「準備室にて」カテゴリーアーカイブ

戦争にむきあうこと~両親の知覧訪問

戦争に向き合うということ
~父と母の「知覧」訪問~

はじめて中国旅行をしようとした。

前回、おもわず中国のことを書いてしまいました。
その内容に手を加えようとしたら、訂正では済みそうもないので、別稿を起こすことにしました。
書きかけたのは、中国に最初に行こうとしたときの葛藤でした。
まずそこから書きます。
私は中学生か高校生の時代から日本軍が中国で行っていたことは、それなりに知っていました。かつての日本軍が中国へいくことをためらわせていたのです。
「「東洋鬼子」(残虐行為をした日本人をさすことば)の子孫が、どの面をさげて中国に来ているのだ」という目を恐れ、いやな思いをすることを恐れました。
でも、「実際に行ってみなければ分からない、いやな思いをするのなら、いやな思いをさせたからだ」と下腹に力を入れて、旅行に行きました。
立場は逆ですが、なんか、かつての侵略者である「日本」を訪れる中国人の心境に近いかもしれませんね。
そして、日本を訪れた中国人が感じるように、すくなくとも表面的には、「別にどうってことないやん」という感想でしたが。

戦争にかかわるところは行きたくない!

私の中国行きへの感覚は、戦中派であった父の思いとも重なっていました。それを引き継いでいたのかもしれません。父は、私が中国に行くという話を聞くと、「自分は絶対いかない」といいました。父もそこで何があったのか、よく知っていたのでしょう。そんなところへはいけない。
さらに戦場になった所にも行こうとしませんでした。ひょっとしたらハワイは立ち寄ったかもしれませんが。
父は卑怯だったのかもしれません。
戦争に向き合っていなかったのかもしれません。

両親が「知覧」にいった!

 とても仲がよかった両親ですが、このような父の姿には、母は批判的でした。
父の定年後、両親は日本中を旅行しました。

知覧特攻平和会館
鹿児島で母は知覧特攻平和会館に父を誘ったそうです。ところが父は、拒否しました。
母は、父がいないとき、不服そうに私に話しました。
兄を二人戦争で亡くした母は、そこに兄たちの姿を見ようと思い、会いに行ったのかもしれないし、戦争の現実を見たかったのでしょう。
本当は行きたくなかった、「でも、いかなくちゃダメだと思ったの」
と、私に語りました。行かなくちゃダメなのは父も同じ、それが母の思いでした。
かなり日がたってからですが、今度は父が言いました。
「母さんは、知覧の特攻隊の記念館に自分を連れて行こうとしたんだ。そんなところ行けると思うか?」と。
よくしゃべる父ですが、歳をとってからは、踏み込んだ話は互いにしなくなっていました。意外といえば意外でした。
二人のそれぞれの話に、私は黙ってうなずくしかありませんでした。

「父のこと」

大正13年生まれの父の世代は敗戦時22歳、理系であったため召集を免れましたが、同級生の多くが戦死しています。特攻に参加した人もいたでしょう。そうした人を記念館に見ることが辛かったのでしょう。
さらに、そこに多くの遺書が展示されていることも知っていたのでしょう。その遺書、自分も書いたかもしれない遺書、それを見ることがたまらなく辛かったのかもしれません。
そして、「例によって逃げた」のかもしれません。

「遺書」にかけられた二つのフィルター

彼らの遺書には、二つの意味のフィルターがかけられています。
一つは、時代のフィルターです。多くの若者は、戦争の実態を知らされないまま、戦場に連れて行かれました。国家の繁栄を信じ、自分の死が自分の家族を、郷土を、日本国家のためになると無邪気に誠実に信じていました。
しかし、現在、あの戦争がいったい何だったのかを知り、特攻がいかに愚劣な作戦であったのか、時代のフィルターの欺瞞を知る今であるからこそ、事実を知らされないまま、死を強要された若者の無惨さが見えてきます。

「遺書」には書けなかった思い

今、多くの若者は時代のフィルターによって、戦争の実態を知らなかったといいました。それは真実でしょうか。戦争の実際をある程度知っていたう若者たちはそれなりにいたでしょう。特攻隊員の多くは、学徒動員された大学生たちだったのですから。では、なぜ、多くの遺書はそのことに触れていないのでしょうか。

 

リベラルな教育を受けてきた父は、この戦争の実際を、当時からある程度分かっていたでしょう。とすれば、父の目に映る遺書は違って見えると思います。
特攻が決まって遺書を書くことになっても、大部分の人は本当に書きたい遺書は書けませんでした。そう、「検閲のフィルター」です。作戦遂行上問題があったり、国家や軍部の方針に反するような内容であるような文章は残すことが許されませんでした。さらに「軍神」となる特攻隊員が特攻や軍隊を批判する文章を書くことは許されるはずがありません。
それにもかかわらず、いろいろな手段で書き残し伝えようとした人たちもいました。それが「きけ、わだつみのこえ」などに集められた手記です。
しかし、多くの特攻隊員、いや兵士たちも、戦争や政府・軍部への批判、特攻作戦への疑問、自分の死の無意味さなど本当にいいたいことがいろいろあっても、このフィルターに触れないことしか書けなかったのです。そこで、かれらはもう一つの真実である両親や親しい人への思いと感謝、郷土や日本の将来への思い、自分の死がなんとかその役に立って欲しいという思いを、このフィルターで許された内容を遺書に記し、作戦に参加し、命を失っていったのです。
特攻作戦の実態について、別の機会があればと思いますが、とりあえず、当時、知覧で特攻隊員を取材していた高木俊朗の作品などを読んでください。

「遺書」~ゆがめられた肖像

同じ時代を、同じように生き、一人一人の人間の生を、笑った顔やともに語り合った姿を知っていたからこそ、このような遺書しか書かせてもらえなかった無惨さを感じたのかもしれません。君の本当の思いはこれでいいの?君の「生」は、この遺書に反映されているの?
すくなくとも、君たちの「未来」、70年後の君たちの一人である自分にとって、そうは思えない。あれは、作られた無知、自分たちの命を無惨に消費し疑問をもつことを許さない国家、そしてそれを「時代の宿命」とあきらめてしまった当時の「自分」たちの、ゆがめられた肖像なのだ。

知覧特攻平和会館 に対する画像結果
三角兵舎 特攻兵たちはこのような兵舎で出撃をまっていた。http://media-cdn.tripadvisor.com/media/photo-s/05/a1/f0/5e/caption.jpg
そして、ここに展示された遺書たちは、このふたつのフィルターの存在について、あまり注意を向けないまま展示されています。そしてこの遺書たちは、かつてもっていたように、特攻隊員が国家のために命を捧げた「軍神」として美化されることに利用されうるものであり、戦争や戦死者の本来の姿を覆い隠すものとして利用されかねないものなのです。
父たちにとっては、かれらの遺書は、当時の若者であった自分たちの当時の「真実の一部」であって、かれらの約70年後の「未来」である自分から見ると、「あの時代」に国家の強制と作られた無知の産物であったのです。
そんなものは見たくない。

母の思い

母は、いいました。
「実際にあったことは、やっぱり見ておかなければならない。だからいやがってたけど、つれていったの」
両親とも、「やっぱり、いかねばならない」「そんなものいけるか」と、それぞれが同意を求めるように、私に話しました。
両親からの、実際にいったことについての感想の記憶はありません。
母は「やっぱり、いってよかった」といったような気もしますが。
母は、父に同意を求めたとおもいますが、父は無言だったのでしょう。
 母はつねづね、「あなたたちを、ぜったいに戦争に行かせたくない」といいつづけていました。
気丈な祖母が、自分の二人の子どもの死にさいしても涙を見せられなかったつらさを見ていたからでしょう。
戦死した二人の兄のことを楽しそうに語っていた母でした。知覧の遺書や写真に兄たちの姿を見て、自分のかわいい孫たちにこのような遺書を書かせたくないと思ったでしょうし、私たちに自分の父や母の辛い思いをさせたくないと、知覧の記念館で再確認したとおもいます。

「戦争のどのように向き合うのか」

十数年前に母が、昨年父も他界しました。
戦争について、きっと考え続けてきたけれど、ある意味、その問いがつらすぎると避けてきた父。自分のふたりの兄と子どもを失った母(私の祖母)について考えてきた母。甥たちが通っていた小学校の先生から、母が「平和の語り部」をしていると聞いて驚いたことがありました。母は、大好きな父(祖父)が遺族会で活動することにはやや批判的だったようにも感じます。
戦場にも行かず、空襲で逃げ惑ったわけでもない、あの時代にしては「幸福な」二人です。それでも、それぞれの体験を通して、戦争に対して向き合ってきたのでしょう。
「知覧特攻平和会館」へのそれぞれの、ちょっとした、しかし誰かに話したくて仕方なかったセリフから感じることができたような気がしました。

新しい「井戸を掘る」こと~「反日」と「愛国」

新しい「井戸を掘る」こと

~「反日」と「愛国」~

日本の「エロ本」と中国の「反日」本

 

中国にはもう10数年前以来、いっていません。
最後にいったとき、立ち寄った中国のドライブインに、日本のコンビニの週刊誌やエロ本のような感じで、日本帝国主義時代の暴露本(ある人たちの言い方の「反日本」)と「米中戦えば」のような軍事関係の本ばかりが並んでいました。ストレス解消が、日本ではエッチな本で、中国はナショナリズムなのか、と変に納得した思い出があります。

不思議な「日本人論」

別の旅行の時は、空港の本屋で研究書風のペーパーバックを買い、とぼしい中国語の知識でながめました。加藤周一などそうそうたる日本人の本を引用しているのですが、結論は「日本人は歴史的に人を殺すことに躊躇しない(※細かいニュアンスは私の中国語の能力では無理です)性格を持っている」。それは「日本人の道徳である『武士道』からくる」というトンデモ本で、いくら何でもこんな書き方はないやろ、と愕然とした記憶があります。それも戦前ならともかく、戦後についても妥当するかのような書き方だったのです。(正確には「のように思いました」)
そのとき、切に思ったのは「ぜひ、日本国憲法下の現在の日本に来て、生活者としての日本人を見て、自分の説が妥当なのか、その目でたしかめて欲しい」ということでした。

怖いところでなかった「シリア」

それからのち、私の旅行先は中近東や南アジア中心となり、中国へ行くことは少なくなりました。
今は、決して行けないシリアも、当時は「怖いところやろ」といわても、「なんの心配もない」と答え、その通り何の心配もなく帰ってきました。アレッポのバザールで困っていたら、日本語で声をかけてくださった人もいました。あの人たちは、どうなってしまったのでしょうか?

反日デモと「知日」

その間、中国では尖閣をめぐる反日デモがありました。ちょっと行きにくいかな、とも思いました。その後、中国では日本旅行ブームがおこり、爆買いブームとなり、最近は中国旅行者も多様になってきました。テレビ報道では雑誌「知日」に代表される日本への冷静な視点をもつひとたちも増えているようです。
ストレスのはけ口を「反日」にもとめていた中国がどのように変わったのか、変わっていないのか、興味があるところです。

中国のドライブイン化した日本

しかし、ふと考えてみました。今の日本ってどうなの?って。
なんのことない、日本自体がかつての中国のドライブインのようになっているのじゃないかと
ストレス発散の対象を、他国や他民族をおとしめ、必要以上の日本礼賛をするナショナリズムに求める人が増えているんじゃないかと・・。
学校の授業で歴史学の常識をいったことが、全国紙や雑誌に取り上げられ、ネット上には「反日」というようなヤジがあふれだす。聞くに堪えないヘイト発言が路上でまき散らされ、ヨーロッパでは逮捕されるような旗をもった人たちが「愛国」といっている。
中国への侵略はなかった」と公言している人物が防衛大臣となる。

中国の「反日」主義者と日本の「愛国」者

中国でもっとも「困ったちゃんの反日」主義者を鏡に写したような、日本の「困ったちゃんの「愛国者」があふれている。
こうした人たちの特徴は、自分を逆の立場に置いて考えるということができないことです。
古いタイプの中国の「反日」主義者は主張しそうですね。政府に統制されたニュースとプロパガンダを信じ、実際の日本の姿を見ていないような人たち「やっぱり日本人は変わっていない」と。
エロ本代わりの「反日」本が、過去の侵略の話でなく、現在のこととして書かれる・・・。恐ろしい未来予測です。

今、「井戸」を掘っている人たち

日中関係で、周恩来でしたかが「井戸を掘ってくれた人のことは忘れない」といっていました。
現在はいろいろな人、とくに庶民が井戸を掘るようになってきたのではないでしょうか
私は、さっきもいったようにもっと多くの中国の人が日本に来て欲しいと思っています。最初は爆買いでもいい。たしかに、ちょっと「うーん」というところもあるでしょう。でも、長い目で見ましょう。

これって「自虐史観」ですか?

私が幼い頃の日本人がそうだったのですから。
ノウキョウさん」といわれて世界のひんしゅくを買っていたのが日本人だったことを、健忘症の日本人は忘れています。
ついでにいうと、日本の町はとても汚かった。新聞やニュースでは「欧米の町は何でこんなにきれいなのだ。日本の町がゴミだらけなのに。」という特集記事がよくありましたよ。川の水は、悪臭を放ち、京都の鴨川は化学染料のおかげで「色彩豊か」でした。
恥をさらしますが、ちょっとアカン奴だった私は町中でよく尿意を催しました。困った両親はやむなく繁華街の街路樹に立ち小便をさせてくれました。ごめんなさい&お恥ずかしい。でも、そんなことは、それほど珍しいことでもなかったのです。
欧米の人は思ったでしょうね。「だから日本人は・・・
こんな風な日本の恥ずかしい歴史をいう私の言い方は、きっと自虐史観なのでしょう。
でも、実際あったことを忘れるのは健忘症で、「あったことをない」と強弁するのはウソですし、人間として卑怯だと思います。

外国に行くと『愛国者』になる!

だから、中国の人のなかには、欧米の人だってそうですけど、確かにうーんという事をする人はいます。でも、日本に住んでいる人、この場合、やはり日本人というべきでしょうでも、そんな人はいくらでもいます。問題は、その人間であって、その国籍や民族を問うべきではないでしょう。文化の発展段階というかもしれませんが、他者の目にさらされることのない状態におかれていたことの反映でしょうし、ひょっとしたら世界を知らない日本人(「日本で生まれ育った人」の方がいいか)が、何の問題もないことを、おかしく考えているだけかもしれないのですから。逆ももちろんです。(私はくしゃみだけは派手にしないと気が済まないたちです?!ふたたび、お恥ずかしい。)互いに学びあい、長い目で見ることが大切なのでしょう。ノウキョウさんを迎えたパリの人たちもそうしたのですから。
日本の人も、どんどん外国に行くようになったこともあって、変わったでしょ。当時よく言った言葉があります。「外国に行けば『愛国者』になる世界を知って、こんなことはすべきでない、逆に日本にもこんないいところがあることを学んできました。
だから、中国の人はもっと日本に来ればいいと思います。欧米よりもはるかに安く来られるのですから。ぼくが中国の本がある程度理解できるように、ある程度は漢字で分かるのですから。
しかし、できれば「ノウキョウさん」でない形で。

「よい日本の人」が新たな「井戸」を掘る

実際に目で見て日本の良さも、ダメさも知ってほしい。そしてより深い日本理解へつながってほしい。できれば「よい日本の人」と知り合い、「日本のよさやダメさ」にも触れ、「中国のよさ」も気づいて、よい意味の『愛国者』となって欲しい。それが中国のよりよい発展へとつながっていくと期待しています。
私は、多くの人たちが日本で「よい日本の人たち」にふれることが、新たな「井戸」を掘ることになると思っています。そして、あいがたいことに、今のところ、多くの日本に住む人たちもいっしょに「井戸」を掘っているのだと思っています。たいそうなことではありません。ほほえみ合うだけでも、落とし物をしましたよ、どうかしましたか、の一言でも、それが新たな「井戸を掘る」ことだと思っています。

新たな「井戸」を埋めさせてはならない

残念ながら、先に見たように、井戸を埋めたくて仕方がないような人が日本でも増えてきたのも事実ですし、やはり残念ながら、今の中国のリーダーたちの中にも、「井戸」の大切さを理解していない人たちがいます。
しかし、私たちは、彼らが気がつかないうちに、庶民の普通の良識によって、日本と中国の間で多くの「井戸」が掘られるようになっています。新しい「水路」を築きつつあります。
両国政府の言動に惑わされたり、偏見と対立をあおるえせ「愛国者」にまどわされることなく、「井戸」に「水路」に清涼な水をたたえていきたいものです。
※ある依頼をした方が、北京に居られると聞いて、そのメールに添えるつもりで書き出した文章がもとです。
せっかくだから、もう少し書き継ごうと思うと、えらく長いぶんになってしまいました。

「追いつけ追い越せ」「開発独裁」「日本人の創出」~明治維新編によせて

「追いつけ追い越せ」「開発独裁」「日本人の創出」~明治維新編によせて~

 明治維新編をアップしました。

今の研究環境はすごい!

大学で課されたレポートとかかわって、自分の先祖につながる人を調べていました。すると、つぎつぎと面白い事実が出てきて、先祖の戸籍をあつめ、市史や県史をよみ、ネット上から国会図書館や郷土資料館などのデータにアクセスし、大学図書館からも史料を探し、なんてことをしているうちに、しっかり一ヶ月使ってしまいました。
しかし、いまの研究環境の進歩はすごいですね明治や大正時代の官僚名簿や、昭和初年の業界史や郷土史が国会図書館のネット上で簡単に見られました。著作権の関係で見にくい国会図書館の書籍も、大学図書館の協力で閲覧・複写できました。
台湾総督府で働いていた人物の足取りを検索エンジンでつかまえることもできました。
おかげで、名前しか知らなかった私の曾祖父の写真ゲットすることもできました。
こうしたことで、先祖調べにはまってしまい、一区切りつくまでと調べている内に、六月をまるっぽ使ってしまい、HPの更新ができませんでした。

近代日本のテーマ「追いつけ、追い越せ」

さて、「明治維新」の範囲、こんな無茶苦茶を書いていいのかと思いながら、作ってみました。
昨年の授業でやった内容を元に書いているのですがどうも大胆な仮説ばかりで、生徒にそんないい加減なことを教えていたのかというご批判もいただきそうですが、ご容赦ください。
見ていただければ分かりますように、近代日本のテーマを「列強に追いつけ、追い越せ」とまとめてみました。
その中心は軍隊の近代化から、しだいに条約改正交渉の基礎となる広義のインフラ整備へと移っていきます。
それを実現するための強大な権限をもつために、天皇の権威を利用したこと。
天皇の権威をにぎりつづけた大久保や岩倉をはじめとする少数のリーダーが開発独裁的に強引な欧米化政策を進めたという流れを中心にまとめています。この言い方は、数年前から始めた言い方です。

「開発独裁」ということ

開発独裁」などという大胆ないい方をつかっていいのかとも思いましたが、大学時代に受けた先生の授業で聞いた話を思い出し、ネットでも授業の実践例があったので使ってみました。
ついついソ連や中国の「社会主義」の方が似てそうだと知ってて脱線させました。
こんなふうに、実際の授業では、かなり大胆な話をするのですが、さすがにそれをおこして、ネットに載せるのは躊躇しました。まあ、しがない元高校教師の思いつきということで、大胆ないいかたをしています。
というのは、歴史の授業というのは過去のことのみではなく、現在の世界を分析する手段を生徒たちに与えたいと思っているからです。過去のこの事例と、現在のこの事例、こういう面では共通しているところがある」といった目を養って欲しいからです。
ある意味、高校教師は楽です。研究者の皆さんがいいたくてのど元まででかかっていても、しっかりした論証がなくていえないことをいってしまいます。ただし、「こんな風に考えられないかな?」という形で。
居直った言い方をすると、かなり大胆にいわないと生徒には歴史の意味も含めて、生徒には伝わらないのですよ。きっと、批判があると思いますが・・・。

「開発独裁」、辞書によると

もとにもどして「開発独裁」の件、ネット上の辞書を見てみると、以下のような記述があったので、ある程度安心しました。
<以下、引用>
「開発独裁」
経済発展の途上にある国の政府が、国民の民主的な政治参加を抑制しつつ、急速な発展と近代化を目指す体制。福祉や自由の尊重などの政策は後回しにして、工業・資源開発・土木・軍事部門に経済資源を優先的に配分し、国力の底上げを図ろうとする。第二次世界大戦後の韓国やフィリピン・インドネシアなどに見られたが、政権内の腐敗を招くことが多かった。広義には第二次世界大戦前のドイツや日本の体制、ソ連など共産主義国家の体制をも含む。
「デジタル大辞泉」
<引用終わり>

「国民」(=「日本人」)の創出という視点

 また、近代国家を形成するという点に関しては、「国民(「日本人」)」の形成という視点を重視しました。
昨年度の授業から、おっかなびっくりだったのですが、幕藩制(「ヨコのカベ」)と身分制(「タテのカベ」)という「二つのカベ」を取り除くことが「日本人」を形成する大きな前提になるという風に説明してきました。
今回は、授業中継としてまとめる中で少し深めてみようと思いました。ちょうど、本年度前期にうけた大学の講義の中でネーション(「国民」「民族」)の形成の話があり、ネーションの形成には公教育が大きな意味を持つというゲルナー「民族とナショナリズム」の説が紹介されたこともあり、日本ではどうだったのだろうということで、教育にかかわる内容も触れてみました。

ネーションとしての日本人の成立を追求すると、さまざまな意味での江戸時代のユニークさ・面白さがもっと際立ってくるような気がしました。

とおもって近年の歴史の研究書を見ると、1990年代以降の歴史学の世界の人気のテーマが「国民国家」だったんですね。自分の不勉強さを暴露してしまいました。

また思いつきで使った「二つのカベ」ということも、言い方は別として、研究者も使っていたので、これまたほっとしました。
 よく考えれば、教科書や啓蒙書、あるいはテレビなどを通じて、新しい研究を学べていたのだということを身にしみて感じた次第です。
< 注記>
本来なら7月中に出すべき内容の文章だったのですが、放置していたため、あとから出した自由民権編と順番が逆になってしまいました。ちょっと不細工になったことをお詫びします。

いろんな手法を試してみたい~自由民権編UPしました

いろんな手法を試してみたい。

~自由民権編をUPしました。~

自由民権運動を中心とする明治一ケタから二十年前後までの授業案をUPしてみました。
わたしは、歴史の授業において、いろいろな歴史学や社会科学など諸科学の分析・叙述の方法を用いたいと、非力を顧みず考え、やってきたつもりです。
それは、生徒たちの将来にとって有効だと考えています。
生徒が、特定の立場や方法に固執するなく、複眼的な視点を持ち、いろいろな角度から、自分を取り巻く社会や世界を分析し、行動する指針として欲しいからです。
日本史でありながらも、東アジアや世界に開かれた汎用性のある学びを得て欲しいからです。
一つ一つの歴史事象について、いろいろな角度から見る力をつけて欲しいからです
こうした考えから、全体の流れからずれない程度で、時間を見ながら、いろんな歴史理論や社会科学などの方法を意識し、授業を進めきました。
「開国」のあたりではシステム論とはいえないまでも資本主義の成立がアジアにどのような影響を与えたのかを、明治維新では国民国家論を、外交の所では主権国家や華夷体制という国際関係論をそれぞれ意識し、文明開化のあたりでは民衆思想論にも触れられたかなと思っています。
今回の自由民権を中心とする明治一ケタから十年代の歴史については階級という視点を少し使って導入してみました。
明治維新、文明開化という大きな流れの中で、
士族・農民・豪農豪商というそれぞれの階級がどのような立場に置かれ、どのように考え、行動をしたのか。といった分析を基礎におきながら、政府の動きとのかかわり、西南戦争後のインフレと松方デフレという経済の激動がそれぞれのグループにどのような影響を与え、運動をどのように変革させたのかにも触れました。
最終的には、豪農が寄生地主化することで、自由民権運動、そして明治国家、戦前の経済がどのような事になっていくかも展望したつもりです。
階級を意識した分析は、世界史では、フランス革命のところでとくに有効でした。というか、これを使わないと、うまく説明できませんでした。
階級(闘争)論というマルクス主義的な手法は時代遅れという人も多いかもしれません。
しかし、階級ごとに分析し、それぞれの置かれた状況、願いや考え、そして具体的な行動をみていく、というやり方は、現在を分析する上でも有効な手段と思いますし、こうした分析方法を知ることは高校生にとっても意義があるものだとと思っています。

勉強ができないのは、努力がたりないせいか?

ほんとに勉強ができない生徒がいる。悲しいほどできない。

 

しかし、なぜ勉強ができないのか、どれだけ説得的な説明がなされているのだろうか。

学校現場では、ある仮説によってもとづく説明(ごまかし?)がなされる。
この仮説が崩壊すれば、学校は維持できないかもしれない仮説が。
勉強ができないのは本人の努力が足りないのだ」という仮説が。
そして、高校現場では、努力がたりないから、単位がとれない、進級できない、退学をせざるえない、それは本人の努力不足だ、自己責任だとして、こういったことが正当化される
教務部長は始業式で、教科担当は教室で、担任は面談で、
異口同音に、「お前の努力不足だ。もっとがんばらへんかったら、大変なことになるぞ」と脅迫する。
確かに、努力不足の生徒の存在は否定しない。
いやいっぱいいる。
だからこそ、あの仮説にしがみつくのだ。
しかし、多くの教師は、この言い方の胡散臭さもうすうす感じている。
よく言う言葉、やや差別的な言い方であるが、
職場でよく聞こえるせりふ。
あいつ、本当にやばいで
いくらやってもすぐ忘れてしまう
何も分かってない
そもそも
日本語が通じない!
少しの努力で、少しの努力もせずに、かなりの結果を出せる生徒がいる。
ものすごい努力をしても、時間を掛けても、なかなか、まったく結果の出ない生徒もいる。
席に座りつづけることが苦痛で、なにかしゃべっていないと不安な生徒もいる。
言葉の理解が困難な生徒もいる。
そりゃそうだろう。
先天的、後天的な様々な事情で、資質の違いがあることぐらいだれでも知っている
smapの歌ではないが「普通の人」なんかどこにも存在しないのだ。
 それぞれ、”only one”の存在なのだから。
近年、現場では「発達障害」のことが話題になってきた。
人間には「個性」などという言葉では間に合わないくらいの差異がある。
「発達障害」といっても、深刻な人もいれば、
「自分にも当てはまるな!」と思う程度の人もいて、途中でラインを引くことは困難である。
特定の能力は「普通」なのに、 ある分野に集中して「課題」があるものもいる。
「発達障害」ということばで、ひとまとめに言い切ってしまうことは難しいし、危険だ」ということに気がつき始めている。
しかし、たしかに努力してもなかなか報われない生徒がいる。
そして、それが成績などに、結果として出てくるのだ。
そんなことは、われわれも実際の生活で分かっているではないか。
ここで難題がでてくる。教育を実践する教師としての課題。
目の前の生徒をどうするのか?
教課審議会の元座長氏(作家!であり元文化庁長官!)のように
努力しても無理だから、実直な精神だけを養えばそれでいい」 と、あきらめてしまうのか?
それはできない。
わたしたちは、それぞれの人間が、それぞれ、いろいろな道筋を経て、 発達することを知っているし、そうした事例に感動する
それが付け刃に過ぎないとわかっていても
かなり無理があることが分かっていても
努力をあきらめさせてはいけない。
現場の苦闘はここにある
生徒の発達の仕方は、いろいろな道筋をたどる。
本来なら、ひとりひとりにあったプログラムが必要なのであろう。
しかし、高校現場、とりわけ全日制の現場で多数の生徒を相手に、 しかも教科ごとに教科担当が異なる中で、個別の対応することは無理に近い。
最近は、とりわけ課題が深刻な生徒については、個別プログラムを準備する、要求されるようになってきた。
それが、さらなる負担を現場の教師に強いていることも事実だ。
時間がとられ、課題のやや軽い生徒へのケアがおろそかになる面もある。
こうした取り組みの困難さを、「生徒が努力しないから悪い」と仮説で自分をごまかし、言い逃れてきた面があるのもたしかだ。
 
教師の多くもこのことの胡散臭さをうすうす感じている
※現役最後の始業式の教務部長のあいさつを聞いて感じたことを書いてみました。
 結論のないままになってしまいました。
結局、「同じ仮説にしたがって、やっていくしかない
という結論になるのが現場かもしれません・・・。

歴史研究と歴史教育 ~歴史学の叙述と歴史教育の「叙述」について

歴史研究と歴史教育

     ~歴史学の叙述と歴史教育の「叙述」

 この授業中継、とくに幕末編、維新編を書きながら、ある先生のまなざしを気にしていました。授業を聴講させていただいている先生で、維新史の権威です。この授業中継にも先生の研究成果を使わせていただいています。「通説より細かい」内容のいくつかは先生に学んだものです。
 先生は、一枚の史料、その中の一語一語をゆるがせにせず研究をすすめることで、それぞれの事象を当時の状況にひきつけて掘り起こしその意味を考えることで多くの成果をあげられています。
今までの維新史研究は何も解明していない。この程度のこともできていないのだから」と毎回、毒舌が炸裂します。
「即位と践祚のちがい」、慶応四年と明治元年の区別、王政復古は1867年か1868年か、などなど、
私のような雑な人間にとっては些細とも思えるところも決してゆるがせにされません。こうした強い信念の元に研究と授業を進められます。だからこそ、「維新史の研究は全然進んでいない」という発言になるのです。

こうした先生の立場から見ると、私の授業案は、史料にも十分裏付けされず、研究史も踏まえておらず、想像と伝聞ばかりで議論を進めているとみえるでしょう。「こんなものは歴史ではありません」ということばが聞こえそうです。怖くて見せられないし、これからも無理でしょう。

 

でも、少し居直らせてください。高校の授業は、二単位ものなら、形式的には七〇時間、実際には六〇時間以下、四単位なら一四〇時間、実際一〇〇時間をいかに超えるかという時間的制約があります。

かれらは、部活や生活など、日常で疲れきっています
こうしたなかで、かれらにとって無関係にも見える日本史の授業をしていくのです。
だから、必要なことであっても省略したり、単純化したりする必要があります。このことは何度も書きました。
私は、学校での歴史授業は歴史だけを教える時間じゃないと思っています。歴史を通じて現在の日本や世界の課題、社会科学など隣接の学問内容の話もしたいし、歴史上のトレビアや与太話もします。歴史上の人物を語る形で生き方を語ることもあります。
校内で問題になっていることも、生活指導にかかわる話もします。脱線させることも大切です
逆に、生活指導などの局面では、頭髪検査とか何たらチェックとかいって、学校として脱線させようという動きが出てくるので困ったもんだとは思いますが・・。
授業の話に戻ります。
時間がないからといって、細部にこだわらないということではありません。見てもらえば分かりますが、
ときには思いきり細部にこだわります。
概説書ではたらず、いろいろな本やあやしげなネットも見ます。多少フィクションもまじえます。
細部をみることで、事件や関係者の姿がリアルにわかり、それを分析することで時代がわかるからです。
幕末編ではとくに細部のエピソードについて多く記しました。
みなもと太郎「風雲児たち」 漫画家みなもと太郎が40年近くにわたって描きつづけている大河ギャク漫画。豊富な取材によって描き出される歴史像と暖かい人間造形にファンも多い
たとえば小御所会議の叙述、先生の目も気になってかなり調べました。容堂を刺そうとしたのは岩倉か、西郷か、そもそもがフィクションだったのか、とか
上賀茂巡幸で高杉が「よっ、征夷大将軍」とやじった話は本当か、とか、高杉の功山寺決起はどこまでが事実か、とかも気になりました。
高杉のエピソードが多いですね。
恥ずかしながら、私の脳の中には司馬遼太郎(と、みなもと太郎)がしっかりと根を下ろしていて、その呪縛から逃れることはなかなか難しいのです。
みなもと太郎(とくに幕末編)は、ある程度信頼していますが、司馬遼太郎は難物です。さも本当のように怪しいことをいいますから。だから、こうしたエピソードはチェックしました・・。
でも、チェックが甘くなったところも多いかもしれません。
授業での自分の話し方を分析して、面白いことが分かりました。いつのまにか、丁寧語・標準語ではなしているところと、関西弁でちょっと雑に話しているところがあるのです。丁寧語は教科書的な定義のようなこと。教科書で言えば本文にあたるところ。関西弁は注釈や補足説明、たとえ話などです。こうした関西弁にあたる部分をいかに展開するかも重要な課題です。
わたしの授業中継では、関西弁の分をできるだけ記そうと考えました。関西弁だらけかもしれませんが。
一般論とか「これとこれを覚えなさい」といういい方は、受験校では通用しても普通の高校では通用しません。生徒がこっちを向いてくれないし、興味を持ってくれないという事もあります。居眠りの大軍ならまだましで、雑談の嵐となれば処置なしです。気の弱い私は本当に神経がやられました。いまだに生徒に無視される夢を見ます。
細部にこだわった先生の授業はネタにつかえる部分が多くありました。「堺事件」からは慶応四年攘夷実行ができると期待していた知識人でもあった武士の「抵抗」と新政府の外交姿勢が、天皇像の変遷からは前近代の天皇像と絶対主義的に着色されていく天皇の姿が。授業ではこんな風に使えるな、とおもって少し授業中継のなかに入れてみました。
他の先生方もそうですが、大学の先生方がポツッと当然のことのように話されるエピソードの中にすごい宝が隠れているのがこの年になってよくわかります。それこそが、長年史料や古典にあたり、研究への格闘してこられた経験が裏付ける力なのでしょう。私のようなものには、とうてい歯が立たない深みです。これからも学ばせていただきたいと思います。
私の授業中継では、まずは日本史Aの全範囲の授業案を作ろうと考えています。教科書程度の知識とちょっとばかりいろいろなことから学んだ程度の知識でこれをやろうというのだから無茶苦茶です。でも気になったり、怪しいと思うところは、それなりに調べるようにしたいと思っていますて。
先生の言われるような丁寧な説明はできません。「即位と践祚の違い」ぐらい(というと激怒されそうですが)は許してください。でも、できる限り、日本史の研究成果は踏まえたいと思っています。そうしないと「歴史修正主義と変わらない」ですから。
研究と教育は違います」と冷たく言い放たれそうです。
そうです。歴史学と歴史教育はちがう課題に対応しています。
したがってその叙述内容も方法も(中高の教師は基本的に授業実践が自体が歴史叙述です)も当然違うものです
わたしが、めざしているのも、受験目的ではない高校の日本史授業の叙述です。授業実践の参考になればと思って作っています。もちろん歴史学の成果にできるだけ学びたいですし、学んでいきます。
でも、「歴史教育は歴史学の子分ではありません」。
それぞれ独自の課題を持ち進むものだと思っています
 勝手なことを書いてきました。

でも、この授業中継をつくるにあたって、やはり先生のまなざしを意識し続けたいと思っています。

無茶な事を書きながらも、歴史修正主義のような事実を曲げることはないか、史実に忠実であるか、研究史をいかに踏まえているのか、現在の課題や学校現場の要求に答えられるものであるのか、自問自答しながら、次の時間の授業中継を作っていこうと思っています。

<蛇足です>
もし歴史の教師をめざす人がいれば、いろいろなエピソードをその時代の歴史の流れやその意味とからませて押さえておいてくださいね。

みなもと太郎なんかはとっても参考になります(^_^;)
内容も、その扱い方も・・
理論的な話や一般論、とくに○○的とか××制なんて話は、ちょっとやそっとでは伝わらないので、どんな風なたとえ話がよいか、とかいろいろ考えておいてくださいね。

「憲法はまだか?」~1時間目の授業、手直ししました。

昨夜、自分の書いた文章をみていて、ミスを発見しました。

1時間目 日本近現代史を大雑把につかもう>のところです。
小生のパソコンのせいか、ソフトのせいか、調子に乗って入力していると、いつのまにかカーソルが前の方に移動していて、後の方の文章が、もとの文章のなかに紛れ込んでいるのです。

ちゃんと見ているはずだったのですが、まだ残っていました。訂正しました。見苦しくてごめんなさい。

ついでに、あとの方もチェックしていくと、やはり語尾のぶれがきになったので直しました。

さて、大学で聴講している憲法の授業で、1996年にNHKが放映したドラマ「憲法はまだか」の一部を鑑賞しました。脚本はジェームズ三木。古関彰一という憲法史の第一人者が監修しており、かなり事実に即した内容でした。憲法学ではそこそこ名の通っている私の通う授業の担当教授もそういったので、信頼できそうです。
授業で見たのは、数分間だけでしたが印象深いもので、学生さんたちもどうすれば全体を見られるのかと質問していました。

<以後、ウィキペディアからの引用>・・・・・・・・・・

憲法はまだか』(けんぽうはまだか)は、NHK日本国憲法公布50周年を記念し、1996年に放映したテレビドラマ日本国憲法制定までのいきさつや、草案をめぐって政治家GHQ民政局憲法学者たちが繰り広げた舞台裏の駆け引きを再現。全身包帯で巻かれた人間を「産まれつつある憲法の象徴」として登場させるなど単なる歴史ドラマ・政治劇の枠を超える斬新な演出が注目を浴び、放送文化基金賞優秀賞(1997年)を受賞。のち角川書店から小説として出版されている。

<引用終わり>
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私もさっそくYouTubeにアップされているこの作品をみました。
現在、憲法が「押しつけだ」「押しつけでない」などいろいろな意見があります。いろいろいう前に、まずこのドラマをみてから考えてほしいのです。ある人は「やっぱりおしつけじゃないか」という感想を持つと思いますし、他の人は「憲法研究会」という民間の日本人がつくった草案の存在に注目するでしょう。「国会でしっかり議論をしており、国民の声といってもよい」という人もいるでしょう。あるいは憲法制定過程におけるいろいろな問題点に気づく人もいるでしょう。だからこそ、見てほしいのです。
何れの立場の人も、憲法成立の事実関係を知るには絶好の作品だと思います。これをふまえて議論することで、よりかみあった議論となると思います。憲法を争点とした選挙がなされている今だからこそ、是非見てほしいのです。

ということで、このドラマをみて、どうしても戦後改革の部分を書き直したくなってしまいました。ある意味では、わたしはこのドラマをこのようにみたという結果です。

追記:この文章を書いてから、一年近くがたちました。不十分とは思いますが、本編でも憲法制定の経緯をまとめてみました。また日本国憲法の世界史的意味ついても触れてみました。多くの研究者の成果をなぞっただけですが、昨年前期にうけていた「憲法」の講義が少しなりと反映できたかなと思っています。(’17,6,14記)

家茂と和宮のそれから

 家茂と和宮

日本で最も有名な政略結婚をさせられた徳川家茂と和宮の二人、それからどうなったのかという話をしたいと思います。
授業では、よくする話なんだけど、本論から離れそうなので、こっちで補足しておきます。
Kazunomiya.jpg
和宮(1846~1877)、家茂の死後「静寛院宮」と名乗った。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E5%AE%AE%E8%A6%AA%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B#/media/File:Kazunomiya.jpg
和宮が野蛮人と思っていた家茂君はとってもやさしいいい人だったみたいで、この二人は将軍家でもめずらしいとってもすてきなカップルだった、という話は授業中継でもしたとおり。

でも、なぜこんな風な仲良し夫婦でいられたのかなあ。

徳川家茂(1846~66)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E8%8C%82#/media/File:Tokugawa_Iemochi.jpg
よく考えると、これまでは、たとえ夫である将軍がいい人で、子どもの誕生こそがとか、大奥のしきたりがとか、なんとかかんとかまわりが口を出して、本来の夫婦らしい関係は作りにくかったんじゃないかな。
ところが、和宮の場合は相手が悪い。天皇の妹で、鳴り物入りで嫁いで来たんだから。
これまでの大奥のしきたりでは通用しない。
将軍としても大切にしなければならない存在だったし、相手の立場が高いだけに、まわりにとやかく言われることなく、奥さんを大切にできた。
だから、普通に家茂君の優しさが発揮できたのだろう。
ある意味、奥さんの立場が高かったからこそのいい夫婦になったのかもしれないね。
でも残酷なもので、家茂君は朝廷から「京都まで来い」と何度も呼び出され、天皇のガードマン?!をやらされたり、高杉からやじられたり?!、心労がたまって、長州との戦いのため大坂城にいたときに病気で死んでしまう。21歳。いまの数え方で20歳。
ストレスからか、スイーツが大好きで、虫歯で歯がボロボロだった。 それも病気の原因につながっているらしい。
死因は脚気(かっけ)。
脚気って知ってる。お医者さんが膝のちょっと下をトンカチみ
たいなものでトントンとたたくと、自然に足がぴょこんとはねる。あれが脚気の検査。今でもやってるのかな?
明治までは、これでたくさん死んだんだ。
明治時代の日清戦争や日露戦争の兵隊さんで、病死した人のかなりが脚気だったみたい。
どうしたら直るか。
僕だって、家茂君を直してあげられる。玄米を食べればいい。
脚気はビタミンB1の不足が原因なんだから。
庶民はみんな玄米だったのに、やんごとなき将軍さんは白米ばかり食べさせられていたのが原因の一つだった。
明治の戦争の時は、かの森林太郎(鴎外)先生が、兵隊には良いものを食べさせてやりたいといって、兵士に玄米ではなく白米を食べさせつづけたのが、原因だといわれている。彼は脚気は伝染病だと信じていたからだけど、善意が裏目に出たんだね。
徳川家茂の石塔(増上寺)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E8%8C%82#/media/File:TokugawaIemochi_grave.JPG
余計な話はおいておいて、昭和33年徳川家の墓地改修のために将軍たちの墓が開けられた。そのときに和宮の墓も開けられた。
すると、人々はそのお墓の中で一枚の肖像写真を発見した。
豊かな頬をした童顔を残した若い男性のものだった。
それは家茂の写真だろうと考えられている。
しっかり見る前に風化してしまったらしいけど。
ちょっといい話だね。
注記:
和宮の墓地改葬に立ち会った鈴木尚氏は著書で次のように書いている。
「棺内には朽ちた布片のほかは服飾品としては何もなく、紙袋入りの石灰が順序よく並んでいるだけであった。唯一の副葬品として遺体の両前腕部の間に、土にまみれた1枚のガラス板が発見されたが、当初、これを重要視するもののいないまま、研究分担者が研究室に持ち帰り、整理のため電灯の光にすかして見たところ、これが湿板写真で、それには長袴の直垂に立烏帽子をつけた若い男子の姿が見えた。ところが翌日、研究室で覗いてみたところ、写真の膜面が消え、ただのガラス板になってしまっていた。思えば誠に残念なことであった。」
(『骨は語る徳川将軍・大名家の人々』鈴木尚(東京大学出版会)p117)
また同書におもしろい記述を見つけた。和宮の顔の骨の形は夫家茂とそっくりだったのだ。以下、引用する。
「以上のように和宮の頭骨形質は、後期将軍である家慶、家茂と性差を除けばまったく同一の典型的な貴族形質を示していることになるが、和宮は両人と血縁関係が全くないだけに、この一致は甚だ興味がある」(同書P121)
さらに「現在日本人(女性)よりも江戸時代人(女性)よりも全体として将軍家慶に近似していることは明らかである」(同P121)
家慶は家茂の伯父さんでもある。ひょっとしたら、和宮は家茂と会ったとき、その顔を見て、兄弟のような、親近感を持ったのかもしれないね。16,8,8追記
注記2:
新たな話を聞いたので付け加えておく。脚気は当時「江戸病」と呼ばれていた。その背景には、白米を好む江戸っ子気質があり、転地療法が進められたそうだ。実際には、玄米やビタミンB1を含む食事をとることによって、病気の好転につながったのであろう。
ちなみに、徳川家の家慶、家定、家茂ともに死因は脚気であり、いずれも6月から7月(現太陽暦では7~8月)に死亡している。脚気は暑い時期に悪化する、むくみが出て心臓ショックがでて死亡することが多いようだ。
ちなみに、遺体は大坂から軍艦に乗せて運んだようだけど、夏の暑い時期だったので・・・・・。考えただけで気分が悪くなってきた。
遺体は芝の増上寺に土葬された。16.12.1追記

なぜ将軍の子どもたちは短命だった?~ある疑惑!

なぜ将軍の子どもは短命だったのか?

 ちょっと余談をします。
ちなみに将軍たちには多くの子供が生まれますが、多く成人する前になくなっています。
また成人しても家定のように障害を持つ場合が多いのでした。
11代将軍家斉は53人の子供がいたことは有名です。
でも、徳川家では、家慶のあとの後継者に苦労していますね。
たくさん子どもがいるのだから、スペアは数えきれないほどいそうだ、という疑問、湧きませんか?
実は、早死がものすごく多いのです。
たしかに、前近代において、乳幼児期の死亡率は非常に高く、用があって、先祖の戸籍をみると、明治・大正期でも、大叔父・大叔母たちは、ものすごくたくさん死んでいました。
でも、将軍家は多過ぎないかと。
そこで、調べたところ、家斉の子供で成人したのは28人でした。しかし男子で20歳をこえて生存したのは4名、現在まで男系の子孫を引き継いでいるのは1家だけです。
次の家慶にいたってはもっと厳しく、27人の子供のうち20歳以上まで生き残ったのは家定だけで、家定も身体に障害をもち、虚弱体質でした。
なぜこんな状態となったのでしょうか。テレビを見ていて、面白い説を聞きました。当時の日本では肌の白さが好まれ、高貴な人々は顔というか上半身にべったりとおしろいを塗るようになっていたそうです。その厚さも後になるほど濃くなっていました。大奥の女性はなおのことでしょう。将軍の子らに母乳を与える乳母たちもすっぴんではなかったでしょう。当時のおしろいの原料、気になりませんか?
ウィキペディアでは
白粉に鉛白が使用されていた時代、鉛中毒により、胃腸病、脳病、神経麻痺を引き起こし死に至る事例が多く、また日常的に多量の鉛白粉を使用する役者は、特にその症状が顕著であった(五代目中村歌右衛門など)。また、使用した母親によって胎児が死亡する場合もあった。胸元や背中に至るまで、幅広く白粉を付けるのが昔の化粧法として主流であったからである。」
と書かれています。
つまりおしろいに含まれていた鉛が、母乳とともに子供の体内に入り、その結果、20歳にも満たない年齢で死亡した。なんとか生き延びても障害を発症したというのです。
真偽を判断する材料はありませんが、ありそうなことだと思えます。もし、家定の遺骨などを分析してみると調べてみると、この仮説が立証できるかもしれませんね。
以上、余談でした。
とおもって、ウィキペディアのリンクをつけようと確認していたら、
こんな「どストライク」のまとめを発見してしまいました。
http://matome.naver.jp/odai/2139725068194762801
そこにはこんな本の紹介も
徳川将軍家十五代のカルテ」(篠田達明/新潮新書)
その一節
将軍の乳母たちは鉛を含んだ白粉を使い、顔から首筋、胸から背中にかけて広く厚くぬった。抱かれた乳幼児は乳房をとおして鉛入りの白粉をなめる。乳児も白粉を顔や首にべったりぬられた。鉛は体内に徐々に吸収され、貧血や歯ぐきの変色、便秘、筋肉の麻痺などがおこり、脳膜の刺激症状が出ることもある。後遺症として痙性麻痺や知的障害がのこるケースもあった。鉛中毒は将軍の子女のみならず当時の大名や公家など上流階級にはよくみられた疾病だった。(p.181-182)
(「こんな本を読みました。」さんのHPの孫引きです)
 やっぱり、そうだったんですね。
生徒がよく聞いてくれたネタです。
家茂のカッケなんかとつなぐと、つかえますよ。

「治外法権」なしの通商条約なんて無理!~幕末編、UPしました。

「 幕末編をアップしました。」
と景気よく書くつもりが、アップしてから一か月以上たってしまいました。見ていただいたでしょうか。
大学時代に、少し時間を掛けてやったところなので、しゃべりすぎてしまいました。
「時間がない、時間がない」といいながら・・・。
言行不一致は教師の特徴?!(苦笑)。
幕末維新史は、かなり研究がすすんでおり、学生の頃のようにあっさりとしたものではなくなってきたように思えますし、逆にわかりやすくなったようにも思えますが。

「不平等条約」って言うけれど

内容紹介を兼ねて、
「不平等条約」と言うけれど、平等な条約なんてあり得たの?
ということを考えてみます。
かつて、「幕府の役人は無能」というステレオタイプで見られる傾向がありました。当時からもそんな風でした。
役人=公務員バッシングは今も昔も変わりませんね(苦笑)
いい加減な仕事しかしないとか、給料が高すぎるとか、お役所仕事とか、親方日の丸とか、ぼろくそに言われます。
教師もぼろくそに言われますから、公立高校の教員なんかは
まるで、「人間サンドバッグ」
大部分は、一生懸命やっていますよ。つつましい生活してますよ。
大金持ちは「セレブ」とかいって持ち上げるのに、なんで一生懸命やっている公務員や教師をひとまとめにしてバッシングしたがるのでしょうね。
役人にも教師にもいろいろな人がいます。そのヤバい人だけをみて、ひとまとめに叩くのはおかしいですよ。
叩きやすい者をたたくというのは、甘利さんや石原さんには触らずに、セコい舛添さんだけを袋にするというのとよく似てますね。
ついついグチをいってしまいました。

江戸末期の役人は優秀だった?!

ということで、江戸末期、一生懸命頑張ったのに、バッシングされまくった人たちについて見ていきたいと思います。
近年の研究の成果によると、和親条約や通商条約で外交折衝に当たった幕府役人の優秀さが強調されつつあります。
世界情勢をしっかりと冷静に把握したうえで、日本の国益を考え、列強の圧力に対しても、粘り強い交渉を繰り返し、かなりの成果を上げたと。

「治外法権」を認めず済みますか?

しかし「不平等条約を認めたではないか」という反論が聞こえてきそうです。
では、聞き返します。
幕末の時点で「治外法権」の条項をいれずにすみますか
当時の日本の裁判を考えてみてください。
「まず不衛生で、金がないといじめられ、人数が増えると数名が殺されるという牢獄に放り込まれ、
異様に発達したさまざまな拷問器具で自白を強要され、
お白洲という白砂利や土間の地面に座らされ、
未整備で人権などにはまったく配慮されない法律??で
弁護士もなく裁判され、
首を切られたり、自殺を強要されたりして
首をさらされる」
こんな裁判を受けたいですか?
逆に全然言葉も通じず、文化も法律も、そして価値観もちがう、「差別しない事の方が犯罪的」である当時の日本と、
「人間は平等である」西洋、
その間できっちりとした裁判なんてできますか
すぐ国際問題となってしまいます。
こんなリスクを侵してまで、当時の日本で裁判をしたいですか?
何事も、リアルに考える事が大切です。
ぼくなら、外国人の立場でも日本人の立場でも、御免蒙ります。
そう、この段階で「治外法権をいれない」なんて、あり得ないことなのです。

「治外法権」撤廃の条件は、日本の「近代化」

こうして考えれば、「条約改正」を実現する事の大変さが見えてくるでしょう。
明治新政府の連中は最初は甘く考えていたのでしょう。
その認識が大きく変わったのが、岩倉使節団の事です。
「治外法権」を撤廃するためには、
しっかりした国内法が必要ですし、裁判制度の整備も必要です、その法律も欧米人が「ま、いいか」という段階までいかねばだめです。
簡単に言うと「自分たちの仲間(国民)を、日本の法律・裁判の手にゆだねることができること、ゆだねても自国内で批判されないだけの国になっていること
これが治外法権の撤廃の条件だったのです。
だからこそ、条約改正には時間がかかったし、
条約改正をするためには、日本を近代的な、あるいは西洋的な国にしなければならなかったのです

当時の日本で関税率を決められた?

関税自主権がなかったではないか」たしかにそうです。
なら、当時の日本で、関税額をどのような基準で決めるのですか?決められたのですか?
結局は「外国に相談をして、言いくるめられて」というのが関の山です。
ですから、関税額を一定にするという協定関税という枠組みは、この時代では合理的なのです
そのなかで、幕府の役人たちは、できる限り高い関税率を守ろうとしました。
あとから条約を結んだイギリスなどは関税率の高さに強い不満を持ちます。
「ハリスの野郎、よくもこの率で妥協したな!」てな具合です。
ですから、長州が外国船を砲撃した事を理由に、協定関税率の引き下げを認めさせたのです。
関税でも、官僚たちは頑張りました。

役人たちが守ろうとした「国益」

では通商条約締結時、官僚たちが守ろうとしていたのは何か?
それは「外国人の国内旅行の制限」や「国内雑居を認めない
ことでした。
なぜなら、中国やベトナムの植民地化・半植民地化はこの条項を用いて進んだからです。
各地でトラブルが続発し、その処理に走り回る
攘夷派の連中が急速に力を伸ばしている、こうした状況でこれは認められないことでした。
幕府の外交官僚らはこれを守り抜きます。
これは評価に値する事だったと思います。
このように、幕府の外交担当の官僚たちは、
これまでの経過や列強間の力関係、他国の事例なども丹念に調べ上げて、粘り強く交渉し、条約を締結しようとしたのです
彼らが優秀だったからこそ、ハリスがヒステリックになっていた面もあるのでしょう。

「公務員は辛いよ!」

こんだけ頑張ったのに、ぼろくそ言われ、外国の手先みたいに云われ・・・。
「人間サンドバッグ状態!」
辛かったでしょうね。
Iwase Tadanari.jpg
岩瀬忠震https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Iwase_Tadanari.jpg
とくにかわいそうなのは、先頭に立ちがんばった岩瀬忠震さん。条約を結んだとたんにお払い箱。
ならいいんですが、井伊直弼さんから謹慎処分にされ、
「使うだけ使ってこの扱いか(怒)」って感じで死にます。
岩瀬さん、攘夷を唱える連中にも言いたかったでしょうね。
そんだけ言うんやったら自分でやってみろ!」
新政府で外交担当となった伊藤博文さんや大隈重信さん、あるいは井上馨さんなんかは、岩瀬さんたちの苦労、身にしみて分かったのでしょうね。
ひょっとしたら、「あの連中、よくやった。俺たちならここまでできなかったかも・・」なんていってほしかったな。
そういえば、彼らの親分、木戸孝允(桂小五郎)さんは、幕府の外交官僚中島三郎助の弟子です、その苦労も少しはわかっていたかもしれませんね。
 ちなみに中島三郎助は箱館戦争で戦死します。

こんな授業、していません?

 不平等な条項は「治外法権」(領事裁判権)と「関税自主権がない事」(協定関税)、そして和親条約に含まれていた「一方的最恵国待遇」、この3つ。
日本は、このような不当な扱いを受け、外国側はなかなか交渉に応じず条約改正が実現したのは明治末年であった。
なんて紋切り調の授業、していませんか?
ごめんなさい、実は、私もやっていました・・・。
(注記)この趣旨にもとづき、「内地雑居」について、「ペリー来航の来航と開国」大幅に書き直しました。(2016/08/06記)