FBに書いた文章を転載します。
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医者に血糖値が高いと言われたので、B大学まで歩くこととした。
途中で千本釈迦堂に寄り道。
この辺りで戦われた内野の戦い(明徳の変)で討たれた山名氏清の碑と、氏清らの菩提を弔い、経文を納めたお堂を受け継いだ建物をまず見る。さらに氏清と山名宗全
の念持仏が納められたお堂も。(ちなみに、「内野」とは、かつての大内裏があった場所に広がっていた荒れ地のこと)
国宝の本堂は応仁の乱を生き延びた数少ない建物として有名。
堂内の柱には、乱の時の刀や槍の傷が多数見られる。この堂内で戦闘があったことを実感する。横に並ぶと首から胸くらいの高さに傷が集中、命のやり取りがあったことがわかる。
ふとパリのペール=ラシェーズ墓地でみた連盟兵が銃殺された壁の弾痕を思い出す。撮影禁止の文字がないのをいいことに、パシャり。
宝物館、素晴らしい仏像が並んでいる。(こっちは撮影厳禁の文字、多数)。
慶派の定慶による六観音、綺麗な顔が印象的。六道とのかかわりで作られたことを考えながら観る。修羅道の十一面観音の目の下の傷がなぜか、涙のように見えた。また餓鬼道の准胝観音だけが異形、不思議に思う。
十大弟子は、半分が修理中で、五人だけが並ぶ。さすがに快慶。ふと「第一説法」の弟子の姿が日蓮像に似ているような気がした。快慶と当時の鎌倉仏教の偉人たちとは交流があったとも考えられ、彼らの姿が、その仏教への真摯な思いとともに、仏の弟子として造形されてもおかしくないと夢想する。だったら、「受戒第一」の弟子は明恵で、釈迦の実子の羅睺羅はいい氏のボン「道元」か。優しそうなお顔の弟子は法然。親鸞は、快慶の師匠の運慶はだれか?などとひとしきり妄想する。
その後、B大学へ向かったはずが、いつの間にか90度曲がって、R大学の方に来てしまった。
ということで、今R大学図書館でこの文を書いている。今日は、5時まで、閉館も近い。
注:パリのペール=ラシェーズ墓地の壁とは、1871年のパリ=コンミュンに参加した市民兵たちが集められ、次々と銃殺された壁のことです。柔らかい石のちょうど胸のあたりに、無数の銃痕が残っており、そこで行われたことを物語っていました。