代が現在直面している歴史的課題は何か、新しい時代を創るための何が必要なのか」を考える材料を与えたいと考えたのです。
「歴史学科」を中心とする大学の先生方の高校歴史への要望とは距離がありそうですね。

「何を教えないか」という選択

「人類の歴史を整理して」といいましたが、実際には、そんなたいそうなものではありません。歴史学をはじめとする諸科学の研究成果と方法論をもとに歴史学の研究者たちが、「学習指導要領」をふまえつつ記述された教科書の力を借ります。(私はあまり教科書は使わないタイプの教師でしたが)。教科書の問題については、ここでは触れないでおきましょう。ただ国家権力による余計なノイズが入っていることは頭の片隅に置いておいた方がよいでしょう。
とはいえ、教科書に叙述された内容は膨大であり、付け加えたいこともあり、教師の課題意識によって取捨選択が迫られます。(教科書だけを教えるという先生もおられると思いますが、実際にはいろいろな工夫をされていることもわかります。)
こうした取捨選択に際しては、実際の二単位・四単位・六単位などといった時間的な制約(実授業時数、考査までの時間数など)を考え、大学入試なども頭の端においておきながら、生徒の様子や時代の課題などを考えて「教えたいこと」「教えなければならないこと」そして「何を教えないか」を選択します。(*この点については「大切なことは何を教えないかだ」として一度書きました。そのための工夫も「いかに教材を精選し、スピードアップするか」で書いてみました。)涙を飲んで荘園制を一時間でまとめたり、本居宣長をパスしたりもします。通史(日本史B)ではかなり腹をくくらないと、結局近現代史をパスすることになります。
(※実際に時間切れが多いのですが、残念ながら時間不足を口実に近現代史を教えない人がいることも事実です。*この項については「現代までいくことはどうしても無理」で少し触れました。
※なお、「入試にでないから学校では近現代史は教えない」というネット上の書き込みを目にしますが、それは「全くの嘘、事実に反するでたらめ」です。入試で一番高い確率で出題されるのは日本史・世界史をとわず近現代史です。入試で歴史を取る人は、近現代史からはじめるのが鉄則です!しかし、その近現代史は、書き込んだ人の読みたい「近現代史」(のようなもの?!)ではないと思いますが。)

そもそも「教育」とは?

これまで「高校で教える歴史の教師」の側面を見てきました。しかし、私はこれでは不十分であると考えています。高校の歴史の教師は「歴史を教える高校教師」でなければならないと思っています。少したいそうな話から始めます。
教育というものは、原始の社会、新しい世代が、親や集団といった古い世代から、狩猟・採集などといった生きるためのさまざまな知識や技術・技能を学ぶことからはじまったものです狩りや農耕の場での体験や訓練、歌や踊り・長老による昔語りなどによる知識の伝授(まさに「歴史教育」です!)、通過儀礼(たとえばバンジージャンプ)、さまざまな場面、さまざまな機会に、古い世代は次の世代に彼らが学ぶべきと考えた知識を伝授し、生きる力、集団に貢献できるような力を身につけさせようとしました。年老い・死んでいく古い世代に代わって新しい世代が成長させることで、集団を維持させ、文化的な「種の保存」=再生産を図ったのです。これ教育の原初的な形態です。
一人では生きていけない「未熟児」として生まれてきたヒトは、周囲の環境、「おせっかいな人間たち」にかまわれ、迷惑をかけながら「人間」になっていきます。「ヒト」は、教育によって「人間」に成長する高度な可塑性・可能性をもつ「未熟児」として生まれるのです。教育は、ヒトという個体が生きる絶対条件であり、各レベルの集団維持のための必要条件でした。

近代国家が付け加えた新たな「教育」の役割

近代になり、主権国家が形成されると人間は「国民」として把握されるようになり、教育のなかに「国民の形成」という機能が組み込まれ、国家の求める「規格」に合致した「製品」としての「国民」をつくる役割が与えられます。こうした役割を担うため公教育が整備されます。後進国ドイツに始まった義務教育は強い兵士を作ることが第一の目的でしたし、日本においても教育制度は富国強兵と強く結びついていました。(この項、「明治維新(2)近代的軍隊の創設と地租改正」参照)

個々の人間も「主権国家」という枠に囲い込まれた以上、さまざまなそのルールに順応せざるを得ませんでした。本来的な「人間・社会の再生産」という機能に、近代主権国家が求める「国民の形成」という新たな機能が持ち込まれるなか、こうした「教育」を効率的に身につけさせるための「装置」が「学校」であり、公教育でした。
言語や数的処理能力、法令や慣習の存在、規格化された肉体、道徳、そして共有すべき伝統、歴史あるいは神話などが、「国民の形成」という国家的目標に即し、「人間・社会の再生産」という本源的な教育の目的と渾然一体となって公教育で扱われます。

さらに教育は、その成果を「財産」化することで、立身出世を可能にし「家」も発展させうるというインセンティブが加えられました。
公教育はナショナリズムの温床であったといわれます。現在でも、国家が学校教育に介入してくるのは、こうした性格をもっているからでしょう。

教師が課せられた役割とは

このような役割を担わされたにせよ、古い世代が次の世代に彼らが学ぶべきと考えた知識を伝授し、生きる力、集団に貢献できるような力を身につけさせようとするという教育の原初以来の機能はかわりません。
個性や発達段階、理解度に配慮しながら、整理して分かりやすくかみ砕いたり、逆に厳密さ正確さを重視したり、相手を見ながら伝え、考えさせたり、習熟させるのが、原初以来の教育の姿でした。そして、学校教育という形のなかで、専門職としての教師が教育学の成果などにも学びながら合理的な教授法を確立し、教育の「一部」を担うようになったのです。
近代社会においては国家の要請に沿うことも多くなりますが、人類が未来を託すことが教育の目的である以上、それにとどまらない役割も持っているのです。
このように考えてくれば、教師の使命も見えてきます。それは、自分たちが先人から引き継いできた社会や文化をよい形で次の世代に受け継ぎ、よりよいものとして発達させ、再生産してもらうための手助けなのです。古い世代が受け継いできたバトンを、しっかりとバトンタッチすること、その営みが教育の役割だと思います。
こうした機能を専門的に特化した「学校」という機関において、教師たちが機能を分担しながら伝えていくのです。
近代資本主義社会は、個々の人間を原子化するとともに、人間関係を経済的関係へと置き替えていきます。子育ての負担は、これまで以上に家族とくに母親へ集中しますが、これまで母親を支え育ててきた家族や地域社会は衰退しています。「よってたかって子どもを育てた『おせっかいな人間』たち」が子ども(と母親)のまわりから消えていき、地域や家庭で分有されてきた「教育」機能が弱体化します。おいつめられた母親たちはその悲鳴を「教育」を公的に担う学校に向けてきます。地域すらが似た行動を取るようになります。
家庭・地域・学校といった三者で担うべき「教育」機能ですが、前の二者の機能も学校教育へ吹き寄せられてきます。このなかに「生きる力、集団に貢献できるような力」という「教育の原初以来の機能」にかかわるものがあり、「この力を身に付けずに大人になることは困る」という役割すらも押しつけられます。
こうした役割は、「国家の求める「規格」に合致した「製品」としての「国民」をつくる」というあり方や「国民道徳を涵養する」という戦前以来の公教育が担わされてきた役割と響き合う形で、現在の学校に持ち込まれているのです。
こうした役割は「次の世代が学ぶべき知識を伝授」を主要な課題とする学校教育になじまないとして拒否することも可能でしょう。それは地域や家庭の問題だといって。しかし、疲弊した地域や崩壊しつつある家庭のなかで、「生きる力、集団に貢献できるような力」を育てる課題を放棄できるのか、という苦しい選択が強いられているのです。この役割も、文句も言わず引き受けてきたのが「学校」でした。「人間サンドバック」になりながら。
部活動もそうです。「本務ではない」。しかし、そこには、学校教育を超えた教育の本質にかかわるものがあり、個人や社会の形成にかかわる「教育」で効果を上げることも多い・・。
こうして、学校は、教師は、家庭や地域が担いきれなくなった教育に対する役割すらをも背負い込み、身動きがとれなくなってしまっている。
たしかに労働条件から見ると、教育現場は「ブラック企業」のひとつです。ところが、自分たちの仕事が、児童生徒の人間としての発達・成長を保障し、それによって社会を支えているという意識(思い込みの分もあるとおもいますが)が、こうした過酷な環境を容認させているのかもしれません。
ともあれ、こうした内容さえ付与されてしまった「教育」の専門機関が学校です。

(*部活動と教師の多忙化については、「授業は仕事の合間にする仕事?」参照)
 

「歴史を教える高校教師」の仕事

こうして、「歴史を教える高校教師」という姿が見えてきます。教師はこれまで見てきたような仕事を行なう専門職であり、ホームルームや校務分掌、部活動など、教育にかかわるさまざまな場面でも、こうした仕事を担っているのです
当然、授業という場面でも、狭い意味での「高校で教える歴史の教師」をこえた役割が期待されます。
出発点となる「読み書き算」、自分で考えたり体験を元に想像する力、共感する力、自分の考えを発表したり、他の人の意見を聞く力、文章や史・資料などを読み取る力、あるいは他の人の学習権をはじめとする人権を尊重する力などなど、こうした世界を読み取り、変革していく広い意味の学力を身につけることが求められています。
こうした役割を「高校で教える歴史」とともに求めらるのが「歴史を教えている教師」です。

「歴史を教える高校教師」として私が気をつけたこと

実は、私は指導力不足気味で、面倒くさがりの「落ちこぼれ教師」でした。優れた実践をしている「歴史教育者協議会(歴教協)」や生徒を動かすことでその力を引き出そうとする「全国高校生活指導研究会(高生研)」といった人々のすぐれた実践をとりいれようとしたこともありましたが、最終的にはある文部官僚に「石器時代」と揶揄されたような伝統的な授業スタイルにもどっていきました。私が書き続けている「授業中継」の方法はこのようなカビの生えた代物です。こうした批判を持たれる先生方も多いと思います。その通りとしかいいようがありません。力量不足だったことはいなめません。
しかし、そんな私であってもいくつか気をつけたことがあります。
一つ目が国語など他教科にかかわる説明も丁寧にしようとしました生徒が、歴史(あるいは理科なども)で引っかかっている原因は、じつは国語力・語彙力にかかわっているように思います。ですから、ちょっと難しい、あるいはこれぐらいは知っているだろうという所でも、丁寧に説明しようと試みました。語彙などは、国語よりも実際に必要に応じてさまざまな言葉を使っている「社会」や「理科」といった科目の方がその定着を促進しているのかもしれません。最初に書いた「日露戦争」あたりには、そうした痕跡がのこっています。(*この点については「平安時代と室町時代、どっちが古い」参照。学習障害などにかかわる課題については「勉強ができないのは、努力が足りないせいか」もご覧ください)
二つ目は、現在を読み解く上で重要な概念やエピソードなどは脱線しても、より丁寧に教えようと考えました。「授業中継」のなかには、明治憲法の特質、選挙制度、インフレとデフレの人々への影響、実質賃金、変動相場制など主に「政経」分野への「領空侵犯」をおこなっています。(*例として自由民権運動の展開と松方デフレ」参照生きていく上で必須の知識だとおもうからです。言葉の通じない外国人とのコミュニケーションのとりかた等も書いてみました。「開国前夜~近代の台頭と対外情勢の緊迫化」参照)今回は書いていませんが、原爆の原理を教えたこともあります。
三つ目としては、歴史上の「人間」への思いや共感を大事にしました。これは歴史学としては好ましくないかもしれません。しかし、生徒たちに自分の生き方を考え、進路選択をさせるのが学校教育の大きな課題である以上、いろいろな人間の生き方を提示することは重要な教材です。しかし事実に反する説明や誇張によって戦前の「国史」のような偉人伝にならないように事実に基づいたものであり、問題点や限界などもきっちりと指摘をする必要があります。さらに、時代の中で、取り巻く条件を丁寧に描こうと考えました。(例:伊藤博文にかかわって「明治憲法体制の成立」参照)
個別の人物ではないのですが、こうした点でとくに力を入れたのが南京事件でした。(*「兵士たちの日中戦争」参照かれらは暴虐で非道な行為に携わることになったのですが、それが何故行われたのか、そうして理由を丁寧に書き込むことによって、戦争の真の姿に近づけたいと考えました。そうしないと被害者も、加害者となってしまった兵士たちも浮かばれないと考えたからです。今回の「授業中継」では時間の制約がなかったので、より丁寧に描き出したつもりです
四つめとしては、私自身や関わりのある人を出演させました。ぼくはできませんでしたが、生徒たちも出演させることができたかもしれないと思います。
現在に生きている私たちすべてが歴史の出演者であり、自分たちが見ており、体験しているすべてが歴史そのものだという当事者意識を感じてほしいからですさらに、私のささやかな経験が生き方を考える材料となったり、時代を感じさせるものとなればと思ったからです。(*日本近現代史を大雑把につかもう」。さらに「高度経済成長と日韓基本条約」「ベトナム戦争と沖縄返還」なども参照)
五つ目としては、やや強引だったかもしれませんが、いろいろな手法をつかってみました。生徒たちが、社会を、歴史を見るときの方法論を学んでほしいと思ったからです。今回は出していませんが、マインドマップなどもつかいました。階級分析と階級闘争によって歴史が動くという視点とか、底辺の民衆の目から歴史を見る視点、女性にとっての歴史など。さらに、植民地民衆、侵略を受けた側、攻撃された側など複眼の視点も重視しようと考えました。世の中を、多様な方法で、さまざまな視点から分析するツールを知ってほしいと思いました。(*「いろいろな方法を試してみたい」、あわせて「士族反乱・農民反乱・民権運動」参照

 

この「日本近現代史の授業中継」は、こうした視点から「石器時代」の手法で行ってきたポンコツの「歴史を教えている教師」による授業の実践です。(実際には、実施できなかった授業の分もありますが・・)
最も望ましいのは、多様な授業の手法で、生徒の意欲と潜在力を引き出す際、この「授業中継」が先生方や生徒の皆さん材料となることです。

 

 

史料紹介「エドウィン・O・ライシャワー『対日政策に関する覚書』」

史料紹介「エドウィン・O・ライシャワー『対日政策に関する覚書』」

新年度を迎え、本年もいくつかの大学に聴講に行くこととしました。そうしたなか、ある講義でとんでもなく面白い史料をもらいました。ぜひ、多くの人に紹介したいと思います。

『対日政策に関する覚書』について

それは1942(昭和17)年9月段階、ひとりの日本研究者の青年が戦争省に提出した覚書(メモランダム)です。そこには、敗戦後のアメリカの対日政策がみごとに先取りされています。

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エドウィン・O・ライシャワー(1910~1990)

提出したのはエドウィン・O・ライシャワー、当時31歳です。私が物心ついた頃の日本大使で、日本生まれ、日本育ち、妻(結婚(再婚)したのは戦後ですが・・)も日本人。日本の歴史や文化にも造詣が深く、親日派の筆頭としてあげられた人物です。つねに日本に友好的であり、戦争中も敵意を持っていなかったと主張し続けています。この史料で見る限り、そうとはいいにくいのですが・・。
ライシャワーは、日米開戦直前に、名門ハーバード大学極東言語学部の講師となります。1941年夏には一時的に国務省調査分析官に席を置き、アメリカの対日政策にもかかわりますが、秋には大学に戻ります。12月の日米開戦を受け、1942年9月以後は陸軍省で暗号解読と翻訳など情報関係の仕事を携わりました。回顧録には、この間、国務省のプロジェクトチームにもかかわったと記していますが、この時期を対日政策を研究した書物などには不思議なほど名前が出てきません。
しかし日本研究者がわずかしかおらず、日本についての知識が切望されていた時期、1941年段階で関係を持っていた国務省が、この人物を放っておくとは思えません。戦争が終わる前後には国務省チームの責任者をすることから考えて、回顧録の証言はあたっている気がします。

この史料『対日政策に関する覚書』(以下『覚書』)は、ライシャワーが陸軍省に移る1942年9月、戦争省に提出したものです。カリフォルニア大サン・ディエゴ校のタカシ・フジタニ氏がアメリカ公文書館で発見、雑誌『世界』2000年3月号で紹介と解説を行いました。(タカシ・フジタニ「ライシャワー元米国大使の傀儡天皇制構想」なお史料の英文テキストは『世界』のホームページhttps://www.iwanami.co.jp/sekai/2000/03/146.htmlから、現在も見ることができます。)コーネル大学の酒井直樹氏はこの文書の重要性に着目、『希望と憲法』(以文社2008)のなかで検討、さらに日本語訳を巻末資料として掲げました。講義で渡されたのはこの資料でした。
(なお、この文書をテキスト化したサイト(「忘馬楼の『老馬新聞』」2008年5月24日http://16.huu.cc/~mamo/bd080524.htm)があったので、転載させていただいています。

ライシャワーが語る『覚書』

では、ライシャワーはこの『覚書』をどのようにかたっているのでしょうか。『ライシャワー自伝』(徳岡孝夫訳 (株)文藝春秋・1987)には

 日付ははっきりしないが戦争初期に書いたらしい私の覚書の写しには、戦後日本の協力と民主化に必要な天皇を罵倒するのは避けるようにとの提案が書かれている。
 日系アメリカ人の部隊をつくり、彼らに忠誠心を証明する機会を与えよ、それは戦争の人種間闘争的な性格を弱め、われわれが日本国民ではなく軍部と戦っている事実を示す好機になるはずだ、という進言も残っている。

と、その存在を簡潔に記しています。またNHKで話した内容を文章化した『日本への自叙伝』(日本放送出版協会1982・以下『自叙伝』)では、戦後改革の章で内容の一部を紹介しています。そこには「先に見た『覚書』」という記述があるにもかかわらず、その記述を見つけることはできませんでした。
自らの先見性とその影響力は自慢したいものの、その内容の過激さから「親日家」という自分のイメージを守るために現物は見せたくなかったのではと、ついつい邪推したくなってしまいます。
ライシャワーは、この『覚書』を「アジアにおけるわが国の戦争努力と、特にこの地域で戦争が終結した後の政策目標に密接な関係をもつ」「些末に見えてもじつはきわめて重要な二つの点について意見を喚起したい」と書き始めます。
その一点目は「戦争終結後、我々の価値体系の側に日本人を転向させる」ための手段を論じた内容であり、二点目はさきの『自伝』にあった日系アメリカ人を軍人として戦争に参加させることです。

日系アメリカ人部隊創設を提案

話の都合上、後者の方から見ていきます。
1942年のアメリカ大統領令9066号は、アメリカ西海岸などに住む日系アメリカ人に「敵性市民」として立ち退きを命じました。その結果、12万人を超える日本人に、さらに日本にルーツを持つアメリカ国民と日本人移民、そしてメキシコやペルーなどアメリカの友好国である中南米諸国に在住する日系人と日本人移民が、アリゾナ州の砂漠など荒れ地に設けられた11か所の強制収容所に送られました。

アメリカ軍の監視下、強制収容所に向かう日系アメリカ人(1942年4月5日)Wikipedia「第442連隊戦闘団」より

このことは当時から、アメリカの「理想」などとのかかわりで問題とされていました。なお、1988年レーガン大統領が国家として正式に謝罪を表明、補償を行います。
この日系移民の強制移住という政策にライシャワーは危機感を感じます。かれが問題視したのは、アメリカ憲法に反した人権を侵害する行為だからではありません。

日本人を祖先にもつアメリカ市民を米国籍をもたない日本人とともに西海岸から移動させることは、緊急の軍事的配慮からみて、必要な行動であったことは疑いを容れません。

このように、この行為を妥当な行為として評価、さらに、20世紀初頭から続く日系アメリカ人排斥運動を認める発言も行います。

現在に至るまで、日本人を祖先に持つアメリカ人は我々の目的にとって負債以外の何物でもありませんでした。一方ではわが国にとって人口の移動と軍事的な監視という大きな問題を課し、他方ではアジアの日本人にプロパガンダの切り札を与えてきたのです。

このように日系アメリカ人を「負債」と表現し、アメリカに負担を与える邪魔な存在として位置づけています。
ライシャワーが危機感を感じるのは、日本がアメリカのこの政策をプロパガンダに利用することでした。この戦争を人種間の戦争と主張する日本の考え方を正当化する論拠となる、だから危険だというのです。かれはこの危機感を次のように語ります。

日本は国際連合(the United Nations:注:酒井氏は連合国をこのように訳している)に対する戦争を黄・褐人種の白人種からの解放のための聖戦としようとしております。(中略)日本のプロパガンダはシャムや東南アジアの植民地、そして中国の一部でさえ、ある程度の成功を収めております。中国が戦争から脱落するような事態があった場合は、日本人はアジアにおける闘争を全面的な人種戦争へと変換することが可能であるかもしれません。

日本が、近代以来の欧米諸国による植民地支配という弱みをついて、白人対黄色・褐色人種という人種間戦争という枠組みに持ち込む材料となる、それが危機感の内容でした。
ライシャワーはこうしたことにならないために、日系アメリカ人という「負債」を「資産」に変える方法を提案します。

この状況を逆転させ、これらのアメリカ市民をアジアにおける思想戦の資産に変えるべきでありましょう。現時点において、今次の戦争はアジアにおける白人優越主義を温存するための戦争ではなく、人種にかかわらずすべての人間にとってよりよい世界を樹立するための戦争であることを示すためには、(日系アメリカ人による) 合州国に対する誠実で熱意に満ちた支持ほど優れた証拠はありえません。

こうした意図から、ライシャワーは日系人部隊を結成することを提案します。これによって「日系アメリカ人を負債ではなく資産にする」ことができるというのです。

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第二次世界大戦における日系二世将兵を称えた議会名誉黄金勲章(表) Wikipedia「第442連隊戦闘団」より

この提案は、『覚書』から5ヶ月後、1943年2月、日系人部隊(第422歩兵連隊)結成という形で実現します。この部隊は、ヨーロッパ戦線でもっとも過酷な戦場に送り込まれ、勇敢に戦い、米軍全体を見てもとくに多くの犠牲者をだしたことでも有名な部隊です。(先日、NHKがこの部隊の過酷な戦いのようすを扱った番組(BS1スペシャル「失われた大隊を救出せよ~米国日系人部隊 英雄たちの真実 )を放送しました。)
この部隊結成と『覚書』の直接的な関連はわかりませんが、政策実施に一定の役割を果たしたのではと思います。本人としてもそうした自覚はあったようで、さきにみたように『自伝』のなかでこの部隊のことに触れ、多くの日系人がこの部隊に参加したと誇らしげに語っています。
これが二点目の内容です。

日本人に有効な「スケープゴート」は?

しかし、これ以上に重要なのが、一点目の内容です。ライシャワーが自伝でいったような「戦後日本の協力と民主化に必要な天皇を罵倒するのは避けるようにとの提案」にはとどまらないインパクトをもつ提起です。
ここで論じられているのは日本の敗戦後の占領政策を見越した上での政策提言です。すこし丁寧に見ていきたいとおもいます。

ライシャワーの中心的な関心は、敗戦後の日本において「アメリカの政策に誠実に協力する」日本人の「頭数」をそろえ、アメリカ側に「転向」させ、その協力を得ることです。

戦後の日本を友好的で協力的な国家の仲間に引き戻すためには多くの日本人の協力が必要でありますが、わが国の政策に誠実に協力するような日本人を十分な頭数(sufficient numbers of Japanese)我々の側に転向させることは極度に困難な課題になると思われます。(中略)日本の人民の協力なしには、この地域に健全な政治的・経済的状況を作り出すことができないことは、極東を専門的に研究する者にとって、あまりにも明らかなことであります。

そしてこういった「頭数」を確保する上での、ドイツやイタリアと異なる日本の困難さを記しています。東京裁判が、ニュルンベルク裁判と違って難しかった理由をすでに予知していたかのようです。

戦争終結後、我々の価値体系の側に日本人を転向させるに当たって、大きな困難の一つは、敗北の重荷を転嫁する適当な適当なスケープゴートが存在しないことであります。ドイツとイタリアでは、ナチ党とファシスト党が、さらに有り難いことにヒトラーとムッソリーニという全体主義をひとまとめに象徴してくれる人格が、最も都合のよいスケープゴートの役割を果たしてくれるでありましょう。(中略)この政権の解体と指導層の追放という行為を通じて、彼ら自身、すなわち人民ではなく、彼らの邪悪な指導者が悪かったのでそのため敗北したのだと、自分たち自身を納得できるはずであります。

ドイツなどでは敗戦の重荷を「悪かったのはナチス党やヒトラーなどの政権と指導者」に押しつけ(実際にそうした面も大きかったのですが)、「がん細胞」を切除するかのように取り除くことで国内的にも決着をつけられると考えました。

ヒトラーとムッソリーニT128
東京書籍「日本史A」P1278

しかし、「日本ではこのようにいかない、無理だろう」というのがライシャワーの見立てです。連合軍側では多くの人が天皇をヒトラーやムッソリーニと同格に考えていました。しかし、日本人の多くがそう考えていないことは、日本に生まれ育った彼にとっては明白でした。天皇にスケープゴートの役割をおしつけることは無理であり、逆効果と考えました。

日本ではこのように指導者に責務を転嫁することによって、(人民の)面子を救うことはできません。なぜなら、すべての人民が天皇には責任がないことをよく知っているからで、天皇を告発することは国旗を非難すること以上の憂さ晴らしになるとは思えないからであります。

では、ちょうどいい、敗戦の責任を押しつけうる「悪」、日本人の「憂さ晴らし」になるスケープゴートはいるのか、と問うたとき、適当な人物を見つけにくいというのが、かれの見立てでした。かれは、当時の日本の統治形態をつぎのように見抜いています。

日本では現実の指導者はむしろ匿名的な権力使用を常習としており、責任をとらせる政党は存在せず、スケープゴートの役を演じてもらえるような傑出した個人はほとんど見当たりません。偽りの邪悪な指導者の役を演じてもらえる唯一の組織は陸軍でしょうが、いまや全国民が何らかの形で陸軍と軍人崇拝の永い伝統と同化してしまっており、陸軍を責めることで日本人が憂さを晴らせるとは思えないのです。

日本には都合のよいスケープゴートがいない。「現実の指導者はむしろ匿名的な権力使用を常習」とするからだ。なかなか見事な分析です。ニュルンベルク裁判に比べて、東京裁判が難しく、そのあり方に疑問が多く出され、国民にとってもストンと落ちなかった理由もこのあたりにあるのでしょう。「軍国主義」のがん細胞は、日本という肉体の深くに根ざしており、外科手術で取り除くことは困難だったのです。ライシャワーは東京裁判での連合軍の困惑を見抜いていたかのようです。
少し読み違えがあったとすれば、敗戦後の国民は彼が考えた以上に、陸軍というか軍部に批判をもっていたようです。しかし、それはこの文書のかかれた時期が原因かもしれません。なぜなら、この文書が書かれたのは、ガダルカナル島攻防戦がもっとも激しく戦われていた時期、戦いの帰趨すらはっきりしない、ライシャワー自身が「本当に戦争自体に勝利できるか自信がなかった」と述べている時期だからです。しかし『覚書』が書かれた時期から三年弱、日本人は戦争の苦しみを味わいます。しかもそれは口には出せなかった。口に出せなかったからこそ、次々と国民に犠牲を強いてくる軍への怒りを沈殿させていったのでしょう。

アメリカにとって最良の「傀儡」は?・・

スケープゴート作戦がうまくいかない日本でどのようにして、敗戦後、「日本の人民の協力」をえるのか。「注意深く計画された戦略を通じて思想戦を勝ち取ることが我々には期待されるでしょう」と「思想戦」という用語を使い、もったいぶった言い方で論を展開します。内容は過激さを増していきます。

当然のことながら、第一歩は、喜んで協力する集団を我々の側に転向させることであります。そのような集団が少数派しか代表しない場合には、我々に喜んで協力する集団は、いわば傀儡政権ということになるでしょう。
日本は何度も傀儡政府の戦略に訴えてきましたが、たいした成功を収めることはできませんでした。というのも、彼らが用いた傀儡が役不足だったからであります。

たしかに満州国の溥儀も、南京政府の汪兆銘も、中国の人々の支持を取り付けるためには役不足でした。しかし、日本には、最高の、これ以上ないという傀儡がいるとライシャワーは言います。この『覚書』ももっとも過激で、衝撃的な部分に入りましょう。

ところが、日本それ自身が我々の目標に最も適った傀儡を作り上げてくれております。それは、我々の側に転向させることができるだけでなく、中国での日本の傀儡が常に欠いていた素晴らしい権威の重みをそれ自身が担っています。もちろん、私が言おうとしているのは、日本の天皇のことであります。

アメリカが日本を統治するのに最適な「傀儡」として天皇がいるとライシャワーは主張します天皇を「傀儡」として利用し、占領統治を行えばうまくいくというのです。「協力」とか「利用」といったことばでなく、「傀儡」(puppet regime)という最大限の刺激的なことばをつかっています。天皇を占領政策に利用すべきという政策のはしりであり、だからこそ、むき出しの政策意図が見える気がします。
このようにライシャワーは、きわめて冷徹に敗戦後、日本をアメリカに従属させるための方法を提案しています。かれが、よく口にする「日本の友人たち」という言葉ですが、心の中では「友人」ではなく「傀儡」と思っていたのではと邪推したくなります。
つづいて、天皇の「傀儡」としての資質について触れます。

日本の基準からいって、天皇は自由主義者であり、内心は平和主義者であると考えてもよい理由があります。天皇を国際連合(the United Nations)と協力する政策に転向させることが、彼の臣民を転向させることよりも、ずっと易しいことであるというのは、大いにありそうなことです。天皇が、おそらく天皇のみが、彼の臣民に影響を与え、彼らに現在の軍事指導層を弾劾するに至らせることができるのであります。

日米合意としての「国体護持」

ライシャワーは、みずからの体験と交友関係、さらにはこの約1ヶ月前に帰国した元駐日大使グルーらの意見も踏まえたかもしれませんが、裕仁天皇を「自由主義者」「平和主義者」と分析し、アメリカ戦略のため「傀儡」として「転向」させうる、最高・最適の人物と評価しました。「天皇のみが、彼の臣民に影響を与え、彼らに現在の軍事指導層を弾劾するに至らせる」という一節は、裕仁天皇と側近グループが、本土決戦を主張する軍部を押さえ込んだという敗戦に至る経過を見通していたかのようです。

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ジョセフ=グルー 戦前、十年以上にわたりアメリカの駐日大使をつとめ、日本の占領政策に大きな影響を与えた。

敗戦に際して、1945年6月の沖縄陥落以降、戦争終結をめざすようになった裕仁天皇らがもっとも重視したのは「国体護持」=天皇制の維持でした。
他方、アメリカでは国務次官となった国務省内「日本派」の代表ともいうべきグルーが「立憲君主制を含めて」という一言を連合軍の文書に組み込むいれるべく全力を尽くし、省内の「中国派」と暗闘を繰り返していました。グルーら国務省内の「日本派」はこの言葉こそ天皇グループがもっともほしがっている「国体護持」の実態だということを知っていたからです。吉田茂ら「和平派」(「傀儡」?!)と何らかの接触があったのかもしれません。
そして、「国体護持が可能である」というなんらかの見通しを得たなか「和平派」であった裕仁天皇と側近たちは行動に移しました。彼の臣民に影響を与え、彼らに現在の軍事指導層を弾劾するに至らせる」力をフルに生かして。
そして、この実績をひっさげて、天皇はみごとに「転向」し、アメリカ占領政策の「傀儡」の役割を積極的に果たします。たぶんライシャワーやグルーが思った以上に。

「傀儡」としての天皇の役割

天皇による「玉音」放送と武装解除命令の「臣民に与える影響力」は絶大でした。
実態としての厭戦気分が満ちあふれていたこともあり極度に自尊心が敏感で、強度に民族主義的な人民」である日本臣民はみごとに「転向」しました。アメリカ軍はこれといった抵抗もなく占領を開始、軍隊の武装解除も約1ヶ月という短期間で完了しました。
天皇制、とくに裕仁天皇の存在は多くの連合国側が思いもつかないほど効果をしめし、『覚書』の見通しはおどろくべきの正しさをもって証明されました。

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1945年9月のマッカーサーとの会見以後、裕仁天皇はGHQとの関係を強化、アメリカ側とくにマッカーサーの意向を受け入れた行動をとります。マッカーサーはその華麗な「転向」ぶりに目を見張ったのでしょう。
こうして戦前の万世一系の神話の上に立っていた絶対主義天皇制は「傀儡天皇制」へと姿をかえました。
マッカーサーはこれ以降、有能な「傀儡」である裕仁天皇を最大限利用するため、強引ともいえるようなやり方で天皇制の維持を図ります。アメリカ国民や連合国の意見を無視して、天皇の戦争犯罪人としての起訴を拒みます。さらに戦争放棄・軍隊の非所有という衝撃的なまでに平和を前面に打ち出した日本国憲法の制定をすすめていることで日本の軍国主義が克服されつつあると世界にアピールします。世界が廃絶を求める天皇制を維持するためには、過激なまでの平和憲法が必要だったのです。だからこそ、極東委員会で天皇の処罰を厳しく求めるソ連やオーストラリアも、明治憲法を残したい日本政府も、憲法9条をもつ日本国憲法と象徴天皇制のセットを認めざるを得なかったのです。
他方、裕仁天皇は1946年正月の人間宣言をだし、さらに全国巡幸を積極的に行うことなどで「愛される天皇」を演出、GHQの期待どおりの「傀儡」の役割を演じます。裕仁天皇からすれば「国体護持」=天皇制存続のための必死の工作だったのでしょう。双方の利害が、憲法上の「象徴天皇制」で一致したのです。

裕仁天皇は憲法制定後もアメリカのエージェントともいえる役割を演じます。
1947年9月「米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む」という内容のメッセージを側近経由でGHQに伝え、日本国内の米軍基地の自由使用などの問題では、吉田首相やマッカーサーの頭越しにダレスと結んでアメリカ政府につながり、豊下楢彦氏が「二重外交」と指摘するような行動をとります。それは、米軍基地の存続に制約をつけようとする吉田や外務省の意向とも異なる、アメリカにとっては心強い動きでした。
裕仁天皇は、天皇制維持という目的から憲法の規定をも超えて「自発的」に「傀儡」の役割を果たしつづけました。

天皇の「利用価値」を高めるために・・

さて、『覚書』にもどりましょう。

もし、天皇が、彼の祖父(明治天皇のこと:訳者)のような真の指導者としての資質をもっていることにでもなれば、我々にとってはますます都合の良いことになります。たとえ、彼の半気違いの父親(大正天皇のこと:訳者)程度の能力さえないことが判明したとしても、それでも、協力と善意の象徴としての彼の価値はきわめて貴重であります。

この文章はあくまでもライシャワーの言葉です。疑問の方は、英文テキストで確認してください。大正天皇を「半気違い(his half-demented father)」と呼ぶなど、紳士的でハト派の親日家として知られるライシャワーとは思えない書きぶりです。アメリカの政策遂行上の利用価値という点から、冷酷に天皇を見ていることをよく示しています。
このように利用価値の高い天皇です。このため、天皇がヒトラーやムッソリーニと同様の「邪悪な日本の体制を象徴するもの」といったアメリカでの報道を控えて「貴重な同盟者あるいは傀儡」として天皇を日本においても、アメリカにおいても「使用可能な状態に温存する」ことが必要だと考えました。

戦後に日本人が(敗戦によって受けるであろう)精神的な傷から回復するために天皇が演じることができる役割は、現在の状況と確実に関係しております。戦争終結の後の思想戦のために、天皇を貴重な同盟者あるいは傀儡として使用可能な状態に温存するためには、現在の戦争によって汚点がつかないように、我々は彼を隔離しておかなければならないのであります。(中略)新聞やラジオで天皇を広く冒涜することは、戦後の世界において我々にとっての彼の利用可能性を容易に損なうことになりかねません。このような政策をとるかぎり、我々の道具として、天皇に協力したり、あるいは極端な場合には、天皇を受け入れたりする心の準備をアメリカの人びとから奪い取ってしまうことになるでありましょう。当然その結果として、天皇自身と天皇周辺の人びとはわが政府に協力する気持ちが弱まるでありましよう。(中略)戦後問題を考慮して、政府におかれましては、本邦の報道波及機関に対しまして、裕仁への言及をできるかぎり避けること、むしろ東条あるいは山本、さらには滑稽な神話的人物ミスター・モト──軍服姿で──を現在わが国が戦争状態にある敵国日本の人格的具現として使用するよう、ご指導されるべきかと考える次第であります。

この部分でやっと『自伝』で紹介した内容がでてきます。『回顧録』でも、このあたりの内容が紹介されています。「自分は、アメリカでの天皇批判から彼を守ろうとしたのだ」というふうにいいたいのでしょう。しかし、見ての通り有益な「傀儡」の価値を減じるから批判を控えるべきだというのです。『覚書』での天皇への目は非常に現実的かつ政治的です。
なお、この提言を考慮してかどうかはわかりませんが、国務省は日本向けの放送での「天皇批判を避け」つづけます。

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ミスター=モト ジョン・P・マーカンド原作の小説の主人公。微笑を絶やさず「アイム・ソーリー」を連発する冴えない人物。しかし物怖じしない度胸と鋭い頭脳を隠し、小柄な体の下に大男もねじ伏せる怪力と鮮やかに敵を倒す柔術の業を極めた秘密情報部員。日米関係の悪化とともに悪役として描かれるようになる。(http://www.aga-search.com/)より

しかしアメリカ国内やオーストラリアなど他の連合国の反天皇報道をおさえることは困難でした。1944年グルーが天皇を免罪するかのような内容の講演を行ったときにはアメリカ内外から激しい反発がまき起こり、グルーは一時沈黙を強いられました。国務省内部にも、天皇の責任を厳しく追及する「中国派」がおり、天皇制維持をめざすグルーら「日本派」の間で対立がつづきました。
この間、ライシャワーは陸軍で暗号解読に全力を挙げていたことになっていますが、国務省内でも何らかの影響力を持っていたことは考えうるのであり、従来、グルーの主導とされてきた政策のいくつかにはライシャワーの影響があったことも考えられます。
ちなみに、『自叙伝』で自分の同級生であり「平和を欲していたはずだ」と持ち上げている山本五十六を『覚書』では東条と並ぶ「敵国日本の人格的具現」としてマスコミの批判対象として掲げるように誘導していることも興味を引きます。
日本では、英雄視されることの多い山本五十六ですが、アメリカでは東条英機や「謎の日本人ミスター=モト」とならぶ、真珠湾に卑劣な奇襲作戦を行った「悪役」だったことがわかります。

「アメリカにとって都合のよい日本」という視点

アメリカ内外の天皇批判をやめさせ、非人道的な日系アメリカ人への迫害をなんとかやめさせようと思っていたが、普通の言い方では通用しないため、あえて政策提案者が受け入れやすい露骨な、偽悪的な書き方をした、その方が正しいのかもしれません。かりに、そうであっても、この文書は現在に至るアメリカの対日政策の基本構図をあまりにリアルに描き出してしまいました。

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裕仁天皇(昭和天皇) 日本国憲法に署名しているときの写真

この『覚書』の重要さはアメリカにとって都合のよい日本を作り出すという点に焦点をあてて論じているところです。
こうしたアメリカの世界戦略のもと、戦後日本は、アメリカの「政策に誠実に協力するような日本人を十分な頭数」を現在に至るまでうみだしつづけ、「日本の人民の協力」によって「この地域に健全な政治的・経済的状況」を作り出し、「友好的で協力的な国家の仲間」でありつづけています 。こうした日米関係をつくりあげる、「戦争終結の後の思想戦のため」のアメリカの「目標に最も適った傀儡」こそが天皇でした。
このようなアメリカにとって都合のよい日本は、サンフランシスコ平和条約による「独立」後もつづきます。いっそう強まったというべきかもしれません。その核心となったのが日米安保体制です。その核心ともいうべき米軍基地の自由使用、沖縄の分離と占領継続において、裕仁天皇はアメリカの利害を援護する「傀儡」としての役割をみごとに発揮しました。こうして成立した「日米安保体制」は現在の日本のあり方を大きく規定しています。
この『覚書』は、日本をアメリカに従属する「都合のよい日本」に変えていくというアメリカの『本音』を見事に描き出しました。そして「都合のよい日本」は、現在、いっそう「都合のよい」存在となっています。この「都合のよい日本」への「転向」の「てこ」として使われたのが、アメリカの「目標に最も適った傀儡」としてライシャワーらに見いだされたのが天皇制であり、裕仁天皇個人でした。